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「歌舞伎素人講釈」観劇断想・5  (令和元年〜    )

*観劇随想のうち単発の記事にならない分量の断片をまとめたものです。
記事は上演年代順に並んでいます。


○令和元年5月歌舞伎座:「京鹿子娘道成寺」

五代目菊之助・令和最初の「娘道成寺」

五代目尾上菊之助(白拍子花子)


菊之助が歌舞伎座で「娘道成寺」を踊るのは、これが初めてだそうです。果たして期待通り、素晴らしい踊りを見せてくれました。かつきりと折り目正しい踊りと云う印象には、どこか祖父・七代目梅幸に通じるところがあります。梅幸はふっくらした味わいがしましたが、菊之助の場合はもう少し理智的と云うか・怜悧な美しさがしますが、これもまた良しです。踊りの色の変わり目をきっちり見せています。だからついつい時を忘れて踊りに引き込まれて、次々と場面が展開していく流れが実に愉しいのです。こういう愉しい「娘道成寺」はずいぶん久しぶりだなと思いました。

吉之助は十代目三津五郎の「道成寺」の観劇随想のなかで、初代富十郎が創始した「道成寺」を立役のイメージで想像したいと云うことを書きました。真女形が踊る「娘道成寺」は、艶やかではあるが・嫋々とした方向に傾いて、凛としたところが見失われがちです。菊之助はこのところ立役に傾斜してはいますが、目下のところは女形と云うべきでしょうですから、これは 十代目三津五郎或いは十七代目勘三郎のような加役の白拍子花子とまったく違った印象になって当然です。菊之助の「道成寺」には女形らしい艶やかさが十二分にありますが、決して嫋々としていません。凛とした要素が理想的なバランスで立っています。祖父梅幸と同様、規範や伝統への信頼に裏付けされた折り目正しい芸と云う印象がします。(梅幸の「娘道成寺」についてはこちらをご覧ください。)

しかも今回の菊之助の白拍子花子に痛感することは、この点では梅幸よりも強くそれを感じるのですが、「道成寺」説話(安珍清姫)のストーリーが強く意識されていると云うことです。つまり鐘に対する強い思いと云うことです。もちろんこれは口伝としてあることで、どの踊り手であっても鐘に対する思いは必須のものですが、菊之助の場合は、これが踊りの流れの組み立てに特に強く作用していると感じます。このことは「道成寺」前半の金冠辺りであると(恐らくは意識的に)あまり強く出 して来ませんが、後半の「恋の手習」のクドキから次第に表に出始めて、鞨鼓の踊りではそれがメラメラ燃え上がるように表出される、そのような踊りのストーリー(設計)が意識されていると感じます。したがって今回の「道成寺」では前半がやや抑え気味に推移して、後半の「恋の手習」から次第に目が離せないほど 踊りの面白さが増して行きます。そこに「道成寺」説話のストーリーが脳裏に浮かび上がって来る気がするのです。だから最後に花子が蛇体になって鐘の上に上がると、「納得、これで腑に落ちた」という気分にさせられました。 確かにこの「道成寺」であれば押し戻しは不要です。まったく真女形が踊る「道成寺」は、こうでなければならぬなあと思います。

(R1・5・28)


○令和元年6月歌舞伎座:「 寿式三番叟」

似て非なる三番叟

十代目松本幸四郎(三番叟)、二代目尾上松也(三番叟)


幸四郎と松也の三番叟は足拍子威勢よくダイナミックな踊りで魅せると云いたいところですが、踊り手の要請か・振付(藤間勘十郎)の要請か知りません(多分これは振付から来るのだろうと思います)が、お囃子のテンポがあまりに早過ぎます。この倍遅いテンポで良いくらいです。早いテンポで息を乱さず踊るのだから・まあ褒めてやりたい気もしなくもないが、このテンポでは当然振りや足踏みは粗雑にならざるを得ません。二人三番叟は確かに二人の踊り手を競わせることを意図しているにせよ、ここでは神事の雰囲気など消し飛んでいます。

