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南北の台詞は現代に蘇ったか〜早稲田小劇場の白石加代子

昭和45年5月・早稲田小劇場:「劇的なるものをめぐって・U」

白石加代子(清玄・お蔦・貞)、小野碩(惣太)他 

(脚本・演出:鈴木忠志、劇団早稲田小劇場公演)


1)戦後演劇史上の事件

本稿で取り上げるのは、昭和45年(1970)5月に劇団早稲田小劇場が初演した「劇的なるものをめぐって・U」の通し稽古の時の映像です。残念ながら、本興行での舞台映像はないそうです。鈴木忠志は、唐十郎・寺山修二らと共に1960年代に興った小劇場ブームという新しい演劇運動を担った演出家のひとりです。「劇的なるものをめぐって・U」 (以下「劇的」と略す)は、鈴木の早稲田小劇場時代の代表作と云われるもので、副題に「白石加代子ショー」(再演で「白石加代子抄」に改題)とある通り、早稲田小劇場 の看板女優であった白石加代子を前面に立てて、当時既に「狂気女優」の異名を取った彼女の強烈な個性を大いに引き出したものです。「劇的」はその後、フランス、オランダなどでも上演されて話題となりました。台本は上演の度に手が加えられたそうで、映像の通し稽古と現代日本戯曲大系に収められた台本とでは、細部が かなり異なっているようです。

ちなみに昭和45年 (1970)というのは、大阪万国博覧会(3月〜9月)が開催された年で、同年11月25日には三島由紀夫が自決事件を起こしたり、何かと話題の多い年で、今から思えば戦後日本の節目となる重要な年でありました。このことは当時中学生であった吉之助にも大きな影響があったと思います。 しかし、この頃の吉之助はまだ演劇に興味があったわけではなく、「劇的」の舞台は見てません。吉之助が鈴木忠志・白石加代子の名前を知ったのは、昭和53年(1978)1月岩波ホールでの「バッコスの信女」でのテレビ放送のことでした。吉之助は、新劇や現代演劇の方は教養主義的段階(まずはギリシア悲劇・シェークピアやチェーホフ から)に留まったので、全然見なかったわけではないが、さほど深い接点がありませんでした。今考えれば、ちょっと惜しいことをしました。「劇的」のことも、今回(平成30年1月15日)早稲田演劇博物館の主催による上演会があって、初めて知ったくらいのものです。当日は鈴木忠志と渡辺保との対談もあって、興味深い話が聞けました。

そういうわけで「劇的なるものをめぐって・U」 について現代演劇史的に分かったようなことを書くことが出来ませんが、吉之助が本稿で「劇的」を取り上げる気になったのは、本作が部分的に歌舞伎、鶴屋南北の「桜姫東文章」の清玄や「隅田川花御所染(女清玄)」の清玄尼の台詞を含んでいるからです。さらに泉鏡花の「婦系図」のお蔦の台詞などを取り入れて、芝居はコラージュ的な仕立てになっています。 白石加代子によって南北の台詞は現代に蘇ったのか?吉之助の興味は、そこにあります。まず最初に鈴木忠志が当時を回想して次のように書いていることを考えたいと思います。

『日本の伝統芸能、能や歌舞伎に親しい学者や評論家からは絶賛され、ヨーロッパ演劇を規範にした日本の現代劇の主流、新劇系の業界からは拒絶に近い反応があった。(中略)伝統芸能に親しい人たちが驚きをもってこの作品に好意を示したのには、私には意外だった。南北や鏡花のテクストを使用しているとはいえ、例によって鈴木式演出、戯曲が指定する状況は完全無視、ただ言葉だけを借りて、ヤリタイホウダイ、独りの狂女が狐憑きのように南北と鏡花の台詞を喋りまくるといったものなのである。当然のことながら、私は逆の反応を予測していた。新劇系の演劇人たちからは、日本の伝統劇の戯曲でも、コンナニ面白く演出できるのか、ヨクヤッタと誉められ、伝統芸能系の人たちからは無礼千万、ゲテモノ呼ばわりされると思っていたのである。それがマッタクの逆さまだった。』(鈴木忠志:「イノチガケ」、2015年9月、SCOTブログより)

鈴木は「意外だった」と書いていますが、「劇的」に対して当時の伝統芸能関係の方々が「驚きをもって好意を示した」ということは、とても興味深いことだと思います。このことには、何と云いますかねえ、伝統芸能関係者の自身の領域に対する自信の無さ、歌舞伎という芸能はもはや現代に必要とされていないのではないかという不安が、モロに現れているように思われます。もうひとつは、新劇系の演劇人の伝統芸能に対する感性不足とでも云うか、そもそも南北とか鏡花とか、そんなところに自分たちがこれから学ぶべきヒントがあるなんて全然思ってもいないという無智が、モロに現れているとも言えそうです。

