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返り討物の論理

平成24年4月国立劇場:「絵本合法衢」

十五代目片岡仁左衛門(左枝大学之助・立場の太平次二役)他


1)返り討物の美学

『いったい、かぶきの敵討物というのは、敵を討つ方よりは、(敵に)討たれる方に興味があり、人間描写もテクニックもおもしろい。したがって、敵討物などというよりは、返り討物とでも言った方がよりぴったりしている。それは敵討物の先祖である「非人の敵討」からそうであり、「斬られ役者」という言葉があるくらいで、かぶきでは、斬られ方の美学が、むかしから確立している。』(郡司正勝:「絵本合法辻の世界」・昭和40年)

郡司先生の随筆の冒頭部です。それにしても、この文章は討つ方・討たれる方という表現が紛らわしくて混乱するかも知れませんねえ。郡司先生は返り討ちについて書いているのですから、ここでの討たれる方は善人側(敵を追い求める側)、討つ方は悪人側(返り討ちにする側)のことを言っているのです。善人側と書きましたが、敵討物においては敵を探し求めて・各地を放浪し・艱難辛苦を舐める思いをするのは常に善人側に決まっています。別稿「吉之助流・仇討ち論」で触れましたが、敵討物というものには苦労の果てに敵を仕留める・その過程に「予祝性」が意識されています。ですから観客が思い入れをするのは、常に善人側に対してです。善人側が返り討ちを受けて、それがまた酷い殺され方をする。返り討ちされる者の悔しさ・無念さが、これがさらに予祝性を高めて、後の大願成就の瞬間を甘美なものにするのです。兄が敵に返り討ちされれば・弟がまたこれを追う。仲間が殺されれば・別の仲間がまたこれを追う。こうして返り討ちされた者の怨念の力を受け継いで、追う側の怨念はさらにその強さを増していくのです。その為に、返り討ちされる役者はどれだけ酷い殺され方をするかに工夫をこらすわけで、斬られ役者なんてものもそういうところから出てくるのです。返り討ちというのは「やつし」の究極の形だということです。

このことが分かれば、「忠臣蔵」の勘平の切腹も・別の見方が可能になります。「十一段目」の焼香の場で、由良助は勘平の嶋の財布を取り出し、「(勘平に)気の毒な最後をとげさせたと、片時も忘れず、その財布を今宵の夜討ちにも同道いたした」と言います。(残念ながら・この場面はカットされて歌舞伎では上演されません。)返り討ちするのは師直側の人物だけとは限りません。塩治義士の立場から見れば、勘平の死は無慈悲・過酷な状況に返り討ちされたのと同然なのです。由良助は勘平の怨念を我がものとして受けとめ・ 自らの怨念を更に強いものとして、自分たちを押し潰そうとする圧倒的な状況に対して立ち向かおうとしたということです。それが師直への怨念をさらに掻き立てます。返り討ちされた勘平の怨念が塩治義士の予祝性を高めるのです。敵討物の視点からは「六段目」はそのように読めるはずです。ですから郡司先生が「敵討物などというよりは・返り討物とでも言った方がよりぴったりしている」と云う通り、敵討物と返り討物とはほぼ同義であると云うべきです。

もっとも最近はこういうことが分からなくなりましたね。南北物には残虐な場面がよく出てきます。南北関連の評論を見れば、悪の美学・殺しの美学というような言葉ばかり並んでいます。興味が悪人側の方にばかり行っているのです。例えば、今回(平成24年4月国立劇場)の「絵本合法衢」の場合でも、人気役者・仁左衛門が時代の左枝大学之助・世話の立場の太平次の悪役二役をどう演じ分けるか・どんな凄惨な殺し場を見せてくれるかというところが売りになっています。まあ、それも分からないことはありません。初演(文化7年・1810・市村座)では稀代の名優五代目幸四郎が演じた二役ですから。しかし、「絵本合法衢」というのは返り討物なんですよね。そこの視点が見落されていないでしょうか。

