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義賢から実盛へのメッセージ

令和3年8月歌舞伎座:「源平布引滝〜義賢最期」

十代目松本幸四郎(源義賢)、四代目中村梅枝(小万)、初代中村隼人(下部折平実は多田蔵人)、五代目中村米吉(待宵姫)、三代目松本錦吾(九郎助)他


1)本歌取りのセンス

歌舞伎は筋が荒唐無稽で史実に則していないとはよく云われることですが、寄せ集めた史実や伝説の断片を組み合わせて独自の筋を編み上げるのは、相当に歴史センスがないと容易に出来るものではないと思うのですね。和歌には本歌取りと云って、元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて・どこを変えないか、そのセンスを愉しむ遊びがありますが、作劇の愉しみも似たようなものです。史実のどこを変えて・どこを変えないかによって、劇作家の力量が問われます。真山青果と云えば時代考証がしっかりした作家と云うイメージですが、「元禄忠臣蔵・伏見橦木町」初演(昭和14年・1939・東京劇場)の時に、或る歴史学者が「元禄15年3月のこの時期には堀部安兵衛は江戸にいたはずで・京都にいた証拠はない、大方この安兵衛は飛行機で京都へ飛んだのだろう」と皮肉を書いたそうです。青果は大いに憤慨して、「かかる些事まで一々史実呼ばわりされたら、到底脚本は書けなくなる」と書いています。(真山青果:「自作覚書」・昭和14年談話) 堀部安兵衛は、誰もが知る四十七士のなかの傑物であり熱血漢です。史実であるかないかは兎も角として、その安兵衛を内蔵助の遊興三昧の場に登場させたところに、青果がどういう演劇的役割を期待したか、大事なことはその意図を読み取ることであろうと思います。もちろん改変の内容にも拠りますがね。

「源平布引滝」(延享2年・1749・大坂竹本座初演)は時代浄瑠璃としては各段の主題の一貫性に難があって決して上作とはされていないようですが、ベテラン作者の並木千柳・三好松洛だけに、史実・伝説を巧みに組み合わせた手腕に確かに見るべきものがあります。ところで本作の重要人物になる(ただし本作ではまだ赤ちゃんであるので活躍はしませんが)木曽義仲のことは、「平家物語」・「源平盛衰記」に親しんでいた当時の大坂町人も誰もが知っていたはずです。一方、義仲の父親のことになると、よほどの歴史好きでも知らない人が多いだろうと思います。実は吉之助もそうでした。三段目「実盛物語」が史実通りであるとは決して思いもしませんが、二段目「義賢最期」の方はまあ大筋はそんなものだろうと疑いもしませんでした。ところが実は「義賢最期」の方も全然史実に則してはいないのです。しかも些細な改変ではなく、「へえ?そこを変えたのですか」と驚く改変がされています。

丸本を見ると「源平布引滝」は後白河院の世と記されていますが、正確な年号はわざとボカされています。しかし、芝居を見ると、源氏の頭領・源義朝はすでに長田に討たれ・平家は全盛の世にあり横暴の限りを尽くしているとありますから、平治の乱(平治元年・1159)からそう間もない時期のことであろうと大体推察が出来ます。ところが木曽義仲の父・源義賢の史実を調べてみると、源義賢が死んだのは久寿2年(1155)のことで、これはつまり平治の乱の4年も前のことなのです。この時期には平家はまだ天下を完全に掌握してはいません。義朝はもちろん生きています。久寿2年8月、源義賢は武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)にある館を、義朝の長男・つまり義賢にとって甥に当たる源義平に急襲されて討ち死にしました。享年30歳前後。つまり義賢を討ったのは平家ではなくて、源氏内部の主導権争いの結果であったと云うことです。この時、大蔵館にいた2歳になる義賢の次男・駒王丸は、斎藤実盛らの計らいによって、信濃木曽谷の中原兼遠の元に送り届けられて、後に成人して源義仲(木曽義仲)となります。これが史実です。

芝居では平家が京都白河にある義賢館を攻めて・これを討ったことになっていますが、埼玉県にあった大蔵館を京都に移すくらいの改変は些細な事としても、これを平家の仕業にしたのは吉之助には驚きの改変で、これは「忠臣蔵」を描くのに内匠頭が殿中で斬ったのが上野介ではなくて別の人物でしたくらいの重大な改変ではないかと思いますねえ。それでも「義賢最期」だけのことならばそもそも義賢のことをそれほど知らないからまだ良いかも知れませんが、その影響が後段の「実盛物語」にまで及ぶことになるので、困ったことになります。「実盛物語」では元々源氏に仕えていたのが・生きるために今は心ならずも自分は平家に仕えていると云う「負い目」が斎藤実盛のドラマの根本にあるわけですが、史実ではそれはまったくない(駒王丸を木曽に送り届けた時点の実盛は源義朝配下であり源氏方であった)と云うことだからです。

