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五代目玉三郎の稲葉家お孝〜「日本橋」

平成24年12月日生劇場:「日本橋」

五代目坂東玉三郎(稲葉家お孝)、高橋恵子(瀧の家清葉)、松田悟志(葛木晋三)、斎藤菜月(お千世)、永島敏行(五十嵐伝吉)他


1)マクベス夫人から稲葉家お孝まで

本稿で紹介するのは、平成24年(2014)12月日生劇場での、五代目玉三郎のお孝による「日本橋」のシネマ歌舞伎の舞台映像です。久しぶりに玉三郎のお孝を見て改めて感じたことは、玉三郎の当たり役は歌舞伎でも、桜姫とか絶間姫とか、いろいろ挙げられると思いますが、新派の稲葉家お孝ほど玉三郎に体質的にピッタリ来る役は歌舞伎にないのじゃないかなあと云うことでした。もちろんこれは最大の誉め言葉のつもりですが、吉之助が四十数年歌舞伎を見てきて、女形の芸を考えるきっかけを作ってくれたのが若き日の玉三郎であったわけで(もちろん当時は吉之助も若かったわけで)、その歳月のことを考えると、思いはちょっと複雑なものになって来ます。

女形の美学」他に何度か書いたことですが、それまでどちらかと云えば女形に距離を置いた見方をしていた吉之助が、「これからは女形の芸を意識して見なければならない」と思い直したきっかけが、玉三郎が演じたマクベス夫人(昭和51年・1976・2月日生劇場)でした。それから四十数年歌舞伎を見て玉三郎の演じた数々の役からいろんな示唆を受けてきました。歌舞伎のなかでは女形はつねに立役に対して一歩退くものとされていますが、実は女形芸の変遷に連れて歌舞伎の在り方も次第に変わっていかざるを得なかったのです。女形が男の身体を「女らしく」見せる技巧を確立していくのに並行して、立役も男をもっと「男らしく」見せるための技巧を磨いていくことになります。内輪歩きの芸など女形の技巧が確立して細やかな表現が可能になるに連れて、歌舞伎の演目も写実化の傾向を見せてヴァラエティを増やして行きます。だから歌舞伎の長い歴史を見れば、女形がそれぞれの時代の歌舞伎の表現を規定したと云って良いくらいのものなのです。これは家のなかで亭主が家長だ何だと威張ってはいても、家の実権を女房がしっかり握っているのにも似ていますね。さらに明治以降は、その時代の歌舞伎が、立役ではなくて・女形で代表される時代が来ることになります。戦前大正・昭和の歌舞伎界に君臨した名女形・五代目歌右衛門、さらに戦後昭和の六代目歌右衛門のことを考えると、これは日本のなかでの女性の社会進出・或いは意識向上ということも並行して考えるべきことですが、歌舞伎のなかでの女性表現の微妙なニュアンスの変化も、実は深いところで関連して来るわけなのです。だから戦後昭和の歌舞伎が「六代目歌右衛門の時代」だと呼ばれるのは、役者としての人気や技芸とは直截的に関係ないところの、もっと深いところから来ているのです。(これについては別稿「歌右衛門の今日的意味」をご参照ください。)そこで改めて話を玉三郎に戻すことになりますが、現代(平成・令和)における歌舞伎はどうなのか、今は玉三郎の時代であると云えるかということです。

これについては別稿「平成歌舞伎の31年」で書きましたが、平成の歌舞伎は「玉三郎の時代」であったとは云えないと感じています。このことは率直に云って残念です。吉之助は「現代の歌舞伎を代表する役者はあの人(玉三郎)だ」と云える時代がいつか来る」と思って・この四十数年歌舞伎を見て来たからです。歌舞伎が世界無形遺産となったように、新しい時代の歌舞伎の在り方を指し示す重要な役割を玉三郎が担うと、そう期待していたわけです。しかし、玉三郎は自ら静かに後ろの方に引き下がってしまった気がします。そこに玉三郎の謙虚な人柄が出ているのかも知れないし、あるいは体力的な問題があったかも知れませんが、このことは個人的に残念な気がしています。しかし「平成が玉三郎の時代ではなかった」と云うこと自体が、平成歌舞伎の特質を示しているとも云えます。つまり平成歌舞伎は核(コア)なき時代、よく言えば群雄割拠の時代ということですが、時代をリードする突出した役者が出なかったということなのです。(もし十八代目勘三郎が今生きていれば状況は違ったかも知れないとは思いますが、このことはもはや言っても仕方がありません。)

