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十一代目海老蔵奮闘の成田屋「千本桜」

令和元年7月歌舞伎座・ 「星合世十三團」〜成田千本桜

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(左大臣藤原朝方、卿の君、川越太郎、武蔵坊弁慶、渡海屋銀平実は新中納言平知盛、入江丹蔵、主馬小金吾、いがみの権太、鮓屋弥左衛門、弥助実は三位中将平維盛、佐藤忠信、佐藤忠信実は源九郎狐、横川覚範実は能登守教経、以上十三役)、四代目中村梅玉(源義経)、二代目中村魁春(お柳実は典侍の局)、五代目中村雀右衛門(静御前)他

*文中にある「猿之助」は三代目猿之助(二代目猿翁)のことです。


1)猿之助歌舞伎の思い出

かつて三代目猿之助(二代目猿翁)が始めた早変わりや宙乗り・スピーディな舞台進行を標榜した演劇ムーヴメントがあって、それは「猿之助歌舞伎」と呼ばれていました。猿之助歌舞伎の最盛期は、人によって異論があるかも知れませんが、吉之助は昭和54年(1979)5月明治座での「慙紅葉汗顔見勢・伊達の十役」復活初演(この時猿之助は39歳)辺りから昭和61年(1986)2月新橋演舞場でのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」初演(この時猿之助46歳)辺りまでの約10年間 だと思っています。思えばこの頃の猿之助は、ちょうど現在の海老蔵(41才)と同じくらいの年齢に当たります。歌舞伎を熱心に見始めた時期の吉之助にはとても新鮮で、随分熱心に見たものです。あの頃の猿之助はとにかく熱かった。サービス精神満点でしたねえ。四六時中舞台に出て・飛んで・跳ねて・早変わりして・走り回って、骨折してもギプスを付けて舞台に出てました。吉之助も「猿之助は今度はどんなものを見せてくれるだろう」とワクワクして次の舞台を待ったものです。ただし吉之助は仕事が忙しくなって歌舞伎を見る回数が減って来たこともあって、次第に猿之助歌舞伎から距離を置くことになりました。その経緯については別稿「いわゆる歌舞伎らしさについて」のなかでちょっと触れました。

今回(令和元年 7月歌舞伎座)の「海老蔵十三役早替わり・宙乗り相勤め申し候」と云う、「義経千本桜」の早替わり簡略版・「星合世十三團」の舞台を見ながら、猿之助歌舞伎のことを思い出したのです。そう云えば海老蔵は「伊達の十役」や「四の切」では猿之助の指導を仰いでいます。その経験を通して海老蔵にはあの頃の猿之助の生き方に熱く共鳴するところがあるのでしょう。「星合世十三團」で海老蔵はあの頃の猿之助歌舞伎の再現を目指しているようです。

ところで冒頭に記した通り、吉之助はかつて猿之助歌舞伎に入れ込み・やがて離れて行った人間であるので、猿之助歌舞伎の良いところも・悪いところも重々承知しているつもりです。そういう批評家が書くことだとお分かりの上でお読みいただきたいですが、ちょっとキツイことを書かねばなりません。今回(令和元年7月歌舞伎座)の「星合世十三團」は、最新の映像技術を取り入れた新味もありますが、全体の印象として猿之助歌舞伎として見た場合に、あまり出来が良い部類とは思われませんねえ。初めてご覧になった若い方には海老蔵の奮闘に感激なさる方が当然いらっしゃることと思いますが、吉之助にとってこれは四十年前に猿之助が既に試みたことです。と云うよりも四十年前に猿之助が実現したよりも、レベル的に低いところでそれが行われていると思います。これよりもっと面白くワクワクした猿之助歌舞伎の舞台があったことを吉之助は証言しておきます。そう考えるとあの頃の猿之助と云うのはつくづく凄い役者だったのだなあと思うのです。あの頃はそんなことを考えなかったのだけどねえ。

まずひとつの問題が脚本補綴にあります。かつて猿之助は、「猿之助歌舞伎が大事にしている3つのSがある、それはスピード・ストーリー・スペクタクルだ」と言いました。原作の「義経千本桜」をまともに上演するならば、現代の歌舞伎座では昼・夜の二部を掛けてもまともな上演はもはや不可能です。ならばダイジェスト版で簡潔に「千本桜」のエッセンスをお客様にお楽しみいただきましょうと云う着想は、まあ良しとしておきます。しかし、ストーリーを表面的にさらっただけでは、例え名作「千本桜」と云えどもまともな芝居になりません。そのドラマに見合うだけの十分な過程(時間)を経ないとドラマは動き出さないからです。

