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影山伯の舞踏会

平成7年(1995)11月・新橋演舞場・「鹿鳴館」

二代目水谷八重子(影山伯爵夫人朝子)・十二代目市川団十郎(影山伯爵)
(二代目水谷八重子襲名披露公演)


1)欺瞞の舞踏会

文学座創立20周年記念公演ということで三島由紀夫の「鹿鳴館」が初演されたのは、昭和31年(1956)11月のことです。主役の影山伯爵夫人朝子を演じたのは杉村春子でした。しかし、吉之助だけのイメージではないと思いますが、「鹿鳴館」と言うと新派のお芝居という感じがします。つまり初代水谷八重子の演じる影山朝子のことです。「鹿鳴館」の朝子は初代八重子が選んだ「八重子十種」のなかにも入っている当り役でした。

吉之助は残念ながら杉村春子の舞台も・初代八重子の舞台も見ておりません。しかし、それを想像してみるに杉村春子の朝子は「死に急ごうとする息子を必死で守ろうとして・愛を解さない夫影山伯爵と鋭く対立する母親」でありましょうか。対する初代八重子の朝子は、「虚飾の世界のなかで・不毛の愛に生きる悲劇の女性」でありましょうか。この印象の違いは新劇と新派との違いから来るものです。新劇では「個人」が・新派では「宿命」が意識されるのです。

新派は着物のお芝居のイメージが強いですし、初代八重子が舞踏会の場面で黒色のロープ・デコルテで登場しますと「おお、洋装の八重子か」という驚きが観客にはあったはずです。これが「絶対に洋装をしない」と言われている影山伯爵夫人の設定にピッタリなのです。鹿鳴館の舞踏会が日本人にとって虚飾であり・偽りの祭事であったことを、初代八重子が洋装で登場することだけで観客に悟らせてしまいます。だから、やはり「鹿鳴館」は新派にふさわしいお芝居だと思います。

しかし、初代八重子のことはちょっと置いておいて、それを言うなら・そのことをもっともっと強烈に印象付けられる役者が三島の傍にいたはずだということを吉之助は思います。この人こそ「鹿鳴館」を演じるべきであったと思う役者がおりました。それはもちろん六代目歌右衛門です。

歌右衛門は「鹿鳴館」を結局演じませんでした。いや、正確に言いますと・歌右衛門は三島に朝子を演じたいと訴えたらしいのですが・三島がこれを許可しなかったということです。その代わりということで三島が歌右衛門の為に書いた新派芝居が「朝の躑躅(つつじ)」です。歌右衛門は声の通りは必ずしも良くはなかったけれども、しかし、歌右衛門の新作物に対する解釈力は群を抜いたものがありました。これほど朝子にふさわしいと思う役者はいないと思うのに・どうして三島は歌右衛門がこれを演じることを許さなかったのでありましょうか。強烈なインパクトのある「鹿鳴館」が出来上がったであろうに。このことは吉之助にとってずっと疑問でありました。


2)団十郎の影山伯爵

さて、今回取り上げるビデオは二代目水谷八重子襲名披露での「鹿鳴館」の舞台です。二代目八重子演じる朝子は、巌として岩のように動じず・冷徹な政治家である夫・影山に震えながらも必死で対抗しようとする気丈な女性を演じて好演であります。またここでは芸の寸法がぴったり納まって狂いのない・新派という劇団制のアンサンブルの良さがよく出ています。顔ぶれもそろって、素晴らしい襲名の舞台になりました。

そのなかで団十郎の演じる影山に衝撃を受けました。ちょっと形容し難いスケールの大きさを持つ影山なのです。本稿ではこのことを考えてみたいと思います。

団十郎というのはつくづく不思議な役者であると思います。正直申し上げると、団十郎の影山が舞台に登場した時はどうなるかと思いました。三島劇の台詞というのはそれでなくても言葉が多く・言葉のひとつひとつが宝石のように粒だって 発音されて・キラキラしてこないとその面白みが出てきません。こういう技巧の台詞術には、失礼ながら・団十郎は不得手なところがあるのは否めません。この舞台でも最初の印象は「ああ、やっぱりなあ・・」という感じでありました。何と言いますか、抑揚が生きた感情を以て響いてこないもどかしさがあり、何だかヌッと突っ立っているような感じだけがあります。

ところが耳が慣れてくると、この影山が異様なほどの存在を主張し始めるのです。舞台全体にのしかかってくる重圧感です。こうなると団十郎特有の抑揚が、今度は影山の虚無的な人間性・あるいはその鉄の仮面のなかに押し隠した強い意志のようなものを体現しているようにさえ聞こえてくるのだから不思議です。圧巻であるのは、影山が久雄が・朝子と政敵清原との間に生まれた子供であると知った時の・その表情です。