いずれにせよ、これらの反応は、1970年前後の演劇状況をよく反映しています。当時は、君は右か左か?親米か新ソか?(当時はソビエト連邦という国がありました)という風に、何かと云えば主義主張を問われそうな雰囲気がありました。どちらかを表明できなければ、ノンポリと云って馬鹿にされる。(ノン・ポリティカルの意味) まあそういう時代でしたね。或る意味において、生真面目すぎる時代でした。当時は理屈よりも立場の方が先に立つ感じでありました。伝統芸能は民族的伝統と生産性に立脚したものでなければならないと、吉之助の師匠である武智鉄二もそんなことを言っていましたが、こういう言説もそのような雰囲気から出て来るものです。このような時代を踏まえたところに現在の吉之助が在るわけですから、若干遅れて生まれた世代とは云え、もちろん吉之助は理解しているつもりです。

当時、歌舞伎研究者である郡司正勝は「劇的」に関して次のような批評を書きました。当然のことですが、郡司だけでなくその他の批評家も、同じ時代の雰囲気のなかで、それぞれの立場を表明しています。みなさん真面目なのです。現在の吉之助から見ると、「郡司先生、そこまで言っちゃいますか」と言いたいくらい深く考え込んでいらっしゃる。

『白石加代子の出現は、確かに劇界に手応えをもたらした。それは動揺といってもいい。少なくとも、それまでの新劇が感じたことのなかった、その空洞化に、ふと気付かせずにはおられない体のものだったといえよう。(中略)演技とはなんであったか、女優とは何者なのか、いや新劇とはなんだろうか、といった本質の問いに係わって来る導火線となる性質のものであるから(中略)役者というものが、演劇のもっとも本源的なものだとすれば、役者の存在感とは、いかなるものなのか、その肉体言語とは、いかなるものなのかと問うことになり、劇のもつ肉体言語の能力を、肉体という闇の力のなかから、いかに引き出すことができるか、その闇の力を、これまで、いかに無視してきたかの見返りが、加代子の出現とともにはじまったのだ、ということになるのではないか。』 (郡司正勝:「白石加代子がそこへ座る時」、1974年12月)

問いばかりあって、答えがないようです。郡司の「動揺」は、これらの問いを引き出したきっかけ(材料)が、鈴木が芝居に引用した南北或いは鏡花であったというところから来ています。そこに自らの研究分野、伝統芸能(歌舞伎)も現代に何か与えることができるかも知れないと云う可能性を見て、郡司は奮い立ったに違いありません。それが「動揺」ということの意味なのです。初演当時から約45年後の鈴木忠志が、上記の郡司の批評を 挙げて、以下の文章を書いています。この文章も興味深い。

『現在の白石加代子の演技を見て、(上記郡司の批評のような)この種の感想を持つ人はいない。実際、彼女の演技について多くの最近の劇評は、他の俳優との比較で、その演技の巧拙について触れるだけのものである。(中略)今にして思うのだが、一つの舞台を見て、日本文化の本質に触れるような思考を展開し、それを長文の評論にした多くの人たちがいたことに感動するのである。と言うより感激するのである。(中略)演劇をとおして日本の文化の来し方行く末を考える人たちが、当時は多くいたのだと、今やシミジミとした感慨に誘われる。』(鈴木忠志:「イノチガケ」、2015年9月、SCOTブログより)

鈴木ならば「郡司さん、アンタ真面目すぎるよ、そこまで考えこまないで、楽しまないと駄目だよ」と笑っても良いのにと思うのですが、そうならないのです。鈴木の方も、郡司の言にホントに素直に感激しています。鈴木さんも、真面目な方なんですねえ。イヤ 確かにこれは同じ時代の熱気を共有した者だけが味わえる感慨に違いありません。

今回(平成30年1月15日)の早稲田演劇博物館の主催による上演会は、満員の盛況ぶりでありました。観客の年齢層は結構高くて、恐らく当時小劇場の芝居に通い詰めて、当時の空気を共有した世代の方々が多かったように思われました。しかし、 遅れて生まれて今回「劇的」を初演から47年後に映像で初めて見た吉之助の場合は、客観的で、或る意味醒めた見方にならざるを得ないのは、これは当然のことです。

白石加代子が南北の台詞をしゃべりながら用をたすとか、タクアンをかじりながら鏡花の台詞をしゃべるなんてのは、吉之助には虚仮脅しにしか見えないし、別に興味はないのです。南北の殺しの場面に、任侠ものの流行歌「男の裏町」が流れたりするのも、何の連想があるのか、理由を知りたいとも思わない。付記しておきますが、吉之助は鈴木の演出を馬鹿にしているのではありません。これは「誣(し)い物語」がシリアスであることの言い訳(逃げ)として滑稽味・諧謔味を取ると云う、折口信夫の言説を思わせます。(別稿「和事芸の起源」を参照のこと。)或いは「古典喜劇における真正な愛は滑稽である」という ジャック・ラカンの言説を思い出します。(別稿「音楽的な歌舞伎の見方」を参照のこと。)これらの演出・演技は、吉之助には、鈴木や白石のあまりの生真面目さが突き刺さってくるように感じられます。だからギャップが引き起こす滑稽を鈴木が意図していることは分かるのですが、吉之助は全然笑えないんですよね。裏返すと吉之助も真面目過ぎるということなのでしょうか。(この稿つづく)

(H30・1・30)


2)「劇的」の前近代性?歌舞伎の前衛性?

