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五代目玉三郎の令和の桜姫

令和3年6月歌舞伎座:「桜姫東文章・下の巻」

五代目坂東玉三郎(桜姫)、十五代目片岡仁左衛門(清玄・釣鐘権助)、初代片岡孝太郎(葛飾のお十)、二代目中村錦之助(粟津七郎)、六代目上村吉弥(長浦)、五代目中村歌六(残月)


1)「桜姫・下の巻」の間尺のバランス

玉三郎と仁左衛門による、久しぶりの「桜姫東文章」は、4月の上の巻上演に続いて、今月(6月)は下の巻の上演です。本来は通し上演であるべきものをこのような変則的な形で上演するのは、主演ふたりの年齢的・体力的な問題であるとか、コロナ事情の時間的制約などに拠ることは言うまでもないことです。令和の世での再現はもはやありないと諦めていた昭和の伝説の舞台が、この形であっても、とにかく実現できたことは非常な意義があることで、若い歌舞伎ファンにとっては天啓にも似た衝撃があったに違いありません。これを実現してくれた玉三郎と仁左衛門にはただただ感謝を申し上げたいですが、批評家としては書かねばならぬので書きますが、ひと月間(ま)を空けての上下巻の上演は、やはり多少の無理があったことで、「桜姫」上演として十全な形を見せていたわけではないと云うことは言っておきたいと思います。もちろん見るべきものは随所にあります。そのことも含めて、以下感じたことをつれづれなるまま書いていきたいと思います。

まず「桜姫」を上の巻(発端・稚児ヶ淵から三囲まで)と下の巻(岩淵庵室から大詰雷門まで)に分けて、ストーリー的には、上の巻は時代で・下の巻は世話の基調であると、まあ概ねそんな感じに思えるかも知れませんが、実際には上の巻にも時代の基調に世話が刺さり込む場面があるので、なかなかひと筋縄では行かぬものです。例えば桜谷草庵では権助は時代物のなかに生世話で刺さり込む存在であるし、残月・長浦も場面をコミカルに引っ掻きまわすのが仕事ですから世話の役割を担っているわけです。

翻って下の巻を見れば、時代と世話は役で分かれると云うよりも、稚児白菊・・と清玄が言い出せば律とか定めの色合いが濃くなるから芝居の感触は時代の方へ触れますし、桜姫・・と清玄が云えば思いは現世的な色合いを呈するから感触は世話へ向かうという風です。これは桜姫においても同じことで、桜姫は律とか定めに関しては反応を見せませんが、吉田の家あるいは弟梅若・都鳥の一巻・・と云うことになると、桜姫は時代の感触へ即座にピッと戻るのです。つまり桜姫のアイデンティティーは隅田川の世界に在って・そこは揺らぐことはありません。そこがしっかりとあるから桜姫は大詰で姫の身分に戻っても違和感がないわけです。

つまり「桜姫」の筋は時代と世話との揺れを始終繰り返しながら流れて行くわけですが、下の巻に相当する後半においては特にその揺れが強いようです。だから「下の巻は世話のパート」と単純に割り切るわけには行かないのです。これを二つにぶった斬って上・下巻に仕立ててしまうことには、やはり若干の無理があったと思わざるを得ません。確かに平成16年7月歌舞伎座で玉三郎が段治郎と共演した時も上・下巻仕立(ただし場割りが今回とは少々異なりました)でしたが、同一日のなかでの昼・夜2部の通し上演であったおかげで、そんなに気になることではなかったのです。しかし、上の巻の三囲から事実上2ヶ月近い間を空けて、今回(令和3年6月歌舞伎座)下の巻の岩淵庵室を見ることになってしまうと、流れがなかなか繋がらず、芝居がスムーズに回転しない居心地の悪さ・もどかしさがかなり強いものでした。これは見る側の気分だけのことではなく、吉之助が見たのは2日目(4日)だったせいかも知れませんが、役者の方もペースをまだ手探り状態であったように思われました。加えて岩淵庵室の芝居が時代っぽい感覚で重ったるく、南北の生世話の軽妙さが表出できていない。それでもまあ玉三郎の桜姫が登場すると少しづつ流れがついてきたようでしたが、吉之助の場合は、この居心地の悪さがかなり長く尾を引きました。つまり正しい始まりがあるから正しい終わりがあるわけなので、どうやら今回の下の巻は正しい始まり方をしていないので、単体としての完結性(閉じた感覚)が乏しかった気がするのです。まあこのことは吉之助の芝居の間尺のバランス感覚の問題ですから、これ以上は説明がし難いですね。

