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「歌舞伎素人講釈」観劇断想・5  (令和元年〜    )

*観劇随想のうち単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。


○令和元年5月歌舞伎座:「京鹿子娘道成寺」

五代目菊之助・令和最初の「娘道成寺」

五代目尾上菊之助(白拍子花子)


菊之助が歌舞伎座で「娘道成寺」を踊るのは、これが初めてだそうです。果たして期待通り、素晴らしい踊りを見せてくれました。かつきりと折り目正しい踊りと云う印象には、どこか祖父・七代目梅幸に通じるところがあります。梅幸はふっくらした味わいがしましたが、菊之助の場合はもう少し理智的と云うか・怜悧な美しさがしますが、これもまた良しです。踊りの色の変わり目をきっちり見せています。だからついつい時を忘れて踊りに引き込まれて、次々と場面が展開していく流れが実に愉しいのです。こういう愉しい「娘道成寺」はずいぶん久しぶりだなと思いました。

吉之助は十代目三津五郎の「道成寺」の観劇随想のなかで、初代富十郎が創始した「道成寺」を立役のイメージで想像したいと云うことを書きました。真女形が踊る「娘道成寺」は、艶やかではあるが・嫋々とした方向に傾いて、凛としたところが見失われがちです。菊之助はこのところ立役に傾斜してはいますが、目下のところは女形と云うべきでしょうですから、これは 十代目三津五郎或いは十七代目勘三郎のような加役の白拍子花子とまったく違った印象になって当然です。菊之助の「道成寺」には女形らしい艶やかさが十二分にありますが、決して嫋々としていません。凛とした要素が理想的なバランスで立っています。祖父梅幸と同様、規範や伝統への信頼に裏付けされた折り目正しい芸と云う印象がします。(梅幸の「娘道成寺」についてはこちらをご覧ください。)

しかも今回の菊之助の白拍子花子に痛感することは、この点では梅幸よりも強くそれを感じるのですが、「道成寺」説話(安珍清姫)のストーリーが強く意識されていると云うことです。つまり鐘に対する強い思いと云うことです。もちろんこれは口伝としてあることで、どの踊り手であっても鐘に対する思いは必須のものですが、菊之助の場合は、これが踊りの流れの組み立てに特に強く作用していると感じます。このことは「道成寺」前半の金冠辺りであると(恐らくは意識的に)あまり強く出 して来ませんが、後半の「恋の手習」のクドキ辺りから次第に表に出始めて、鞨鼓の踊りではそれがメラメラ燃え上がるように表出される、そのような踊りのストーリー(設計)が意識されていると感じます。したがって今回の「道成寺」では前半がやや抑え気味に推移して、後半の「恋の手習」から次第に目が離せないほど踊りの面白さが増して行きます。そこに「道成寺」説話のストーリーが脳裏に浮かび上がって来る気がするのです。だから最後に花子が蛇体になって鐘の上に上がると、「納得、これで腑に落ちた」という気分にさせられました。確かにこの「道成寺」であれば押し戻しは不要です。まったく真女形が踊る「道成寺」は、こうでなければならぬなあと思います。

(R1・5・28)


○令和元年6月歌舞伎座:「 寿式三番叟」

似て非なる三番叟

十代目松本幸四郎(三番叟)、二代目尾上松也(三番叟)


幸四郎と松也の三番叟は足拍子威勢よくダイナミックな踊りで魅せると云いたいところですが、踊り手の要請か・振付(藤間勘十郎)の要請か知りません(多分これは振付から来るのだろうと思います)が、お囃子のテンポがあまりに早過ぎます。この倍遅いテンポで良いくらいです。早いテンポで息を乱さず踊るのだから・まあ褒めてやりたい気もしなくもないが、このテンポでは当然振りや足踏みは粗雑にならざるを得ません。二人三番叟は確かに二人の踊り手を競わせることを意図しているにせよ、ここでは神事の雰囲気など消し飛んでいます。

幸四郎が三番叟を踊れないとは思っていません。平成17年10月新橋演舞場での三響会で狂言の野村萬斎と共演した「二人三番叟」では、当然隣の萬斎を強く意識していたこともありますが、しっかり踊っていました。もうちょっと腰を落とせばもっといいかなというところはありましたが、十分三番叟になっていたと思います。(ちなみに萬斎の三番叟は見ておくべきものだと云っておきます。)だから幸四郎が三番叟を踊れないと思っていませんが、しかし、今回(令和元年6月歌舞伎座)の三番叟は、単なるダンス・パフォーマンスと化しています。

なるほど巷を見れば早いテンポのビートの効いた西洋音楽のダンスミュージックが氾濫しています。「伝統芸能にもこれに対抗できるダイナミックな踊りがある」と主張したくなるのも分からないことはありません。三番叟の「もどき」の動きは、滑稽・模倣・反駁などの要素を孕むものです。もしかしたらそこに現代のダンスとの精神的な共通項があるのかも知れぬ。ダイナミックな三番叟を見て興奮感激なさる観客もいらっしゃることでしょう。だから吉之助もこれを全否定することは躊躇しますが、ただしそれは「 寿式三番叟」でやることではない。能の「翁」は「能にして能にあらず」と云われて大事な演目とされていますが、これは歌舞伎の「寿式三番叟」だって同じことなのです。

足拍子とは、単に所作板をドーンと踏み鳴らして大きい音を出すだけのものではありません。「足を踏む」と云うのは、力足を以て悪いものを抑え付ける形です。悪い霊魂が再び頭をもたげないように、地下に踏みつけておく心なのです。同時に「踏む」とは、全身で重力を感じて・感じた重みを頭のてっぺんから足の裏に一気に落とすことで、その反動で逆に大地が持っているパワー(「気」と云うべきであろうか)を一気に吸い上げることでもあります。相撲で「四股を踏む」というのも、そのような行為です。つまり足拍子とは単にリズムを取るのではなく、リズムを抑え込む行為です。下に向けた力を床に押し込める気持ちが大事なのです。幸四郎と松也の三番叟は、跳ねていますね。これは三番叟には似て非なる動きです。しかし、お囃子のこの早いテンポではそうならざるを得ないでしょう。もっとテンポを遅くして、しっかりリズムを踏まなければ、神事が発動することはありません。

現代のダンスミュージックはテンポが早くて低音を効かせているから誤魔化されますが、リズムの打ち込みが浅いものが実に多いです。テレビのスイッチを入れれば、リズムが前のめりになって、足がしっかり地に付いていないものばかりです。そのようなセカセカした感覚が当世では今風だともてやはされています。しかし、そういうのは実は「無理やり興奮させられている」だけなのです。これはクラシック音楽でも同じような傾向があって、最近の演奏はモーツアルトでもベートーヴェンでも、テンポが早くてリズムの打ちの浅いものが多いようです。これは数十年前の演奏と比べれば歴然としていることで、吉之助なんぞは聴いていて、呼吸が浅くなって苦しくなることがあります。これは現代が抱える深刻な問題じゃないかと思いますねえ。現代の生活には我々の呼吸を知らず知らず浅くしてセカセカ追い立てられる気分にされることがあまりに多過ぎます。だからここは心を落ち着けて、一度深呼吸をしてみる必要があるのではないでしょうかね。そうすれば日常生活のイライラも少しは収まるだろうと思います。

話を歌舞伎に戻せば、伝統芸能が、しっかりリズムを「踏み」呼吸を深くとることを観客に示唆することは、現代においては益々大事な役割になってくると思います。歌舞伎座に来て深いリズムと呼吸に癒される時間を持つことは、セカセカした三番叟を見るよりずっと貴重な機会だと思いますがね。そういうことを振付の勘十郎も、幸四郎も松也も、是非考えてもらいたいのです。

(R1・6・9)


○令和元年6月歌舞伎座:「恋飛脚大和往来」〜封印切

近松世話物の難しさ〜十五代目仁左衛門の「封印切」

十五代目片岡仁左衛門(亀屋忠兵衛)、初代片岡孝太郎(遊女梅川)、六代目片岡愛之助(丹波屋八右衛門)


先日、昭和58年(1985)4月国立小劇場での「恋飛脚大和往来」で仁左衛門(当時は孝夫・41才)が演じた忠兵衛の映像を見直す機会がありました。あれから34年の歳月が経ったわけですが、今回(令和元年6月歌舞伎座)での仁左衛門の忠兵衛はあの時の若々しさそのまま変わっておらぬことに感心すると同時に、現時点から34年前を顧みて、当時の仁左衛門の芸が既に確固としたものであったこともよく分かりました。仁左衛門の忠兵衛は、梅川だけでなく・他の遊女や・井筒屋おえんなど女たちに好かれて「忠さん、忠さん・・」と騒がれる良い男振り・人の良さが溢れていて、「梶原源太はわてか知らん」(仁左衛門はゲンタと発声していますが・正しくはゲンダ)と忠兵衛が言うのもさもありなんと思わせる風情です。だから前半の芝居が「廓文章」の伊左衛門を思わせて、とても面白い出来です。壁に蝙蝠の真似をしてベタッと貼り付くのも笑えます。

しかし、後半の八右衛門との口喧嘩から封印を切るに至る過程については、この人の良さげな忠兵衛がどうしてここまで意固地になるのか、前半からの流れから見てしっくり来ないところがあります。そう感じるのは、皮肉なことですが、前半の仁左衛門の出来が良いからでもあります。上方和事の味を加えて近松の「冥途の飛脚」を通俗的な情話劇に仕立てた「恋飛脚大和往来」の改作の無理がここに出てしまうのです。例えばの話ですが、「廓文章」みたいに幕切れでどこからか千両箱が運ばれてきて・梅川が身請けされて目出度し目出度しになるならばどんなに後味が良いか、そんなことを思ってしまいますねえ。ところが芝居の結末は思いもよらぬ展開となってしまうわけです。

封印切は成駒屋の型では、八右衛門に突き飛ばされた弾みで封印が切れてしまうという解釈になっています。忠兵衛が故意に封印を切るよりも過失である方がお客の同情が来ると云うのです。しかし、これだとどうも忠兵衛はなし崩し的に破滅に追い込まれるだけのことで、状況悲劇にまで高まって来ません。一方、仁左衛門の忠兵衛は、喧嘩で火鉢のふちで叩いたりしているうちに封印が切れ掛かっているのを見て驚いて・覚悟を決めて封印を切るという解釈で、これは近松の原作にいくらか近くなっているわけですが、これでもまだ男の体面にカッと熱くなって封印を切る「冥途の飛脚」の忠兵衛の単純さ・頑固さにまでは至りません。それは皮肉なことですが、前半の和事の印象が柔過ぎに見えるせいです。仁左衛門の忠兵衛の前半が良いだけに「恋飛脚大和往来」の改作の問題がよりはっきりと見えて来ることになるのです。某インタビューで仁左衛門は「忠兵衛より八右衛門を演じる方が好きだ」と語っていますが、忠兵衛を演じるのはその辺に難しさがあるのでしょう。

