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等身大の悲劇〜十一代目海老蔵のオイディプス

令和元年10月シアターコクーン:「オイディプス」

十一代目市川海老蔵(オイディプス)、黒木瞳(イオカステ)、高橋和也(クレオン)、中村京蔵(テイレシアス)、笈田ヨシ(羊飼い)、森山未来(コロスのリーダー)他

マシュー・ダンスター(翻案・演出)


1)等身大の悲劇

シアターコクーンでの、海老蔵主演による「オイディプス」を見てきました。海老蔵の翻訳劇出演は近頃珍しいことであるし、来年5月に十三代目団十郎白猿襲名を控えてもいるので、「オイディプス」出演の話を聞いた時は「この忙しい時にこんなことをやってる場合かね」とも思いましたが、もしかしたらどでかいオイディプスが見られるかなという密かな期待を抱きつつ、渋谷の街に向かった次第です。まあそのことは置いても、なかなか興味深い「オイディプス」ではありました。

脚本はソポクレスの原作そのままではなく、演出のマシュー・ダンスターが大筋を踏襲しつつ時代を近未来に置き換えて翻案したものに拠っています。外気は放射能だか病原菌だかで汚染されているらしく、空間に何やらガスみたいな霧が漂っています。これは昨今の環境汚染や地球温暖化の問題を取り入れているのでしょう。テーバイの街は分厚い壁のシェルターで守られています。換気扇の低い機械音が絶えず響いており、これが閉塞感を醸し出します。街の外に出る人々は防護服とマスクを装着し、入り口で除染・消毒してもらってから街に入ります。装置や衣装は現代的で、原作の馬車は自動車やヘリコプターに置き換えられています。例えば主役の海老蔵のオイディプスは、パリッとしたスーツを着ています。原作での「アポロン」という言葉は使われず、「神」に置き換えられています。(ダンスターの英語脚本では「The God」となっているそうです。一神教であるキリスト教の「主」の場合は定冠詞は付きませんから、これは多神教の神です。)

このような作品の時代設定や場所を置き換えは、最近40年ほどの欧米の演劇界には流行としてあることです。オペラでも「フィガロの結婚」を現代のニューヨークに置き換えたり、「オテロ」を現代の南北世界の対立に置き換えたりする事例がたくさんあるので、吉之助にとっては驚くところは全然ありません。時代設定を置き換えれば当然齟齬(ギャップ)が生じて来ます。例えば現代では王侯貴族がいても行政者は選挙で選ばれて・宗教と政治は分離されることが多いわけです(もちろんそうでない国はあります)が、ダンスター版「オイディプス」ではそこはソポクレスそのままです。今回上演でのオイディプスは「王」とされてはいますが、カリスマとして民衆に祭り上げられた政治家なのか・独裁者なのかははっきりしません。行政の判断に神託が大きく作用しているようですが、これが無知蒙昧で非論理的な大衆心理が反映されたような印象になって来るのは、「神が死んだ」現代における宗教の微妙な立ち位置が関係しています。このように時代設定を置き換えることで、原作と大筋をさほど変えなくても、見えて来るドラマの様相が全然変わって来ます。当然そこに過不足が生じるわけですが、それも含めてすべて演出者の意図であるわけです。

ソポクレス原作のタイトルは英語では「Oedipus」ですが、邦訳では通常「オイディプス王」と訳されます。今回上演ではタイトルは原作通り「オイディプス」となっています。今回上演では時代設定が近未来になっているので、「父を殺し、母を娶る」と云うオイディプスの、世界を体現した指導者としての悲劇が等身大に見えて来ます。つまり、個人的な悲劇になって小さく見えて来る、と云って悪ければ、誰にでも起こり得る身近な悲劇に見えてくるのです。タイトルを「オイディプス王」ではなく「オイディプス」としたのは、この演出意図の反映だと思います。