コロナ仕様の時間的制約があるから実現はしないでしょうが、どうしても「桜姫」を上・下巻に分けなければならないと云うことならば、次善の策として吉之助は、「東海道四谷怪談」初演(文政8年・1825・江戸中村座)で2日掛かりで「忠臣蔵」とのテレコ上演がされた時に1日目の最後と・2日目の冒頭に「隠亡掘」を2回上演したのと同じ発想で、「桜姫」下の巻冒頭で「三囲の場」をもう一度上演してみることを提案したかったですねえ。こうすれば、上の巻からの流れにスッと入って行きやすくなるだろうし、下の巻のなかにそれなりに閉じた感覚を作ることも出来たのではないでしょうかね。(この稿つづく)

(R3・6・8)


2)南北物の残酷趣味について

『今はその筋の干渉と見物人の神経過敏をはばかって、場末の小劇場でさえも、旧劇(歌舞伎)を旧型のままに演ずることは絶無なのだが、明治10年前までの我が国の「血の悲劇」の演じ方は、実に比類のないものであった。権八の立腹や、天下茶屋や亀山仇討の返り討ちや、権三・権八の磔刑や、宗五郎一族の刑死や、与三郎の斬られや、小平次や正直清兵衛の殺しを今の神経の細い若い人たちに見せたら何と云うだろう!』(坪内逍遥:東西の扇情的悲劇・大正12年)

上に引用したのは、大正12年に坪内逍遥が書いた昔の芝居の思い出話です。明治10年頃までの歌舞伎では、血みどろで・残酷なシーンがたくさん見られたようです。しかし、明治の演劇改良の流れのなかで、明治末期までにそういう要素は払拭されてしまいました。それはともかく、上の文章を読むと、多分、「ああそうだろうねえ、そう云えば南北の芝居なんか確かにそんな感じだよね」と思ってしまう方は少なくないと思います。そういう時に脳裏に思い浮かぶのは、「絵本合邦衢」の倉狩峠一ツ家であったり、「桜姫」の岩淵庵室のシーンであったりするでしょう。ところが、文化文政期から明治大正期まで切れ目なく上演されてきた南北物は「東海道四谷怪談」くらいのもので、明治維新前後には南北物の上演がほぼ絶えていたのです。だから逍遥が思い出話で書いているのは、その類縁作ではあるのですが、直接的には南北物のことではないわけなのです。そこをごっちゃにしたところで、南北物はずいぶんと誤解されていないでしょうか。南北から明治維新までには、まだ数十年の歳月があります。南北から逍遥の証言にあるような血みどろ・残酷趣味の幕末歌舞伎に至るまでには、まだまだ長い道程(プロセス)があるのです。しかし、現代の我々は幕末歌舞伎の色眼鏡(フィルター)を通してしか南北物を見られないようです。

南北物の残酷趣味と世に云われるものは、幕末歌舞伎のように時代の閉塞感を背景にした・暗く湿って重く粘った感覚とは大分異なるものだと吉之助は思っています。むしろ南北物の残酷趣味は、キッチュ(俗悪で・安っぽい・滑稽で・時にはおぞましい)で乾いた・それゆえに軽い感覚として理解されるべきだと思います。吉之助はそこに文化文政期の庶民の活力と健康的な批判精神をみるのです。ですから南北物に欠かせない稀代の実悪・五代目幸四郎が描く悪人は、どこかマンガチックなものになります。アモラルな悪だから、薄っぺらで陰影がない。それは文化文政期の庶民の精神の健康さが生み出した悪だからです。(別稿「第二次南北ブームの絵本合邦衢」をご参照ください。)

「桜姫」初演(文化14年・1817・河原崎座)には幸四郎は参画していませんが、桜姫を演じたのは、これも南北物に欠かせない稀代の女形・五代目半四郎(当時41歳)でした。当然のことですが、半四郎が演じる悪婆は幸四郎の実悪に照応します。だから半四郎の芸風もキッチュで乾いた軽い感覚でイメージする必要があります。初演の清玄/権助を演じたのはまだ実悪見習い中の若き七代目団十郎(当時26歳)ですが、これも幸四郎をイメージせねばなりません。

そのように考えると、岩淵庵室の場の感触をどのようにイメージしたら良いかは自ずと決まって来ます。吉之助がイメージするのは、カラクリ仕掛けのように次から次へと繰り出される場面の変転、それらは一向に脈路がなく、一体次に何事が起きるか観客は全然予想が付かない、そんなところで観客を振り回すように芝居はテンポ良く軽快に進行するということです。これが南北の生世話の感覚にも通じるわけです。

