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武智鉄二演出の「四谷怪談」

昭和51年5月岩波ホール:「東海道四谷怪談」

二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)(民谷伊右衛門)、白石加代子(お岩)、伊藤雄之助(宅悦)他

(武智鉄二演出)


1)70年代のアングラ演劇の感覚

本稿で取り上げるのは、昭和51年(1976)5月岩波ホールでの武智鉄二演出による「東海道四谷怪談」の舞台映像です。ただし残されているのは、残念なことに浪宅と蛇山庵室の2場のみの映像です。実際の場割りは、浪宅・隠亡堀、これに「二人南北」という間狂言が挟まって、次いで所作事の夢の場、最後に蛇山庵室であったようです。したがって武智演出「四谷怪談」の全貌を知ることはできませんが、雰囲気を窺うことは十分に可能です。

ちなみに1970年代(昭和45〜55年頃)は第2次南北ブームと云われた時期で、歌舞伎でも新劇でも四代目鶴屋南北がよく取り上げられました。(別稿「人格の不連続性」で同時期に劇団青年座が上演した「盟三五大切」の舞台を取り上げています。)当時、南北は「怨念の作者」として捉えられたものです。これは70年安保闘争あるいは大学紛争が鎮圧された後の、若者の挫折感を背景としていました。例えば「四谷怪談」ならば、仇討ちという封建論理の束縛を逃れてあくまで自由に生きようとする伊右衛門と、これを抑えつけようとするお岩の怨霊との対立と云う風の読み方です。南北の原作は 登場人物が多く、筋が錯綜しており、分量も多い。現代の上演形態にもはや適していません。そこで原作の再構築がどうしても必要になります。原作を読み直しするなかで、枝葉の筋を大胆に切り捨てて面白いところは生かす、そして筋をシンプルに主題を明確に浮き上がらせる。そこに現代の感覚をどう重ねていくかというところに、演出者の手腕が問われます。だから舞台成果は脚本アレンジに帰せられるところが大きかったと思います。

当時の演劇界は小劇場・アングラ演劇ブームでもありました。松竹・東宝と云った商業演劇を大資本家の体制側に見立てて、当時の演劇青年たちは倉庫とか本来劇場として想定されていない場所を劇空間に仕立てて芝居を上演して、そこに自らの「抵抗」の姿勢を重ねたものです。武智演出の「四谷怪談」が岩波ホールで行われたこともそういう背景がありました。同時期の岩波ホール演劇シリーズでは、この他に鈴木忠志演出による「トロイアの女たち」や「バッコスの信女」があり、これも当時大いに話題を呼んだ公演でした。吉之助はこれらの公演を生で見てはいませんが、「バッコスの信女」の舞台はNHKのテレビ放送で見た記憶があって、白石加代子のアガウェの怪演が強烈に記憶に残っています。この映像も機会があればまた見たいものです。

そこで武智演出の「四谷怪談」のことですが、当時の劇評ではかなりの批判を浴びました。武智が反論してこれも話題になりましたが、結局のところ、批判の根拠は、武智が勝手な解釈をして南北の原作に準拠した演出になっていないじゃないかと云うところにあったようです。評者の方々は武智演出に対し原典回帰への期待をするところが強かったので、期待を裏切られて批判が続出したということになったのです。例えば武智演出では、蛇山庵室で伊右衛門は度重なるお岩の幽霊の責めに遂に錯乱し、刀を振り回しながら自らの身体を傷つけ片腕を切り落とし、血まみれになって、最後は自ら首を切り落として果てます。お岩の幽霊がその首を持って高笑いして幕になるという具合で、映像を見て吉之助もこれにはちょっと唖然としましたが、こういう積極的な「読み直し」(作り替え)をするところが、当時のアングラ演劇の手法であったなあと改めて思い出しました。