「絵本合法衢」は返り討物である・つまり視点は常に善人側に置くべきだということです。この視点が見落とされているということは、同じく四世鶴屋南北の「東海道四谷怪談」や「盟三五大切」も正しく見えていないということではないかと吉之助は疑うわけです。例えば「四谷怪談」を論じる論考の多くが、「忠臣蔵」を対立した世界とみなしています。時代に対する世話、建前に対する本音、あるいは非人間性と人間らしさとの対立というような構図です。つまり「忠臣蔵」は否定されるべき世界ということです。そこから伊右衛門を封建社会の非人間的論理に敢然と反抗する自由人と見なす解釈が出てきます。「盟三五大切」では、塩治浪士に正義はなく・ひと皮むけば彼らも血塗られた殺人者の群れだなどと云うことを書く方がいます。現代の懐疑の立場からはそのような解釈があり得るのは当然のことで、決して間違いということでもないのです。それはまあ新劇ならば仕方がない。しかし、歌舞伎の立場から言えば、敵討物(=返り討物)では視点は常に善人側に置くべきなのです。吉之助が問いたいのは、巷間の南北評論がこの視点を正しく踏まえたうえで・更にそれを踏み越える覚悟で批評がなされているのでしょうかということです。世間の興味が、南北物の残虐性という方向に行くことは致し方ないことです。それは現代がそのような時代だからです。ならばそのような歪んだ現代の感性を健全な方向に引き戻すための視点を提供したいものです。古典の使命はそこにあると吉之助は思いますがね。(古典とは常に善なるものを描くものです。これについては別稿「音楽的な歌舞伎の見方」をご覧下さい。)

『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそれは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多いのじゃないか。それはネガみたいなものです。(中略)本当に刺激の多い激しい時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出てくる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたいへん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(ドナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)

これはキーン先生の言うことがまったく正しいのです。近くは太平洋戦争時の・戦意高揚のための国策映画・小説・歌謡曲などを思い浮かべてみれば良いのです。それと比べ れば、吉之助には南北物ははるかに健康的な感性の産物であると思えます。「正義は必ず勝つ」ということは、現実にはそうならないことがしばしばです。しかし、芝居においては常にそうでなければなりません。誰だって正義が好きなのです。正しい者が 最後に勝つことを証明するために、芝居では悪が必要です。悪の力が強ければ、正義はもっと力を出さねば成りません。そうすると悪を倒した時の勝利の味わいは、もっと甘美なものになります。だから悪は強くなければ芝居は面白くならない。そんなところで一生懸命工夫を凝らしているうちに南北物の悪人はああなっちゃったと・・・結局のところ・そういうことに過ぎないのです。(この稿つづく)

(H24・4・30)


2)人間悪の創造

折口信夫がこんなことを書いています。皆がそれを知っており、例え誰かが知らなくても、それを読んだ世間から押し寄せてくることで、一体の知恵の水準が高まっているということがある。明治以後にそのような影響を与えた書物を挙げればキリがないが、その十冊のなかに入るくらいに、日本人の心のなかに広がっている「知識の書」があると云うのです。折口が挙げているのは、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」です。吉之助は意外な組み合わせにちょっと吃驚してしまいました。

『恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。(中略)ドイルは極めて、しばしば、人間の処置はこれまでで、これから先は、我々法に与る者の領分ではないという限界を、はっきり見つめて、其ははっきりと物を言っているのである。即法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。(中略)此神の如き素人探偵の持った特異性は、いつも固定していない。人間の生き身が常に変化しているように、ホームズは、生きて移っている。しかも彼らの特異性が世間に働きかけて、犯罪を吸い寄せ、罪悪を具象して来る。そうしてあたかも神自身のように、犯罪を創造していく。彼の口は、皮肉で、不逞な物言いをするに繫らず、犯蹟を創作する彼の心は、極めて美しい。ホームズを罪悪の神のように言ったように聞こえれば、私の言い方が拙いので、世の中の罪が彼の気品に触れると、自ら凝集して、固成しないではいられなくなる。そして次々に犯罪を発見し、またそれ自身真に、その罪悪と別れて行く。(中略)だから、ホームズの物語は、ドイルの行なう鎮魂術であったと言ってもよい。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年・仮名遣いなど吉之助が若干手を入れました。)