さて今回(令和3年6月歌舞伎座)の「桜姫・下の巻」・岩淵庵室がそのようなキッチュで乾いた軽い感覚を体現できているかと云うことですが、残念ながら現代の歌舞伎役者は南北物を幕末歌舞伎の色眼鏡を通してしか再現出来ません。今回の岩淵庵室も時代っぽい感覚でテンポが重ったるく、南北の生世話の軽妙さが表出できていません。これは主役のふたり(玉三郎と仁左衛門)もそうなのだが、この場面では特に残月(歌六)・長浦(吉弥)の責任が大きいです。やはりどうしても幕末歌舞伎の「らしさ」に傾いてしまい勝ちのようです。

つい五十年くらい前(1970年代)の話ですが、歌舞伎史に第二次南北ブームと云われた時代があって、写実・バラ描きの南北の様式を模索しようと云う動きが確かにありました。しかし、残念ながら、その試みもいつの間にか雲霧散消してしまいました。この事情については別稿「南北の感触は何処に」で触れましたので、本稿ではこのくらいにしておきます。(この稿つづく)

(R3・6・10)


)清玄の業の仕業

「岩淵庵室」で起こるドラマは、輪廻転生の論理(つまり建前と云うか時代の論理)を振り立ててひたすらに桜姫を追う清玄と、折助との道ならぬ恋(つまり本音と云うか世話の論理)に生きようとして清玄から逃げ回る桜姫という構図に捉えることはもちろん出来ます。しかし、それは表面で起きている出来事に過ぎません。裏から見れば、「来世で生まれ変わって結ばれよう」と云う稚児白菊との17年前の約束を破った清玄がその不実を責められるドラマなのです。そうすると表では清玄は時代の論理を背負い・桜姫は世話の論理を背負うと見えた関係性が、裏では逆転することになるのです。すなわち、裏の見方からすると、桜姫への身を焼かれるような情欲(つまりこれが本音と云う世話の論理)にもだえ苦しむ清玄と、自らが背負った業(ごう)の定めるところ(つまり律という時代の論理)に操られて・ただ清玄を拒否するためだけに折助と恋して堕落の道を歩む桜姫という構図になっていくのです。(別稿「桜姫の業(ごう)の仕業」をご参照ください。)

「岩淵庵室」を見る時には、この表と裏の見方が同時に必要です。場面によって、表が見えたり・裏が見えたりするのです。どちらの見方が欠落しても、「桜姫」の正しい様相は見えて来ません。但し書きを付けますが、ここでは表と裏と便宜上云っていますが、裏と表はメビウスの帯のようによじれているのです。実は表が裏であり、裏が表でもあるのです。稚児白菊・・と清玄が言い出せば律とか定めの色合いが濃くなるから芝居の感触は時代の方へ触れますし、桜姫・・と清玄が云えば思いは現世的な色合いを呈するから感触は世話へ向かうわけですが、状況に拠って桜姫は自在に色を変えます。それは桜姫が二面性を見せているように思うでしょうが、そうではありません。実はそれが桜姫の業と云うものの在り方なのです。真言密教の根本経典と言うべき「理趣経」の冒頭に次のような文章があります。

『妙適清浄の句、是(これ)菩薩の位(くらい)なり。欲箭(よくせん)清浄の句、是菩薩の位なり。蝕(しょく)清浄の句、是菩薩の位なり。愛縛清浄の句、是菩薩の位なり。』

つまり、桜姫という業の存在は真言密教の教えそのものであり、その存在によって清玄の不実を問うているのです。鎌倉の長谷寺は真言宗豊山派のお寺です。阿闍梨とは密教の修業をし灌頂(かんじょう)を受けた僧のことを云います。桜姫への思いに悶え苦しむ阿闍梨清玄がこのことを分からぬはずがありません。清玄は理趣経が教えるところを眼前に見たことでしょう。だからこそ清玄にとってあまりに救いがないことになります。これが「岩淵庵室」で起こっていることです。

しかし、「岩淵庵室」で清玄が死ぬことで、何かが変ったような気がします。清玄は死んでしまって許されたかどうか・それは分かりませんが、清玄は死んだけれど、どうやら業だけが残ったようです。ここで初めて清玄の業というものが出て来ます。この後に出て来る清玄の幽霊は、ただ現れるだけで何もしない・スカみたいな幽霊です。それはただ業を背負って現れるだけのことです。しかし、「岩淵庵室」幕切れの場面を見ると、清玄と桜姫との関係がこれまでとは微妙に変化したことが明らかです。権助の顔に青い痣が現れて、その面差しが清玄のように変わります。