いわゆる武智歌舞伎と呼ばれるものは、正確には昭和24年から27年頃に武智が関西で行った歌舞伎再検討公演のことを指します。もちろん当時の映像は残っていませんし、現在では文献で想像するしかありません。もはや霧の向こうの伝説の公演です。このために武智歌舞伎の幻想みたいなものが、巷には根強くあるようです。武智歌舞伎とは、現行の歌舞伎が誤解釈や仕勝手で作り変えて原作を損なっていた箇所を元に戻して、伝統の正しい見地に基づいて、作品本来の姿を復元してくれる演劇運動だと云う幻想です。評者の方々はそのような期待で武智の「四谷怪談」を見たと思います。ところが「何だこれは原作と違うじゃないか」ということになって、大いに失望したということです。しかし、当の武智の方は全然そのつもりがない。もともと南北の原作が錯綜しているのだから、現代の解釈を加えて見られるものに作り直してやる、このくらいの改変は当然だろという態度なのです。これでは行き違いになるのは、当然のことです。

まずは武智の解釈の良い悪いは置いておいて、いわゆる武智歌舞伎とはどういう演劇運動であったのかと云うところを、演劇史的に正しく位置付けしなくてはならないと思います。武智の演劇感覚は、二十世紀初頭の芸術思潮である新即物主義(ノイエザッハリッヒカイト)に在ったことを理解せねばなりません。新即物主義のひとつの旗印は、原典主義です。テキスト(原典)には作者の意図がすべて書き込まれている、だからテキストを虚心に読み込むことで作者の意図を自分のものにするというのが、原典主義の態度です。しかし、もし作者が現代に生きていたのならば原作のこの部分はきっと変えたに違いないと考えることも、また新即物主義の立場なのです。テキストの徹底的な読み込みから引き出されることならば、それも正しいに違いない、作者もこれを認めるであろうとするのです。これが武智の歌舞伎再検討公演のスタンスなのです。これが新即物主義の考え方から来ていることは、武智本人がことあるごとに何度も書いていることです。しかし、武智歌舞伎と新即物主義との関連は、巷間あまり認識されていないようです。(このことは吉之助の編著「伝統芸能における古典(クラシック)」でも詳しく書きました。)

吉之助が実際に目にすることができた晩年の武智の演出作品は10本程度ですが、どこに武智歌舞伎たる所以があるか、その痕跡を探しながら見たものです。武智は自分の演出が絶対正しい、この解釈で行くべきだなんてことは全然考えていなかったと思います。演出という仕事は、「この解釈は良いが、あの解釈も悪くない、その解釈も捨てがたい」とやっていると出来ないのです。最終的にひとつの解釈に決める(つまり他の解釈を切り捨てる)ことをせねばなりませんが、実はいろんな解釈の可能性があるわけです。そのことを本人が一番知っています。だから実践者にとって理想の解釈を追求するのはこれは当然ですが、唯一無二の絶対の解釈などあり得ない。次にやる時は全然違うやり方することを決して厭わないものです。だからそのような解釈は或る種の軽やかさを伴うもので、これを裏返すと或る種のチープ感覚ということにも通じるわけです。武智は俺の演出なんてその程度のものだよと思っていたと思います。これについては別稿「本物のチープ感覚」で触れました。「四谷怪談」幕切れで伊右衛門の生首を持って笑うお岩の幽霊を見ていると、このことを痛感しますねえ。これはまったく70年代のアングラ演劇の感覚に近いもので、そのことを懐かしく思い出します。だからお岩の幽霊が伊右衛門の生首を弄ぶように、武智が「四谷怪談」を弄ぶところを楽しめば良いわけです。(この稿つづく)

(H29・11・15)


2) 扇雀の和事の伊右衛門

武智演出の「四谷怪談」ですが、配役がちょっと変わっていて、二代目扇雀(四代目藤十郎) の伊右衛門、白石加代子のお岩、伊藤雄之助の宅悦ということで、これはどんな舞台に仕上がるか、或る種の異種格闘技みたいになるのかと身構えてしまいそうです。しかし、映像を見ると、細かいところで相違はあってもそれは大したことではない。大筋の印象としては浪宅は歌舞伎の感触とさほど変わるところがないようで、その点でちょっと肩透かしみたいなところがあります。

