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六代目歌右衛門一世一代のお岩

昭和54年9月歌舞伎座:「東海道四谷怪談」

六代目中村歌右衛門(民谷女房お岩・小仏小平・小平女房お花)、十代目市川海老蔵(十二代目市川団十郎)(民谷伊右衛門)、十七代目市村羽左衛門(直助権兵衛)、三代目実川延若(按摩宅悦)他


1)歌右衛門一世一代のお岩

本稿で取り上げるのは、昭和54年9月歌舞伎座での、六代目歌右衛門一世一代にて勤めたお岩による「東海道四谷怪談」の舞台映像です。これが吉之助が生で見た最初の「四谷怪談」の舞台でした。ただし手元にある映像は、伊右衛門浪宅と隠亡堀のみです。実際の通し上演の場割りは、浅草観音 額堂〜浪宅〜隠亡堀〜三角屋敷〜蛇山庵室でした。改めて映像で見直すと、上演時間の制約のせいもあってか、細かいところで台本の異同が見えます。例えば浪宅は浪宅からお岩と小平の死体が運び出されて伊右衛門が一人きりになったところで人魂が現れてドロドロ になって「ハテ恐ろしき執念じゃなあ」で幕となる変則でありました。吉之助はこれが初めての「四谷怪談」だったので、この時はそんなものかと思って見ましたが、浪宅での内祝言の後、お岩の霊の祟りで喜兵衛とお梅が伊右衛門に斬殺されるのでないと、「ハテ恐ろしき執念じゃなあ」という 台詞にお岩の執念に対する伊右衛門の実感が出ませんねえ。隠亡堀でもお熊が登場せずに伊右衛門が自分で自分の名前を書いた卒塔婆を持って出る(原作ではお熊が卒塔婆を持って来る)など、あまり感心しない変更がなされています。まあ歌右衛門がお岩を演じるのが最後だということでしたから、お岩に焦点を合わせた演出ということ だったのだろうと思うことにします。

入念に時間をたっぷり掛けて演じられた浪宅でありましたが、それでも、この時には深川三角屋敷の場がしっかり上演されています。「四谷怪談」で三角屋敷が上演されることが、この時以後の歌舞伎座での上演ではなくなってしまいました。それ以外の劇場でも、前進座の国立劇場公演「四谷怪談」での2回(昭和57年8月と平成28年5月)、シアターコクーンでの串田和美演出の「四谷怪談」の2回(平成18年3月・平成28年6月)と、三代目猿之助(二代目猿翁)が「忠臣蔵」と綯い交ぜした「双絵草紙忠臣蔵(にまいえぞうしちゅうしんぐら)」(昭和55年4月明治座)くらいしか、歌舞伎での三角屋敷の上演が思い浮かびません。松竹歌舞伎では、もはや三角屋敷の上演は絶えてしまったかのようです。これは大変に困ったことで、近年の歌舞伎のテンポがグッと遅くなっているという役者の事情とか、最近は終演が夜9時を大きく過ぎることが観客に好まれないという興行上の事情とか、現在の二部制では「四谷怪談」の良心的な通し上演がどうしても間尺に合わない問題が背景にあると思います。一方、新劇やアングラ演劇での上演、例えば木ノ下歌舞伎での「四谷怪談」では、歌舞伎座ではもはや上演されない三角屋敷と、これもカットされることが多い夢の場が見られるというのも、台本の違いとか、芝居のテンポに根本的な差異があるとか、それなりの理由があるとは云え、何だか母屋を取られてしまったみたいで情けないことではあります。

ところで歌舞伎で鶴屋南北が評価されるようになったのは、大正期になって以後のことでした。これは二代目左団次らに拠る復活上演があったり、新劇でも南北を取り上げたおかげです。しかし、江戸期から明治期までは、南北物はそれほど人気がありませんでした。歌舞伎で継続的に取り上げられてきた南北物は、「四谷怪談」或いは「時今成桔梗旗揚」(馬盥の光秀)くらいに限られてい ました。「四谷怪談」は盆狂言として人気で、小芝居などでも取り上げられて、お岩の怪談芝居として繰り返し上演されて、演出が練り上げられて来ました。言い換えれば、手垢にまみれてしまった芝居と云えるわけです。そのせいか感触がどことなく古色蒼然として、古いお寺のお堂のようにどこか暗く湿った匂いがします。そこが現代から見れば、お化けとか怨霊とか、迷信や非合理的なものを民衆が信じていた(らしい)前時代な暗い感性の産物に思われて、まあそこが幕末期の歌舞伎らしいのかなと思ったりもするわけです。だから歌舞伎の「四谷怪談」は、芝居の眼目が、如何にして観客を怖がらせるお岩の幽霊を作り上げるかというところへ行き勝ちです。怖〜いお岩の幽霊に対抗する為に、その怨念の対象である伊右衛門も大きくなければならない。それに相応しい魅力的な大悪人であって欲しい、そんなところから、伊右衛門が色悪というジャンルの代表的な役となって行きます。そうやって歌舞伎の「四谷怪談」は多分初演の感触とだいぶ違うものになってしまったのです。