「(激怒を抑えて)ふむ。・・・あいつは良人の私を利用して、自分の過去を残らず救ってのけようと謀ったんだな。」

それは身体全体から炎がメラメラと噴き上がるような凄まじさでありました。これがまさに歌舞伎の演技なのです。ここで吉之助はこの「鹿鳴館」が実は影山伯爵の芝居であることを確信したのです。


3)影山伯爵の怒り

影山が久雄が・朝子と政敵清原との間に生まれた子供であると知って怒るのはなぜでしょうか。普通に考えられるのは妻に対する嫉妬、冷徹で他人というものを信じない影山にして抱く人間的感情であったという解釈でしょう。影山は朝子に対して次のように言います。

「ばかばかしいことだ。人間はあなたと清原のやうに、無条件で誓ひ合つたり信じ合つたりしてはならんのだ。ありうべからざることだ。人間の世界には本来あつてはならんことだ。」

だとすれば、これは朝子と清原に対する嫉妬であると同時に、影山にとって「ありうべからざる世界」が朝子と清原の間にあったということに対する嫉妬であるとも考えられます。これが一般的な解釈でありましょう。例えば初演時に出された尾崎宏次氏の批評を見ると次のようにあります。

「華やかな鹿鳴館時代を切り取った作者の意欲は、なかなか野心的で、セリフのかげをのぞかせる新味があるが、どうも美しく滑るかわりに切り込んでこない。これが後半の起伏に影響しているのである。」(読売新聞での批評)

この「切り込んでこない」・朝子の悲劇がいまひとつ迫ってこないというのが初演時の評者によく見られた批判であったようです。影山の怒りが朝子と清原に対する嫉妬から発すると考える 限りはそういうことになるだろうと思います。

しかし、吉之助はこの妻に対する嫉妬という解釈は影山の怒りの動機として十分でないと思うのです。吉之助は、「鹿鳴館」が悲劇であるために影山の怒りにラストシーンに照応 したもっと正当な動機・つまり時代に照応した動機が欲しいと思います。「嫉妬」という解釈が間違いだというのでもありませんが、さらに解釈を付加することで影山の怒りを正当なものにできると考えます。

団十郎の影山は身体全体から怒りの炎を噴き上げることで、吉之助にあることを考えさせてくれました。それは決して感情から発した怒りではないのです。影山は人間的な感情などというものを軽蔑している・そのようなものを露わにすることをもっとも嫌う男なのですから。そんな影山の怒りはもっと深いところから発した・「存在から発した怒り」でなくてはなりません。団十郎の怒りの表情は、吉之助にはそう見えたのです。


4)鹿鳴館という時代

まず第一に影山は朝子が影山と結婚する以前・芸妓であった時代に清原と恋愛関係にあったことを知っています。第2にその夫婦関係は冷え切っており・というより最初からずっと 互いに承知で仮面夫婦の関係であって、影山は朝子が清原のことを想い続けていることも知っています。だから、いまさら久雄が朝子と清原との間に生まれた子供であることを知ったとしても・改めて二人の強い絆を思い知らさせられたということはあったかも知れないが、それだけで影山が嫉妬することはあり得ないのです。

それではなぜ影山は怒るのでしょうか。それだけなく「たとえ私の命令で清原を殺すにしても、その間には別の感情の屈折が欲しいのだよ。久雄の悩み、久雄のためらひ、さういうものが十分あつて、その上であいつが父親を殺すのでなくては物足りんのだ」というほどに怒るのでしょうか。それはラストシーンの影山のセリフを見れば分ります。

「ごらん。好い歳をした連中が、腹のなかでは莫迦々々しさを噛みしめながら、だんだん踊つてこちらへやって来る。鹿鳴館。こういう欺瞞が日本人をだんだん賢くして行くんだからな。(中略)隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。(中略)だが私は一生こいつを踊りつづけるつもりだよ。」

影山は騙すのは自分の役割だと思っている人物なのです。好意的に考えれば・そういう役割は自分だけで沢山だと思っているのかも知れません。とにかく偽善と欺瞞を自分の役割と任じ(あるいは自分に強いて)・その他の感情を押し殺している人物です。だから朝子との仮面夫婦関係にも耐えられるのです。ところが大胆不敵にもその影山を騙そうと謀った人物がおりました。それが朝子なのです。事もあろうに朝子は久雄が自分の子供であることを影山に隠し、「良人を利用して、自分の過去を残らず救ってのけようと謀った」のです。騙すことに徹している人物を逆に騙そうとしたのです。これほどの裏切りはない。このことこそ影山の怒りの根源です。嫉妬などということはその口実に過ぎません。