そこで吉之助が「日本橋」映像を観ながら思ったことは、四十数年歌舞伎の玉三郎を追ってきたわけだけれど、結局吉之助は新劇のマクベス夫人から始まって巡り巡って新派の稲葉家お孝に行き着いたのかなあと云うことだったのですがね。まあこれは吉之助にしか預かり知らない感慨かも知れませんけどねえ。(この稿つづく)

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2)「しゃべり」の芸の軽やかさ

新派の稲葉家お孝ほど玉三郎に体質的にピッタリ来る役は歌舞伎にはないのじゃないかと云う考えが頭のなかによぎった時に、吉之助はちょっと寂しい気分がしたのです。歌舞伎での玉三郎の当たり役と云うと、もちろん記憶に残る役はたくさんあります。しかし、厳選に厳選を重ねて三つに絞り込むとすれば、何になるでしょうか。頭とセンスが良い役者ですから、役の解釈から見ればいくらも挙げられますが、体質的にピッタリの役と云うならば、これは意外と限られます。吉之助ならば、まずは風鈴お姫(もちろん「桜姫東文章」ですが・敢えて桜姫ではなく風鈴お姫としたい)、それと雲の絶間姫(「鳴神」)、最後に「七段目」のお軽の三役を挙げたいと思います。これらの三役に共通するのは、軽やかな「しゃべり」の芸ということです。

玉三郎以前の女形には(これには六代目歌右衛門も含まれます)「しゃべり」の芸はあっても、軽やかさの印象は乏しかったと思います。伝統芸能としての女形の「しゃべり」は、どちらかと云えば、アクが強く・重ったるく粘って・しかもどこか暗いと云うのが、これまでの印象だろうと思います。一方、玉三郎のマクベス夫人にはそういう重ったるいところがなかったのです。玉三郎のマクベス夫人は、軽やかでした。もちろん様式的な裏付けもしっかりあるけれども、伝統的な女形のエグ味から開放された爽快感があったのです。玉三郎のマクベス夫人を見て、歌舞伎の女形でもこういう形があり得るのかと云う衝撃を受けて、吉之助は「これからは歌舞伎の女形をもっと関心を持って見て行こう」と思ったのです。玉三郎のお孝の映像は、あの時の衝撃を彷彿とさせるものでした。

そこで先ほど吉之助が挙げた玉三郎の歌舞伎の三役の件ですが、山の宿でお姫言葉と女郎言葉をチャンポンに使い分けて平然としている風鈴お姫、お堅い鳴神上人を艶っぽい夫婦語りでたらしこみ破戒に誘い込む雲の絶間姫、兄平右衛門とのジャラ付き合いで「七段目」の場にぐるぐる回る万華鏡感覚を作り出す遊女お軽は、そんな玉三郎の軽やかな「しゃべり」の芸が楽しめる役なのです。玉三郎が演じるこれらの役は、役の本質に肉薄しながら、なおかつこれまでの歌舞伎女形の先輩たちが演じたこれらの役の印象とは、はっきり一線を画したものであったと云えそうです。先輩たちのこれらの役が悪かったと言うのではありません。しかし、玉三郎が演じるこれらの役はどこか何か彼らとは異なる様相を呈していました。当時の吉之助(玉三郎の6歳年下になります)はそこに歌舞伎の女形の未来みたいなものを思い浮かべました。その時代(ここでは昭和50年代・日本高度成長期の気分が頂点に達した頃を想定しますが)の若い女性の生きた感覚を重ね合わせて考えねばなりません。ただし歌舞伎での女形は決して作品の芯ではあり得ませんから、歌舞伎の世界観を描き変えることはなかなか容易ではありません。あれから40数年が経過したわけですが、玉三郎の歌舞伎が吉之助の最初のマクベス夫人の衝撃を越えたことはなかったのだなあ・・と、吉之助は玉三郎のお孝の映像を見ながら思ったのです。それはつまり歌舞伎は玉三郎の体質にピッタリした役を十分提供できなかったと云うことかも知れないなあ。玉三郎の天才は、歌舞伎と云う器に収まり切れなかったのだなあ。吉之助の寂しい気分の正体はそこです。