近代演劇においては、作家が書いた戯曲がまず最初にあります。作品世界に基づいた筋(ストーリー)というものがあって、役者がこれを具現化するのです。だから戯曲(テキスト)が記したもの(主題)を如何に血肉化するかというところに役者の仕事があります。すなわち戯曲が主であって役者が従になると、一般的にはまあそう云うことになると思います。ところがこの「劇的」は、ベケットや南北・鏡花の戯曲から部分を押せ集めたコラージュ劇であって、いわゆる 近代戯曲としての「筋」を持っていないのです。

舞台は、汚い長屋にふたりの男がとりとめもない会話をしている処に、突然気が違った女(白石加代子)が飛び込んで来る。この女が芝居好きらしくて、南北の「桜姫東文章」の清玄、鏡花の「婦系図」のお蔦、鏡花の「化銀杏」のお貞、さらに南北の「隅田川花御所染」の清玄尼と、次々と 何かが憑依する如く、それらの台詞を脈路なくしゃべり続けて、そしてパフォーマンスは突然殺しの場面で終わる、まあこれが「筋」と云うならば筋ということです。それぞれの台詞は女の生々しい狂気によって切り取られ、特別な意味があるかの如くスポットライトが当てられるので、多分、オリジナルの芝居のなかにある時より異彩を放っています。これらバラバラのシーンに関連付けを読もうとすることは無駄なことだと思いますが、いつも舞台で「戯曲」を見ている観客は、いつもの癖でそのなかに「筋」を読もうとするでしょう。或いは演出者(鈴木忠志)の「意図」を読もうとするでしょう。しかし、結局それは、やはり無駄なことなのです。こうして舞台は何かの不条理劇みたいな印象で終わるというわけです。

吉之助は当時の現代演劇をリアルタイムで体験していないので、分かったようなことが書けませんが、前項で触れた通り、70年前後は何かと云えば「君は右か左か?親米か新ソか?」とすぐ主義主張を問われそうな時代でした。だから右でも左でも主題がはっきりしたものが、もてはやされたものでした。この時代は、どんな 分野でもそういうものでないと評価されなかったのです。当時の劇評など読むと、「劇的」について君は是か否か?立場を明らかにしてその理由を述べよと迫られるなかで、みんな文章を書いている感じです。この「劇的」のように「筋」がない(=ということは「主張がない」ということになるかも?)芝居があり得る、これでも芝居が成り立つ(らしい)ということは、何か書くのはなかなか難しいことになります。面白い面白くないだけでは劇評になりません。

ただ吉之助は「劇的」の映像を約50年後に見たわけなので、そこのところを客観的に受け取ることが出来ます。吉之助には70年前後の、この時代の雰囲気が遠く重なって見えるので、むしろ映像にとてもレトロな印象を受けました。流行歌が流れる古い長屋に狂女が現れて訳もないことをまくし立てて騒ぐ。それは何とも猥雑でアジテートな光景で、吉之助は電車の轟音が響くガード下の、焼き鳥の煙が漂う、白熱電球が灯る薄暗 く騒がしい商店街の一角で行われる大道芸を見る気分にさせられました。この感想は鈴木忠志・白石加代子を貶めるものでないと思いますが、吉之助は芸能の原初形態を見た気がしたのです。当時「劇的」をリアルタイムで体験された方は今回50年後に再見して、どのような感想を持たれたでしょうか。

そこで吉之助は歌舞伎の批評家ですから、伝統芸能の視点から「劇的」を見ることになるわけだけれども、当時の批評などを散見すると、「劇的」が「筋」を持たず、役者を生かすための素材にすぎないこと、鈴木忠志の言葉を借りれば「ここで構成された言葉は、戯曲を演出するのではなく、肉体を演出する、極端に云えば、一人の人間(ここでは白石加代子のこと)を徹底的に演出する」という考え方に、現代演劇関係の方々が衝撃を受けていることに、50年後の吉之助は、「この人たちは生真面目だなあ」と逆に驚いてしまいました。吉之助はそういうところに70年前後の雰囲気を感じるわけです。もうひとつ興味深いことは、当時の現代演劇関係者の少なからずが、「劇的」が「筋」を持たず役者を生かすための素材に徹した点を、戯曲の「前近代性」であると受け取って、「劇的」のこのような性格が、役者の個性を生かす為に書かれた江戸時代の歌舞伎の台本の在り方に近いとしていることです。

約50年後に「劇的」映像を見る吉之助は、「劇的」が「筋」を持っておらず役者を生かすための素材にすぎないことを、「前近代性」であるとは受け取りませんがねえ。失礼を承知で申し上げると、「何を今さらそんなことを言うのかねえ」という気がします。恐らくこれは日本の演劇に特異的な現象であって、日本の現代演劇が旧劇(歌舞伎) から途切れたところから発しているからです。鈴木が引用したのが南北や鏡花であるため、そんな印象を持つに過ぎないと思います。吉之助は、むしろこれは「筋」という枠組みを内側から破裂させる前衛志向であると受け取りたいです。比較するのならば、むしろ当時のジョン・ケージの偶然性の音楽でも並べて考えた方が良いと思います。

