(TOP)     (戻る)

十五代目仁左衛門の水右衛門と八郎兵衛二役

平成29年10月国立劇場:「霊験亀山鉾」

十五代目片岡仁左衛門(藤田水右衛門、八郎兵衛二役)


1)返り討ち物の傑作

四代目南北の「霊験亀山鉾」は文政5年(1822)七月江戸河原崎座での初演。近年は上演の機会が少ないですが、いわゆる「返り討ち物」の傑作として名高いものです。返り討ち物については平成24年四月国立劇場「絵本合法衢」の観劇随想でも触れました。仇討ち物というのは、追っ手である善人方が敵(悪人方)を追い求めて艱難辛苦の試練の果てにこれを討つ、その過程に観客の興味があるのです。善人方が受ける試練には、いろいろなパターンがあり得ます。例えば「六段目」で勘平が舅殺しの疑いを受け・本人自身も舅を殺したと思い込んでいるので腹切りに至るという悲劇、これも広義において状況からの返り討ちであると云えます。この試練によって仇討ちに賭ける勘平の心情(忠義)が試される、これが「六段目」のドラマなのです。ですからすべての仇討ち物は返り討ち物であると言って良いものです。「霊験亀山鉾」のように、追っ手である善人方が敵の計略に掛かって無残にも迎え討ちされるというのは、その意味でもっとも分かりやすい返り討ち物です。

 

返り討ち物は悪人が憎々しくなければ盛り上がりません。善人方が「ああ可哀想に・・ああ無残なことだ・・」という殺され方をされると、殺された者の死を引き継いで別の仲間がまた敵を追う、彼らの怨念はますます強いものとなって行きます。その果てに大願成就があるのです。善人方(追っ手の側)の清らかさ・正しさを際立たせるために、悪人があるのです。悪を描くために返り討ち物があるのでは ありません。歌舞伎の解説に悪の美学なんて言葉がよく出てくるものだから誤解してしまいますが、南北の感性はとても健康的なものです。南北が描く悪は、どこかマンガチックであると云っても良い。五代目幸四郎が演じた水右衛門に関しても、バットマンに対するジョーカーみたいな悪人を想像した方が良いのです。

ところで「霊験亀山鉾」が何で「霊験」なのかと云うと、本作の大詰めが亀山曽我八幡宮の祭礼の日に設定されているからです。曽我兄弟が富士の裾野で行なわれた征夷大将軍源頼朝の催す大巻狩りにおいて仇敵工藤祐経を討ったのは建久4年(1193)5月28日のことでした。以来、民衆にとって曽我兄弟は大願成就を叶えてくれる有難い神様となりました。亀山曽我八幡宮の祭礼は、これに因んで行われるお祭りです。これは曽我兄弟のご加護で今日こそかたき討ちの大願が成就するということを示しています。ホントは「霊験亀山鉾」は五月狂言として南北が書いたものなのでした。これが7月の初演になってしまったのは、ちょうど初日前に楽屋で失火があって5月の上演が出来なくなって7月まで遅れてしまったという事情がありました。

「霊験亀山鉾」には仕掛けがまだあります。石井兄弟の仇討ちに立ち会う勢州亀山家の重臣・大岸頼母と主税親子のことです。この名前に大石内蔵助が暗示されています。元禄赤穂事件は、太平記の世界に仮託して「仮名手本忠臣蔵」(大星由良助)として歌舞伎になりましたが、昔は小栗判官の世界に仮託したもの が数多く作られました。例えば「大矢数四十七本」ですが、ここに登場する忠臣が大岸宮内です。「霊験亀山鉾」に大岸親子が出るとなれば、これが大石内蔵助・主税親子を指していることは、当時の観客にはすぐに分かったのです。

実説の亀山の仇討ちに大石が絡んだ史実はありませんが、亀山の仇討ちは元禄14年(1701)5月9日のことでした。一方、赤穂義士の吉良邸討ち入りは翌年の・元禄15年12月14日のことでした。南北がこの場に大石を登場させた意図はどこにあったのでしょうか。半年後に仇討ちを敢行する大石が、石井兄弟の大願成就を見届けて、これを我が手本とするぞという意図でしょうかねえ。(この稿つづく)

(H29・10・11)


2)南北が描く悪人について

同じ南北物でも「東海道四谷怪談」は、人気狂言のため上演が重なり、良く言えば演出が洗練されて来た、悪く云えば役者の仕勝手で手垢にまみれています。だから大歌舞伎での「四谷怪談」の舞台は、南北物の乾いた感触があまり感じられません。役者は台詞を七五に割ってしゃべる。テンポも粘って遅い。どちらかと云えば黙阿弥物に近く、暗く湿った幕末歌舞伎の感触になっています。

一方、
「霊験亀山鉾」はあまり上演がされませんから 、新作に近い感触です。だから芝居が役者の仕勝手で崩れていません。今回(平成29年10月国立劇場)の舞台も、役者の方も初めて読む慣れない台詞を苦労して覚えて懸命に演技しています。アクセントや抑揚でおかしなところも散見されますが、南北の台詞をあからさまに七五で割ってしゃべる役者がいないので、総体としては南北物の面白さをそれなりに出せています。南北物の台詞は、新劇に近い感じでしゃべった方が良いのです。「四谷怪談」もこんな風に初心に戻ってやってくれれば良いのだけどねえ。

南北物の台本アレンジは頭が痛いことです。上演時間内に収めるために、初演台本の筋のどこかを切り捨てなければなりません。もともと筋が錯綜しているので、切り捨てると筋が噛み合わない場面がどうしても出て来るということになってしまいます。しかし、今回はなかなかテンポ良く出来たのではないでしょうかね。 ただ短い場が続くのは筋立て上仕方がないですが、頻繁に幕を閉めたのでは芝居の興が冷めます。大変になるのは大道具だと思いますが、ここは回り舞台を使うなど、スピーディな場面転換を考えてみても良いのではないでしょうか。

これは台本アレンジにも関連することですが、南北の悪人に陰影の深さ、或はそれに相応しいまっとうな動機を求めても無駄だと思います。そんなところにこだわらず、場面場面の面白さに重きを置いた方が、南北物のアレンジは上手く行くのではないでしょうかね。南北が描く悪はどこかマンガチックであると書きました。南北が描く悪とは、善方を嬲りいたぶって、彼らに大願成就への試練を与える為だけに存在している悪です。つまり薄っぺらな悪なのです。そのような南北の悪人像は、個性的な鼻高のマスクを持つ五代目幸四郎と云う稀代の名優を得て初めて可能になったものです。この点、仁左衛門の水右衛門はカッコ良いから、ニヒルでスケール大きい悪を演じようとしていますが、感触からするともうちょっと軽めに演じた方が本来に近いかも知れませんね。水右衛門と面体がそっくりという設定になっている世話の悪役・八郎兵衛の方は、仁左衛門は生き生きと演じて面白くなりました。水右衛門と八郎兵衛の二役を対照付けて演じ分けるというのでなく、「どちらがどちらかよく分からん」という感じに演じれば、より南北の意図に沿うものになると思います。

(H29・10・15)




  
(TOP)     (戻る)