聞く所では舞台稽古が大いに揉めたようです。白石との呼吸がどうしても合わなくて扇雀が「これでは芝居が出来ません」と抗議したので、武智は白石を鴈之丞(桜彩)に預けて女形の技巧を仕込んでもらったとのことです。また宅悦も当初予定した俳優が上手く行かないので大揉めして、伊藤に変更となったそうです。やっぱり役者が我を張り出すとこんなことになるのか、そんなこんなで普段の歌舞伎とちょっと異なる異種格闘技で互いの芸の応酬となる面白さを目指したはずが、結果的には無難な歌舞伎風味に塗り替えられてしまったところがあるようです。

それでは見るべきところがないかと云うと、決してそんなことはありません。まず扇雀の伊右衛門が興味深い。普通は伊右衛門は歌舞伎では色悪とされる役ですから、ちょっとニヒルな影を持ついい男、悪の太さを持つ色男ということになるはずです。そこへ上方和事の、柔らかいイメージを持つ扇雀を持って来たところが、興味深いのです。当時の扇雀は立役も少しづつ増えてはいましたが、まだまだ女形のイメージが強かったと思います。扇雀自身も「お岩ならば父(二代目鴈治郎)も演っているし出来なくもない気がするが、伊右衛門はまったく自信がない」ということで再三断ったそうですが、武智に説得されてついに折れたようです。

この配役に武智の「四谷怪談」観が窺われます。武智は「四谷怪談」を東(江戸)と西(上方)の対立項で読むという考え方でした。「東海道四谷怪談」と云いますが、タイトルの「東海道」とは何を意味するかと云うことです。別稿「四谷怪談の東と西」でも触れましたが、「四谷怪談」の主たる登場人物は「忠臣蔵」の塩治家(つまり播州赤穂浅野家)ゆかりの人物です。彼らが西から流れてきて、東の江戸で事を起こすという構図が「四谷怪談」である、つまりタイトルの「東海道」とは西と東を結ぶ線を示すというのが、武智の考え方です。(これについては武智の「忠臣蔵の新即物的演出」(昭和51年・定本武智歌舞伎・第1巻)に詳説されています。)

「四谷怪談」初演は文政8年(1825)江戸中村座のことですが、当時は江戸と上方の経済的位置が逆転し始める時期に当たりました。それ以前は上方が経済的に常に優位で、伊勢屋とか近江屋という屋号で分かる通り、江戸の大店はたいてい上方資本であり、江戸から上方へ資金が流れていく仕組みでした。江戸が経済的に優位に立っても、江戸町人の上方に対する引け目は、かなり根強く続きました。このことから武智は、お岩を上方から搾取される江戸を象徴するものと解釈し、対する伊右衛門は上方を象徴するとしました。上方を代表する芸と云えば、和事芸です。

もうひとつ大事なことは、伊右衛門を色悪として処理する歌舞伎への疑問です。 実は伊右衛門は自分の容色を武器に能動的に悪事を犯したわけではないのです。伊藤家の娘が伊右衛門に惚れたのは、あちらが勝手に惚れて、知らぬ間に当家の婿へという話が舞い込んで、ああなっただけのことです。お岩の面相が変わったのも伊藤家から貰った薬のせいで、伊右衛門が知らぬうちにそうなっただけのことです。お岩が死んだのも、伊右衛門が自分で手を下したわけではない。だから伊右衛門は結果的に女房を裏切っていて怪しからん男ですが、フラフラと流れに流されてそうなっただけのことで、自分がどうして悪いのか、どうしてお岩の幽霊に追い駆け廻されなければならないか、根本的に分かっていない人物です。伊右衛門は、受動的です。なぜか他人に愛されてしまう、なぜか他人から好意を持たれてしまう、それを当然のように受け取ってしまって流されてしまう、そのような人物なのです。