幸四郎が三番叟を踊れないとは思っていません。平成17年10月新橋演舞場での三響会で狂言の野村萬斎と共演した「二人三番叟」では、当然隣の萬斎を強く意識していたこともありますが、しっかり踊っていました。もうちょっと腰を落とせばもっといいかなというところはありましたが、十分三番叟になっていたと思います。(ちなみに萬斎の三番叟は見ておくべきものだと云っておきます。)だから幸四郎が三番叟を踊れないと思っていませんが、しかし、今回(令和元年6月歌舞伎座)の三番叟は、単なるダンス・パフォーマンスと化しています。

なるほど巷を見れば早いテンポのビートの効いた西洋音楽のダンスミュージックが氾濫しています。「伝統芸能にもこれに対抗できるダイナミックな踊りがある」と主張したくなるのも分からないことはありません。三番叟の「もどき」の動きは、滑稽・模倣・反駁などの要素を孕むものです。もしかしたらそこに現代のダンスとの精神的な共通項があるのかも知れぬ。ダイナミックな三番叟を見て興奮感激なさる観客もいらっしゃることでしょう。だから吉之助もこれを全否定することは躊躇しますが、ただしそれは「 寿式三番叟」でやることではない。能の「翁」は「能にして能にあらず」と云われて大事な演目とされていますが、これは歌舞伎の「寿式三番叟」だって同じことなのです。

足拍子とは、単に所作板をドーンと踏み鳴らして大きい音を出すだけのものではありません。「足を踏む」と云うのは、力足を以て悪いものを抑え付ける形です。悪い霊魂が再び頭をもたげないように、地下に踏みつけておく心なのです。同時に「踏む」とは、全身で重力を感じて・感じた重みを頭のてっぺんから足の裏に一気に落とすことで、その反動で逆に大地が持っているパワー(「気」と云うべきであろうか)を一気に吸い上げることでもあります。相撲で「四股を踏む」というのも、そのような行為です。つまり足拍子とは単にリズムを取るのではなく、リズムを抑え込む行為です。下に向けた力を床に押し込める気持ちが大事なのです。幸四郎と松也の三番叟は、跳ねていますね。これは三番叟には似て非なる動きです。しかし、お囃子のこの早いテンポではそうならざるを得ないでしょう。もっとテンポを遅くして、しっかりリズムを踏まなければ、神事が発動することはありません。

現代のダンスミュージックはテンポが早くて低音を効かせているから誤魔化されますが、リズムの打ち込みが浅いものが実に多いです。テレビのスイッチを入れれば、リズムが前のめりになって、足がしっかり地に付いていないものばかりです。そのようなセカセカした感覚が当世では今風だともてやはされています。しかし、そういうのは実は「無理やり興奮させられている」だけなのです。これはクラシック音楽でも同じような傾向があって、最近の演奏はモーツアルトでもベートーヴェンでも、テンポが早くてリズムの打ちの浅いものが多いようです。これは数十年前の演奏と比べれば歴然としていることで、吉之助なんぞは聴いていて、呼吸が浅くなって苦しくなることがあります。これは現代が抱える深刻な問題じゃないかと思いますねえ。現代の生活には我々の呼吸を知らず知らず浅くしてセカセカ追い立てられる気分にされることがあまりに多過ぎます。だからここは心を落ち着けて、一度深呼吸をしてみる必要があるのではないでしょうかね。そうすれば日常生活のイライラも少しは収まるだろうと思います。

話を歌舞伎に戻せば、伝統芸能が、しっかりリズムを「踏み」呼吸を深くとることを観客に示唆することは、現代においては益々大事な役割になってくると思います。歌舞伎座に来て深いリズムと呼吸に癒される時間を持つことは、セカセカした三番叟を見るよりずっと貴重な機会だと思いますがね。そういうことを振付の勘十郎も、幸四郎も松也も、是非考えてもらいたいのです。

(R1・6・9)


