(TOP)         (戻る)

勇気の人・武智光秀

〜「絵本太功記・十段目」・尼ヶ崎


1)光秀の「逆賊」のイメージ

「義経=ジンギスカン説」というのがあるのはご存知だと思います。奥州平泉で死んだはずの義経が実は生きていて、大陸に渡ってジンギスカンと名乗って世界を制覇したというのです。あれほどの戦術の天才だったのですからそれもあり得ると昔の人は考えたのかも知れません。英雄が死ぬのを惜しむ・信じたくない気持ちが民衆にそうした想いをかき立てたのでしょう。非業の死を遂げた人間を密かに弔う、その人の墓(あるいは供養塔)が何箇所も存在するというような事例が存在したりするのも、また優れた人物の死を惜しむ気持ち・そしてまた陰ながら見守って欲しいという気持ちが民衆にあるから来るものだと思います。

明智光秀については、主君信長を討った「逆賊」・あっという間に秀吉に討たれてしまった「三日天下」と、あんまりいいイメージがありません。何かひ弱い・処世術が下手・我慢が足りない・生真面目過ぎたという感じです。あとで天下を獲った秀吉のイメージがあまりに華々しいので、光秀はどこか「陰」のイメージです。しかし実はこうした光秀のイメージは後年、徳川の世になって封建制度が確立されて、主従関係の遵守が最重要ということになってから、「主君に反抗するのはいけない」ことだということで形成されたものです。「悪いこと(主君を討つ)をしたからこうなる(三日天下で滅びる)のだ」という儒教的な論理展開が見えます。

中部近畿圏内を調べると「明智光秀の墓」と称するものが十七ヶ所ほど、位牌も十四種類ほど各地に点在して密かに伝わっているそうです。大坂岸和田の本徳寺というお寺には「鳳岳院殿輝雲道e大禅定門」という光秀の位牌が伝わっています。この「輝」と「e」の字のなかに光秀の名が隠されています。また京都周山・慈眼寺にある光秀の家来・明智佐馬之助光春の位牌を見ると、位牌の「明光院殿周峯白宣大居士」の文字のなかにも光の字と・周(=「秀」)の字によって主人光秀の名前が隠されています。肩身の狭い思いをして人目を忍んでも密かに光秀の遺徳を偲ぼうという熱い想いが伝わってきます。これらは当時の世にあって、光秀の行為が人々にどう受け止められていたのかを考える上での重要な手掛かりです。実は光秀は文化・教養に優れた温厚な人であり、家来や領民にもやさしい人であったという話も残っています。

日本史における信長の業績は新しい時代を切り開いたということで積極的に評価する人ももちろん多いわけですが、一方で信長は比叡山の僧徒三千人を焼き殺したり数々の殺戮・破壊を繰り返して残虐無道、日本を混乱に落し入れたとする見方も存在します。信長は従来の価値観を根本からひっくり返してみせて、このままでは日本はどうなるのだろうかという不安と恐怖を人々に感じさせたのです。「そのような中から敢然として立ち上がって、暴君を誅したのが光秀である」と見て、光秀に感謝し・その志を尊んだ人も当時は少なからずいたということなのです。


2)光秀は「勇気の人」である

本稿では浄瑠璃「絵本太功記」十段目(尼が崎)を題材にして主人公武智光秀(=明智光秀)の悲劇的英雄としての人間像を考えたいと思います。

「絵本太功記」においても光秀は世間一般の「主君を殺した逆賊・悪人」のイメージを一身に負って登場します。例えば十段目冒頭(「夕顔棚」:この部分は歌舞伎では上演されません)では百姓連中の会話として、「京の町は武智という悪人が、春長(=織田信長)さまを殺して大騒動。」という科白があります。それどころか光秀の行動は身内の人間たちにさえ理解されていません。光秀の母親皐月は、光秀の竹槍に刺された後、「嘆くまい、内大臣春長という主君を害せし武智が一類。かくなり果つるは理の当然。系図正しき我が家を、逆道非道の名を汚す、不幸者とも悪人とも、たとえがたなき人非人。(中略)主を殺した天罰の報いは親にもこの通り」と言って光秀を罵ります。妻操もこの皐月の苦しみ様を見て、「せめて母御のご最後に『善心に立ち帰る』と、ただ一言聞かせてたべ。拝むわいの」と夫に訴えます。これが光秀の置かれている状況です。

