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五代目玉三郎の稲葉屋お孝〜「日本橋」

平成24年12月日生劇場:「日本橋」

五代目坂東玉三郎(稲葉屋お孝)、高橋恵子(瀧の家清葉)、松田悟志(葛木晋三)、斎藤菜月(お千世)、永島敏行(五十嵐伝吉)他

(この原稿は未完です。最新の章はこちら。)


1)マクベス夫人から稲葉屋お孝まで

本稿で紹介するのは、平成24年(2014)12月日生劇場での、五代目玉三郎のお孝による「日本橋」のシネマ歌舞伎の舞台映像です。久しぶりに玉三郎のお孝を見て改めて感じたことは、玉三郎の当たり役は歌舞伎でも、桜姫とか絶間姫とか、いろいろ挙げられると思いますが、新派の稲葉屋お孝ほど玉三郎に体質的にピッタリ来る役は歌舞伎にないのじゃないかなあと云うことでした。もちろんこれは最大の誉め言葉のつもりですが、吉之助が四十数年歌舞伎を見てきて、女形の芸を考えるきっかけを作ってくれたのが若き日の玉三郎であったわけで(もちろん当時は吉之助も若かったわけで)、その歳月のことを考えると、思いはちょっと複雑なものになって来ます。

女形の美学」他に何度か書いたことですが、それまでどちらかと云えば女形に距離を置いた見方をしていた吉之助が、「これからは女形の芸を意識して見なければならない」と思い直したきっかけが、玉三郎が演じたマクベス夫人(昭和51年・1976・2月日生劇場)でした。それから四十数年歌舞伎を見て玉三郎の演じた数々の役からいろんな示唆を受けてきました。歌舞伎のなかでは女形はつねに立役に対して一歩退くものとされていますが、実は女形芸の変遷に連れて歌舞伎の在り方も次第に変わっていかざるを得なかったのです。女形が男の身体を「女らしく」見せる技巧を確立していくのに並行して、立役も男をもっと「男らしく」見せるための技巧を磨いていくことになります。内輪歩きの芸など女形の技巧が確立して細やかな表現が可能になるに連れて、歌舞伎の演目も写実化の傾向を見せてヴァラエティを増やして行きます。だから歌舞伎の長い歴史を見れば、女形がそれぞれの時代の歌舞伎の表現を規定したと云って良いくらいのものなのです。これは家のなかで亭主が家長だ何だと威張ってはいても、家の実権を女房がしっかり握っているのにも似ていますね。さらに明治以降は、その時代の歌舞伎が、立役ではなくて・女形で代表される時代が来ることになります。戦前大正・昭和の歌舞伎界に君臨した名女形・五代目歌右衛門、さらに戦後昭和の六代目歌右衛門のことを考えると、これは日本のなかでの女性の社会進出・或いは意識向上ということも並行して考えるべきことですが、歌舞伎のなかでの女性表現の微妙なニュアンスの変化も、実は深いところで関連して来るわけなのです。だから戦後昭和の歌舞伎が「六代目歌右衛門の時代」だと呼ばれるのは、役者としての人気や技芸とは直截的に関係ないところの、もっと深いところから来ているのです。(これについては別稿「歌右衛門の今日的意味」をご参照ください。)そこで改めて話を玉三郎に戻すことになりますが、現代(平成・令和)における歌舞伎はどうなのか、今は玉三郎の時代であると云えるかということです。

これについては別稿「平成歌舞伎の31年」で書きましたが、平成の歌舞伎は「玉三郎の時代」であったとは云えないと感じています。このことは率直に云って残念です。吉之助は「現代の歌舞伎を代表する役者はあの人(玉三郎)だ」と云える時代がいつか来る」と思って・この四十数年歌舞伎を見て来たからです。歌舞伎が世界無形遺産となったように、新しい時代の歌舞伎の在り方を指し示す重要な役割を玉三郎が担うと、そう期待していたわけです。しかし、玉三郎は自ら静かに後ろの方に引き下がってしまった気がします。そこに玉三郎の謙虚な人柄が出ているのかも知れないし、あるいは体力的な問題があったかも知れませんが、このことは個人的に残念な気がしています。しかし「平成が玉三郎の時代ではなかった」と云うこと自体が、平成歌舞伎の特質を示しているとも云えます。つまり平成歌舞伎は核(コア)なき時代、よく言えば群雄割拠の時代ということですが、時代をリードする突出した役者が出なかったということなのです。(もし十八代目勘三郎が今生きていれば状況は違ったかも知れないとは思いますが、このことはもはや言っても仕方がありません。)

そこで吉之助が「日本橋」映像を観ながら思ったことは、四十数年歌舞伎の玉三郎を追ってきたわけだけれど、結局吉之助は新劇のマクベス夫人から始まって巡り巡って新派の稲葉屋お孝に行き着いたのかなあと云うことだったのですがね。まあこれは吉之助にしか預かり知らない感慨かも知れませんけどねえ。(この稿つづく)

(R1・11・22)