近松の世話物浄瑠璃の主人公は、徳兵衛にせよ忠兵衛にせよ治兵衛にせよ、それぞれ性格の独自性(オリジナリティ)を持っていて、役の類型的処理を許さないところがあるようです。忠兵衛も和事で単純に処理できないものがあるようです。近松の世話物は一筋縄で行かぬとつくづく思います。

(R1・7・5)


〇令和元年7月歌舞伎座:「素襖落」

本行に対するリスペクト〜十一代目海老蔵の「素襖落」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(太郎冠者)、二代目中村獅童(大名某)他


いつ頃からのことか、近頃の歌舞伎の狂言種の松羽目舞踊は、「素襖落」でも「身替座禅」でも、観客を笑わせようと云う下心が見え見えで、品格が乏しいと感じることが多くなりました。要するに笑いが生(なま)なのです。今回(令和元年5月歌舞伎座)の「素襖落」の舞台も例外ではありません。まあ確かに観客はよく笑って喜んでいます。しかし、狂言の笑いと云うものは「イデ笑おう、ワハハ・・」という大らかな笑い・おかしみであって、演者の方からくすぐりに行く現代風のコントの笑いとは異なるものだと思います。どこがどう違うんだと云われれば、明確な境界線が引きにくいものではあります。しかし、その違いに狂言のフォルムが見えて来るはずです。そこで大事になるのが、狂言の品格・品位というものです。本来フォルムに敏感であるべき歌舞伎役者は、そのような違いを感覚的に仕分けられねばなりません。それが出来ていない舞台が多い。面白ければいいじゃないか、お客が喜んでいるからいいじゃないかでは困ります。

歌舞伎というのは、本行である狂言と比べれば、ずっと写実(リアル)の方に寄っている芸能です。だから歌舞伎の松羽目舞踊の笑いが狂言より生(なま)になるのは当たり前だ・そこに狂言を歌舞伎化する意味があるんだと考えるならば、それは大きなお間違えです。歌舞伎は、本行に対するリスペクトを持たねばなりません。本行へのリスペクトがあるからこそ、歌舞伎を伝統芸能と呼ぶのです。日本の伝統である「本歌取り」は本歌を好き勝手に作り変えて良いわけではなく、そこに先達に対するリスペクトがあって、自ずとそこで自制が掛かる。そこにフォルムが生まれるのです。

明治から大正期の松羽目舞踊には、能狂言に対する歌舞伎の若干のコンプレックスが入り混じった憧れから来る、独特のフォルムがそこに見えます。これを一言でいえば、本行の品格・品位と云うべきです。これはこの時代の歌舞伎が是非とも手に入れたかった要素でした。当時の歌舞伎には自らが下賤な芸能だという自意識がまだありました。だからこの時代に松羽目舞踊が続々と生まれたのです。狂言の高級感を手に入れたかったのです。そのような時代のフォルムが表出されていないのならば、九代目団十郎が初演した「素襖落」、或いは六代目菊五郎が初演した「身替座禅」にならぬわけです。これが松羽目舞踊のフォルムなのです。だから昨今の松羽目舞踊に品格が乏しいと感じられるのは、役者に狂言の素養が乏しいということもあるでしょうが、それよりも本行(狂言)に対するリスペクトが若干欠けているからではないでしょうかね。これは狂言に対してだけのことではなく、歌舞伎にとって大事な本行・人形浄瑠璃に対しても同様なことが云えるのではないかな。昨今の歌舞伎は微妙なところに在ると思いますね。

海老蔵の太郎冠者(それと獅童の大名にも同じものを感じますが)は、演技が生(なま)に感じられますねえ。人気役者のやることであり・演技が生であるからなおさら観客が喜んで拍手していますが、そこに大きな落とし穴があることを分かって欲しいですねえ。「那須与一の扇の的」での海老蔵は目をギラギラさせて真剣で、時々酒がこみあげてくる酔いっぷりも見せながら、まあリアルなことではある。ここが見せ場だと云う意識が強いのでしょう。(確かに見せ場ではあるが。)しかし、余裕と云うか・遊び心が感じられません。元々狂言「素襖落」にはこの踊りはなく、「扇の的」は勝ち修羅だから縁起が良いと云うことで九代目団十郎が挿入したものだと思いますが、「素襖落」全体のなかで「扇の的」が異質に浮き上がって見えてしまうようでは、松羽目舞踊の本質に沿わぬだろうと思います。

(R1・7・5)


〇令和元年9月歌舞伎座:「極付幡随長兵衛」

十代目幸四郎初役の長兵衛

十代目松本幸四郎(幡随院長兵衛)、四代目尾上松緑(水野十郎左衛門)


幸四郎が十代目を襲名して一年半が経過しましたが、「幸四郎はどんな役者を目指しているのかな」とフト疑問に思うことがあります。「幸四郎」として、弁慶・熊谷のように骨太く豪快なイメージを追うのか、伊左衛門のような細く優美なイメージを追うのか。本人に訊ねたら「どちらも」と答えそうですねえ。しかし、芸道二筋道を追うのは容易なことではありません。このところの幸四郎の舞台を見ると、いろんな役を小器用にこなしてはいますが、何となく中途半端に感じることがある。例えば6月三谷歌舞伎は本人が随分入れ込んでプロデュースしたようですが、これは三谷幸喜の脚本のせいが大きいのだが、肝心の主人公・大黒屋光太夫がとても影が薄い存在に見えました。幸四郎は光太夫で何を表現したかったのでしょうか。この役のどこに観客は「幸四郎」のイメージを求めたら良いのでしょうか。そうやって観客は或るイメージ(期待)を役に照射しながら役者を見るのです。それに役者は応えることが肝心であろうと思います。幸四郎は「何としても全員を日本に連れて帰る」という意志で仲間を引っ張る強いリーダーという感じで役を作るべきでした。これは役者の肚の問題だと云って良いと思いますがね。そこが不明瞭になってはいないでしょうか。(この件は別稿「十代目幸四郎が進む道」でも触れました。)

そこで話を戻しますが、「幸四郎」として幡随院長兵衛は是非自分のものにしておきたい役です。しかし、幸四郎の長兵衛はもちろん一応のことは出来ていますが、何と云うかな、線が細くて・いまいち町奴の気迫に乏しいですねえ。巖として何事にも動じない気迫が欲しいのです。幸四郎はまだ身体が細いから見掛けの押し出しが弱いということは確かにあります。しかし、父上(二代目白鸚)だって叔父上(二代目吉右衛門)だって、若い頃は身体が細かったのです。それが今は堂々たる押し出しなのだから、幸四郎だってそのうちそうなるでしょう。だから見掛けのことは別に良いのです。しかし、吉之助の記憶にある昭和55年(1980)6月国立劇場での父上(当時染五郎・37歳)の長兵衛も細身ではあったけれど、もっと気迫があったと思います。要するに、これも肚の問題なのです。

ひとつには幸四郎に限ったことではないですが、「長兵衛内」での子別れに重点を置きすぎるせいです。殺されると分かっていても、水野の誘いを断っては脅しに怖じ気付いたと町奴の名折れになるから、殺されに行ってやろうじゃないかと云う、長兵衛の論理を「恥」の論理だと云う方がいるかも知れませんが、それは全然違います。「恥」の論理と云うのは、ホントは死にたくないけれど、周囲が弱虫と責めるから仕方ないから行ってきます、まったく俺は付いていない男だねえ、トホホ・・という論理なのです。町奴(かぶき者)の論理とは、俺は侍なんぞ怖れてはいないんだ、お上なんぞ怖くはないんだ、死ぬのが怖くて男が張れるか、俺が男であるところを見せてやろうじゃないかと云うものです。捨て鉢に見えますが、根底にあるものは強い自己主張です。これがかぶき的心情です。だから確かに子別れは泣かせ所ですが、町奴の肚があるからワサビが利いたみたいに泣けるわけなので、あくまで湯殿の殺され場がこの芝居の芯であり、ここへ向けて芝居を構築せねばなりません。

もうひとつ本作が明治14年(1881)10月東京春木座・九代目団十郎の初演だと云うことを考えてもらいたいですねえ。本作は黙阿弥の執筆に拠りますが、実は現行本は各所に他人の手が入って黙阿弥が書いたそのままではないのですが、大事な点は、本作が明治10年代、つまり団十郎が演劇改良運動に最も熱を上げていた時期の初演だと云うことです。この時代の団十郎の演技がどのようなものであったかは、別稿「九代目団十郎の活歴を考える」で触れました。この時代の団十郎は、言葉を簡潔に・感情を肚に於いて過剰な演技をしないことを旨としていました。古典歌舞伎ならば「夢であったかあ」と詠嘆調に引き伸ばし・末尾を転がすところを、「・・夢か」と簡潔に言い切る、これがこの時代の団十郎の様式です。同じ時代の作品である以上、「番隨長兵衛」もそこは同じだと心得てもらいたいのです。

例えば村山座舞台で白柄組の侍を諫めて「番隨院長兵衛と云う、けちな野郎でございます」と云う名乗りですが、末尾を七五で割って引き伸ばして転がす、これが黙阿弥の様式だと云うのでは間違いです。こういうところこそ、低くサラリと云う、なおかつ最後を押して云うのです。さらに台詞を言い終わって強い目線で相手を見やりニヤッとして見せても良い。なぜならば名乗りを聞いて相手は「エエッ?」と云って怖じ気付いているわけであるから、ここは相手に短刀を突き付けるように気迫で押す場面だからです。これでこそ明治初期に生まれた、「新しい」感覚の長兵衛に出来ます。幸四郎の長兵衛は、台詞を七五で歌って末尾を詠嘆調で引き伸ばす箇所があちこち見られます。これが長兵衛の印象を柔いものにしています。と云うわけで、幸四郎ももう46歳です、吉之助としては「幸四郎」にどういうイメージを置くか、そろそろ役者としての肚の置き方をしっかり決めてもらいたいですね。

(R1・9・22)


〇令和元年9月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜寺子屋」

二代目吉右衛門の深化した松王

二代目中村吉右衛門(松王丸)、十代目松本幸四郎(武部源蔵)、五代目尾上菊之助(千代)、六代目中村児太郎(戸浪)


吉右衛門が体調不良で中日近くに3日間休演の報にヒヤリとしましたが、幸い吉之助の観劇日までに無事復帰してくれました。この異常気象の連日の暑さでは、誰だって体調おかしくなってしまいますね。ところで言うまでもなく松王は吉右衛門の当たり役ですが、調べてみると吉右衛門が松王を演じるのは平成24年(2012)9月新橋演舞場以来の7年ぶりだそうで、久しぶりのことです。これはちょっと意外でしたが、回(令和元年9月歌舞伎座)の松王を見て、この7年の歳月の吉右衛門の芸の更なる深化を見た気がしました。

