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南北物の社会的視点

平成30年4月歌舞伎座:「絵本合法衢」

十五代目片岡仁左衛門(左枝大学之助・立場の太平次二役)他


1)南北物の社会的視点

「絵本合法衢」については別稿「返り討ち物の論理」で論じたので、特に付け加えることはないのですが、本稿は雑談風に書いてみることにします。例えば序幕・多賀領鷹野で左枝大学之助寵愛の鷹を誤って子供が殺してしまって、非情にも大学之助に手討ちにされる場面が出て来ます。続いて子を殺された親の嘆き・怒りの場面が描かれます。そう頻繁に起きたとは思いませんが、江戸時代には、大名行列の前をうっかり横切ってしまった庶民を無礼討ちにしたとか、そう云う事件が起きることがあったようです。当時の江戸の観客(その多くが町人階級であったと思われる)がこのような場面を舞台で見た時、武士に庶民が問答無用で畜生の如くに斬り捨てられることの理不尽さ、斬った武士に何のお咎めも課せられないことの不公平に、正義はどこにあるのかと強い憤りを感じたと思います。

もちろん当時の庶民に平等とか人権とか云う概念はありません。そのようなことを自覚したはずはないですが、しかし、この感情を延長して行くならば、その怒りは、やがて封建制度への疑問・社会変革への衝動へと発展しかねないどす黒い要素を孕んでいるのです。例えばドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」では、ドミートリー・カラマーゾフに父親を侮辱された少年イリューシャが深く傷付いて、この事件をきっかけにやがて社会主義思想に目覚めて行きます。

このような場面を鶴屋南北が書いたことは、ここだけを取ればとても危険なことではないでしょうか。しかし、恐らく、悪人大学之助が最後に討たれて、悪は滅び善は栄える勧善懲悪の結末に仕立てることで、観客も一応収まるわけであるし、お上への言い訳も立つ、だからお上もこれを許容したと云うことなのです。それで芝居としては丸く収まったのです。しかし、一旦観客の脳裏に刻まれた怒りの感情はいつどんな形で再び湧き上がるか、それは誰にも分からないことです。見方によっては、それは来たるべき時代(明治維新・四民平等の世の中)を深く静かに準備したと言えなくも ありません。それは「絵本合法衢」初演(文化7年・1810)から数えれば、約60年後のことでした。この60年を長いと見るか、短いと見るか。(この稿つづく)

(H30・5・6)


2)古い革袋に新しい酒を盛る

鶴屋南北が活躍したのは文化文政期のことですが、江戸時代にはその盛名の割に南北ものは再演が少なくて、幕末期まで切れ目なく上演がされてきたのは、「東海道四谷怪談」くらいのものだったのです。明治までに歌舞伎での南北の伝統は、ほぼ絶えていました。どうしてそうなったか、その背景をよく考えねばなりません。恐らく時代との親和性・趣向性があまりに強すぎて、再演が困難だったのだろうと思います。時代が離れてしまうと、気分を共有することがますます難しくなります。その後の歌舞伎が、黙阿弥に代表されるように下座を多用した音楽的表現の方へ傾斜したことも、台詞劇の様相が濃い南北ものが敬遠される一因になったと思われます。

ですから今日知られる南北ものの多くは、大正・昭和の南北再評価の動きによって復活されたものでした。南北ブームはこれまでに二度ありました。第1期は、大正から昭和初期において二代目左団次らによって復活上演が試みられた時期でした。第2期は、戦後の70年代(昭和45年〜55年頃)のことでした。70年代においては南北作品は歌舞伎はもちろんですが、新劇・アングラ演劇などでも南北が盛んに取り上げられました。

どのような観点から南北再評価がなされたかというところも、大事なポイントです。南北は社会の最下層に生きる人々を作品に大勢登場させて、封建制度・身分制度の世に渦巻く悪意や欲望を乾いたタッチで描写しました。諧謔味や笑いと云うエンタテイメント性の陰に隠されていますが、そこに南北の醒めた観察眼が感じられます。南北再評価の動きは、作品のなかに社会批判の立場を投影するところから始まったのです。このような見方は、当時流行りであったマルクスの唯物史観が影響しています。

