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「歌舞伎素人講釈」観劇断想・5  ( 令和元年〜    )

*観劇随想のうち単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。


○令和元年5月歌舞伎座:「京鹿子娘道成寺」

五代目菊之助・令和最初の「娘道成寺」

五代目尾上菊之助(白拍子花子)


菊之助が歌舞伎座で「娘道成寺」を踊るのは、これが初めてだそうです。果たして期待通り、素晴らしい踊りを見せてくれました。かつきりと折り目正しい踊りと云う印象には、どこか祖父・七代目梅幸に通じるところがあります。梅幸はふっくらした味わいがしましたが、菊之助の場合はもう少し理智的と云うか・怜悧な美しさがしますが、これもまた良しです。踊りの色の変わり目をきっちり見せています。だからついつい時を忘れて踊りに引き込まれて、次々と場面が展開していく流れが実に愉しいのです。こういう愉しい「娘道成寺」はずいぶん久しぶりだなと思いました。

吉之助は十代目三津五郎の「道成寺」の観劇随想のなかで、初代富十郎が創始した「道成寺」を立役のイメージで想像したいと云うことを書きました。真女形が踊る「娘道成寺」は、艶やかではあるが・嫋々とした方向に傾いて、凛としたところが見失われがちです。菊之助はこのところ立役に傾斜してはいますが、目下のところは女形と云うべきでしょうですから、これは三津五郎或いは十七代目勘三郎のような加役の白拍子花子とまったく違った印象になって当然です。菊之助の「道成寺」には女形らしい艶やかさが十二分にありますが、決して嫋々としていません。凛とした要素が理想的なバランスで立っています。祖父梅幸と同様、規範や伝統への信頼に裏付けされた折り目正しい芸と云う印象がします。(梅幸の「娘道成寺」についてはこちらをご覧ください。)

しかも今回の菊之助の白拍子花子に痛感することは、この点では梅幸よりも強くそれを感じるのですが、「道成寺」説話(安珍清姫)のストーリーが強く意識されていると云うことです。つまり鐘に対する強い思いと云うことです。もちろんこれは口伝としてあることで、どの踊り手であっても鐘に対する思いは必須のものですが、菊之助の場合は、これが踊りの流れの組み立てに特に強く作用していると感じます。このことは「道成寺」前半の金冠辺りであると(恐らくは意識的に)あまり強く出 して来ませんが、後半の「恋の手習」のクドキから次第に表に出始めて、鞨鼓の踊りではそれがメラメラ燃え上がるように表出される、そのような踊りのストーリー(設計)が意識されていると感じます。したがって今回の「道成寺」では前半がやや抑え気味に推移して、後半の「恋の手習」から次第に目が離せないほど 踊りの面白さが増して行きます。そこに「道成寺」説話のストーリーが脳裏に浮かび上がって来る気がするのです。だから最後に花子が蛇体になって鐘の上に上がると、「納得、これで腑に落ちた」という気分にさせられました。まったく真女形が踊る「道成寺」は、こうでなければならぬなあと思います。

(R1・5・28)


○令和元年6月歌舞伎座:「 寿式三番叟」

似て非なる三番叟

十代目松本幸四郎(三番叟)、二代目尾上松也(三番叟)


幸四郎と松也の三番叟は足拍子威勢よくダイナミックな踊りで魅せると云いたいところですが、踊り手の要請か・振付(藤間勘十郎)の要請か知りません(多分これは振付から来るのだろうと思います)が、お囃子のテンポがあまりに早過ぎます。この倍遅いテンポで良いくらいです。早いテンポで息を乱さず踊るのだから・まあ褒めてやりたい気もしなくもないが、このテンポでは当然振りや足踏みは粗雑にならざるを得ません。二人三番叟は確かに二人の踊り手を競わせることを意図しているにせよ、ここでは神事の雰囲気など消し飛んでいます。