このことがすぐに和事芸に結びつくわけではないです(和事の定義については別稿「和事芸の起源」を参照ください)が、江戸から見ると和事というのはそういう風に見えているのかも知れません。例えば「廓文章」の伊左衛門ですが、あのアホボンが金がなくて紙衣着ててもどうしてあんなにモテるのかと思う方もいると思います 。何だかちゃっかりしているのです。伊右衛門も、まあそんな感じです。武智が伊右衛門に和事芸を重ねたいと考えたのは、大体、そんなところかと思います。

そこで扇雀の伊右衛門ですが、浪宅で登場した時には確かにハッとさせるものがあります。扇雀の身体から、いつもの歌舞伎の色悪とは違う、濃厚なぼんじゃりした色気が発散されます。これは素材的にとても興味深いものがあります。ただし演技的には、扇雀の方に色悪の伊右衛門へのこだわりが強いようで、どうも和事の伊右衛門になってはおらぬ気がします。従来通りの色悪らしく、線が太い悪人に見せようとする気持ちがまだまだ強いようです。この辺、武智の指導がどうであったのか分かりませんが、南北の生世話に和事芸を重ねるというならば、演技や台詞廻しにもうひとつ工夫があっても良かったのではないか。ということで、扇雀の伊右衛門は素材的には面白いというところに留まりますが、和事の伊右衛門の可能性は、今後も掘り下げてもらいたい課題だと思います。(この稿つづく)

(H29・11・16)


3)白石加代子のお岩

もうひとつの興味が白石加代子のお岩であることは、言うまでもありません。白石は当時からすでに狂気女優の異名を取っていました。濃厚な情念と腹の底からの声が出せることなら女優のなかでも飛び抜けていることは周知の通りで、これは歌舞伎のお岩を演らせてもいいところまで行くのではないかという期待ができそうです。舞台を見るとまあ確かに良く演っているのですが、前述の通り、特訓で歌舞伎の女形の技巧で塗りこめられてしまったために、普段歌舞伎のお岩を見ている者にとってはあまり変わらないものを見せられたようにしか感じません。ホントは「普段の歌舞伎と変わらないもの」を女優が演じていることの方を驚くべきなのですが、白石のやりたいようにやらせれば、もっとリアルなコワ〜いお岩が出来たようにも思えるのです。

まあそう感じるのは、実は見ているこちら側に過度な期待があるのかも知れません。歌舞伎の女形の代用を女優が勤まるかというのは、武智が「女形不要論」(昭和31年)で問題提起して大いに議論を巻き起こした問いでした。本来女優の代用が女形ですから、これは反義的な問いなのですが、これは昭和20〜30年代、歌舞伎が存続の危機に瀕していた時代には現実に差し迫った問題として在ったものでした。武智の弟子を自称している吉之助はもちろんこのことは理解していますが、昭和51年当時のことを思えば、世間に女形不要論はほとんどなかったと思います。平成の現在であれば、なおさらのことです。歌舞伎の女形は古き良き伝統芸能の象徴みたいに受け入れられていて、その存在意義が問われることがまったくありません。武智が白石のお岩で提起した問いを、 歌舞伎の切実な問題として真正面から受け止める土壌が、当時、すでにほとんどなかったのです。それが証拠に当時の劇評を見ると、扇雀の伊右衛門に比べて、白石のお岩についての言及があまりに少ないのです。

吉之助としては、白石のお岩を歌舞伎の女形の代用品としてでなく、女形を凌駕するものとして、と云う表現が悪ければ、女形とは別次元のお岩を表現するものとして、積極的な意義を提示できたならば、武智の問題提起はもう少し理解されただろうと思います。吉之助は白石ならばかなりやれたのではないかと想像しますが、もちろんそうなれば歌舞伎にならなかったかも知れませんが、そもそもこの企画で武智は「四谷怪談」を純然たる歌舞伎としてやる意図は毛頭なかったはずです。そう考えると、結果的に白石のお岩を歌舞伎の色に塗り込めてしまったことは、つくづく惜しかったと思いますねえ。