海老蔵が演じるオイディプスはスーツ姿が決まって、なかなかカッコいい。当然ですが、見た目の押し出しは十分です。ただし、吉之助が期待したようなどでかいオイディプスにはなっていない。しかし、それは海老蔵が悪いと云うことではなく、そう云うどでかいオイディプスは、どうやら演出のダンスターが意図したオイディプスではないらしい。まあ吉之助としてはこの点はちょっと不満でしたが、海老蔵と初対面の外国人演出家ではそれは仕方がないことかも知れませんね。(この稿つづく)

(R1・10・25)


2)オイディプスの神託の意味

オイディプス説話はギリシア神話のなかで格別に重要な扱いを受けて来たものではないそうですが、現代人にとってことさら意味深なものに思えるのは、フロイトの学説「エディプス・コンプレックス」の原話になったからだろうと思います。しかし、本稿ではそのことは置いて、歌舞伎の視点からオイディプス説話の興味深い点をちょっと考えてみたいのです。それは「父を殺し、母を娶る」というアポロンの神託が正しかったことをオイディプスが認め・彼が自分の目を潰した後に云う台詞のことです。

『アポローンだ、友よ、アポローンだ、私のこのまがまがしい苦難を成就したのは。だが誰でもない、私が哀れにもこの手で目を突いたのだ。何を見たとて目を喜ばせるものの何ひとつない私が。』(「オイディプス王」)

「それを定めたのはアポローン、だが自分の目を潰したのはこの私だ」と云うのです。これについては、よく解説本に書いてあるのは、次のようなことです。劇中で予言者テイレシアスが既にオイディプスの盲目を予言しており、彼が目を潰したこともまた、父母に対する罪と同様に神の定めによるものである、つまりオイディプスは神が定めた運命(外なる力)に従ってこれを自分の意志(内的な力)で受け止めて実行したに過ぎないと云うのです。

そういう考え方もあるのかも知れませんねえ。しかし、それだとオイディプスが神の定め通りに動く木偶人形に見えて、何だか面白くない。そこで「それを定めたのはアポローン、だが実現したのはこの私だ」と云うことをもう少し考えたいのです。

神託というのは、神が定めるものですから・これを避けようとしても必ず成就するものですが、神託にもいろいろな形式があるのです。例えば(オイディプスの父である)ライーオスに下された神託は、「子をもうけることなかれ。生まれれば、その子がお前を殺すだろう」と云うものでした。これは、つまり条件付きの神託でした。この場合、「子をもうけることなかれ」と云う警告を守れば、ライーオスは破滅を免れたはずです。それなのにこれを守らなかったから、息子(オイディプス)に殺されることになってしまいました。だから警告に従わなかったライーオスに責任があります。一方、オイディプスに対する神託は「お前は父を殺し、母を娶ることになる」と云うもので、これは無条件の神託でした。オイディプスはこれを避けるために出来るだけの努力をしました。しかし、彼が努力してもどうなるものではなく、神託は定められたものですから、オイディプスにその意思がなくても成就してしまったのです。

テイレシアスの予言は「目の見える者が光を失い、富める者が乞食となって、杖で道をまさぐりながら異国の土地を渡り歩く」と云うものですが、これも無条件の予言です。この予言は細かいことに触れず、成就する出来事だけ語っています。何かの警告は含んでいないし、例えばオイディプスが盲目になるのは、誰か他人がオイディプスの目を潰すのか、オイディプスが自身でその目を潰すのか、それとも何かの病気か事故でオイディプスは盲目になってしまうのか、そういうことにも予言では一切語っていません。と云うことは、どういう経緯でオイディプスが盲目となるかは、如何様にも描けると云うことです。そこは神々が関与する領域ではなく、人間に任されているのです。オイディプスが盲目になるという予言は確かに成就しましたが、目を潰したのはオイディプスが自分の意志で選択した行為です。そこは神の定めるところではない。そこのところは分けて考えなければならないのです。これについては、英国のギリシア神話研究家A・W・ゴムが言っている例えが分かりやすくて良いかも知れません。