それじゃあ新劇ならば・或いは新派ならば玉三郎の体質にピッタリした役を提供できるのかと問われそうですが、確かにそういう役はいくつかあると思います。しかし、これも決して多くなさそうです。例えば新派は歌舞伎より玉三郎の体質に合ってそうだけれども、富姫(天守物語)はピッタリだと思うが、お蔦(婦系図)がピッタリかどうかは疑問があります。清葉(日本橋)もそうです。だから個々の役の相性のことよりも、むしろ歌舞伎のなかでの女性の在り方(解釈)の根本、それは歌舞伎のなかでの女形の在り方ということに繋がりますが、これを変えることが出来るかと云うことから考えた方が良さそうです。江戸時代の女性は社会的に弱い立場に置かれ、家庭にあっては夫に隷属せざるを得ませんでした。それは見方によってはその通りですが、だからと云って当時の女性が精神的に死んでいたわけではない。そのような状況下でも女性は必死にポジティヴに生きようとしたはずです。歌舞伎作品を解析すればこのことは明らかです。吉之助はこれを「かぶき的心情」で捉えていますが、このことを玉三郎にポジティヴな側面から軽やかな感覚で以て歌舞伎の新しい女性像を描き出して欲しかった、そうすれば歌舞伎の印象はかなり変わると云うことを吉之助は期待したのです。しかし、やはり玉三郎一人だけではそれは難しかったかも知れませんねえ。それは結構体力が要ることなのです。それに立役の協力が不可欠です。かつて歌右衛門が昭和50年代に「歌右衛門の歌舞伎」と云えるものを現出させたように、吉之助は平成に「玉三郎の歌舞伎」を見たかったのですが。・・・イヤハヤ暗い話になってしまいましたねえ。それでは話を稲葉家お孝に戻すとしますか。(この稿つづく)

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3)お孝の意志的な悲劇

オペラを見ながら「この筋は歌舞伎になりそうだなあ」とか歌舞伎との類似をしばしば考えてしまう吉之助は、鏡花の「日本橋」(大正3年・1914)を見ても、二つのオペラのヒロインをつい思い浮かべてしまいます。ひとつはヴェルディのオペラ「椿姫」(1853年初演)の高級娼婦ヴィオレッタ(原作はデュマ・フィスの同名小説)であり、もうひとつはビゼーのオペラ「カルメン」(1875年初演)のジプシー女カルメン(原作はメリメの同名小説)です。吉之助はこれらのオペラが鏡花の「日本橋」に影響を与えたと云いたいのではありません。19世紀後半の西欧では女性を主役にした「女の一生」的な小説やオペラが盛んに作られました。そのような芸術思潮が遅れた形で日本に流れ込んで来ると云うことがあったわけです。明治維新(1867年が大政奉還)以降の日本の社会が近代化・西欧化へ大きく舵を切っていくなかで、一番大きな影響を受けたのは社会的に弱い立場にあった女性の生活・意識でした。花柳界を舞台にした鏡花の「日本橋」も、そのような変わりゆく社会の女性像の変化と決して無縁であり得ないのです。

まずはヴェルディのオペラ「椿姫」の高級娼婦ヴィオレッタです。パリの社交界の華ヴィオレッタは、日々享楽的で自堕落な生活を続けていましたが、青年貴族アルフレードがヴィオレッタに熱烈な恋をします。、ヴィオレッタは最初はまともに受け取ろうとしませんが、やがてアルフレートとの真実の愛に目覚めます。しかし、愛の日々は長く続かず、アルフレードの父は息子と高級娼婦との恋を認めないため、二人は引き離されてしまいました。その後二人は困難を乗り越え再会しますが、既にその時にはヴィオレッタは結核で命を落とす直前でした。アルフレードの腕の中で、ヴィオレッタは息を引き取って幕となります。

