「歌舞伎素人講釈」連載コーナー
歌舞伎とオペラ〜新しい歌舞伎史観のためのオムニバス的考察
○歌舞伎とオペラ・その2 6:蛇足的むすび
本稿「歌舞伎とオペラ」では歌舞伎とオペラの歴史を通覧し、それらが離れた時代と場所に生まれ育ち、互いにまったく関連がないにも係わらず、似たような題材で似たような心情を描き・それゆえその表現形態は必然的に似てきて・似たような経過を辿って発展していくということを考えたわけです。これは実に不思議なことですねえ。結局、人間が考えることなど古今東西あまり変わることではないのだなあという真理にたどり着くわけです。吉之助は「歌舞伎素人講釈」で歌舞伎の解説的な記事を中心にする当初方針を4年くらい前から大きく舵を切って・音楽やオペラとの関連において歌舞伎を大胆に論じることを厭わないことに変えましたが、その必然が本稿によってある程度ご理解いただけただろうと思っています。さらに詳細に論じるなら時代を背景にした社会・思想などの分析をせねばなりませんが、各論的にはこれまでも「歌舞伎素人講釈」では行なっていることですし、これからサイトに出る記事なども参考にしていただきたいと思います。
歌舞伎とオペラの類似ということを論じた論考はこれまでも他にないわけではありません。しかし、それらは概ね女形とカストラートは似ているとか・筋が荒唐無稽なところがよく似ているとか表層的な類似を述べているものばかりです。本稿のように心情の視点から歌舞伎とオペラを対比してその表現技法の本質を論じたものは類例がないと思います。本論では歌舞伎史の一般論とまったく異なる記述が多いので・歌舞伎を専門に研究されている方には衝撃的な内容であるはずですが、既成概念に捉われずこれから歌舞伎を学んでいこうと思う若い方には刺激的で・かつ参考になるところが多いだろうと思います。著作権などという難しいことは申しませんから、どんどん勝手に取って・発展させてもらいたいと思います。最後の方に「歌舞伎素人講釈」をちょっと参考にしましたと書いてくれればそれで結構です。
本稿冒頭にも記しましたが、歴史を考える場合に一番大事なのは「時代区分」のセンスです。それは時がどこからどちらへ向かって流れていくのかの視座を示すものであり、歌舞伎史の場合ならそれは「歌舞伎はどういう演劇か」というイメージを以って初めて論じられるものです。いつぞや「象徴先生」と呼ばれた歴史家ジュール・ミシュレについて「雑談」で触れたことがありました。ある事件を取り上げるに当たり・その座標点を論じるだけではなく・座標点が持つベクトルを示すことが出来なければなりません。ヘロドトスやミシュレはそのようなエピソードを選び出すのがとても巧い歴史家でありました。例えば元禄17年2月19日山村座の舞台上で初代団十郎が刺殺された事件で重要なのは団十郎がどういう理由で殺されたかをいろいろ論じることではなくて、一番大事なのはすぐさま同年7月に息子九蔵が17歳で二代目団十郎を襲名したということにあるのです。ここに数ある歌舞伎役者の家系のなかで団十郎家が宗家という特異な位置に祀り上げられたことの秘密があります。そのことを論じなければ団十郎刺殺事件を取り上げる意味はあまりないと吉之助は思います。別の事例を挙げればアメリカのケネディ(JFK)神話はダラスでの暗殺事件にあるのではなく、その葬儀の時に亡き父の棺に向かって幼いケネディJRが敬礼した健気な姿に発するということ、そこにアメリカ的な精神のある部分の死が象徴されていたということ、ミシュレなら当然そう書くでしょうねえ。団十郎刺殺事件のことは「偉大なる男の記憶」のなかでちょっと触れましたが、当時はまだ「歌舞伎素人講釈」でフロイトを正面に据えて荒事を論じるのは躊躇したので筆を途中で止めたのですが、いずれ改めて団十郎刺殺事件を端緒にして荒事論をじっくり取り上げることにいたします。
ところで本稿「歌舞伎とオペラ」で吉之助が行なっていることは比較文化ではありません。異なった場所で生まれた異なったものはそれぞれの位置において独自性を持つのであって、それらの違いの比較に吉之助は意味を見出すことはあまりないのです。強いて言えば吉之助はこれらの作業を「統合」であると思っています。吉之助の最終的結論は「人間が考えることなど古今東西あまり変わるものではない」ということにあるのです。もしかしたら吉之助は日本人にも西洋音楽やオペラが分かるということを逆証明したいのかも知れませんねえ。まあそういうわけですから西洋人にも歌舞伎が分からないはずはありません。歌舞伎も世界無形文化遺産になったことですから、これからの時代は歌舞伎もグローバル視点で論じなければならないと思います。この「歌舞伎とオペラ」がその良い取っ掛かりになるものならば幸いです。
(H22・4・4)
○歌舞伎とオペラ・その25:音楽における演劇的要素・その4
ご存知の通りオペラでは舞台上で歌手が歌い・あるいは演技して、オーケストラは舞台と客席の間にあるオ−ケストラ・ピットと呼ばれる溝のような狭い空間で伴奏を行ないます。 最初期のオペラにおいてはオーケストラの伴奏は、歌唱にリズムを添えるか・音楽にちょっと雰囲気を加えるか厚みを加えるかという程度のもので、如何にも伴奏の域を出ないものでした。しかし、次第にオーケストラの伴奏 は心理描写の要素が加わって拡大していきます。ワーグナーが創出したライト・モティーフを駆使した自在な情景描写はその最たるもので、ワーグナーの楽劇ではオーケストラが主役の感さえあります。特にヴェルディ・ワーグナー以降のロマン派オペラにおいて人間の声による歌唱・管弦楽による言葉を伴わない伴奏は対立した構図が顕著になってきます。それは時に寄り添い・時に互いに干渉し合ったりして絡み合いながら、音楽を作っていきます。 管弦楽は言葉に現れない人物の内心を語り、時に予告し・警告し・時にはその人物の行動を操りさえします。つまり、吉之助のよく使う表現で言えば、そこに「引き裂かれた構図 」が見えるのです。オペラが引き裂かれた芸術であるというとびっくりするかも知れません。しかし、別稿「吉之助流・バロック論」を読めばお分かりの通り、ロマン派というものを古典的な様式とバロック的な様式の揺らぎとして捉えるのが吉之助の見方ですから、オペラという最もロマン的な音楽形式が引き裂かれていないはずがありません。そのようなオペラのバロック性がはっきりと現れているのが、実は「舞台上の歌手・ピットのなかのオーケストラ」という視覚的な対立構図です。
しかし、この引き裂かれたバロック的な構図は後期ロマン派オペラに至って初めて現れたものではなく、オペラ的なものの本質として1600年ごろのオペラの成立の時から元々在ったものです。この 引き裂かれた構図は映画音楽になるとさらに顕著になります。「歌舞伎とオペラ・その17」で触れた通り・昔ならオペラを書いていたであろう才能 が現代では映画音楽の作曲に従事しているわけです。オペラ的なものの本質が今日では映画音楽に受け継がれているのです。俳優の日常的な会話と演技を、背景音楽が日常以上の何ものかに変えます。 現代では背景音楽のない映画は考えられません。背景音楽は俳優の演技に対して何かの強い作用を及ぼしていることは明らかです。ですから映画では音楽と演技は概念上対立していると言えます。
以上のことを歌舞伎の義太夫狂言に当てはめてみれば、歌舞伎が引き裂かれていることは明らかです。舞台上手の床に位置する竹本(義太夫)はオケ・ピットの管弦楽です。義太夫狂言 では役者が台詞を持ち・竹本がト書きを持つのが通常ですが、しばしば両者が交錯します。クドキでは登場人物の内心を役者が叫ぶのか・竹本が歌うのか、そのどちらでもあり得 ます。だから役者と竹本は概念上明確に対立しています。義太夫狂言には引き裂かれた構図があるのです。歌舞伎が人形浄瑠璃を取り入れた時に、もしかしたら歌舞伎は生身の役者が演じて台詞をしゃべるのだから写実ということ ならば人形浄瑠璃よりこっちの方が絶対に強いと 気楽に考えたかも知れないと吉之助は想像します。確かに視覚的な面から見れば歌舞伎の強みは歴然としています。しかし、ドラマツルギーの点からみれば歌舞伎は義太夫に庇(ひさし)を借したつもりが 逆に母屋を取られたのです。(これについては前章「歌舞伎とオペラ・演劇における音楽的要素」を参照ください。)それほど に義太夫狂言における音楽(義太夫)の呪縛は強いもので、役者に音楽の間尺が意識されていなければ良い舞台は絶対に出来ません。
付け加えれば人形浄瑠璃(文楽)も床の大夫と三味線、舞台の人形(人形は語ることはしない)との構図が引き裂かれているということが言えます。文楽では台詞の部分も含めて音楽的要素をすべて床が取りますから、語り物としての音楽はそこで完結します。このことが歌舞伎と比べて文楽が古典的な佇まいを強く感じさせる要因になっています。もうひとつの先行芸能としての能のことを考えておかねばなりません。能でも謡(うたい)をうたうのはシテ・ワキ・ツレなどの登場人物と、地謡(じうたい)と呼ばれるバックコーラスに分けられるわけで、やはり能にもバロック的な引き裂かれた要素が見えるわけです。(このことは「歌舞伎とオペラ・その16」で触れた通り、グランド・オペラが歌舞伎とするならば・バロック・オペラに対応するものは能であるという吉之助の見方の証拠のひとつとなるものです。)歌舞伎が人形浄瑠璃を取り入れるという発想は、まず能の形式が先駆としてあって・その模倣(応用)であったのかも知れません。だから歌舞伎役者は人形の真似をするということにあまり抵抗を感じることなく、本来人間が演じるはずだったドラマを役者が取り戻すというような感じで人形浄瑠璃を歌舞伎に気楽に取り込んだのかも知れません。しかし、結果として歌舞伎は先行芸能が持っていたもの、すなわち能が内面に持っていたバロック的要素・人形浄瑠璃が内面に持っていたバロック的要素を、舞台上の役者・床の竹本という視覚的対立構図によって ・より明確なものにして見せたということになります。こうして歌舞伎において義太夫狂言が定着して以後、それが歌舞伎の本質となっていきます。(この稿つづく)
(H22・4・2)
○歌舞伎とオペラ・その24:音楽における演劇的要素・その3
もうひとつ歌舞伎のリズム面での特徴は「きまる」ということです。歌舞伎舞踊では三味線のチントンシャンで「きまる」場面がよく出てきます。大向うは「きまる」箇所を待ち構えて・そこで掛け声を掛けます。そうすると何となく景気が良 くて、腑に落ちた・何となく分かったような感覚になります。時代物の見得も同様で 、ツケを打って大きくきめてみせると何となく分かったような感じになる。歌舞伎はきまることを目標にしているように感じられます。これは意地悪く見ると、きまることで歌舞伎は観客に対して媚びているのです。そこには現代のテレビでお笑い芸人が流行のネタだか決め台詞をこれでもかと連発する・観客がそれを見て「そら、またやった」といって笑うというのと同じ次元のものが見えます。
ところで「きまる」という間は先行芸能である能や狂言には存在しないものだそうです。お稽古で何かの拍子で動きが定間に入ってしまうと、とても嫌がられます。「きまる」というのは、日本古来の伝統芸能では「嫌なこと」なのです。「きまる」のは本来「嫌なこと」だという認識はとても大事なことです。これは音楽的に言えば、日本音楽にもともと存在しない間・三味線の作る西洋音楽的な間(定間)にはまるということです。能のような先行芸能から見れば、それが「はしたない・嫌な」ことに見えたのです。定間は誰にでも分かり易い間ですが、能はそのよう な観客に媚びることをしないのです。(視点を変えれば能は観客への媚びを拒否したことで・時代から取り残された芸能になってしまうという見方もできるのですが、本稿ではこのことはひとまず置きます。)
逆に言えば創成期の歌舞伎はそのような先行芸能から嫌がられることを意識的にわざとしたのです。それが「きまる」ということの本来の意味でした。そこにかぶき者のラジカルな自己主張があったのです。ところが、きまることが目的化してしまうと「きまる」ということが本来持っていたラジカルな意味が次第に失われてしまいます。それは役者と観客との馴れ合いに墜ちていきます。このことは昨今のテレビのお笑い番組の荒んだ 状況を観ればよく分かると思います。「きまる」ということのラジカルな意味を保持し続けようとすれば、得意のネタは出し惜しみされねばならないのです。もちろん観客はきまることを待っているのですが、観客が待って・待ってジリジリとして来たところで最後の最後に得意のネタできめる、それを高等技術として持たねばなりません。それが出来ないお笑い芸人はすぐ消えていきます。
最近の歌舞伎を見ると「きまることが嫌なことだ」という意識が役者に余りないようですねえ。 きまることを観客へのサービスだと考えているのかも知れません。しかし、「きまることは本来嫌なことで、そういう嫌なことをわざとやることに歌舞伎のラジカルな意味がある」という意識が歌舞伎役者にあるならば、「きまる」ことを大事にして・それは芝居全体のなかでホントに効果的な所だけに最小限に限られるはずです。昔の芝居では今ほどツケや見得を多用しなかったのです。六代目菊五郎は見得をする時にたっぷりとやらず、しばしば間合いをはずすようにサッサと済ませたものでした。 もちろんそのことで菊五郎は芝居通から歌舞伎らしいたっぷりした味わいがないという批判をしばしば受けましたけれど、菊五郎はきまることの「いやらしさ」を知っていた役者 だったと思いますねえ。(この稿つづく)
(H22・3・21)
○歌舞伎とオペラ・その23:音楽における演劇的要素・その2
別稿「間について考える」でも触れましたが、日本の芸能において「間」という言葉が使われるようになったのはそれほど昔のことではありません。能は音楽の要素が強い芸能ですが、世阿弥の花伝書には「間」という言葉は出てきません。しかし、これは世阿弥の時代の能に「間」の要素が存在しなかったということではなく、拍子を「間」という概念で捉えることが中世にはなかったのです。芸の世界に「間」という言葉が登場するのは近世(江戸時代)に入ってからのことで、例えば宝暦7年(1757)に刊行された「浄瑠璃秘曲抄」には『間拍子という事、間(ま)は人の歩く如し。右の足壱尺運べば、左の足壱尺、少しも長短なし。(中略)拍子は足につれ手を振る如く、右の足進む時は左の手進み、左の足進む時は右の手進む。これ陰陽の道理なり』と述べられています。ここで言う「間拍子」は、西洋音楽でいうメトロノーム的なリズムに近いものです。このような「間」の概念が何時頃から出てきたのかは推測の域を出ませんが、吉之助の師匠である武智鉄二は外来楽器である三味線が日本音楽に導入され西洋音楽的な要素がそのなかに取り入れられて以降にできたものだと主張しています。つまり間の概念は三味線と強い関連があるとするのです。三味線登場の前と後で日本の伝統音楽は質的に大きな変化を遂げましたが、特にリズムの面においてそれが顕著であると言えます。
郡司正勝先生の著書「かぶき〜様式と伝承」では、創成期の歌舞伎(遊女歌舞伎)の舞台では三味線奏者が舞台中央に立ち・その周囲で役者たちが踊っていたこと、時代が下ると三味線は次第に舞台後方に退いていくことが述べられています。これはエレキ・ギター が出来たばかりのロカビリー流行時(1950年代)にはギタリストがもてはやされて舞台前面で演奏して観客と交流してワーキャー騒ぐ・現在ではあまりそんな光景は見ないわけですが、これと同じことなのです。歌舞伎創成期には三味線が だんぜん主役・華やかなスターであったわけです。ですから三味線の登場は現代で言えばエレキギターと同じ衝撃だったと考えるのが適当です。ですからリズムの問題がとても大事になるのです。
郡司正勝:かぶき 様式と伝承 (ちくま学芸文庫)
例えば舞踊「二人椀久」で言えば松山太夫と久兵衛のしっとりしたやり取りでは・リズムは前面に出ずゆっくりした旋律が長々とつづくので下手をすると眠たくなりますが、その後で「按摩けんぴき按摩けんぴき・さりとはひきひきひねろ」辺りから廓の賑わいが三味線の軽快なリズムで描写されると客席の方も急に活気を帯びてきます。これは早い定間のリズムが身体に心地良く・「分かったような気にさせる」ということにその理由があります。定間は誰にも理解し易いものなのです。しかし、これは逆の視点から考えてみる必要があります。すなわち久兵衛は内面から湧き出す喜びのなかで踊っているのではないということです。この軽快なリズムは久兵衛が何ものか(松山太夫の幻影)に弄ばれていることを示しているのです。機械的な揺れるリズムが久兵衛を操って・踊らせていると言うことです。そしてそのリズムを心地良く感じている観客もまた同様なのです。まあこれはディスコのリズムみたいな ものですね。(別稿「機械的なリズム」をご参照ください。)