結局、ここで分かることは、「スピード・ストーリー・スペクタクル」を旨とし良い芝居を創ろうとしても、それに向く題材と向かない題材があると云うことです。その理由は明らかですが、「千本桜」は三人の主人公(知盛・いがみの権太・狐忠信)がいて・三つのドラマがあるので、これを夜の部だけで描こうとすると、それぞれのドラマが重過ぎて時間がとても足らないからです。(おまけに今回は海老蔵の十三役早替わりだから、焦点散漫になってドラマがまともに描けるはずがありません。)だから猿之助は「義経千本桜・忠信編」として、狐忠信だけの筋で作品を仕立てました。これは昭和58年(1983)10月歌舞伎座でのことでした。ひとつの作品のなかにじっくりドラマを見せる場面(山場)を大きな流れの上に作ることです。何でもかんでも面白い派手なものをテンコ盛りにして良い芝居が出来るものではないのです。この点でさすがに「伊達の十役」は良く出来た作品でした。これならば傍らに「伽羅先代萩」を置いても立派に見ていられます。

ですから「千本桜」のダイジェスト版を作るにしても、筋の刈込みと整理を正しく行うことが、猿之助歌舞伎をより良く見せるために必須のことです。猿之助との付き合いが長い石川耕士が脚本補綴に加わっているのだからその辺のコツはわきまえているはずですが、今回は海老蔵に十三役を無理繰りに割り振ろうとして四苦八苦の様子です。来年海老蔵が十三代目団十郎になるのに合わせて、最初から十三役の数字ありきだったと云うことです。しかし、このためいろんなところで無理が出て来ます。例えばいがみの権太の件で、権太に加えて小金吾と弥左衛門と維盛の三役も兼ねたらストーリーがぐちゃぐちゃになることは、舞台を見る前から分かり切ったことです。「鮓屋」の重要人物が入れ替わり立ち代わり出てきても権太と全然絡まない(全員海老蔵が演じているのだから当然そうなる)のでは、権太の悲劇が動き出すはずがありません。ただ「鮓屋」の筋をなぞって体裁を整えただけのことです。一生懸命に海老蔵が走り回っている芝居を見たという・或る種の感動はあるけれども、「ドラマ」を見たと云う感動は吉之助にはありませんねえ。まあ確かに猿之助歌舞伎にも早替わりの段取りだけに追われた芝居がありました。猿之助歌舞伎もすべてが面白かったわけではありません。

それにしても今回の海老蔵の「星合世十三團」にしても、先月 (6月歌舞伎座)の幸四郎の三谷歌舞伎「月光露針路日本」にしても、歌舞伎をもっと面白く熱くしたいという意欲から出ていることは重々理解はするけれども、役者として「ドラマ」に真っ向対峙することから逃げた感じがするのは、一体どういうことなのでしょうかねえ。こうでなければ歌舞伎に未来はないと信じているのか、それとも自分たちがやっていること(歌舞伎)に自信が持てないのであろうか。(この稿つづく)

(R1・7・14)


2)海老蔵が今やらねばならぬこと

別稿「海老蔵の伊達の十役」で、「早替り芝居で一人の役者が多くの異なる役を演じることの意味は、まったく異なる複数の人格を連関なく演じ分けるということではなく、同じ人格が見た目の表面の姿だけを色々に変化させているのであり・連関の本質はまったく変わらない」と云うことを書きました。つまりどの役も似たような感じになって、「また海老蔵が出てきたワイ」となっても、それはそれで良いわけです。早替り芝居と云うのは、そういう楽しみ方をすべき芝居だと云うことです。だから「星合世十三團」を見て海老蔵が演じる卿の君がどうの・・とか、維盛の和事がどうの・・弥左衛門がどうの・・と気になることは色々ありますが、十三役も兼ねれば役者のニンから遠い役も出てくるわけで、まあそれはそれです。今更海老蔵のニンにこの役は合うの合わぬの話をするつもりはありません。しかし、海老蔵にとって芸の芯となるべき役(つまり本役)についてはしっかり決めてもらわなければなりません。特に「義経千本桜」の三役、知盛・いがみの権太・狐忠信は、この三役を適格に演じ分けることが立役の博士論文とさえ云われるほど重い役々なのですから、他の役はともかく、この三役はしっかり決めてもらわないといけません。それが出来ていないならば、早替り簡略版とは云え、この「星合世」をやる意味自体が問われることになります。

今回(令和元年7月歌舞伎座)「千本桜」簡略版・「星合世」で海老蔵の三役、知盛・権太・狐忠信で、それが出来ていたかを問わねばなりませんが、まだまだ課題が多い舞台ですねえ。芸の道は果てしないのですから、一生掛けて追求していけば宜しいことです。ここで吉之助が問いたいのは、来年の十三代目団十郎襲名に向けての気構えです。別稿「海老蔵・令和最初の勧進帳」(令和元年5月歌舞伎座)において、「吉之助としては今見るならば「勧進帳」よりは海老蔵の将来の(団十郎襲名に向けての)気構えを占う演目が見たかった」と書きました。吉之助の希望は海老蔵が得意にしているとは云えない義太夫狂言でしたが、この「星合世」がその答えだと云うならば、これはとても落胆させるものでした。知盛・権太・狐忠信の三役は、どれも早替りの手順に追われてあまり良い出来とは申せません。特に権太は世話の表現が十分でなくてがっかりさせられました。