歌舞伎の台本は、上演のたびに狂言作者が一座の役者の顔ぶれに合わせて、趣向を加えたり、筋をいじったりしたものでした。確かに役者本位の要素が、歌舞伎にないわけではないです。しかし、それをするにしても、あくまで演劇としての「筋」の枠組みを守ってのことだという認識は、しっかり歌舞伎のなかにあったのです。そこに歌舞伎の近代的な要素があると思います。だからこの枠組みがどうしても守れない(この筋では特定の役者の個性を生かすことが出来ない)と思った場合には、新作として根本的に 書き直したものです。例えば「村井長庵(勧善懲悪覗機関)のような悪役をやりたい」と思った五代目菊五郎が長庵をやろうとせず、黙阿弥に頼んで自分の仁にはめて按摩道玄(盲長屋梅加賀鳶)を書いてもらったようなことです。この点、昔の役者はむしろ今の役者より厳格だったと思います。変えていい事と、変えてはならない事の区分が厳然としてあったのです。(今の役者は「歌舞伎では何でもありィ」と言ってるでしょう。)歌舞伎の台本が演劇としての「筋」を持たないなんてことは決してありません。むしろ歌舞伎が現代に生き残るために、歌舞伎のなかの戯曲の「近代性」をもっと研ぎ澄ます必要があります。そうすると逆に役者本位という歌舞伎の戯曲としての前衛的な要素が浮かび上がってくるはずなのですがね。(この稿つづく)

(H30・2・20)


3)「劇的」と伝統と

鈴木忠志は学生の頃から歌舞伎を見ていたそうですが、だからと云って現代演劇のために歌舞伎の技法が役に立つとか、歌舞伎の何かが示唆があるとか、そういうことで「劇的」に南北を引用したわけではなかったと思います。何しろ当時の歌舞伎では、「四谷怪談」以外の南北は あまり掛かっていなかったのです。現代人にとっても、現代演劇にとっても、歌舞伎(在来の歌舞伎、歌舞伎座で普段やっている歌舞伎)にとっても、何か全然異質なものとして、南北を意図的に舞台に叩き付けていると感じます。そこに「劇的」の前衛性があったと思います。鈴木にとって南北は材料に過ぎなかったのです。

ところが「劇的」は意外な反応を生みました。『新劇系の演劇人たちからは、日本の伝統劇の戯曲でも、コンナニ面白く演出できるのか、ヨクヤッタと誉められ、伝統芸能系の人たちからは無礼千万、ゲテモノ呼ばわりされると思っていた』のに、まるで正反対の反応が起ったのです。伝統芸能関係者からは絶賛され、現代演劇関係者からは拒絶に近い反応がありました。演出家というのは、役者に向けても世間に向けても、多少の「張ったり」が必要な仕事です。そこで鈴木は伝統を前面に押し出すことに作戦を変えたのではないかと、吉之助は思っています。つまりそれは当初の鈴木の作戦にはなかったことなのだが、褒めてくれるならば伝統芸能の方を味方に付けておこうということです。例えば後の発言を見ると、鈴木は「劇的」についてこれをパロディとするより本歌取りだと言って欲しいとして、次のようなことを書いています。

『本歌取りという言葉で私がいいたかったことは、多くの人々に共有されたと思われる言葉を踏襲しているように見せながら同時に、それを破壊してまったく自立した舞台の世界を創るというような事柄なのである。もっと大げさに云えば、ひとつの型なり価値観を壊すことが、同時にもうひとつの型なり価値観を創ることであるような、ふたつの欲求をひとつの操作によって、同時に満たすような行為とでも比喩的にいいうるかも知れない。』(鈴木忠志:現代日本戯曲大系・月報7)

しかし、吉之助は「劇的」は本歌取りにはなっていないと思います。そもそも本歌取りの定義は、鈴木が云うようなものではないと思います。その辺に、「劇的」を伝統のうえに位置付けようと鈴木が無理している感じを見ますねえ。本歌取りとは、「見立て」の行為です。元の材料のどの部分を生かしどの部分を変えるか、その配合によって元の材料の意味を「ずらす」ものです。そのためには世界を明確に持っている必要があります。これで元の意味が転換できるわけです。

既存の戯曲から場面を切り張りした、パッチワークの台本からは、何が浮かび上がって来るかは、演ってみないと分かりません。「劇的」には筋がない、と云うことは世界がないということです。 世界がないのでは、本歌取りの成り立ちようがありません。「劇的」には世界がないということは、「劇的」の世界は観客一人一人の心のなかに浮かび上がる、それを見てくれということではないでしょうか。本来の「劇的」の理念は、そういうもの でしょう。これはジョン・ケージの代表作「4分33秒」(1953)の理念によく似ています。偶然性の音楽の概念は、当時の現代演劇にも大きな衝撃を与えたものでした。

