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実盛の運命〜「源平布引滝・実盛物語」


1)あなむざんやな

「あなむざんやな冑の下のきりぎりす」

芭蕉の句であります。芭蕉が石川県小松市の多太神社で斎藤実盛のものと伝えられる冑を見て詠んだものです。後に芭蕉は初句の「あな」を省いてしまいました。今の我々のよく知っているのはそちらの方です。これは調子を整えて改作されたものより、最初のままの「あなむざんやな・・・」の方が無限によろしい。

どうして芭蕉は「あな」を省いてしまったのでしょうか。「あなむざんやな」、この部分は字余りで五七五が破綻していますが、これは実は謡曲「実盛」の一節「樋口参りてただ一目見て、涙をはらはらと流いて、あなむざんやな、斎藤別当実盛にて候ひけるぞや」から取ったものだそうです。謡曲からの拝借なのが見え見えなので芭蕉は「あな」を省いたとしか思えません。「あなむざんやな・・・」には語調が崩れたところに「人生の無常への慟哭」が聞こえてくるようで、捨て難い味わいがあると思います。

寿永2年(1183)、斎藤実盛は、木曾(源)義仲と平家との戦いで平家方について戦い、加賀の国江沼郡篠原の地で討ち死にしました。この時代は戦いに臨んで名乗りをするのが習いでしたが、実盛は「存ずる旨ありければ」と名乗りをせずに奮戦したといいます。「木曾殿は御覧じ知るべし」、首はだいじにお目にかけよと、独り武者のままで戦い、身を投げ出すように木曾方の勇士手塚太郎光盛と組み打ち、討死しました。

義仲はその首を見て実盛の首であると直感します。しかしそれならば白髪首のはずであるのに、鬢髪は黒く、髭も黒い。首実検に呼ばれた樋口次郎兼光は首を見るなり「あなむざんやな」とうめきました。「老い故によき敵と思われないのは悔しい、最後の戦いでは鬢も髭も黒く染めて出陣したい」と実盛が言っていたことを樋口はよく覚えていたのでした。

このように実盛が平家方でありながら、木曾義仲に心を寄せこの戦いを最後と覚悟していたのには訳がありました。ひとつには坂東武者でありながら平家に仕えなければならなかった時代のわが身の不運を嘆く気持ちです。もうひとつは平家追討の名乗りをあげた木曾義仲にならば、勝ち戦をさせてやりたいという気持ちです。実は、義仲の父義賢が同じ源氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時(久寿2年:1155)に、まだ2歳であった幼い義仲をかくまって、木曾の中原兼遠(義仲の養父となる)に送り届けたのが実盛でありました。義仲は実盛の首を前にして、自分に今があるのはみな実盛のはからいによるもので、実盛は自分の「七箇日の養父」でもあったと言ってさまざめと泣き、その首を手厚く供養することを命じたといいます。


2)実盛の無念

実盛は最後の戦いに臨み、老武者とあなどられぬように白髪を黒く染めて出陣しました。この話は「平家物語」によって人々によく知られていました。今でも田舎へ行きますと、稲に害虫がつくのは悪霊の仕業と考えて、虫をとらえ田のあぜ道を通って村の外へ送り出す「虫送り」という行事を伝えているところがあります。地域によってはこれを「実盛祭」と呼ぶそうです。その起源は、最後の戦いで実盛は稲の切り株に足をとられて転び、そのために手塚太郎に討たれた、その怨みから虫が出て稲を害するのだという怨霊信仰から来ています。人々は実盛の非業の最期に涙し、その無念を想ったのでしょう。

世阿弥作の謡曲「実盛」では、実盛の霊がその執心を捨てきれずにこの世に現れます。実盛の霊は僧に向って往生できない苦しみを語ります。「その妄執の修羅の道、巡り巡りてまたここに、木曾と組まんとたくみしを、手塚めに隔たられし、無念は今にあり。」 つまり、最後は木曾の大将義仲と闘おうとしたのに下っ端の手塚太郎に邪魔されて討たれてしまった、その悔しさに死ぬに死ねないというのです。

