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五代目玉三郎・十五代目仁左衛門によるユニークな「四谷怪談」

令和3年9月歌舞伎座:「東海道四谷怪談〜浪宅・穏亡堀」

五代目坂東玉三郎(お岩・お花)、十五代目片岡仁左衛門(民谷伊右衛門)、四代目片岡松之助(按摩宅悦)、四代目尾上松緑(直助権兵衛)、四代目橋之助(小仏小平・佐藤与茂七)他


1)「四谷怪談」ハイライト上演

今月(9月)歌舞伎座は、玉三郎が昭和58年(1883)6月歌舞伎座(若き日の吉之助も当時の舞台を見ました)の初役以来38年振りにお岩さまを勤めると云うことで、久しぶりの盛況でした。(ただしコロナによる市松模様の座席規制は現在も続いています。他の主要劇場・演奏会場はとうの昔にフル入場可になってますが、歌舞伎座は随分と慎重です。)

ところで昨年(令和2年・2020)春・コロナ感染増加によって劇場が軒並み休場に追い込まれましたが、歌舞伎座は昨年8月から四部制により興行を再開、その後三部制へ移行して現在に至ります。各部の役者から裏方に至るまで重複なしとして・時間枠にも制限があるなど、役者も満足・お客さんも満足のバランスが取れた演目建てを決めるのは容易なことではなく、毎月発表される演目建てを見ると編成の方のご苦労が察せられます。時間枠のせいで、長い演目の前半部分を端折らざるを得ない(本年1月の「七段目」など)とか、通し狂言の長い筋の枝葉を切り詰めたダイジェスト上演(本年7月の「雷神不動北山桜」など)、先日(本年4月・6月)の「桜姫東文章」のように通し狂言を上巻・下巻に分けての分割上演、今回(9月歌舞伎座)の「東海道四谷怪談」のように限られた幕(浪宅・穏亡堀のみ)だけのハイライト上演など、色々な上演形態が試行錯誤されています。これらのことはあくまでコロナ蔓延緊急事態による・やむを得ない処置であり、いつの日かそう遠くない将来にコロナ事態が解消されれば、元の上演形態に戻って行くものと思います。玉三郎の「桜姫」と「四谷怪談」に関しては、玉三郎の年齢的・体力的な問題から通常形態の通し上演は無理と思われていたので、この形でないと到底実現は成らなかったでしょうから、兎も角も、三十数年ぶりに玉三郎の桜姫とお岩さまを見ることが出来て、大変有難いことでした。

通し狂言「東海道四谷怪談」の「浪宅・穏亡堀」のみの上演は、通常の見取り上演(例えば「菅原」の「寺子屋」のみを単独上演する)のとは意味合いが異なりますから、ドラマツルギーの観点からすると、多少の問題を孕んではいるのです。見取り上演としての「寺子屋」は、ドラマツルギー的にそのなかに序破急の小宇宙を見立てた造り方がされるものです。これは寺入りが付く場合でも無しの時でも、そのサイズに応じた序破急のイメージを役者も観客も共有したなかで、見取り上演はなされるのです。「四谷怪談」の「浪宅」にそのような見取り上演のイメージが現状あるかと云えば、それは難しいと思います。だからこそ「四谷怪談」は、三角屋敷が消えたり・夢の場がなくなったりしてますが、長年、一応通し上演を原則として来たと云うことです。これは重い事実です。しかし、逆に考えてみると、それは「浪宅」単独上演を試みる例が過去になかっただけの話しなのかも知れず、例えば「三人吉三」の大川端が長年単独上演されて見取り演目としての地位を堂々確立したような例もあります。「浪宅」がそうなる可能性がまったくないか?と云えば、お岩さまの幽霊譚は世間によく知られており、見取り演目が成り立つ土壌がないわけでないかも知れない。今回(令和3年9月歌舞伎座)の「四谷怪談」を見ても、「ウ〜ン」と考え込んでしまうところはあります。ともあれ今回上演の「四谷怪談」はハイライト上演(ガラ・パフォーマンスみたいなもの)であって、通常の見取り上演とは違うと云うことは、はっきりさせておきたいと思います。