一方、伝統芸能の関係者が「劇的」の試みをとても真正面に、鈴木が感激するほど真摯に受け取ったということは、これはとても興味があることです。吉之助は、そこに70年前後の、伝統芸能関係者が置かれていた不安な状況 、或いは自信の無さを見ます。当時、映画やテレビに奪われて 歌舞伎の観客がどんどん減っていました。伝統芸能が全然相手にされない世の中がすぐそこまで来ていると云う不安、当時それが現実として迫っていたのです。こういうことは、平成の現在の歌舞伎の状況からすると全然想像が出来ないと思います。しかし、70年半ばから歌舞伎を本格的に見始めた吉之助でも、20世紀の終わりには歌舞伎は風前の灯だと思っていました。だから見れなくなる前に六代目歌右衛門や十七代目勘三郎の芸を目に焼き付けておきたいと思って見たものでした。ですから当時の郡司正勝や広末保らの「劇的」の劇評を読むと、吉之助は彼らの気持ちが痛いほど良く分かります。彼らは「劇的」に鼓舞されたのだと思います。(この稿つづく)

(H30・2・24)


4) 玉三郎以前と以後

これで本稿はやっと本題にたどり着いたことになります。「劇的」は部分的に歌舞伎、鶴屋南北の「桜姫東文章」の清玄や「隅田川花御所染(女清玄)」の清玄尼、さらに泉鏡花の「婦系図」のお蔦の台詞を取り入れているわけですが、主演の白石加代子によって南北の台詞は現代に蘇ったか?ということです。平成24年(2012)12月10日、渡辺保は吉祥寺シアターで鈴木忠志とトークを行い、こんなことを云っています。

『玉三郎以前、以後と言うと、玉三郎が実際に「劇的なるものをめぐって」を観たかどうかは分からないですけど、(歌舞伎で)鶴屋南北ができるようになったのは、あなた(鈴木忠志)のおかげだと思っています。(中略)女形の歴史のなかでは、玉三郎が分水嶺なんです。歌右衛門も雀右衛門も「桜姫東文章」に成功しなかった。だけど玉三郎が成功したのは、南北の台詞が言えるようになったからです。身体ということで言えば、この転換点は近代から現代への転換点だったと思います。歌右衛門も雀右衛門も近代の人なんです。だけど、玉三郎以後は現代でしょう。玉三郎は客観的に自分の役を外側から見ているわけですから。それにあなたのテンポがあれば、なおさら鬼に金棒ですから。』(渡辺保:鈴木忠志との対談・平成24年(2012)12月10日、吉祥寺シアター:「鈴木忠志対談集〜私たちは必要とされるのか?」)

渡辺保のこの発言は、色々なことを考えさせられます。女形論としても読めますが、本稿では南北の台詞について考えることにします。まず渡辺が、歌舞伎の南北上演史を「玉三郎以前と以後」とまで、そこまで明確に規定したことに吉之助はホウと思ったのです。もっと驚いたことは、渡辺が、そのきっかけが鈴木の「劇的」上演にあったとしたことです。これはあくまでも渡辺の推論ではあるのですが、しかし、渡辺はリアルタイムで歌舞伎や能と現代演劇を平行して その推移を見届けて来た評論家(このような評論家はとても珍しい)なのですから、体験から導き出した推論は耳を傾けて聞かねばならないと思います。

渡辺の推論を時系列で整理すると、「劇的」(昭和45年5月・早稲田小劇場)が、直接か間接かは分からないが、その後の玉三郎の「桜姫東文章」の桜姫初演(昭和50年 6月新橋演舞場)に決定的な影響を与え、歌舞伎の南北上演史に「玉三郎以前と以後」の分水嶺ができたのかも知れないと云うのです。さらにこの後に昭和51年8月国立小劇場での「盟三五大切」の復活上演が来ます。いずれの上演も郡司正勝監修です。つまり玉三郎の桜姫に代表される歌舞伎の第2次南北ブーム(玉三郎以後に限定すれば70年代後半と考えられます)での、南北劇の台詞の様式が、「劇的」で白石加代子がしゃべった南北の台詞のリズムから来たということです。上記対談での証言に拠れば、郡司からの依頼で鈴木は「劇的」上演時の録音テープを渡したとのことです。郡司がこの録音テープをどのように生かしたか、玉三郎がこれを聴いたかは本人に確認すれば分かる ことですが、この推論には根拠がないわけでもなさそうです。渡辺は次のようなことも言っています。

『私が「劇的なるものをめぐって」でいちばん驚いたのは、それまで長い間芝居を観てきて、歌舞伎の世界で鶴屋南北の台詞が正確に発声されたのを聴いたことがなかったからなんです。白石加代子の女清玄の台詞を聴いていて、南北の台詞を初めて聴いたという感じがした。』(渡辺保:鈴木忠志との対談・平成24年(2012)12月10日、吉祥寺シアター:「鈴木忠志対談集〜私たちは必要とされるのか?」)