このことを台詞の面から考えたのが別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」の論考ですが、早い定間の畳み掛けるようなリズム(基本的に二拍子のリズム)は実は江戸初期のかぶき者の気質(かぶき的心情)と密接に繫がったものです。そのリズムは江戸初期のかぶき者の「生きすぎたりや」という焦燥感・アジタートな気分を表現しています。ですから日本音楽への三味線の導入・「間」の概念の登場・ 江戸期のアジタートな気分というものは三位一体と考えるべきであると吉之助は考えています。歌舞伎の台詞のリズムを正面で論じた論考は吉之助以外にほとんどないと思いますが、このことがお分かりになれば歌舞伎の台詞を考える時にリズムの要素が如何に重要かということが理解できると思います。(この稿つづく)
(H22・3・18)
ヴェルディが「アイーダ」の有名なナンバー「清きアイーダ」をロマンツァ・「勝ちて帰れ」をシェーナとロマンツァと記したことについて前章で触れました。アリアが感情を絵画のように固定して表現するものだとすれば、シェーナはその歌のなかに迷い・葛藤などの心の揺れ動きがあって・そのなかに動的な表現があるわけです。これらをアリアと呼んだところで間違いというわけではなく・一般にはこれらもアリアと呼ぶわけですが、ヴェルディの分類は作曲者独特の強いこだわりを感じます。つまりオペラを単なる歌芝居から音楽によってドラマを語らせようとする楽劇の発想です。楽劇(Musikdrama)はワーグナーが提唱した音楽・文学・舞踊・絵画などを統合した総合芸術理論で・1850年頃のことですが、同時代のイタリアのヴェルディも彼なりの手法でオペラを歌芝居以上のものにしようと努力を続けていたのです。
ところで「トロヴァトーレ」(1853年)はヴェルディのなかで旋律の輝かしさ・伸びやかさなど素晴らしいもので最もイタリア・オペラらしい作品であると言えますが、スペインの作家グティエレスの戯曲を原作とした台本の筋の阿呆らしさをこれほど言われるオペラもありません。ジプシーの老婆アズチェーナは母親が火あぶりにされるのを見て・その火のなかに自分の子供を投げ込んで、代わりに仇である伯爵の子供をさらって・密かに育てていたというのです。その子供がこのオペラの主人公であるマンリーコですが、こんな馬鹿な話があるかと言うので・「下らない台本にこんな素晴らしい音楽をつけねばならなかった可哀想なヴェルディ!」ということが巷間よく言われるわけです。しかし、「トロヴァトーレ」の製作過程を検証すると事態はまるで逆で、ヴェルディが台本作家カンマラーノを叱咤し・時に喧嘩をしながら自分の意図する台本を書かせようと必死になっていることがよく分かります。
『実に無礼千万な物言いだとお思いでしょうが、このスペイン戯曲の新奇さと大胆さを取り上げることが不可能ならこの素材はあきらめた方が良い、と敢えて私はあなたに申し上げる次第です。(中略)アズチェーナは発狂させません!彼女は、疲労と苦痛と驚きと監視の目に疲れ果てて、きちんと話ができないのです。頭が朦朧としていますが、気が狂ってはいません。彼女が内面に抱えている、マンリーコへの愛と、母親の仇を取ろうとする思いつめた願望、このふたつの情念を、最後まで持続させる必要があるのです。マンリーコが死ぬと復讐心は大きく膨らみ、極度の興奮のなかで彼女はこう言います。「おまえは自分の弟を殺したのだ。おお母上、復讐を遂げましたぞ。」』(ヴェルディのカンマラーノ宛ての手紙・1851年4月4日付け)
そのちょっと昔ならばアズチェーナの奇矯な行動は「悪魔が取り付いた」か「気が違った」で片付けられたものです。ヴェルディの「アズチェーナは絶対に狂人ではない」とする考え方はとても新奇なものですが、これはヴェルディの深い人間分析から来るもので、同時にとても19世紀的なロマン的な感性なのです。この感性の延長線上に19世紀末ウィーンのフロイトの精神分析が生まれるのですが、本稿はそこまで触れる余裕はありません。アズチェーナのようなキャラクターはヴェルディの先輩であるベルリー二やドニゼッティならばまったくの狂人として描いたでしょう。「夢遊病の女」や「ルチア」の狂乱の場は音楽的な素晴らしさはもちろんありますが、その狂乱シーンは固定されてしまって「私は悲しいの・苦しいの」という心情は歌いますが、それ自体にドラマはありません。後輩のヴェルディはそのようなことを断固拒否するのです。そこにヴェルディの独自性があります。
別稿「隅田川の精神」で謡曲「隅田川」の演出のことで世阿弥と息子の元雅との間に意見の相違があったという「「申楽談儀」のエピソードについて触れました。最後の場面でシテの眼前に死んだ梅若丸の亡霊が現れます。元雅はここで子方を登場させる演出を採用しました。これに対し世阿弥は、作り物の塚のなかに子方がいない方が面白くなる、ここで現れるのは死んだ子供の亡霊であり幻なのだからとアドバイスをしました。しかし、元雅は「それでは自分はできない」と言いました。世阿弥は「やってみなければ分からないではないか」と元雅をたしなめたそうですが、現行の能の演出では子方を登場させる元雅の演出でやるのが普通です。
このエピソードを考えるに息子の元雅よりも世阿弥の感性の方がより近世的であると思います。もちろん元雅の解釈が悪いというのではありませんが、まあ保守的というか 具象的ですねえ。班女の前の哀しみが絵画的に見えてくるのです。これは室町時代は中世ですからそういうことになるわけです。世阿弥の考え方 は未来を先取りしてずっと前衛的だと思います。ヴェルディのアズチェーナ解釈のことを考え合わせれば、世阿弥の新しさが納得できると思います。もしかしたら世阿弥は班女の前を狂女と見なかったのかも知れません。このような世阿弥のドラマ理解の先に歌舞伎という演劇があるのです。ところで「おまえは自分の弟を殺したのだ。おお母上、復讐を遂げましたぞ。」というアズチェーナの引き裂かれた叫びと類似のものを歌舞伎に探すなら数多く挙げられますが、例えば「伽羅先代萩」の政岡を見てみます。
『コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ、其方が命捨てた故、邪智深い栄御前、取替子と思ひ違へ、己が工みを打明しは親子の者が忠心を神や仏も哀れみて鶴喜代君の御武運を守らせ給ふか。ハハハ有難や。これと言ふのも、この母が常々教へておいた事、幼な心に聞分けて手詰めになつた毒害を、よう試みてたもつたのう。オヽ出かしやつた出かしやつた、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや。』
この台詞の後に「・・・とは言ふものの可愛やなア」と母親としての政岡の嘆きの声が続きます。それならば政岡のクドキ後半が本音であって・前半は建前(封建主義の観念によって「言わされている」台詞)なのでありましょうか。まあそういう解釈もあるかも知れませんが、吉之助に言わせれば、政岡のクドキのなかのふたつの心情を対立的に固定して絵画的に見るからそのような解釈になるのです。吉之助は政岡のクドキ自体に引き裂かれたドラマが内包されていると考えます。政岡は決して錯乱しているのではありません。政岡が極度の興奮状態にあるのは確かですが、自分を失ってはいません。政岡は親子一体となって若君を命を賭けて守る義務感と、我が子千松への愛情と、このふたつを最後まで持続させることに成功し、母親は最後に「おお千松よ、私たちは仕事を成し遂げましたぞ」と高らかに叫ぶのです。ヴェルディ的な感性から見ればそうなるわけです。(別稿「引き裂かれた状況」をご参照ください。)「伽羅先代萩」のなかに西欧の19世紀的な感性と極めて似通ったものが見られるということがお分かりになるはずです。(この稿つづく)
(H22・3・7)
○歌舞伎とオペラ・その21:演劇における音楽的要素・その5
義太夫狂言では原則的に役者が台詞の部分を持ち・竹本(義太夫)がト書きの部分を持つとされますが、クドキや物語りなどクライマックスにおいては役者と竹本がしばしば交錯します。ひとりの人物の台詞が時にリアルな肉声に・時に旋律を伴った扇情的な唄声に変転します。 この場面で主人公の心情がふたつに引き裂かれていることが様式的にも視覚的にも明らかになります。
このことは何を示しているのでしょうか。本来の歌舞伎は地狂言(台詞芝居)・つまり写実に根差したものですから、役者が人形に操られるようなお芝居はホントは歌舞伎の本義に反するのです。ですから昔の役者は糸に乗る(義太夫のリズムに乗る)演技を「人形じゃあるまいし」と言ってとても嫌ったものでした。(別稿「子別れの乖離感覚」をご参照ください。)しかし、役者が糸に乗ることを全く拒否してしまうならば義太夫狂言をやることの意味は全然ありません。役者が意識的に人形の真似をする場合・それは自らを木偶に擬することですから、それは自嘲的な行為なのです。これは見掛けは人間であっても・非人間的な状況あるいはどうにもならぬ内面からの欲求の突き上げによって操られる木偶に自らを擬することを意味します。義太夫狂言の面白さは実はそこにあるので、役者はその動きをギリギリまで三味線のリズムに付くようにして・その寸前で崩す(完全な人形になることを拒否する)のです。そうでないと義太夫狂言の乖離感覚は出てきません。
ジクムント・フロイトによる無意識の発見は日常生活における我々が知覚されない内面の何ものかによって操られているということを教えてくれました。無意識の正体は十分に解明されたとは言えませんが、ある意味においてこれはとても世紀末的な観念です。つまり、「私の現在の人生は本当に自分が望んだものではない・そのことを知らせようとするかのように内面から私を突き動かそうとするものがある」という感覚です。世紀末芸術においてはそのような感覚は機械的なリズム・動きによって現れたり、直線的な描線・原色的な色彩にな って現れます。このことを念頭に入れて例えば「櫓のお七」を見れば、そこで表現されるものは身を焼かれるような恋心を抑えきれずに内面から湧き上がる情念に操られるがままの八百屋お七 の姿です。それが表現するものは乖離したアンビバレントな感覚なのです。人形浄瑠璃芝居をそのまま真似て人間が芝居をしてしまおうという発想がどれほどすっ飛んだものであったのかがよく分かると思います。つまり義太夫狂言の着想はフロイトの無意識の発見に二百年近く先駆けていることになります。
昔ある役者(あえて名前を伏す)が「義太夫狂言の竹本の詩章のこの部分をカットすれば○秒テンポ・アップできる。だって見れば分かるもの」と言う発言をしたことがありました。こういう方は竹本がただのト書き(役者の動作の説明役) だと思っていて・義太夫狂言の乖離感覚が分かっていないから、このような発言をしてしまうわけです。音曲というのはどんな形であってもそのなかに間尺(足取り)の感覚が必ずあ るのですから、それを切り刻んで正しく納まる感覚に仕立て直すことはなかなか難しいことです。義太夫狂言においては役者は義太夫の間尺に ギリギリまで合わせて行かねばなりません。そして最後にこれを裏切る。つまり最後の最後に完全な人形になることを拒否することで、義太夫狂言は人形浄瑠璃の真似事ではない 真(まこと)の人間の芝居になるのです。
(H22・2・12)
○歌舞伎とオペラ・その20:演劇における音楽的要素・その4
「アイーダ」(1871年初演)はヴェルディの最後のナンバー・オペラですが、それ以後のヴェルディは音楽に切れ目のない楽劇形式に傾斜していきます。口の悪いイタリア人は、ヴェルディは「アイーダ」を書いた後にアルプスの向こうへ行ってしまった(「ワーグナーにかぶれてしまった」という意味)などと言ったりします。ところで「アイーダ」のなかの・ラダメスが歌う「清きアイーダ」あるいはアイーダが歌う「勝ちて帰れ」などの有名なナンバーは相当なオペラ・ファンでもついついアリア(詠唱)と呼んでしまいますし・まあそれで間違いというわけでもないのですが、実はヴェルディ自身はこれをアリアとしていません。ヴェルディは楽譜に「清きアイーダ」をロマンツァ、「勝ちて帰れ」をシェーナとロマンツァと記しています。
これはとても大事なことで、アリア(詠唱)というのは本来オペラのなかで登場人物の感情を静止的に表現するものを指すのです。例えばヘンデルのバロック・オペラ「セルセ」(1738年)の「オン・ブラ・マイ・フ(懐かしい木陰)」(その昔ウイスキーのCMに使われて有名になりました)の旋律は実に美しいものですが、その歌詞は「樹木の陰で/これほど/いとしく愛すべく/心地良いものはなかった」と文句をただ繰り返すだけで、その歌のなかに登場人物の感情の揺れ動きは見られません。音楽はただ絵画的な感情描写のみに専念します。これに対してロマンツァやシェーナは音楽に感情の変化(ドラマ的要素)が加わったものを指します。ですからヴェルディがわざわざこのように指定するのは、「清きアイーダ」や「勝ちて帰れ」に主人公の心の揺れ動きや葛藤を時間的な横軸を以ってより強く表現して欲しいという作曲者の音楽的な要求があるのです。ヴェルデイはこのような定義にとても厳格でした。ここにバロック・オペラとグランド・オペラのドラマ性に対する明確な立場の違いがあるわけです。
平成20年8月歌舞伎座の「野田版・愛陀姫」(野田秀樹脚本)で、「清きアイーダ」や「勝ちて帰れ」に相当する場面で駄目助左衛門(=ラダメス)や愛陀姫(=アイーダ)の台詞の感情の揺れに呼応して周囲の人物が無言の動きで絡み、時に静止したり揺れたりして・主人公の感情を浮き彫りにする処理がされていたのには感心しました。台詞が独り歩きするのではなく動きのなかに位置付けられているのです。これは野田秀樹が天性の演劇的感性で原曲のロマンツァやシェーナの演劇的ベクトルを正しく感じ取っているからに他なりません。
歌舞伎の長台詞は基本的にどれもシェーナであって、アリアに当たるものは意外と少ないということが言えると思います。歌舞伎は演劇ですからこれは当り前のことなのですが、歌舞伎の長台詞はオペラのアリアであるという誤解が世間に強いようなのでこのことは強調しておきたいと思います。歌舞伎の長台詞はアリアのように静止した切り取られた時間として表現されるものではなく、感情の揺れ動きや葛藤が時間的な横軸を以って表現されるべきものなのです。長台詞がアリアのように感じられる数少ない例は「三人吉三」の大川端でのお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」であるかも知れません。これは七五調のリズムが速くなって・やがて極度な興奮状態(すなわちアッチェレランドのリズム)を示すこともなく、かと言って・リズムが遅くなって・やがて沈静していく状態(すなわちリタルダンドなリズム)を示すこともなく、どっちつかずに微弱な興奮と沈静の波が交互に慢性的・かつ緩慢に続くためにそのように聞こえるのです。(これについては別稿「アジタートなリズム〜黙阿弥の七五調」を参照ください。)そこに幕末の閉塞感がある のですが、黙阿弥はこの閉塞感を「厄落とし厄落とし」という舞台脇からの掛け声によって破綻させています。そのような音楽的な工夫がされているということです。いずれにせよ歌舞伎の長台詞がアリアではなくシェーナであるという事実は、歌舞伎とグランド・オペラとの対照のひとつの検討材料になるものです。(この稿つづく)
(H22・2・6)
○歌舞伎とオペラ・その19:演劇における音楽的要素・その3
歌右衛門:「女の人に近ければ近いほど、私は(歌舞伎の女形は)魅力がないと思うの。歌舞伎である以上、女の人になるべく近づこう近づこうとする演出やお化粧なら、私はしない方がいいと思うの。」