(桜姫)ヤ、その面差は、清玄どの。
(権助)エエ、おれだわな。
(桜) ほんに其方は。
(権) 権助だよ。
トこれにて桜姫キツと気を変え
(桜) 所詮この身は
(権) ヤッ
(桜) 毒くはば
ト思い入れ。これを木の頭。権助びっくりして
(権) イヤ、去りやアしねえよ。

それまで「稚児白菊とは何じゃいなあ・・」と言っていた桜姫が、輪廻転生・因果の道理の存在をまざまざと実感して、桜姫は「所詮この身は・・・毒くはば(皿)」という言葉を吐きます。ここでの桜姫は「それでも私はこれからも本音で生きていく」と言いたいのでありましょうか。イヤ自らの業に流されるまま堕落してしまった自分は「もう後戻りはできない、とことん堕ちて行くしかない」と云うことも知れません。そのどちらでもあると思うのです。

今回(令和3年6月歌舞伎座)の「桜姫・下の巻」では、この場面での玉三郎の桜姫の「毒くはば」の台詞が、何とも凄まじかったですねえ。この箇所は吉之助がこれまで見た玉三郎の桜姫ともまったく違っていて、地声を使って(玉三郎の地だから野太いと云うわけではないけれど)、何もかもかなぐり捨ててしまおうと云うような・開き直りとも思えるような・生々しい叫び声でありました。この「毒くはば」を聞いただけで今回の桜姫を見た価値があったと思わせました。

ところで桜姫の「毒くはば」の後の、権助の「イヤ、去りやアしねえよ」は「皿(去る)」に掛けているわけですが、大南北全集だと「イヤ」が入っていますから・ここで前の桜姫の時代の調子をいなして、「去りやアしねえよ」を生世話に軽く流す設計になっていることが明らかです。しかし、現行脚本だと「イヤ」が抜けているようです。そうすると「去りやアしねえよ」全体を世話に流したのでは、ちょっと物足りない。悪いとまでは云いませんがね。ここは、「去り(皿)・・」を前の桜姫の時代の調子にリズムを連ねて発声して「・・やアしねえよ」で一転世話に流すやり方の方が、仁左衛門の権助の粋が一層映える気がしますが、如何なものですかね。(この稿つづく)

*台詞は「大南北全集・第8巻」(春陽堂)より。

(R3・6・11)


4)玉三郎のための「桜姫」

「桜姫」の台本を読むと吉之助は、これは芝居の本筋から離れることではあるけれども、もし南北が「山の宿」の前場として「小塚原女郎屋」の場でも書いてくれていれば滅茶苦茶面白かっただろうにと想像することがあります。言い寄る客を桜姫(風鈴お姫)が歌など詠んで片っ端からビシバシ撥ねつける、お姫さまが簡単に客になびくわけには行かないのです。それでもやっとお床入りにまで漕ぎつけた客がイザ・・と云う時に青白い顔をした清玄の幽霊が枕元に現れて店は大騒ぎ・・というのは、なかなか笑える場面だろうと思います。(誰でも思い付きそうなこの場面がないのは、もしかしたら、品川宿の女郎が京都の日野中納言の娘だと称して大いに話題となったが・お上から不届きだと云う理由で処分されたと云う事件が原因して、そこまであからさまに描くのを憚ったと云うことかも知れません。別稿「桜姫の女のプライド」を参照ください。)

このため桜姫は店をたらい廻しにされたあげく戻されますが、ここで分かることは、結局、桜姫は女郎の「商売」をしなかったということです。つまり枕元に現れた清玄の幽霊が、桜姫を汚辱から守ったことになるわけです。しかし、清玄の幽霊はしつこく桜姫に付き纏うけれども、何をするわけでもありません。自分の業(ごう)の哀れさをただ寂しく見せるだけ、それが清玄の幽霊が出来るせめてものことです。

ここで話をちょっと戻すと、次から次へと言い寄る男たちをビシバシ撥ねつける「女のプライド・気位いの高さ」ということは、「桜姫」を読む場合に結構大事なことだと吉之助は思っているのです。そう思ったきっかけは、玉三郎が前回桜姫を演じた時の印象(平成16年7月歌舞伎座・段治郎の清玄/権助)に起因します。文化14年(1817)3月河原崎座での初演では、桜姫を演じた五代目半四郎は当時役者として脂が乗り切った41歳、清玄/権助二役を演じた七代目団十郎は26歳でした。この年齢バランスは、前回の玉三郎(当時54歳)と段治郎(当時35歳)に近かったわけですが、芝居のなかで桜姫役者のウェイトが突出していることが案外この作品の要件なのだなと思えたのです。誤解ないように付け加えますが、もしかしたら段治郎の影が薄いと云う風に聞こえたかも知れませんが、そう云うことは全然ありません。しかし、舞台は玉三郎のための「桜姫」と云う印象を呈しました。このため「桜姫」の世界全体を貫く心棒としての桜姫の業(ごう)の重さを強く感じました。