鏡花の「日本橋」を見れば、稲葉家お孝は負けん気が強い意地が命の芸者で、内気な瀧の家清葉とは性格が正反対でした。お孝は清葉と張り合っており、清葉に思いを寄せて振られた男を次から次へと誘惑してものにします。医学士葛木晋三もそんな男のひとりのつもりであったが、お孝は思いもかけず葛木への真実の愛に目覚めてしまいます。お孝は葛木の妻になりたいと願いますが、彼女には腐れ縁の情夫・五十嵐伝吉がおり、伝吉がしつこく付きまとうので、結局、葛木は傷心してお孝の元から離れて行きます。この場合、ヴィオレッタがお孝・アルフレートが葛木に相当し、お孝は過去の自分の所業・自堕落な生活の結果によって報いを受けるということです。

新派悲劇と云うことで葛木への真実の愛に目覚めるというところについ重きを置いてしまいますが、実は葛木との出会いだって・最初は「清葉からこの良い男を奪ってやる」というところから始まっているのです。遊びのつもりが瓢箪から駒で真実の愛に変わったわけです。別稿「その心情の強さ」でヴィオレッタと阿古屋との対比を論じましたが、ヴィオレッタは情の強過ぎる女性でした。同様にお孝も情の強過ぎる女性ですが、その厚い情は愛する男(葛木)に対しては良い方に出ますが、もう熱が醒めちゃった男(伝吉)に対しては厳しい方に出ます。捨てられた伝吉からすれば、これでは立つ瀬がありません。それで伝吉はお孝にしつこく付きまといます。同じ男の立場から葛木も伝吉の気持ちを理解出来るから、葛木はお孝の元から去って出家するわけです。

次にビゼーのオペラ「カルメン」ですが、真面目な兵士ホセは、自由に生きるジプシー女カルメンに恋をしてしまいます。しかし、そのことでホセの人生が大きく狂ってしまいました。気の代わりが早いカルメンはすぐにホセを捨てて、別の男に乗り換えてしまいました。嫉妬に狂ったホセが、カルメンを殺してしまったところで幕がおります。

鏡花の「日本橋」を見れば、お孝は清葉と張り合う気持ちだけで、清葉が拒否した男を次々に誘惑して来たわけです。だから伝吉も葛木も同じ穴のムジナに過ぎないのです。しかし、伝吉はお孝に対する情欲に身を焼いており、お孝が葛木に乗り換えたことがどうしても許せません。嫉妬に狂った伝吉は、遂にお孝を破滅させてしまいます。この場合、カルメンがお孝・ホセが伝吉に相当し、お孝の葛木に対する愛が真実かどうかはとりあえず関係ありません。

別稿「八つ橋の悲劇」はカルメンと八つ橋を対比した論考ですが、ここから分かることは、伝吉や葛木がお孝に引き寄せられたのも、お孝の享楽的な派手な性格から来るということです。お孝は、自由奔放で自立した女性に見えます。男からすると当世的な開けた女性に見えるので、そこが魅力的に映るのです。しかし、それは外面だけのことで、実はお孝はどこかに満たされない寂しい内面を抱えており、その苦しさから逃れようとして享楽に走る・或いは清葉のものを奪うことでこれを満たそうとするのです。お孝がどうしてこうなったか経緯は察するしかありませんが、芸妓は当時の社会においては自活する女性と云うことですから、社会的な変化の波を受けやすい位置にいました。また男の方も、伝吉も葛木にしても、やはり同じように内面に満たされないものを抱えて生きています。男たちは大きく変わりつつある社会に揉まれるなかで何らかの疎外感を常に抱いています。さらに葛木の場合は、自分の学費を作るために妾奉公をして・生き別れになった姉への思慕という事情がありますが、これとても社会的要因と云えます。お孝は世の憂さを忘れさせてくれる、だから男たちはお孝に惚れるわけです。つまり互いに似た者同士なのです。理性的な側面が強い葛木は自らそのことを察して・お孝から距離を置こうとしますが、伝吉にはそれが出来ません。結局、伝吉はお孝を刀で刺し・揉み合っているうちに伝吉もお孝に刺されて死にます。