三島由紀夫:「それは女形の本来だと思うな、成駒屋さん、そういう点では武智(鉄二)さんの説と同じなんだよ。彼は「女形は外輪で歩くべきだ、男の声で言うべきだ」と極端な・センセーショナルなことを言うのだけど、根本的に間違っていないと思うんだ。女形の声というのは、男のテノールの声の魅力に近かったと思うんだ。昔、オペラで去勢した歌手がいたでしょう。 恐らく昔の女形の声というのは、それに近いような中性、いい意味での本当の美の声だったのだろうと思う。今はテノールが代行しているのです。テノールが男の声としては女の声に近いでしょう。それが性的魅力を代表しているわけです。」
(三島由紀夫・六代目中村歌右衛門:マクアイ・リレー対談・昭和33年5月・三島の発言は吉之助が多少アレンジしました。)三島が「昔の女形の声は男のテノールの声の魅力に近かった」と言うのは本当のことです。話が飛ぶようですが、大学で教鞭をとっているある外国の有名テナー(お名前を失念)がこんなことを言っていました。最近は声楽を学ぶ男子学生は誰もがテナーをやりたがり、「君の声質ならバリトンの方が合っているのじゃないか」などと言おうものなら「えっ、それなら歌うのをやめる」と言い出す奴が多くて困るんだよナと言うのです。なるほど現代ではそれほどテノールが人気なわけです。 しかし、18世紀のオペラ(つまりバロック・オペラ)ではテナーが活躍する場面はとても少なかったのです。その理由は容易に推察できます。カストラート(去勢した男性歌手)が重要なソプラノ・パートを歌う状況では、カストラートの効果を最大限に発揮させるために ・似た声質のテノールは邪魔になるからです。またカストラートの声が提示する女性のイメージに対して、その対照上男性のイメージを提示する声質はバスまたはバリトンということになる わけです。
オペラのなかでテノールが重要な役割を持つようになるのは19世紀初期、ドニゼッティやべルリー二辺りからのことでした。例えば1835年ナポリのサンカルロ歌劇場で の歌劇「ルチア」(ドニゼッティ)初演でエドガルトを創唱したのはジルベール・デュプレという名歌手ですが、ルチアがアルトゥーロとの結婚証明書に署名したのを知ってエドガルドが怒り狂って「お前は天と愛を裏切ったのだ。おお、神の怒りの手がお前たちを一掃してくれるように」と叫ぶ場面でテノールの力強い高音と強烈なアクセントに観客が熱狂して大騒ぎとなり、このエドガルドの歌唱のおかげで彼は「呪いのテノール」というニックネームを付けられたほどでした。テ ノールが脚光を浴びるようになったのはこの頃からでした。逆にこの時期にはカストラートは完全に衰退期に入っていました。 テノールの台頭とカストラートの衰退はパラレルな現象であり、これはオペラの声質のバランスに係わる問題なのです。
ここに大事なヒントがあります。男が女の役を写実に演じなければならなかったという不自然な存在である女形も、同様に歌舞伎全体のなかでのバランスの問題を背負います。つまりそれぞれの役がめいめい好き勝手なトーンで台詞を言うのではなく・芝居に統一感を与えること、これが歌舞伎で大事なことは言うまでもありませんが、女形という奇妙な 声質を持つ存在がいるから・このことがなおさら大事になるのです。そのためには歌舞伎を音楽的な感覚においてしっかりと縛る必要があ りました。人形浄瑠璃・つまり義太夫を取り入れようという発想の根本はまずそこから出てくるのです。 義太夫はひとりの男性の太夫が男も女もすべての声を使い分け・それで音曲としての統一感を生み出す男芸であるからです。声質の問題もそうですが、歌舞伎の立役の台詞の調子・あるいは身のこなしが武張った印象に仕立てられていくていくことも、女形との対照を強めるためにそうなるわけです。歌舞伎は男の衣装を着ているものは男で・女の衣装を着ていればそれは女だという約束で成り立っています。そうでないと「あの女の衣装を来ているのはあれはホントの女の役かね、それとも男が女に化けてるのかね」ということになって安心して芝居が観られなくなってしまうからです。この約束を確実に履行するために歌舞伎は、発声でも演技でも衣装でも工夫を凝らしてきました。歌舞伎の技巧というものはジェンダーの境界線を意識して引こうとするものなのです。
前項「女形とカストラート」で触れた通り、歌舞伎は女形を得て演劇様式として完成し、一方グランド・オペラは現象としてはカストラートを捨てることで進展していきます。この点が歌舞伎とオペラの表層的な相違となりますが、実はそれは両者の本質的な相違ではないのです。歌舞伎は本来地芝居であるべきものから音楽的要素によって強く縛られる演劇になっていきました。一方、オペラは歌によって点描されたドラマ(アリアや重唱・バレエなどをつなぎ合わせた音楽劇)というところから写実的要素を加えることでさらに楽劇的なものを目指す方向で発展していきます。 このことが両者を似通った状態にしているのです。これは「ドラマと音楽」・正しくは「言葉と音楽」と言うべきかも知れませんが、相反するように見えて・実は切っても切り離せないふたつの要素の葛藤として観ることが出来ます。このことにより歌舞伎とグランド・オペラのアンビバレントな(歪んだ)要素が共に強められることになります。
(H22・1・16)
○歌舞伎とオペラ・その18:演劇における音楽的要素・その2
国立劇場20周年(1986)・松竹百年(1995)のような節目のイベントになると丸本三大歌舞伎・つまり「菅原」・「千本桜」・「忠臣蔵」の一挙上演という企画がよく出ますが、郡司正勝先生がこんなことを仰っていました。
『そうすると三大歌舞伎と言われるものが、まことに歌舞伎の心棒みたいな金科玉条になってしまうのね。私はむしろあれはみな義太夫狂言だから、歌舞伎の本質から言ったら外れていると思うんですよ。それを本道に持ち出さなきゃならないということは、それだけ歌舞伎は衰弱に陥っている。基準がないからこんなところに基準を持ってきてしまうんじゃないかと・・。それじゃあこれが歌舞伎だと言える演目は何かと言えば、それは「曽我の対面」とか「暫」とか、まことに手薄いものしかないの。だから三大歌舞伎が出てくるわけ。これが一番手掛かりがはっきりしているから。つかみどころがあるから。このつかみどころがあるものすら危なくなっているかどうかということが歌舞伎を見る時の批評の問題になる。』(郡司正勝:「合評・三大名作歌舞伎」・歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評・16」・1995年)
ここで郡司先生の指摘することは、 地狂言を本義とする歌舞伎からすると義太夫狂言というものは外れるものだということ、しかし同時にそれにも係わらず歌舞伎を古典芸能として位置付けていく為に現代の歌舞伎が基準とせねばならぬのはやはり義太夫狂言 であるということです。これは矛盾でもあり、またジレンマでもある。歌舞伎研究者として郡司先生はこのことをとても正直に仰っています。義太夫狂言は歌舞伎の本義ではないと言いながら ・それをつかみどころとせねば歌舞伎ですらなくなってしまうということは、それはもう本義同然だということです。仮面をずっとかぶリ続けているうちに・仮面が顔の皮膚と同化してしまって取ろうにも取れなくなってしまった悲劇(いや喜劇か?)ということをお考えください。この場合、ご本人がどう言おうとも、他人から見ればやっぱりその仮面がその人の顔なのです。歌舞伎にとっての義太夫狂言とはそういうものです。
前項「女形とカストラート」において歌舞伎は芝居のなかに女形という不自然な存在を違和感なく位置付けるために全体の表現様式を女形に適合するように構築し直さなければならなかったということを考えました。女形芸の完成は歌舞伎における義太夫狂言の定着と時期的にほぼ並行すると考えて良いと思います。それは何故かということは考えればすぐ分かることです。義太夫というのは男芸であって、男性の太夫がひとりで男も女も描き分ける音曲だからです。これは喉の技巧で声色を使い分けているわけですが、義太夫はモノ・セックスな芸能なのです。ですから歌舞伎の女形は義太夫の技巧を借りることで、自分の声のトーンを一定に保つことができるようになったのです。これにより野郎が女性を演じるという不自然極まる女形芸はある種の安定性を以って芝居のなかに位置付けられるようになったのです。しかし、このことは本来は地狂言であった歌舞伎という演劇を音曲のなかに組み込むことになってしまいました。
義太夫は語り物であり・ドラマ性が強いものですが、もちろん音楽です。 確かに当時の人形浄瑠璃は文学性・ドラマ性において歌舞伎よりはるかに優れたものでありました。しかし、人形浄瑠璃のドラマ性だけを取り入れたかったのならば、筋だけを拝借して地狂言に仕立てればそれで良かったはずです。歌舞伎は何も音楽までまるまる借りて・役者が人形の真似までしなくても良かった はずです。歌舞伎が演劇としての独自性を貫こうとするならば、人形浄瑠璃をそっくり真似るなんてことをするでしょうか。逆に言えば、そこまでしてでも 人形浄瑠璃を丸ごと拝借せねばならない事情が歌舞伎の方にあったということです。これはもちろん女形のことです。巷間の歌舞伎史本など見ますと、歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れて・その演目のバリエーションを増やして更に進化発展したようなイメージで書かれているものも多いようですが、どうもその点の認識が甘いのじゃないでしょうかね。吉之助は、歌舞伎は人形浄瑠璃を取り入れたことで、それまでの歌舞伎とまるで違うものに変質してしまったと考えます。 もしかしたら歌舞伎は人形が演じた役を生身の役者が演じるのだから、写実ということになれば人形浄瑠璃よりこっちの方が絶対に強いという風に気楽に考えたのかも知れませんねえ。しかし、歌舞伎は義太夫に庇(ひさし)を借したつもりが 逆に母屋を取られたことになったわけです。つまり、グランド・オペラに対比されるべき歌舞伎が義太夫狂言の定着によって完成したことになります。
(H22・1・10)
○歌舞伎とオペラ・その17:演劇における音楽的要素・その1
洋の東西を問わず演劇というものは物真似に発し、写実・つまりそっくりそのままを目指すものです。しかし、現実生活では感動的なシーンでその場の空間に音楽がバーンと鳴り響く ことなどあり得ません。(頭のなかで音楽が響くということはあるかも知れませんが、それは多分映画の影響です。)ということは演劇で背景音楽を効果的に使えば確かにその感動の彫りはとても深くなりますけれども、実はそれは手法としては写実の本質から離れることなのです。この 認識はとても大事なポイントです。
映画はカメラで現実の光景をフィルムに焼付けるもので(最近はCGも入りますから状況は若干異なりますが)、映画の根本理念はいかにドラマを本物っぽく見せるかということです。 つまり映画も写実に根差しているわけですが、現在の映画はほとんど背景音楽なしで成立しないほどになっています。誰でも映画の名場面がありありと思い浮かぶ名旋律がいくつかあると思います。実は無声映画時代(1930年くらいまで)の映画音楽というものは画面に彩りを添える程度の素朴な背景音楽が多かったものでした。映画音楽が登場人物の心理によって様々なモティーフを使い分け・場面によって色を変え、戦闘シーンでは勇壮に・恐怖シーンでは不気味に・恋愛シーンでは甘く、ドラマと密着した効果的 かつ描写的な心理描写に変化していくのは30年後半頃からのことで、これはオペラからの直接的な影響なのです。 プッチー二やジョルダーノあるいはチレアあたりの十九世紀末のグランド・オペラの旋律を甘く通俗的にアレンジして・断片的に使用していけばそのまま映画音楽になるのです。
1920年頃には既にグランド・オペラの様式は時代遅れと化しており、オペラは前衛的・実験的に傾いて、大衆から次第に離れていきます。本来ならばオペラを書いていたはずの・甘く美しい旋律が書ける・しかし時代に遅れて生まれてしまった才能ある作曲家たちが、オペラ劇場のためではなく・ハリウッドのために音楽を書くようになったのです。もうひとつは第2次世界大戦で有能な音楽家がヨーロッパからアメリカへ渡り、映画産業 がその多くを受け入れたことが背景にあります。例えばウィーン生まれの作曲家エーリッヒ・コーンゴルドは23歳の若さで歌劇「死の都」(1920年)を書いてとても期待されたのですが、ナチスによる迫害 を逃れて渡米して、ハリウッドで映画音楽家に転身することになりました。コーンゴルドは1938年に映画「ロビンフッドの冒険」でアカデミー音楽賞を受賞しています。「カサブランカ」や「風とともに去りぬ」の音楽を書いたマックス・スタイナーも同様にオーストリアに生まれ・アメリカに亡命した作曲家でした。コーンゴルドやスタイナーらの影響のもとに映画における音楽の使い方が根本から変えられていきます。「ひまわり」や「ゴッド・ファーザー」・「道」などの音楽で有名なニーノ・ロータも世が世ならばオペラ作曲家になっていたはずの人かも知れません。実際ロータは1970年に「突然の訪問」というオペラを書いてもいます。ですからグランド・オペラの様式は場所を変えてハリウッド映画に受け継がれたということなのです。(このことについてさらに詳しくお知りになりたい方は岡田暁生 著:「オペラの運命」の第5章を参照ください。)
岡田暁生:オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)
逆に言えば(そういうことが映画論で論じられているのかどうか知りませんが)グランド・オペラと同様に映画というジャンルの歪んだ要素を見出すことができると思います。映画の反写実的な要素を我々はあまり意識しませんが、それはフィルムに映った映像を写実・本物そのままであるという思い込みで見るせいでして、実は映画の虚の仕掛けは巧妙かつ狡猾です。例えば映画のクローズ・アップの手法にはプルーストが指摘した世紀末感覚がそのまま通用するでしょう。そしてそれは歌舞伎の見得にも通じます。(別稿「見得〜クローズ・アップの技法」をご参照ください。)映画というのはその意味でとても20世紀的に歪んだ表現形態であると思います。(映画が同様に21世紀的な表現形態でもある続けるかどうかについては吉之助はチト懐疑的です。最近のハリウッドのCGばやりを見ていますと、映画というジャンルはもう終わりかけているように思えますがねえ。)
西欧の自然主義の舞台演劇では音楽を使用することはあっても、音楽がドラマの中核に座ることはないでしょう。音楽に頼りすぎると演劇表現が写実の本質から遊離するからです。役者の演技あるいは台詞の力を観客にピュアに味わってもらうためには音楽は邪魔になります。ですから演劇に音楽的感覚は絶対必要です(それは 時間芸術のフォルム感覚と密接に関連するからです)が、写実を標榜する演劇ならばあまり音楽に傾斜しないのが本来です。歌舞伎は「物真似狂言尽くし」に発するとしますから、本来は写実を志向するものでした。しかし、結果的には歌舞伎は音楽の要素がとても強い演劇になってしまいました。義太夫狂言のように音曲をドラマの骨格に据えたものさえあります。これはどういう意味を持つのでしょうか。それはもちろん歌舞伎というものが歪んだ演劇であることを示しているのです。歌舞伎における音楽的要素ということをもっと考えてみたいものです。
(H21・12・22)
「吉之助がグランド・オペラと近松以後の歌舞伎を対比しようという意図は分かった・それではバロック・オペラは何と対比するのか?それはお国かぶきなのか?」という 質問が出てくるかも知れません。まず誤解ないようにしておきたいのですが、吉之助はオペラが歌舞伎と似ているという「見立て」をしているわけではありません。オペラと歌舞伎が合せ鏡のように同じ発展の道程を辿るということを言うつもりもありません。カストラートと女形が異なるように、オペラと歌舞伎の相違 もたくさん挙げられます。異なった芸能が異なった要素を持つのは当然のことです。吉之助は同じ心情・気分は結果として似たような表現を取るということを申し上げているに過ぎません。