今回(令和3年6月歌舞伎座)「桜姫」では、玉三郎(71歳)の重さに拮抗する仁左衛門(78歳)を持って来ましたから、配役バランスが変化することで印象がどこか変わるか?ということが吉之助のひとつの関心事としてありました。結果としては、今回の舞台も印象として変わることなく、玉三郎のための「桜姫」という姿を正しく見せて、むしろさらに安定感を増したと云うべきでしょう。桜姫という存在が宇宙の整合性を消し去り、この世の本来あるべき姿をねじれさせていたのです。清玄も権助も残月も長浦も、桜姫を振り回しているように傍からは見えたけれど、実のところ彼らは桜姫の業に翻弄され振り回されていたのです。桜姫はこの世の連関性喪失を象徴するものとしてあるのです。つまり、「桜姫という業」がデンとして作品の中心に一貫してあると言えます。今回の玉三郎の桜姫にも、そのような印象がしっかりありました。そこに玉三郎の芸の成熟を見ることが出来ると思います。またこれを巧みにサポートした共演の仁左衛門の功績と云うことでもあろうと思います。

玉三郎の桜姫の成熟は、「山の宿」において・酒に酔った権助がボロボロと自分の悪事をバラしてしまうのを・じっとうつむいて聞いている桜姫の横顔によく出ていたと思います。桜姫は権助の相手をしながら、大事なことをすべて聞き出してしまいます。桜姫は決して動じません。桜姫のアイデンティティーは隅田川の世界に在り・そこはまったく揺らぐことはないということです。これが確固としてあるから桜姫は大詰で姫の身分に戻ってもまったく違和感がありません。このことが作品の中心に桜姫という業がデンとして在る印象と見事に合致します。

別稿「三島由紀夫と桜姫東文章」で三島由紀夫の絶筆「豊穣の海」結末について考えました。本多繁邦は月修寺門跡(聡子)と会いますが、門跡がかつてあれほど愛し合った恋人・松枝清顕のことをすっかり忘れてしまっていることに驚いてしまいます。

「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもあられなんだ、ということではありませんか? その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?」
(中略)
「しかしもし、清顕君が初めからいなかったとすれば」
と本多は雲霧の中をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のようにおもわれてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。
「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」
門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
「それも心々(こころごころ)ですさかい」
(三島由紀夫:「豊饒の海・第4巻・天人五衰」最終章)

大団円で桜姫が元の身分に平然と戻ってしまうことも、上記「豊穣の海」結末部とまったく同じようなものです。桜姫はこれまで起こったことを全部否定して・ひっくり返して・元の姫に戻るわけではありません。吉之助には、閉じた円環がひと廻りして・また元のところに戻ったようにしか思われません。桜姫はこんなことを考えていたに違いありません。

「こうすれば白菊丸も自休もいなかったことになる。清玄も権助もいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・それも心々ですさかい」(この稿つづく)

(R3・6・14)


5)玉三郎の昭和と令和の桜姫

別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」において、歌舞伎における玉三郎の三役ということを書きました。そこで吉之助が挙げたのは、桜姫(風鈴お姫)と雲の絶間姫・それとお軽の三役でした。これらの三役に共通するのは、軽やかな「しゃべり」の芸ということです。玉三郎以前の女形(これには六代目歌右衛門も含まれます)にも「しゃべり」の芸はありますが、軽やかさの印象は乏しかったと思います。伝統芸能としての女形の「しゃべり」は、どちらかと云えば、アクが強く・重ったるく粘って・しかもどこか暗いと云うのが、従来の印象であろうと思います。しかし、上記・三役での玉三郎のしゃべりは、軽やかでした。もちろん様式的な裏付けもしっかりあるものですが、伝統的な女形のエグ味から開放された爽快感があったのです。そこが現代的でした。

山の宿での風鈴お姫の、姫言葉(時代)と女郎言葉(バラガキの生世話)の様式は、その裏付けになるところの役の性根を把握したところでなければしゃべることが出来ないと考えるのが、普通のことです。バラガキであっても姫の気持ちで云う場合もある、逆に姫の時にもフッとバラガキな気持ちになることもある。近代演劇の発想であると、そう云うことになるわけです。