実盛の霊は最後の戦いの様子をありありと語ります。そして「終に首をば掻き落とされて、篠原の土となって、影も形も亡き後の、影も形も南無阿弥陀仏、弔いて賜び給へ、跡弔いて賜び給へ」で実盛の霊は消え去るのでした。


3)歌舞伎での実盛

歌舞伎の「源平布引滝」の三段目切「九郎助住居の場」(通称:「実盛物語」)も同じく、この実盛の討ち死の話をもとに創られています。幕切れ近くで、「母(小万)の敵」と言って迫る太郎吉(後の手塚太郎)を実盛は「オオ、出かる出かす、成人して母の仇、顔見覚えて恨みを晴らせ。」と軽くいなして、後日に手塚太郎に討たれることを誓います。横にいた九郎助が「もうし実盛さま、孫めがおおきゅうなる時は、おまえさまには顔に皺、髪は白髪でその顔変わる」と言うと、実盛は

「ムウなるほど、その時は実盛が鬢髪を黒に染め、若やいで勝負をとげん、坂東声の首とらば、池の溜まりで洗うて見よ、いくさの場所は北国篠原、加賀の国にて見参見参。」

と答えます。謡曲の実盛は手塚太郎に討たれたことを悔いて往生できないのですが、歌舞伎の設定は逆で、実盛は28年後に太郎に再会し、討たれることでその約束を果たすのです。この場で実盛は自らの死の有様を予言するわけですが、ここでは謡曲と違って陰惨な感じがまったくしません。自らの「鬢髪を黒に染め、若やいで」勝負しようという所などには、壮年の男の色気さえ感じさせます。実盛のその潔さに、どこかさわやかな感動を感じさせます。

むしろ吉之助が気になるのは太郎吉の方です。瀬尾は平家方の悪役として登場しますが、太郎吉が自分の孫であることを知った瀬尾は、孫の手でわざと討たれることで太郎吉に功をたてさせて死にます。これで太郎吉は葵の上に義仲(と言っても生まれたばかりだが)の家来になることを許されるわけですが、すぐさま太郎吉は実盛に仇を討つと宣言します。この子供は単純一途で、自分の祖父を殺しておいて何の感慨も示さず、今度は実盛の首を取ろうと言う。どうも血に飢えているだけみたいで、太郎吉が実盛に迫る場面だけは、吉之助はいつ見ても気持ちが良くありません。

まあ子役の演技だからあんまり気にすることもないですが、吉之助はこの箇所だけにチラリと陰惨な影を見るのです。しかし、実盛は懐紙を出して太郎吉の鼻をかんでやったりして、これがまたえらく親切。おまけに太郎吉を馬にまで乗せる大サービスで、陰惨な気分はまったく吹っ飛んでしまいます。馬の足は観客を沸かせる楽しい見世物ですし、花道での馬上で実盛が扇子をかざしての幕切れはいつ見ても格好良くて素敵です。

この華やかな「実盛物語」の幕切れのなかに、ちょっとだけ実盛の運命を想い起してみたいと思います。謡曲「実盛」では「救いようのない運命の非情さ」が描かれています。しかし、歌舞伎「実盛物語」での実盛は28年後の自分の死の光景を語り、「自らの髪を黒く染め、場所は加賀の国篠原、池の溜まりで洗うて見よ」と言っています。実盛はその言った通りに死ぬわけです。もしかしたら、実盛は自ら運命を選び取ったのかも知れません。そしてその運命に従容として殉じたのです。

さらにこんなことも考えてみたいと思います。吉之助には歌舞伎の実盛の方が、謡曲の実盛よりも意思的・理知的な感じがします。歌舞伎の実盛は運命に突き動かされているのではなく、間違いなく自分の意志で動いています。その行動の軌跡が「運命」として後の世に記録されるに過ぎない、そんな感じです。このような違いは、室町時代から江戸時代への民衆の感性・あるいは人生観の変化を表しているのに違いありません。そしてそのような観点から、「平家物語」の挿話の意味を、「実盛物語」の作者は遊び心と多少の科学性で解き明かそうとしているのです。「熊谷陣屋」も「義経千本桜」も、そのような江戸の庶民の健康な精神が生み出したものだと感じています。

(後記)

「歌舞伎の雑談」での別稿「やさしき武士」もご参照ください。

(H13・9・9)





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