髪梳きでのお岩の怨念の台詞など、白石は腹の底からの低音が出せているので、普段歌舞伎を見ている人間にもあまり違和感がありません。これは鴈之丞の特訓の成果もあったと思います。違和感がないから劇評ではスルーされちゃってますが、ホントはこのこと自体が驚くべきことなのです。その点で白石はよく頑張っています。吉之助にはむしろ見た目の方に違和感があって、白石のお岩が何だか文楽人形のように見えたのが、興味深く思いました。つまりちょっとだけリアルでない感覚があるということです。これはホントに微妙な感覚で、どこがどう違うとは言い難いのですが、バランスとか線の太さとかいろいろあるのでしょう。男性と女性とは骨格が異なるのだなあということを、白石のお岩の白塗りの顔を見ていてつくづく思いました。

だから見た目の違和感はあるわけですが、普段歌舞伎の女形を見てそれがリアル感覚の基準になってしまっている吉之助から見れば、脆弱に見えます。 脆弱と云うのは、あくまで相対的な感覚で、良いとか悪いとか云うのではありません。むしろ現実の女性においては、これこそ本物の感覚です。もし江戸幕府からの弾圧がなくて歌舞伎が女優を使う演劇として正常に発展していたとすれば、これが女らしさのリアル感覚の基準となっていたはずのものが、異質に見えてしまうのです。歌舞伎の女形は、女らしさというものを現実とは違うもっと太い感覚で提示したということになります。歌舞伎は女形を全体のなかに位置付けることで、リアル感覚自体を作り変えてしまったということが、このことでもよく分かるのです。(この稿つづく)

(H29・11・18)


4)武智のテンポ感覚

映像を見て感じることは、思いの外、浪宅の芝居のテンポがねっとり遅く重ったるいことです。これは武智歌舞伎のテンポなのではなく、昭和50年代の歌舞伎のテンポ感覚を反映しているのだろうと思います。

吉之助がこの40数年歌舞伎を見て、またそれ以前の過去映像を見て来た印象では、戦後歌舞伎の約70年間のテンポ感覚は、遅くなったり早くなったり、波のようにゆっくりと微妙な変化をして来たと感じています。テンポというものは息の深さとの兼ね合いがあるので、物理的なテンポの早い遅いだけ議論しても一面的なことしか言えません。また演目や役者によっても変わるので、あくまで歌舞伎全体を見たところの吉之助のざっくばらんな印象ですが、戦後70年間を通じて、1950年前後から60年(昭和20年から30年辺り)の歌舞伎が最もテンポが早かったと感じ ています。(これは戦前からの傾向をそのまま引き継いでいるものと考えます。)その後、歌舞伎はゆっくりとテンポが遅くなって、1980年前後から90年頃(昭和50年から平成の始め頃まで)に最も遅くなったと感じています。その後は、揺り戻しのようにテンポがゆっくり早くなって来ますが、平成29年現在、まだ遅い感じに留まり、早いと云うところまでテンポは戻っていないという印象です。

昭和51年(1976)年の武智演出の「四谷怪談」のテンポは、戦後70年間で最も遅い時代の歌舞伎のテンポ感覚を反映しているのです。吉之助はこの時期から歌舞伎を見始めたのでこのテンポ感覚を身体で知っているので、さほど違和感はないですが、この映像を見て異様に台詞が遅くて重ったるいと吃驚する若い方は多分、多くいらっしゃるだろうと思います。吉之助が生で見たものでは、昭和54年(1979)9月歌舞伎座の六代目歌右衛門一世一代のお岩による「四谷怪談」のテンポの遅さが思い出されます。このお岩の髪梳きは歌右衛門三迷長のひとつと言われたものでした。

もうひとつ付け加えなければならぬことは、このテンポ伸縮の波は歌舞伎だけの現象ではなく、クラシック音楽においても、ほぼ年代的にシンクロした傾向が認められることです。つまりトスカニーニを代表とするノイエザッハリッヒカイトの世界的な芸術思潮が全盛の50〜60年代にテンポが早く、それが次第に退潮するにつれてテンポが遅くなるという傾向を示します。そして21世紀に入ってからややテンポを早い方へ若干戻しています。このように歌舞伎とクラシック音楽と全然関係ないような分野のテンポ傾向がシンクロするのは不思議なことですが、世界規模での時代的なテンポ感覚の波というものがあるということを指摘しておきたいと思います。19世紀半ばからの日本(つまり開国後の日本)は、たとえ伝統芸能であったとしても、世界情勢が醸し出す気分と無縁でいられるということはあり得ないのです。現代においてはなおさらです。