この小文の題名は「人間悪の創造」と云いますが、文中に人間悪への言及が全然ありません。しかし、ホームズ・ファンならば折口が人間悪に何をイメージしたかすぐ分かるはずです。それはモリアーティ教授です。「最後の事件」でホームズはモリアーティのことを、「彼は犯罪のナポレオンだよ、ワトスン君。この大都会の半分の悪事、ほぼすべての迷宮入り事件が、彼の手によるものだ」と言っています。ホームズ最大の敵。悪の天才・悪の権化。ホームズと知恵比べをして・ホームズが悩み苦しむのを見て喜び・その楽しみのためだけに悪事を仕掛ける人物です。まさにホームズの気品に感応して生成したが如き極悪人です。しかし、その正体はよく分からない。だいたい正義の味方にはこれに対抗する悪の存在がいて、主人公を絶えず脅かすものです。

南北物の悪の美学を論じる時、論者が一様に挙げている特徴があります。南北の悪人には良心の呵責とか天の恐れとか云うものがない。それはスポーツ的快感のスカッとした悪で、描写として悪人の心理に深く立ち入っているわけではなく、類型的で・実在の必然性に乏しいということです。こういうタイプの悪人は南北以外にあまり見ないというのです。そうした南北論考の多くが、その根拠を南北の同時代・化政期に流行った黄表紙・読本・合巻などに出て来る残酷趣味・悪の世界の氾濫に求めています。まるで江戸化政期が爛熟退廃し切った時代であるかの如きなのです。南北の悪人はまるで反省がない・まったく底が知れない真性の悪であると感じるのは、それはそれで興味深いことではあります。それは現代という時代が何か背後で得体の知れない邪悪なものが蠢いている・そのような気配を感じさせる時代であるからです。

しかし、吉之助に言わせるならば、南北の悪人がその性格や性根の描写に深みがなく・類型に留まるというのは、至極当たり前のことなのです。それは善人の清らかさを・正しさを証明する為に、彼らに苦しみを与え・苦難の道程を歩ませる為だけに、生成してきた悪であるからです。昔の見物というのは悪人を見ようとしなかったのです。しかし、南北はリアリストですから世の中に邪悪なもの・醜いもの・不正なものが何かしら存在することを知っていました。そのようなものが、劇中の善人の正しさ・清らかさに触れて凝集して・固成する。南北の芝居はそのように出来ているのです。それが左枝大学之助であり・立場の太平次です。そのような悪人に性格の深みなどあろうはずがありません。ですから話を元に戻せば、「絵本合法衢」は返り討物であり・その視点は常に善人側に置くべきなのですから、善の存在を際立たせるために悪があるのです。決してその逆ではありません。これが歌舞伎の視座なのです。もちろん南北と同時代の黄表紙・読本・合巻などの残酷趣味・悪の氾濫についても同様です。

このような南北物の悪人像は、同時代に五代目幸四郎という稀代の名優を得たからこそ可能となったものです。鋭い目付きと高い鼻が特徴で、高麗屋が見得をすると子供が泣き出したと云うほど凄みのある芸風でした。ここはホームズでの折口の言い方を裏返しにして考えて見れば良いかも知れません。五代目幸四郎という特異なキャラクターに触れた時、世間の邪悪なものが集まって、犯罪を吸い寄せ、罪悪を具象して来る。そうしてあたかも高麗屋が神の如くに、犯罪を創生して行く。舞台のうえで世間の邪悪なもの・不正なもの・醜いものが眼前に現れ、そして最後に討たれて滅ぶ。この時、世の中のあるべき方向(正義)が指し示され ます。このことを示す為に高麗屋の悪があるのです。その為にならば、その所業は残酷・無残なほど良い。その方が予祝性はさらに高まるからです。南北物の感性はとても健康的なものです。どこかマンガチックであると言っても良い。これは南北が行なう鎮魂術なのです。そんなもの勧善懲悪の定型のなかに取って付けただけさと笑っているようでは、南北物の健全性は見えてきません。(この稿つづく)

(H24・5・2)


3)南北の悪人像について

返り討物の視点は常に善人側に置くべきですが、とは言え「絵本合法衢」の主役はもちろん五代目幸四郎が初演した左枝大学之助であり・立場の太平次です。観客の興味がそこに行くのは仕方ないところです。そこで、今回(平成24年4月国立劇場)の仁左衛門が左枝大学之助・立場の太平次の悪役二役のことですが、 期待して見ましたが、南北の人間悪として見た場合にとても物足りなく感じました。その理由について考えてみます。