○令和元年6月歌舞伎座:「恋飛脚大和往来」〜封印切

近松世話物の難しさ〜十五代目仁左衛門の「封印切」

十五代目片岡仁左衛門(亀屋忠兵衛)、初代片岡孝太郎(遊女梅川)、六代目片岡愛之助(丹波屋八右衛門)


先日、昭和58年(1985)4月国立小劇場での「恋飛脚大和往来」で仁左衛門(当時は孝夫・41才)が演じた忠兵衛の映像を見直す機会がありました。あれから34年の歳月が経ったわけですが、今回(令和元年6月歌舞伎座)での仁左衛門の忠兵衛はあの時の若々しさそのまま変わっておらぬことに感心すると同時に、現時点から34年前を顧みて、当時の仁左衛門の芸が既に確固としたものであったこともよく分かりました。仁左衛門の忠兵衛は、梅川だけでなく・他の遊女や・井筒屋おえん など女たちに好かれて「忠さん、忠さん・・」と騒がれる良い男振り・人の良さが溢れていて、「梶原源太はわてか知らん」(仁左衛門はゲンタと発声していますが・正しくはゲンダ)と忠兵衛が言うのもさもありなんと思わせる風情です。だから前半の芝居が「廓文章」の伊左衛門を思わせて、とても面白い出来です。壁に蝙蝠の真似をしてベタッと貼り付くのも笑えます。

しかし、後半の八右衛門との口喧嘩から封印を切るに至る過程については、この人の良さげな忠兵衛がどうしてここまで意固地になるのか、前半からの流れから見てしっくり来ないところがあります。そう感じるのは、皮肉なことですが、前半の仁左衛門の出来が良いからでもあります。上方和事の味を加えて近松の「冥途の飛脚」を通俗的な情話劇に仕立てた「恋飛脚大和往来」の改作の無理がここに出てしまうのです。例えばの話ですが、「廓文章」みたいに幕切れでどこからか千両箱が運ばれてきて・梅川が身請けされて目出度し目出度しになるならばどんなに後味が良いか、そんなことを思ってしまいますねえ。ところが芝居の結末は思いもよらぬ展開となってしまうわけです。

封印切は成駒屋の型では、八右衛門に突き飛ばされた弾みで封印が切れてしまうという解釈になっています。忠兵衛が故意に封印を切るよりも過失である方がお客の同情が来ると云うのです。しかし、これだとどうも忠兵衛はなし崩し的に破滅に追い込まれるだけのことで、状況悲劇にまで高まって来ません。一方、仁左衛門の忠兵衛は、喧嘩で火鉢のふちで叩いたりしているうちに封印が切れ掛かっているのを見て驚いて・覚悟を決めて封印を切るという解釈で、これは近松の原作にいくらか近くなっているわけですが、これでもまだ男の体面にカッと熱くなって封印を切る「冥途の飛脚」の忠兵衛の単純さ ・頑固さにまでは至りません。それは皮肉なことですが、前半の和事の印象が柔過ぎに見えるせいです。仁左衛門の忠兵衛の前半が良いだけに「恋飛脚大和往来」の改作の問題がよりはっきりと見えて来ることになるのです。某インタビューで仁左衛門は「忠兵衛より八右衛門を演じる方が好きだ」と語っていますが、忠兵衛を演じるのはその辺に難しさがあるのでしょう。

近松の世話物浄瑠璃の主人公は、徳兵衛にせよ忠兵衛にせよ治兵衛にせよ、それぞれ性格の独自性(オリジナリティ)を持っていて、役の類型的処理を許さないところがあるようです。忠兵衛も和事で単純に処理できないものがあるようです。近松の世話物は一筋縄で行かぬとつくづく思います。

(R1・7・5)


