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二代目白鸚の佐々木盛綱

令和元年12月国立劇場:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」

二代目松本白鸚(佐々木盛綱)、初代坂東弥十郎(和田兵衛)、六代目上村吉弥(微妙)、十一代目市川高麗蔵(早瀬)、二代目中村魁春(篝火)他


1)思案の扇からりと捨て

白鸚が盛綱を演じるのは28年ぶりということで期待して舞台を見ました。白鸚の盛綱は「思案の扇カラリと捨て」の「カラリ」のところが素敵に上手い。「カラリと捨て」という詞章なのに、大抵の盛綱役者は扇を捨てると云うよりも「傍にそっと置く」という感じが多いのです。これでは全然「カラリ」に見えません。ところが白鸚の盛綱は考えに気が行く余り・ホントにカラりと扇を取り落とすのですね。その息・間合いが実に上手い。と一応褒めておきますが、その直前がいけません。白鸚の盛綱は「思案の扇」で何か思い付いたらしくアッと口を開けて、それで「カラリと捨て」となるのです。一体盛綱はここで何をアッと思い付くのでしょうか。その後の盛綱の行動を見ると、それは「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ、その手伝いを母上(微妙)に頼もう」という事に違いない。どうやら盛綱は「これから後捕虜小四郎をどう扱ったものか」と考え続けたあげく、アッと思い付いて「小四郎は死んでもらわねばならぬ」という結論に至ったと、そのように見えるのです。吉之助にはそれは随分軽い結論に思われますねえ。これでは小四郎があんまり可哀そうだと云うものです。

丸本の詞章では「軍慮を帳幕の打傾き思案の扇からりと捨て」と云います。盛綱は何をずっと考えていたのでしょうか。吉之助が思うには、盛綱の頭のなかには「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論がもう最初からあったのです。そこで盛綱が考えたことは、ホントにその結論で良いのかということです。何とかそれを回避する策はないか、何とか小四郎を助けてやる手段はないか、盛綱はあれやこれや考えます。しかし、どのような策を取っても結局小四郎は北条時政の手駒として使われてしまい・弟高綱が窮地に陥ることは逃れられぬ、万策尽きた・・そこで「思案の扇カラリと捨て」となるわけです。「可哀そうだが小四郎には死んでもらわねばならぬ」という結論は同じじゃないかと思うかも知れませんが、思考プロセスがまるで違います。結論は随分と気が重いものとならざるを得ません。「思案の扇」はアッと思い付いたアイデアではないのです。

このことは音楽的に見ても検証が出来ます。「盛綱陣屋」を初演(明和6年・1769・竹本座)したのは初代豊竹鐘太夫でした。「思案の扇カラリと捨て」と云う部分は、「思案の扇」でグッと息を詰めて・暫しの間があって「カラリと捨て」となります。通常の間より重めの間が入ります。文楽では、これを鐘太夫の捨て間と云うそうです。例えば同じく鐘太夫初演の「十種香」で八重垣姫が勝頼だと思って走り出たところを・あれは花作りの蓑作だとたしなめられて「フーン何と云やる」という場面も鐘太夫の捨て間で、「フーン」と云ってから・そこで一瞬の不審とああそうなのねと云う思い直しがあって「何と云やる」になる、その間のなかに八重垣姫の心理変化があるのです。「思案の扇」も同様で、何とか小四郎を助けたいと思ったが・・万策尽きた・・無念・・という間があって「カラリと捨て」となるのです。これが鐘太夫の捨て間と云うものです。(この稿つづく)

(R2・1・6)


2)二代目白鸚の佐々木盛綱

このような解釈の相違が生じるのは、「盛綱陣屋」において近松半二がそれだけ意地悪でトリッキーな作劇をしているせいです。別稿「歌舞伎における盛綱陣屋」・「盛綱陣屋の音楽的な見方」など関連論考で触れた通り、半二の芝居は設定が極端なうえに、どちらとも取れる曖昧な書き方をしているところが多い。このため歌舞伎の「盛綱陣屋」の盛綱は過度に情に傾斜した印象となってしまっています。首実検の場面で、白鸚の盛綱は、首を見て・腹に刀を突き刺した小四郎を見て・怪訝な表情をし、また首を見直して・それからもう一度小四郎の方を見てアッそうかと驚く。二度も小四郎の顔を見直して偽証の覚悟を固めると云う、くどいほど説明的な演技です。背後の時政から見て盛綱が考えることがバレバレです。まあ芝居だからそうなりませんが、これでは盛綱の人物が何とも小さく見えてしまいます。しかしまあ現行の歌舞伎の「盛綱陣屋」の段取りでは誰が盛綱をやっても観客を心底納得させることは難しいでしょう。