2)「しゃべり」の芸の軽やかさ

新派の稲葉屋お孝ほど玉三郎に体質的にピッタリ来る役は歌舞伎にはないのじゃないかと云う考えが頭のなかによぎった時、吉之助はちょっと寂しい気分がしたのです。歌舞伎での玉三郎の当たり役と云うと、もちろん記憶に残る役はたくさんあります。しかし、厳選に厳選を重ねて三つに絞り込むとすれば、何になるでしょうか。頭とセンスが良い役者ですから、役の解釈から見ればいくらも挙げられますが、体質的にピッタリの役と云うならば、これは意外と限られます。吉之助ならば、まずは風鈴お姫(もちろん「桜姫東文章」ですが・敢えて桜姫ではなく風鈴お姫としたい)、それと雲の絶間姫(「鳴神」)、最後に「七段目」のお軽の三役を挙げたいと思います。これらの三役に共通するのは、軽やかな「しゃべり」の芸ということです。

玉三郎以前の女形には(これには六代目歌右衛門も含まれます)「しゃべり」の芸はあっても、軽やかさの印象は乏しかったと思います。伝統芸能としての女形の「しゃべり」は、どちらかと云えば、アクが強く・重ったるく粘って・しかもどこか暗いと云うのが、これまでの印象だろうと思います。一方、玉三郎のマクベス夫人にはそういう重ったるいところがなかったのです。玉三郎のマクベス夫人は、軽やかでした。もちろん様式的な裏付けもしっかりあるけれども、伝統的な女形のエグ味から開放された爽快感があったのです。玉三郎のマクベス夫人を見て、歌舞伎の女形でもこういう形があり得るのかと云う衝撃を受けて、吉之助は「これからは歌舞伎の女形をもっと関心を持って見て行こう」と思ったのです。玉三郎のお孝の映像は、あの時の衝撃を彷彿とさせるものでした。

そこで先ほど吉之助が挙げた玉三郎の歌舞伎の三役の件ですが、山の宿でお姫言葉と女郎言葉をチャンポンに使い分けて平然としている風鈴お姫、お堅い鳴神上人を艶っぽい夫婦語りでたらしこみ破戒に誘い込む雲の絶間姫、兄平右衛門とのジャラ付き合いで「七段目」の場にぐるぐる回る万華鏡感覚を作り出す遊女お軽は、そんな玉三郎の軽やかな「しゃべり」の芸が楽しめる役なのです。玉三郎が演じるこれらの役は、役の本質に肉薄しながら、なおかつこれまでの歌舞伎の女形の印象とは一線を画したものだと云えそうです。当時の吉之助(玉三郎の6歳年下になります)はそこに歌舞伎の女形の未来みたいなものを思い浮かべました。その時代(ここでは昭和50年代・日本高度成長期の気分が頂点に達した頃を想定しますが)の若い女性の生きた感覚を重ね合わせて考えねばなりません。ただし歌舞伎での女形は決して作品の芯ではあり得ませんから、歌舞伎の世界観を描き変えることはなかなか容易ではありません。あれから40数年が経過したわけですが、玉三郎の歌舞伎が吉之助の最初のマクベス夫人の衝撃を越えたことはなかったのだなあ・・と、吉之助は玉三郎のお孝の映像を見ながら思ったのです。それはつまり歌舞伎は玉三郎の体質にピッタリした役を十分提供できなかったと云うことかも知れないなあ。玉三郎の天才は、歌舞伎と云う器に収まり切れなかったのだなあ。吉之助の寂しい気分の正体はそこです。

それじゃあ新劇ならば・或いは新派ならば玉三郎の体質にピッタリした役を提供できるのかと問われそうですが、確かにそういう役はいくつかあると思います。しかし、これも決して多くなさそうです。例えば新派は歌舞伎より玉三郎の体質に合ってそうだけれども、富姫(天守物語)はピッタリだと思うが、お蔦(婦系図)がピッタリかどうかは疑問があります。清葉(日本橋)もそうです。だから個々の役の相性のことよりも、むしろ歌舞伎のなかでの女性の在り方(解釈)の根本、それは歌舞伎のなかでの女形の在り方ということに繋がりますが、これを変えることが出来るかと云うことから考えた方が良さそうです。江戸時代の女性は社会的に弱い立場に置かれ、家庭にあっては夫に隷属せざるを得ませんでした。それは見方によってはその通りですが、だからと云って当時の女性が精神的に死んでいたわけではない。そのような状況下でも女性は必死にポジティヴに生きようとしたはずです。歌舞伎作品を解析すればこのことは明らかです。吉之助はこれを「かぶき的心情」で捉えていますが、このことを玉三郎にポジティヴな側面から軽やかな感覚で以て歌舞伎の新しい女性像を描き出して欲しかった、そうすれば歌舞伎の印象はかなり変わると云うことを吉之助は期待したのです。しかし、やはり玉三郎一人だけではそれは難しかったかも知れませんねえ。それは結構体力が要ることなのです。それに立役の協力が不可欠です。かつて歌右衛門が昭和50年代に「歌右衛門の歌舞伎」と云えるものを現出させたように、吉之助は平成に「玉三郎の歌舞伎」を見たかったのですが。・・・イヤハヤ暗い話になってしまいましたねえ。それでは話を稲葉屋お孝に戻すとしますか。(この稿つづく)

(R1・11・27)



 

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