ところで上記の通り、伝吉がお孝を刀で刺し・互いに揉み合っているうちに伝吉もお孝に刺されて死ぬというのが、いつもの新派の舞台のお孝の最後です。お孝を運命に翻弄される可哀そうな被害者に仕立てたい意図がそこに見えます。(調べ切れていませんが、芝居の結末にいくつかバージョンがあるようです。)ところが、実は鏡花の原作小説では経過が異なっています。今回(平成24年12月日生劇場)の玉三郎のお孝による「日本橋」は、この原作小説の最後にほぼ沿ったものであるので、ここに特記しておきます。ここを原作に近い形に戻したのは、当然玉三郎の意図であると考えます。

妹分として可愛がっていたお千世を伝吉に斬られたお孝は逆上して、伝吉の前にたちはだかり、「刀をお貸し」と伝吉に云うと、伝吉は黙って刀を渡します。お孝は「覚悟をおし」と云ってその刀で伝吉を刺す。伝吉は刀を握って「ううう・・抉れ、抉れ」と呻いて倒れます。伝吉を殺害したお孝は今は旅の僧に身を変えた葛木に会って、その後に隠し持っていた毒薬を呑んで自害します。これが鏡花原作の結末です。

つまり伝吉はお孝に殺されに行くことで自らを裁断し、お孝も自ら毒をあおって過去を清算すると云うことです。結末のすべてをお孝が完全に支配しています。これで「日本橋」がお孝の意志的な悲劇になるわけです。この鏡花原作の結末は、「椿姫」と「カルメン」の中間を行っているようで、これはなかなか絶妙な結末であると思いますねえ。(この稿つづく)

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4)形代或いは身代わりのイメージ

鏡花の「日本橋」には、形代(かたしろ)のイメージが重要なモティーフとして随所に現れます。形代とは、祭りの時などに神霊の代わりとして置くもの。多くは紙で作った小さな人形(ひとかた)ですが、藁人形などの場合もあります。形代とは身代わり信仰のひとつで、これに罪・けがれ・厄などを移して・お祓いをしてから、川や海に流しました。桃の節句の雛人形も、元々はそういうものであったようです。

「日本橋」では医学士である葛木は、自分の学費作りのために妾奉公をして・その後行方知れずになった姉の思い出として京人形を研究室に大切に飾っていました。つまり人形が姉の形代だと云うことです。葛木は姉に面差しが似た瀧の家清葉に思いを寄せます(つまり清葉が姉の形代となる)が、拒まれます。傷心の葛木が雛祭りに供えたさざえと蛤を一石橋から川へ放した(形代を川に流した)のを巡査に詰問されて窮したところを救ったのが、稲葉家お孝でした。お孝は清葉と張り合っており、清葉が拒否した男ならば誰でものにしようとします。伝吉も葛木も、そうやってお孝がつまんだ男に過ぎなかったのです。お孝は葛木を口説きますが、その決め台詞が「人形が寂しいことよ」です。つまりお孝は自分が清葉に成り代わろうとしているわけです。最初は遊びのつもりだったかもしれませんが、やがてお孝は葛木とは本当に愛しあえる・妻になりたいと強く願うようになりました。しかし、愛人・伝吉がしくこくつきまとう為、それが叶いません。葛木は傷付いて、お孝と分かれて放浪の旅に出てしまいます。結局、お孝は清葉の形代になり切れなかったことになります。一方、お孝に執着する伝吉はなおもつきまとい、お孝が日頃から可愛がっているお千世をお孝と間違えて斬ってしまいます。(お千世はお孝の身代わりで斬られるということ。)逆上したお孝は伝吉を殺して、自分も毒をあおってに死にます。死に際にお孝は清葉に遺言を託します。この時清葉は「身に代えまして、清葉が、貴女に成り代わって」と答えます。その後清葉は火事で焼けた瀧の家をお孝の家に移します。つまり清葉はお孝の形代を引き受けたということです。このように鏡花の「日本橋」には、形代或いは身代わりのイメージがいろんな場面で出て来ます。

