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南北の感触は何処(いずこ)に〜「於染久松色読販」

令和3年2月歌舞伎座:「於染久松色読販」

五代目坂東玉三郎(土手のお六)、十五代目片岡仁左衛門(鬼門の喜兵衛)、四代目河原崎権十郎(山家屋清兵衛)、九代目坂東彦三郎(油屋太郎七)他


1)第二次南北ブームとは何だったのか

戦後の1970年代(昭和45年〜55年頃)は第二次南北ブームと云われて、新劇・アングラ演劇などで鶴屋南北がよく取り上げられた時代でした。(ちなみに第1次は大正〜昭和初期の二代目左団次劇団による一連の復活上演を指します。)どうしてこの時期に南北作品が流行ったのでしょうか。60年代の安保闘争・大学紛争は、この時代の若者を巻き込む激しい渦のようでした。しかし、社会の公正・不公平を糾弾しこれを糺そうとした若者たちの理想は、70年代に入ると、「体制」と呼ばれた既成の社会構造に力で押し潰されてしまいました。さらに学生運動自体も内部闘争を繰り返し、自己崩壊しました。深い挫折体験を味わった若者たちが演劇の世界に身を投じ、社会の底辺に蠢く庶民の、ドロドロと汚い、しかししたたかな生への執念が渦巻く世界がリアリティーを以て迫って来たのだろうと思います。当時、鶴屋南北は「怨念の作家」と呼ばれたものでした。彼らは南北物を体制批判のエネルギーを秘めた民衆劇であるとみなしたのです。まあ正直なところ南北がそういうつもりで書いたかは疑問だと思うけれども、少なくともその萌芽みたいなものはあったと思います。アングラ演劇の人たちが南北物をそう読んだということは、これはひとつの読み方として認めたいと思います。

吉之助は上記若者世代より約10年遅く生まれたので、この時代を直接的に体験してはいませんが、もちろんこの時代の雰囲気をよく覚えてはいます。吉之助は70年代の第二次南北ブームにどうやら間に合った世代です。この時期、歌舞伎でも南北作品が(今時と比べれば)比較的よく取り上げられました。70年代の南北ブームで活躍したのは、玉三郎・孝夫(現・仁左衛門)・海老蔵(十二代目団十郎)・辰之助(三代目松緑)・猿之助(現・猿翁)と云った面々でした。当時の若手連中は頻度の差はあれ誰もが何らかの形で関わったと思います。

しかし、第二期南北ブームは、歌舞伎が牽引したわけではありません。むしろその逆で「新劇やアングラ演劇で好評だったようだから・歌舞伎でも取り上げて見ようか」という後ろ向きの姿勢であったと思います。例えば「盟三五大切」も、劇団青年座が石沢秀二演出で昭和44年(1969)6月に取り上げた方がずっと早くて、歌舞伎での復活上演(昭和51年・1976)・8月国立小劇場・郡司正勝演出)は新劇の好評を受けての後追い企画でした。郡司先生が「盟」の演出依頼を受けた時、ご本人は並木五瓶辺りがやりたかったらしく・南北には全然気乗りがしなくて、「南北なんてやる意味ない」と大いにご不満であったそうです。当時の吉之助は「南北物ならば郡司正勝」と信じていたものでしたが、郡司先生にしてこれなのだから・他は推して知るべしです。恐らく戦後歌舞伎史でも「70年代は第二次南北ブームであった」と記されると思いますが、歌舞伎は何か問題意識があって南北物を取り上げたと云うことではなかったわけです。