『神々は未来を知ってはいるが、定めるわけではない。神々は、次回のスコットランド対イングランドのサッカー試合でどちらが勝つか知っている。だからと云って、勝敗が選手たちの技術と気力と体調と、そして幾分かはツキ次第で決まってくるという事情に、何ら変わりがあるわけではない。』(A・W・ゴム:「アリストテレスと悲劇の人間像」)

ギリシア神話の古い形では、オイディプスは「父を殺し・母を娶った」事実を知った後もそのままテーバイの支配者であり続けたそうです。晩年には盲目であったようですが、どうして盲目になったか・その経緯は分かっていないようです。また彼の死についても、自然死なのか、戦死か暗殺されたのかもはっきりしません。ソポクレスの「オイディプス王」が成立するまでにオイディプス説話の変遷があったかも知れないし、ソポクレスが創作した部分もあったかもしれませんが、説話の核心になる部分は、「お前は父を殺し、母を娶ることになる」と云う神託をオイディプスが突き付けられたというところです。ここは変えてはならない箇所で、それ以外のところはどう変えても良い・と云うと語弊がありますが、そこは創作者の判断に委ねられるわけです。

この点は人形浄瑠璃や歌舞伎が先行作を取り上げて、或る部分を生かし・自分の創意を加えて書き換えていく「本歌取り」の考え方にも似ていますねえ。別稿「時代の循環・時代の連関〜歴史の同時代性を考える」で触れましたが、本歌取りとは元歌の否定でも肯定でもなく、何を取り・何を変え・何を残したかということの元歌との連関性において・その関係を楽しむ遊戯なのです。本歌との連関性においてその改変のセンスが問われます。この点においてギリシア悲劇の作者と、人形浄瑠璃の作者とは、原作(元歌)に対するスタンスがまったく同じです。それは作者が歴史とどう対するかという問題に帰せられます。

『浄瑠璃作者が歴史の前提を書き変えて「・・たら・・れば」を入れて、芝居の筋を自由自在にいじくり回して楽しんでいると考えるなら、それは大きなお間違えです。歴史が教える大前提とは、「奢る平家は終に滅びました」ということです。それだけです。浄瑠璃作者は大胆な改変で発想を膨らませて筋を自在に展開しているように見えるかも知れませんが、守るべき約束は必ず守っています。芝居の筋はどれほど曲げられても、最終的に大前提に沿ったところへ収束していきます。結果的に「義経千本桜」は「奢る平家は久しからず・ただ春の夜の夢の如し」という「平家物語」の主題をリフレインしているのです。歴史における「平家物語」の思想を踏まえて「義経千本桜」を読まねばなりません。』(吉之助:時代の循環・時代の連関〜歴史の同時代性を考える」より)

例えば「義経千本桜」では、壇の浦で海に沈んだはずの知盛が実は生きていて、大物浦で再び義経を襲います。しかし、最後には知盛はこの世の無常を悟り・碇の綱を身体に巻きつけて海中に没します。つまり歌舞伎の知盛は再び「平家物語」の世界に返り、「奢る平家は久しからず・ただ春の夜の夢の如し」という「平家物語」の主題をリフレインするのです。これは「平家物語」の否定・パロディなのではありません。これは「平家物語」へのリスペクトそのものなのです。結末は歴史が定めたところに従っているわけですが、芝居(ドラマ)の面白さが、知盛ら登場人物の喜怒哀楽・その心情の生々しさにあることに、いささかも変わりはありません。(この稿つづく)

(R1・10・31)


3)オイディプスの偉大さ

オイディプスと神託との関係も大事なことですが、吉之助にとってはむしろ、オイディプスが真実を追求しようとして意志的に行った行為が連なって・やがて当人の破滅に至るというその展開の方に興味があります。テーバイの街に疫病が蔓延し民が苦しんでいるのを見かねて、デルポイに神託を尋ねさせたのはオイディプスでした。アポローンの答えが返ってきて、さらにラーイオス殺害の真相を追求しようとしたのもオイディプスでした。イオカステーもテイレシアスもテーバイの牧夫も、真実の全体像を把握しているわけでないにしても、このまま行けばとんでもない真実が明らかになるかもと云う慄(おのの)きを感じて、オイディプスにこれ以上の追求を押し止めようとしましたが、彼はやめませんでした。オイディプスは心の片隅に湧いた疑いを疑いのまま放置することをせず、断固として真実を明らかにしようとしました。しかし、明らかになった真実は彼にとって耐え難いものでした。