イヤ別にそれがいけないということでもないのです。そうなったのも、「四谷怪談」のなかにそのような要素があったからに違いありません。吉之助は歌舞伎を学ぶにつれて、次第に南北の感性の明晰さを考えるようになりました(別稿「お化け芝居の明晰さ」をご参照ください)が、「四谷怪談」のなかに非合理的の暗い淵のなかに引きずり込まれそうな危うさを感じる気持ちを、吉之助もそれなりに分かるつもりです。そこで歌右衛門一世一代のお岩のことですが、お岩の怪談芝居として練り上げられてきた、その究極のところを拡大して見せてくれた舞台であったと言えそうです。吉之助がこの舞台を最初の「四谷怪談」として見ることが出来たのはラッキーであったと思います。(この稿つづく)

(H29・12・21)


2)お岩の悲しみ

歌右衛門のお岩の演技は、一世一代ということでとても気合いが入ったものです。ねっとりと遅い上に、他の役者と比べて手数が倍かそれ以上多いという印象です。伊藤家からもらった血の道の妙薬(実は面相が変わる毒薬)を呑む前に、お岩は伊藤家の方角を向いてお辞儀をして丁寧に御礼を言います。ここは誰でもしますが、歌右衛門のお岩は薬を口にする前にも伊藤家に御礼をして、呑み終わって薬を片付けるとまた御礼をします。 ここでお岩の哀れさをたっぷり見せますということでしょう。髪梳きでも髪を前後に大きく捌いて宅悦を恐怖で叫ばせること二度。くどいほど丁寧に細部を描き込んでいきます。だから当然上演時間は長いものになって来ます。

歌右衛門のお岩の髪梳きは歌右衛門三迷長のひとつと云われた名物(その他のふたつについては、「鏡山」の尾上の花道引っ込み、「隅田川」の狂女との説あり)ですから、もともと 歌右衛門の演技は長い・くどいと云うのは承知のことだとしても、浪宅のなかでお岩の髪梳きの比重がこれほど突出した例はなかったかも知れません。当時も「あまりに長くて 一眠りして目が覚めたらまだ髪梳きをやっていた」などと皮肉が云われたものでした。しかし、「四谷怪談」を初めて見た当時の吉之助には、歌右衛門のどの仕草も運命の仕草の如く何か重い意味があるように思えて、どの仕草も見逃すまいと息を詰めて歌右衛門を見ていたせいか、眠気などまったく感じることはなかったですねえ。今回映像を見直しても、確かにくどいと思わないこともないですが、演技の緊張が途切れることがなくて、細部まで入念に描き込まれた演技に感心しきりで、このくどさがなければ歌右衛門ではありません。苦手な方もいらっしゃると思いますが、やっぱり吉之助には波長が合うということですね え。付け加えなければならぬのは、三代目延若の宅悦の巧さです。宅悦は騒がなくてはいけないが、騒ぎ過ぎてもいけません。しかし、お岩の変身の恐怖をくっきりと浮き彫りにするのは宅悦次第だと云うことも、この映像を見ればよく分かります。

吉之助の論考を見ればお分かりの如く、「四谷怪談」の伊右衛門を色悪として仕分けることに吉之助は批判的な立場なのですが(別稿「伊右衛門はホントに大悪人なのか」を参照ください)、色悪の伊右衛門を 受け入れて舞台を楽しむならば、海老蔵(十二代目団十郎)の伊右衛門は その色気と太いタッチがなかなかのものだと思います。「首が飛んでも動いてみせるわ」という剛毅な台詞が似合うのは、やはり海老蔵ですねえ。

この舞台が異様なほど髪梳きが肥大化した「四谷怪談」であることを認めつつも、吉之助が思うことは、隠亡堀や蛇山庵室は仕掛けの見せ場であって芸の見せ場ではないわけですから、歌右衛門は一世一代の演技を浪宅のこの髪梳きに賭けたのだなあということです。「四谷怪談」はお岩のお化け芝居として、どうやって観客を怖がらせるかというところで演出を洗練させてきた のです。現在のお岩の型は、先人の工夫の集積です。歌右衛門はその究極のところを目いっぱい拡大して見せてくれたのです。その結果描き出されたものは、驚くほどに粘着質的なお岩の姿でした。お岩はもちろん何の罪もない女ですが、恐らくお岩はこう在るべき・妻はこう振舞うべきという観念が強くて、これに固執する傾向がとても強いのです。こだわるところがあまりに強いので、裏切られた時の怨念がまた一層強くなるということです。しかし、それはお岩が強い女だということではなくて、むしろそのような観念にしがみ付かないと生きていけないほど、お岩は弱い女であったということなのです。お岩の粘着質的性格とは、そういうことです。江戸時代の女性は、社会的に弱い立場に置かれていました。お岩は特別な女なのではないのです。

別稿「お岩の悲しみ〜これが私の顔かいの」でも触れましたが、お岩が恐ろしい怨霊に変化するのは、お岩の本質が恐い女・強い女であるからだと考えるのは、これは違うと思います。お岩はか弱い女に過ぎないのですから、このままではこの世の不実な存在・邪悪な存在に対抗することが出来ないのです。圧倒的な存在に押し潰されてしまわない為に、お岩は恐ろしい怨霊に変化するしか方法がなかったのです。しかも、それはお岩の意志ではなく、もっと大きな力がそうさせるのです。お岩の悲しみは、それほど深いのです。だから人々にとってそれはひたすらに悲しく、とても恐いことなのです。そのようなお岩の悲しさを歌右衛門は丁寧な演技で見事に描き出して見せてくれました。

(H29・12・23)




  
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