武智がクラシック音楽(例えばギーゼキングやフォイアマンの録音。トスカニー二のことは武智はあまり触れていませんが)を通じてノイエザッハリッヒカイトを感覚的に学んだところから、その後の武智の伝統芸能研究が出発したということは自身も再三書いていることです。そうすると武智の身体のなかにあるテンポ感覚は早めであったということは、容易に推測ができることです。これは武智が愛好したのが、豊竹山城少掾や六代目菊五郎、或いは四代目井上八千代の芸であったことからも裏付けされます。いずれもかつきりした理知的な芸風であり、テンポ感覚は早めであったと思います。同様にいわゆる「武智歌舞伎」(歌舞伎再検討公演)も昭和24年から27年頃のことですから、テンポは早かったと思います。

吉之助がクラシック音楽を聞き始めたのは1969年のことでしたが、聴いたのは当然60年代に録音されたカラヤン・ベームなど名指揮者たちのステレオ初期の名盤ということになり、これでテンポ感覚を刷り込まれたので、吉之助のなかのテンポ感覚もどちらかと云えば早めです。この感覚は固有のもので、生涯変わるものとは思われません。今でも吉之助にはこの時代の録音が感覚的に一番しっくり来る気がします。

吉之助が不思議に思うのは、武智のなかのテンポ感覚が早めであるはずなのに、どうして「四谷怪談」でこのテンポの遅さを許容したのかということです。吉之助の観劇随想をお読みになれば、吉之助がテンポやリズムをとても気にする批評家(それがフォルムの基本となると吉之助は考えているのです)なのはお感じだろうと思いますが、吉之助が演出するならば、この遅いテンポは早い方へ矯正したくなります。しかし、意外なことに、晩年の演出家武智は、どうやらこの種のことに鷹揚であったようです。あまり細かくうるさいことを言わなかったようなのです。その辺、武智は変なところで柔軟なのです。しかし、そのことを置いたとしても、この浪宅の芝居のテンポの遅さ・重ったるさは南北の生世話には全然なっていない印象で、吉之助が武智の本から学んで来たものと大分違う気がします。まあ演出家と云えども役者にやってもらわねばどうにもならないわけですから、実践と理論は異なるところがあるということなのですかねえ。(この稿つづく)

(H29・11・19)


5)武智版・「四谷怪談」の幕切れ

近年の歌舞伎では上演されても時間の関係で中途半端な出され方が多いですが、「四谷怪談」・夢の場は、本来疎かにされてはならない、とても重要な場面だと思います。怪談芝居においては、お岩を美しい姿で登場させることは、お岩に対する供養の意味があったのです。それは、お岩に対し「これが本当のあなたの姿なんだよ」と認めることであるからです。夢のなかで立ち寄った七夕の蛍狩りに美しい娘がいます。伊右衛門は心惹かれますが、ふと見ると娘の横顔が何となくお岩に似ているように感じます。

「そういうそなたの面差しが、どうやらお岩に・・・」
「似たと思うてござんすか。但し面影は冴えわたる、あの月影の移るがごとく、月は1ツ、影は二ツも三ツ汐(満汐)の、岩に堰かるるあの世の苦患を・・」
「ヤヤ、なんと」
「うらめしいぞえ、伊右衛門どの」