そう考えるとオイディプスが破滅に至った原因は、直接的にはアポローンのせいでも何でもないのです。「真実を明らかにせよ」などと云う神託は出されていません。オイディプスが破滅したのは、彼が何としても真実を真実を知ろうとあがいたからです。大事なことは、オイディプスが真実を知ろうとしたのは彼の人間としての弱さ故ではなく、彼自身の強さと勇気から来るものだと云うことです。或いは為政者としてのテーバイの市民に対する責任感・あるいは使命感からです。だからオイディプスは自分の意志で破滅への道を辿ったことになります。デルポイの神殿の入り口には「汝自身を知れ」という文字が刻まれていたそうです。まさにこの格言がオイディプスの悲劇のきっかけになるのです。吉之助はこれが「オイディプス王」の悲劇だと思っています。

自らの目を傷つけ・自らを追放に処する行為も、オイディプスの自発的な行為です。プラトンは著書「法律」のなかで、父親殺しを祓う清めなどあるはずがない、父を殺した者は死刑に処し死骸は埋葬せず市街の境界より外に掘り出しておくことと定めたそうで、これは当時のギリシアで実際に行われていた規定にほぼ沿ったものだそうです。ですからオイディプスが自らが犯した罪を悟った時、あのような自傷行為に走るのは理解できることで、むしろ彼は自害しなかった方が不思議なくらいです。コロスは「目を失って生きるよりはいっそこの世は去られた方がましでした」と言いますが、これに対するオイディプスの返答はこうです。

『目が見えるなら、ハーデース(冥界)へ行ってどのような目で父を見、惨めな母を見れば良いか。(中略)この人たちをまともに見られるはずだったとでも言うのか。いやいや、それどころか、耳を通して聞こえる音の泉をふさげるものなら、ためらわずに私はこの哀れな身体を閉ざし、目が見えぬばかりか、耳も何ひとつ聞こえぬようにするのだが。禍いを閉め出せば心たのしく暮らせるだろう。』(「オイディプス王」)

自殺すればあの世で両親と目を合わせざるを得ません。オイディプスが自らの目を傷つけ・自らを追放に処するのは、死んだ人にも生きている人にも目を合わせたくないと云うことです。オイディプスが偉大であるのは、(彼自身に罪があったかどうかは別にしても)彼が犯した出来事を受け入れて全面的に責任を負うとした・その態度にあります。オイディプスが「世界」そのものを背負うのです。(この点は歌舞伎の時代物の悲劇にも比せて考えることが出来ると思います。)

ところで今回(令和元年10月シアターコクーン)の「オイディプス」のことですが、作品の時代設定を置き換えて現代・あるいは近未来に持っていくことで、そこで生じる齟齬(ギャップ)が予期せぬ作品の本質に迫ると云うこともあり得ますが、大抵の場合、最初は驚くけれども、終わってみると設定のオチが上手く付かなくて、「何で時代設定を動かさなきゃならなかったのか、観客に題材を身近なものに感じさせるためだけかねえ」と思わせることが少なくないのですが、この舞台も例外ではないようです。題材を身近なものに感じさせるということは、登場人物を等身大のサイズに持っていくことでもあります。「オイディプスは自分であるかも知れないし・あなたであるかも知れない」ということです。つまり時代物から世話物の感触になっていくのです。もちろんそれもそれなりの意味があるわけですが、そうすると悲劇のスケール感は当然損なわれます。オイディプスの悲劇が等身大に見えて来て、人間としての弱さ故に彼は真実の溝のなかにはまり込んでいく、そういう風に映ってしまいます。この点を若干不満に思いますねえ。