これまで吉右衛門の松王と云うと、力強い肚のある松王という印象が吉之助にはありました。だから首実検での緊張感、決まりの場面の形の良さは特に優れたものであって、もちろん今回の松王でも、そこに抜かりはありません。しかし、この7年で吉右衛門が変わったところは、力強さを表面に出すことなく、これを肚に納めて、ごく自然な印象で見せたことです。朴訥とさえ云えるほど太い筆致で描き切ったなかに、深い悲しみが秘められています。この抑えた首実検の演技が、後半、小太郎を身替わりに差し出した真相を語り、源蔵から小太郎の最後の様子を聞いて泣き笑いから大落としになるに至って効いて来るのです。これは確かにドンデン返しに違いないのですが、観客は仕掛けの意外に驚くのではなく、前半を振り返って見た時、「彼が憎まれ役を気取っていたのはアアそう云うことであったか」と一気に腑に落ちる、だから目の前で松王が泣いていることになおさら深く共感出来ます。もらい泣きしているお客が多かったのも、さもありなんです。ですから「寺子屋」一幕を通して見た時、骨太い一貫性を感じさせる松王に仕上がっています。このような松王は芸の長い修行過程を経て初めて成るもので、簡単に真似られるものではないですが、若手役者は「いつかはこんな松王を演じられるようになりたい」と思って見てもらいたいと思います。

そこで幸四郎の源蔵ですが、悪くはない出来ではあるけれども、前半の吉右衛門が自然に抑えた筆致・つまり写実の方向へ持って行っている対照からすると、幸四郎は音楽的にちょっと滑らか過ぎる・或いは優美に過ぎる印象がします。やや様式(時代)の方へ寄った印象がするのは、そのせいです。台詞の末尾が流れ気味なのも、ちょっと気になります。「寺子屋」は四段目切であるから時代物の格ではあるけれど、のどかな田園地帯の芹生の里に醜い政治的な要素がブルドーザーのような轟音を立てて押しかけて来る異様さ、これこそ時代物の本質だと考えます。だから吉之助としては、源蔵は世話を基調にしてもらいたいと思います。今回の吉右衛門のように松王が写実の方に寄っているならばなおさらのことです。芝居のアンサンブルと云うのは、難しいものです。それにしても吉右衛門の松王は、今後の幸四郎にとって大いに示唆のあるものだと思いますよ。

菊之助の千代は控えた演技で目立ちはしないけれども、まさに身体を殺して・その目立たないところが吉右衛門の松王にマッチしています。千代が悲しみを内に押し込んでいる姿が、後半の松王の悲しみにどれだけ寄与しているか分かりません。児太郎の戸浪は幸四郎の源蔵に相応した出来ですが、いろは送りの場面では神妙で良かったと思います。児太郎はめきめき腕を上げていますね。

(R1・10・1)


〇令和元年9月歌舞伎座:「松浦の太鼓」

五代目歌六の松浦侯の風流(ふりゅう)

五代目中村歌六(松浦鎮信)、三代目中村又五郎(大高源吾)、六代目中村東蔵(宝井其角)


今回(令和元年9月歌舞伎座)の「松浦の太鼓」は、当代(五代目)歌六には曽祖父に当たる三代目歌六百回忌追善狂言と銘打たれています。本狂言は明治15年に大阪角座で三代目に当て書きして初演されたものです。以後息子の初代吉右衛門が当たり役としました。吉之助にとっては同じく歌六の息子である十七代目勘三郎・さらに十八代目勘三郎の当たり役として記憶しています。江戸下町を舞台にしていますが、初演が大阪の芝居だと云われれば、なるほどそんなものかなと思うのは、どこか小芝居めいた味わいがするからでしょうかね。気分の変化が激しいけれど、人が良過ぎるお殿様、裏を返せば性格が少々薄っぺらいところがあるわけだけれど、そこが面白い。そこで最後の場面で扇をパッと掲げれば観客をご機嫌な気分に出来る役で、もっぱら役者の愛嬌で見せる芝居と云うイメージが吉之助にもあります。

当代歌六はどちらかと云えば実事・シリアスな役どころを得意とする役者ですが、失礼ながら愛嬌には若干乏しいところがあるので、松浦侯はどんなものかなと思いましたが、これが案外と興味深く見せてくれました。それは松浦侯の、ご機嫌が良くなったと思えば・すぐ悪くなる気分屋の面白さに重点を置くのではなく、永代橋で出会った宝井其角と大高源吾の二人が、「年の背や水の流れと人の身は」という其角の発句に、源吾が「明日待たるるその宝船」と付け句して、吉良邸討ち入りをほのめかしたという逸話(これは実話ではなく後世の創作です)の謎解きと云う、芝居本来の筋にどこか立ち返った趣がしたからかも知れません。

俳諧の連歌というのは、複数の人(座)で句を付け合いながら、ひとつの大きな流れを形成して、これを愉しむものです。重要なことは、前句・前々句の流れを踏まえて、そこに新たな自分の創意を加えて行かなければならないということです。一方で、次の人の付け句の展開の余地を残しておかねばならないので、決して突出してはなりません。古典の知識や「世界」への理解も必要になります。(別稿「台詞はアクションである〜歌舞伎と連歌」を参照ください。)そのような即興性のなかに或る種の演劇性をも備えた高級な言葉の遊戯が、当時の江戸の庶民の間で流行っていたのです。だから其角がフト漏らした源吾の付け句の話に松浦侯がハッと反応するところに、連歌を嗜む松浦侯の風流(ふりゅう)があるわけなので、実はそこにこの芝居の核心があるのです。松浦侯になまじっか愛嬌が過ぎると、そこのところが見え難くなってしまいます。思い返せば十七代目勘三郎もその気配なしとしませんでした。巧いのですけどね。歌六の場合、そこのところの塩梅が意外とよろしいようです。これも歌六のシリアス味が良い方に作用したと云うことだと思います。昨今は忠臣蔵を知らない方が増えているそうで、「松浦の太鼓」などは風前の灯かなと思いましたが、観客の反応を見ると芝居はしっかり伝わっていたようで、少し安堵しました。ただし松浦侯が癇癪でバカバカとやたら云うのはこれはいつもの事ですが、今回の歌六の松浦侯であるならば、そこは思い切ってカットした方が良かったかも知れませんね。

(R1・10・4)


〇令和元年10月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」

四代目梅枝のお嬢吉三

四代目中村梅枝(お嬢吉三)、六代目片岡愛之助(お坊吉三)、四代目尾上松緑(和尚吉三)、五代目中村歌六(土左衛門伝吉)


梅枝のお嬢吉三が、とても良い出来です。吉祥院本堂の欄間からお嬢が顔を出すと客席からホウと云う声が漏れたほどで、古風な横顔が錦画から抜け出たように感じられて黙阿弥の趣向が映えたのは近頃嬉しいことでした。女形のお嬢はどうしても恥じらいが出ると云うか・嫋々した印象に傾き勝ちなものです。しかし、梅枝の場合は、むしろスカッとした開放感があるのが、とても興味深いのです。それは男を見顕わして後の、男と女のバランス感覚が良いからでしょう。女形とは本来性を偽って生きている存在です。だから普段の役柄ではどうしても内に籠った窮屈な気分を強いられるものです。そのような気分から「女形だってたまにはスカッとしたいぜ」と云う悪婆ものの欲求が生じて来ると云う、折口信夫が指摘する意味が、梅枝のお嬢を見るとよく実感出来ると思います。つまりお嬢が醸し出す開放感とは女形役者が本来性である男に回帰することの安心感なのです。大川端での「月も朧に・・」のツラネがちょっと様式を意識してか若干硬い感じがしましたけれど、全体として写実の台詞廻しはバラ描きで心地良く、生き生きしたお嬢吉三に仕上がりました。これならば梅枝が演じる弁天小僧もさぞ良かろうと期待を抱かせます。(別稿「源之助の弁天小僧を想像する」を参照ください。)

対する愛之助のお坊吉三も色気があって、これも良い出来です。大川端では様式を意識し過ぎで台詞を七五に割り気味な感じがありますが、吉祥院以後は持ち直し、梅枝のお嬢との息がピッタリ合って芝居がグッと面白くなりました。このふたりのお嬢とお坊は相性が良く、作中の人になっています。一方、松緑の和尚吉三には少々違和感があります。平成21年2月歌舞伎座(大川端のみの上演)の時とさほど変わらず台詞がテンポ早めのダラダラ調であるので、人物の深味を十分表出できていないきらいがあります。父・伝吉の悪行から始まる因果応報の論理をしっかり受け止めて・これを意志で断ち切る肚の太さが欲しいのです。

歌六の土左衛門伝吉は、悪くない出来です。歌六の伝吉の良い点は、ずっと昔の悪行の報いが今現在も自分を苛み続けていることの恐怖、改心したつもりなのに状況が一向変わらないことの神仏に対する怒り(これは自分自身への怒りでもあるわけですが)を演技で適格に説明して、観客にドラマの骨格をよく理解させた点にあります。本所お竹蔵の場で「その百両を貸してくれ」とお坊に低姿勢で頼んで・断られると態度を豹変させるところの変化など、さすがに上手い。おかげで吉祥院での松緑の和尚が随分やりやすくなったと思います。ただ(これは芸質から来るわけですが)その演技の明解さゆえに、因果応報の底知れぬ重暗しさ(それは幕末江戸の閉塞感にも通じており、三人の吉三郎にも重く覆いかぶさっている重暗しさなのです)を感覚的に実感させるまでには至っていないかも知れません。このような非論理的な感覚が旧時代(江戸時代)の黙阿弥・小団次劇の不条理性に通じるのだろうと思いますが、伝吉を十全に演じるのは、現代に於いてはなかなか至難なことであるかも知れませんねえ。

(R1・10・12)


〇令和元年10月帝国劇場:「ラマンチャの男」

二代目白鸚と「ラ・マンチャの男」

二代目松本白鸚(セルバンテス/ドン・キホーテ)、駒田一(サンチョ)、瀬名じゅん(アルドンザ)


ミュージカル「ラマンチャの男」は1969年4月帝国劇場(当時は六代目染五郎・27歳)で初演され、今年で上演50周年になります。報道では21日が1,300回目の上演だったそうなので、吉之助が見た千秋楽(10月27日)は通算1,305回目ということになります。言うまでもなく二代目白鸚にとってドン・キホーテ(ラマンチャの男)は、弁慶・サリエリ(アマデウス)と並んで三絶とも云うべき重要な役です。別稿「ラマンチャの男1,200回」で白鸚とドン・キホーテの生き方に重なる部分があることを書きましたので、本稿では別のことを書きます。

