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梶原景時の負い目〜二代目白鸚の「石切梶原」

令和2年3月歌舞伎座:「梶原平三誉石切」(石切梶原)

二代目松本白鸚(梶原平三景時)、八代目中村芝翫(大庭三郎景親)、二代目中村錦之助(俣野五郎景久)、十一代目市川高麗蔵(娘梢)、三代目松本錦吾(六郎太夫)

(新型肺炎コロナウイルス防止対策による無観客上演)


治承4年(1180)、源頼朝は以仁王の令旨を奉じて平家を討つべく挙兵しました。しかし、石橋山の戦いで大庭景親・俣野景久の兄弟が率いる平家方に惨敗を喫してしまって、頼朝は山中に逃げ込みました。大庭軍は山中をくまなく捜索しましたが、なかなか頼朝を見付けられません。この時大庭軍のなかに梶原景時という武士がいて、頼朝の居場所を突き止めますが、情けによってこれを隠したおかげで頼朝は無事に逃げおおせることが出来ました。この時の恩義によって後に梶原は頼朝から重用されることになります。当時の武士には江戸期のように主従関係に絶対的な重きを置く考え方はまだ強くなかったので、勢いが強い方に味方するのは当たり前のことでした。

その後源平の争いはますます激しさを増し、勢いを盛り返した頼朝は、今度は富士川の戦いで平家方に勝利を納めました。この時降伏した大庭景親は処刑されました。弟の俣野景久は逃亡して北陸の平家軍に合流してなおも戦いを続けます。「平家物語・巻7・篠原合戦」に拠れば、木曾義仲(源義仲)との合戦の直前、斎藤実盛は仲間を呼び集めました。彼らはすべてかつて平治の乱では源氏方に付いて今は平家の禄を食む仲間同士でした。酒を酌み交わしながら、実盛はこんなことを言い始めます。「このところの情勢を見れば、源氏の勢いはますます盛んで、平家は敗色濃厚だ、ここは源氏である木曽殿に付こうではないか。」 実はこれは実盛が仲間の覚悟を試す為のものでした。翌日、俣野景久が実盛にこう返事をしました。

『さすがわれわれは、東国では人に知られて、名ある者でこそあれ、吉について、彼方(あたな)へ参り此方(こなた)へ参らんことは見苦しかるべき。(中略)景久に於いては、今度平家の御方で、討ち死せんと思ひ切って候ぞ』(「平家物語」)

これを聞いて実盛も、実は自分も同じ覚悟であると明かしました。この場に居合わせた二十数名は、その後、越前・篠原の戦いで全員討ち死にすることになります。「今度北国にて一所に死にけること無慙(むざん)なれ」と「平家物語」は伝えています。この頃から「名を惜しむ」ことが武士の理想の振る舞いだという気風が生まれて来ます。白髪を墨で黒に染め・若やいた姿で参戦して見事に戦死した斎藤実盛の逸話が、後の世に武士の理想の死に方とされるようになります。これが歌舞伎の「実盛物語」の重要なモティーフであることは言うまでもありません。篠原合戦で戦死した武士たちの気持ちのなかに、源氏に恩義がありながら・その後心ならずも平家の禄を食まざるを得なかったことの不本意と云うか負い目が感じられます。ただし本来はこれをあまり強く読むべきではないと思いますが、江戸期の「実盛物語」を読む場合にはこの視点が絶対に必要です。歌舞伎は江戸期の民衆の倫理感覚に根差した演劇であるからです。

上記逸話に出てくる俣野五郎景久が、「石切梶原」に登場するあの俣野です。「石切梶原」に登場する三人の武士、梶原・大庭・俣野は、共にかつては源氏の家人であり、平治の乱で源義朝が敗死した後平家に従った者たちでした。その後は三人三様の未来が待っていますが、源氏と平家のどちらが正義でどちらが悪か、誰が正しくて・誰が間違っているかと云うことはないのです。三人それぞれ自ら信じるところを一生懸命生きて・そして死んだと云うことです。歌舞伎の「石切梶原」の俣野は梶原を悪意であざ笑う思慮が足りない粗忽者みたいにも見えますが、史実の俣野はそうではなくて、「名を惜しむ」ことを知る立派な武士なのです。