幸四郎が三番叟を踊れないとは思っていません。平成17年10月新橋演舞場での三響会で狂言の野村萬斎と共演した「二人三番叟」では、当然隣の萬斎を強く意識していたこともありますが、しっかり踊っていました。もうちょっと腰を落とせばもっといいかなというところはありましたが、十分三番叟になっていたと思います。(ちなみに萬斎の三番叟は見ておくべきものだと云っておきます。)だから幸四郎が三番叟を踊れないと思っていませんが、しかし、今回(令和元年6月歌舞伎座)の三番叟は、単なるダンス・パフォーマンスと化しています。

なるほど巷を見れば早いテンポのビートの効いた西洋音楽のダンスミュージックが氾濫しています。「伝統芸能にもこれに対抗できるダイナミックな踊りがある」と主張したくなるのも分からないことはありません。三番叟の「もどき」の動きは、滑稽・模倣・反駁などの要素を孕むものです。もしかしたらそこに現代のダンスとの精神的な共通項があるのかも知れぬ。ダイナミックな三番叟を見て興奮感激なさる観客もいらっしゃることでしょう。だから吉之助もこれを全否定することは躊躇しますが、ただしそれは「 寿式三番叟」でやることではない。能の「翁」は「能にして能にあらず」と云われて大事な演目とされていますが、これは歌舞伎の「寿式三番叟」だって同じことなのです。

足拍子とは、単に所作板をドーンと踏み鳴らして大きい音を出すだけのものではありません。「足を踏む」と云うのは、力足を以て悪いものを抑え付ける形です。悪い霊魂が再び頭をもたげないように、地下に踏みつけておく心なのです。同時に「踏む」とは、全身で重力を感じて・感じた重みを頭のてっぺんから足の裏に一気に落とすことで、その反動で逆に大地が持っているパワー(「気」と云うべきであろうか)を一気に吸い上げることでもあります。相撲で「四股を踏む」というのも、そのような行為です。つまり足拍子とは単にリズムを取るのではなく、リズムを抑え込む行為です。下に向けた力を床に押し込める気持ちが大事なのです。幸四郎と松也の三番叟は、跳ねていますね。これは三番叟には似て非なる動きです。しかし、お囃子のこの早いテンポではそうならざるを得ないでしょう。もっとテンポを遅くして、しっかりリズムを踏まなければ、神事が発動することはありません。

現代のダンスミュージックはテンポが早くて低音を効かせているから誤魔化されますが、リズムの打ち込みが浅いものが実に多いです。テレビのスイッチを入れれば、リズムが前のめりになって、足がしっかり地に付いていないものばかりです。そのようなセカセカした感覚が当世では今風だともてやはされています。しかし、そういうのは実は「無理やり興奮させられている」だけなのです。これはクラシック音楽でも同じような傾向があって、最近の演奏はモーツアルトでもベートーヴェンでも、テンポが早くてリズムの打ちの浅いものが多いようです。これは数十年前の演奏と比べれば歴然としていることで、吉之助なんぞは聴いていて、呼吸が浅くなって苦しくなることがあります。これは現代が抱える深刻な問題じゃないかと思いますねえ。現代の生活には我々の呼吸を知らず知らず浅くしてセカセカ追い立てられる気分にされることがあまりに多過ぎます。だからここは心を落ち着けて、一度深呼吸をしてみる必要があるのではないでしょうかね。そうすれば日常生活のイライラも少しは収まるだろうと思います。

話を歌舞伎に戻せば、伝統芸能が、しっかりリズムを「踏み」呼吸を深くとることを観客に示唆することは、現代においては益々大事な役割になってくると思います。歌舞伎座に来て深いリズムと呼吸に癒される時間を持つことは、セカセカした三番叟を見るよりずっと貴重な機会だと思いますがね。そういうことを振付の勘十郎も、幸四郎も松也も、是非考えてもらいたいのです。

(R1・6・9)



 

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