一体、鹿鳴館時代とは日本にとって何だったのでしょうか。日本人が似合わない西洋の衣装を着て慣れないワルツをぎこちなく踊り・一生懸命に黄色い肌をいかにも白い肌であるかのように振舞って・仲間に入れてもらおうと西洋人のご機嫌を取ることの偽善・欺瞞・みっともなさ。しかし、それはそうしなければ列強の餌食にされてしまうという危機感のなせるものでもあって、その偽善・欺瞞を承知のうえでそれをあえて推し進めた指導者がいたのです。影山もそうした指導者のひとりです。

それでは、鹿鳴館に代表されるような急激な欧化政策・そのような偽善・欺瞞を押し付けられた明治の民衆は被害者であったのでしょうか。それは分りません。そうであったかも知れないし、そうでなかったかも知れません。とりあえず朝子のことを考えてみます。朝子は被害者のような顔をしていますが、朝子もまた影山同様に偽善者であったのです。清原を愛しながら、どういう理由か分らないが影山と結婚し・清原との間に生まれた子供を捨て、冷え切った夫婦関係ではあるがいい暮らしは享受していたわけです。だからこの夫婦は似た者夫婦なのです。舞踏会の第4幕は似た者夫婦が互いに仕掛けた欺瞞の謀みが火花を放ち・破局を迎える悲劇なのです。

だから、この芝居において影山は勝ち・朝子が負けて悲劇に終るのだと考える限り「鹿鳴館」は完全に理解されないでありましょう。確かに影山はゲームには勝ったのかも知れませんが、影山の存在自体が最初から悲劇なのです。この人物が凄いのは、そのことを承知していて自ら悲劇たらんとしていることです。団十郎の影山はそのように見えました。三島の「朱雀家の滅亡」(昭和42年・1967)の終結部を思い出します。

(瑠璃子)「滅びなさい。滅びなさい。今すぐにこの場で滅びておしまいなさい。」(経隆)「(ゆっくりと顔をあげ、瑠璃子を凝視する。間。)どうして私が滅びることができる。とうのむかしに滅んでいる私が。」

とうの昔から自ら悲劇と化している影山が破滅することなどあり得ないのです。

「政治家ならこの菊の花をこんなふうに理解する。こいつは庭師の憎悪が花開いたものなんだ。乏しい給金に対する庭師の不満、ひいては主人の私に対する憎悪、さういふ御本人にも気づかれない憎悪が、一念凝ってこの見事な菊に移されて咲いたわけさ。花作りといふも のにはみんな復讐の匂ひがする。絵描きとか文士とか、芸術というものはみんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた大輪の菊なのさ。」

この影山の台詞は政治家のものとは思われないほどに詩的です。アイロニカルではあるが、とても詩的です。もちろんこれは三島自身の美的心情の吐露でもあります。影山と三島は重なっています。もしかしたら鹿鳴館は影山の憎悪の産物なのかも知れません。三島は鹿鳴館という時代を借りて・実は戦後の昭和の偽善を糾しているのかも知れません。


5)歌右衛門の「鹿鳴館」

話が壮大になり過ぎたかも知れません。話を歌右衛門のことに戻します。吉之助は三島が歌右衛門に「鹿鳴館」を演じるのを許さなかったのは、恋人に対するちょっとした意地悪みたいなものだろうと単純に考えていました。あなたは僕の大事な恋人、だから僕の考えている美しいお姫様だけ演じていればいいんだよというような。しかし、今考えてみると・どうもそうではなかったようです。

歌右衛門ならば時代に強制され・虚偽と欺瞞のなかに生きなければならなかった女性の悲劇を完璧に演じきったでしょう。それは虚構のなかで写実を演じなければならなかった「女形の哀しみ」にも重なります。朝子の良人影山に対する戦いは、まさに歌右衛門の時代への戦いそのものではありませんか。歌右衛門は「鹿鳴館」を完全に朝子だけの悲劇一色に塗り変えてしまうことのできる強烈な個性を持った女形なのです。

しかし、そのような「鹿鳴館」は三島が意図したものとは全然違うのです。朝子の悲劇のイメージが強くなればなるほど「鹿鳴館」は三島の意図したものから遠ざかるのです。なぜなら「鹿鳴館」の主題は影山伯爵が担っているからです。だから、三島はニッコリ笑って黙って・しかし毅然として自分の「鹿鳴館」から歌右衛門をそっと遠ざけたのだろうと思います。団十郎の巌(いわお)のように動かない存在感のある影山伯爵がそのことを教えてくれたのです。

(H16・9・12)





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