吉之助が玉三郎の桜姫を最初に見た時(昭和53年10月新橋演舞場、この時の清玄/権助は海老蔵・後の十二代目団十郎)の衝撃は、今も鮮やかに思い出されます。吉之助の記憶では、玉三郎は、姫言葉と女郎言葉のフォルムをそのまま素直に発声することに徹していたと思います。もしかしたら何も考えていないように聞こえたかも知れませんが、そう云うことではなくて、台詞(様式)から役の心情を語らしめようとしていたと云うことです。これが伝統的な女形のエグ味から開放された爽快感・軽やかさに通じるのです。

その結果、浮かび上がることは、ひとりの人間から桜姫(姫)と風鈴お姫(女郎)のふたつの像が乖離して見えて来ると云うことです。一貫した一つの人格が立ち現れるのではなく、これは二つの人格でもあり・同時に一つの人格でもあるという現象を呈するのです。カチャカチャとチャンネルを切り替えてデジタル的に姫言葉と女郎言葉を処理する、とても技巧的かつ装飾的な桜姫になったのです。このことが玉三郎の桜姫を現代的な感触にしました。

吉之助は昭和期の玉三郎の桜姫の歴史的意義をそのように総括しますが、あれから40年近い歳月が経ったわけです。そこで、昭和の桜姫から、平成の上演平成16年7月歌舞伎座)を経て、今回(令和3年6月歌舞伎座)上演へ至る道のりで、玉三郎の桜姫に確認出来る大きな変化は、受ける印象が軽やかさよりは安定感の方へ、低重心の演技に、桜姫が変化したということですかねえ。もちろんこのことは年季を経た役者の芸の成熟としても理解ができます。

風鈴お姫の姫言葉と女郎言葉の使い分けで云えば、以前よりもテンポの伸縮が強めになって、表現の振幅が広がったようです。台詞の様式と役の性根の裏打ちを玉三郎が考え始めたような印象を受けるのは事実です。決して重ったるくなったわけではないけれど、このため軽やかさの印象は後退して、濃厚でたっぷりした味わいが前面に出て来たようです。このことは南北のフォルム(様式)を考えた時に、一長一短あることのようにも思われます。吉之助が映像でみた雀右衛門(昭和42年3月国立劇場)・あるいは歌右衛門の桜姫の感触にやや近くなったと云うことかも知れません。つまり「桜姫東文章」が「四谷怪談」のように歌舞伎のなかで切れ目なく上演されていたとすれば、伝統の手垢もついて・こんな感じの桜姫になったかなあと云う感じでしょうか。(付け加えれば、この伝統の手垢がついた感触は、玉三郎だけが醸し出しているものではありません。だから問題なのだが。)

そのように考えると、今回の桜姫は、玉三郎の桜姫として、まったく新しいステージに入ったという評価も出来ると思いますねえ。吉之助は、自分のなかの桜姫のイメージが塗り替えられた気がしました。これはもちろん良い意味で言っております。ただし昭和期の玉三郎の桜姫の幻影に固執するわけでもないが、吉之助には尚あの桜姫の「軽やかさ」にも未練が残ります。(この稿つづく)

(R3・6・18)


6)玉三郎の昭和と令和の桜姫・続き

昭和期の玉三郎の桜姫については、吉之助は、桜姫は運命のいたずらに翻弄されて・右に行ったり左に行ったりして・いわば他動的に分裂した性格の変幻を見せる役であり、そこで玉三郎が持つ「軽やかさ」が生きるという理解をしていました。近代的感性においては、対象(イメージとしての像)は絶えず動いており、定まることがありません。見定めよう・特定しようとすると、それはスルリと逃げる、あるいは別の像に変わる、そういうことを絶えず繰り返します。「私」が対象を見定めようとしても、それを掴むことは不可能なことです。(別稿「伝統芸能の動的な見方」をご参照ください。)姫言葉(時代)と女郎言葉(バラガキの生世話)をチャンポンにしゃべる玉三郎の「軽やかな」しゃべりは、そのどちらでもあり・どちらでもないという不思議な感触によって、まさに現代にしかあり得ない、新しい女形の「未来」を吉之助に予感させたわけです。

ところで、「私」が対象を見定めようとしても・それを掴むことは不可能なことと書きましたが、それでも「私」は決して諦めることなく、尚それを掴もうともがくのです。それは何故かと云うと、対象が実在感を以て「私」の目に映っているからです。それが決して幻でないことを「私」が確信しているからです。