役作りに当たり仁左衛門は、左枝大学之助は時代の悪役・立場の太平次は世話の悪役、だから時代と世話をきっちり描き分けて二役の対照を出したいということを意図したと推測します。大学之助は時代でスケールの大きい悪。だから大学之助を時代に重々しく・声は太めに・動作はゆっくりめというところを意識して、太平次の方は仁左衛門だから軽妙とは行かないにしても、大学之助よりは世話にやや軽めにくだけて・・というところを意識したようです。「如何にも・・・らしい悪」という意図が透けて見えるようです。悪に陰影を持たせようとしているのです。そのため全体が幕末のあまり質の良くない敵討ち芝居・例えば敵討天下茶屋聚」のような安っぽい芝居の感触を呈しています。大学之助は東間三郎右衛門の大敵風に、太平次は安達元右衛門の安敵風にどこか感触が似るようで、事実その辺を役作りの参考にしたのでしょう。これがいけません。南北の悪と云うのは、もっとスカッとして・裏表がないものです。つまり薄っぺらなものです。こういう役は割り切って・派手に戯画的に演じた方が、南北の乾いた悪になるのです。

大学之助は時代の悪・太平次は世話の悪だから時代と世話をきっちり描き分けて二役の対照を出すのがこの芝居の眼目であると・・まあそうなるのも分からなくはないですが、演じ分けようとするのではなく、むしろこの二役でセットでひとつの悪になると考えた方が良ろしいのです。同じ役者が演じても成りが変わればそれは別の人格であるというのが歌舞伎のお約束であるはずです。だから大学之助と太平次をひとりの役者が演じるということで南北が意図したものは「仕分ける」ことにあるのではなく、むしろその逆で、ふたつの行為をひとつの意味にまとめ上げることでした。時代と世話と表面を変えてひとつの悪が善に襲い掛かります。だから、またアイツが出てきたわいとなって別に構わないのです。南北は実際そのように芝居を書いています。南北は「太平次は大学之助様と顔がそっくりだ」という台詞をあちこちに出して五代目幸四郎が二役を演じる言い訳を最初から出しています。太平次に殺されながら・善人側は大学之助に返り討ちされた気分になるし、ドラマツルギー的には事実その通りなのです。

『大学之助と立場の太平次、これは作者の働きから、両人の顔が似ているという点でひとつ役者にさせて、実は大学之助でも良い のである。しかし大学だと万事が固くなって、生世話の味にならぬ。ところで、大学、太平次に分けて、前に武家屋敷で殺させ今度は山中の一つ家で殺させる。こういうことは内外共の脚本で珍しくないことである。固くなりそうな場面を世話で見せる行き方である。シェークスピアの「ヘンリー四世」のなかでファルスタッフがヘンリー四世の真似をして皇太子ハリーを叱る。これは金襖で見せるのを世話に砕いたものである。』(池田大伍:「私の南北観」・昭和2年)

仁左衛門は二役では太平次の方が仁だろうと思いますが、大学之助の役を仕分けようとして・これを大時代に重く重くと心掛ける方向へ行って、結果として悪の行為を分離させ・ひとつのものとして見せてくれない不満があります。これは決して仁左衛門に限ったことではないですが、そもそも大時代に重く・・辺りに問題がありそうです。そう云えば、この芝居を大正4年(1926)10月帝国劇場で復活上演した二代目左団次もこんなことを言っていますね。

『大時代と云えば、私はどうも大南北の物などはその当時は随分写実に演っていたものの様な気が致しますが、これを今の時世で再演する場合にはずっと大時代に演出しないと、どうしても大南北の感じが出ない様な気がしますので、出来るだけ大時代に演っておりますが、ここらも演出上の難しいところでございましょうな。』(二代目左団次・「演芸画報」・大正15年11月)