日本の演劇は月単位での興行が多いようですけれど、欧米ではロングラン公演は珍しいことではありません。おかげでたまに訪れたロンドンやニューヨークで今はすっかり古典になってしまった名作の舞台を思いがけなく目にすることが出来るのは嬉しいことですが、二十年以上も同じ俳優が同じ役を演じ続けているなんてこともあるそうです。日本での「ラマンチャの男」上演はロングラン公演とは違いますがまあ似たようなもので、主演の染五郎(-幸四郎-白鸚)だけが50年固定で、共演者・スタッフをその都度入れ替えながら(あるいは新陳代謝しながら)、基本的な演出を踏襲して・ずっと同じようにやってきたわけです。長く続けていくことは容易なことではありません。新しい人が入って来ても・これを全体のなかにスンナリ組み込める入れ物(システム)がないとロングラン公演は出来ません。この通りにやりさえすれば、悪く云えば何も考えなくても、誰でもピースとしてピッタリはまるマニュアルが整備されているのです。ピースが全体を変えようとしても容易に変えられないほど、それは強固なものです。こうなるとこれを西洋演劇的な概念で「演出」と呼ぶよりも、もはや歌舞伎と同じく「型」と呼んだ方が良さそうです。

欧米の演劇界は何かの作品を上演する時、他人の真似でないもの・独自性(オリジナリティ)を常に要求されますから、それを実現せねばならぬ強迫観念で演出家も役者も少々疲弊気味な感じなきにしもあらずです。そういう時に欧米の演劇人は日本の能狂言や歌舞伎を見て、こんなところに「安心して寄りかかれる壁」があった、こういう芸の在り方があるのかと云う強い衝撃を受けることがあるそうです。白鸚の「ラマンチャの男」の舞台にも、どことなくそう云う感じがあります。これも50年の伝統の重みと云うべきですね。もちろんこれは主役の白鸚だけでなく、共演の役者・スタッフが一致協力して生み出したものです。舞台は1960年代の古き良きミュージカルの感触を湛(たた)えています。(ブロードウェイでの本作初演は1965年。)しかし、古臭さはまったくなく、むしろ久しぶりに懐かしいものに出会った感じさえしますねえ。普段歌舞伎を見る者にとっては、この感覚は安心出来ます。

だから白鸚が演じるドン・キホーテを見ながら・これも通算回数が1,100回を超える白鸚の弁慶が脳裏に重なって来るのも、これはごくごく自然なことなのです。「安心して寄りかかれる壁」のなかで自由自在に動いている心地良さを感じるのです。決められたその段取り・手順さえ今その時生まれたように感じられる。そこにちょっと漂う伝統芸能臭さもまた心地良い。吉之助はドン・キホーテは何回も見てませんが、白鸚の弁慶はもちろんこの四十数年ほどの間機会ある度に見て来ました。歌舞伎でも50年演じ続ければ同じ型でも感触が変っていくように、白鸚の「ラマンチャの男」でもそんなところがあるはずです。これが見ている側の・吉之助の人生にも重なって来るように感じられるから、余計味わい深いのです。

千秋楽のカーテン・コールで白鸚は英語で「見果てぬ夢」を歌ってくれました。日本人で初めてブロードウェイで「ラマンチャの男」主演を勤めたこと(1970年3〜5月マーチンべック劇場)は白鸚にとっても・当時の日本の演劇界にとっても事件と云うべきものでした。英語での「見果てぬ夢」はひときわ身に沁みました。ひとりの俳優がひとつの役をこれだけの人生の長い時間を掛けて創り上げて行くと云うことは、少なくとも歌舞伎以外の世界ではあまりないことだと思います。そう云う役に出会えた白鸚という役者は幸せなことだなあと思います。

(R1・11・8)


〇令和元年11月歌舞伎座:「梅雨小袖昔八丈〜髪結新三」

七代目菊五郎の髪結新三

七代目尾上菊五郎(髪結新三)、五代目中村時蔵(手代忠七)、九代目市川団蔵(弥太五郎源七)、四代目市川左団次(家主長兵衛)他


いろんな役者の髪結新三の舞台を見ましたが、久しぶりの菊五郎の新三は、以前にも増して無理な力が入らない自然な演技で感嘆させられました。例えば白子屋店先で忠七の髪を撫で付ける新三の細かな職人の手捌きに「どうです上手いでしょ」という感じが出る役者が少なくありません。実際この場面では客席から軽い笑いが起きることがあります。もちろん「なかなか上手いもんだなあ」と感心した好意的な笑い声ではありますが。菊五郎の新三であるとそういう笑いは起きません。新三と忠七との会話の呼吸のなかに髪結いの手捌きが自然に溶け込んでいるから、仕草だけが浮き上がって見えることは決してないのです。だから二人の会話の内容がしっかり耳に入って来ます。これは世話物では結構大事なことなのです。

永代橋で忠七を踏み付けて云う新三の長台詞も淡々としていて、菊五郎は時代に・高く強く張り上げることを意識的にしていないようです。芝居っ気が薄いようにさえ感じるほどで、七五のリズムも前面に出ないけれども、押さえるべきツボをきっちり押さえているから、台詞がしっかり写実に聞こえます。技巧よりもドラマが大事にされています。聞いていて実に骨太い造りなのです。このことが芝居全体に筋が一本通った印象を与えているようです。別稿「十代目三津五郎の髪結新三」で触れた通り、白子屋から永代橋・富吉町まで、江戸前の粋な新三と・上総無宿の入墨新三のふたつのイメージをぴったり重ねて通すことは、なかなか難しいものです。しかし、この菊五郎の新三のやり方は、この課題にひとつの解答を与えるものかも知れませんねえ。そもそも菊五郎の新三は本来のところからするといい男過ぎるところがあるかも知れませんが、富吉町の新三内で「入墨新三」の押しを利かせ過ぎないのも、これもひとつの処し方であろうと思います。いろんな役者の新三を見て来ましたが、それぞれに良さがあるものの、三幕六場を通じてこれほど太い一貫性を感じた新三は、菊五郎が一番のような気がしますねえ。新三と家主長兵衛との掛け合いはコミカルさを強調して観客を笑わせる舞台が少なくありませんが、今回の菊五郎と左団次(長兵衛)の組み合わせは会話が淡々として・テンポの小気味良さはあまりないのだけれど、それじゃあ詰まらないかと云うとその逆で、会話の可笑しさが自然に滲み出て来るようです。真世話の芝居の面白さが自然に出て来るのです。ホント上手いものです。

真世話の芝居の面白さと云えば、今回の舞台では共演も適材適所で、全員が菊五郎の新三をよく引き立てています。黙阿弥の世話物は、やはりアンサンブルの良さが決め手です。

(R1・11・16)


〇令和元年11月歌舞伎座:「鬼一法眼三略巻〜菊畑」

莟玉披露の「菊畑」

四代目中村梅玉(奴智恵内)、八代目中村芝翫(鬼一法眼)、初代中村莟玉(梅丸改め)(奴虎蔵)、二代目中村魁春(皆鶴姫)、四代目中村鴈治郎(笠原湛海)他

(初代中村莟玉披露狂言)


今月(11月)歌舞伎座の「菊畑」は、梅丸が梅玉の養子となり・名を改めて初代莟玉となる披露狂言ということです。莟玉(かんぎょく)という名は(最初はどう読むのかと思ったけど)美しく・清々しい響きがする素敵な芸名ですね。今回の莟玉披露の虎蔵も清冽な美しさがあって、初役として十分な出来だと思います。多少硬いところはあるけれど、まだ莟(つぼみ)なのだからそれはそれで良いのです。虎蔵実は牛若丸と云うのは不思議な役だと思います。もちろん美しさ・優美さのイメージは大事なのですが、決してそれだけの役ではないようです。吉之助の記憶のなかには決して忘れられない虎蔵として七代目梅幸・あるいは十七代目勘三郎がありますが、もちろんどちらも最晩年の舞台です。それを思い返すに、それは「千本桜」や「嫩軍記」・「勧進帳」など義経物に共通する「もののあはれ」への共感ということなのですねえ。もちろん莟玉は今の段階ではこれで良いですが、はるか向こうにそういうことをイメージして頑張ってもらいたいですね。そうすれば「勧進帳」の義経だっていずれは自分のものになっていきます。

 ところで今回の「菊畑」ですが、途中に莟玉披露の劇中口上が挟まって芝居が中断されるせいもあると思いますが、見終わると何だか感触がデコボコして収まりが悪い感じがします。個々の役者を眺めるとみんなそれなりの出来なのですが、劇のなかでの役者の相互のバランスがいまひとつである。今回の配役は東西の成駒屋とその親戚で固めているわけで、この面々で役を割り振るならば確かにこうなると思いますが、微妙に役者と役が合っていない印象がして来るのです。例えば芝翫の鬼一法眼ですが、梅玉の智恵内を相手にするとなると、やはり芝翫は智恵内の方が向きで・鬼一はまだちょっと早いと感じられます。芝翫は一生懸命「らしく」勤めようとしていますが、形にとらわれ過ぎて・鬼一の大きさの表出が表層的になっています。端的に云えば肚の問題ということですが、大事なのは、気持ちの揺れ動きを形の上にどう表現していくかと云うことです。肚の大きさというのは、そこから自然に表れるものなのです。芝翫の鬼一は台詞が単調で、上演されないこの次の場(奥庭)で腹を切る覚悟を持つ人物にどうも見えません。「菊畑」後半は三略巻を鬼一から奪わんと焦る虎蔵と智恵内の対話で急速に盛り上がっていかねばならぬわけですが、そのためには(舞台後半にはいない)鬼一がどれだけの存在感(圧迫感)を残してその場を立ち去れるかなのです。そこが十分とは云えません。

一方、梅玉の智恵内も、やることはしっかりしているのだけれど・地味な印象が強くて、どうも智恵内にピッタリはまらない感じです。これは梅玉が演じる七段目の平右衛門への不満とまったく同じことが云えそうです。鬼一に対しても虎蔵に対しても押しがちょっと足らず、智恵内が奥に控え過ぎた印象がします。もちろん梅玉に華がないわけではないのですが、梅と桜あるいは菊の違いということか、花の種類が微妙に違うのでしょうねえ。これは仁によるのかも知れませんが、梅玉にはやはり虎蔵の方が体質的にしっくり来るようです。しかし、今回は莟玉披露の虎蔵が目的であるわけで、それで梅玉は智恵内ということになるわけですが、要するに押してもらいたいと云うことです。そうすれば「菊畑」後半はもっと盛り上がっただろうと思います。魁春の皆鶴姫もやることはしっかりしているのですが、莟玉の虎蔵がスッキリした近代的な味わいですから、その古風な濃厚さが虎蔵と微妙にマッチしません。意外と悪くないのは、鴈治郎の湛海です。

そう云うわけでこの面々で「菊畑」の役を割り振るならば配役は確かにこうなると思いますが、今回の「菊畑」が何だか居心地が悪いのは、これは配役バランスのせいと云えそうです。実際「菊畑」は端場であって、これを「奥庭」へ続けてこそ初めてドラマになるわけで、「菊畑」だけではドラマは完全なものではありません。それだけに「菊畑」は風情・佇(たたず)まいを大切にすべき、現代においてはなかなか難しい演目であると思います。こういう芝居では配役のバランスがとても大切なのです。まあこういうことは、実際やってみて初めて分かることではありますが。