第二期南北ブームの時期には、南北は「怨念の作者」と捉えられました。当時の70年安保闘争あるいは大学紛争は、この時代の若者を巻き込む激しい渦のようでした。しかし、社会の不正・不公平を糾弾しようとした若者たちの理想は、「体制」と呼ばれた社会構造のなかで押さえつけられてしまいました。さらに学生運動自体も主義主張で内部分裂して互いに争いを繰り返し、自己崩壊していきます。挫折を味わった若者たちが演劇に身を投じた時、南北作品の登場人物の生き様やドロドロとした怨念の渦巻く世界がリアリティーを以って迫ってきたのです。

それにしても南北が世の中を辛辣な観察眼で見たことは確かだとしても、南北が社会批判・社会変革の意識を以て作品を書いたとすると、これはちょっと色眼鏡で読み過ぎかなと感じるかも知れません。確かにあの時代にはそこまで強い批判意識は持てたとは思えません。しかし、漠然としてではあるけれども、これを延長して行けば、やがて社会変革の衝動につながっていく要素が確かにあるのです。このような要素を抽出し、強調して、新たな社会的な視点から作品を見詰め直すことによって、南北は現代にようやく蘇ったのです。

美術であれば鑑賞者は古い作品と直接そのまま対峙できます。一方、演劇や音楽の場合は、再現者の行為(パフォーマンス)を介して、鑑賞者(聴衆・観客)は作品と対峙することになります。歌舞伎であれば、再現者も鑑賞者もその時代の人であって、作品が成立した時代とはまった状況を隔てたところで対峙することになります。だから何らかの色眼鏡(フィルター) を通して作品を解釈することは避けられないのです。言い換えれば、その時代において新たな価値を見出されないならば、その作品を復活する意味はないのです。

新劇やアングラ演劇ならば、南北原作を大幅に書き換えてその時代の嗜好に合うように演出意図を強調することが出来ます。舞台・衣装を現代風に作り替えても良いし、背景音楽をロックやラップのリズムを使っても良い、何でも自由に出来ます。しかし、歌舞伎の場合は、伝統芸能とは「昔から伝わっていることをしっかり正しく守ってやります」ということを標榜している芸能なのですから、当然やれることは制約されます。何でも自由に出来るというわけではありません。しかし、 歌舞伎と云えども再現芸術ですから、その時代の色眼鏡(フィルター)に必ず影響されるし、それがなければ現代に古きものを蘇らせることは出来ないのです。そのような相克の狭間に歌舞伎はあるのです。だから歌舞伎のなかで一旦途絶えてしまった南北の伝統を現代に蘇らせる為には、「古い革袋に新しい酒を盛る」という行為が必要になります。古い形式のなかに、新しい心・新しい解釈を盛り込むと云うことです。それは新たな社会的な視点を以て南北作品を再解釈していくことでしか出来ないと、吉之助は申し上げたいですねえ。(この稿つづく)

(H30・5・10)


3)討つても死ぬる、討たいでも死ぬる

劇団青年座の石澤秀二演出(昭和44年)では「盟三五大切」幕切れで討ち入りに赴く塩治浪士が居並ぶなか、小万の首を抱えた源五兵衛が毅然と立つ姿に「海行かば」の曲が背景に流れるという具合であったそうです。この演出については当然いろいろ意見があるでしょうが、このような大胆な扱いにも南北の作品は耐えると云うことは、知っておいた方が良いです。しかし、吉之助が歌舞伎の南北復活上演に期待したいのは、新劇やアングラ演劇ならば場面や台詞を書き換えたり・付け加えたり音楽や衣装・装置で大胆な意匠を凝らしたりするところをそれをせず、敢えて作品に正攻法で対することで冷酷なほど冷静に ドラマを描き出すということです。これが歌舞伎ならではの、歌舞伎にしか出来ない南北へのアプローチだと思うわけです。

ですから「盟三五大切」で云うならば、主人を欺いたことを悔いて腹を切った三五郎に対して源五兵衛が云う「こりやかうなのては叶うまい」という台詞を、歌舞伎は真正面から言わねばなりません。石澤秀二は、この台詞は封建主義の論理そのままの冷酷な台詞で許されないとしてカットしてしまいました 。これは新劇の立場ならば、その解釈は分からなくはありません。(別稿「人格の不連続性」をご参照ください。)しかし、この台詞は「主人を欺いた家来など死んで当然の報いだ」と、家来を冷酷に切り捨てているのではないのです。