写実で演るのが正しいのは分かってはいるが・歌舞伎で演る時には南北は大時代で演らないとどうも居心地が良くないというわけです。どうしてそうなるのかはひと言で言いにくいですが、その心理を吉之助が察するに、恐らくは歌舞伎役者の演技の引き出しというのは案外と狭いもので・せいぜいが幕末期の黙阿弥くらいまでしか遡れないせいです。それで南北もついつい黙阿弥のテクニックで処理してしまう。なまじっか南北は黙阿弥よりも古いものというイメージがあるから、大時代でやらないと演っていてどうも落ち着けないという感覚が歌舞伎役者にはあるようです。それで南北は大時代に・・ということになるわけですが、本来の南北の生世話は、「バラ描き」という言葉があるように、さばけた感じでアッサリと散文的に演じるのが正しいのです。むしろ新劇で演じられる南北の方が本来の感触に近いくらいです。(この稿つづく)

(H24・5・3)


4)南北のフォルムが希薄

鶴屋南北が活躍したのは文化文政期ですが、南北再評価が言われてその作品が盛んに上演された時期がこれまでに二度ありました。第1期は大正から昭和初期において二代目左団次らによって復活上演が試みられた時期、第2期は戦後の70年代(昭和45年〜55年頃)のことです。70年代においては歌舞伎 ではもちろんですが、新劇・アングラ演劇などでも南北は取り上げられました。吉之助は、どうやら第二次南北ブームに間に合った世代です。

その頃の歌舞伎での南北物上演では大向うが間をはずす場面がよくあったものでした。それは何故かと云えば、南北の生世話の台詞は字足らずになることが多いせいです。南北は日常会話に近い写実の台詞なのです。歌舞伎役者は南北物の生世話の台詞に慣れていませんでした。だから素直に台本の台詞を追おうとしていました。大向うは黙阿弥の七五の間合いで待ってい ますから、台詞が字足らずで終わると、間が合わず大コケしてしまうのです。玉三郎でも孝夫(現・仁左衛門)の台詞でもそういう場面がよくあったものでした。吉之助は「大向うさん 南北をご存知でないねえ」と笑ったものでした。しかし、最近の南北上演ではあまりそういう場面を見ることがないようです。これは大向うが巧くなったのか・・というとそういうことではないのです。歌舞伎役者の方が南北の台詞を黙阿弥の調子でしゃべるようになってきたからです。

平成での南北物の上演頻度はあの頃と比べて多くなったとは思えません。歌舞伎役者が南北に慣れたということではありません。しかし、一方で歌舞伎が全体に保守化して・何となく「歌舞伎らしさ」のような 緩い気分に浸る傾向になって来ました。南北本来の歯切れ良さ・バラ描きの良さというのが次第に失われて、台詞がたっぷりと粘って・無意識のうちにリズムを七五に揃える傾向が次第に強くなっています。また劇評でもそういうのを歌舞伎らしいと云って褒める方が多い。これは誰がどうのと云うよりも、平成という時代の気分が恐らくそういうものなのでしょう。(吉之助がそのような傾向に批判的であることはご承知の通り。別稿「いわゆる歌舞伎らしさを考える」・「初代の芸の継承〜吉右衛門の課題」などをご覧下さい。)つまり、「俺たちはいつもこれでやってきた」という・ いつもの楽なやり方で芝居を処理しようとしているわけです。これが黙阿弥調というわけです。(ただし、これも本来の黙阿弥かどうかは怪しいのですが。これについては別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)

今回(平成24年4月国立劇場)での仁左衛門の二役(大学之助・太平次)ですが、全体的に台詞だけでなく・演技総体として生世話の感触に乏しく、たっぷりと粘って重い感じがします。時代の大学之助の方にそれが強く出るのは当然ですが、太平次の方もたっぷりした感じが強い。察するに仁左衛門は、大学之助・太平次という悪に、底が見えないスケールの大きい悪・陰影のある真性の悪を見せたいのでしょう。その気持ちは分からなくはありませんが、台詞・演技のリズムをたっぷりと七五に揃えよう・その方が歌舞伎らしく見えるだろという意識が見え隠れします。南北は大時代で演らないとどうも居心地が良くないというわけです。なるほどこの間ならば「松島屋ッ!」の掛け声は掛けやすい。昭和50年代の孝夫時代の仁左衛門がこんな調子で南北の台詞を言ったかなあと、吉之助は首を捻りながら舞台を見ていました。これが巧くなったということなのか・・多分歌舞伎的には練れて来たと云うのでしょうなあ。しかし、これはまるで南北の台詞でないです。もっとサッパリと簡潔に歯切れ良く、ベリベリと行かないと南北ではありません。だから乾いた悪の感触にならないのです。まるで安物の幕末歌舞伎を見るが如きという印象は、そういうところから来ます。