〇令和元年7月歌舞伎座:「素襖落」

本行に対するリスペクト〜十一代目海老蔵の「素襖落」

十一代目市川海老蔵(太郎冠者)、二代目中村獅童(大名某)他


いつ頃からのことか、近頃の歌舞伎の狂言種の松羽目舞踊は、「素襖落」でも「身替座禅」でも、観客を笑わせようと云う下心が見え見えで、品格が乏しいと感じることが多くなりました。要するに笑いが生(なま)なのです。今回(令和元年5月歌舞伎座)の「素襖落」の舞台も例外ではありません。まあ確かに観客はよく笑って喜んでいます。しかし、狂言の笑いと云うものは「イデ笑おう、ワハハ・・」という大らかな笑い・おかしみであって、演者の方からくすぐりに行く現代風のコントの笑いとは異なるものだと思います。どこがどう違うんだと云われれば、明確な境界線が引きにくいものではあります。しかし、その違いに狂言のフォルムが見えて来るはずです。そこで大事になるのが、狂言の品格・品位というものです。本来フォルムに敏感であるべき歌舞伎役者は、そのような違いを感覚的に仕分けられねばなりません。それが出来ていない舞台が多い。面白ければいいじゃないか、お客が喜んでいるからいいじゃないかでは困ります。

歌舞伎というのは、本行である狂言と比べれば、ずっと写実(リアル)の方に寄っている芸能です。だから歌舞伎の松羽目舞踊の笑いが狂言より生(なま)になるのは当たり前だ・そこに狂言を歌舞伎化する意味があるんだと考えるならば、それは大きなお間違えです。歌舞伎は、本行に対するリスペクトを持たねばなりません。本行へのリスペクトがあるからこそ、歌舞伎を伝統芸能と呼ぶのです。日本の伝統である「本歌取り」は本歌を好き勝手に作り変えて良いわけではなく、そこに先達に対するリスペクトがあって、自ずとそこで自制が掛かる。そこにフォルムが生まれるのです。

明治から大正期の松羽目舞踊には、能狂言に対する歌舞伎の若干のコンプレックスが入り混じった憧れから来る、独特のフォルムがそこに見えます。これを一言でいえば、本行の品格・品位と云うべきです。これはこの時代の歌舞伎が是非とも手に入れたかった要素でした。当時の歌舞伎には下賤な芸能だという自意識がまだありました。だからこの時代に松羽目舞踊が続々と生まれたのです。そのような時代のフォルムが表出されていないのならば、九代目団十郎が初演した「素襖落」、或いは六代目菊五郎が初演した「身替座禅」にならぬわけです。これが松羽目舞踊のフォルムなのです。だから昨今の松羽目舞踊に品格が乏しいと感じられるのは、役者に狂言の素養が乏しいということもあるでしょうが、それよりも本行(狂言)に対するリスペクトが若干欠けているからではないでしょうかね。これは狂言に対してだけのことではなく、歌舞伎にとって大事な本行・人形浄瑠璃に対しても同様なことが云えるのではないかな。昨今の歌舞伎は微妙なところに在ると思いますね。

海老蔵の太郎冠者(それと獅童の大名にも同じものを感じますが)は、演技が生(なま)に感じられますねえ。人気役者のやることであり・演技が生であるからなおさら観客が喜んで拍手していますが、そこに大きな落とし穴があることを分かって欲しいですねえ。「那須与一の扇の的」での海老蔵は目をギラギラさせて真剣で、時々酒がこみあげてくる酔いっぷりも見せながら、まあリアルなことではある。ここが見せ場だと云う意識が強いのでしょう。(確かに見せ場ではあるが。)しかし、余裕と云うか・遊び心が感じられません。元々狂言「素襖落」にはこの踊りはなく、「扇の的」は勝ち修羅だから縁起が良いと云うことで九代目団十郎が挿入したものだと思いますが、「素襖落」全体のなかで「扇の的」が異質に浮き上がって見えてしまうようでは、松羽目舞踊の本質に沿わぬだろうと思います。

(R1・7・5)


〇令和元年9月歌舞伎座:「極付幡随長兵衛」

十代目幸四郎初役の長兵衛

十代目松本幸四郎(幡随院長兵衛)、四代目尾上松緑(水野十郎左衛門)


