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「源平布引滝」と本歌取りの趣向〜「実盛物語」から「義賢最後」を読む

*本稿は別稿「義賢から実盛へのメッセージ」の補足記事となります。


1)史実の改変・筋の趣向には理屈がある

別稿「義賢から実盛へのメッセージ」において、浄瑠璃作者が「源平布引滝」で史実をどのように本歌取りで取り入れ、そこにどんな演劇的意味を与えようとしたかを考えました。作者は史実を大胆に改変し、平治の乱で平家が政権を取った後に・源義賢が平家に討たれて・今はやむなく平家に仕える斎藤実盛が源氏への忠誠を忘れず義賢の遺児(後の木曽義仲)を木曽へ送り届けたと云う虚構をでっちあげたわけですが、それは三段目「実盛物語」の要請から来るのです。それは、駒王丸を木曽に送り届けた実盛が、さらに28年後の未来に加賀国篠原の地で成人した義仲の軍勢に覚悟して討たれることになる因縁のドラマの伏線とするために、実盛が元々源氏方でありながら・今は平家の禄を食んでいると云う強い「負い目」を背負う設定がどうしても必要であったからです。「実盛物語」のドラマを読む時に実盛の「負い目」が根本動機であることが、このことで分かります。(別稿「実盛の負い目」を参照ください。)

そこで本稿は補足として、後段「実盛物語」の方から「義賢最後」を読む形で、浄瑠璃作者の作劇の秘密(本歌取りの趣向)をもう少し見てみます。明治29年出版の「浄曲百番 語り物の訳」には、「綿繰馬の段(実盛物語)」について、「名前は有名、事実は無根。例に依って例の如き歴史的の夢幻劇。」と書いてあります。これはまあその通りかも知れませんが、作者は決して出まかせの芝居を書いたわけではなく、題材に関して作者は膨大な文献に当たり・綿密な情報収集をして、史実の改変・筋の趣向にはそれぞれにそれなりの理屈があり、決して好い加減に芝居を書いていないと云うことは言っておきたいと思います。(注:これは「実盛物語」だけのことではなく、近松門左衛門から竹田出雲・さらに近松半二に至るまで、作者が実に綿密に調査して作品を書いていることには常に驚かされます。)

ところで、史実の実盛は、琵琶湖周辺に格別縁が深いようにも思われません。それなのに作者はどうして「実盛物語」(九郎助住家)の舞台に琵琶湖近くを選んだのですかねえ、考えて見ればこれは不思議なことです。理由はいくつか考えられますが、吉之助の推察では、まず理由のひとつは、木曽義仲が近江国粟津ヶ原(現在の滋賀県大津市粟津周辺)で戦死したと云う史実に拠ると思います。それは寿永3年(1184)1月20日のことでした。義仲の墓が、現在・大津市馬場1丁目にある義仲寺(ぎちゅうじ)にあることは、世間によく知られています。(なお義仲寺は松尾芭蕉の墓があるお寺としても有名です。)

そこから「実盛物語」の有力候補に琵琶湖周辺が挙がったと思いますが、さらに現地周辺を調べてみると、興味深い伝説が見付かります。それは「手孕説話(てばらみせつわ)」と呼ばれるものです。女性が、その身体に男性の手が接触したことが原因で妊娠し、片手を産んだと云う古い伝説で、似たような説話が各地に伝承が残っています。神の来訪が子孫を残すという考え方で、来訪の痕跡を手あるいは足に象徴させたと云うことだそうです。そのひとつが、近江国手孕村(てばらみむら、現在の滋賀県栗東市手原)に伝わるものです。恐らくこの手孕説話を聞いて、作者の脳裏にストーリーがピーンと閃いたのです。なぜならば、寿永2年(1183)6月、篠原の戦いで平家方として参戦した斎藤実盛が討ち死にした時、実盛の首を取った木曽側の武将の名前が手塚光盛であったからです。「手塚」と「手孕」が繋がって、太郎吉(後の手塚光盛)の出身地を近江国手孕村にしようと云うアイデアが生まれたのでしょう。これが理由の二つ目です。(なお史実の手塚光盛の出生は定かではないですが、「源平盛衰記」では信濃国諏訪の出身とされているようです。)