(R1・12・22)


〇令和元年11月28日:東京都内某所・スターウォーズ歌舞伎「煉之介光刃三本」

海老蔵のスターウォーズ歌舞伎

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)「(魁煉之介)他

(映画「スターウォーズ〜スカイウォーカーの夜明け」公開記念イベント)


本年(令和元年)12月に人気映画スターウォーズのシリーズ最終作が封切られる(吉之助は何本か見たと思いますが、全部は見てません)そうで、これに先立って米国のウォルト・ディズニー・カンパニー公認の映画公開記念イベントとして、海老蔵が「スターウォーズ歌舞伎」を一夜限定の特別公演として披露すると云うことで、その模様がYoutubeで世界にライヴ配信されるというので、これを見ました。

正直云えば、「来年の十三代目団十郎襲名披露狂言の発表も未だと云うのに、海老蔵は襲名半年前の忙しい時にこんなことをやっていて良いのだろうか」と云う気持ちが吉之助にないわけではなく、またカイロ・レンが魁煉之介(かいれんのすけ)、ルーク・スカイウォーカーが皇海大陸琉空(すかいおおおかるくう)なんて聞くと、こんなの大真面目にやって歌舞伎を見たことのない若者の失笑を買わないかと云う不安もあって、PC画面を前にして・ライヴ中継始まる前は何だか落ち着かない気分でありました。配信中の視聴者数は最高で1万五千くらい行ったようです。多いのか少ないのか分かりませんが、それだけの方が関心を以てその時間にPC(スマホかも)の前に居たということですね。

スターウォーズ歌舞伎の内容については吉之助にあれこれ書く資格はないと思います。吉之助は「スターウォーズ」をよく知らないので、筋はよく分かりませんでした。芝居と云うよりも、歌舞伎の技法のプレゼンみたいな印象でしたが、まあそれは良い。「これは歌舞伎か否か」なんて論じても無駄なことです。こういうものはショーとして気楽に楽しめば良いのです。吉之助はライヴ配信の画面はもちろんですが、その横で同時に流れていたチャットの画面をずっと横目で眺めていました。「何だこれは・・」とか「つまらない」・「長い」という否定的なコメントがなかったわけではないですが、それは意外と少なくて、むしろ「凄い」・「びっくりした」・「シュールだ」という好意的なコメントが結構多かったのには、安心しました。今の若者の感性は、意外と素直ですねえ。「何だかよく分からないが・いつもと違う面白そうなものをやっているらしい」というところは正しく感じ取っているようです。もちろん最初の歌舞伎体験としてはそれで十分なのです。吉之助が初めて見た歌舞伎は「俊寛」(もう50年近く前のことになろうとしています)でしたが、「何とシュールな幕切れか」という衝撃から吉之助の歌舞伎遍歴も始まったわけです。

「歌舞伎をまだ見たことがない」と云う若いライターの方のスターウォーズ歌舞伎観劇レポートを読みました。(リンクご覧ください)ここまで最大限に好意的な評価をして下さって有難いことです。その感動は、とてもピュアなものだと思います。願わくばそのような感動のなかから「ほんものの歌舞伎なるものを一度見てみようか」と思う方が少しでも多く出てくれば良いなあと思います。だから海老蔵のスターウォーズ歌舞伎は意味がある試みだったと思います。歌舞伎へのお誘いのきっかけに十分なっていると思います。ただし次に歌舞伎座に来てくれた時に彼を再び驚かせることが出来なければ、彼を歌舞伎に繋ぎとめることは出来ません。

様式感覚に裏打ちされた歌舞伎の技法は、それ自体が原初的な・不思議な力を帯びているものです。歌舞伎が初めての人を打ちのめすには、これだけで十分です。と云うよりもその位のことは簡単なことなのです。これが伝統が持つ力と云うものです。スターウォーズ歌舞伎が見せたものは、伝統が持つ「懐の深さ」です。それが見る者の心の底に眠っていた何かを刺激するのです。しかし、その衝撃は決して持続しません。二度目はまったく違う衝撃(「これは意外と奥深いものだぞ・これは腰を据えて歌舞伎を見なきゃならないぞ・その秘密が知りたい」と思わせる新たな衝撃)を与えないことには、彼を歌舞伎に繋ぎとめることは決して出来ないでしょう。彼をホントに歌舞伎に繋ぎとめられるかは、むしろ二度目・三度目の歌舞伎体験に掛かっているのです。最近の若手歌舞伎役者は新作歌舞伎にご熱心ですが、まあそれはそれで結構なことですが、その次の段階として「ほんものの歌舞伎」・つまり古典歌舞伎を益々しっかりやるようにしてして下さい。それが歌舞伎役者の本分なのですから。

(R1・12・3)


〇令和元年12月京都南座:「祇園祭礼信仰記〜金閣寺」

四代目鴈治郎の大膳・初代壱太郎の雪姫

四代目中村鴈治郎(松永大膳)、三代目中村扇雀(此下東吉後に真柴久吉)、初代中村壱太郎(雪姫)、四代目坂田藤十郎(慶寿院尼)、八代目中村芝翫(狩野之介)、六代目片岡愛之助(軍平実は佐藤正清)、二代目中村亀鶴(鬼藤太)他


歌舞伎の「金閣寺」と云うのは、同じ大きさの五つの団子が串に刺してあるような芝居だなあといつも見る度に思うのです。普通良い芝居というものは、団子五つがひとつの芝居の五つのエピソードだとすると、五つの団子がそれぞれ独自の大きさ・重さを持ち、そのなかでひとつの大きなドラマの流れを構築するように構成されるものです。ところが五つの団子がすべて同じ大きさだとすると、発端もないし山場もないし結末部もない、平坦な流れがダラダラと続く印象になる。どうも歌舞伎の「金閣寺」はそう云う感じになりやすいようです。「金閣寺」は雪姫のための芝居かと云うと、どうもそうではなさそうです。それじゃあ東吉の芝居かと云うと、そうとも言い切れない。大膳の芝居でもない。ところが文楽で「金閣寺」を見ると、これはなかなか面白いものです。だから歌舞伎の「金閣寺」はもう少し最終場面に山場を置くつもりで各局面のバランスを再検討してみた方が良さそうです。(同様なことが「妹背山・御殿」についても言えそうです。)それじゃあどうすれば良いかと云うと、配役によっても微妙に変わるし、実際はやってみたいと分からないわけですが。

そう云うわけで、正直に申し上げると今回(令和元年12月京都南座)の「金閣寺」はさほど期待をしないで見たのですが、舞台を見ると意外とまとまりが良くて、結構面白く見ることが出来ました。顔触れ的に小粒な感じがするのは確かですけれども、失礼な言い方ですが小粒は小粒なりに皆それなりに自分の役割を果たしていて、各局面が相応の大きさになって、結果的に芝居のバランスが良い塩梅に収まっていました。だから大舞台というわけでないにしても、それなりに見応えのする舞台になりました。こういうことはやはり実際やってみないと分からないもので、結果論にはなるけれども、今回の「金閣寺」を見ると、配役バランスというのはつくづく大事なことだなあと思いますねえ。ひとつには芝翫以外は上方メンバーで揃っていたこともあってサッパリした感触で整って、芝居がテンポよく運んだからだろうと思います。扇雀の東吉は意外と太いタッチでしたが、堅実なところを見せています。このなかでは東京勢の芝翫の狩野之介だけが重ったるくて若干異質な印象がしますが、まあ出番が短かかったおかげでさほどのことはないですが、同月の平右衛門と同様に、ここでも「らしさ」に頼り過ぎの課題がありそうです。ここでの狩野之介は滔々と流れるドラマのなかでの、一服の風のようでありたいものです。

壱太郎の雪姫は初役でこれだけ出来れば十分ですけれども、まだ段取りに追われる感じがあって、「ハア誠に思い出せしことあれ」で祖父雪舟の爪先鼠の挿話を語り・一心に鼠を描き始める場面では、情念に憑りつかれたように全身がパッと輝くところが欲しいと思います。役の印象の変化が欲しいのです。そうすれば平坦な印象がなくなって良い雪姫に出来ると思います。感心したのは鴈治郎の大膳で、スケールという点で小粒な印象はするものの、ふっくらとした柔らかな色気があるところは、これは確かに和事をやる人ならではの国崩しであるなあと思いました。なるほど国崩しと云う役柄は、肩を怒らせて大声を張り上げるばかりのものではなく(誰とは云わぬが)、このような色気が必要な役柄なのだなあ・それが役の大きさにも通じるのだと云うことを納得させる、これは近頃珍しい大膳でありましたねえ。この方面でも鴈治郎は貴重な役者になるかも知れません。

(R1・12・29)


〇令和元年12月歌舞伎座:「壇浦兜軍記〜阿古屋」・Bプロ

四代目梅枝の阿古屋・五代目玉三郎の阿古屋

四代目中村梅枝(遊君阿古屋)、九代目坂東彦三郎(秩父庄司重忠)、四代目市川九団次(岩永左衛門)

(比較参考)令和元年12月歌舞伎座:「壇浦兜軍記〜阿古屋」・Aプロ
五代目坂東玉三郎(遊君阿古屋)、九代目坂東彦三郎(秩父庄司重忠)、四代目尾上松緑(岩永左衛門)


別稿「平成歌舞伎の31年」で「現状の世代交代は親世代よりも10年くらい遅れているように思われる」と書きました。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代だと、現在の令和の幹部役者は大体30歳辺りでしたが、彼らは数々の大役を比較的早い時期に経験しています。「昔は良かった」とブツクサ云う偏屈老人と思われたくないですが、当時の映像などを見直すと、現在の同年代若手花形は当時の若手と比べて技芸がかなり見劣りすることに愕然とさせられます。時代環境も異なるので一概なことは言えませんが、ひとつの要因はやはり場数(舞台経験)の少なさから来ると思います。いつ演じるか当てがないものを学ぶのは大変なことで、芸の習得にはやはり実際にやってみることが何よりも大事です。これまで表立たなかったものの、歌舞伎の技芸の伝承システムの問題は、これからきっちり検証されねばならぬ事項だと思います。これからの時代は「やってみせ、教えて聞かせ、やらせてみせて、褒めてやらねば、芸は続かぬ」ということです。そう考えると、昨年(平成30年)12月に児太郎と梅枝の二人が難役・阿古屋に挑戦し・玉三郎からの伝授を得て・これをやり遂げたことは、彼らにとって大きな自信になったに違いないですが、阿古屋はもはや玉三郎で芸脈は絶えると半ば覚悟していただけに、我々観客にとっても嬉しい事件でした。さらにその一年後に再演とは、玉三郎もアフターケアの配慮が随分行き届いたことです。