吉之助ならば、この台詞を次のように読みます。 源五兵衛は「俺はお前を主人思いの忠実な家来だと認めるぞ、そんなお前が心ならずも主人を欺いてしまったと知った時、この過ちをそのままに生きていることは忠義なお前ならば到底できないだろう、自害したくなるのもそれは当然のことだよなあ」と言っているのです。そこに忠義に生き、忠義に振り回された愚かな人間の生き様があるということです。これが歌舞伎の読み方なのです。このことはその後の源五兵衛の台詞に「その志あるなれば、死ぬに及ばぬものなるを、あつたら若者見殺しに・・」とあるのですから、前後関係を読めば明白なことです。

現代においても、組織の論理に生き、組織の論理に振り回されて、勝手に忖度(そんたく)したり、文書を改ざんしたり 、愚かなことをすることは日常茶飯事としてあるわけです。せめてまっとうな人としての心を持って欲しいものですねえ。文化文政の世と、現代の平成の世と、人のすることにどれほどの違いがあるでしょうか。そこから新たな社会的視点が生まれるのではないか。

例えば「絵本合法衢」ならば、核心の台詞は何になるでしょうか。大詰・合法庵室の場において、宿敵大学之助を目の前にしながら病身で手出しができなかった与兵衛が返り討ちされます。この後、合法が戻ってきて、ふたりは互いを兄弟であると知るのですが、その時にはもうすでに遅い。弟の死の悲しみもそこそこに合法はすぐに仇を討ちに発たねばなりません。出立する合法がこう言います。

『いずれ敵に出会う日は、討つても死ぬる、討たいでも死ぬると覚悟もきわめている。』

「討つても死ぬる、討たいでも死ぬる」とは、今の自分は宿願を遂げることしか頭にないということです。生きるということが、宿願を遂げる(敵を討つ)という目的と一体化しているのです。宿願を遂げれば・その後の人生を生きるために何か目的が必要になることは当然ですが、今はそのことをまったくイメージできない状況に彼はいます。宿願を遂げた後の人生は彼の頭のなかにないのです。「ない」というのは予定表に書き込みが無いというだけですが、このことを合法は「死ぬ」と表現しています。なぜならば、合法の現在の人生は敵を討つためだけにあり、宿願を遂げられるならば、たとえその時点で命が奪われても悔いはないという厳しいところにまで、彼は追い込まれているからです。そこに現代にも相通じる「生きることの厳しさ」があります。これが歌舞伎の南北の読み方なのです。

ちなみに今回の上演(平成30年4月歌舞伎座)では「討つても死ぬる、討たいでも死ぬる」の台詞はカットされています。
これでは、本作の返り討ち物としての意味がないということになると思います。(この稿つづく)

(H30・5・22)


4)バイ・プレイヤーが面白いのが南北なのです

今回(平成30年4月歌舞伎座・夜の部)での「絵本合法衢」は、「仁左衛門一世一代にて相勤め申し候」との触れ書きでありました。立場の太平次は東京でも過去2回演じているわけですが、仁左衛門の当たり役と云うほどのものかなあ・・と思いましたが、実際は仁左衛門が「この芝居はもうこれっきりやらないよ」と言ったものを、松竹宣伝部が「一世一代」と触れ回っただけのことだそうです。

まあそれは兎も角、触れ書きの割には客席は空席が目立ちました。統計的にはどうだったか知りませんが、4月は恐らく歌舞伎座再開場以来、最も空席が目立った感じでした。これは昼の部の菊五郎の「裏表先代萩」 も同様のことでしたが、夜の部は「仁左衛門一世一代」で気合いが入っていたので、余計寂しさがつのりました。これには色々背景があると思いますが、仁左衛門ファンは数多いわけであるから、要因のひとつに演目がアピールしなかったせいもあったと思います。「絵本合法衢」?面白かったよ、まあ一回見れば十分の、薄っぺらな芝居だけどね・・・という程度の感想になってしまうから、同じ演目をまた見たいという気持ちにならないからです。歌舞伎が「絵本合法衢」の正しい姿を提示出来ていない、観客の肚にズンと来る重みを与えてくれる芝居だと分からせてくれないからです。

吉之助が思うには、絵本合」や「霊験亀山鉾」のような芝居を、いつまでも悪の美学・殺しの美学で売ろうとしているようでは、観客に飽きられるだけだと思います。歌舞伎の立場から明確な社会的視点を持った南北作品の読み直しを提示出来なければ、これからも南北は一発花火で終わって、歌舞伎のレパートリーに定着しないでしょう。戦後の70年代(昭和45年〜55年頃)の第2次南北ブームからもう50年が過ぎようとしているのにこの現状だということから、それは明らかだと思います。