しかしこのような周囲の声に惑わされていると光秀の真の姿は決して見えてくることはありません。たしかに光秀は、母皐月と息子十次郎の二人の死に眼前に接して思わず涙し、「さすが勇気の光秀も親の慈悲心、子ゆえの闇、輪廻の絆にしめつけられ、こらえかねてはらはら雨か涙の汐境浪立ち騒ぐごとくなり」という「大落し」になり、ここが「尼が崎」の芝居のクライマックスです。しかしそれは「逆賊・悪人の・鬼の心の光秀にも人間としての涙(心)が少しはあった」ということではありません。そういう安っぽい悲劇を作者は書いているのではありません。

作者がここで「さすが勇気の光秀も」と書いていることに注目していただきたいと思います。光秀は「勇気の人」なのです。世間に「逆賊」の汚名を着せられ、周囲の人間にさえも理解されなくても、最愛の母親も息子も犠牲にしても、なおも「我に進むべき道がある」と信じて行動する人間こそが光秀です。それでは光秀は何を信じて主君春長を討ったのでしょうか。それは槍に刺されて苦しむ皐月と操の訴えに対しての光秀の返答に表れています。

『「ヤアちょこざいな諫言立て。無益の舌の根動かすな。遺恨かさぬる尾田春長、もちろん三代相恩の主君でなく、わが諌めを用いずして神社仏閣を破却し、悪逆日々に増長すれば、武門の習い天下のため、討ち取ったるはわが器量。武王は殷の紂王を討つ、北条義時は帝を流し奉る。和漢ともに無道の君を弑(しい)するは、民を休むる英傑の志。おんな童の知ることならず、退がりおろう」と光秀が一心変ぜぬ勇気の眼色、取り付く島もなかりけり。』

この科白はこの芝居の核心の科白であると思います。特に「武王は殷の紂王を討つ、北条義時は帝を流し奉る」という科白は「この時期(寛政11年:1799)の芝居にこういう科白があり得たのか」と思うほどに衝撃的です。殷の紂王は中国の歴史でも有名な悪政の王様ですからともかくとして、「北条義時は帝を流し奉る」の部分はさすがに江戸幕府の世においても憚られたのではないでしょうか。要するに光秀は「王であろうが天皇であろうが民に対して非道の為政者は俺が斬る」と宣言しているのです。

武智鉄二氏は昭和15年に歌舞伎演出の再検討の試みでこの「絵本太功記」十段目を取り上げました。いわゆる「武智歌舞伎」の最初の試みです。この時、武智氏はこの光秀の科白を「光秀の一心変ぜぬ信念の吐露として大切に言わせた」と書いています。「ヤアちょこざいな諫言立て。無益の舌の根動かすな。」は歌舞伎では妻操をどなりつけるように・頭から押さえ込むように言われますが、これでは光秀が世間の理屈に負けてしまっているように感じられます。したがって、ここは妻をたしなめる心で言い聞かせるように言わせました。そして「武王は殷の紂王を討ち、和漢ともに無道の君を弑(しい)するは、民を休むる英傑の志。」は押し付けではなく、自分の信念を自分の腹に納めるような心持ちで言わせたと言います。(注:「北条義時は帝を流し奉る」は戦前の検閲制度のため、カットせざるを得なかった。)


3)光秀の信念

「絵本太功記」は一日を一冊(一段)として十三冊構成で出来ています。全体の流れは真柴久吉(=羽柴秀吉)の筋も絡めて展開しますが、これを光秀の筋から追っていきますと、

(発端:安土城)春長は妙国寺の蘇鉄を無理矢理に安土城に移植させたことを、光秀が理路整然と春長に説き諌めるが、春長は逆上し光秀を打ち据える。

(朔日:二条城)光秀は朝廷の内使饗応の役を仰せつかるが、春長は森蘭丸に内偵を命じ配膳に難癖をつけさせる。蘭丸は鉄扇で光秀の眉間を打ち付ける。(十段目で登場する光秀の額に傷があるのはこのためです。)光秀はなおも春長を言葉正しく諌めるが、それにもかかわらず春長は光秀親子を追放する。

となり、2日(本能寺)において光秀が春長の暴君ぶりを耐えに耐え、ついに春長を討つに至るまでの課程が描かれています。

六段目(6日:妙心寺)は歌舞伎では上演されませんが、文楽では通しでたまに上演されることがあります。この「妙心寺」の場は、十段目を理解する上で非常に重要な場面です。この場も冒頭の句は「さても逆賊武智光秀・・」で始まり、光秀に対する世間の目を全面に出しています。主君を討った光秀に対する冷たい世間の目を代表するのが母皐月です。この母親はいわば「御主人大事」の封建道徳の権化みたいな存在で、息子のした事を決して認めようとしません。「かたじけなくも清和源氏の嫡流たる武智の系図。もとより武勇の家柄なれば、誰に恥ずべき言われなし。渇しても盗泉の水を呑まずとは、お身たちもよう知っていやる筈。心穢れたわが子の傍ら、片時も座を同じうせんは我が日本の神明へ恐れなり」と言って皐月は家を出てしまいます。さすがの光秀もこの母親の態度には衝撃を受け、辞世を書いて自刃しようとするのですが、これを息子十次郎や四王天田島頭に寸前で止められます。まず田島頭が、