結局、南北物をやることが、社会思想史的に或いは演劇史的にどういう意義を持つか、歌舞伎は歌舞伎なりにそこを明確にしなければならなかったのに・それをしなかった。そのことが、50年後の令和の現在(2021年)に至るまで、歌舞伎に禍根を残すことになったと思うのです。未だに南北物は乞食・非人・お化けや死体などが出て来てハチャメチャだから面白いという程度のご理解です。現状を見れば、あの時代(70年代)に復活された南北物が、歌舞伎のレパートリーとして定着したとは、ほとんど言えないでしょう。これらが定着していれば歌舞伎の演目は随分豊かになったと思うのですがねえ。「桜姫東文章」や「於染久松色読販(お染の七役)」などは、多少は他の役者も演じたにしても、玉三郎絡みで観客のなかに「昭和の伝説の名舞台」という記憶で繋がってようやく生き残ったようなものです。歌舞伎にとって、あの第二次南北ブームとは一体何だったのですかねえ。

そんなことを今回(令和3年2月歌舞伎座)の「於染久松色読販」(おそめひさまつうきなのよみうり)の舞台を見ながらつくづく思ったのです。演じるのは、若き日にあの第二次南北ブームで脚光を浴びた玉三郎と仁左衛門(当時は孝夫)のコンビです。昔は「孝玉」或いは「T&T」と呼ばれて人気だったお二人です。悪かろうはずはない・・・と云うことで、コロナ緊急事態宣言の下ではあるが客足もわりかし良いようであるし、お二人の美しい舞台姿に観客もご満足のようで、まずは目出度い。

まっそう云うわけで舞台は愉しませてもらいましたが、吉之助は批評家であるから、それで終わるわけには参りません。吉之助には、今回の舞台が南北物のフォルムを正しく体現できていたのかが、とても気になります。残念ながら、それは出来ていなかったと思いますねえ。随分と黙阿弥テイストの南北になっていたと思います。伸びた饂飩のような感触とでも云いましょうか。これが幕末の黙阿弥物の類であるならばそれなりだと思います。玉三郎も仁左衛門も台詞を気持ちよく謡っています。これは恐らく歌舞伎役者として年季を経て「らしく」練れた感触となって来たということなのでしょう。そこのことこそが問題なのです。南北の感触は何処に?若き日に歌舞伎の第二期南北ブームを引っ張ったはずの玉三郎と仁左衛門であるのに、その50年後の舞台がこうなってしまうのか・・と云うのは、これは何とも残念です。ここでも「あの第二次南北ブームとは何だったのか」ということが改めて問題になって来ます。

3年前(平成30年・2018・3月歌舞伎座)にも同じく玉三郎と仁左衛門で「於染久松色読販」が舞台に掛かりました。吉之助はこの時の舞台も見ましたが、感心出来るものではなかったので敢えて観劇随想は書きませんでした。今回も舞台感想としてはほとんど変わりませんが、吉之助のなかで約50年を経て「あの第二次南北ブームとは何だったのか」を考えることも決して無駄なことではなかろうと思い直して、感じたところをちょっと書いてみることにします。(この稿つづく)

(R3・2・11)


2)南北物の感触を求めて

歌舞伎では江戸時代から切れ目なく上演されてきた南北物は「四谷怪談」或いは「馬盥の光秀」くらいもので、他の作品はほとんど上演が絶えていました。現行の歌舞伎のテクニックは大体幕末頃の歌舞伎から来ています。だから南北物の伝統は芸の引き出しとしてはほとんど無いも同然なのです。現行の「四谷怪談」も繰り返し上演されるなかで黙阿弥物のような感触で処理されています。

現行歌舞伎の七五の感覚で南北物の台詞をしゃべると、台詞が字余り・字足らずになって具合が悪いことが多いのです。吉之助の記憶では、70年代の南北上演では、若き日の玉三郎や孝夫が台詞をしゃべった時、大向こうが掛け声の間(ま)をコケる場面がよくあったものです。これは若い役者であるとまだ七五の「歌舞伎らしい」感覚にどっぷり染まっていないから・字余り・字足らずの台詞をそのまま素直にそのようにしゃべる、一方、大向こうはいつもの七五のタイミングで間を計って待ち構えているものだから、それで見事に間がコケてしまうわけです。ところが最近の南北物の舞台では、そういう場面が全然見られません。これは大向こうが上手くなったということでしょうか?そうではなくて、役者が南北物の台詞を七五の「歌舞伎らしい」感覚でしゃべるようになって来たからです。残念ながら、玉三郎や孝夫もそうです。あれから約50年の歳月を経て、彼らも歌舞伎役者としてますます練れて上手くなった。七五の「歌舞伎らしい」感覚で台詞を処理するセンスをしっかり身に着けたから、彼らの南北ものもそんな感じになって来たのです。良い意味で云えば、歌舞伎らしく練れて来たということですが、悪い意味で云えば、「初心」を忘れたということかも知れませんねえ。