昨年12月の阿古屋初演では吉之助は児太郎の舞台を見て・残念ながら梅枝が見られなかったので、今回は梅枝の舞台を拝見しました。再演と云うこともありますが、花道から登場した姿が映えて立女形の風格さえ漂わせてなかなかのものです。児太郎のどこか近代的なスッキリした味わいも素敵ですが、梅枝の古風なぼんじゃりとした味わいも魅力的で、どちらもそれぞれの個性を発揮した良い阿古屋を見せてくれたと思います。今年の梅枝の舞台のなかでは本年10月歌舞伎座のお嬢吉三が印象に強く残っていますが、サッパリ系の明るい印象の若い女形が多いなかで、梅枝のどこか暗く湿った憂いを帯びた古風な感触は大変貴重で、これに自信を得てさらなる飛躍を期待したいと思います。

ところで「形は派手に、気は萎れ」という有名な詞章は、阿古屋の性根をよく表わすものです。「形は派手に」と云うのは廓での華美な衣裳で問注所の白洲へ押し掛けると云う、かぶき者・反権力のピーンと尖った感覚を示してします。もう一方の「しをり」は、人の感情が滲み出た・しみじみとした情趣のことを云います。つまり、しなっと打ち萎れた感覚です。このふたつは印象としては相反するものです。硬と軟あるいは強と弱、そのような相反する感覚の狭間での揺れ動きに阿古屋の性根があるわけです。そのどちらの感覚に傾斜するかは役者の芸風によっても違うし、また役を演じる年代によっても変化して行くものです。そこが芸の面白さです。

吉之助の記憶では、玉三郎の阿古屋はかつては凛とした印象が強かったと思います。「形は派手に」というところが強く出た阿古屋でした。しかし、今回(令和元年12月歌舞伎座)では、玉三郎はかつてよりも「気は萎れ」、つまり情感の表出へ傾斜した印象に見受けました。三曲の演奏・特に胡弓は濃厚に感情を込めて見事であったと思いますが、重忠との対話では声にどこか打ち萎れた印象がしてハッとさせられるところがありました。「打ち萎れた」と云うのは弱々しい印象にも通じるので、「玉三郎も歳を取ったなあ」とチラッと感じたことも事実ですが、これをネガティヴに受け取るつもりは全然ありません。吉之助も玉三郎の初役の阿古屋(平成9年1月国立劇場)から見ていますから、歳を取ったのはお互い様です。歳を取ったら取ったなりの実のある芸を見せれば、それでよろしいのです。打ち萎れた印象は、景清への・そこはかとない情感を表現するもの受け取っています。しかし、玉三郎は当年69歳8か月ですが、六代目歌右衛門が最後に阿古屋を演じたのが69歳3か月(昭和61年4月大阪・新歌舞伎座)のことですから、阿古屋に関してはもう歌右衛門を越えてしまったわけです。そういうところに玉三郎が来ていることも事実なので、「気は萎れ」の印象に傾斜した今回・千秋楽の阿古屋には、何だか吉之助もしみじみした気分にさせられましたねえ

(R1・12・31)


〇令和2年1月歌舞伎座:「天衣紛上野初花〜河内山」

二代目白鸚の河内山

二代目松本白鸚(河内山宗俊)、八代目中村芝翫(松江出雲守)、五代目中村歌六(高木小左衛門)、三代目松本錦吾(北村大膳)他


松江邸白書院での白鸚の僧道海(実は河内山)は淡々とした芝居に感じられます。今回(令和2年1月歌舞伎座)は前場の上州屋質店が出ませんし、玄関先で正体がバレるところを芝居の山場とするので前半を抑えたことは、まあ理解出来ます。その分・玄関先を振幅大きく決めたいところでしょうが、しかし、肝心の玄関先での見顕わしの長台詞がいただけません。白鸚の河内山は何度か見ましたが、今回は手慣れ過ぎたか、かなり崩れた様式不明の台詞廻しです。

まず「ええ、仰々しい静かにしろ。こういう剽軽者に出られちゃあ仕方がねえ・・」という前口上は世話で写実に言うのは、ここはこれで良い。さあ名調子が始まるぞと期待させます。ところが「悪に強きは善にもと、世の例えにもいう通り・・」の出だしはテンポ早めで世話なのが、だんだん台詞が進むにつれてテンポが次第に伸びて来て、「衣でしがを忍ぶが岡」でズルズルと長く引っ張る(ここは完全に大時代に粘る歌いまわし)、ところが一転して「神の御末の一品親王」で元の早めのテンポに戻り、それがまた進むにつれてテンポが伸びて行き、「仕掛けた仕事のいわく窓」で大時代に長く引っ張る、そして「家中一統白壁と・・」でまた早いテンポに戻る・・と云う具合で、根底は七五のダラダラ調ですが、長台詞のなかに世話と大時代の大きなうねりのような揺り返しがあって、台詞が大きく伸びたり縮んだりを繰り返すと云う、まことに変わった台詞廻しなのです。何を根拠にこう云う言い廻しになるのか、教えていただきたいですねえ。これが自在の台詞廻しと云えるならば・それはそれで良いのかも知れませんが、何だか大波で揺れる大船の甲板で音楽を聴く気分で、聴いているこちらの三半規管が落ち着かない。

黙阿弥の七五調の台詞は七が早くて・五が遅く・ごくわずかな緩急を繰り返す様式(別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」を参照のこと)ですが、河内山の長台詞は同じ黙阿弥の七五調でも、厄払いの様式性を帯びた弁天小僧の長台詞よりも、写実性が強いものだと云えると思います。本作の河内山は明治14年(1881)・まさに活歴物の最盛期に九代目団十郎によって初演されていることも、ちょっと頭に置いて欲しいと思います。ですから河内山のこの台詞は、全体としては写実に・やや早めに小気味良く決めた方が良いでしょう。このような長台詞に観客が期待することは、何よりもリズムの小気味良さ、役者の台詞が自分が予想する通りの軌跡を描いて流れて行くことの心地良さなのですから、リズムが落ちるところに落ちてくれないとカタルシスが得られません。決めるべきところは、しっかり決めていただきたいと思います。

(R2・2・4)


〇令和2年1月歌舞伎座:「鰯売恋曳網」

六代目勘九郎の鰯売猿源氏

六代目中村勘九郎(鰯売猿源氏)、二代目中村七之助(傾城蛍火)、六代目中村東蔵(海老名なむあみだぶつ)、六代目市川男女蔵(博労六左衛門)他


昨年は勘九郎が大河ドラマに出演で歌舞伎の舞台から遠ざかり、今回(令和2年1月)が久々の歌舞伎座出演ということです。昨今は歌舞伎の世代交代への動きが一段と活発ですから、この時期の長期のブランクは勘九郎にとって気が気でなかっただろうと思いますけど、まっそれは兎も角、復帰となって・これからの精進に期待したいと思います。

ところで勘九郎の「鰯売恋曳網」は、東京では平成26年(2014)10月歌舞伎座・父である十八代目勘三郎三回忌追善興行以来のことです。故・勘三郎の記憶がまだまだ生々しい時期でありました。吉之助はこの時の舞台を見ましたが、これはまったく父親の完全コピーみたいな猿源氏でした。その意味ではなかなか頑張っていたし、客席は湧いていましたが、超人気者であった父親の呪縛は大変なものだと思ったことでした。この時期の観客は二人の遺児(勘九郎・七之助)を応援したい気持ちがいっぱいであったし、だから自然と父のイメージの再現を勘九郎に期待します。興行サイド(松竹)も、そう云う思惑で演目を組みます。父の当たり役(もしかしたら猿源氏は十本指に入るかも)を演じるとなれば、勘九郎もかなりのプレッシャーがあったに違いありません。だから猿源氏が父そっくりになることは或る時期仕方のないことですが、勘九郎はしばらく何の役を演じても・どこかしら父の面影がチラついて・もどかしい印象がありました。吉之助が思うには、十八代目勘三郎と勘九郎は親子だから当然いろんな場面でフッと父親を思い出させる場面(特に声ですねえ)があるわけだけれども、勘九郎は父親よりも生真面目な印象が強くて、芸質としては実事向きであるでしょう。ですから父親とは異なる中村屋の新たな領域へ芸の開拓を目指した方が良いとかねがね感じていたところです。そんなわけで今回の約6年ぶりの「鰯売」と聞いた時には、また父親の完コピにならないかと心配しましたが、それは杞憂に終わって、今回は父親の呪縛から脱して自分なりの猿源氏が作れていたと思います。この点が顕著な変化で、これからの勘九郎の変貌を大いに期待させるものとなりました。

十八代目勘三郎襲名披露の「鰯売」の舞台(平成17年・2005・3月歌舞伎座)を思い出しますが、客席は沸きに沸いていましたが、喜劇と云うより笑劇のイメージでした。この時吉之助の前の座席に座ったオバさんはけたたましく大声で笑って・拍手して、時折口を開けたままガバッとのけぞる、後ろの吉之助には喉の奥まで見えそうで恐れ入りました。要するに今風の漫才コントの芸なのです。三島由紀夫は「鰯売」初演(昭和29年11月歌舞伎座・十七代目勘三郎による)の出来にご不満だったようで、後の座談会で「僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。そいつを隠してくれるのが役者だと思っているのに、向こうは逆に考えていて、ここは隠してほしいというところが彼らにとっての手掛かりになるんだな」 と語っています。十八代目勘三郎の猿源氏は、十七代目に輪をかけた、「鰯売」の笑えそうな箇所・つまり三島が隠してほしいと思っている箇所をほじくり返して・それをいちいち拡大して見せたような猿源氏でした。あの猿源氏ならば、三島は決して認めなかったと思います。

一方、今回(令和2年1月歌舞伎座)の勘九郎の猿源氏は、これはもはや父親の真似ではなく、ちゃんと勘九郎の猿源氏になっていました。あの時に吉之助がちょっと嫌だなと感じたところ・つまり父親の呪縛が抜け落ちて、素朴な味わいの猿源氏に仕上がりました。ここでは勘九郎の生真面目な芸風がよく生きています。例えば猿源氏が傾城蛍火の前で必死で演じる魚尽くしの戦物語では、真面目に演じているから時代物の「物語」の骨格がしっかり見える、だから魚尽くしの戦物語のクスッと笑える面白さが自然に立ち現れるということなのです。もしかしたら父親の猿源氏と比べて地味で面白みに欠けると不満を云う方がいるかと思いますが、これで良いのです。この勘九郎の猿源氏ならば、三島もまあ満足すると思います。これを契機にブランク取り戻して頑張ってもらいたいですね。

七之助の傾城蛍火は悪くはないですが、こちらは若干注文を付けたいと思います。玉三郎の蛍火の呪縛を引きずっているようです。勘九郎の猿源氏が粘らず軽みのあるテンポで演技しているのに芝居の感触が異なる印象がします。七之助の蛍火だけでなく、笑也・笑三郎以下女形陣が重ったるくなる(特に台詞が)のは、とうが立った幕末歌舞伎の女形のテクニックで処理しているからです。「鰯売」で三島が想定しているのはそれよりもずっと以前の歌舞伎の感触なのですから、もっと素朴に・軽みを以て処理してもらいたいのです。東蔵の海老名なむあみだぶつ・男女蔵の六郎左衛門は、勘九郎の猿源氏と息が合ってよく出来ました。