バロック・オペラと対比するならば、それはやはり能狂言であると吉之助は考えます。 能狂言は今では象徴性の高い芸能であると言われていますが、もともと猿楽の物真似に発する芸能なのですから・その本質はもちろん写実にあるのです。能狂言の写実の表現ベクトルということを考えて見る必要があります。 当時の能は現代で演じられるよりも倍くらい早いテンポで演じられ・もっと写実性が高かったと言われています。また能にもドラマ性・対話性の濃い作品があります。 安土桃山期には太閤能や切支丹能のような時事性を持った実験的な作品も出てきます。しかし、一方で能狂言は為政者の庇護を受け・式楽としての性格を強め、次第に様式に傾いていきました。なぜならば何も変えないこと・何も変わらないことが為政者のお好みであったからです。このような流れに飽き足らず・敢えて野に下り、能狂言の表現力をベースにさらに新しい写実の演劇を開拓しようとした芸能者がいたのです。そのような様々な試みのひとつとしてお国かぶきがあったわけです。そのことはお国かぶきの役者や囃子方に能狂言から流れてきた人が多く参加していたことでも明らかです。
ですから歌舞伎の始まりがお国かぶきだと決め込むことは間違いのもとで、まず能狂言から歌舞伎へ向かう写実表現の大きな流れを踏まえなければなりません。慶長8年(1603)四条河原でのかぶき踊りは突然歴史の舞台に現われたかに見えますが、実はそれ以前に文献に現われない形でいろいろな芸能の試行錯誤がされていたのです。お国かぶきもそのような新しい演劇運動の流れのひとつに過ぎません。「かぶく」という言葉は新しい演劇を総称するキーワードとして使われたものでした。「かぶき」とは当世風・粗雑で乱暴で・ラジカルでモダンという意味であり、いわゆるクラシカルと対極になる概念でした。
江戸期が安土桃山期のダイナミズムを変わらず持ち続けたのであれば、あるいは江戸幕府が言論表現自由の政権であったなら、歌舞伎は女優を伴った写実の演劇としてスクスクと成長 し続けたかも知れません。しかし、残念ながら江戸幕府は女優を禁止し、さらに同時代の事件を芝居に仕組んではならぬと定めるなど、新しい芸能に次々と弾圧の手を加えました。このことが写実の演劇の発展を大きく阻害しました。お国かぶきの流れは断ち切られました。お国かぶきはネアンデルタール人の如くに・能狂言から歌舞伎への「変容」(誤解を避けるため進化・発展という言葉は使いません)の過程において・不幸にして途切れてしまった分岐のひとつに過ぎないと吉之助は考えます。その後の歌舞伎は写実の志を決して捨てることはありませんでしたが、その写実のベクトルは捻じれた・歪んだ形を取らざるを得なかったのです。
余談ですが、バロック・オペラからグランド・オペラの流れのうえにどうしてもお国かぶきを対比させるのならば、例えば18世紀前半イギリスにおいて全盛であったヘンデルのオペラに興行的に大打撃を食らわせたというジョン・ゲイの「乞食オペラ」(1728年 ・ロンドン)でも想定してみれば面白いと思います。この試みは一発花火のような形で終わりましたが、「乞食オペラ」は後にべルトルト・ブレヒトによって改作され、クルト・ワイルの作曲で大ヒットした「三文オペラ」(1928年 ・ベルリン)となって生まれ変わることになります。ワイルは後にアメリカに渡り、ミュージカルの発展に大きな貢献をすることになるのです。
(H21・12・6)
○歌舞伎とオペラ・その15:女形とカストラート・その4
伝統というものをその大元へ遡ってみれば・その流れは一本にずっとつながってスムーズに流れていくものでなく、それはしばしば途切れ・別のところから湧き出したり・またよじれるよう に見える変転を示すことがしばしばです。例えば別稿「和事芸の多面性」で和事の変遷を取り上げましたが、 原初の初代藤十郎の和事芸は廃絶して・それは近松により人形浄瑠璃の方へ移植されましたが・それも絶え、歌舞伎の和事はもっぱら滑稽かつ弱々しさの側面から受け継がれたのです。もちろんそれは全然間違いというわけでもないですが、どちらかと言えばそれは和事の表層的な摂取であったのです。むしろ明治以後の近松再評価によって復活した「女殺油地獄」の与兵衛や「曽根崎心中」の徳兵衛の方に和事のシリアスな側面が見えます。もっとも現代での和事のイメージはナヨナヨ・ヒョロヒョロに染まっていますから現行の分類では与兵衛や徳兵衛を和事とすることはないと思いますが、実はここに先祖返り的に和事の本質が出ていると吉之助は考えます。伝統というのはこういう現われ方をしばしばします。ですから歌舞伎を想像するのに現行の舞台しか材料がないからそれで過去を推し計るしかないと考えるのでは伝統を正しく捉えることが出来ません。途絶えたり・変転したりする筋道を捉えねばならぬからです。
出雲のお国のかぶき踊り以来(一応ここから歌舞伎の歴史が始まるとしておきますが、後で触れますが実は吉之助はそう考えていない)平成の歌舞伎までの約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたわけではないのです。お国かぶきと言われるものは現在の歌舞伎と似ても似つかぬものであったと思います。例えばこういうことを考えてみたいと思います。人類の歴史は猿人からの進化の流れのうえで捉えられるわけですが、その流れを見れば・実は流れに様々な分岐があることが分かります。例えば ネアンデルタール人は旧人と呼ばれ、それは人類が進化の過程のなかで試してきた数多いバリエーションのひとつで した。しかし、ネアンデルタール人の流れの先に現在の我々は居らず・その流れは途切れてしまいました。何で途切れたのかは分かりませんが、氷河期など自然条件の激変が考えられるでしょう。現在の我々は新人と呼ばれるクロマニョン人の流れの先にあるわけです。そうした流れ の変転を踏まえて猿人から現人類への進化の過程をイメージせねばならぬわけです。歌舞伎を現在の人類に例えるとすれば、お国かぶきはネアンデルタール人みたいなものです。お国かぶきの流れの先に現在の歌舞伎はなく、その流れは途中で途切れているのです。現在の歌舞伎の流れは別のところから来ているのです。何がお国かぶきの流れをぶった斬ったのかは明らかです。それは寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止 ・つまり女優の禁止です。ですから歌舞伎という芝居の写実の本質を強引に捻じ曲げた不自然な外部からの力がそこにあったのです。歌舞伎を考える時にこの断絶・変転を無視して・その歴史を語ることは出来ないと吉之助は思います。
このように野郎が女の役を勤めるところの女方(=女形)の出現が歌舞伎の変質に決定的な作用を与えたということが吉之助の歌舞伎史観ですが、もうひとつ大事なことは このことを現行の歌舞伎の女形芸でイメージしては間違うということです。現行の歌舞伎の女形の芸ははっきり申せばオカマ芸的なのです。これは次第々々に長い時間を掛けてそういう形になってきたもので、虚飾が表皮と一体化した結果であると言えなくもないですし、そこにそうならざるを得なかった要因があったことも確かです。そのことに思いを致すことも大事なことですが、女形の成立を考える場合にはまず野郎が女の役を勤めることの不自然さから始めなければ話になりません。女形はまずは一座のなかから骨格の華奢な男性・声の調子が高めの男性が選ばれて強制的に勤めさせられたでしょう。能でも同じことがあるなどと考えてはいけません。歌舞伎は能よりもずっと写実の方に寄っている演劇なのです。面をつけるわけではなく・豪華な衣装に守られているわけでもない。動きはずっと自然で速い。台詞も能よりずっと自然である。となれば女物の着物を着て・女の髪を結ったところでその不自然さは隠せなかったでしょう。野郎歌舞伎はそのようなところから始めざるを得なかったということを想像してください。女形芸は初代富十郎の内輪歩きなどの女性を装う技術が完成し・さらに義太夫狂言により女形の声質が芝居のなかに違和感なく組み込まれることにより定着します。その誕生から見れば100年から120年くらい掛かっていることになりますが、女形芸の成立というのはそれくらいの難事であったと吉之助は想像をします。
(H21・11・29)
○歌舞伎とオペラ・その14:女形とカストラート・その3
歌舞伎の歴史についての本はたくさんありますが・疑問に思うことは、そのどれもが出雲のお国のかふき踊り以来の約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたという感じで書かれていることです。なかには現在の歌舞伎座で行なわれている歌舞伎そのままのイメージでお国歌舞伎から各時代までを読もうとしているかの如きものさえあります。例えばお嬢吉三は「女を演じる男の役者(女形)が娘の姿を騙っていて・それが男性の本性を現す性の二重の逆転」などとよく書かれますが、本当にそうでしょうか。お嬢吉三の変化の面白さは 確かに娘だと思って思って見ていたら男だったというサプライズですが、あのような役どころは趣向が行き詰まって爛熟した幕末江戸歌舞伎の産物なのです。お嬢吉三や弁天小僧のような役どころが歌舞伎の初期からあったわけではありません。(これについては別稿「源之助の弁天小僧を想像する」を参照ください。)「あそこにいる女物の着物を着ている役者はホントの女の役かね、それとも男が女に化けてる役かね」ということになると登場人物の性別が混乱して・芝居が成立しなくなるからです。だから歌舞伎は幕末まで男が女に化ける類の役どころを慎重に避けていました。役者が女物の着物を着て・女の髪を結い・顔を白く塗ってるならば、それが例え妹背山の官女みたいなゴツイ風貌であっても「あれは女だ」と思って見るのが歌舞伎の本来の約束です。歌舞伎の女形とは性の越境であるというようなことをよく書く方がいますが、実は女形は性の越境であるどころか・自分の周りに自ら境界線を引いて「ここから内側はアタイたち女方の領分よ」と言って閉じこもるものであって・まあ言ってみれば「性の引きこもり」です。(女方とは女を演じる役者のことを指し、今でも「おんながた」のことを女方と書くことがあります。)初期の女形にそのような拗ねた屈折した感性が存在することは初代あやめの芸談集「あやめ草」を読めば歴然としています。
演劇が写実を目指すなら、そこに男があり女があることは当然のことです。そのような写実の演劇を男の役者だけで目指そうとすることは大変に不自然なことですから、まずそこに約束事が必要にな ります。「女の衣装を着る者は女であることにする」ということです。もちろんこのような約束はとても不自然ですが、このような不自然な約束があってはじめて安心して自然な芝居が楽しめることになります。つまり女形の論理とは性の越境などというものではなく・まったくその逆で、境界に性のベルリンの壁を構築するようなものです。不自然な壁があるからこそ女形という存在が守られるのです。このような捻じれたプロセスを持つ演劇が歌舞伎です。だとすればどうして歌舞伎が「気色悪い歪んだ演劇」でないはずがありましょうか。
創成期の歌舞伎は女優参加によって写実の演劇を志しました。ところが、女優が禁止されたことで・歌舞伎は方向転換をせざるを得ませんでした。つまり寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止によって、創成期の歌舞伎の写実の理想は頓挫したのです。これを「歌舞伎素人講釈」では「歌舞伎の1回目の死」と位置付けています。(ちなみに「 2回目の死」とは明治36年の九代目団十郎の死です。)出雲のお国のかぶき踊り以来の約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたのではなく、実は400年の間に歌舞伎はいたるところで断絶と変質を繰り返しています。しかし、遊女歌舞伎とそれに続く若衆歌舞伎の禁止は、「かぶき」にその息の根を止めるほど劇的かつ本質的な変化をもたらしたのです。もちろん同じ「かぶき」を称しているのですから何か受け継ぐ要素があることは確かですが、それ以前とそれ以後の「かぶき」の間には地滑り的な大断層があって、それはほとんど別の演劇と言って良いほどのものです。
歌舞伎は芝居のなかに女形を違和感なく位置付けるために全体の表現様式を女形に適合するように構築し直さなければなりませんでした。これには思った以上に時間が掛かりました。女形芸の完成時期をいつ頃に見るかについては諸説あると思います。女形芸は試行錯誤を繰り返し・なかなか完成せず、そのために「かぶき」は何度か存続の危機に見舞われました。女形芸は元禄の初代あやめの時代にかなりの進展を見せましたが、芸としての本当の完成を言うならそれは初代富十郎の内輪歩きなどの技巧が生み出され・さらに義太夫狂言が歌舞伎の演目に定着した時期であろうと吉之助はイメージします。すると早くても18世紀半ばということになりますから、女優の禁止令から見れば実に100年か120年くらいは掛かっているのです。それだけの長い年月を掛けて野郎歌舞伎が完成するのです。女形のことはそれほどの難問題であったのです。能狂言でも男が女を演じていた伝統があるのだから、野郎歌舞伎で男が女を演じることなど何の支障もなかったなどと考えていたらお間違えです。ですから出雲のお国のかふき踊り以来の約400年・歌舞伎はずっと変らず一様な形で発展してきたのではなく、その歴史にはいくつかの断絶と変質の歴史があるのです。その断絶を象徴するのが女形であるということです。(詳細は「歌舞伎素人講釈を読むためのガイド〜女形」をご参照ください。)
(H21・11・20)
○歌舞伎とオペラ・その13:女形とカストラート・その2
精神分析学の分野で「女性」を取り上げることはとても難しいようで、ジークムント・フロイトは「女性が何であるかを記述することは精神分析学の仕事ではない」と書いてい ます。フロイト派であるジャック・ラカンになるともっとひどくて、ラカンのテーゼには「女は存在しない」とか「女は男の症候である」というのがあるくらいで、そのせいかフェミニストの間では「フロイト派は男性 優位主義で・女性の視点が抜け落ちている」ということで評判が甚だしく良ろしくないのです。この点はフロイトも気になっていたようで、「ナルシシズム入門」(1914) では「女性の愛情生活をこのように述べたからと言って決して私は女性を見下そうとする偏見に囚われているわけではない」と言い訳をしているくらいです。ラカンは「男性はファルスを持つ存在」であるとします。ファルスとは象徴的ペニスということ を意味しますが、つまり性別というのは象徴的にしか決定されないということです。そのような象徴界では女性は「男性ではない存在」という否定的な捉え方しかできないとラカンは言うのです。まあ男性にとって女性は永遠の謎ということですかねえ。現実には男性的な女性もいるし・女性的な男性もたくさんいるわけですから、解析はなかなか厄介です。
ところでフロイト精神分析において女性を「男性ではない存在」と定義する理論は、歌舞伎の女形にこれを適用した時に最もぴったりと当てはまると吉之助は考えています。 つまり女形は女性そのものではなく・女性を象徴するということです。まったくフロイトやラカンに歌舞伎を見せてあげたかったものだと思います。彼らはまさに自分たちの 論じてきた症例そのものを歌舞伎の舞台に見たことでしょう。ラカンならば「女形とはファルスを剥奪された存在であり、そのような女形を様式の中核に位置付ける歌舞伎という演劇には ファルスの欠如感覚がある」ことを看破したに違いありません。フロイトやラカンが歌舞伎を知らないことは仕方ないですが、ヨーロッパ演劇やオペラの歴史にかつて存在したギリシア悲劇で女性を演じた男性俳優たち・エリザベス朝英国演劇での少年俳優あるいはバロック・オペラでのカストラートについて知らないはずがないので(ギリシア悲劇やシェークスピアについては重要な論考があるのです)、彼らが精神分析の立場からこれをどう考えているかは興味あるところですが、不勉強のせいか吉之助はそういう文献を目にしたことがありません。まあそういう文献があったとしても少なくとも症例として彼らの研究の関心を強く惹くものではなかったのだろうと思います。少年俳優あるい はカストラートに歪(ひず)んだ印象をあまり持たないのは、結局、それが現代において本来あるべき女性が演じても(歌っても)まったく当たり前のようにすんなりと置き換えられてしまって様式的な齟齬を感じさせることが全然ないからです。