そこでハタッと考えてしまうわけですが、ここは冷静になって、「源平布引滝」での史実の時系列の大胆な改変、義賢を討ったのが源氏でなくて平家であったと改変した「本歌取り」の趣向によって、浄瑠璃作者(並木千柳・三好松洛)はどういう演劇的意味を狙ったのか、そこを考えることが大事であるということですね。(この稿つづく)

(R3・8・22)


2)義賢から実盛へのメッセージ

吉之助が推察するに、この「源平布引滝」のなかで、史実の時系列を大胆に改変し、義賢を討ったのが源氏ではなく平家であるとしたのは、三段目「実盛物語」(文楽では「九郎助住家」)からの要請であろうと思います。寿永2年(1183)6月加賀国篠原の戦いで、木曽義仲追討のため平家方で出陣した斎藤実盛は老齢の身ながら奮戦しますが、ついに義仲の武将・手塚光盛によって討ち取られました。首実検の際にもすぐには実盛本人とは分からなかったのですが、生前の実盛が「最後こそ若々しく戦いたい」と語っていたことを樋口次郎から聞いた義仲が首を洗わせたところ、黒髪がみるみるうちに白髪に変わりました。樋口は「あな無残なや、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」と呻き、命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだそうです。「実盛物語」はこの逸話の謎解きの体裁を取っています。実盛がそのような行為を取ったのは、かつて源氏に仕えたのに・今はやむなく平家の禄を食んで居るという「負い目」が実盛にあり、今源氏が勢いを盛り返したけれど、この期に及んであちらに付き・こちらに付くと云う見苦しいことはしたくない、自分は潔く見事に死んで行きたいと云う気持ちからでした。このように名を惜しんで散っていった武士が少なからずいたのです。(別稿「梶原景時の負い目」をご参照ください。梶原は名よりも実を取った武士ですが、当時は勢いのある方に付くのが当たり前でした。)

実盛の死は、後世の武士たちが「理想の死に方」と賛美したものです。「実盛物語」で浄瑠璃作者が意図したことは、実盛の「負い目」の根拠を描くことでした。「実盛物語」のなかで実盛が駒王丸(後の義仲)の出生に絡み・その命を助け・木曽に送り届ける事情を描く時、史実通りに当時の実盛が源氏方であったとすると、実盛の「負い目」の根拠が弱く見えてしまいます。「実盛物語」を必然のドラマとするために、ここはどうしても当時の実盛が平家の禄を食んでいた状況を作る必要があります。これが作者が無理を承知で上述の史実の大胆な改変をした理由です。

なお別稿「実盛物語における反復の構造」のなかで、実盛が28年後の篠原での死を予告して・その通りに死ぬ(つまり未来に向けての「反復」)という構造を論じました。ここで吉之助が「28年後」としたのは、実盛が駒王丸を木曽に送り届けた久寿2年(1155)から、北国篠原の戦いがあった寿永2年(1183)までの歳月(28年)を便宜上使用しているからです。浄瑠璃では平治の乱(年号としては平治元年・1159になりますが)以後のこととして、時系列を大胆に入れ替えて、年号を意図的にボカしていますから、そこのところは曖昧です。だから厳密に云うならば、芝居のなかでは「実盛物語」から「大まかに28年近辺の歳月」を経て実盛の死となると云うことかも知れませんね。

実盛が駒王丸を木曽に送り届けたのは、久寿2年(1155)の大蔵合戦で源義賢が源氏内部の主導権争いで討ち死にした直後のことですから、浄瑠璃作者としては、二段目「義賢最期」において、義賢も、源氏ではなくて平家に討たれたことにしないと、辻褄が合わないことになります。「義賢最期」だけを単体で見た場合に、わざわざ史実を改変せねばならない理由は二段目からは格別見当たりません。

「義賢最期」は単体のドラマとして構成面で弱いところがありますが、後段「実盛物語」へ向けて、白旗と駒王丸(九郎助住家で生まれる)を軸として筋が繋がるので、間幕に矢橋と竹生島遊覧(御座船)を挟んで三幕構成に仕立てれば、通し狂言としてなかなか面白いものに出来ると思います。そのような半通し上演を昭和55年(1980)10月池袋・サンシャイン劇場で二代目猿翁(当時は三代目猿之助)が試みたことがありますが、とても興味深いものでした。この半通し上演の利点のひとつは、「実盛物語」だけだとチョイ役に見えかねない小万をとても重要な役に出来ることです。