もっともこれは仁左衛門だけのことではありません。別稿「桜姫という業(ごう)」では 論旨がそれるので・「技巧的にうまくなった・役者として成熟した」という表現に留めて・深入りはしませんでしたが、平成16年7月歌舞伎座での「桜姫東文章」での玉三郎の桜姫でもその傾向は見えたことです。桜姫のなかの聖と俗の矛盾が矛盾として見えてこないで、玉三郎のなかで内部統一が計られてしまったようなところがありました。玉三郎や仁左衛門は南北物を何度も演じて得意としているというイメージは吉之助にもありますが、そのふたりにしてこの状況です。別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」でも書きましたが、歌舞伎は型(フォルム)の芸術だとよく云いますが、それならば義太夫狂言のリズム・南北のリズム・黙阿弥のリズムはしっかり描き分けられないといけないはずです。そういうフォルムに対する厳しい意識が、現在の歌舞伎役者にはあまりないようです。すべてのフォルムを「歌舞伎らしさ」というイメージのなかに引っくるめてそのなかに安住している・・そんな感じですかねえ。(この稿つづく)

(H24・5・7)


5)討つても死ぬる、討たいでも死ぬる

仁左衛門の二役(大学之助・太平次)は、その役どころをスケールの大きい悪・底知れぬ悪に描こうとして、さらに大学之助を時代に・太平次の世話に仕分けたいという風に事をややこしく考えるから、上手く行かなくなるのです。悪に陰影を付けようとするから面倒になるのです。南北の悪は、もっと薄っぺらに・戯画的に演じた方が良いのです。舞台のうえで世間の邪悪なもの・不正なもの・醜いものが眼前に現れ、そして最後に討たれて滅ぶ。この時、世の中のあるべき方向(正義)が指し示されます。このことを示す為に悪があると考えれば良いのです。

だから返り討物の視点は常に善人側に置くべきなのです。そう考えれば芝居は悪役だけで成り立っているわけではないという当たり前のことに気が付くと思います。今回(平成24年4月国立劇場)の舞台がいまひとつ成果を挙げていないのは、仁左衛門だけに責任があるのではなく、善人側にいまひとつ魅力が足りないからです。善人側(=殺される側)に仁左衛門に対抗できる位置付けの役者を配置すれば良かったということももちろんありますが、ここで吉之助が云う「善人側の魅力」というのは別のことです。昔から斬られ役者という言葉があるように、殺される役者(=善人側)の悲壮感ということです。返り討ちというのは、宿敵を目の前にしながら、武運つたなくというか・力不足で手出しが叶わず、しかし、最後まで宿願を遂げんとして抵抗して、遂に力尽きて死んで行くということです。だから、吉之助の言いたいことは、斬られ役者というのは虫けらの如く無抵抗でなぶり斬りにされて苦しみ抜いてただ死ぬというのではないということです。斬られ役者というのは、その死の瞬間においても尚宿敵を睨みつけ・その手に刀は持たなくともその腕で宿敵を斬らんとして・拳に力を込めたまま死ぬということでなくてはならぬのです。そこに「いつかは宿願をとげてみせる・いつかは分からないが・次の仲間が必ず俺の無念を晴らしてくれる」という思いがなければならないのです。

大詰・合法庵室の場において、宿敵大学之助を目の前にしながら・病身で手出しができなかった与兵衛が返り討ちされます。この後、合法(弥十郎)が戻ってきて、ふたりは互いを兄弟であると知るのですが、その時にはもうすでに遅い。弟の死の悲しみもそこそこに合法はすぐに仇を討ちに発たねばなりません。出立する合法(弥十郎)はこう言います。

『いずれ敵に出会う日は、討つても死ぬる、討たいでも死ぬると覚悟もきわめている。』

合法のこの台詞は「絵本合法衢」の核心の台詞です。それにしても「討たいでも死ぬる」は宿願を遂げないのだから当然としても、「討つても死ぬる」とはどういうことなのか。敵を討って宿願を遂げれば故郷へ錦を飾ることができて・栄光の未来が待っているはずのではないのか。そのためにこの苦しみに耐えているのではなかったのか。それなのに宿願を遂げたら合法は死ぬというのか。そういう疑問が湧いてくると思います。