現代でもバロック音楽演奏でカウンター・テナー(男性)がソプラノ・パートを歌うことはありますが、芸術的・あるいは音感的な感銘の違いはあっても、それが気色悪いという感覚はほとんどないと思います。むしろ女性歌手ほど生(なま)で肉感的な感じがしないので・清らかな感じがするくらいです。ということはカウンター・テナーは女性歌手と等価で置換され得るパーツであって、それがバロック音楽の在り方自体を左右する重い位置は占めていないということです。19世紀に入ってオペラの世界からカストラートが消え去ることは、オペラが視覚的・文学的な意味でリアルさを追求する以上は当たり前の道程であったと言えます。
しかし、歌舞伎の場合はどうでしょうか。女形は歌舞伎になければならぬ存在であり・これを女優に置き換えることはもはや不可能であるという認識をここで改めて論じる必要はないと思います。「女形を女優に置き換えることが出来ない」ということは一体どういうことを意味するのでしょうか。それは歌舞伎が男が女を演じる役者に適合する様式に作り変えられ てしまった演劇であるということなのです。女形は歌舞伎の本質の一部と化しており・それは置換できないものだということです。別稿「女形の哀しみ」を参照いただきたいですが、吉之助は歌舞伎の女形は「気色悪い」と今でも思っていますが、こうしたクサ味・エグ味は慣れると癖になるというものです。吉之助にとってももちろん女形は歌舞伎の魅力のかなりの部分を占めます。ということは歌舞伎もある意味で「気色悪い歪んだ演劇」だと言うことなのです。昨今はテレビでも男だか女だかちょっと見で区別が付かない方々がよく出てきて人気であるようですし、「歌舞伎の女形は性の越境であって・宝塚の男役と同じようなものだ」ということを言う方もいっらしゃるようですから、歌舞伎の女形に気色悪さを覚える方が少なくなっているのでしょう。女装が伝統演劇の特殊技能として認知されているということでもあると思います。しかし、歌舞伎の女形と宝塚の男役と新宿のオカマさんの区別も付かぬようでは歌舞伎の探求は難しいと思いますねえ。女形論については機会を改めて考えることにしまして、ここでは歌舞伎の女形の本質を考えるにはファルスの剥奪ということを考えなければならぬということを記すにとどめます。
(H21・11・14)
○歌舞伎とオペラ・その12:女形とカストラート・その1
「歌舞伎とオペラが似ている」という事例として、オペラにはカストラートという歌舞伎の女形と同じような存在があるということがよく言われます。カストラートというのは高音(ソプラノ・パート)を維持するために・変声期前の男子を去勢したもので、もともとは教会音楽に発するものですが・次第にオペラの分野へも進出して、1650年から1750年頃にピークを迎えたとされます。史上最も有名なカストラートはファリネッリ(1705〜1785)です。カストラートの起源は定かではありませんが、もともと教会内では女性は沈黙を守らねばならず・歌を歌うことを許されなかったので高音パートを歌う必要性から生まれたとされます。19世紀に入ってからカストラートは急速に廃れ、やがて19世紀半ばにローマ教皇から人道上の理由で禁止されて終焉を迎えました。
ところで本稿「歌舞伎とオペラ」では、近松門左衛門以後の歌舞伎とモーツアルト以後のグランド・オペラを対照させることで話を進めているわけです。そうすると大きな違いに気が付くはずです。歌舞伎の女形は寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止により、やむを得ず・野郎(男性)が女性を装って演じたことによって生まれたものでした。当然のことながら女形の演技術というものはすぐに確立されたものではなく、試行錯誤と悪戦苦闘が繰り返されたものでしょう。我々が歌舞伎史の本で歌舞伎女形の始祖としてその名を知るのは初代芳澤あやめ(延宝元年・1673〜享保14年・1729)です。あやめは初代藤十郎の一座の立女形ですから、つまり近松と同時代に生きた女形です。さらに同時代には水木辰之助という名女形もいました。彼らが歌舞伎史に登場してくるまでに女優禁止令から見て実に70年 近い長い年月が経っているのです。つまり、あやめ が登場するまでの70年間の歌舞伎は女を勤める役者はあれど事実上「女形暗黒時代」であったと呼ぶべきなのです。この間の歌舞伎が表現の制約を受けて・どれほど苦しんできたかを想像してみて欲しいと思います。 これがまさに幕府の女優禁止令が意図したことだったわけです。それにしても、あやめの芸談集である「あやめ草」を読めば自分に女性と同じ生活を強いることで「身も心も女になり切ろう」とした当時の女形の苦労を偲ばせます。
「女方は楽屋にても女方といふ心を持つべし、弁当なども人の見ぬ方へ向いて用意すべし」/「女方は女房ある事を隠し、もし御内儀がと人のいふ時は顔を赤らむる心なくては勤めまらず」/「女方にて居ながら立役になったらば佳からうと言はるるは恥の恥なり」/「真の女が男には成らぬ事を合点すべし、真の女もハヤ此れでは済まぬとて男にならるべきや、その心にては女の情に疎きは筈なり」/「平生を女にて暮らざねば上手の女方とは言はれ難し」
これは言ってみれば・男の役者が身も心も女になり切るための精神論あるいは根性論みたいなものです。これは並の役者にとても真似できるものではありませんでした。女形の様式が確立されるには、その演技術がマニュアルとして並の役者でも真似できるものにまで一般化されねばなりません。あやめの時点ではまだそこまでは行っていなかった のです。女形の演技術を一般化した初代富十郎(享保4年・1719〜天明6年・1786)が芳沢あやめの三男であったこと も偶然ではなかったと思います。富十郎は父の血も滲むような修行を傍で見ながら・いろいろ感じるところがあったのだろうと想像します。富十郎は「親父は無駄な努力をしている」と感じたと思います。そこから「女になり切る」のではなく・「女らしさ」を様式的に提示することで女を演じるというコペルニクス的転換が出てくるのです。内輪歩きの技術はそこから生まれたわけです。ですから歌舞伎のなかに女形がしっかりと位置付けられた形で・歌舞伎が本格的な発展を開始するのは享保期以降であると考えて良いと思います。
一方、カストラートの全盛期は1650年ごろから1750年頃であり、それはまさにバロック・オペラの時代でありました。ただしバロック・オペラでも女性パートをカストラートが歌 わねばならないという約束があったわけではありません。カストラートを呼び寄せるためには高額の報酬を必要としました。したがって、地方でのオペラ上演では 予算上の制約で女性歌手が起用されることが多かったものでした。しかし、19世紀のグランド・オペラに分野からカストラートの姿は消え去ります。なぜかというのは簡単なことです。カストラートはリアル(写実)でないからです。オペラというのは言ってみれば「歌芝居」なのですから・写実と言ってもおのずと限界はあるのですが、それでも男女(おとこおんな)が歌うのは写実ではないというぐらいの 常識感覚はあったわけです。19世紀のロマン派音楽というのは描写性(自然にあるもの・人間の感情をリアルに描くこと)と文学性を旨とした ものであるからです。
ですから歌舞伎とオペラには大きな違いがあることが分かると思います。歌舞伎は享保期以降に女形の演技術の確立を得て、それ以後に大きく発展していきます。グランド・オペラは19世紀にカストラートを捨てて写実の 領域に踏み出し、それ以後にダイナミックな表現の可能性を得ていくということです。ですから吉之助に言わせれば女形とカストラートというのは、歌舞伎とオペラが似ていることの証拠であるどころか・むしろその逆であると言うべきなのです。幕府の規制によって歌舞伎は男女(おとこおんな)が演じるように定められていました。その制約のもとに歌舞伎は写実という概念を成立させなければなりませんでした。そこに歌舞伎の女形の特異性があると考えるべきだと思います。
(H21・11・8)
○歌舞伎とオペラ・その11:近松という時代・4
別稿「時代にいきどおる役者」において九代目団十郎のことを考えましたが、そ のなかで折口信夫の座談会「国民文学の方向」での発言を引用しました。折口は「時代に憤(いきどお)った人物」として近松の名前を挙げ、「日本の歴史を見ると思いがけない時にひょっくり立派なものが出てくる・そうしてそれっきりで終わっている・何でもかんでも寄ってたかって食いつぶしてしまう・大きなものの出た後には必ずつまらぬものが続いて出てくる ・そういうことが実に多い」というようなことを言っています。
『我々の知った人で、西鶴と近松を比べて、西鶴の方がすば抜けているように言う人が多いのですが、小説と戯曲とでは違うと思います。その人物が出来上がった上は同じことですが、近松は小説から言えば不自然なところが出てきますが、あれは戯曲の本然なのです。私はやはり近松は戯曲家としての立場のみから見なければ分からないと思います。西鶴の偉さがそれで消えるわけではない。けれども近松の素晴らしさ、その良さが、やはり近松だけで終わって、あとはもう食いつぶしにつぶされてしまっている。近松が出てきたのには、やはり順序を追って出てきたのには違いないけれども、外見的には突発的に出て、その影響が続かない。その影響が続かないで、大正になってから、ああこんないいものもあったのかと驚いたようなわけで、どうもそういうところに日本人には何か不思議な問題があるのです。』(折口信夫の座談会:「国民文学の方向」・昭和27年8月)
時代に憤(いきど)るということには自分の生きている時代に不満を持つとか・体制に批判的な態度を取るという要素も確かにありますが、それ以上に「この世に生きるということ」自体に対して憤る気持ち・この世を憂う気持ちがそこにあるのです。 「憤る」ということはそのやりきれない気持ちの矛先をぶつける明確な対象がないということです。その憤りの対象が「生そのもの」という漠としたものだからです。木谷蓬吟がその著書「近松の天皇劇」(昭和22年・淡清堂)で指摘した「 近松には徳川幕府の朝廷への度重なる干渉に対する憤懣があった」ということも表面的には言えるかも知れません。しかし、それはあくまでひとつの表れとして題材に出てくるものにしか過ぎません。まあそれは「近松の天皇劇」の書かれた昭和22年という時代を考えればそれなりに意味ある視点ですが、それだけであると近松はただの反体制作家としてしか位置付けできませんし、何より世話物作家としての近松の展開が見えてきません。近松の世話物作家としての展開の背景を考えるには「この世を憂う・この世に憤る」という視点が絶対に必要なのです。このことが現代の我々が近松の作品を新鮮であると、その後の時代のいろんな作家の作品よりも近松の作品の方がずっと新しいと感じさせる理由となっているものです。
もうひとつ考えておかねばならぬ問題は折口が言うところの「近松の素晴らしさ・その良さが近松だけで終わって・あとは食いつぶしにつぶされてしまっている」ということです。ただし折口の指摘には若干注釈を付けねばなりません。後世の江戸の戯作者たちが時代に憤る気持ちを失ったわけでは決してないのですが、その後の歌舞伎が表現手法として先鋭化した要素を失ってきたことは明らかですし、その意味で表現手法ははっきりと後退の様相を示しています。この問題を折口は指摘している わけです。このことは以後の本稿でさらに考察していきます。
江戸時代も終わりになった頃には歌舞伎でも文楽でも近松作品で上演されるものは限られており、しかも・もっぱら改作物に拠ることが多かったのです。近松の盛名はオリジナルの上演ではなく・もっぱら改作で維持されてきたとさえ言えます。初代藤十郎の和事がほぼ廃絶し・現行の歌舞伎では和事はもっぱら滑稽な三枚目的要素によって受け継がれてきたこともこれと強く関連します。(別稿「和事の多面性」を参照ください。)近松と藤十郎はお互いを語る時に切っても切れない関係にあるからです。このことは近松の憤る心情を後世の人々が真正面から 受け止められなかったことを示しています。近松が生きた時代(元禄期前後)にとても強く結びついた心情ですから、後世の人にはすんなりと理解しづらいところがあるのは当然です。これを理解しようとする場合に元禄期という時代をよく知るということも方法論としてはありますが、 そのために必要なものは実は歴史知識ではありません。大事なことは「この世に生きること」に対する時代を越えた憤りの心情をまるごと感じ取るということです。
(H21・11・1)
○歌舞伎とオペラ・その10:近松という時代・3
「曽根崎心中」(元禄16年:1703:竹本座)は近松の最初の世話物です。近松の世話物は上中下の三巻に分かれる三部形式になりますが、これは時代浄瑠璃の三段目(通常は世話場に当てる)を独立させたものだと言われています。それは結果としてその通りなのですが、近松がそうしなければならなかった必然を説明するものではありません。 その必然を巷間の演劇史は十分論じていないと思います。どうして近松は世話物に三部形式を採用したのか。この問題については近日に「近松世話物論」を予定しており・そこで詳しく検討するつもりなので、本稿では要点のみ を記します。
近松の世話物の三部形式は上演する場合は三幕になるわけですが、もとは時代物の三段目から独立したものであることからも分かる通り・実質的には一幕芝居と考えるべきなのです。ドイツの演劇評論家ペーター・ツォンディは「現代演劇論」において一幕物芝居とは「拘束された人間のドラマ」であると規定しました。またアウグスト・ストリンドべリはそのエッセイのなかで一幕物のことを「今日の人間の戯曲のための形態」と呼びました。なぜかと言えば19世紀の演劇の常識では古典悲劇はつねに多幕形式によって提示されるべきものとされていたからです。何が主人公を悲劇に追い込んで行くか・その状況に対して主人公がどういう行動を取るか・そうしたものを因果関係的に追うことで、悲劇の段取りを論理的に積み上げていく過程を取るために は多幕形式が必要で した。それまではこのような悲劇の重さに耐えるために主人公を神話や歴史上の英雄に設定するのが通例でした。庶民では悲劇の主人公にならなかったのです。ところが19世紀末に登場した一幕物では主人公は庶民となり、幕が開いた時に既に主人公は状況のなかに放り込まれて・身動きできないところにいます。一幕物の主人公は悲劇的状況は最初からそこに在り・主体的な意思決定の場は奪われているのです。つまり、一幕物とは「最初から破綻した悲劇形式」であると考えられます。
「曽根崎心中」でも冒頭の生玉社前の場でお初と徳兵衛との会話でこのふたりが差し迫った状況にあることが説明されており、悲劇はいきなり核心に入っていきます。お初と徳兵衛はどこにでもいそうな人物であり、それまでの浄瑠璃にあり得なかったキャラクターでした。19世紀末に西欧で盛んに試みられた一幕物は・オペラにおいてはピエトロ・マスカー二の「カヴァレリア・ルステカーナ(田舎の騎士道)」(1880年)が最初のものになります。本作はイタリアの片田舎のシチリアの村で起こった下層民衆の喜怒哀楽をリアルに描いたもの 。これが最初の世話物オペラ(ヴェリズモ・オペラ)です。つまり近松の世話物はヴェリズモ・オペラに約200年先行したことになります。近松が近世悲劇を確立したことはよく知られていますが、その創作ベクトルは世話物悲劇(心中物)に向かってい るのです。それは近松が時代物という形式に飽き足らず・純粋な現代劇を書きたくて仕方なかったということに他なりません。その情熱が古典悲劇の形式を内側から破綻させたのです。これが近松が時代浄瑠璃の三段目を独立させて・世話物の三部形式を確立したことの必然なのです。
(H21・10・30)
○歌舞伎とオペラ・その9:近松という時代・2
「出世景清」が何故「新(当流)浄瑠璃の始まり」とされるのかをさらに考えます。景清は「平家物語」の人物ですからもちろん歴史上の人物です。しかし、「出世景清」の阿古屋の悲劇は江戸の民衆の心情に裏打ちされた生々しいかぶき的心情のドラマ です。阿古屋が自らのアイデンティティーを強く主張する心情はそのまま江戸の民衆に我が心情としてビンビン突き刺さります。つまり江戸の民衆の心情が過去に託されて描かれているということです。前項「モーツアルトという時代」でロレンツォ・ダ・ポンテが「今の時代に在って言ってはならないことは歌えば良い」と言ったことを思い出してください。これを近松の立場に置き換える ならば次のように言い替えることができます。
『今の時代に在って表現してはならない心情は過去の出来事に託せば良い』