小説「日本橋」(大正3年9月出版)は、最初から舞台化が強く意識されて書かれていると感じます。第一幕・一石橋に相当する場面など小説の会話の部分を抜き出しただけでそのまま芝居が出来てしまいそうなほど文章が演劇的です。「日本橋」を最初に新派のために劇化したのは真山青果(大正4年3月・本郷座)でした。その後鏡花も「日本橋」を脚色し、現在新派で上演される脚本はこれがベースになっているようです。戯曲版には小説になかった重要なシーンが、鏡花によって追加されました。それは第二幕第二場・稲葉家の二階の場で、お孝が自分のために新調した長襦袢をお千世に着せて、お千世を自分に見立て・自分は葛木を演じて「ごっこ」遊びをする場面です。

お孝 チーちゃん、よく似合うよ。・・・さア抱いてあげよう。
千世 ・・・
お孝 (お千世を膝へ横抱きにして)葛木さんって言ってごらん。(と笑う。)
千世 ほほ、葛木姐さん。
お孝 あら、いやだ。それじゃァ花魁のように聞こえるじゃないか――ただ葛木さん……とさ。
千世 葛木さん――
お孝 (男口調で)・・むむ、お孝、我儘をたんと言え。

お千世がお孝にとって別の意味での形代であったことが、この場面で明らかです。(だからこそお千世が伝吉に斬られた時に、お孝はあれほどに怒り狂うのです。)まったく鏡花の作劇のセンスの良さには感嘆させられますねえ。同性愛的傾向を帯びた他愛のない遊びのように見せていますが、ここにお孝の寂しさ・空虚感が察せられます。お孝の過去が描かれないので・そうなった背景が定かではありませんが、お孝は誰かに成り代わって形代を演じることでしか、空虚感を満たせないらしいのです。お孝は葛木に真実の愛を見出したと感じていますが、行方知れずになった姉への思慕が葛木の心から消え去ることはなく、葛木にとってのお孝は姉の形代(清葉)のそのまた形代に過ぎないわけです。このことを最初から承知のうえで、お孝は葛木とそう云う関係になったはずでした。第二幕第二場ではお孝は葛木を得て、清葉の形代を演じることに嬉々としています。しかし、やがてこのことは重い意味を持ってお孝に迫って来るのです。一方の葛木も過去(姉と清葉)を忘れて現在の形代との愛(お孝)に溺れようとしましたが、しつこく付きまとう恋敵の伝吉が自分の状況を思い出させて、結局、それもままならないのです。

「日本橋」での形代のイメージは、「現在の自分は本来在るべき自分を裏切っており・真実の自分はまったく別のところに在るに違いない」という感情を象徴するものです。お孝も葛木も自分が本当に生きたい自分を見失っており、見失ったものへの憧れを形代に託するのです。また「日本橋」にはこの裏返しのパターンも出てきます。それは「現在の自分はやむを得ず、裏切られた仮の人生を生きざるを得ない」ということで、罪・けがれ・厄を背負った形代(人形)の人生が今の自分であると見なすものです。この点については、鏡花と同時代人である谷崎潤一郎の「蓼食う虫」論で詳しく論じたので、それをご参照ください。このような感情は、20世紀初頭の世界的な気分としてあったものでした。人形は、国家社会機構のなかに組み込まれて・パーツと化してしまった個人を象徴しています。もちろん個人には命があり・感情があるわけですが、それを主張することは許されないのです。(この稿つづく)

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5)新しい感覚の女形の創造のために

泉鏡花と谷崎潤一郎は同時代人(鏡花の方が13歳年上)であり・個人的な交流もありました(鏡花が谷崎の長女鮎子の媒酌人を務めてもいます)が、実際、両者の作品の感触は似通ったところがありました。鏡花の文章が江戸的でロマンティックな面があり、谷崎は都会的に洗練されているという違いはありますが、感性の向いている方向がよく似ていると思います。そこで吉之助の「蓼食う虫」論から引用して、大正・昭和初期の女性の社会意識を考えてみます。

