(TOP)     (戻る)

大津・義仲寺と松尾芭蕉


1)大津・義仲寺と松尾芭蕉

令和元年12月に滋賀県大津市周辺を旅行し、市内の義仲寺にある松尾芭蕉のお墓に参ってきました。

芭蕉が大坂・御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」の離れで亡くなったのは元禄7年(1694)10月12日、芭蕉51歳のことでした。芭蕉がこの時どうして大坂にいたのかと云うと、仲が悪かった弟子の珍碩と之道の争いの仲裁のため、大坂に来ていたのです。侘び・寂びの世界からほど遠い弟子の世俗的な諍いに芭蕉も悩まされていたのですねえ、可哀そうに。芭蕉は前年頃から体調がすぐれなかったそうです。元禄7年10月にはいって病に伏し、9日に弟子呑舟を呼んで筆を磨らせて「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」という句を詠んで、これが辞世の句となりました。芭蕉の臨終の様子は、其角の「芭蕉翁終焉記」などにあります。

芭蕉は生前から「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言していたそうです。これに従い芭蕉の遺骸は臨終の日の夜のうちに伏見に向けて舟で出発し、翌13日昼過ぎ伏見から大津の義仲寺へ運ばれました。14日に葬儀が行われ、同日深夜に境内に埋葬されました。葬儀に参列した門人は80名、会葬者は300余名にのぼったそうですから盛大な葬儀でした。芭蕉の忌日は「時雨忌」と呼ばれ、義仲寺では旧暦の時節に合わせて毎年11月の第二土曜日に法要が営まれるそうです。

写真下は、大津市馬場にある義仲寺。

義仲寺(ぎちゅうじ)は、大津市馬場一丁目にある天台宗のお寺です。義仲寺には「平家物語」に朝日将軍の名で登場する源義仲(木曽義仲)のお墓があります。寺の創建については定かではありませんが、このあたりは昔は粟津ヶ原と呼ばれて、琵琶湖に面した美しい景勝の地でした。治承4年(1180)、源義仲が信濃の国(現在の長野県)で平氏討伐のため挙兵し、寿永2年(1183)には倶利伽羅(くりから)峠の戦いに平家に勝利して都入りしました。しかし、その後は義仲軍の都での狼藉の悪評によって後白河法皇と対立し、さらに平氏だけでなく、源頼朝など源氏内部での抗争が激化し、宇治川・瀬田の戦いで頼朝の命を受けた源範頼・義経軍に敗北して追われ、ほどなく粟津の地で討ち死にしました。義仲の死後、愛妾であった巴御前が尼となって、義仲の墓所近くに「無名庵(むみょうあん)」と云う草庵を結び、義仲を日々供養した、これが寺の始まりだと伝えられています。寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺(よしなかでら)とも呼ばれたという記述が鎌倉後期の文書に見られるそうです。寺は一時荒廃しましたが、江戸期に入って再興されました。

写真下は、松尾芭蕉の墓。

芭蕉が義仲寺を訪れたのは奥の細道の旅から帰った元禄2年(1689)のことで、ちょうど寺の大修理が終わった頃であったようです。芭蕉はこの地が気に入り、その後同寺をたびたび訪れ無名庵に滞在しました。それにしても芭蕉はどうして「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言するほど源義仲がそんなに好きだったのですかねえ。「むざんやな冑の下のきりぎりす」は「奥の細道」にある句で、芭蕉が石川県小松市の多太神社で斎藤実盛のものと伝えられる冑を見て詠んだものです。実盛と義仲には深い因縁があって、これは歌舞伎の「実盛物語」でもご存じの通りです。あるいは「平家物語」の義仲の逸話に何か個人的に気に入ったことがあったのかも知れません。しかし、どうして義仲寺かについては定説がないようです。当時の大津は東海道・中仙道が交錯する交通の要所でした。だから、旧東海道に沿った義仲寺は弟子が墓参りするのにも何かと都合が良かろうと考えたのかも知れません。後に弟子の曾良が「あの時にもし遺言がなかったら、弟子たちの間で芭蕉をどこに葬るか議論になって決着が付かなかっただろう」と回想したほどだそうですから、その辺芭蕉も気を遣ったのではないか。死んだ後の事まで弟子たちの心配をせねばならないのだから、芭蕉も大変なことですね。

写真下は義仲寺庭園にある翁堂で、芭蕉の座像を安置。

写真下は、源義仲(木曽義仲)の墓。芭蕉の墓とは木をはさんで3Mほど離れていますが、お隣さんになります。

写真下は、義仲の愛妾・巴御前の墓。義仲は粟津ヶ原まで逃げのびましたが、敵が急追してきた時、義仲は巴御前を諭し「木曾殿の最後の戦さに女を連れていたと言われるのも心外なり」、これが義仲と巴御前との最後の別れとなりました。巴御前は男勝りの女性と云われ、ご存じ歌舞伎の「女暫」は巴御前のお芝居です。

写真下は、義仲のもうひとりの愛妾・山吹御前の供養塚。元はJR大津駅付近にあったものを移したそうです。歌舞伎では山吹御前は「ひらかな盛衰記」の大津宿の場に駒若君を連れて登場しますが、騒動で駒若君と槌松が取り違えられて、山吹御前は駒若君が死んだと思い込んで悲しみのなかで死んでしまいます。

2)伊賀市上野・芭蕉生家

ところで芭蕉は寛永21年(正保元年・1644)に伊賀国(今の三重県伊賀市)で生まれました。正確な月日は不詳です。伊賀市上野赤坂町には芭蕉が幼少時代を過ごした家があり、現在ここに芭蕉翁生誕の地の石碑が建っています。(芭蕉が生まれたのは伊賀市柘植であったとする異説もあります。ただし上野赤坂で芭蕉が幼少を過ごしたことは確かなことです。)吉之助は平成29年12月に荒木又右エ門の仇討ちで有名な伊賀上野・鍵屋の辻を見にこの地を訪れた時に芭蕉生家にも立ち寄ったので、この時に撮った写真をあげておきます。

元禄7年8月15日(つまりまさに芭蕉の亡くなった年です)、久しぶりに故郷を訪れた芭蕉は、新庵(上の写真の左の建物です)に門人を招いて月見の宴を催しました。下の写真はその時の芭蕉の書いたお品書きと、料理を再現したものだそうです。異説もあるそうですが、寛文2年(1662)には伊勢国・侍大将新藤主計良忠に仕え、仕事は厨房役か料理人であったようです。なるほどそれで月見の宴では芭蕉が自慢の腕をふるって料理して客人をもてなしたというわけです。芭蕉は何でも出来た人なのだなあ。なお良忠は芭蕉よりも2歳年上で俳号を蝉吟と云い、どうやら良忠の影響で芭蕉は俳諧の道に入ったようです。寛文2年・19歳の時に詠んだ「春や来し年や行けん小晦日(はるやこし としやゆきけん こつごもり)」と云う句が現在分かっている一番古い句だそうです。寛文6年に良忠が没して後士官を退いて、その後俳句の研鑽を積んだ芭蕉が江戸に向かったのは延宝2年(1674)・30歳のことでした

*写真は大津・義仲寺が令和元年12月8日、伊賀上野が平成29年12月1日、吉之助の撮影です。なお芭蕉生家内部は許可をいただいて撮影したものです。

(R2・1・30)



  

  (TOP)        (戻る)