まあこれは好みの問題であるかも知れません。マシュー・ダンスターの演出コンセプトは欧米にはよくあることですし、これ自体は悪いとは決して思いません。しかし、吉之助がこのことを気にするのは、今回主役のオイディプスを演じるのが、歌舞伎役者の海老蔵であったからです。海老蔵がオイディプスをやるならば、スケールがどでかい悲劇に仕立てられる可能性があったと思うし、そういう舞台が見たかったのです。もうひとつは、現況歌舞伎の台詞に難がないわけでない海老蔵にとって、ギリシア悲劇の台詞を淀みなくこなせるか、出来ることならばこの経験が歌舞伎の台詞に好影響を及ぼして欲しい、何しろ十三代目団十郎襲名が来年五月に迫っているのです。もう時間の余裕はそんなにないのです。そんなことを色々思いながら歌舞伎ファンは海老蔵の舞台を見るわけです。敢えてこの大事な時期に海老蔵と云う素材を起用するのならば興行側はそう云う思惑を当然持って企画をして欲しいし、演出家ともその辺を十分に事前協議すべきだと思うのですねえ。これが日本人演出家ならば「素材(役者)を十分活かせていない」と不満を書くべきところです。「海老蔵と初対面の外国人演出家では仕方がない」と書いたのはそう云うことです。歌舞伎様式を取り入れろと言っているのではありません。海老蔵の大きさを最大限に活かせていないという事です。もちろんこれはダンスターの演出コンセプトにないことです。この点において今回の舞台は、幸いそれなりの出来でそれほど落胆はしなかったけれども、心底満足は出来なかったというのが、正直なところなのです。海老蔵はどういう意図でオイディプスを引き受けたのですかねえ。(この稿つづく)

(R1・11・3)


4)海老蔵のオイディプス

海老蔵の父、故・十二代目団十郎は、台詞は独特の癖が強くてお世辞にも上手いと言えなかったですが、不思議な存在感のある役者でしたねえ。三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」の影山伯爵の舞台を思い出します。三島の精緻な台詞をこなすのは団十郎には不得手なところで、事実、幕が開いた時は「ああ、やっぱりなあ・・」という感じでした。ところが、しばらくして台詞が耳に慣れて来ると、これが異様なほどの存在感を発揮し始めるのでびっくりしてしまいます。こうなると団十郎特有の抑揚が、何だか虚無的な鉄の仮面のなかに隠された影山伯爵の強い意志を表現しているようにさえ聞こえて来るのだから摩訶不思議です。最後の場面など圧倒的な大きさで、「これはまさに歌舞伎、団十郎にしか出来ない影山伯爵だなあ」と唸ったものでした。団十郎が亡くなったのは平成25年(2013)2月のことでした。そのため残念ながら実現できませんでしたが、団十郎は同年3月ル・テアトル銀座でシェークスピアの戯曲「オセロウ」の主役を演じる予定になっていました。(イヤーゴをやる予定だったのは海老蔵で、この公演は海老蔵主演の「夏祭」に差し替えされました。)この団十郎のオセロウは是非見てみたかったですねえ。最後の自害する場面で圧倒的に大きいオセロウの愛の悲劇、歌舞伎役者にしかできないオセロウが見られただろうにと、今でもそのことを残念に思います。