「蓼食う虫」の主人公斯波要は妻美佐子と冷えた夫婦関係で、このため要は妻に自由恋愛させるように仕向けて(これは谷崎の妻千代と佐藤春夫の妻譲渡事件がモデルとなっています)、妻の方から離婚を切り出させます。これに対し美佐子の父親、これが傍に妾をはべらせて・お気楽にお茶やら芝居見物にうつつを抜かして・何も考えないただの道楽人の爺さんのように見えたのだが、この老人が要に「こりやぁ要さん、私に云わせると、一体あなたが悪いんだね」とズバリ指摘して、こう云うのです。

『何も当節のことだから、女房を一人前の男なみに扱うのもようがしょうが、なかなかそれが思い通りには行かないもんでね。早い話が、あなたは自分に資格がないからと云う訳で、試験的に外の夫を選ばせた。こりゃあどうして出来ないことだ。口で何のかのと新しがりと云ったってそれだけ公平にはやれるもんじゃない。・・・・いや、要さん、私は皮肉を云ってるんじゃないんですよ。ほんとうに感じ言っているんですよ。これは一と昔前だったら、あなたがたのような夫婦は世間にいくらもあったんで、私なんぞが現にその通りだったんだが、・・・(中略)しかし、女と云うものは、試験的にもせよ、一度脇へ外れてしまうと、途中で「こいつはしまった」と気が付いても、意地にも後ろへ引っ返すことが出来ないようなハメになるんで、自由の選択ということが、実は自由の選択にならない。ま、これからの女はどうか知れないが、美佐子なんかは中途半端な時勢の教育を受けたんだから、新しがりは附け焼き刃なんでね。』(「蓼喰ふ虫」第14章)

老人は、要が妻美佐子をひとりの人間として対等に扱い、美佐子本人も自分の意志で離婚を決断したと言っているけれども、実は美佐子は自分で判断などしちゃいないと言うのです。成り行きでそうなって引っ込みがつかなくなっただけで、実は自由の選択になっていない。その意味で美佐子は要の操り人形みたいなものなのです。しかし、時勢の教育を受けて、女性は自由で意思的であるべきだなどという意識を附け焼き刃では持っているので、本人は自分の意志で行動して判断しているような錯覚でいます。しかし、実際は当時の日本の女性の意識がまだそういうところまで行っていない。これは要がそうなるように美佐子を操ったのだと、老人は看破したのです。

小説「蓼食う虫」では主人公斯波要も何かに操られる人形なんだよと云うオチになるので、これは女だけの問題ではなく、男にとっても同じ問題があるということになるのです。つまり男の意識も付け焼刃で、自分の自由意志で生きているわけではない。(そこは吉之助の「蓼食う虫」論をお読みください。)これが20世紀の世界的な芸術思潮である「生きている人形」のイメージになっていくわけです。本稿は玉三郎と稲葉屋お孝をめぐる女形論であるので、ここでは女だけのことに話題を絞りますが、まったく同じ様相が「日本橋」のお孝にも見られます。それはどちらも同じ時代の気分を共有しているからです。

花柳界を生き抜く芸者衆は、当時の世の中では先端を行く職業婦人だったと云えます。自分の才覚と美貌で生き難い世の中を切り抜けて行く自立した女性であると見えたのです。稲葉家お孝の行動は、キラキラ・生き生き感覚を周囲に発散します。これが伝吉や葛木ら男たちを魅惑し虜にします。ただしその感覚は当時の日本の女性の意識がまだそういうところまで行っていないわけですから、付け焼刃なのです。つまり生き生きして魅力的に見えるけれども、お孝も自由意志で生きていないのです。背後にお孝の寂しさ・空虚感が隠れているのです。一方、玉三郎が演じるお孝は、そのキラキラ・生き生きがまさに附け焼き刃でペラペラであること、その華やかさに実質がないことも見事に表現しています。ここで玉三郎の「しゃべりの芸」の軽やかさが生きて来ます。軽やかさは、裏返しすれば、薄っぺらさにも通じます。それは玉三郎が虚構に生きる女形であるからです。女形はどんなに美しくても華麗であっても、それは虚構の女性美であって、実質がありません。