南北物の台詞については、別稿「南北の台詞は現代に蘇ったか?」或いは「第2次南北ブームの成果」・「南北の感触を探して」をご参照ください。第2次南北ブームが新劇・アングラ演劇に牽引された形で始まったことは先に書きました。彼らは伝統の七五の「歌舞伎らしい」感覚を持ち合わせませんから、南北の台詞を字余り・字足らずそのままに、早いテンポで棒にまくしたてるやり方で処理しようとしました。但し書きを付けますが、これが南北様式の正解かどうかは分からないのです。ただし、幕末歌舞伎の七五のねっとりした様式感覚を打ち破ることが出来たことは確かです。そしてどこか「写実・バラ書き」に通じるバサパサした乾いた感触を得ることが出来た。これも確かです。これは旧劇否定の理念から始まった新劇からしてみると、歌舞伎が長年解けなかった南北様式の問題を見事に解いて見せたようなもので、多少の優越感もあっただろうと思いますね。昭和45年(1970)に鈴木忠演出による「劇的なるものをめぐって・U」で白石加代子が演じる女清玄を見た渡辺保先生が、後年次のように語っています。

『玉三郎以前、以後と言うと、玉三郎が実際に「劇的なるものをめぐって」を観たかどうかは分からないですけど、(歌舞伎で)鶴屋南北ができるようになったのは、あなた(鈴木忠志)のおかげだと思っています。(中略)私が「劇的なるものをめぐって」でいちばん驚いたのは、それまで長い間芝居を観てきて、歌舞伎の世界で鶴屋南北の台詞が正確に発声されたのを聴いたことがなかったからなんです。白石加代子の女清玄の台詞を聴いていて、南北の台詞を初めて聴いたという感じがした。』(渡辺保:鈴木忠志との対談・平成24年(2012)12月10日、吉祥寺シアター:「鈴木忠志対談集〜私たちは必要とされるのか?」)

歌舞伎の第2次南北ブームも、この新劇・アングラ演劇のやり方を後追いするところから始まったのです。こうして義太夫狂言や黙阿弥物はとても出来ない新劇役者が、南北物に限っては歌舞伎役者と互角にやれることになったのです。これが吉之助が、約50年前に体験したことです。もう一度繰り返すと、早いテンポで棒にまくしたてるやり方が南北様式の正解かどうかは分かりません。本来ならばそれを本領とすべきはずの歌舞伎役者が南北物をやるからには、多少でも「伝統」の裏打ちを持ちたいものです。本家の歌舞伎が新劇と同じことが出来るものかというというプライドくらいは持っていても良い。歌舞伎は歌舞伎ならではの南北様式を模索すべきですが、その場合でも忘れてはならない大事なポイントは、1)(歌舞伎を覆っている)幕末歌舞伎の七五のねっとりした「らしい」様式感覚を打ち破り、2)「バラ書き」の写実の(リアルな)感触、空っ世話の感覚を取り戻すことです。この姿勢がないのであれば、それは南北物とは云えないと思います。これはもしかしたら詰らない新作物をやるよりも、よほど歌舞伎の活性化に繋がることではないでしょうか。足元に南北物という豊かな「鉱脈」が埋まっていると云うのに・それをしないのは、実にもったいないことです。今回(令和3年2月歌舞伎座)の「於染久松色読販」に、この姿勢があるかと云う点が問題なのです。