一方、梶原は、「義経記」や「吾妻鏡」などの史書では、義経としばしば争い頼朝にこれを讒言するなど陰険なイメージで描かれることが多い人物でした。歌舞伎でも悪役に扱われることが多い梶原が、ほとんど唯一「石切梶原」においてのみ思慮深い正義の侍として描かれています。生締め姿の梶原が名刀を振るって颯爽と去って行く、まあこれはそんな芝居だと思って見て一向差し支えはないのだけれども、後に名を惜しんで死ぬことになる俣野には、寝返った梶原を批判する権利を少しは認めてやっても良いかなと云う気もして来るわけです。歌舞伎で俣野を赤面の荒事風に仕立てて梶原に突っかからせるのには、その辺の配慮があるのかも知れませんねえ。確かに「石切梶原」は俣野が良くないと面白くなりません。(今回の錦之助の俣野はなかなか良くやっています。)

そう考えると、梶原の方にも、たとえかつて源氏方だったと云う過去があるにせよ、現在は平家の禄を食みながら・源氏方に再び寝返ったことについて、何かしら負い目を感じるところがあったに違いない。そこに「石切梶原」の陰影があるのではないかと思って探してみると、やはりそう云う箇所がありました。それは梶原が六郎太夫親子に石橋山合戦での頼朝との出会いなど物語する件の最後の方の台詞です。

「よしそれゆえに世に疎まれ、佞人讒者(ねいじんざんしゃ)と指差され、死後の悪名受けるとも、いつかな厭わぬわが所存」

しかし、この台詞は現行歌舞伎ではカットされることが多いようです。今回(令和2年3月歌舞伎座)の白鸚もカットしていますが、この台詞はあった方が良いように思いますねえ。(吉之助の記憶ではカットなしでこの台詞を云うのは仁左衛門です。)梶原のこの台詞は、この芝居の現在この時の梶原の状況を云うものではなく、後世の「義経記」や「吾妻鏡」などでの梶原の評価を念頭に入れて云われているものです。ここで梶原は「死後の悪名受けるとも、いつかな厭わぬ」と宣言して一切の批判を撥ねつけています。逆に云えば、梶原のなかで渦巻く負い目はそれほどまでに強いのです。つまりこれは「実盛物語」で壮年期の実盛が28年後の死を予告して太郎吉に「その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」と云うのとまったく同じ反復構造です。ここに見えるのは、自らの決断にとって選び取る意志的な未来です。(別稿「実盛物語における反復の構造」をご参照ください。)もちろん実盛とは様相がかなり異なります。実盛の場合には北国篠原の戦死は悲惨なことではあるけれども、それは祝福される未来です。梶原の場合には、それは佞人讒者と蔑まれる未来です。しかし、梶原はそれでも良いと言っているのです。この台詞で「石切梶原」はちょっぴり悲劇的な陰影を帯びることになると思います。ただし、それはこの後の石切の場面の華やかさで消散してしまいますけどね。

さて本稿で取り上げるのは、令和2年(2020)3月歌舞伎座での、白鸚による「石切梶原」の無観客上演舞台の映像です。吉之助が興味深いと思うのは、白鸚の梶原の横顔がどこか暗い陰影を帯びるように感じるせいです。こう云う印象は一体どこから来るものでしょうかね。白鸚の役の解釈から来ると云うよりも、白鸚に感じられる或る種の「型臭さ」から来るものだと云えそうです。白鸚の型ものへの意識については、盛綱陣屋の観劇随想でちょっと触れました。「石切梶原」は作品として深みがあるものとは言い難いですが、高麗屋にとって代々型ものとして結構重い演目です。白鸚の型ものへの強い意識が、この「石切梶原」では良い方向に作用していると感じます。あまり考え過ぎずに形から役に入っているから良いのです。型が持つ制約が、役を取り巻く状況の重さと重なって来ます。型ものの段取りにおいては、もちろん白鸚は申し分ありません。すると白鸚の梶原のほの暗い陰影が、梶原の負い目と重なるように見えて来るのです。これは他の「石切梶原」にはあまり感じないユニークな現象だと思います。だからこそ白鸚の梶原には、「佞人讒者と指差され、死後の悪名受けるとも、いつかな厭わぬわが所存」の台詞がある方がより望ましいと思うのです。

もちろん「石切梶原」での生締めのカラッと華やかな梶原・爽やかな善人の梶原が悪いと云うのではありません。それはそれで良いものですが、しかし、梶原と云う役は決して明るい要素ばかりではないと思うのです。明るさの背後にちょっぴり暗い翳が差す、そこに歌舞伎のアンビバレントな感覚があると思うわけです。白鸚の梶原は、そこが興味深い。そうすると「佞人讒者と指差され、死後の悪名受けるとも (胸に悲しみを秘め、俺はこの男・頼朝に賭ける)」と云う風に、何となく「ラマンチャの男」の「見果てぬ夢」のようにも聞こえて来ないでしょうかね。梶原は「憂い顔の武士」だと云うことです。

(R2・5・16)



 

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