幸四郎が十代目を襲名して一年半が経過しましたが、「幸四郎はどんな役者を目指しているのかな」とフト疑問に思うことがあります。「幸四郎」として、弁慶・熊谷のように骨太く豪快なイメージを追うのか、伊左衛門のような細く優美なイメージを追うのか。本人に訊ねたら「どちらも」と答えそうですねえ。しかし、芸道二筋道を追うのは容易なことではありません。このところの幸四郎の舞台を見ると、いろんな役を小器用にこなしてはいますが、何となく中途半端に感じることがある。例えば6月三谷歌舞伎は本人が随分入れ込んでプロデュースしたようですが、これは三谷幸喜の脚本のせいが大きいのだが、肝心の主人公・大黒屋光太夫がとても影が薄い存在に見えました。幸四郎は光太夫で何を表現したかったのでしょうか。この役のどこに観客は「幸四郎」のイメージを求めたら良いのでしょうか。そうやって観客は或るイメージ(期待)を役に照射しながら役者を見るのです。それに役者は応えることが肝心であろうと思います。幸四郎は「何としても全員を日本に連れて帰る」という意志で仲間を引っ張る強いリーダーという感じで役を作るべきでした。これは役者の肚の問題だと云って良いと思いますがね。そこが不明瞭になってはいないでしょうか。(この件は別稿「十代目幸四郎が進む道」でも触れました。)

そこで話を戻しますが、「幸四郎」として幡随院長兵衛は是非自分のものにしておきたい役です。しかし、幸四郎の長兵衛はもちろん一応のことは出来ていますが、何と云うかな、線が細くて・いまいち町奴の気迫に乏しいですねえ。巖として何事にも動じない気迫が欲しいのです。幸四郎はまだ身体が細いから見掛けの押し出しが弱いということは確かにあります。しかし、父上(二代目白鸚)だって叔父上(二代目吉右衛門)だって、若い頃は身体が細かったのです。それが今は堂々たる押し出しなのだから、幸四郎だってそのうちそうなるでしょう。だから見掛けのことは別に良いのです。しかし、吉之助の記憶にある昭和55年(1980)6月国立劇場での父上(当時染五郎・37歳)の長兵衛も細身ではあったけれど、もっと気迫があったと思います。要するに、これも肚の問題なのです。

ひとつには幸四郎に限ったことではないですが、「長兵衛内」での子別れに重点を置きすぎるせいです。殺されると分かっていても、水野の誘いを断っては脅しに怖じ気付いたと町奴の名折れになるから、殺されに行ってやろうじゃないかと云う、長兵衛の論理を「恥」の論理だと云う方がいるかも知れませんが、それは全然違います。「恥」の論理と云うのは、ホントは死にたくないけれど、周囲が弱虫と責めるから仕方ないから行ってきます、まったく俺は付いていない男だねえ、トホホ・・という論理なのです。町奴(かぶき者)の論理とは、俺は侍なんぞ怖れてはいないんだ、お上なんぞ怖くはないんだ、死ぬのが怖くて男が張れるか、俺が男であるところを見せてやろうじゃないかと云うものです。捨て鉢に見えますが、根底にあるものは強い自己主張です。これがかぶき的心情です。だから確かに子別れは泣かせ所ですが、町奴の肚があるからワサビが利いたみたいに泣けるわけなので、あくまで湯殿の殺され場がこの芝居の芯であり、ここへ向けて芝居を構築せねばなりません。

もうひとつ本作が明治14年(1881)10月東京春木座・九代目団十郎の初演だと云うことを考えてもらいたいですねえ。本作は黙阿弥の執筆に拠りますが、実は現行本は各所に他人の手が入って黙阿弥が書いたそのままではないのですが、大事な点は、本作が明治10年代、つまり団十郎が演劇改良運動に最も熱を上げていた時期の初演だと云うことです。この時代の団十郎の演技がどのようなものであったかは、別稿「九代目団十郎の活歴を考える」で触れました。この時代の団十郎は、言葉を簡潔に・感情を肚に於いて過剰な演技をしないことを旨としていました。古典歌舞伎ならば「夢であったかあ」と詠嘆調に引き伸ばし・末尾を転がすところを、「・・夢か」と簡潔に言い切る、これがこの時代の団十郎の様式です。同じ時代の作品である以上、「番隨長兵衛」もそこは同じだと心得てもらいたいのです。