「討つても死ぬる、討たいでも死ぬる」とは、今の自分は宿願を遂げることしか考えられないということなのです。生きるということが、宿願を遂げる(敵を討つ)という目的と一体化しているということです。だから、宿願を遂げれば・その後の人生を生きるために何か目的が必要になることは確かなことなのでしょうが、今はそのことをまったくイメージできない状況に彼はいるのです。宿願を遂げた後の人生は彼の頭のなかにないのです。「ない」ということは予定表に書き込みが無いというだけなのですが、そのことを合法は「死ぬ」と表現しています。なぜならば、合法の人生は敵を討つためだけにあり、宿願を遂げられるならば・たとえその時点で命が奪われても悔いはないというところまで、彼は追い込まれているからです。「討つても死ぬる、討たいでも死ぬる」という台詞はそのように読まねばなりません。

ですから「討つても死ぬる、討たいでも死ぬる」という合法の台詞を仇討ちだけの人生に対する絶望だ・真っ暗闇の人生に対する呪いだなどという風に読んだりすると間違えます。もしそうならば敵を追うのをやめれば良いのです。詰まらぬ武士の意地にこだわってないで、町人になって平和に暮らせば良いのです。合法がそうしないのは何故でしょうか。ひとつは宿願を遂げるということに彼の人生の頂点(クライマックス)があるからです。もうひとつは返り討ちされた彼の身内の怨念が彼を応援しているからです。それを力にして合法は前を進むわけです。最後のところに南北は決めの台詞を置いています。(「盟三五大切」での「こりやかうなうては叶うまい」もそうです。)それまで筋が錯綜して・脱線して・どう捩(よじ)れるのか分からないような芝居が、あっちこっち向いていたように見えたすべての伏線がその決め台詞で一気に同じ方向に向くのです。「あっそういうことだったか」と思わずつぶやいてしまうような決め台詞です。今回(平成24年4月国立劇場)の舞台では合法のこの核心の台詞が省かれていましたね。これでは返り討ち物としての「絵本合法衢」は成立しません。幕末の安物の仇討ち芝居のような感触になってしまったのは、そのせいです。特に南北に関しては座頭役者があれこれ演出を仕切るのではなく、脚本が正しく解釈できる演出家が必要な時代になったと思います。

大詰・閻魔堂の場では、立廻りの後・敵大学之助を見つけられなかった合法夫婦が「もはやこれまで」と自害(したふりを)します。してやったりと大学之助が得意満面の顔で現れたところで合法夫婦がむっくり起き上がり、「そっちも計ればこっちも手だて」と言い放ちます。今回の舞台を見ていると観客はここでシラーッとした雰囲気でしたねえ。「なんだか安ッぽい仇討ちだなあ」という醒めた反応だったと思います。しかし、吉之助が想像するには、初演(文化7年・1810)の市村座の観客は、ここで「ついにやったぜ」と言う感じで、ドッと笑って・手を叩いたと思いますよ。ここはそういう場面であるべきなのです。いよいよ大願成就、正しい道理が指し示される時が来たということです。閻魔像の陰から意気揚々と現れた五代目幸四郎(大学之助)は、「アレエライところに出ちゃったゾ・どうしよう・・」という感じでオタオタ、その慌て振りが面白くてまた観客は手を叩く・・というそういう場面だったと思いますねえ。残忍非道に見えた役を滑稽に落とすことで、これはお芝居なんで〜すという「誣(し)いる」形を取るのです。そうしないと悪役一方のイメージで終わってしまって、役者(五代目幸四郎)が困るわけです。これについては別稿「和事芸の起源」をご参照いただきたいですが、「人生の真実を誣いる」演劇である歌舞伎においては、実味の要素が強い役の場合(大学之助はリアルな殺しをやっている悪人なのですから)は滑稽味・諧謔味で以ってその申し訳をする必要があります。南北はその段取りをきっちり取っているということなのです。ですから、南北の悪というのは薄っぺらなもので、どこかマンガチックな感触であって良いのです。そこに南北の感性の健全性があるということなのですね。

(H24・5・20)


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