(R2・1・14)


 〇令和2年2月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜加茂堤」

六代目勘九郎の桜丸・初代孝太郎の八重

六代目中村勘九郎(桜丸)、初代片岡孝太郎(八重)、五代目中村米吉(斎世親王)、初代片岡千之助(苅屋姫)他


「加茂堤」はうららかな早春の一時(ひととき)。歌舞伎では省かれますが、「加茂堤」冒頭では松王・梅王が仲良く並んでうたた寝しています。醍醐帝病気の平癒祈願のため、今日は丞相、時平、斎世親王、全員が加茂神社に来ているのです。牛飼舎人の彼らにとって、主人が参拝している間が休息時間です。この仲の良い兄弟が敵味方となって反目し合うなんてことは、夢にも想像が出来ません。しかし、穏やかな春の日差しは暖かいけれど、顔を撫でる風はまだ冬の冷気を残してひんやり冷たい。そして春は、天候がコロコロ変りやすい。あんなに暖かだったのが一天にわかにかき曇り、急に雨が降り出したりするものです。「加茂堤」の春の日も、そういう日なのです。桜丸夫婦は斎世親王と苅屋姫を手引きして、シメシメ上手く行ったと喜んでいます。ところが現場を時平の家来三善清行に見つけられたことから、事態が一変するのです。左大臣菅丞相失脚という・予想もしなかった疑獄事件にまで発展してしまいます。原因を作ってしまったことを悔いて桜丸は後段「佐太村(賀の祝)」で切腹して果てることになります。

「加茂堤」を見る時、以上のことを押さえておきたいと思います。「加茂堤」は二組のカップルのほのぼのした色模様を見せて、立ち廻りもあり、コミカルな味わいの場に見えるかも知れませんが、後段のことを思えば、伏線として決しておろそかに出来ない大事の場なのです。これが「うららかな春の日」と云うことの意味です。ですから桜丸・八重の夫婦は、ふっくらとした美しさのなかに・どこか暗い不幸の翳が差している、そういう感じが欲しいのです。つまりもうすぐ散ってしまう花の儚いイメージです。ここは「佐太村」と同様に考えて欲しいと思います。

今回(令和2年2月歌舞伎座)の「菅原」半通しの「加茂堤」ですが、孝太郎の八重にはそのような感じが確かにあります。バランスが取れた良い八重ですね。一方、勘九郎の桜丸は、さっぱりとしたコミカルな印象がします。恋の取り持ちをする「真夏の夜の夢」の妖精パックみたいな軽い感じかな。まあそう云う側面もあるかも知れませんがね。まず登場した時の足取りが腰高に見えるのが、ちょっと気になります。台詞も高調子気味ですねえ。だからカラりと明るい感触の桜丸になってしまいました。これでもし後に「佐太村」が続くとしたら、この桜丸で一貫できるでしょうか?そういうことも考えてみて欲しいのです。憂いが強過ぎてはいけませんが、ここで引き起こした事の重大さが一番分かっているのは、桜丸なのではないでしょうか。

(R2・2・10)


〇令和2年2月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜筆法伝授・道明寺」

十五代目仁左衛門の菅丞相・五代目玉三郎の覚寿

十五代目片岡仁左衛門(菅丞相)、五代目坂東玉三郎(覚寿)、初代片岡孝太郎(立田の前)、初代片岡千之助(苅屋姫)、初代坂東弥十郎(宿禰太郎)、五代目中村歌六(土師兵衛)、八代目中村芝翫(判官代輝国)、四代目中村梅玉(武部源蔵)、五代目中村時蔵(戸浪)他


令和2年2月歌舞伎座「菅原」半通しは「筆法伝授」の出来が良く、「道明寺」がそれに次ぐ出来という感じでしょうか。「筆法伝授」は場面が細かく分かれるし・劇的なシーンがあるわけでもないけれど、舞台が引き締まって見えたのは、仁左衛門の丞相の優美さと梅玉の源蔵の実直さの対照がよく効いて、橘太郎の希世以下周囲も頑張って小気味良く芝居が運んだからです。バランスが良い出来でありましたね。

「道明寺」での仁左衛門の丞相はその気品と云い・優美さと云い、申し分ない出来です。吉之助の記憶には、「神品」とさえ云われた先々代(十三代目)仁左衛門の丞相の姿が今もはっきり刻まれていますが、当代仁左衛門の丞相は先々代に比肩する出来であると思います。吉之助は当代の丞相を見ながら先々代の口跡なども思い出しました。敢えて比べるならば、優美さにおいて当代の方が勝り、実直さ・素朴さにおいては先々代が際立つとも云えそうです。「道明寺」での「鳴けばこそ・・」の御歌では当代の台詞は流れるように滑らか、そこに丞相の神性が表れています。先々代の口跡はもう少し人間丞相・現人神としての丞相の方に寄っていたかなと思いますが、まあ印象のちょっとした差に過ぎず、そこは甲乙をつけ難い。

しかし、一点だけ申し上げておきたいと思うのは、「道明寺」幕切れの丞相名残りの足取りのことです。当代の丞相は足取りがスッスッと前に行く感じがしますねえ。床(義太夫)のテンポより丞相が先に行っているように思われます。吉之助の目には、あっと思うと丞相が先へ行っていた瞬間が二度ほどありました。ここは先々代の方が良かったと思いますねえ。丞相名残りは、後ろ髪を引かれる思いのなかで歩みを進めるものです。当代の丞相は前に進む気持ちが若干勝っていたように感じます。これは千之助の苅屋姫が身体を丞相の方へ押して行かないせいもありますが、苅屋姫が押すと丞相は一瞬身体を引き・一瞬の躊躇があって・視線を反らしつつ向きを変え・また足取りを進める、当代の丞相の足取りに、もう少し一瞬のタメが欲しいのです。そうすれば別れの哀切が増すことでしょう。

玉三郎の覚寿は平成22年(2010)3月歌舞伎座建て替えのさよなら公演の時が初役で今回が二回目になります。前回は初役で・しかも玉三郎にとって意外の老け役と云うことも意識して、役に対する気構えも普段と違っていただろうと思います。腰を落として背を低めていたし、台詞のトーンもいつもより低めに取っていたと記憶します。しかし、今回の再演では、初役の時の緊張感が乏しいように感じます。例えば奥の間からの「不幸者、どつちへ行く」の第一声、襖が開いた瞬間の姿に、若干の違和感を覚えます。しかし、まあ現実には声が高くて背がしゃんと伸びたお婆さんもいるわけですからそこはそことして見ることにしますが、玉三郎の覚寿は理が先立つように感じますねえ。性根としては正しいのかも知れませんが、何だか「立田殺しと木像の謎」事件推理のような感じに見えてしまうのです。この段は「道明寺縁起」の見立てなのですから、覚寿が自らの髻を切り落として言う「初孫を見る迄と、たばひ過した恥白髪。孫は得見いで憂き目を見る。娘が菩提。逆縁ながら弔ふこの尼」と云う台詞が大事だと思います。「道明寺」は覚寿の悲劇でもあるのです。

芝翫の輝国はこういう役は芝翫のニンにぴったりだけれど、覚寿が「輝国殿、目利きなされて下され」と頼んでいるのだから、あっちゃ向いてないで、上手障子内の丞相と下手の輿内の木像を見比べて「呆れ果てたるばかりなり」でオオッと驚き入るくらいの演技はしてもらいたいですねえ。輝国は道明寺の木像身替わりの奇跡を語り継ぐべき証人なのですから。

(R2・2・17)


〇令和2年3月歌舞伎座:「高坏」

松羽目物のテンポ感覚

十代目松本幸四郎(次郎冠者)、二代目中村亀鶴(高足売)、八代目大谷友右衛門(大名何某)、三代目大谷廣太郎(太郎冠者)

(新型コロナ防止対策による無観客上演)


本稿で取り上げるのは、令和2年(2020)3月歌舞伎座での舞踊「高坏」の無観客上演舞台の映像です。「高坏」は、昭和8年(1933)東京劇場での六代目菊五郎の太郎冠者により初演されました。当時流行したタップダンスを踊りのなかに取り入れて、一見すると松羽目舞踊の仕立てですが、実は歌舞伎オリジナルです。背景の松羽目が桜に置き換わっているのは多分その申し訳でしょう。しかし、春風駘蕩たる気分のこの舞踊には桜の背景がよく似合います。

そう云うわけで「高坏」は狂言ダネではないのですが、意図して松羽目舞踊の様式を模しているわけですから、ここはむしろ大真面目に狂言の品格を以て演じてもらいたいのです。近年の歌舞伎の松羽目の舞台はどうも本行に対するリスペクトが足りなくて、笑いが生(なま)なのが多い。今回(令和2年3月歌舞伎座)の幸四郎の太郎冠者による「高坏」も例外ではありません。狂言の笑いと云うものは「イデ笑おう、ワハハ・・」という大らかな笑い・おかしみなのですから、足取りにも会話にも、ゆったりした間合いが欲しいのです。狂言の様式を表面的に取っているだけで、狂言の間合い・つまり息の取り方の根本的なところが分かっていないなあと感じます。感触がサッパリとし過ぎるのです。相手の演技をもう少し余裕を以て受ける、もっとリズムを深く打ち込む、そのような意識が必要です。それはホントに0.1秒になるかならないくらいの・ほんのちょっとの差です。だけどそのちょっとの差で舞台にゆったりした気分が生じて来ます。そこの違いが分かって欲しいと思います。逆に云えば、そのほんのちょっとの息を持ち切れていない(息が浅い)ということなのです。

 現代人の生活はいろんな雑事に日々分刻みで追われて気忙しく、どうしても呼吸が浅くなりがちなものです。そのような日常を送っている現代の観客に、息を深くとることの大切さ、我々が生活のなかで元々持っていたはずの人間的な生活リズムに気付かせてくれるのが、現代が伝統芸能に求める最重要の役割であると認識してもらいたいと思うのですがねえ。現代人が古典に接することの意味がそこにあるのです。そのためには伝統芸能者(歌舞伎役者)自身が息の深さを体現出来なくてはなりません。それにしても伝統芸能者も現代に生きていますから、必然的に現代のテンポ感覚に影響を受けざるを得ないわけで、意識して息の深さを思い出す努力をしないと、どんどん古典の規格が崩れて行くことになります。歌舞伎の舞台を見て、そのような危うさを感じることが多い昨今です。