今回(令和3年6月歌舞伎座)の玉三郎の桜姫は、対象が持つ実在感(質量感・重量感)・対象が周囲に及ぼす作用(場をねじれさせる力)に関して、濃厚な色彩と重在感で以て、桜姫の業(ごう)の存在を吉之助に実感させました。桜姫が宇宙の中心に居座わり、目には見えねどこの世の本来あるべき様相を捻じれさせ、周囲の人々を翻弄しているのです。今回の玉三郎の桜姫を見ると、このことが確信となります。ですから前項で「玉三郎の桜姫はまったく新しいステージに入った」と書きましたけど、実体としては同じようなものであるのだけれど、昭和の時よりも令和の「桜姫」の方が、玉三郎の桜姫の芝居のなかでの質感がずっと重くなって・より中心にドンと居座る感じになっているから、そのように違った様相に見えて来るのです。

ここで「桜姫が周囲を翻弄している」という確信に大いに貢献しているのが、仁左衛門の清玄です。清玄阿闍梨は水もしたたる風情で、その清浄さは見事なものでした、一方、破戒した後の清玄の惨めさ・みっともなさはまったく見ていて情けなくなるほどで、その転落の落差が凄まじい。清玄の立場から見える、白菊丸から桜姫に一貫して流れているものの存在を、仁左衛門の清玄は観客に確信させてくれて、昭和の時よりも一段と進化した印象です。だから今回の「桜姫」では、「桜姫対清玄」という構図がしっかり出ました。今回の「桜姫」の成功は、仁左衛門の清玄抜きであり得ないとさえ思いますねえ。

他方、同じく仁左衛門が演じるもう一役の権助の方は、線の太い野性味と云う点で、ちょっと物足りない感じがします。もっとギラギラと脂ぎった体臭が欲しいところですが、細身の仁左衛門であるとそこは致し方ない。清玄がひとりの男の「精神」を表徴するものであるならば、権助は「肉体」を象徴するということです。そのために南北は、清玄と権助が幼い時にはぐれた双子の兄弟であると云う設定をしているのです。仁左衛門がやるといい男になってしまうのは当然ですが、桜谷草庵の色模様が、いい男といい女の色模様になってしまうのではちょっと違う。4月・上の巻の大評判がそれ故であったことは承知していますが、これでは芝居は本来のキッチュな感覚から外れてしまうことになります。

もうひとつ仁左衛門の権助への不満は、台詞がまったく七五に割った黙阿弥調で、バラガキの南北の生世話の役になっていないことです。「桜姫」の登場人物のなかで、権助は場違いなくらい徹底した生世話の役であるべきです。仁左衛門の権助は、七五の台詞の様式性のおかげでどことなく時代っぽく、幕末歌舞伎の人物の雰囲気がします。これは昭和の仁左衛門の権助もそう云う感じがありましたが、令和の権助はその感覚がますます強くなりました。これではお姫様と折助とのミスマッチな出会いが効いて来ないことになります。この点については、別稿「南北の感触は何処に」で触れましたから、ここでは繰り返さないことにします。(この稿つづく)

(R3・6・20)


7)その決断の「軽やかさ」

それでは吉之助は玉三郎の、昭和と令和の桜姫の、どちらを評価するのか?と問われるだろうと思います。どちらの桜姫もそれなりに・・・と答えるべきでしょうが、こう云う評論サイトをやってるからには、そういうわけにもまいりません。ともあれ、どちらの桜姫が南北の様式として正しいかという問いならば、あまり意味がないかも知れません。どちらの答えも有り得るからです。しかし、もし「桜姫」が「四谷怪談」と同じように、文化文政期から現代まで切れ目なく上演されて来たとすれば、恐らく桜姫は伝統の女形の技法で処理されて、古色に染まった重く粘った印象に仕上がっただろうと思うのです。それは桜姫(姫)と風鈴お姫(女郎)のふたつの像を一貫した一つの人格(性根)で統合しようと云う方向において成立するものです。歌右衛門や雀右衛門が演じた桜姫は、そのような感じではなかったかと想像します。今回(令和)の玉三郎の桜姫は、ややその線に近い方向へ変化したかなと感じます。それは年季を経て玉三郎の女形の技芸が練れて来たことの結果です。それは決して悪くなったと云う意味ではなくて、令和の玉三郎の桜姫は、その濃厚な色彩と実在感で、「桜姫」の業(ごう)の本質を見事に明らかにしてくれました。そこに吉之助は今回の桜姫の意義を見ます。

しかし、どちらの桜姫がより現代的であるか?と云う問いならば、吉之助の答えは明確です。それは昭和の桜姫の方です。昭和の玉三郎の桜姫の方がより現代的である・それゆえ女形の未来への示唆を持つという考えに揺るぎはありません。吉之助は桜姫の「軽やかさ」に現代的な要素を見るのです。