江戸時代においては同時代の出来事を芝居にしてはならないという厳しい制約がありました。ですから例えば元禄赤穂事件・いわゆる「忠臣蔵」も江戸時代ではなく・南北朝時代の架空の出来事としてドラマ化されてい ます。このような「世界」の設定は幕府の追及を逃れるため・お上の言うことは曲げられないから「これは架空の出来事で〜す」と言い訳するためだけの作劇上の方便であったのか。巷間の江戸演劇史を読めばまあそんな風に理解されても仕方がありません。しかし、吉之助は「世界」の設定という手法に同時代の芝居を書きたくても書けなかった戯作者たちの強い憤(いきどお)りを感じずにはいられません。「何とかしてあいつらの裏をかいて同時代の芝居を書いてやる」ということです。この強い憤りこそ戯作者たちが次々と趣向を生み出すことの原動力になった ものです。
例えば近松よりずっと後の作品である「義経千本桜」(延享4年・1747・竹本座初演)の「鮓屋」を考えます。この場の主人公はもちろんいがみの権太ですが、 時代物である「千本桜」の構造からすれば主役は義経であることは明らかで・権太は脇役に過ぎません。「鮓屋」には義経は登場しませんが、その場を支配するのは義経と・義経が背負うところの無常観です。権太は家族と自らの命を犠牲に捧げることで「許され」ます。この許しの構図は為政者のお好みに沿った古典的な構図です。しかし、同時に権太一家の悲劇は「然り・・しかし、これで良いのか」という厳しい問いを観客に突きつけ ます。為政者の犠牲になる名もない庶民の悲劇などという表面的なことを言っているのではありません。これはもっと根源的な「人間は何のために生まれ・何のために死ぬのか」という 熱い心情から発する問いです。大時代の「平家物語」の世界構図のなかに権太という市井のならず者がしゃしゃり込む理由がそこにあります。 「平家物語」の骨格を借りていながら描いているのは同時代の心情です。骨格は過去・血肉は同時代。時代浄瑠璃というものはそのような矛盾した構造を持ちます。これが「今の時代に在って表現してはならない心情は過去の出来事に託せば良い」という方法論なのです。近松の「出世景清」はこの方法論を確立した先駆的作品であり、近松の方法論がその後の浄瑠璃の時代物の土台となったわけです。
当時の劇作家にとっての本領は時代物で・時代物で声名をとってこそ劇作家でした。近松は現代ではもっぱら世話物の作家として評価されていますが、近松の120編とも150編とも言われる作品のなかでも世話物は24編にすぎません。だから時代物作家としての近松を再評価すべしという考え方もあります。それもよく分かります。しかし、吉之助はだんだんと近松は時代物という形式に飽き足らなかった・純粋な現代劇が書きたくて仕方なかったと思うようになりました。近松は純現代劇としての世話物を志向した劇作家であった・つまり結論としてやはり近松は世話物作家であったということになります。
(H21・10・18)
○歌舞伎とオペラ・その8:近松という時代・1
「出世景清」は貞享2年(1685)竹本座での初演。近松門左衛門・33歳の時の作品です。「出世景清」は「新(当流)浄瑠璃の始まり」とされ、本作を境としてそれ以前の作品を「古浄瑠璃」と区別するほどの画期的作品です。当流とは今風・つまり現在に生きる人間の感情を生々しく描くことを言います。しかし、「出世景清」は当世風俗が折り込まれているとか・曲節が面白いとかの表面的な理由で「当流浄瑠璃」と呼ばれたわけではありません。主人公が運命に人形の如く操られるように動くのではなく、自らの意志で悩み苦しみ・行動し・そして滅びる主体的なドラマを近松は「出世景清」で描こうとしたのです。
「出世景清」については別稿「その心情の強さ」において触れました。古浄瑠璃では阿古屋は「阿古王(あこおう)」の名で登場しますが、子までなした景清を密訴して利欲に走った悪女です。阿古王の行為に怒った景清が二人の子供を殺します。そのドラマは至って単純・と言って悪ければストレートと言い直しますが、怒りに任せて我が子を殺す景清に葛藤がいまひとつと思えます。それは行動を裏打ちする感情が単純だからです。古浄瑠璃「景清」ではこの場面をこう描写します。
『弟の弥若が、この由を見るよりも、あら恐しの父ごぜや、我をば許させ、給へとて、母が所へ逃げけるを、後れの髪をむんずと取り何と申すぞ弥若よ、殺す父な恨みそ、殺す父は殺さいで、助くる母が殺すぞや、同じくは兄弟共に、閻魔の庁にて父を待てというままに、心元を、一と刀、あつとばかりを最後にて、兄弟の若共を、三刀に、害しつつ刀をかしこへがらりと捨て・・』 (古浄瑠璃・「景清」)
「出世景清」では子供を殺す役が景清ではなく・阿古屋に入れ替わります。近松の描く阿古屋はプライドが高く嫉妬心が強い性格で、嫉妬に悩んだあげくに景清を密訴します。阿古屋は景清が牢に入ったと聞くや、子ども2人を連れて牢屋を訪ね許しを乞います。しかし、どれほど謝っても景清の怒りはとけず、とうとう阿古屋は景清の面前で子ども2人を殺害し自分も自害し果てます。その場面を近松はこう描きます。
『弥若驚き声を立て、いやいや我は母様の子ではなし、父上助け給へやと、牢の格子へ顔を差し入れ逃げ歩く、エエ卑怯なりと引き寄すればわっと言うて手を合わせ、許してたべ、明日からは大人しう月代も剃り申さん、灸をもすえませう、ても邪見の母様や、助けてたべ父上様と息をはかりに泣きわめく、おお道理よさりながら、殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ、あれ見よ兄も大人しう死したれば、おことや母も死なでは父への言ひ訳なし、いとしい者よよう聞けと、勧め給へば聞き入れて・・・』 (「出世景清」)
古浄瑠璃の「殺す父は殺さいで助くる母が殺すぞ」という詞章が「殺す母は殺さいで助くる父御に殺さるるぞ」に替わっていますが、これは父と母が入れ替わった趣向ということではないのです。阿古屋が密訴するについても・その裏に生々しい嫉妬と葛藤があることは事実ですが、これだけでは単純で・まだ「当流」の衝撃があるとは言えません。驚くのは景清に対して阿古屋が「あなたをこんなに愛している私」を強烈に主張することです。「だから密訴した私をあなたは許すべきなのよ・もともとあなたが悪いんだからこんなことになったのよ」と阿古屋は言うのです。阿古屋は密訴したことを悔いてはおらず、自らの行為の正しさを証明する更なる行為として我が子を殺すのです。阿古屋が自害するのも・罪を悔い死ぬ破目に追い込まれるのではなく、阿古屋は自ら選んで主体的に破滅するのです。阿古屋には何ら悔いるところがありません。これはかぶき的心情のドラマなのです。このように複雑な心情を生々しく描いたドラマは近松以前にあり得ませんでした。これが「当流ドラマ」ということの意味です。
もうひとつ付け加えれば、モーツアルトとダ・ポンテのコンビがバロック・オペラのお決まりであった許しの構図を表面上守りながら・そのなかに庶民の生きた感情を盛り込み、その完結した世界観を内側から崩すというオペラの革命を行なった如く、近松は古浄瑠璃の世界の枠組みを借り・その悲劇も父と母が入れ替わっただけの趣向に表面上は見せていますが、実は近松はその裏で驚くべき大胆なドラマを展開しているのです。このことを浄瑠璃の革命と言わずして何と言うべきでしょうか。当時の人々はそのこと をちゃんと分かっていました。だから「出世景清」を以って「新(当流)浄瑠璃の始まり」とし・それ以前の作品を「古浄瑠璃」と区別するのです。モーツアルト以前をバロック・オペラと呼び、それ以後をグランド・オペラと呼ぶのと・これはまったく同じことなのです。
(H21・10・10)
○歌舞伎とオペラ・その7:モーツアルトという時代・4
モーツアルトとダ・ポンテのコンビはバロック・オペラのお決まりである許しの構図・封建社会(絶対主義)の世界観を表面上守りながら・そのなかに庶民の生きた感情を盛り込み、その完結した世界・形式観を内側から崩して行くというオペラの革命を行なったのです。これがその後の19世紀のグランド・オペラの方法論となっていきます。その後のグランド・オペラの題材も王侯貴族が支配する封建社会を舞台としたドラマであり続けました。庶民を主人公とし・庶民の生活を 描いたドラマは後にヴェリズモ・オペラ(現実主義オペラ)が登場するまで出てきません。マスカー二の「カヴァレリア・ルステカーナ(田舎の騎士道)」(1880年)が登場するまで・オペラの題材は依然として絶対主義を引きずったものでした。ムラデン・ドラーは「グランド・オペラは形式は封建制、中身はブルジョワという矛盾を持ったものとして生まれたものであるが、オペラはその矛盾した本質を顕にするためにフランス革命まで約200年間の時間(バロック・オペラの時期)が必要であった」として、 バロック・オペラとグランド・オペラの境界上にモーツアルトを置くのです。ドラーは次のように書いています。
『なぜオペラへの愛のためになのか。ざっくばらんに言おう。オペラはそのはじまりからしてすでに死んでいたからだ。音楽芸術の死児であったからである。(中略)オペラは時代と合致したためしなどない。オペラはそもそも始めから時代遅れのものとして、音楽に内在するある種の危機を遡及的に解決するものとして、不純な芸術として捉えられているのだ。ヘーゲル流に言えば、オペラとはその概念において時代遅れなのである。だとすれば、どうしてオペラを愛さずにいられようか。』(ムラデン・ドラー:「オペラへの愛のために」〜「オペラは二度死ぬ」に所収)
ジェジェク/ドラー共著:オペラは二度死ぬ(青土社)
「形式は封建制・中身はブルジョワ」ということはグランド・オペラの本質を示すだけではなく、実は19世紀西欧社会の本質と密接につながっています。(西欧社会には現代においても日本で想像できないほど身分社会の感覚が強く残っています。)19世紀西欧社会とは台頭する市民階級(ブルジョワ)と貴族階級の混合社会です。豪華な装飾とまばゆいシャンデリア、宝飾と豪華な衣装を身にまとったご婦人方、タキシード姿の紳士たち。貴族と市民(ブルジョワ階層)が交錯する19世紀社交界の縮図を当時のオペラ劇場の桟敷席に見ることが出来ます。グランド・オペラとはそのような社会を象徴する芸術なのです。例えばプルーストの「失われた時を求めて・ゲルマントの方」に主人公がゲルマント公爵夫人のサロンやオペラ座の桟敷席に足しげく通う姿が出てきます。それはちょっと後の1880年代の頃のことで・そこに19世紀西欧社会の夕映えが詳細に描写されています。
プルースト:失われた時を求めて〈4 第3篇〉ゲルマントのほう 1
ところで、グランド・オペラと歌舞伎は同じであるということを検証するために日本史での江戸時代の位置付けも問わなければなりません。一般に日本史における江戸時代の位置付けは、鎌倉・室町と続いた武家政治の最終 段階とされています。言いかえれば封建社会の成熟期・完成期ということです。これが吉之助の世代が学校で教わった江戸時代の位置付けでした。しかし、ここ30年くらいは江戸時代は明治という近代を準備したという見方が提出されています。江戸時代をプレ近代・あるいは明確に近代 であると位置付けるのです。どちらの見方もその切り口には一理あるわけですが、江戸時代は枠組みとして封建論理で構築された社会(その意味で前時代を引きずっている)なのですが・当時に貨幣経済が進み商人階級(つまりブルジョワ階層)が台頭し突き上げる形で社会が次第に捻じれていくわけで、そこに近代資本主義への流れがはっきりと見えているのです。ですから江戸時代は19世紀西欧社会と同じような武家階層と町人階層の矛盾した要素を孕む混合社会であると見ることができます。そのような社会から生まれた芸能として歌舞伎あるいは人形浄瑠璃を見直 したいと思うのです。
そう考えればドラーが指摘するところの「形式は封建制・中身はブルジョワ」というグランド・オペラの命題が歌舞伎(吉之助が言うところの歌舞伎は野郎歌舞伎です)にそのまま当てはまることは明らかなのです。歌舞伎は封建論理(忠義や身替わり・仇討ち)などをその筋に置いてはいます。しかし、そのドラマが表出ところは実は個人の心情(これを吉之助はかぶき的心情と呼んでいます)であり、その矛盾が封建社会の世界観・形式観を内側から突き崩しているのです。これが歌舞伎あるいは人形浄瑠璃の方法論なのです。前章で触れた通り、江戸演劇にそのような方法論を与える決定的な役割を演じたのが近松門左衛門と竹本義太夫です。
(H21・9・27)
○歌舞伎とオペラ・その6:モーツアルトという時代・3
「モーツアルトという時代」というタイトルなのに・モーツアルト以後の19世紀の考察が続いていますが、モーツアルトの生きた時代がどういう未来を夢見て・その夢はどうなったかということを踏まえ、バロック・オペラとグランド・オペラというふたつの時代の狭間に立つモーツアルトの意味を考えようとしているのです。19世紀のロマン主義は「あらかじめ失われてしまったものを見出そうとするもの」で、その視線は過去に向いていました。一方、革命前夜のモーツアルトの時代は視線が未来に向いており、その先に何かしら明るいものを見ていました。モーツアルトの時代にはそういう希望がまだあったのです。
モーツアルト自身に明確な革命思想があったとは思いませんが、モーツアルトはアンシャンレジームの時代の空気を吸っており・芸術家の本能で来るべき世界の気分を感じ取って、それを無邪気と言いたいほど嬉々として音楽のなかに投入していきました。例えば「後宮からの逃走」(1782年ウィーン初演)の内容は単純な喜劇ですが、オスミンの誘惑に対してブロンデがこう言うのです。
『女の子は贈り物じゃないんだよ。私はイギリスの女で、自由の身に生まれついたのよ。それでも私を従わせようとでもいうの!』
当時はまだ革命前でしたから、こうした台詞にご婦人方は笑い転げたかも知れませんが・殿方は顔をしかめたに違いありません。 こういう不謹慎さが封建階級から疎まれて、才能がありながらモーツアルトは良い就職先に恵まれず・貧乏生活を余儀なくされて短い生涯を終えることになるわけです。「フィガロの結婚」(1786年ウィーン初演 、脚本はロレンツォ・ダ・ポンテによる)ではラジカル性がさらに顕著です。アルマヴィーヴァ伯爵は使用人フィガロの婚約者スザンナに目をつけており、当時既に形骸化していた封建領主の特権である初夜権なるものを持ち出し・スザンナをものにしようとしています。最終幕では伯爵夫人が一計を案じ・スザンナと衣装を取り替えて、夜の庭で伯爵を待ちます。するとこれをスザンナと思い込んだ伯爵が愛の言葉で口説きに掛かります。一方、フィガロは伯爵夫人の衣装を着たスザンナといちゃついています。これを見て伯爵は「不貞だ、許さん」と怒ります。周囲の者が「お許しください」と言っても伯爵は許しません。伯爵は「駄目だ」と叫びます。しかし、これはすべて伯爵夫人が仕掛けたもので した。自分の間違いを悟った伯爵は夫人の前に膝まづいて許しを乞います。「伯爵夫人よ、どうか許しておくれ」 夫人は「私は貴方より素直です。はいと申しましょう。」 周囲の者たちは事が収まったことに安心して「ああ、これでみんな満足するだろう」と歌います。
バロック・オペラの題材にギリシア神話や聖書から採ったものがとても多いことは先に触れました。バロック・オペラの特徴は「許しの構図」です。封建君主が最も好むのは「他者」が慈悲を以って許しを与えて・全員の感謝の合唱で終わるという図式でした。それが愛を持ち・寛大さを持つという支配者のイメージと重なるからです。ご注意いただきたいですが、それは支配者の立場から見て好ましいものなのであって、ここでは慈悲を示すという行為は支配者の権利として保留されているのです。つまり許す・許さないというのは支配者が判断することですから、ドラマの大枠となる世界観は支配者が保持するのです。バロック・オペラというのは、そうした封建君主の治める世界を賛美するものとしてあったのです。したがってバロック・オペラの音楽はとても美しいのですが・その旋律は完結した形式に則ったもので 静的であり、ドラマとしてはパターン化されたものが多いようです。ところが「フィガロの結婚」では「許しの構図」に逆転の発想を加えています。それは封建領主たる伯爵が夫人に膝まづいて許しを乞い・夫人がこれを許すという図式です。最後は全員の喜びの合唱で締められ・伯爵が賛美される形になってはいますが、逆転の許しの後では必然的にその意味は変らざるを得ないのです。(別稿「古典性とバロック性」を参照ください。)他愛のないラヴ・コメディのような体裁を取りながら、モーツアルトとダ・ポンテのやることは実にラジカルです。ところでダ・ポンテは次のような物凄いことを言っています。