もうひとつ、「源平布引滝」半通し上演の大きな利点は、構成が弱いために・ただ最後に派手な立ち廻りがあることでやっとこさ存在意義を主張している感のある「義賢最期」を、「実盛物語」としっかり結び付けることで、ドラマとして正しく立てることが出来ることだと思います。「実盛物語」に「(28年後の未来に)死ぬ時には、未練なところを見せず・美しく見事に死んで行きたい」と云う実盛の美学があるならば、「義賢最期」は、もし現実として目の前に死を突き付けられた時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うメッセージを見せているのです。その通り義賢は見事に散って見せました。これが二段目のドラマなのです。もしかしたら浄瑠璃作者は、この義賢のメッセージを、三段目の実盛に向けて発したのかも知れませんねえ。このメッセージを受けて実盛は、28年後の未来に見事に散って見せることを予告するのです。メッセージは必ず「届く」ものです。ジャック・ラカンのテーゼとして、「投函された手紙は必ず宛先に届く」と云うのがあります。実盛のメッセージも、28年後の未来の宛先に届くことになります。それはどういう過程を経ようが、必ず「成る」ものです。(この稿つづく)

(R3・8・24)


3)君はカッコよく死ねるか

そう云うわけで、「義賢最期」は単体のドラマとして見ると心もとないところがありますが、後続の「実盛物語」を連ねて見据えることで、初めて共通した主題がはっきりと見えることになるのです。その主題とは、もし目の前に死を突き付けられた時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うことです。「如何にカッコよく死ぬか」と云うことは、つまり裏返せば「如何にカッコよく生きるか」ということでもあるのです。その通りに義賢は見事に死んでみせました。一方、実盛は28年後の未来にカッコ良く死ぬことを予告して、実際その通り見事に死んでみせることになるのです。未来のことは芝居には描かれませんが、間違いなく実盛はそうすることを我々観客は知っています。

ですから前節で吉之助は「義賢最期」は最後の派手な立ち廻りでやっとこさ存在意義を主張している感があると皮肉を書きましたけれど、多分ドラマの核心がそこ(立ち廻り)にあると云うことなのでしょうねえ。押し寄せる平家の軍勢に義賢が甲冑を用いず素襖のままで戦うのは、「俺は死ぬことなんかちっとも恐くないんだぞ、しかし、ただ無抵抗で殺されたのでは武士としての面目が立たぬ、だから出来るところで精一杯の抵抗をして死んでやろうじゃないか」ということです。そこに義賢の「ええカッコしい」の、死の美学があるわけです。

今回(令和3年8月歌舞伎座)の、幸四郎初役による「義賢最期」ですが、立ち廻りと仏倒しの幕切れは悲壮感が溢れて、なかなか良い出来ではなかったでしょうか。死ぬ覚悟は出来ているが、大事の白旗を誰か信頼できる人物に預けるまでは絶対死ねないと云う熱い思いは確かに伝わって来ました。結局、白旗を小万に渡して義賢は力尽きるわけです。本作は義太夫狂言としてのコクがさほどのものではないですが、幸四郎の台詞の低調子が義太夫狂言の雰囲気に似合っています。近年は義太夫のトーンから大きく外れた高調子の台詞を聞くことが多いので、幸四郎の低調子は結構なことです。特に前半の義賢は病鉢巻をして病気の態を装っていることもあって、この低調子がよく似合います。三度目の出からは仮病をやめるので若干トーンが高めになりますが・まあそれはいいとしても、別れを渋る葵御前を叱る台詞などは、欲を云えばここはもう少し息が詰んで欲しいと云うか、ちょっと淡泊に聞こえる場面が散見されます。ここは音遣いに更なる工夫が必要です。義賢ならばこれでもまあ良いとしても、例えば来月(9月歌舞伎座)予定の佐々木盛綱(盛綱陣屋)であると、特に首実検後の長台詞などは、これでは物足りないことになるでしょう。幸四郎ももう48歳か、義太夫狂言の音遣いについては・幸四郎だけのことではないですが、これは至急の課題ですね。

梅枝の小万については古風な風貌が生きてなかなか良い味を醸し出しています。この「義賢最期」の小万から「実盛物語」の小万へ線を引いてみるだけで、「源平布引滝」のなかで小万が負う役割の重さは十分察せられると思いますが、半通し上演で矢橋と御座船をダイジェストであっても出すことが出来れば、小万を女武道の大きな役に仕立てることが出来るでしょう。前節で「投函された手紙は必ず宛先に届く」というラカンのテーゼを紹介しましたが、白旗に託された義賢からのメッセージを実盛に届けるのが、まさに小万の役割なのです。

(R3・8・26)

(追記)
本稿の続編になる「「源平布引滝」と本歌取りの趣向〜「実盛物語」から「義賢最期」を読む
」もご参照ください。



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