「実盛物語」では、葵御前が腕(かいな)を産んだ・産まぬと云う話しになって、実盛が瀬尾に向かってまことしやかに腕の講釈を始めます。これを見ると、

「アイヤ例(ため)しないとはもうされず。かゝる不思議も世にあること。(中略)ホヽもうさぬとて御存じあらん。唐土楚国の后桃容夫人、常にあつきを苦しんで鉄(くろがね)の柱をいだく。その精霊宿って鉄丸を産む。陰陽師占ふて剣に打たす、干将莫耶が剣サこれなり。察するところ葵御前も常に積衆(しやくじゆ)の愁あって、導引鍼医(はりい)の手先を借り、全快の心通じ自然と孕めるものならん。ハテあらそはれぬ天地の道理。今よりこの所を手孕村と名づくべし」

「実盛物語」では、近江国手孕村の地名を実盛が名付けたことになっています。葵御前が産んだ腕(実は実盛が斬り落とした小万の片腕)を埋めた塚が、「手塚」の苗字の由来だというわけです。もちろんこれも浄瑠璃作者の創作です。(この稿つづく)

(R3・8・27)


2)元歌のどこを変えて・どこを変えないか

さらに、これが「実盛物語」の舞台を琵琶湖周辺とした理由の三つ目になりますが、近江八景「堅田の落雁」で有名な景勝の地・満月寺浮世堂から少し南へ歩いた湖畔「おとせの浜」(現在の滋賀県堅田市)に伝わる伝承があります。それに拠ると、平治の乱(平治元年・1159)の時、堅田出身のおとせと云う女性が、奉公先である源氏の屋敷から白旗を守ろうとして京都を脱出しました。追っ手に追われたおとせは大津辺りで琵琶湖に飛び込みましたが、平家の侍に斬られて死にました。その後、白旗を握ったままの、おとせの片腕が流れ着いたのが、おとせの浜であったそうです。村人がおとせの忠義を讃え、その霊を慰めるために築いた塚が、「おとせの石」だそうです。浄瑠璃作者の頭のなかで、おとせの片腕と「手孕」-「手塚」へと連想が繋がって行きます。この伝承が、白旗を守ろうと琵琶湖を泳いで逃げる小万が、竹生島詣の平家の御座船と遭遇し・乗り合わせた実盛に腕を斬られると云う、実盛の物語りに出てくる筋の本説となるものです。手孕村にある九郎助住家から見ると、おとせの浜は琵琶湖の対岸に位置するので・ちょっと離れてはいますが・まあそう堅いことは言わないこと、同じ琵琶湖周辺に伝わる伝承だと云うことですね。この他「源平布引滝」では近江八景「矢橋帰帆」でも知られる矢橋(やばせ・現在の滋賀県草津市)辺りから小万を琵琶湖に飛び込ませるなど、琵琶湖周辺の地名や伝承を散りばめながら、筋を巧みに織り上げています。

これらのことから、史実の実盛からすると特にご縁が深そうでもない琵琶湖周辺が「実盛物語」の舞台に選ばれたわけです。と云うことは、「実盛物語」の舞台を近江国手孕村(現在の滋賀県栗東市手原)に決めた以上、二段目「義賢最後」で、史実では義賢が討たれた地は武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)であるところを、京都白河の館で討たれたと作者が改変した理由も、義賢館を九郎助住家から近いところにしたい事情から来るのでしょうねえ。九郎助と太郎吉は身重の葵御前を連れて京都から逢坂の関を通り大津を経て街道を下って手孕村へ落ちます。(道行の場があります。)このくらいの距離が適当なわけです。つまり二段目「義賢最後」で、時は平治の乱以後のことで・その頃平家は横暴を極めていた・源氏の頭領義朝は討たれて今はなく・実盛もやむなく平家に仕えていた・この時義賢の館は京都に在った・義賢は奢る平家に反抗して討たれたという一連の虚構(史実・或いは時系列の改変)は、どれもすべて三段目「実盛物語」の要請から来ることが明らかなのです。