表現する行為とは、あれやこれや湧き上がるイメージの選択肢を切り捨て、ひとつの形を選び取る行為でもあります。芸術家はその選択に責任を持たねばなりません。そうすると芸術家は、熟考に熟考を重ねて呻吟の果てに幾多のイメージを切り捨てて、これをひとつに選び抜くという、実に重い選択をしなければならないことになるのでしょうか?もちろんそういう場合もあると思います。しかし、そうでない場合もたくさんあると思うのですね。「こっちもいいねえ、あっちもいいねえ、それも捨てがたいね、でも今回はまっこれでいいかな、エイヤッ」というような、軽やかな選択もあり得るはずです。イヤ実際には、そちらの方がずっと多いと吉之助は思うのです。これは実際、吉之助が文章を書いていてもそう云うものだからです。しかし、そのような「軽やかな」選択においても、選択の責任は必ず付きまといます。選択が重くても・軽くても、芸術家は世間の評価という形で重い結果を負わねばなりません。このことは表現行為のパラドックスと云うべきです。

桜姫の「軽やかさ」がドラマのなかで決定的な意味を持つのは、風鈴お姫が清玄の幽霊の前で長台詞をまくしたてる場面ではありません。あの場面はもちろん見せ場・聞かせ所ですが、角度を変えて見るならば、如何様にも姿を変える桜姫の業(ごう)の有様を見せる場にしか過ぎません。しかし、この長台詞で桜姫の「軽やかさ」を観客に印象付けておくから、このことが次の場面で決定的な意味を持つことになるのです。それは、へべれけに酔った権助が自分の悪事をボロボロしゃべってしまって・すべてが明らかになった後、桜姫が我が子を殺し・我が夫(権助)を殺すと云う「選択・決断」をすると云うことです。ここで桜姫の「軽やかさ」の意味が分かるのです。桜姫の決断にも、選択肢がいろいろ有り得たはずです。しかし、結果としてこれは「こっちもありか、あっちもありだ、それも捨てがたい、しかし今回はまっこれで行こうか、エイヤッ」と云う、軽やか〜な決断なのです。言い換えると、この決断をそのような感じに「軽〜く」見せるために、南北は風鈴お姫の長台詞を意図してその前に置いたわけです。更に遡ってそこに至るまでの経緯を見れば、「桜姫」のドラマが走馬灯のように目まぐるしく展開していたことにも、実は桜姫の「軽やかさ」」が全体に反映していたことが明らかです。

桜姫が桜姫が我が子を殺し・我が夫(権助)を殺す・そして元の吉田家のお姫様に戻るという結末について、「桜姫」を初めて見た人には、唖然とする方が少なくないだろうと思います。桜姫の決断は、非人間的でまったく許せないと感じる方も少なからずいるだろうと思います。或いは、このような「重い決断」をするからには、桜姫の決断は相応な重さを持つ深刻かつ厳粛なものでなければならぬと考える方もいらっしゃるでしょう。これは浪漫的な感性で芝居を見るならば、確かにそうなります。

ところが、芝居の筋というのは、そのような重い論理的展開をするものばかりとは限らないのです。桜姫の決断は、実は軽やか〜な決断です。その後の筋の展開はいろいろ考えられます。しかし、もう暗くなって芝居を続ける時間もそんなに残ってないし・・・そろそろ結末を付けないとね・・・と戯作者鶴屋南北は軽〜い選択をしちゃってるのです。これはパソコンのリセット・ボタンをポチッと押して「元へ」と云う感覚に近いものです。この感覚は、ぐるりと回った円環がもとの所に戻ったのと似ています。大した力を込めなくても、それは元居た場所(出発点)に自然に戻る、円環のストーリーとはそう云うものです。これがまさに輪廻転生の円環のイメージなのです。だから結末が「こうすれば白菊丸も自休もいなかったことになる。清玄も権助もいなかったことになる。・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」というイメージになるのです。これは、とてもシュールで現代的、なおかつとても形而上学的な結末ではないですかねえ。つくづく南北は凄い作家だと思います。

ですから南北としては、桜姫が我が子を殺し・我が夫を殺すところで「まず本日はこれ切り」で幕を閉めたって良かったわけなのです。しかし、それでは御見物にサービスがちょっと足りないかも知れない。だから大詰・浅草雷門の場で綺麗な桜姫を見せて・ここで「まず本日はこれ切り」として、御見物にいい気分で芝居小屋をお帰りいただきましょうと云うわけです。「桜姫」の結末とは、そう云うことなのです。

(R3・6・22)

*令和3年4月歌舞伎座:「桜姫東文章・上の巻」の観劇随想もご覧ください。

*補足記事として、別稿「鶴屋南北と現代」を追加しました。


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