昭和51年8月国立小劇場での「盟三五大切」の 復活上演・観劇随想のなかで、速めの二拍子を基調にタタタタ・・と畳み掛けていくしゃべり方が、南北様式としては、もっとも妥当な試案であることを考察しました。歌舞伎に南北劇の伝統はないに等しく、どのようなものであっても結局、それは試案に過ぎないのです。これはクラシック音楽の世界で現在も流行の古楽器(ピリオド楽器)の演奏が、決してモーツアルトやベートーヴェン当時の学術考証的再現ではないのと同じです。演奏されるのは現在なのですから、解釈の根拠はどんな場合でも現在に根ざすし、そうでないものはあり得ません。歌舞伎の南北様式も同じことです。大事なことは、南北の生世話或いは空っ世話が持つ写実感覚、二拍子のリズムが持つ疑似的な様式感覚とを、この相反するふたつの要素に、どのように折り合いを付けるかということです。そこで次章で 「劇的」での白石の台詞について考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(H30・2・25)


5)「劇的」での白石加代子

七五の感覚に調子を合わようとすると、南北の台詞は字余り字足らずになってしまいます。それで七五に慣れた歌舞伎役者は、南北の台詞を上手くしゃべれませんでした。一方、現代劇(新劇やアングラ芝居)の役者は黙阿弥物だと七五の様式感覚に阻まれて手が出せないのですが、南北物に限れば立場は歌舞伎とそう変わらないことになります。そこで彼らが編み出したのが、南北の台詞を棒に しゃべるやり方です。基本リズムとしては二拍子を基調にして畳み掛けるように言葉を連ねて行くしゃべり方です。

実際、歌舞伎役者がやる南北物は、どこかいつもの黙阿弥の七五調の感覚が残って、台詞の末尾が間延びしてかったるい。むしろ棒にまくし立てる現代劇の南北物の方が、テンポが良く、カラッと乾いた感覚が心地良く、こちらの方がいくらか南北本来の感触に近いかと云う感じがしてくるのです。台詞を二拍子で棒にしゃべる場合、これが或る種の様式的な疑似感覚を生 むでしょう。伝統を持たない、それゆえ歌舞伎に対して捻じれたコンプレックスを持っている現代劇の役者にとっては、歌舞伎が解けなかった難解な方程式を解いてみせたみたいで気持ち良い。

ただし現代劇の役者がしゃべる南北の台詞は、大体、歌舞伎役者が南北をしゃべる倍くらいの速度で、機関銃の如くに早口にまくし立てるやり方が多かったようです。限られた主役級以外の役者は、 速くしゃべればそれで良いみたいな感じがあって、台詞の意味をあまり考えているように聞こえません。言葉を連ねるだけの木偶人形のような感じがありました。しかし、現代劇ではこれでいいとしていたのでしょう。というのは、現代劇では南北の芝居を閉塞した封建論理の重圧に搾取され振り回される民衆という視点(つまり多分にマルクスの唯物史観の影響が濃い)で読むので、機関銃の如くにタタ多・・と畳み掛けるリズムは、当時の新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)の様式 と合致してくるわけです。つまり現代劇の役者がしゃべる南北の台詞には同時代の感性の裏打ちを持つわけで、そこが強みになるのです。

ですから歌舞伎役者が南北の台詞をしゃべる場合も、同じく台詞を棒にまくし立てるやり方を踏襲せざるを得ませんが、歌舞伎では舞台に生きた人間をそこに描き出せなければなりません。南北は写実の芝居なのです。南北の生世話或いは空っ世話が持つ写実感覚、二拍子のリズムが持つ疑似的な様式感覚と、この相反するふたつの要素に、如何に折り合いを付けるか、ここに解決を目指さないならば、歌舞伎は伝統芸能と言えないことになります。

そこで渡辺保が「劇的」での白石加代子の、「桜姫」の清玄や「女清玄」の清玄尼を見て、『これまで長い間芝居を観てきて、歌舞伎の世界で鶴屋南北の台詞が正確に発声されたのを聴いたことがなかった、南北の台詞を初めて聴いた』とまで思わせ たものは、何だったのかということを考えたいのです。

吉之助は「劇的」映像を約50年後に見たので醒めた感想にならざるを得ませんが、渡辺が「南北の台詞を初めて聴いた」と云う気持ちは、何となく分かる気がします。 もとより白石は、卓越した息の強さを持っていて、言葉ひとつひとつを噛むように明確に発声する技量を持った女優です。恐らくこれは天性のもので、訓練を経て得たものではないでしょう。(ということはこれは鈴木の指導の成果 ではないと云うことなのですが)というのは舞台で白石に絡む他の役者の台詞はただの棒に云う台詞であって、意味を考えてしゃべっているように聞こえないからです。白石が言う台詞だけ情念がビンビン伝わって来ます。残念なことに通し稽古の録音なので音声が混濁して言葉が明確に聞き聴き取れませんが、それでも白石の演技の何だかただなら ぬ雰囲気だけは伝わってきます。こういうことは白石だけに起こった現象で、他の役者にはやっぱり起こっていません。