実は吉之助が海老蔵に期待したのも、そのような圧倒的に大きい存在感を持つオイディプスでした。かつては為政者の仁徳が国の命運を左右するとされ、疫病の流行・地震や天候不順のような自然現象でさえ為政者に何か不徳がある故に引き起こされたものとされたものでした。吉之助は世界苦・人間苦を一身に引き受けた為政者オイディプスの圧倒的な幕切れが見たかったのです。残念ながらダンスターの演出コンセプトはそう云うものではありませんでした。但し書きを付けますが、演出コンセプトそれ自体は決して悪くないものです。しかし、素材(主役)としての海老蔵の大きさを活かしたものとは言えず、吉之助の期待には沿わないものでした。これは海老蔵と初対面の外国人演出家だから仕方ないところですが、だからこそ企画段階において演出家と十分な詰めをすべきであったとは思いますねえ。ダンスター演出での為政者オイディプスは、意図的にチープな印象に仕立てられていたようです。オイディプスはテーバイの市民たちの前で演説するのではなく、(近未来の設定ですから)テレビカメラの前でにこやかに・作り笑いをして・親しげに語りかけ、虚像の笑顔が大画面に映し出されます。ここに為政者の偽善・あるいは薄っぺらさが表れています。(これは最後にオイディプスに取って代わるクレオンも同様です。)為政者は仁徳を備えた・傑出した人物でも何でもなく、悩み苦しみもするし取り乱しもする・一箇の生身の愚かしい人間に過ぎない。まあこれは確かに近代が発見した「真実」かも知れませんが、その代わり現代演劇では古典的な悲劇は、「オイディプス王」においても・「オセロウ」においても、世界苦・人間苦を一身に引き受けた、圧倒的な大きさ・重さを失ってしまったのです。それは等身大の小ささ・軽さになってしまいました。ダンスター演出はオイディプスの最後のシーンを近未来コンセプトのなかに巧く落とし込めることが出来たであろうかと云うのは、そこはちょっと気になります。

その意味においては、持ち前の押し出しはそれなりに立派で、海老蔵はよく頑張ったと言えるかも知れません。台詞はテレビや映画で見られる日常会話の自然な発声で、恐らく隠しマイクで調整されていたので台詞は聴き取りやすく、ギリシア悲劇の台詞でもさほど破綻をきたすところはありませんでした。これが前述の為政者のチープな印象に繋がっていることは確かで、海老蔵のオイディプスは、真実を追い求めて遂に破滅に至ると云うよりは、驕りと過信ゆえ愚かしく取り乱し自ら破滅の穴に落ちるという印象がします。これはまあダンスターのコンセプトに沿うものではあるでしょう。今回の「オイディプス」は各方面からピックアップされたメンバーで、つまり悪く云えば様式がバラバラの役者の寄せ集めで、まあ隠しマイクでの自然な口調だから仕方がないですが、吉之助から見るとまあ普通のレベルで、台詞で感嘆させられる役者はいませんでした。これじゃあ台詞面で課題がまだまだ山積の海老蔵にわざわざ他流試合させる意味がないなあと思いながら舞台を見ました。これは演出家・鈴木忠志がよく言うことで、吉之助はこの言を正しいと思っていますが、「演劇というのは非日常的な空間なのだから、舞台でしゃべる台詞が日常会話の延長であって良いはずがないでしょ、それは面妖(おかし)なことなんです」と云うことです。舞台俳優はもっと演劇的に台詞をしゃべるための正しい訓練をすべきです。テレビや映画に毒され過ぎです。隠しマイクの使用が楽させちゃっているんですね。これは現状の日本の商業演劇が抱える根本的問題ではあると思います。願わくば「ギリシア悲劇への挑戦で海老蔵が台詞術で何か飛躍のヒントを掴んでくれないか」と云う淡い期待を抱きましたが、この舞台ではどうやらそれは無理そうでした。

ところで目を潰したオイディプスが二人の幼娘たちを抱きしめる場面で、リアル海老蔵の二人の子供たちが重なって来たのは、ダンスターの意図ではなかったかも知れませんが、ちょっと見る者をグッと来させるものがあったのは事実です。ただ芝居と違うところに持っていかれた気がちょっとしましたけどね。幕切れにオイディプスがテーバイの街の門から出て行く場面で、娘の一人(アンティゴネーであろう)が「お父さまア・・」と叫んで父親を追い掛けて一緒に出て行ってしまう(これは原作にはない)のにはちょっと驚きました。これは悲劇はこれで終わるのではなく(続編「コロノスのオイディプス」へ)「To be continued・・」ということでしょう。行く手に荒野が待っているのに違いありませんが、「この親娘に神の救いあれ」と思いましたよ。

*文中の台詞の訳は、岡道男訳「オイディプス王」(ギリシア悲劇全集(3)・岩波書店)に拠るもので、マシュー・ダンスターの翻案脚本とは別ものです。

(R1・11・11)



 

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