まず玉三郎も仁左衛門も、台詞をテンポ良くしゃべって・さすがにそこは上手いものです。しっかりエンタテイメントになっています。が、台詞の息を七五に近い感覚(完全に七五にはなり得ないので・あくまでも近い感覚)に揃えてしゃべって、ねっとりと様式っぽい印象が強いと思います。台詞の末尾を詠嘆調に引き伸ばさないところは評価したいですが、7+5=12を二拍子で割ってしゃべるような感じで、字余り・字足らず感覚を出さないように工夫しているわけです。だからテンポ良く聞こえるわけですが、基本的にこれは吉之助には七五のダラダラ調みたいに聞こえます。つまり幕末歌舞伎の台詞廻しのテクニックです。これが「十六夜清心」のおさよと鬼薊の清吉の強請り場であるならばそれなりのもので大変結構だと思いますが、南北物でこれで良いとは思えません。

それと玉三郎と仁左衛門コンビの特徴でもあるわけですが、台詞を高調子でしゃべっている。なおかつリズムが表に出るために台詞を謡う感じが強くなっている。これが様式的な印象を助長しています。つまり台詞廻しが写実・バラ描きの南北のフォルムになっていないということです。若き日に歌舞伎の第二期南北ブームを引っ張ったはずの玉三郎と仁左衛門が、その50年後の舞台でこうなってしまうのは残念・・と云うのは、そういうところです。(この稿つづく)

(R3・2・14)


3)南北物のチープ感覚

南北物の面白さと云うのは、バイ・プレーヤーも含めて、そこに蠢(うごめ)く民衆のしたたかさ、どいつもこいつも、いろんな欲得や柵(しがらみ)のなかでギラギラと、しかし必死で生きている人間模様だろうと思います。封建主義の時代ですから様々な社会的制約があったわけですが、ここに文化文政期に爛熟期を迎えた江戸町民のエネルギー・バイタリティーが反映しています。演劇様式としては江戸風俗・江戸方言を積極的に取り入れた、江戸町人の為の写実的な芝居・当時の現代劇であったと云って良いと思います。それは木世話(生世話)とも呼ばれました。

それにしても今回(令和3年2月歌舞伎座)の「於染久松色読販」を見ていると、ならず者の夫婦が意気揚々と強請りに出たものの・まんまと失敗してスゴスゴ帰ると云うだけの、随分底の浅い他愛のない芝居だなという感じがしないでしょうか。もっとも立派な主題があれば良い芝居とだいうわけではありませんが。人気役者の芸を愉しめればそれで十分だとしても、これでは南北の芝居の面白さを十分感じ取れないと思います。バイ・プレーヤーも含めて全体が幕末歌舞伎の様式の「・・らしさ」に浸っているので・類型的なパターンに陥って、人間が生き生きと見えて来ません。

ひとつには、これは場割りに問題があるせいです。実は今回上演台本は早替わり芝居・「於染久松色読販(お染の七役)」のなかの、早替わり場面がない土手のお六の件(柳島妙見・向島小梅莨店・瓦町油屋の三場)だけを抜き出したものです。お饅頭から皮を取って餡子だけにしたらお菓子にならないみたいなものです。今回の柳島妙見ではカットされていますが、本来の「お染の七役」だと始めから早替わりがあって・お百度参りする群衆のなかに、お染・久松・竹川が混じっているのです。そうやって観客に気を持たせておいて・芝居っ気がちょっと濃い場面を見せる、そのような筋の起伏があるから万華鏡の欠片(ピース)のように目まぐるしく変わる各場面と人間像がが生きてくるわけです。欠片(餡子)だけでは芝居(饅頭)にならないということは、こう云うことはやって見て初めて分かることかも知れませんが、なるほどそんなものだなと思います。