テンポ感覚の問題は役者だけのことではありません。今回の「高坏」は舞踊ですから、全体の流れを支配する地方(長唄)の責任もとても大きいです。長唄のテンポが早い感じでセカセカして聞こえます。このテンポでは春風駘蕩たる気分にさせてくれません。何だか後ろから煽られる気分がしますねえ。この早いテンポは役者からの要請から来るのか、長唄連中の方々は本当にこのテンポで良しと感じているのか、そこのところを問いたいですねえ。吉之助の感覚では、今回の上演時間はほぼ30分ですが、これは本来34・5分で上げるくらいでちょうど良いのではないかと思います。つまり10〜15%ほどテンポが早い感じなのです。本作の呼び物である太郎冠者のタップも、この早いテンポで幸四郎がタップを綺麗に踏めているならば見事なものですが、残念ながらタップのリズムがまくれています。綺麗にタップを踏めないのならばテンポを落とせばいいだけのことです。テンポをちょっと落とせば、全体の踊りの振りも余裕を以てもっと大きく踊れるはずです。そうすれば舞台の感触がずいぶん変わって来ると思うのですがね。

(R2・5・6)


〇令和2年11月国立劇場:「彦山権現誓助剣・杉坂墓所〜毛谷村」

十五代目仁左衛門・初代孝太郎の「毛谷村」

十五代目片岡仁左衛門(毛谷村六助)、初代片岡孝太郎(お園)、初代坂東弥十郎(微塵弾正実は京極内匠)、六代目中村東蔵(一味斎後室お幸)


仁左衛門の六助は、平成28年4月歌舞伎座以来のことで、東京では二度目になります。前回の仁左衛門の六助については、やや辛目に書きました。仁左衛門が六助の人柄を良さを出そうとする意図か、台詞の調子(キー)を明るく高く取っているせいです。今回も杉坂墓所(はかしょ)を含めて前半がどうも落ち着きません。仁左衛門の台詞が高調子なのは、これは持ち味と云うべきですが、義太夫狂言では必ずしも向きとは申せません。三味線の導くところに合わせて・もう少し声の調子を低く取らないと、特に世話場では感触が水っぽくなります。

それとこれは六助だけのことではないですが、前半が全体の段取りが心なしか慌ただしく急いた感じなのは何故ですかねえ。鄙びた田舎での出来事なのですから、もう少しゆったりとした芝居を心掛けてもらいたいものです。前半は六助にとって解せぬことが次々起こりますが、そこを六助は「まっええわい」という感じでゆったり受ける、それで六助の大きさが出るのでしょう。「毛谷村」で芝居のテンポが早くなるのは、六助が微塵弾正の企みに気付いて本気で怒って以後のことです。そこまでの芝居の段取りはもっとゆったりと、ゆったりと。

しかし、仁左衛門の六助は、お園が登場して以降は持ち直しました。これは孝太郎のお園との声のバランスを意識して、仁左衛門が台詞の調子を低く抑えたからでしょう。前半と比べると後半の六助は、はるかに台詞が聞きやすくなりました。でんでん太鼓を打ちながらの物語も落ち着いて、ここは前回(平成28年)よりもずっと良い出来になりました。これをみても義太夫狂言では台詞の調子を低めに抑えることが大事なのが分かると思います。芝居の上手い方ですから、幕切れはカッコよく締めてくれます。それだけに前半の出来がちょっと惜しかったですね。

孝太郎のお園は、前回(平成28年)も良い出来でしたけれど、今回はカラミを使ったクドキの出来が一段と良くなりました。(これはカラミを勤めたやゑ亮のおかげでもあります。)お園がクドキで語る内容は、敵(かたき)に父が討たれ・妹も返り討ちにあったという経緯を語る悲惨なものです。そんな愁嘆をカラミを使って華やかに女武道を見せながら語るわけで、形態的にはまことに歪(ひず)んだ手法なのです。と同時に怪力の女が愁嘆を語りながら大の男を手玉に取って弄ぶ、そこが滑稽で愉快な場面でもあるのです。今回のお園のクドキの場面では、コロナ対策でそう大きくはなかったけれど、女性客のクスッと笑う声が各所で聞こえました。確かにこの場面はそうやって笑って見るべき場面だなと思います。今回の「毛谷村」では、ここが一番愉しかったですね。

孝太郎のお園は七代目芝翫から習ったそうですが、よく頑張っていたと思います。ちょっと付け加えると花道の虚無僧姿でのお園の出では、もっと外股に思い切って「男」を出しても良いかな。弥三松の着物が掛かっているのを見る時にチラッと「娘」を見せて、またサッと「男」に戻す、そこのところの息が芝翫のお園は鮮やかであったと思います。

(R2・11・12)


〇令和2年11月歌舞伎座:「身替座禅」

七代目菊五郎の山蔭右京

七代目尾上菊五郎(山蔭右京)、四代目市川左団次(奥方玉の井)他


明治以降に出来た松羽目舞踊には能狂言の品格を是非とも手に入れたかった歌舞伎の憧れがあるということは、吉之助が常々言っていることです。だから松羽目舞踊には、本行のリスペクトが必要です。しかし、歌舞伎は狂言よりも表現がずっと写実(リアル)の方へ寄っている芸能です。したがって松羽目舞踊の笑いは狂言よりも生(なま)で下世話な方向へ向かいやすいもので、まあそこに歌舞伎の特性があると言うことも出来るでしょう。それがイヤならばオリジナルの狂言を見れば良いことで、世話でなければ歌舞伎にする意味がないと云う意見もあると思います。まあそれも一理あるわけですが、正しくは本行(すなわち品格・高尚さ)へ向かうベクトル、すなわち歌舞伎(すなわち写実・世話)へ向かうベクトルが緊張感を以て釣り合うことが理想だろうと思います。

「身替座禅」は六代目菊五郎(山蔭右京)と七代目三津五郎(奥方玉の井)の組み合わせにより、明治43年 (1910)3月に二長町・市村座で初演されたものですが、このことは当時の世界的な芸術思潮であった新古典主義からも裏付けが出来るだろうと思います。六代目菊五郎や七代目三津五郎がそういう美学を学んでいたということではなく(多分そういうことはなかったでしょう)、それがこの時代のセンスとして当たり前のように在ったものなのです。ここから松羽目舞踊の成り立ちを考えることも出来ます。またここから更にこの時代の芸の在り方・型の概念ということまで広げて論じることも出来ますが、ここでは止めておきます。本稿では、本行の規範を維持しつつ、歌舞伎の特性としての写実をどう打ち出すかということの、そこの兼ね合いと緊張が大事であるということだけ言っておきます。

しかも「身替座禅」は題材が浮気(不倫)であるから、花子との逢瀬から戻る花道の「うつつの出」で、山蔭右京がウッフと思い出し笑いすると感覚がどうしても下ネタ的になりやすい。十七代目勘三郎の右京でもそこは危ういところはありましたが、愛嬌が勝つ人でしたから・そこで救われていました。息子の十八代目勘三郎の右京は明らかに笑いを取る方向でしたが、まあこれは若いとどうしてもこうなってしまいます。年取ってからの十八代目の右京を見たかったものですが、もうこれは言っても仕方がないことだが、芸というのは難しいものです。

そこで今回(令和2年11月歌舞伎座)の「身替座禅」の七代目菊五郎ですが、いい塩梅に脂っ気が抜けた山蔭右京に仕上がっていて感心しました。笑いを取るならいくらでも取れるが、そこを敢えてしないというところに、松羽目舞踊のセンスがあるのです。そうすることで素材自体がもつ・大らかな笑いの味わいが滲み出てくるのです。菊五郎の右京も、若い頃からこうだったわけではありません。それが長い時間をかけた芸の道程から生まれたものであることを吉之助は知っています。左団次の玉の井はいかつい風貌は持前のこととして、太い声で威圧の風を見せるところはもう少し抑えても良さそうですが、座禅襖(ざぜんぶすま)を被っで「そんなら何と言やる、殿様のように見ゆるかや」と言って微笑む辺りはいい塩梅でありましたね。

(R2・12・2)


〇令和2年11月歌舞伎座:「一條大蔵譚」

コロナ禍の大蔵卿

二代目松本白鸚(一條大蔵長成)、二代目中村魁春(常盤御前)、八代目中村芝翫(吉岡鬼次郎)、初代中村壱太郎(お京)他


顔見世大歌舞伎・第3部の「一條大蔵譚」は、コロナ仕様で「上演時間を1時間前後に収める」という自主ルールに則り、舞台は桧垣茶屋を付けず、奥殿のみの上演です。(上演時間51分)二代目白鸚の大蔵卿については前回(平成31年1月歌舞伎座)の観劇随想を参照いただきたいですが、大蔵卿は正気と阿呆を巧みに交錯させる技巧的な役と云うイメージが吉之助にも強かったのです(もちろんそれもこの役の一面には違いありません)が、大蔵卿の「物語」での白鸚は、阿呆を偽りと明かした後は細工を弄することはもはや虚しいと云うが如くに、正気と阿呆の性根の落差をあまり付けず骨太いタッチで押し通して、大蔵卿が正しく時代物の主人公であると再認識させるもので、吉之助もこれには驚かされました。今回も「物語」は素晴らしい出来です。

それにしても桧垣茶屋で阿呆の場面を見せず、奥殿で大蔵卿が登場して・いきなり本心を明かしたのでは、ほとんど「大蔵譚」の趣向は機能しませんね。これは例えば「七段目」で前半の酔態の由良助を出さず・後半のお軽と平右衛門が出合う場面から芝居を始めて済ませたようなもので、これでは由良助が登場して仇討ちの本心を叫んでも、「やつし」のドラマとして形を成しません。「大蔵譚」でも同じことです。実は今回のような奥殿のみの上演はコロナの為の例外的処置ということではなく、演目が建て込んで時間割が混む時にたまに有ることで、思い起こせば現・五代目歌六襲名披露(昭和56年・1981・6月歌舞伎座)の「大蔵譚」も奥殿のみの上演でした。こういう端折り方が出来るのが融通無碍(ゆうずうむげ)な歌舞伎の柔軟性だと松竹は思っているみたいですが、こういうやり方を当たり前のことのようにしていると、観客はどんどん歌舞伎から離れて行きますよと申し上げたいですねえ。それは観客にとっても、一生懸命勤めている役者さんにも失礼なことです。コロナ禍ではこの形でしか上演できないと云うならば、いっそのこと「大蔵譚」は取り上げない方が良い。

というわけで奥殿のみの上演はいただけませんが、切り取られた名場面だと思って見ることにすれば、舞台はそれなりの重量感を示しています。魁春の常盤御前は濃厚で、こういう古風な味わいは今どき貴重です。強いて言えば、もう少し台詞のテンポを速めにした方がなお良いかも。どうしても大蔵卿のドラマの方に目が行ってしまいますが、世間からは不義者と嘲られていた常盤が実は貞女だったというところもこの芝居のもうひとつのドンデン返しであるのです。常盤の心底を見極めたうえで、改めて大蔵卿が常盤を妻として受け入れる場であるわけです。

芝翫の鬼次郎はもう少し輪郭をシェープして欲しいところはありますが、こういう時代物では「らしさ」を心得ているところはさすがではある。壱太郎のお京はこの顔触れのなかで浮き上がらず、芝居の枠にぴったり納まっていたのは感心しました。

(R2・12・3)


 

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