例えば村山座舞台で白柄組の侍を諫めて「番隨院長兵衛と云う、けちな野郎でございます」と云う名乗りですが、末尾を七五で割って引き伸ばして転がす、これが黙阿弥の様式だと云うのでは間違いです。こういうところこそ、低くサラリと云う、なおかつ最後を押して云うのです。さらに台詞を言い終わって強い目線で相手を見やりニヤッとして見せても良い。なぜならば名乗りを聞いて相手は「エエッ?」と云って怖じ気付いているわけであるから、ここは相手に短刀を突き付けるように気迫で押す場面だからです。これでこそ明治初期に生まれた、「新しい」感覚の長兵衛に出来ます。幸四郎の長兵衛は、台詞を七五で歌って末尾を詠嘆調で引き伸ばす箇所があちこち見られます。これが長兵衛の印象を柔いものにしています。と云うわけで、幸四郎ももう46歳です、吉之助としては「幸四郎」にどういうイメージを置くか、そろそろ役者としての肚の置き方をしっかり決めてもらいたいですね。

(R1・9・22)


〇令和元年9月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜寺子屋」

二代目吉右衛門の深化した松王

二代目中村吉右衛門(松王丸)、十代目松本幸四郎(武部源蔵)、五代目尾上菊之助(千代)、六代目中村児太郎(戸浪)


吉右衛門が体調不良で中日近くに3日間休演の報にヒヤリとしましたが、幸い吉之助の観劇日までに無事復帰してくれました。この異常気象の連日の暑さでは、誰だって体調おかしくなってしまいますね。ところで言うまでもなく松王は吉右衛門の当たり役ですが、調べてみると吉右衛門が松王を演じるのは平成24年(2012)9月新橋演舞場以来の7年ぶりだそうで、久しぶりのことです。これはちょっと意外でしたが、回(令和元年9月歌舞伎座)の松王を見て、この7年の歳月の吉右衛門の芸の更なる深化を見た気がしました。

これまで吉右衛門の松王と云うと、力強い肚のある松王という印象が吉之助にはありました。だから首実検での緊張感、決まりの場面の形の良さは特に優れたものであって、もちろん今回の松王でも、そこに抜かりはありません。しかし、この7年で吉右衛門が変わったところは、力強さを表面に押し出すことなく、これを肚に納めて、ごく自然な印象で見せたことです。朴訥とさえ云えるほど太い筆致で描き切ったなかに、深い悲しみが秘められています。この抑えた首実検の演技が、後半、小太郎を身替わりに差し出した真相を語り、源蔵から小太郎の最後の様子を聞いて泣き笑いから大落としになるに至って効いて来るのです。これは確かにドンデン返しに違いないのですが、観客は仕掛けの意外に驚くのではなく、前半を振り返って見た時、「彼が憎まれ役を気取っていたのはアアそう云うことであったか」と一気に腑に落ちる、だから目の前で松王が泣いていることになおさら深く共感出来ます。もらい泣きしているお客が多かったのは、さもありなんです。ですから「寺子屋」一幕を通して見た時に、骨太い一貫性を感じさせる松王です。このような松王は芸の長い修行過程を経て初めて成るもので、簡単に真似られるものではないですが、若手役者は「いつかはこんな松王を演じられるようになりたい」と思って見てもらいたいと思います。

そこで幸四郎の源蔵ですが、悪くはない出来ではあるけれども、前半の吉右衛門が自然に抑えた筆致・つまり写実の方向へ持って行っている対照からすると、幸四郎は音楽的にちょっと滑らか過ぎる・或いは優美に過ぎる印象がします。やや様式(時代)の方へ寄った印象がするのは、そのせいです。台詞の末尾が流れ気味なのも、ちょっと気になります。「寺子屋」は四段目切であるから時代物の格ではあるけれど、のどかな田園地帯の芹生の里に醜い政治的な要素がブルドーザーのような轟音を立てて押しかけて来る異様さ、これこそ時代物の本質だと考えます。だから吉之助としては、源蔵は世話を基調にしてもらいたいと思います。今回の吉右衛門のように松王が写実の方に寄っているならばなおさらのことです。芝居のアンサンブルと云うのは、難しいものです。それにしても吉右衛門の松王は、今後の幸四郎にとって大いに示唆のあるものだと思いますよ。