それにしても実に白鸚らしい演技だと思いますねえ。吉之助はそこに白鸚の役者としての(或いは人間としての)真実があると理解しています。同時に現代に生きる歌舞伎役者の苦しいところが、そこに見えるとも感じています。例えば由良助では、仇討ちの本心を偽って祇園に遊ぶ偽りの演技においては、白鸚は上手さが際立つ役者です。必ずしもニンと思えなかった大蔵卿でも、平家追討の志を偽って作り阿呆を装うというところで、驚くほど線の太い演技でその本質を明らかにしてくれました。今月(令和2年1月歌舞伎座)の五斗兵衛なども、そうです。主君の恨みを晴らすとか・暴虐非道の政権に反抗するとか云う論理が、時代を超えて揺るぎない大義に根差しているからです。こういう場合、白鸚は自信を以て偽りの演技を打ち出せます。もともと技芸があるから偽りの芸が映えるわけです。

ところが例えば松王とか熊谷のように、主筋の若君を護るために我が子を身替わりに殺すとなると、大義が揺るがさるを得ません。それは封建社会の江戸期には確かに大義だったのですが、現代では基本的人権が保障され親と子は別箇の人格とされ、もはや身替わりを大義として現代人に強くアピール出来なくなってしまいました。何て残酷、かつ無意味なことかと云うことになってしまいます。だから我が子を犠牲にする親の苦しみ・葛藤をクローズアップし、封建社会の論理に強制されて・やむを得ず我が子を殺す悲劇ということにしないと、歌舞伎が時代に対応出来ません。この点が現代における歌舞伎の弱み、現代の歌舞伎役者が悩み苦しむところです。大っぴらに大義を主張できないわけです。こう云うところに現代人としての白鸚の感性が、他の役者よりも敏感に反応するのです。他の役者だと何気なくスルーしてしまうところを、白鸚はそのままに捨て置けないのだろうと思います。それは白鸚のこの時代に対する感性の鋭敏さから来るもので、白鸚はドラマと時代感覚のギャップに何とか折り合いを付けようともがきます。表現としては、声を籠らせたり・震わせたり、泣きが強く出て来ます。由良助や大蔵卿であれほど太い筆致の役作りをする白鸚がどうして?と思いますが、何だかセンチメンタルで描線が弱くなって来るのです。白鸚の三大首実検もの、松王・熊谷・盛綱は、どれもそんな感じなのです。これすべて白鸚の役者としての真実から発するものと考えます。

吉之助はこういう場合はあまり深いこと考えず、むしろ形から入って行った方が成功するのにと思うのです。考えなくて良いと云うのではなく、考え過ぎはいけないと云うことです。例えば初代吉右衛門の記録映画(昭和28年11月歌舞伎座)を見れば、時政が退場した後・小四郎を「褒めてやれ・褒めてやれ」と云って扇をパッと掲げる長台詞で、そこまでのモヤモヤをすべて吹っ飛ばして興奮の嵐に出来るのですから、そういうお祖父ちゃんの芸の素晴らしいところを見習って欲しいと思うのです。要は場の気分の切り替えということです。この場面の白鸚の長台詞は決して悪いわけではないけれど、前段の首実検の陰鬱ムードを引きずって、カタルシスまでに至りません。大事なことは、ここでの盛綱は極度の高揚状態にあるわけですから、これを台詞のトーン・リズムに反映させることです。声のトーンをやや高めに置いてリズムを前のめりに言葉を機関銃のように叩き出す、これで歌舞伎の「盛綱陣屋」はそこまでの欠点全部帳消しに出来ると思うのですがねえ。

(R2・1・10)



 

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