そこで「浪宅」を中核に据えた「四谷怪談」ハイライト上演となると、「浪宅・穏亡堀」の組み合わせはアイデアとしてはまあ穏当なところですが、舞台面が暗くて辛気臭いですねえ。それならば、例えば「浪宅」と「夢の場」の組み合わせは如何なものでしょうかね。蛍狩りの場に美しい娘が登場して伊右衛門(これもいい男)が絡みますが、やがて伊右衛門がハッとします。「そういうそなたの面差しが、どうやらお岩に・・・」、娘の顔がお岩に変わって「恨めしいぞえ、伊右衛門どの・・」で引っ張りの絵面になって、「色彩間苅豆(かさね)」のような感じで幕となる。原作では夢の場がこのあと廻り舞台で蛇山庵室に転換するわけですけど、原典主義者の吉之助が志を曲げて書くのだから、これは相当な決意の提案なのですがね・・(笑)。「浪宅」と「夢の場」ハイライト上演のメリットは、何と云っても美しいお岩役者と伊右衛門役者の姿を拝めること。次にお岩と伊右衛門夫婦の、切っても切れない愛と憎しみの柵(しがらみ)をより強く印象付けることが出来ることです。塩治判官が松の廊下で刃傷沙汰を引き起こすなんて馬鹿なことをしなければ、お岩と伊右衛門夫婦は何事もなく慎ましく生きていたかも知れません。「東海道四谷怪談」は、そのような本来は平凡な夫婦であったはずが、思いもかけない出来事をきっかけに転落していく、女と男の愛と憎しみの物語なのです。(この稿つづく)

(R3・9・30)


2)ユニークな「四谷怪談」

先日(本年4月6月歌舞伎座)の、玉三郎・仁左衛門による「桜姫東文章」については、南北の生世話の様式である・写実でバラガキの感触が乏しく、どちらかと云えば幕末歌舞伎の重ったるい感触であったと云う不満を観劇随想に書きました。ところが、興味深いことに、今回(令和3年9月歌舞伎座)の「四谷怪談」の舞台は、仁左玉・特に玉三郎の方にそれが言えますが、あっさりした世話の感触が強くなったようで、芝居のテンポが良い。そこに南北の生世話の雰囲気を垣間見る気分がしたことです。これは近来嬉しいことでした。

何だ・これが出来るならば、先日の「東文章」の方もこの同じ生世話の行き方でやってくれれば・それで良かったのに・・と吉之助は文句を言いたくもなるのですが、恐らく作品によって、役者の対し方が微妙に変わってしまうのでしょうねえ。歴史的に芸の地層が大量に積み重なってきた古典の「四谷怪談」と、そう云う蓄積がほとんどなくて・役者が作品と素で対さなければならない「東文章」とでは、作品へのスタンスの取り方が微妙に変わると云うことです。それは多分、「東文章」の方に、書き物(新作)の感触にならないように・「古典らしく」勤めようという意識が働いてしまうからです。歌舞伎役者の性(さが)と云うことでしょうか。しかし、本来は、両作共に同じ南北の様式だと云う観点で変わらぬ姿勢で対することで、事はシンプルに運ぶものだと思います。

玉三郎がお岩を演じるのは38年振りで2回目、仁左衛門の伊右衛門は本興行で3回目であるようだから回数としては少ないです。しかし、今回の仁左玉の「四谷怪談」と「東文章」の・二つの舞台を較べると、同じ南北作品であっても、「四谷怪談」の方が感触的に新しく軽めに感じられたのは、とても興味深いことだと思います。二人の演技としても、「四谷怪談」の方がより自由度が高かった気がします。吉之助の方も、過去に見た・六代目歌右衛門以下色んな役者の「四谷怪談」の舞台があって・知らず知らずにそれらと較べてしまうわけで、そこに仁左玉の「四谷怪談」を見る愉しみがあるわけです。他方、「東文章」の方が古い感触で重ったるく感じたのは、仁左玉の芸も歳月を経て成熟して来たこともありますし、吉之助のなかの「東文章」のイメージが昭和の孝玉で出来上がっているわけですから、同じ役者の比較で、より重ったるく感じられたと云うことでしょう。

それにしても、今回(令和3年9月歌舞伎座)の「四谷怪談」がユニークであると感じたのは、殊更に「お化け芝居の恐さ」を追求しない舞台であったことです。つまりあまり恐くない「四谷怪談」であったことです。吉之助には38年前の孝玉の舞台の記憶があるので、そうなることは見る前から予測されたことではあったのですが、その結果、「恐いのは幽霊じゃアございません。ホントに怖いのは人の心の闇でございます」と云うところが舞台からホントに素直に立ち現れたのです。しっかり写実の世話物としての人間ドラマになっていたと云うことです。残念ながら今回の上演は「浪宅・穏亡堀」のみのハイライト上演でしたから、通し上演としての「四谷怪談」の全体像は欠けた部分を想像で補わねばなりませんが、近来にない・ユニークな感触の「四谷怪談」に仕上がったと思います。