『今の時代に在って言ってはならないことは、歌えば良い。』
つまりバロック・オペラのお決まりであった「許しの構図」を表面上は守りながら・そのなかに庶民の生きた感情を盛り込み・完結した形式を内側から崩していくというオペラの革命を行なったのが、モーツアルトとダ・ポンテのコンビなのです。ふたりの提携作品はさらに「ドン・ジョヴァン二」(1787年)・「コジ・ファン・トゥッテ」(1790年)と続きます。これら3作品(いわゆるダ・ポンテ・オペラ3部作と呼ばれるもの)こそ・その後のグランド・オペラを切り開くきっかけとなったものです。(「ドン・ジョヴァン二」については別稿「軽やかな伊右衛門」を参照ください。) 誤解ないように付け加えますと、モーツアルトとダ・ポンテは彼らのオペラのなかで封建批判を展開したわけではなく、庶民がその思いを心置きなく発露できて・伸び伸びと自由に生きられる状況を望んだまでのことです。しかし、旧体制の側から見ればそれは間違いなく不埒な考えであったことでしょう。
ところで吉之助はオペラの歴史の上に無理やり歌舞伎を乗せる意図など毛頭ありませんが、ダ・ポンテの「今の時代に在って言ってはならないことは、歌えば良い」という言葉はとても示唆的であると思います。歌舞伎(あるいは人形浄瑠璃)は江戸幕府によって同時代の出来事を題材にして芝居をすることを禁じられ、最初は仕方ないので・過去の出来事だけを取り上げて芝居をしていました。しかし、いつしか同時代の民衆の感情を過去の出来事のなかに託して熱くドラマを語るようになっていきます。表面は封建倫理・忠義を纏ったお芝居が実は 庶民の生々しい人間的感情を同時代的に表現するドラマとなったのです。バロック・オペラからグランド・オペラへの扉をこじ開けたモーツアルトとダ・ポンテのコンビのように、江戸演劇において同じような決定的な役割を演じたコンビがありました。それはもちろん近松門左衛門と竹本義太夫のことです。「出世景清」(貞享2年・1685・竹本座初演)はそれ以前のものを古浄瑠璃・これ以後を新浄瑠璃と分ける決定的な作品となりました。このことは後ほど改めて触れますが、ちょっと頭の片隅に残しておいてください。
(H21・9・14)
○歌舞伎とオペラ・その5:モーツアルトという時代・2
誤解ないように申し上げますと、吉之助にとって歌舞伎とオペラを相似的な芸術形態であることを考えるのが目的ではなく、古今東西を問わず似たような精神状況ならば一定の回路を辿って結果として似たような表現に至るということを考察するのが吉之助の目的なのです。西欧ロマン派の時代・すなわち19世紀の民衆の精神状況は次のように考察できます。民衆は産業革命を通じて利便性に満ちた明るい未来を、フランス革命を通じて自由と権利が保証された正しい社会を夢見ました。それは18世紀後半のアンシャンレジーム期においては「今は我慢の時だが・この苦難の時期を過ぎれば明るく正しい未来は必ずやって来る」という希望として意識されていました。モーツアルトはちょうどこの時期を生きたわけです。ところが産業革命とフランス革命の激動がある程度落ち着いて周囲を見回してみると、何だか状況が期待していたのと大分違うことに人々は気が付くのです。産業革命後は世の中は便利になって楽に暮らせると思っていたのに、機械的にこき使われるだけで・社会は以前よりセカセカして慌しくなったようである。 みんなが豊かになるはずが、以前より貧富の差が大きくなったような気がする。フランス革命後は民衆の権利が保証されてやりたいことが自由にできると思っていたのに、社会の締め付けは一層強くなって・相次ぐ戦争に向けて人々は国家への奉仕を強制されるばかりである。「こんなはずではなかった」というのが19世紀の民衆の気分なのです。
このような民衆の空虚感は芸術運動に過去への回帰現象を引き起こしました。典型的なものはグリム兄弟やペローらによる中世民話(童話集)・あるいはブルレンターノらによる中世民謡「少年の魔法の角笛」の採集運動です。(この民謡集については後にマーラーにより作曲がされました。これがマーラー初期の重要なモチーフとなったことはご存知の通り。)つまり我々の故郷はもっともっと遠い昔にあって・ここにはないということです。もうひとつは死や破滅・廃墟のイメージが作品のテーマとしてしばしば登場することです。実はそれは自己破壊願望というのとはちょっと性質が違うものです。ピリピリと張り詰めた神経が・もうちょっとで切れそうな、我慢に我慢をしているものが・もう少しで爆発してしまいそうな予感を孕みつつ必死で狂気に耐えているという緊張を秘め たものです。(別稿「廃墟への思い」をご参照ください。)19世紀芸術のなかでベネチアがとても大きな役割を果たすのも、ベネチアとは成長をやめて結晶化してしまった街・永遠と死が隣り合わせにある街だからです。 ベネチアに魅せられた芸術家はワーグナー・プルースト・マンなど挙げれば数知れません。(別稿「ベネチア〜人工的な自然」をご参照ください。)以上の考察を以って・別稿「生き過ぎたりや」をお読みいただければ、19世紀西欧の精神状況は、江戸初期のかぶき者の「生き過ぎたりや」の心情に質的にとても近いものであることが分かるはずです。
「いきすぎたりや廿三、八まんひけはとるまい」(「豊国大明神臨時祭図屏風」)
「廿五迄いき過ぎたりや、一兵衛」(「当代記」)江戸時代になって戦国の世が去り・実力があればのし上がって天下人にもなれる可能性がまったくなくなり、身分は固定され・新しい社会秩序が急速に出来上がっていきました。世の中は実力の時代から「法と秩序の時代」に急転換していきます。時代に乗り遅れた若者たちの絶望と自嘲の台詞が「いき過ぎたりや」なのです。「この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもう少し早く生まれるべきだった・この時代は俺の時代ではない」という思いが江戸初期の若者の思いなのです。この心情がその後 に歌舞伎という芸能が展開していくための大きな原動力となりました。「歌舞伎素人講釈」ではこれをかぶき的心情と呼んでいることはご承知の通りです。つまり江戸の状況は19世紀西欧を先取りしたということです。
(H21・9・14)
○歌舞伎とオペラ・その4:モーツアルトという時代・1
オペラの歴史は大まかにバロック・オペラとグランド・オペラというふたつの時代に分かれ、その狭間にモーツアルトが立つということは先に述べた通りです。この時代に西欧の民衆の生活に物質的にも精神的にも大きな影響を与えた社会現象は、もちろん産業革命とフランス革命で した。ちなみにモーツアルトは1756年ザルツブルク生まれで・1791年にウィーンで死すわけで、まさにこの時期がモーツアルトの生きた時代に当たります。そこで西欧の大転換期としての・18世紀末という時代を考えてみます。別稿「19世紀西欧芸術と江戸芸術」でも触れましたが、フランスの中世史家ジャック・ル・ゴフは、その著書「中世とは何か」において・ ヨーロッパの中世は産業革命とフランス革命により19世紀初めに終わると言う「長い中世」という概念を提起しました。西欧史においては、諸説はありますが・1492年前後を中世の終焉と見るのが一般的な考え方です。1492年とはコロンブスのアメリカ大陸発見の年ですが、西欧史でより重要な認識はスペインのキリスト教勢力がイスラムからグラナダを奪い返した・いわゆるレコンキスタの完成の年ということです。これに対してル・ゴフは中世は産業革命とフランス革命の後 に・19世紀初め頃に終わるというのです。ですから通説からみれば約300年も時代が後ろにずれるわけです。 ル・ゴフが挙げる理由はとても簡単、「その頃まで人々の生活リズムはほとんど変わっていなかったのだから」と言うのです。オペラの歴史をモーツアルトで ふたつに分ける時に、このル・ゴフの時代認識はとても役に立ちます。
ジャック・ル・ゴフ:中世とは何か
世界史のおさらいになりますが、イギリスの産業革命は1760年代から1830年代までという比較的長い期間に渡って進行したとされ、遅れて産業革命は大陸に波及し・民衆の 意識と生活のリズムを根本から変えました。象徴的な技術革新として1785年のジェームス・ワットが蒸気機関のピストン運動を円運動に変換することに成功したことが挙げられます。一方、フランス革命はいちおう1789年7月14日のバスティーユ襲撃から1799年・ブリュメールの18日のクーデターまでを区切りとします。もちろん革命という噴火が起きるまでには長い地殻変動と微振動の前兆があり、ま た噴火の起きた後も余震やら気候変動などを伴なうものですから、その前後の時代も含めて時代の流れを大まかに捉える必要があるわけです。
ですから産業革命とフランス革命をきっかけにして西欧の社会経済・民衆の意識と生活は18世紀後半から19世紀初めにかけて実に大きな質的変化を遂げたのです。もちろんその変化は国によって濃淡があって・ 事情は一様ではありませんが、大まかに封建社会から市民社会への転換・資本主義の発展という方向性をイメージすれば良いと思います。ただし、西欧においては国にもよりますが・王侯貴族はなくなったわけではなく、台頭してきた資本家・企業家(ブルジョワジー)と共存する形で上流社会・社交界を作り上げました。この状態は現代でも続いています。一方、フランス革命による人権・自由思想は民衆のなかに浸透し、文化・芸術に大きな影響を与えました。産業革命により経済は飛躍的に伸びましたが、労働者の使い捨ては目に余るものがありました。また19世紀には西欧各国の経済的な歪みが原因で国家間の紛争が絶えませんでした。このようななかで国家の要請によって社会構造の枠組みは急速に強化され、個人は社会の一員としての役割を強制されていくことになります。このような社会的・経済的な歪みが世界レベルで一気に噴出したのが20世紀のロシア革命とふたつの世界大戦であったことは言うまでもありませんが、同様な状況は現代においてもより複合的な形で続いています。
大事なことは、このような急速な社会経済の変化が民衆の意識のなかに浸透していく民主人権思想・自由思想と裏腹な現象として起き たということです。本来ならば 産業革命後は経済の発展により人々は豊かになって・フランス革命後は身分社会ではなくなって民衆はもっと自由で安定して愉しい生活ができていたはずでした。この目標に向かって革命は進んだはずでした。ところが終わってみれば現実はまったく逆になっていて、個人は国家への献身・忠誠を強く求められ ・個人は社会のパーツに過ぎなくなり、気分は次第に窮屈になっていきます。ですから「こんなはずではなかった・この時代は自分が理想としていた時代とは違う」という感覚こそが近代という時代の大事な点で、これが19世紀のロマン主義芸術と深く係わるものです。
このような時代に入るまさに直前のところを生きたのがモーツアルトでした。 ということは「民衆が変革の先の未来に理想を夢見ることができた時期」ということにもなります。フランス革命勃発直前のアンシャン・レジーム(旧時代)期、ル・ゴフの言うところの「長い中世」の終わりの時期です。この頃の音楽家というのは王侯貴族の庇護を受けて、面白くなくても・彼らがお好みの音楽を書いていれば・まあ一応の生活は出来たのです。ところがモーツアルトは自分の書きたい音楽を書こうとしたために王侯貴族に気に入られなくて就職が出来ず、結局モーツアルトは貧乏のなかで35歳で死んだのでした。しかし、モーツアルトはその身を以ってその後の芸術家の新しい在り方を提示したのです。
(H21・9・5)
○歌舞伎とオペラ・その3:祝祭空間
音楽評論家・岡田暁生氏はその著著「オペラの運命」において・自分にとっての「狭義の意味でのオペラ」とは19世紀のグランド・オペラを指すとしています。 自分にとってのバロック・オペラは「本来のオペラ」へのプロローグであり、20世紀・第1次大戦以降のオペラはもはやオペラでなくなったオペラであって・やはり本来のオペラとは言えない。グランド・オペラこそ が本来的な意味でのオペラであるというのです。
『私にとってのオペラとは、個々の具体的な作品と言うよりも・むしろある特定の「場」、つまり19世紀のパリやミラノやミュンヘン・ウィーンのオペラの劇場に象徴されるような世界である。この芸術は特定の時代・地域・社会階層、そして何よりも特定の雰囲気と極めて密接に結びついている。真紅の絨毯・シャンデリアの輝き、シャンパン・グラスの触れ合う音、馬車で劇場に乗り付ける燕尾 服やロング・ドレスの紳士淑女、香水とアクセサリー、客を迎える案内係、舞台に投げ入れられる花束、天井桟敷の観客の掛け声、これらが渾然一体となって醸しだす雰囲気こそ、私にとっての「オペラ的なもの」の原型(プロトタイプ)なのである。』(岡田暁生:「オペラの運命」・なお引用文章は多少字句をアレンジしました。)
岡田暁生:オペラの運命―十九世紀を魅了した「一夜の夢」 (中公新書)
服部幸雄先生の「大いなる小屋」あるいは「絵本・夢の江戸歌舞伎」をお読みになったことのある方ならば、 この岡田氏の文章が歌舞伎についての文章としてそっくりそのまま読み替えられるということを認めると思います。後には周辺地域さらに農村へも波及して行きますが、初期においては歌舞伎は江戸や大坂・京都という特定の都市に強く結びついた芸能でした。消費的な性格を持つ大都市の祝祭空間としての劇場と・そこで一時の夢を目一杯楽しもうという観客たち。芝居小屋では観客はかしこまって芝居だけを鑑賞したのではなく、茶屋から料理が運び込まれて・観客は料理と酒を楽しみながら芝居を見たものでした。飲んで騒ぎながら芝居を見たのです。大店の旦那は芸者 衆を引き連れて、ご婦人方はせっせと着飾って観劇したものでした。そこでの主役はもちろん町人たちでしたが、観客に身分の区別はなく・実際そこはあらゆる階層が混じりあう場所でした。芝居小屋は社交の場でもありました。贔屓の役者にはおひねりが投げ込まれ、大向うからは盛んに掛け声や野次が飛んだものでした。そのため芝居は贅を凝らしてさまざまな趣向が行なわれ、役者は衣装を 自前で派手に豪華にこしらえたものです。その芝居は町人を主人公にした演目(世話物)もありましたが、主たる演目は時代物であり・それは武士を主人公として忠義や身替わりなど封建主義の倫理を主題にしていました。そのような歌舞伎を資金的に支えたのは金主と言われた商人たち・つまりブルジョワジーでした。それはまったくグランド・オペラの光景なのです。
服部幸雄:大いなる小屋―近世都市の祝祭空間 (叢書 演劇と見世物の文化史)
服部幸雄/一ノ関圭:絵本 夢の江戸歌舞伎オペラにおいて・同じような現象が起きたのは、フランス革命以後のことでした。それまでのバロック・オペラの時代には、オペラは宮廷あるいは貴族の館のなかで・いわば私的に内輪な催しとして行なわれたものであって、切符を売って不特定多数の観客を相手にした上演はベネチアやハンブルクなど一部の劇場を除いて・ほとんどなかったことでした。 貴族のものであったオペラという芸能のなかに・フランス革命を境にして・市民階級の息吹が流れ込んできて、市民が続々と劇場にオペラを見に来るようになりました。オペラを支えた階層にはこれまで通り王侯貴族もいましたが、新しい時代には資本家層・ブルジョワジーがより大きな力を持って登場しました。バロックの宮廷文化の夕映え と・フランス革命後の市民文化の熱気が混じり合い、貴族とブルジョアと庶民が渾然一体となった「夢の空間」・それがグランド・オペラなのです。このことからグランド・オペラは次のように規定できると思います。グランド・オペラとは、貴族の時代に生まれたバロック・オペラの骨格のなかに市民階層の感性を持ちこんだ混合形態の・極めて19世紀的な性格を持つ特異な芸能なのです。
(H21・8・29)
○歌舞伎とオペラ・その2:レパートリー
歌舞伎という芸能は1600年前後に誕生し・400年の歴史を持つということですが、ここで現代の我々にとっての歌舞伎のイメージはどんなものかを考えてみたいと思います。それはもちろん歌舞伎座など現代の劇場で興行されて・目にすることのできる通常演目(レパートリー)から形成されます。