それでは白石の台詞のただならない雰囲気が何から来るかと云えば、それはやはりリズム から来ます。大事なことはただの二拍子のリズムではなくて、リズムの表と裏がはっきり意識されていることです。基調になるのは早い二拍子のリズムですが、言葉(音あるいは意味)によって拍の表と裏を使い分けて、それは微妙に伸早くなったり遅くなったりはしているのです。しかし、基調のリズムが崩れることはありません。言葉ひとつひとつを噛むことが出来ているので、リズムの刻みの印象が強くなって、それが或る種の様式感覚を醸し出しています。

リズムの表と裏の使い分けが大事なのは、これによってリズムで観客の意識を押すアジタートな台詞に出来ることです。実は白石はこれが巧いのです。だから情念の強い台詞を云わせれば、現代劇の俳優のなかでも白石は突出しています。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)

吉之助は先ほど白石のセンスは天性のものと書きましたが、鈴木忠志の功績は白石のセンスを見抜いて、白石の個性を最大に発揮させるべく、それにふさわしい台詞を選り抜いて切り貼りして台本を仕立てたことです。その結果、普通の台本ではドラマの一部分にしかならならないものが、舞台全体に溢れかえるようになっています。まさにワンマンショーになっているわけです。渡辺保との別の対談のなかで、鈴木は次のように言っています。

『僕がなんで歌舞伎に興味をもっているかというと、とり憑くということなんだよね。(中略)すごく日本的でね、日本の女性もよく、私がやったんじゃない、あの人にそうさせられたんだと云いますよ。これは、とり憑くということなんです。(中略)向こうがこっちに入って、私のなかで変化を起こしたということです。(中略)リアリズムでいけば、おかしいよ。あっ、いま対象が憑きました。いまあの人は嫉妬の感情にとりつかれている。歌舞伎はそういうことをやっているんでしょう。(中略)南北でもそれをやらなきゃならないと 思ったのね。そうするとすごい速いスピードでしゃべるのがいいんだね。(中略)すごく速いから、たいていの役者は台詞が分からなかった。白石加代子は口跡がはっきりしているからあの速さでいっても分かる。(中略)白石加代子に選んだのは、情念の強い言葉なんです。ほとんど恨みつらみなんです。(中略)グーッととり憑いてきて、感情語がパーッと出て来る感覚。それは白石加代子の独壇場なんです。』(鈴木忠志:渡辺保との対談:「現代のなかの歌舞伎」・岩波講座「歌舞伎」第1巻)

岩波講座 歌舞伎・文楽〈第1巻〉歌舞伎と文楽の本質

何かが憑りついて感情が高揚した台詞だけ切り抜いて連ねれば印象が鮮烈になるのは当然のことで、だから鈴木は結果的に白石の個性を十二分どころか二倍・三倍に際立たせることに成功したのです。「劇的」の成功は、そこにあったということです。

しかし、清玄は「桜姫」のなかで最初から最後まで情念に巻かれて叫びまわっているわけではありません。「劇的」はクライマックスだけ切り抜いているからこれで良いでしょうが、普通の芝居はクライマックスだけで出来ているわけではないのです。「桜姫」の清玄だってもちろんそうです。情念からの台詞は、他動的にそうさせられるという意味において時代の台詞であって、様式的な色彩が 自然と濃くなるものです。このような台詞を白石が得意としていることは、周知のことです。「劇的」映像を約50年後に見た吉之助は醒めているのか、白石ならば情念の台詞をこれくらい言えるのは当然 という気がしたので、大して驚きはしなかったのです。しかし、情念からではない台詞、世話の台詞と云うか普通の台詞とでも云うか、ならば白石はどうしたでしょうか。(この稿つづく)

(H30・2・26)


6) 玉三郎の桜姫

但し書きを付けますが、吉之助は、「劇的」の白石加代子の南北の台詞と、「玉三郎以後」の歌舞伎の南北の台詞を、同時代的な関連において結び付けたいと考えているのです。渡辺保が「歌舞伎で鶴屋南北ができるようになったのは、鈴木忠志のおかげだ」と言うのも、そのような意味であると受け取り たいと思います。鈴木が郡司正勝に渡した「劇的」の録音テープがどう使われたかと云うことは、実はどうでも良いことなのです。

同時代的な関連という意味は、例えばこういうことです。別稿「左団次劇の様式」では、二代目左団次の新歌舞伎の二拍子で畳み掛けるリズムについて、ノイエ・ザッカリッヒハイト(新即物主義)との関連を考察しました。これは左団次がノイエ・ザッカリッヒハイトの表現を直接的に取り入れた或いは模倣したということを云いたいのではなく、芸術家がその鋭敏な感性で 彼が生きる二十世紀初頭の時代的な気分に感応するならば(シンクロするならば)、そのリズム感覚は必然的に似るものだと申し上げたいのです。

これと同じように、「劇的」の白石と玉三郎のことも、必然があるとするならば、それを70年前後の気分との関連において捉えるべきです。表面的には、白石と玉三郎の芸質はまったく似ていません。白石は狂気と情念の漂う役を得意とし、台詞を畳み掛けるように熱く観客に突き付けます。玉三郎は、例えばマクベス夫人の狂乱の場(昭和51年2月日生劇場)を演じても、その台詞は涼しく透明な流れがサラサラと流れていくような軽やかさでした。同じ時代の気分に感応しても、出てくる様相が全然異なるのです。それは白石と玉三郎の資質の違いから来るのです。