吉之助には、「日本橋」の稲葉屋お孝は、明治維新の時点で進化を止めてしまった歌舞伎の女形の、もうちょっとその先の、新しい感覚を行っている気がするのですねえ。そこがまさに玉三郎の体質にぴったりなのです。ちなみに新派でのお孝は大正4年3月・本郷座での初演は喜多村緑郎で、その後は花柳章太郎によって受け継がれ、超人気狂言ですから何回上演されたか知りませんが、昭和49年10月国立劇場で初代水谷八重子がお孝を初役で演じるまで、新派のお孝はずっと女形によって演じられて来ました。このことが持つ意味はとても重いと思います。

明治維新を迎えて、歌舞伎は大きな精神的岐路に立つことになりました。歌舞伎のバックグラウンドは封建社会です。つまり歌舞伎はチョンマゲと刀の時代の芝居でした。しかし、文明開化の明治の世の中は、チョンマゲと刀を捨ててしまいました。歌舞伎は散切り狂言など時流を意識した芝居も試みましたが、結局、それは一時的な花火にしか過ぎず、定着しませんでした。こうして歌舞伎はチョンマゲと刀の芝居に再び戻っていくことになります。この時点で歌舞伎は同時代演劇であることを断念してしまったのです。(別稿「九代目団十郎以後の歌舞伎」の一連の論考を参照ください。)同時に歌舞伎の女形も、明治維新の時点で進化を止めてしまいました。もちろん大正・昭和初期にも歌舞伎新作は作られました。しかし、所詮それらは江戸の社会風俗を背景にしたものですから、新しい感覚の女形の役どころを創成すると云ってもおのずと限界があります。真山青果も長谷川伸も、いくらか新鮮味はあれども従来感覚の女形の使いまわしに留まり、新しい感覚の女形の提示は叶いませんでした。新しい女形の創造のためには、芝居の枠組みを根本から作り直しして、同時代を舞台に上げねばならないのです。しかし、歌舞伎はもはやそれが出来なくなっていました。

しかし、新派は、その名の通り旧派(歌舞伎)に対して新しい時代の演劇を標榜するものですから、例えば「日本橋」の稲葉屋お孝において、大正・昭和初期の新しい感覚の女形の在り方を、鏡花は難なく提示出来ています。そこでもう一度本稿冒頭の玉三郎のことに戻りますが、残念ながら歌舞伎は玉三郎の体質にピッタリした役を十分提供できなかったかも知れないと感じるのは、そこのところです。ところでインタビューで玉三郎がこんなことを語っていますね。

『明治末期から大正・昭和にかけて、歌舞伎が古典演劇という枠に入り始めたころ、古典劇をなし崩しに現代劇にすることが出来なくて新派という演劇が生まれました。その新派に、泉鏡花先生や、三島由紀夫先生、北條秀司先生が作品を書いていきますが、これらの作品は大きく考えてみれば、歌舞伎や日本の演劇の流れから生まれたものだと思っています。歌舞伎にとって新作も大切ですが、こうしたつながりのある作品を、現代の歌舞伎俳優達が、歌舞伎の近代の作品として上演することも大切だと思っています。』(坂東玉三郎:歌舞伎美人インタビュー:平成16年6月30日)

新派も新劇も、理念的には旧劇(歌舞伎)の否定から出発しています。このため彼らは現代劇(その出来た当時は同時代劇であった)によって旧劇を乗り越えようとしたのですが、時代 を経るにつれて、本来彼らが自らの財産(レパートリー)として蓄積して行くべき演目が、次第に彼らの間尺に合わなくなって来たと考えます。役者の感覚が変わってしまって、江戸時代はもちろん、明治や大正時代の感覚さえも実感を以て現代の役者がしっくりと表現出来なくなってしまいました。歌舞伎役者だけしかこれを上演出来ない時代がもうすぐそこまで来ています。

このことはこれからの歌舞伎の役割として非常に重要なことになると思いますが、現状ほとんど議論さえされていない状況です。とりあえず新しい感覚の女形の創造ということを考えても、歌舞伎を明治大正期を舞台にした新派作品を、あるいは「ふるあめりかに袖はぬらさじ」などの江戸期を舞台にした新劇作品を、継続的かつ意識的に上演していくことは、現状の歌舞伎の隘路を切り開くという点で、とても有用な手段であると考えますがねえ。女形が変わって行かなければ、歌舞伎はこれ以上進化しないと思います。

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