このことは、二段目「義賢最後」を本歌取りの趣向から見た場合に、大きな意味を持ちます。本歌取りとは、元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて・どこを変えないか、そのセンスを愉しむ遊びです。本歌取りには、置き換える・ひっくり返す・重ねる・見立てる・ずらすなど色んな技法があります。本稿ではそれらを逐一解説する余裕はありませんが、ここでは「義賢最後」に関することだけ触れます。本歌取りでは「元歌(史実)のどこをどのように変えたか」と云う点が大事な場合も多々ありますが、「義賢最後」においてはそうではなく・それらはすべて三段目の要請から来るわけですから、史実を変えたところ(義賢は平家に討たれたという虚構など)は二段目のドラマの本質的なところではないのです。

「義賢最後」を単独で読むならば、源氏である義賢が横暴極まる平家に対して敢然と反抗したドラマであると読むことはもちろん出来ます。その読みが間違いだとは決して言えないですが、しかし、後段・三段目「実盛物語」を見据えて考えれば、二段目のドラマの主題がそこにないことは明らかなのです。そこは「変えても良かった史実」に係わることだからです。(史実では義賢は源氏の内輪争いで討たれたのです。)

「義賢最後」では、むしろ「元歌(史実)のどこを変えずに残したのか」の方が重要になって来ます。変えなかった史実とは、「無残に討たれた義賢の遺児を実盛が守ることになる」ということです。考えて見ればこの件も二段目「義賢最後」では完全に成就したと言えない(だから単発のドラマとして物足りないことになる)のですが、葵御前のお腹のなかの赤ちゃん(後の木曽義仲)と白旗が実盛の手元に届けられるべく、それぞれ九郎助と小万に託されて段取りが付いたところで、安心したかのようにガクッと力尽きて義賢は壮絶な最後を遂げます。このことが重要なのです。初演当時の大坂町人も木曽義仲の父が誰だかなんて詳しいことは知らなかったと思いますが、「父を亡くした幼少の義仲を実盛が守った」という史実は皆知っていました。さらに「成人して挙兵した義仲軍と戦って老齢の実盛が討ち死にした」という史実も皆が知っていました。だからそこの史実は決して変えられません。実盛を描くために、そこは絶対「変えてはならない史実」なのです。ドラマはその「変えられないところ」へ向かって紆余曲折しながらも確実に進んで行きます。その後も白旗を持った小万に危難が襲い掛かりますが、そこのところは必ず、成るように成るのです。

元歌の語句や趣向を取り入れて、元歌のどこを変えて、どこを変えないか、そこを見極めることが、新古今以後の本歌取りではとても大事なことになります。そこで作者のセンスが問われます。(読み手の力量が問われるということでもあります。)これは、江戸の人形浄瑠璃においてもまったく同じことです。(この稿つづく)

(R3・8・29)


3)反復の技法

本歌取りにも色んな技法がありますが、本稿では「反復(重ねる)」の技法を取り上げることにします。例えばここで手をパーンとひとつ叩いてみます。「これが反復です」と言ったら、「?」となるだろうと思います。しかし、パーン・パーンと手を続けてふたつ叩くならば、これが反復だと納得するでしょう。(ここで最初のパーンを拍Aとし、次のパーンを拍Bと呼ぶことにします。)ただし厳密に云えば、たまたま偶然に次の音が鳴る場合だってあるし、拍Bの音色や音程・音量が最初の拍Aと違ったりすると、これが反復だと受け取れない場合もあり得ます。だからそれが「反復」であると認識されるためには、両者の間に何らかの関連性が感じられねばなりません。連関性が感じられるならば、例え異なる楽器の音であっても、それは「反復」であると認識することが出来るはずです。

もうひとつ大事なことは、「反復」という行為が完成するためには、常に拍Bが存在しなければならないということです。拍Aが投げかけたメッセージを、拍Bが受け取る、そして受け取った証(あかし、LINEの既読の印みたいなものです)を拍Aに返す、これで反復が完成するのです。メッセージを受け取ってもらえないと、拍Aは宙ぶらりんになってしまいます。だから拍Aに反復の意味を与えるのは、拍Bであると云えると思います。反復は連続すれば、ますますその意味が強化されることになりますが、とりあえず拍Aと拍Bのふたつの拍があれば、反復は成立します。だから二拍が反復の最低単位です。反復が成立するか・しないかは、拍Aと拍Bと云う、二拍の関係性で決まるのです。しかし、反復の意味を与えるのは、常に2拍目(拍B)です。つまり何が反復されたかは、「後で分かる」と云うことです。