早替り芝居から浮き上がる万華鏡の絵模様がちょっとチープな感覚を呈すると云う点も、南北物では大事なことになるでしょう。但し書きを付けますが、「チープ」と云うことは安価な・安っぽいという意味ですが、チープが悪いということではありません。手作りで・ひとつひとつ心を込めて作った高価なものがもちろん良いとしても、大量生産で安価で品質の良い製品を世に送り出して・それが世に広まっていくことだって良いことなのです。南北物では、チープ感覚がそのような民衆の健康な生活感覚と密接に結び付いています。それは元禄の昔にかぶき者の反社会的な風俗が歌舞伎の美となって結実したのと同じことです。文化文政期の南北物では反義的に、或る種チープでドライな町人感覚が芝居の芯となるのです。

そのようなチープ感覚の面白さが、現代人には理解しにくくなっているのかも知れませんねえ。例えば鬼門の喜兵衛は実悪の名人・五代目幸四郎が初演した役だから、スケール大きく・骨太く・憎々しい本物の極悪人に仕立てなければならないと、どうしても考えてしまうようです。歌舞伎の解説を見ても大抵そんなことが書いてあります。今回の仁左衛門の喜兵衛もその線でなかなか立派なものには違いないが、ここで小梅莨店の場での喜兵衛をよく見て欲しいのです。

暗闇のなかで喜兵衛が早桶から死体(実は仮死状態の丁稚久太)を出して剃刀を構えて大見得をします。いかにもおどろおどろしい雰囲気に、さあ首を斬り落とすか・面の皮を剥ぐか・腹を裂くか・どんな残酷な場面が出て来るか・・・と思ったら、丁稚の前髪を剃り落とすだけのことです。何だ・・これはちょっと拍子抜けではないですかね。次は喜兵衛が死体に向かって砥石を振り上げて大見得をします。さあ頭をかち割るか・・と思いきや、「夏祭」で義平次が雪駄で打って団七の面に付けたのと同じくらいの小さな傷をちょこっと付けるだけのことです。これも拍子抜けだ。確かに頭をかち割られたら丁稚が死んじゃいますが、ここでは死んだことになってますから。「よくも弟を殺したな」と死体を運んで油屋に強請りに乗り込んでいくのだから、それなりに酷い傷を付けないと強請りの凄みが付かないのではないか。つまり吉之助がここで云いたいことは、喜兵衛は極悪人の如くに振る舞っているけれども、実際に彼がやっていることとは大きなギャップがあって、それは間(ま)が抜けて滑稽であると云うことです。だから喜兵衛は大した悪人ではないのです。自分は悪人(ワル)だと意気がっているだけのことです。この場面は観客が笑って見るチープな場面ではないかと、吉之助には思うのです。ですから油屋での強請り場も、ホントはチープに、最初から尻尾を出すように演じなければならないはずです。こうすれば強請り場の欠片(ピース)が、早替わり芝居(お染の七役)のなかにぴったりと嵌(はま)ります。

南北の感性は、とても健康的なものです。南北が描く悪人はどこかマンガチックで、間が抜けています。つまり名人・五代目幸四郎が描いた実悪とは、ホントは薄っぺらな・チープな悪なのです。それは文化文政期の江戸町人の健康な感性から発しているのです。(「絵本合邦衢」あるいは「霊験亀山鉾」の観劇随想をご参照ください。)南北が描く悪は、善人に試練を与えるけれども最終的には滅び去り、善を賛美するために存在する悪です。だから文化文政期の江戸町人が笑って見ていたはずの場面を、現代人は南北物の残酷の美学だ・殺しの美学だなんて云うものだから、芝居があらぬ方向へ行ってしまうことになります。南北物は乞食・非人・お化けや死体が出て来てハチャメチャだから面白いという程度の理解から脱却して、社会的視点から南北物を読み直すことをしないと、いつまでたっても南北物は歌舞伎に定着しない、そんなことを思いますねえ。

(R3・2・15)



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