「君臣を見ること塵芥のごとくせば、臣君を見ること怨敵のごとしと、春長猛威に増長して神社仏閣を焼失し、万民の苦しむる暴悪、神明これを誅するに光秀の御手をもって討たし給う。天の与うるを取らざれば災いその身に帰す。さほどのことを申さずとも、よく御合点のこなた様、切腹とは馬鹿馬鹿しい。」

と光秀を諌め、さらに息子十次郎が、

「オオそうじゃ、父の命は我々始め万卒にいたるまで、御一身に及ぶ御命。臣義を守るとも、君これを補助せざるは、それ将とは申されず。ただ生害はとどまり給い、下万民の苦しみを救い給え」

と諭します。この二人の諫言により光秀は自害を思いとどまり、「ハハ誤ったり、一天の君の御為には惜しからざりしこの命。暫しはながらへことを計らん。まずは綸旨を乞い受けて、なおも背かん者どもをことごとく誅戮(ちゅうりく)せん。」と言って再び立ち上がるのです。

この「妙心寺」を場を知っていれば、十段目での光秀の人物像に奥行きの深さと大きさが得られると思います。また十次郎についても、十段目だけ見ていると「可哀相に父親の言いつけをひたすら守って死んでいく無実の若者」という風に見えますが、実はそうではなく、「父の信念を信じ、父と共に理想に向って主体的に行動していく若者」に描かれているのです。


4)「絵本太功記」の革命性

「絵本太功記」は寛政11年(1799)大坂道頓堀・若太夫芝居での初演。作者は近松柳(やなぎ)他による合作。このころの人形浄瑠璃の興行はかなり苦しかったのですが、本作のヒットにより興行は息を吹き返します。

当時の封建制度の世にあって、しかも幕府の政治が次第にその力が弱まりを見せ始めた時期にこのように特異な「絵本太功記」の光秀像が描かれたということは注目すべきことです。「妙心寺」において自害しようとする光秀を諌める田島頭と十次郎の科白にあるように、「春長は光秀を塵芥のごとく扱い、本来あるべき主君と家来との関係を壊してしまった、ならばこのような主君に仕えている理由はない」ということで、これはあからさまな「反逆への肯定」です。同時に「主君に反抗することは如何なる理由があっても許されない」とする封建道徳に対する反論でもあります。ここに、明治維新に先立つ人心の沸き立ちを感じることもできるかも知れません。

もちろんそのような「絵本太功記」の革命性は「お上の目(幕府の検閲)」を意識して、「逆賊・光秀」を責め立てる周囲の登場人物の声によって巧みに隠されています。その代表が皐月です。彼女の死は「主君を殺すような悪行の人間だから、親を殺してしまうような破目に陥るのだ」という因果応報の論理にすり替えられることによって「お上の目」に迎合します。作品自体にそのような真の主題をあからさまにせず隠匿しようとする構造があります。これは「絵本太功記」だけでなく、江戸期の浄瑠璃・歌舞伎作品にはどの作品にもあることなのですが。

このような「革命性」はいつの世にあっても(明治の世にあっても)為政者にとっては迷惑なものでした。したがって十次郎の死も、「非道な親でも親だからと素直にしたがったために哀れな最後を遂げた健気な若者」という風に描くことで、やはり「逆賊・光秀」の因果応報の犠牲者に描くように次第に変化していきます。現行の「絵本太功記:十段目」の歌舞伎演出も、基本的には戦前からの演出を踏襲したもので、作品の奥に潜んでいる革新性を明らかにしてくれるものとは言えません。本作には今こそ本来のテーマを明確にした演出がされるべきだと思いますが、なかなか難しいことかも知れません。しかし以上のような基礎的知識をお持ちならば、現行の舞台のなかにでも悲劇的英雄・武智光秀の姿を見ることは可能であると思います。

(参考文献)

武智鉄二:「歌舞伎演出の再吟味〜絵本太功記十段目を中心に」:定本武智歌舞伎〈第1巻〉

(後記)

写真館「七代目中車の武智光秀」もご参考にしてください。

(H13・11・11)





(TOP)         (戻る)