ここで最初の話に戻りますけど、手をパーンとひとつ叩いて・それだけで「これが反復です」と言える場合があるとすれば、一体それはどう云う場合でしょうか?拍Bは、今はまだ鳴っていないが、10分先のことか・1ヶ月先か・或いは28年先のことか・それさえ分からなくても、いつか必ず拍Bが反復されると、そのような確信がある時です。音はパーンとひとつしか鳴っていなくても、それは次が未だ鳴っていないと云うだけのことです。拍Bは、必ず鳴る。この時、未来の拍Bに対して、或るメッセージが投げかけられています。そして未来の拍Bから拍Aに向けて、反復の証が返されています。このことが第三者(観客)にもはっきり見える場合があるのです。

以上のことを「源平布引滝」に適用してみますが、まず言えることは、三段目「実盛物語」(拍B)が、二段目「義賢最後」(拍A)に意味を与えると云うことです。「実盛物語」を理解することで、実盛が義賢から何を受け取ったかが明らかになるのです。(これは芝居の進行からすると、未来から過去へ意味を返すということなので、「義賢最後」だけであるとドラマが閉じた感覚が若干乏しい印象になるのは、これが原因しています。吉之助には、切場と云うよりも・何だか大端場みたいな感じがしてしまいますねえ。)死に際し義賢は、実盛に向けて或るメッセージを投げます。それは、俺は見事に死んでみせたぞ、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」ということです。(別稿「義賢から実盛へのメッセージ」をご参照ください。)これに対し、「実盛物語」で実盛が受け取りの証を返します。これで「義賢最後」と「実盛物語」との間に、「反復」の行為が完成することになるのです。その証とは、幕切れに実盛が九郎助と太郎吉に云う台詞、

「ムハヽヽヽなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」

です。同時に実盛は、28年後の・未来の自分に向けて、メッセージを投げたことになります。「俺も卑怯未練なところを見せず・必ず見事にカッコよく死んで見せるぞ」ということです。28年後に鳴ることになる拍Cは、「実盛物語」では描かれません。しかし、不思議なことですが、拍Cが未だ鳴らないはずなのに、「実盛物語」には、はっきりドラマが閉じた感覚がありますねえ。これこそ本作が傑作である所以ですが、なぜならば観客が28年後に実盛がそうする史実を知っているからです。受け取りの証はもうあるのも同然です。その典拠は「平家物語・実盛最後」にある詞章、

『手塚太郎馳せ来る郎等に首取らせ木曽殿の御前に参つて、「光盛こそ奇異の曲者組んで参つて候へ。大将かと見候へば続く勢も候はず。侍かと見候へば錦の直垂を着て候ひつるが、名乗れ名乗れと責め候ひつれども、つひに名乗り候はず。声は坂東声にて候ひつる」と申しければ、木曽殿、「あつぱれこれは斎藤別当にてあるござんなれ。それならば義仲が上野へ越えやりし時幼い目に見しかば白髪の霞苧はつしぞ。今は定めて白髪にこそなりぬらんに、鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎年比馴れ遊んで知りたるらんぞ。樋口呼べ。」とて召されけり。樋口次郎ただ一目見て、「あな無慙長井斎藤別当にて候ひけり」とて涙をはらはらと流す。』(平家物語・巻第七の八:実盛最後)

です。「実盛物語」(拍B)に意味を与えるのは、「平家物語・実盛最後」(未来の・未だ鳴らない拍C)です。江戸時代の民衆にとって必須教養と云えるものでした。すなわち、浄瑠璃作者のアイデアは、寿永2年(1183)加賀国篠原での実盛の死という史実から発し、時系列としてはこれを未来から過去へ遡るわけですが、「平家物語」と「源平盛衰記」を本歌として、これを逆から「重ねて行く(反復する)」形で、「実盛物語」から「義賢最後」へ本歌取りしてみせたことになります。拍C-B-Aに共通したメッセージとは、死と対峙した時、「君は卑怯未練なところを見せず・見事にカッコよく死ねるか」と云うことです。これが「源平布引滝」の本歌取りの構造なのです。(この稿つづく)