お化け芝居の真意である「ホントに怖いのは人の心の闇でございます」と云うことについては、吉之助が本年8月歌舞伎座の「真景累ヶ淵」観劇随想で取り上げました。もうお分かりでしょうが、本稿のための前座として書いたのです。明治初期の民衆は、当時流行の合理思想で、「幽霊なんかいない。罪を犯した者が、その罪悪感から神経を病んで・それであらぬもの(幽霊)を見てしまうのだ」と考えるようになりました。このような風潮の下、初代三遊亭円朝が創ったのが、「真景累ヶ淵」や「牡丹灯籠」などの怪談噺でした。しかし、実はそれは明治の新しい思想の所産でも何でもなくて、幽霊譚の因果論の明晰さという形で、江戸民衆の感覚のなかにずっと昔から存在していたものだったのです。鶴屋南北の「四谷怪談」や「かさね」のなかにある明晰さも、そう云うものです。(別稿「お化け芝居の明晰さ」をご参照ください。)このような明晰さの感覚は、南北の生世話の、写実で・バラガキの・あっさりした様式(フォルム)によって裏打ちされるものです。今回は、そのような南北の生世話の様式感覚が久しぶりに感じられた舞台になりました。(この稿つづく)

(R3・10・1)


3)お岩の哀れさ

但し書きを付けますが、「お化け芝居は恐くしないのが正しい」と云っているのではありません。あのホントに恐かった六代目歌右衛門のお岩(幸い吉之助も舞台を見ることが出来ました)が間違いのはずがありません。歌右衛門のお岩は、長年培われて来た歌舞伎の・お化け芝居としての「四谷怪談」の集大成としてあるものです。哀れで・なおかつ恐いお岩さまでした。歌右衛門のお岩の髪梳きは長くねっとりとして、とても恐いものでした。髪をさばく度、観客から悲鳴があがったほどでしたが、同時に美しい顔が崩れ行くお岩の悲しみも、歌右衛門はじっくり描いたのです。吉之助のなかでは依然として歌右衛門が最高のお岩役者です。

しかし、こういうことも言えると思うのです。あの歌右衛門のお岩から、長い歳月をかけて歌舞伎が塗りたくって来た濃厚な「恐さ」の泥絵具を剥ぎ取って、「哀れなお岩」だけにしたとしても、それでも「四谷怪談」のドラマは成り立つと云うことです。多分それは十全な「四谷怪談」の形ではないと思うけれども、それでもドラマとしての本質は決して外すことはない。なぜならば「恐いのは幽霊じゃアございません。ホントに怖いのは人の心の闇でございます」と云うことだからです。今回(令和3年9月歌舞伎座)の玉三郎のお岩を見て、そのことに改めて思い至りました。

今回上演が、通常の通し上演ではなく・「浪宅」に集中したハイライト上演であったことが、却って好結果を生んだと思います。普通であると小仏小平の役はお岩役者が早替りするわけですが、今回の玉三郎はお岩のみに全力投球です。これも好結果を生んでいます。玉三郎は、意識して「哀れなお岩さま」を描くことに集中し、これ以外の・「恐いお岩さま」の要素を極力削ぎ落して、「それでも「四谷怪談」の浪宅のドラマは成り立つ」というところを見事に実証してくれました。繰り返しますが、多分それは十全な「四谷怪談」の姿とは云えないでしょう。だからユニークな「四谷怪談」だと云いたいのです。

玉三郎の意図は、観客に十二分に伝わっていました。芝居上演中の客席と云うのはお客がモゾモゾしたり・呼吸音とか・始終何となくザワついているものですけど、お岩が薬を呑む場面・面相が変わった後の髪を梳く場面で、歌舞伎座の客席がこれほどシーンと静まり返ったのを久しぶりに体験した気がしました。吉之助も自分が物音を立てないように身を固くしてました。観客が玉三郎のお岩の一挙手一投足を息を詰めて見入っているのが、よく分かりました。舞台に見えたのは、恐くはなかったけれども、「哀れなお岩さま」でした。それで「四谷怪談」のドラマの本質がはっきり見えることになったのです。「四谷怪談」のドラマの本質とは、美しい女性が何の罪もないのに顔を醜く変えられてしまったことの理不尽さなのです。

「なに安穏におくべきか、思えば思えば恨めしい、一念通さでおくべきか」と云う台詞は、時代物で・怨念を抱いた立役が死の直前に云って怨霊に転化するのであれば、それが最もふさわしいものです。この台詞を世話物で・市井の平凡な・か弱い女性が発するのは、本来最もふさわしくないものです。南北がその台詞を敢えてお岩にしゃべらせていると云うことは、これが女性にとって最も理不尽で過酷な状況であるからです。この時、全世界がお岩と対立する、それくらいの出来事なのです。「これがわたしの顔かいな」と云うピュアな悲しみだけが、お岩を怨霊に転化することの出来る唯一のパワーなのです。(別稿「お岩の悲しみ〜これがわたしの顔かいの」を参照ください。)このような「四谷怪談・浪宅」のドラマの本質が、恐さの要素を取り去った玉三郎のお岩さまからホントに素直に立ち現れました。