この場が転換して蛇山庵室となるわけです。夢の場で改めて気付くことは、伊右衛門・お岩の夫婦は、もともと親の反対を押し切って一緒になったくらいですから、互いに好き合っていたということです。「恨めしや伊右衛門どの・・・」と言うほどに、お岩の幽霊は伊右衛門に執着しています。一方、伊右衛門は、お岩の面相変えたわけではない(それは伊東家の人間が勝手にやったこと)・お岩を殺したわけでもない(家に帰ってみたらもうお岩は死んでいた)、まあ結果的に女房を裏切ってはいますが、「俺のせいじゃないよ、どうして俺がそんなに恨まれなきゃならないのよ」ということで逃げ回っています。そう云う伊右衛門も、どうしようもなくお岩に未練たっぷりなのです。こんなに惹かれあっていた夫婦が、どこでどう間違ってこういう関係になっちゃったのかねえ、悲しいことだねえ・・・ということが、夢の場の主題です。

武智演出の「四谷怪談」・幕切れ・蛇山庵室では、伊右衛門は度重なるお岩の幽霊の責めに遂に錯乱し、刀を振り回して自らの身体を傷つけ、片腕を切り落とし、血まみれになって、最後は自ら首を切り落として死んでいきます。お岩の幽霊がその首を持って高笑いして幕になります。もちろんこれは南北の原作にはまったくないもので、武智の作り替えです。これフロイト流に解釈するならば(いささか表層的なフロイト理解ではあるとは思うけれど、世間のフロイト受容は大体こんなところなので、そこのところはちょっと置きますが)、殺しちゃって自分だけのものにしちゃいたいほどお岩は伊右衛門が大好きということになり、伊右衛門の方もそのことが良く分かっていて、自責の念のなかで自傷して死すということになるでしょう。つまり伊右衛門は自裁するのではなく、自身がお岩の懐のなかに戻って行くという心なのです。遺された映像には夢の場が欠落しているので、この後の蛇山庵室との関連が確認出来ないのがとても残念です。多分、この幕切れはオスカー・ワイルドの「サロメ」(或いはR.シュトラウスの楽劇「サロメ」かも)と三島由紀夫の映画「憂国」(1966年)からの連想に思われます。つまりこれは武智流に解釈した「愛の死」なのです。武智と三島との関係については、武智の「三島由紀夫・死とその歌舞伎観」(1971年)をご参考にされると良いです。

映像でこの幕切れを見て吉之助もちょっと驚きましたが、やっぱり確信犯的にやったかというところで、武智らしい作り替えだと思います。武智歌舞伎は歪められた現行歌舞伎を正しい形に戻そうとする演劇運動だと思っている向きには、このような改変は噴飯ものということになると思います。そういう方の気持ちも分からないでもないですが、前述した通り、武智歌舞伎の原典主義というのは、原作通りに戻すということではないのです。それがテキストの徹底的な読み込みから引き出されることならば、その改変も正しいに違いない、作者もこれを認めるであろうとするのが、ノイエザッハリッヒカイトの原典主義の態度です。このことが分かれば、「四谷怪談」演出で武智がやったことは理解できると思います。これが武智歌舞伎の考え方なのです。

このことは、もし武智が次に「四谷怪談」演出した場合には全く違う解釈を取ることもあり得るということです。4年後の昭和55年に行われた演出家鈴木忠志との対談(定本武智歌舞伎・第6巻に所収)では武智は、伊右衛門は赤穂義士の仇高師直の動静を探るために伊藤家の婿に入るつもりであったのにお岩の幽霊がそれを阻んだという新説を言い出して鈴木を驚かせています。「武智さんはついこの間までこういう説だったでしょう、伊右衛門はお岩の保護をもとめたという・・」と言うと、武智は事もなげに「そうそう、あの(岩波の)時はね。私は思考錯誤の塊ですから、演出してみないと自分の誤ちに気が付かないから」と返しています。

この武智の発言はちょっと軽佻に聞こえるかも知れませんが、求められれば何通りにでも「四谷怪談」を演出して見せますというのも、プロの演出家の自負だと云えるかも知れませんね。

(H29・11・20)


吉之助の三冊目の書籍本です。

「武智歌舞伎」全集に未収録の、武智最晩年の論考を編集して、
吉之助が解説を付しました。

武智鉄二著・山本吉之助編 歌舞伎素人講釈

 


 




  
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