今回(平成30年4月歌舞伎座)の「絵本合法衢」を見ても、脚本のなかで主役(大学之助・太平次)を取り巻く役々を十分描き込めていないから、結果として主役の悪が効いて来ないことになるのです。主役を引き立てるために脇役があると考えるのが歌舞伎の普通の感覚かも知れませんが、バイ・プレイヤーが面白いのが、南北なのです。バイ・プレイヤーが生き生きしていないと、南北は決して面白くならないのです。そこに南北の社会的要素があります。ですから今回の舞台は、その意味で脚本に問題があることも確かですが、演じる役者にもそれぞれ問題があるわけです。それぞれの役者が適度に自己主張することで、芝居の筋は奥行きが出るのです。そろそろ主役中心主義の芝居から脱却せねばなりません。特に南北では、それが必要です。(歌舞伎座の南北より、前進座の南北の方が面白いのは、それが当たり前のように出来ているからです。)分かりやすく筋を通すとか 、テンポ・アップという名目で、原作をある程度刈り込むことは、現代に南北を上演する為に当然必要なことですが、そこに社会的視点を入れなければなりません。(この稿つづく)

(H30・5・31)


5)「試練」への怒り

社会的視点を入れると云うことは、社会の底辺に蠢く民衆、貧しく悲惨な境遇であってもしたたかに生きる人々を活写しなければ、南北作品の上演の意味はないと云うことになると思います。「仇討ち物(=返り討ち物)」の意味は、敵を追う者(それは善人方ですが、同時に発端においては武家階級に属する)が、やむを得ない事情において現在の身分を捨てます。これは自ら望んでそうするようですが、別の意味においては、封建論理の下、世間からそのように仕向けられた・つまり共同体から放逐されたとも云えます。つまりこれは通過儀礼で云うところの「分離」です。行方も知れぬ敵を探し求める旅の苦労は並大抵のものではなく、資金が尽きれば物売り、日雇い、果ては乞食になって敵を追うということになります。これは通貨儀礼で云うところの「移行・試練」です。この過程で南北物の社会的視点が生きて来ます。

仇討ち物はもちろん「貴種流離譚」のパターンを踏まえているわけです(詳しくは吉之助流・仇討論をお読みください)が、仇討ち物が大願成就の歓び(合体)に比重が置かれるのは、これは江戸元禄期の「曽我の対面」ならば 額面通りです。この時期ではまだ中世期の気分がしっかり尾を引いているからです。しかし、江戸も後期の化政期ともなれば、江戸町人社会は成熟し、時代はもうすっかりプレ近代です。迫りくる新しい時代がすでに視野に入り始めています。そこに社会的視点を加えて南北物を読まなければ、これを正しく理解することは出来ないのです。

一方、南北の仇討ち物では、貴種流離譚の「試練」の方に比重が掛かっています。 大願成就の歓びは、結末に用意されてはいても、それはもはや虚しいものに過ぎません。だから、試練を受ける者たちの感情は、明らかに、怒り・或は抗議の感情を呈しています。何に対して怒り抗議するかと云うと、実は、その感情をぶつける対象は、漠としてまだ明確ではないのです。それは神かも知れないし、世間かも知れないし、組織かもしれないし、「生きる」とは何かという哲学的な思いかも知れないし、いろいろあると思いますが、要するにこれは、「何も悪いことをせずに、慎ましく正直に真面目に生きて来た私が、このような仕打ちを受ける理由はない、今私が蒙っている状況は不当かつ理不尽である、何かが間違っている」という怒り或いは憤りの感情です。(この感情は、現代においてますます強いものになっていると思いますが、このことは本稿では論じません。)

南北の時代においては、そのような怒りの感情はまた漠然としており、明確な形を取っていないようです。しかし、やがて時代は大きく転換していくことになります。あと60年も経てば、そうなるところ(明治維新)にまで時代が来ているのです。現代の我々は、南北物が内包する感情が延長した先に位置するはずですから、その感情の芽の伸びていく先を見極めることが出来ます。

だから南北の仇討ち物(返り討ち物)は、プレ近代における新しい意味を持った貴種流離譚であると理解せねばなりません。大事なことは、「試練」の不当性への怒りに比重が掛かっていることです。「慎ましく正直に真面目に生きて来た私(庶民)が、このような仕打ちを受ける理由はない」という怒りの 感情を強く読み込むことで、南北物は真に現代歌舞伎に根付いたものとなって行くでしょう。

(H30・6・5)



 

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