菊之助の千代は控えた演技で目立ちはしないけれども、まさに身体を殺して・その目立たないところが吉右衛門の松王にマッチしています。千代が悲しみを内に押し込んでいる姿が、後半の松王の悲しみにどれだけ寄与しているか分かりません。児太郎の戸浪は幸四郎の源蔵に相応した出来ですが、いろは送りの場面では神妙で良かったと思います。児太郎はめきめき腕を上げていますね。

(R1・10・1)


〇令和元年9月歌舞伎座:「松浦の太鼓」

五代目歌六の松浦公の風流(ふりゅう)

五代目中村歌六(松浦鎮信)、三代目中村又五郎(大高源吾)、六代目中村東蔵(宝井其角)


今回(令和元年9月歌舞伎座)の「松浦の太鼓」は、当代(五代目)歌六には曽祖父に当たる三代目歌六百回忌追善狂言と銘打たれています。本狂言は明治15年に大阪角座で三代目に当て書きして初演されたものです。以後息子の初代吉右衛門が当たり役としました。吉之助にとっては同じく歌六の息子である十七代目勘三郎・さらに十八代目勘三郎の当たり役として記憶しています。江戸下町を舞台にしていますが、初演が大阪の芝居だと云われれば、なるほどそんなものかなと思うのは、どこか小芝居めいた味わいがするからでしょうかね。気分の変化が激しいけれど、人が良過ぎるお殿様、裏を返せば性格が少々薄っぺらいところがあるわけだけれど、そこが面白い。そこで最後の場面で扇をパッと掲げれば観客をご機嫌な気分に出来る役で、もっぱら役者の愛嬌で見せる芝居と云うイメージが吉之助にもあります。

当代歌六はどちらかと云えば実事・シリアスな役どころを得意とする役者ですが、失礼ながら愛嬌には若干乏しいところがあるので、松浦公はどんなものかなと思いましたが、これが案外と興味深く見せてくれました。それは松浦公の、ご機嫌が良くなったと思えば・すぐ悪くなる気分屋の面白さに重点を置くのではなく、永代橋で出会った宝井其角と大高源吾の二人が、「年の背や水の流れと人の身は」という其角の発句に、源吾が「明日待たるるその宝船」と付け句して、吉良邸討ち入りをほのめかしたという逸話(これは実話ではなく後世の創作です)の謎解きと云う、芝居本来の筋にどこか立ち返った趣きがしたからかも知れません。

俳諧の連歌というのは、複数の人(座)で句を付け合いながら、ひとつの大きな流れを形成して、これを愉しむものです。重要なことは、前句・前々句の流れを踏まえて、そこに新たな自分の創意を加えて行かなければならないということです。一方で、次の人の付け句の展開の余地を残しておかねばならないので、決して突出してはなりません。古典の知識や「世界」への理解も必要になります。(別稿「台詞はアクションである〜歌舞伎と連歌」を参照ください。)そのような即興性のなかに或る種の演劇性をも備えた高級な言葉の遊戯が、当時の江戸の庶民の間で流行っていたのです。だから其角がフト漏らした源吾の付け句の話に松浦公がハッと反応するところに、連歌を嗜む松浦公の風流(ふりゅう)があるわけなので、実はそこにこの芝居の核心があるのです。松浦公になまじっか愛嬌が過ぎると、そこのところが見え難くなってしまいます。思い返せば十七代目勘三郎もその気配なしとしませんでした。巧いのですけどね。歌六の場合、そこのところの塩梅が意外とよろしいようです。これも歌六のシリアス味が良い方に作用したと云うことだと思います。昨今は忠臣蔵を知らない方が増えているそうで、「松浦の太鼓」などは風前の灯かなと思いましたが、観客の反応を見ると芝居はしっかり伝わっていたようで、少し安堵しました。ただし松浦公が癇癪でバカバカとやたら云うのはこれはいつもの事ですが、今回の歌六の松浦公であるならば、そこは思い切ってカットした方が良かったかも知れませんね。