「観客をワクワクさせる歌舞伎を見せるためにエンタテイメントに徹した芝居作りを心掛ける」と云うのは確かに猿之助歌舞伎のコンセプトでしたが、猿之助には本役とする役、例えば「千本桜」ならば知盛・権太・狐忠信の三役は、しっかりこれを演じ分けるだけの確かな技量があったのです。昭和55年(1980)7月歌舞伎座での通し上演「義経千本桜」(これは早替り芝居ではないけれど)の三役は、素晴らしいものでした。吉之助は、あの時の鳥居前での忠信の狐六法の引っ込みや、知盛の入水、椎の木での権太の強請りの場面、蔵王堂での忠信の激しい立ち廻りなど、今でも鮮やかに思い出します。猿之助にそれだけの技量があったから早替り芝居が成り立ったわけです。それだけの技量があったから、例え多少ニンから遠い役であっても「飴のなかから猿之助」という感じで観客を幻惑させることが出来たのです。すべて技量が前提になるのです。今回の「星合世」を見ながら、芝居は一人だけで出来るものではないけれど、あの時代に猿之助歌舞伎が成立したのも猿之助という卓越した役者がいたからなのだ、他の役者がちょっと真似したくらいで出来るものではなかったんだと云うことをつくづく思わざるを得ませんでした。しかも、あの頃の猿之助は、今の海老蔵とほぼ同じ年代であったのです。

イヤ確かに海老蔵は頑張っていますよ。息が上がって倒れそうなくらい海老蔵は頑張っています。そのことを吉之助は認めますが、しかし、頑張っている方向がちょっと間違っていると思うのですねえ。頑張るとは、息もつかず走り回ることではありません。早替り簡略版「千本桜」であっても、知盛・いがみの権太・狐忠信の三役を適格に演じ分けることです。早替り簡略版でも立役の博士課程卒業論文の要旨をしっかり提示して見せることです。それならば「星合世」をやることに意味が出てくると思います。来年5月から十三代目団十郎襲名が始まります。来年になれば海老蔵ももう42歳です。団十郎という名跡は、江戸歌舞伎を代表する名跡であり、荒事はもちろんのことですが、歌舞伎の古典演目をドーンと胸で受け止めて・四つに組んで押し返す、横綱の大きさを持つのが「団十郎」というものです。だから来年の団十郎襲名に向けての気構えをここで問いたいのです。

今回の「星合世」を見ると、例えば大物浦での知盛の述懐、鮓屋幕切れの権太の述懐ともに、息があがって言葉がふにゃふにゃで明確でないのでしゃべっていることがよく聞き取れません。要するに台詞になっていないのです。そりゃあ無理もないでしょう。これほど舞台に出ずっぱりで走り回れば疲労困憊して、この状態で余裕を以て台詞をしゃべろうとしても、それは容易なことではないのです。結局芝居がおろそかになってしまいます。早替り芝居が外連(ケレン)として蔑まれたのはそこです。これは体力の問題だと思うかもしれませんが、これは長丁場を乗り切るためのペース配分、つまり芝居の段取りの問題でもあります。猿之助が改良したのはそこです。結局脚本に問題があるということになるわけですが、「星合世」の場合も早替り芝居の題材としての選択が間違っていると云うことになるのです。カットだらけの簡略版であるからこそ、なおさら知盛や権太の述懐をしっかり出来なければなりません。これが出来なければ知盛・権太のドラマを演じたことになりません。出来ないのなら芝居の段取りから変えねばなりませんが、海老蔵が十三役演じるのが前提の演し物だから、芝居の無理をすべて海老蔵一人で抱え込んでしまうことになってしまいました。まあ身から出たサビではありますが。

そもそも現状の海老蔵の最も危惧されるところが発声・台詞回しであり、海老蔵の最も不得手な分野が義太夫狂言であることは衆目の一致するところなのですから、今回の「星合世」でも海老蔵が課題にせねばならぬのは、この点であるはずです。このレベルの知盛・権太・狐忠信で満足していられては、これからの歌舞伎が困ることになります。そうこうしているうちに団十郎襲名が迫っています。ですから来年5月からの団十郎襲名に向けて・さらに襲名以降においても、自分のどんなところを改善していくべきか、どんな団十郎を目指すべきか、如何にしてそこへ到達するか、明確な指標を持っていただきたいですねえ。海老蔵は本年10月に渋谷コクーンで「オイディプス」をやるそうですが、これを聞いた時には「この大事な時にこんなことやってる場合かね」とも思いましたが、オイディプスの台詞を立て板に水でまくしたてられるようになるならば、海老蔵の歌舞伎の台詞の発声にも良い影響が期待できるかも知れません。そのような明確な指標を持ってもらいたいものです。

(R1・7・17)

(追記)海老蔵体調不良のために、7月15・16日と18日の3日間(17日は休演日)が上演中止となりました。



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