それでは白石と玉三郎と、それぞれの南北の台詞の、どこに70年前後時代の気分が共有されているのかと云えば、タタタタ・・と駆けるリズムと、その疾走感だろうと思います。 もちろん現代演劇と歌舞伎では、基準となるスピードが全然違います。メトロノーム的には白石の方がずっと速いのです。玉三郎の台詞の速度は、白石の半分くらいでしょう。しかし、それでも従来の歌舞伎の感覚からするならば、速いのです。リズムの打ちの質量感も全然異なります。白石のリズムの打ちは腹にズンズン来る ので、軽やかという印象はないと思います。一方、玉三郎のリズムの打ちは軽いのですが、、リズムがタタタタ・・と均質に駆けていくところが似ています。このリズムが表現するものは、疾走する・急き立てる気分です。これこそ70年前後の時代の気分です。

別稿「第2次南北ブームの成果」で昭和51年8月国立小劇場:「盟三五大切」映像を取り上げました。この吉之助の論考では初代辰之助の源五衛門の台詞で南北様式を論じ ました。玉三郎演じる小万の台詞が、リズムがタタタタ・・と均質に軽やかに駆けることは映像でも確認が出来ます。しかし、小万が「盟」のドラマのなかで積極的な位置を占めていない為、台詞のリズムに論議する材料 をさほど多く見て取れないようです。やはり玉三郎の南北の台詞の衝撃は「桜姫」で論じなければならないようです。

残念ながら吉之助は玉三郎の桜姫初演(昭和50年6月新橋演舞場)を見ていないので、昭和53年10月新橋演舞場での再演の記憶を引き出すことにします。玉三郎の桜姫は、例えば山の宿権助住居で桜姫と風鈴お姫の、時代と世話の台詞をチャンポンに使い分けるところに、その特徴が出ました。どちらの人格も均質で、カチャカチャとチャンネルを軽やかに切り替えて、後に引きずるところがありません。風鈴お姫は憑き物と云うわけではないですが、それが落ちるとパッと桜姫に変わる感覚なのです。つまり演技が或る意味でフィクショナルであると云えます。 フィクショナルとは作り物と云う意味ですが、つまり客観的に自分を眺めて、理性的に演技をコントロール出来るということです。これは渡辺が「玉三郎は客観的に自分の役を外側から見ている」という発言(4章で引用)にも関連しますし、鈴木の「あっ、いま対象が憑きました、いまあの人は嫉妬の感情にとりつかれている、歌舞伎はそういうことをやっているんでしょう」という発言(5章で引用)にも関連します。この時、タタタタ・・と均質に駆けていくリズムが役に立つのです。どうして役に立つのかというのはちょっと論理的に説明しにくいですが、均質なリズムのなかで切り替えすれば、 どちらの要素も等価に持っていけるということでお分かりいただけるでしょうか。鈴木・白石が「劇的」で試みたこと(切り貼り場面の連なり)と同じことを、玉三郎は桜姫で試みたと云えるのです。

当時まだまだ歌舞伎見初めであった吉之助は、玉三郎の桜姫のフィクショナルな面に興味を持った(このことは吉之助の「女形の美学〜たおやめぶりの戦略」で詳しく延べたので、ここでは論じません)ので、そこから歌舞伎の奥へ入って行くことになります。だから渡辺が感じた「玉三郎以前と以後」の分水嶺というところの衝撃を察することが出来ます。

「劇的」映像を見て「白石によって南北の台詞は現代に蘇った」と感じたかと問われれば、吉之助は正直そこまでの衝撃は感じませんでした。約50年後にこれを映像で見る吉之助 には、当時の熱気が共有できないのかも知れませんねえ。このリズムを歌舞伎に移し替えるには、まだ試行錯誤が必要に思われます。しかし、白石の台詞のリズムが、70年前後の時代の空気から発したものであることは確認ができました。白石の台詞が歌舞伎に何らかの示唆をしたことを、吉之助は認めて良いと思っています。

一方、歌舞伎のなかに南北劇を復活させるためには、時代の裏付けを持たねばなりません。裏付けから様式という確固たるものを作り上げて行かねばなりません。それをするのが伝統芸能というものです。時代の裏付けと云うと、普通はその作品が生みだされた時代ということです。伝統が途切れてしまった歌舞伎の南北劇の場合には、それは70年前後の時代に根差すべきということにな ります。しかし、70年代の歌舞伎の第2次南北ブームは、徒花の如く、突如湧き出すように生まれてまた消えてしまいました。だから結局、歌舞伎に南北様式が定着したというところにまで行きませんでした。「劇的」映像を見て、 改めてこのことを残念に思いますねえ。(これについては別稿「第2次南北ブームの成果」の最終章をご覧ください。)

(H30・3・4)




  
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