「恐さの要素を取り去った」と云う点では、松之助の宅悦の抑えた演技も大いに貢献したことは、書いておかねばなりません。もちろん玉三郎の意図を受けたものに違いありません。実際「浪宅」の恐さの半分くらいは宅悦が作り出すものですけど、玉三郎のお岩の哀れさをより引き立てたのは、松之助の宅悦の功績です。(この稿つづく)

(R3・10・3)


4)上方人としての伊右衛門

ところで「四谷怪談」は、どうして「東海道四谷怪談」と云うのでしょうか。云うまでもなく東海道とは、江戸と上方を結ぶ日本経済の大動脈のことです。「東海道」をタイトルに冠すると云うことは、つまり江戸と上方を結ぶ線こそ、この芝居を読む鍵だと云うことなのです。上方とは、表狂言である「仮名手本忠臣蔵」の世界のこと。もちろん実説は元禄赤穂事件、これは江戸の観客は誰でも承知のことです。「四谷怪談」の登場人物の多くは、「忠臣蔵」の世界から来る人たち・つまり上方から来た人たちです。(別稿「四谷怪談から見た忠臣蔵」をご参照ください。)

それでは「東海道四谷怪談」のタイトルで表徴される「江戸」とは何かと云うと、それはお岩とお袖の姉妹のことです。芝居の父親・四谷左門も元塩治浪士ですから・お岩姉妹も上方から来ているのに違いありませんが、作者・南北は姉妹に特別な役割を負わせました。それは四谷左門町のお岩稲荷の由来を説いた小説「四谷雑談集」から来ます。「四谷雑談集」は享保12年(1727)の出版で、南北はこれを種本に芝居を書いたのです。

お岩は御先手組同心田宮又左衛門の娘で疱瘡を患って面相が醜かったのですが、摂州浪人伊右衛門という夫がいました。この伊右衛門に、与力伊東喜兵衛が自分の妾お花を押し付けようとしました。伊右衛門は喜兵衛らと策謀してお岩をさんざんにいじめ、離縁し、家から追い出します。その後の気が狂ったお岩の行方は知れませんが、やがて伊右衛門の周囲に次々と不思議な事が起こり、関係者はみんな死んでしまったそうです。ここではお岩は幽霊としてその姿を現しては来ません。しかしその事件がお岩の怨念のせいだということは誰の目にも明らかなのでした。これが「四谷雑談集」の伝える話です。(なおこれはお岩稲荷を護る田宮家が伝える話しとはまったく異なります。それによれば、お岩と伊右衛門は仲の良い夫婦だったそうです。別稿「於岩稲荷と四谷怪談」をご参照ください。)

ここで大事なことは、「お岩」の幽霊は先祖の拓いた土地を守る江戸の在地霊であると云うことです。お岩の怪談は同心の娘が与力の謀略で土地を奪われてその怨みで祟るという物語です。江戸初期からの急速な土地開発・それにともなう先住者と新参者(江戸以外の土地から流れ込んで来た人々・主として上方からの資金力のある人々)の軋轢のなかで、お岩の霊は江戸という土地と結びついて江戸の民衆に畏れられたと云うことなのです。(別稿「四谷怪談の東と西」を参照ください。)

つまり上方から来た伊右衛門は、豊富な資金力にまかせ江戸の土地を収奪する上方資本を象徴するのです。お岩・お袖の姉妹は、上方資本の横暴に振り回される被害者ということになります。そこに「東海道」が示唆するところの、上方と江戸の対立構図があるわけです。一方、歌舞伎で上方を象徴する芸と云えば、和事です。このような考えのもとに演出家・武智鉄二は、昭和51年5月岩波ホールでの「東海道四谷怪談」で、伊右衛門に二代目扇雀(後の四代目藤十郎)を起用したのです。普通、歌舞伎では伊右衛門は「色悪」とされて、ニヒルな陰を持ついい男・悪の図太さを持つ色男という役柄です。しかし、武智が扇雀に期待したのはそれとは一味違ったもので、ぼんじゃりとした柔らかみを持つ和事のワルでした。扇雀はイメージが付かなかったらしく、「自信がない」と云うことで再三辞退しましたが・武智に押し切られて出演したそうで、そのせいか「武智先生、こんなんでよろしいのでしょうか」と云う自信無げで・そのくせ従来の色悪のイメージにも未練がありそうな伊右衛門になってしまいました。