(R1・10・4)


〇令和元年10月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」

四代目梅枝のお嬢吉三

四代目中村梅枝(お嬢吉三)、六代目片岡愛之助(お坊吉三)、四代目尾上松緑(和尚吉三)、五代目中村歌六(土左衛門伝吉)


梅枝のお嬢吉三が、とても良い出来です。吉祥院本堂の欄間からお嬢が顔を出すと客席からホウと云う声が漏れたほどで、古風な横顔が錦画から抜け出たように感じられて黙阿弥の趣向が映えたのは近頃嬉しいことでした。女形のお嬢はどうしても恥じらいが出ると云うか・嫋々した印象に傾き勝ちなものです。しかし、梅枝の場合は、むしろスカッとした開放感があるのが、とても興味深いのです。それは男を見顕わして後の、男と女のバランス感覚が良いからでしょう。女形とは本来性を偽って生きている存在です。だから普段の役柄ではどうしても内に籠った窮屈な気分を強いられるものです。そのような気分から「女形だってたまにはスカッとしたいぜ」と云う悪婆ものの欲求が生じて来ると云う、折口信夫が指摘する意味が、梅枝のお嬢を見るとよく実感出来ると思います。つまりお嬢が醸し出す開放感とは女形役者が本来性である男に回帰することの安心感なのです。大川端での「月も朧に・・」のツラネがちょっと様式を意識してか若干硬い感じがしましたけれど、全体として写実の台詞廻しはバラ描きで心地良く、生き生きしたお嬢吉三に仕上がりました。これならば梅枝が演じる弁天小僧もさぞ良かろうと期待を抱かせます。(別稿「源之助の弁天小僧を想像する」を参照ください。)

対する愛之助のお坊吉三も色気があって、これも良い出来です。大川端では様式を意識し過ぎで台詞を七五に割り気味な感じがありますが、吉祥院以後は持ち直し、梅枝のお嬢との息がピッタリ合って芝居がグッと面白くなりました。このふたりのお嬢とお坊は相性が良く、作中の人になっています。一方、松緑の和尚吉三には少々違和感があります。平成21年2月歌舞伎座(大川端のみの上演)の時とさほど変わらず台詞がテンポ早めのダラダラ調であるので、人物の深味を十分表出できていないきらいがあります。父・伝吉の悪行から始まる因果応報の論理をしっかり受け止めて・これを意志で断ち切る肚の太さが欲しいのです。

歌六の土左衛門伝吉は、悪くない出来です。歌六の伝吉の良い点は、ずっと昔の悪行の報いが今現在も自分を苛み続けていることの恐怖、改心したつもりなのに状況が一向変わらないことの神仏に対する怒り(これは自分自身への怒りでもあるわけですが)を演技で適格に説明して、観客にドラマの骨格をよく理解させた点にあります。本所お竹蔵の場で「その百両を貸してくれ」とお坊に低姿勢で頼んで・断られると態度を豹変させるところの変化など、さすがに上手い。おかげで吉祥院での松緑の和尚が随分やりやすくなったと思います。ただ(これは芸質から来るわけですが)その演技の明解さゆえに、因果応報の底知れぬ重暗しさ(それは幕末江戸の閉塞感にも通じており、三人の吉三郎にも重く覆いかぶさっている重暗しさなのです)を感覚的に実感させるまでには至っていないかも知れません。このような非論理的な感覚が旧時代(江戸時代)の黙阿弥・小団次劇の不条理性に通じるのだろうと思いますが、伝吉を十全に演じるのは、現代に於いてはなかなか至難なことであるかも知れませんねえ。

(R1・10・12)


 

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