(R3・8・31)


4)丸本は好い加減な態度で書かれてはいない

前節までで論旨はほぼ尽くされていますが、いくつか補足しておきます。まず「君は見事にカッコよく死ねるか」と云うことですが、これは「義賢最後」から「実盛物語」・さらに「平家物語・実盛最後」までを貫くメッセージと考えられますが、例えば義賢が派手な立ち廻りをしてカッコ良く死ぬ、実盛が髪を黒髪に染めて若やいだ姿でカッコ良く死ぬ、そのような・何と云いますかね・明るい側面だけを考えてはいけないということです。「カッコよく死ぬ」ということは、「無慙に死ぬ」ということの裏腹です。だから「あっぱれ」すなわち「あはれ」なのです。(これはついては、別稿「かぶき的心情の研究・1」を参照ください。「あはれ」とは、Ahと云う声を作り出すものです。)死のカッコ良さの裏には、常に陰惨さがつきまといます。後世の武士たちは「もののあはれ」を強く意識し、実盛の無慙な死こそ武士の理想の死に方であると肝に念じたわけです。

もうひとつは「反復」は、寿永2年6月加賀国篠原での実盛の死を以て終わるわけではないと云うことです。この反復は、ずっと続くことになるのです。まず近いところでは、この約半年後、寿永3年1月の近江国粟津ヶ原での、木曽義仲の死において反復されます。「平家物語・巻第九・木曽の最後」をご覧ください。巴御前と別れた後、義仲が乳母子に当たる今井四郎兼平とともに、死に場所を求めて粟津ヶ原を彷徨います。この時、篠原の戦いでの実盛の見事な死が、義仲の脳裏にチラつかなかったはずはありません。「君は見事にカッコよく死ねるか」と云うメッセージが、義仲に対しても突き付けられているのです。ですから前述した通り、史実の実盛が琵琶湖周辺と格別縁が深いとも思われないのに、浄瑠璃作者が「実盛物語」の舞台を近江国手孕村に設定したもっとも強い動機は、近江国が義仲が戦死した地であると云うことであったに違いありません。これが「実盛物語」の発想の出発点なのです。さらに反復は、後世の武士たちによって引き継がれて行きます。例えば豊臣秀頼の臣・木村重成が、大坂夏の陣で討ち死にする前日の晩に鎧兜に香を炊き込めて出陣したという話しもまた、この反復のひとつであったと考えて良いのです。

写真は、滋賀県大津市の義仲寺にある木曽義仲の墓。

以上が本歌取りの趣向に絡んだ「実盛物語」の構造ですが、作者は実盛に28年後の篠原での死を予告させるために綿密な段取りを組んでおり、ここでまったく別系統の反復を使っています。それは「俺は元々源氏に仕えた者であるのに・今は生きるためにやむなく平家の禄を食んでいる」という「負い目」で、この負い目が事ある度に実盛を責めさいなむ、「・・またしても」と云うように。それが「実盛物語」の物語なのです。詳細については、別稿「実盛物語における反復の構造」、あるいは「実盛の負い目」をご覧ください。この反復は実に巧妙に仕組まれています。実盛が「ムハヽヽヽなるほど、その時こそ鬢髭を墨に染め若やいで勝負を遂げん。坂東声の首取らば池の溜りで洗ふて見よ。軍の場所は北国篠原、加賀の国にて見参々々」が爽やかに語ることが、確かに必然の如く感じられます。だから、作者としては、父を亡くした幼少の義仲を実盛が庇護して木曽に送り届けた当時に既に実盛の「負い目」が在ったという設定に、どうしてもしなければならなかったのです。その必要から「源平布引滝」の作者による、史実及び時系列の、大胆な改変が始まったのです。浄瑠璃作者は好い加減な態度で史実をちょこちょこいじったわけではありません。真摯に歴史に対峙しており、史実で変えていいことと、変えてはいけないことの見極めは、きっちり付けているのです。このことに気が付くと、キチンと背を正して丸本を読まねばならぬなあと、改めて感じますねえ。

(R3・9・1)


 

 

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