吉之助が思うには、ここは「開き直った紙屋治兵衛」みたいな感じでやれば良いと思うのです。人はいいが・定見もなく・家業も顧みず・家庭をないがしろにして、陽気に遊ぶので人気はあるが、返す当てもないのに方々から借金しまくり、金を返せと云われれば「無い袖は振れんがな」と居直るふてぶてしさもある。つまりこれは近松の描いた紙屋治兵衛とは真反対の性格なのですが、「四谷怪談」の伊右衛門と云うと・そんな感じになるでしょうか。

ところが、今回(令和3年9月歌舞伎座)の仁左衛門の伊右衛門を見ると、適度な柔らかみと悪の要素が絶妙のバランスで合わさって、案外これが扇雀よりも「上方の伊右衛門」のイメージに近いように思われて感心しました。その意味において、ユニークな伊右衛門だと思いますねえ。いわゆる江戸歌舞伎の「色悪」と云う線で見ると、仁左衛門は線が細く・冷たいニヒルさが足りない気がします。むしろ、仁左衛門の伊右衛門の良いところは、伊藤喜兵衛にお梅との結婚のことを迫られて「イヤ身共にはお岩という女房が・・」と逡巡する時などに、伊右衛門という人間の、根っからの悪人というわけではないと云う人の良さと・はっきりしない優柔不断さ・成り行きに流されるままの好い加減さを、上手く見せたことです。和事を意識させずとも、さすが仁左衛門はそういうところを自然に見せてくれました。(この稿つづく)

(R3・10・6)


5)ハイライト上演の効果

通常の通し上演ではなく・「浪宅」に集中したハイライト上演であったおかげで、「浪宅」から長い歳月を掛けて塗り重ねられてきた「恐〜いお岩さま」の泥絵具の下に隠れて見え難かった「哀れなお岩さま」のドラマを明らかにしてくれたことが、今回(令和3年9月歌舞伎座)上演の意義であったと言えそうです。「恐いのは幽霊じゃアございません。ホントに怖いのは人の心の闇でございます」と云うことなのです。人の心の闇に感応して、お岩は闇(ダークサイド)の世界へ一気に堕ちて行きます。

もちろん恐いお化け芝居としての要素は、「四谷怪談」の二本の柱のひとつです。観客を如何に恐がらせるかと云うところで、歌舞伎は工夫を凝らして来ました。お岩は怨霊として次第に肥大化して行く、その怨念を受け止めるに相応しい悪人としての大きさを伊右衛門に求めていく(それが現行歌舞伎の「色悪」という役どころです)、そう云う形で「四谷怪談」は発展してきたのです。したがって、恐くない「四谷怪談」では「四谷怪談」として正しくないと云う論理(ロジック)はあり得ることです。今回の仁左玉の「浪宅」から、上演されなかった場面を想像で補って・通し上演としての「四谷怪談」の全体像をイメージしてみると、お岩の怨念の色彩が淡い印象で、お化け芝居としてのパワーが弱く見えるかも知れません。恐らくそれは「四谷怪談」の十全な形とは言えないでしょう。それは38年前(昭和58年・1883・6月歌舞伎座)の「四谷怪談」でもそう云う印象であったし、その点は今回も変わっていません。

今回の「浪宅」に集中したハイライト上演が発表された時は、発端もなく・結末もない、ドラマとしての序破急が備わらぬので、こういう仕方は如何なものかと危惧しましたが、実際の舞台を見ると、「切り取られたシーン」から普段見えないものが見えた気がしました。こう云うことも、実際やってみなければ分からぬものですね。そこから見えて来たものは、世話物で・市井の平凡な・か弱い女性を怨霊に転化させるのに、そんな大層なパワーは要らぬ、「これがわたしの顔かいな」と云う・女のピュアな悲しみだけで十分だと云うことです。言い換えれば、それが女にとって、それほど重大なことなのです。「浪宅」から恐さの要素を取り去ってみたら、ひとりの・か弱い女の、等身大の悲劇がはっきり見えて来ました。なるほど今回の「浪宅」は、きっちり生世話の、こじんまりしたサイズになって見えました。多分、戯作者としての南北は、そこにそれほど固執はしなかったと思います。面白い芝居に出来ていれば・それでよしとしたに違いありませんが、しかし、「浪宅」でもリアリスト(生世話作家)としての南北は「きっちり仕事をしていたんだ」ということが確認出来て、吉之助としては大変嬉しく思いましたね。

(R3・10・8)



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