現代の我々が生(なま)の舞台で目にすることができる最も古い歌舞伎の雰囲気を垣間見させてくれる演目は「対面」・「暫」という・ごく限られた元禄歌舞伎です。これに二代目団十郎が初演した「助六」と、二代目左団次が復活した「鳴神」や「毛抜」などを加えた歌舞伎十八番(江戸荒事)が我々が どうやら知っている歌舞伎の一番古い年代ということになります。対する初代藤十郎の上方和事はほぼ廃絶して、「廓文章」や「河庄」などの和事の演技にその痕跡を見せるに過ぎません。義太夫狂言については人形浄瑠璃から歌舞伎への移行の経緯 ・演出の変遷を検討せねば正確な議論は出来ないにしても、大まかに言えばまあまあ残っていると言えます。近松門左衛門は江戸期には改作物で上演されることが多く、現代で人気の「曽根崎心中」や「女殺油地獄」などは大正・昭和になってからのものなので条件付きにはなりますが、近松以後の義太夫狂言は歌舞伎の通常演目の核になっていると言えます。一方、歌舞伎オリジナルの分野を見ると四世鶴屋南北( その中心となるのは文化文政期:1804年〜1830年)以前は通常演目に入ってきません。並木正三・並木五瓶・桜田治助(それぞれ初代)など歌舞伎史で特筆すべき狂言作者の作品群は稀に復活上演されることはあっても・通常演目に入って来ないのです。南北についても江戸期から継続して上演されてきたのは「東海道四谷怪談」や「馬盥の光秀」くらいのものですが、まあ南北以後の歌舞伎オリジナルは通常演目の視野に入ると言えます。幕末期の黙阿弥や如皐については言うまでもなくこの範疇に入ります。舞踊の分野でもほぼ同様なことが言えます。初代富十郎の「娘道成寺」(現行の舞台は富十郎そのままではありません)をちょっと例外に置くとして、初代仲蔵の「積恋雪関扉」は天明歌舞伎の雰囲気を感じさせ・これが我々が普段の劇場で目にする最も古い舞踊形態ということになります。ほとんどの舞踊演目は文化文政以降幕末期のものです。
以上を整理すると次のようなことが言えます。現代の我々の「古典歌舞伎」のイメージは、義太夫狂言が骨格としてあり・その先端に江戸荒事の元禄歌舞伎がほんの少し残っているだけで、残りは文化文政以後・1800年代の演目でほとんど成り立っているということです。逆に言えばそれ以外の歌舞伎のジャンルは「ない」。「歌舞伎400年」と言うけれど、我々はこの限定されたレパートリーから歌舞伎という芸能をイメージし、それで歌舞伎400年全体を推し量っているということです。これは方法論としてちょっと無理がある と思いませんか。歌舞伎400年を通じて変らなかったものも確かにあります。だから我々はこの演劇を「かぶき」という名で括っているのでしょう。しかし、現代の限定された「古典歌舞伎」のイメージからすれば、むしろ吉之助は「変質した・ 変質させられた・変質せざるを得なかった」歌舞伎のそのような歪んだ要素の方に深い関心が行くわけです。
それではオペラの方に目を転じてみると、オペラ400年の歴史のなかで・現行のオペラ・ハウスの通常演目の核となり・我々のオペラのイメージを形成しているものはどういう作品群かというと、それはモーツアルト(1756年〜1791年)以後の作品ということになります。モーツアルトは短い生涯で21曲のオペラを書きましたが、ここで挙げるべきは世に5大オペラと呼ばれているもの・すなわち「後宮からの逃走」・「フィガロの結婚」・「ドン・ジョヴァン二」・「コシ・ファン・トゥッテ」・「魔笛」です。もちろんモーツアルト以前にも優れたオペラ作曲家はたくさんいました。特筆すべき作曲家を挙げればモンテヴェルディ・リュリ・グルックそしてヘンデルなどです。むしろオペラ上演はモーツアルト以前の時代の方が盛んなくらい でして、新作上演も頻繁でした。それがモーツアルト以後・19世紀になると新作上演の頻度はぐっと少なくなり・評判を取った旧作品の上演の方が多くなります。何がこういう状況を生んだかについては後ほど触れますが、とりあえずそ の変化には産業革命とフランス革命が大きく影響していたということを記して置きます。
現在の我々はモーツアルトより以前のオペラを大まかに「バロック・オペラ」と呼んでいます。バロック・オペラにはもちろん優れた作品が多くあり・それらは復活上演として舞台に上がることもありますが、現代のオペラ・ハウスのレパートリーの中核ではないのです。 オペラの中核を成すのはモーツアルトの5大オペラ以降、19世紀のワーグナー・ヴェルディから20世紀初頭のプッチーニとR・シュトラウスまでの作品群になります。これらを我々は大まかに「グランド・オペラ」と呼んでいます。もちろんそれ以後もオペラは生まれています。重要なのはベルク・ストラヴィンスキー・ショスタコービッチ・ブリテンといった作曲家の作品ですが、こ れらを我々はグランド・オペラの範疇には入れません。したがって、現代の我々がオペラという時にイメージするオペラとはオペラ400年全体を包括したものではなくて 、それは明確にグランド・オペラのみを指すのです。
そろそろ本稿「歌舞伎とオペラ」での歌舞伎とオペラのそれぞれの定義を明確にせねばなりません。吉之助が「歌舞伎とオペラは似ている」と言う時の歌舞伎とは、義太夫狂言を骨格として・江戸荒事を先端に置き・文化文政以後の要素を取り込んだところの幕末期 の江戸歌舞伎群なのです。 これが現在の我々がイメージする・普段の歌舞伎座で見られるところの歌舞伎だからです。つまりほぼ野郎歌舞伎を指すとしてよろしいでしょう。一方、吉之助が言うところのオペラとは、モーツアルトの5大オペラから・ワーグナー・ヴェルディを経て・プッチーニの「トゥーランドット」またはR・シュトラウスの「薔薇の騎士」辺りまでのグランド・オペラ群です。 これが現代の我々が普段のヨーロッパのオペラ・ハウスで見る(聴く)ところのオペラの中核レパートリーだからです。ですから歌舞伎とオペラは共に1600年前後に誕生し・400年の歴史を持つという学術的なことは別にして、その限定されたイメージにおいて歌舞伎とオペラは「似ている」と吉之助は言っているのです。 さらにその詳細を検討していきたいと思います。(この項つづく)
(H21・8・23)
○歌舞伎とオペラ・その1:成立年代
歴史を考える場合に一番大事なのは「時代区分」のセンスです。時代の「節目」というものは、ある事件を契機にして時代が断層のようにスッパリと切れて・それ以前とそれ以後が明確に分かれて見えるというものでは必ずしもありません。その事件の前後十数年、場合によっては数十年ということもありますが、そうしたスパン(期間)のなかで見ると時代の様相がまるで回り舞台のように大きく転換しているように見えるのです。そうした時に後から振り返ってみれば「あれが節目だった」と言える事件が必ずあるのです。そのような象徴的事件を選び出して時代の流れを明確に示してみせること・そこが歴史家の嗅覚に掛かっています。それは暗喩ということです。例えば19世紀の歴史家ジュール・ミシュレは「象徴先生」と仇名されたほどで ・歴史のなかから時代を象徴する材料をパッと取り出してみせるのがとても巧い人でした。それで「あっ、もう時代は変っているんだ」と直感させるのです。 これはある種の文学的・あるいは演劇的なセンスです。時代区分とはそのような曖昧な・しかしとても示唆的な指標であり、どのように時代区分を提示するか・そのセンスが 歴史家の大事な要件なのです。本稿は通史が目的ではありませんが、吉之助の歌舞伎史観の大まかな概容をその時代区分を以ってご披露することになります。
歌舞伎の創始者と言えば、出雲のお国(阿国)と言われていることはご存知の通りです。慶長8年(1603)5月6日、西洞院時慶(にしのとういんときよし)の記す「時慶卿記(ときよしきょうき)」によれば、「女院御所へ女御殿お振舞ひあり。ヤヤコ跳りなり。雲州の女楽なり。」とあります。同じ日の、舟橋秀賢の記す「慶長日件録」の項には「於女院、かふきをとりこれあり。出雲の国の人。」とあります。これよりちょっと前のことと思われますが、京都・北野天満宮や四条河原などでお国が演じた「かふき踊り」という官能的な前衛踊りは民衆の話題をさらいました。したがって、今日の我々は 西暦1603年を歌舞伎発祥の年として います。同じ年・慶長8年(1603)2月12日に徳川家康は伏見城において朝廷から征夷大将軍を任ずる旨の宣下を受けて、江戸幕府を開きました。封建政治権力と「かぶき者の演劇」という相容れないふたつの 対立した存在が同じ年に誕生したというのは実に興味深いことです。お国かぶきについては後で もう一度触れることにしますが、お国かぶきは役者や囃子などに能狂言から多くの参画者を得ていたということがあり、お国かぶきは先行芸能である能狂言の影響を強く受けたという以上に・能狂言から分化した芸能というイメージで見るべきで あろうと吉之助は思っています。(お国かぶきと慶長期の状況については別稿「いき過ぎたりや」をご参照ください。)
一方、西洋のオペラの方に目を転じれば、それ以前に中世の神秘劇・ルネッサンス期の牧歌劇や典礼劇あるいはマドリガル・コメディなど素朴な音楽劇形態がありましたが 、これらはまだ完成した形式を持ち得ませんでした。オペラは16世紀後半フィレンツェのバルディ伯爵の邸宅に集まった音楽家・詩人・文学者・哲学者などのメンバーによる「カメラータ」と呼ばれるサークルから生まれたものとされています。それはギリシア悲劇の復興を目指して新しい芸術形態を模索する試みで、最初のオペラ作品はヤーコポ・ペーリ作曲の「ダフネ」であるとされています。「ダフネ」の楽譜は消失して一部しか残っていませんが、恐らくは1598年(慶長3年 ・豊臣秀吉死去の年)の初演です。楽譜が残っている最初期のオペラの傑作としてはその9年後・1607年(慶長12年)マントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディの「オルフェオ」が挙げられます。いずれにせよ初期のオペラはその成立の経緯からしてもギリシア悲劇の色合いが強いもので、題材はギリシア ・ローマ神話 あるいは聖書から採ったものが多かったようです。
*モンテヴェルディの「オルフェオ」については、当時の舞台再現と言うわけではないですが・ポネル演出・アーノンクール指揮チューリッヒ歌劇場の練り上げられた舞台映像がとても参考になります。モンテヴェルディ:歌劇《オルフェオ》 [DVD]
以上のことから分かる通り、歌舞伎とオペラという・まったく無関係のはずのふたつの芸術は不思議なことに場所を隔てて・ほぼ同じ時期の西暦1600年前後に誕生したとされており、共に400年を越える歴史を持 っていることになります。ただし・「1600年前後」が歌舞伎とオペラの成立年代であるということは教科書的に言われていることで・それはもちろん大事なことですが、実はそれは吉之助が「歌舞伎とオペラが似ている」ということの根拠ではありません。その理由は吉之助が持っている歌舞伎とオペラという芸術のそれぞれのイメージに拠ります。 吉之助は歌舞伎とオペラをもっと限定的なイメージで考えているからです。つまりそれは「歌舞伎はどういう演劇か」・「オペラはどういう音楽芸術か」という問題に深く係わる ものです。(この項つづく)
(H21・8・20)
○歌舞伎とオペラ:プロローグ
「歌舞伎素人講釈」も9年目を経過して記事もだいぶ増えてきました。お気付きでしょうが、このところ歌舞伎とオペラをコラボレーションした記事が多く目に付くと思います。歌舞伎のことだけ読みたい方はオペラへの言及にとまどうかも知れませんが、もちろん吉之助は意図的にそうしております。吉之助もサイトを始めた最初の数年間は歌舞伎とオペラを結びつけるのは読者を憚って遠慮していましたが・だんだん図々しくなってきましたし、「歌舞伎はどんな演劇か」ということを普遍的に論じるにはやはりオペラとの対比がもっとも効果的だと判断して・そうしています。列記しますと「出世景清」(ヴェルデイ:「椿姫」)・「曽根崎心中」(ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」)・「新薄雪物語」(ワーグナー:「ニュルンベルクのマイスタースタージンガー」)・「本朝廿四孝」(ワーグナー:「さまよえるオランダ人)」・「東海道四谷怪談」(モーツアルト:「ドン・ジョヴァン二」)・「籠釣瓶花街酔醒」(ビゼー:「カルメン」)・「番町皿屋敷」(ワーグナー:「ローエングリン」)などです。「古典性とバロック性」(モーツアルト:「フィガロの結婚」) ・「女形の実のなさについての考察」(マスネ:「マノン」)という論考や、番外編ですが「野田版・愛陀姫」(ヴェルデイ:「アイーダ」)というのもあります。多分これからまだまだ増えるでしょう。 いずれレオンカヴァルロの「道化師」とのコラボでも論考(テーマは何かな?)を書く予定にしていますのでお楽しみに。しかし、これらの論考をお読みになればお分かりの通り・論考では音楽(つまり旋律やリズム)についてあまり触れていないのです。それは歌舞伎とオペラの共通項が「ドラマ」であり、吉之助の関心事がそのドラマの描き出すところの心情であるからです。「心情」こそが吉之助が江戸の精神的状況は十九世紀の西欧の状況を先取りしていたと主張するところの根拠です。
歌舞伎もオペラもどちらも楽しむ方は昨今結構いらっしゃいます。吉之助自身も歌舞伎を知るよりオペラを聴き始める方が先(2年は早かったかなあ)でしたから、オペラ歴は結構長いのです。我が玉三郎もイタリア・オペラの長年のファンとして有名ですね。「歌舞伎とオペラは似ている」と何となく感じる方は多いと思います。しかし、「歌舞伎とオペラは似ている」という議論は、その誕生の時期がどちらも1600年前後であるらしいとか、「月も朧に白魚の・・・」なんていう台詞がオペラのアリアのようであるとか(その指摘自体は正しいですがね)、歌舞伎の女形とオペラのカストラート(オペラではその昔は去勢した男性歌手がソプラノ・バートを歌った)との対比であるとかいうような漠然たる表面的な類似を語るだけに終始し勝ちで具体性があまりないようです。歌舞伎とオペラの共通項はドラマであり・心情なのですから、これは歌舞伎がどういう演劇か・オペラはどういう音楽芸術かということの本質論から論議していかねばならぬことだと思います。それが分かれば歌舞伎とオペラが驚くほど似ている芸術であることが分かる。ということは江戸の状況と十九世紀の西欧の状況とが非常によく似ているということが分かるということです。ここから歌舞伎の普遍的な解析が可能になると考えます。「歌舞伎素人講釈」でも 初っ端からこういうことをぶちあげて論考を展開していく手法ももちろん有り得ましたが、それにはまだまだ機が熟していなかったと思います。歌舞伎とオペラのコラボレーション論考をいくつか発表してみて、そろそろ「歌舞伎とオペラ」を真正面から論じる時期に来たかなと言うところです
本稿においては、「歌舞伎はどんな演劇か」を考えるために・歌舞伎史の時代区分をどう位置付け・これをオペラ史の時代区分とどう対比するかという視点からオムニバス形式で話を始めます。恐らく吉之助の歌舞伎史観はこれまでの歌舞伎の類似本に書いてあるものとまったく異なるもの となります。「歌舞伎素人講釈」ではこれまで「かぶき的心情」ということで心情面から・「バロック性」ということで概念面から・「アジタートなリズム」ということでフォルム面から、歌舞伎を通史的に論じることをしてきました。本稿ではこれらを総合した形で新しい歌舞伎史観のヒントを提示したいと思っています。本稿により・「歌舞伎素人講釈」がこれまでの9年ある一定の方向を目指して進んできたことがご納得いただけるでしょうし、今後のサイトの方向もお察しいただけるかと思います。(この項つづく)
(H21・8・17)
アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える
○アジタートなリズム・エピローグ:歌舞伎の台詞は拡大する?・その3
日本音楽界の不幸は(敢えてこれを不幸と言いますが)、西洋音楽の摂取の初期段階において「一音符一語主義」によって・日本の伝統音楽との折り合いを付けたことでした。例えば日本最初の軍歌と言われる「宮さん宮さん」(宮さん宮さんお馬の前にひらひらするのは何じゃいなトコトンヤレトンヤレナ・・)、あるいは鉄道唱歌(汽笛一声新橋を・はや我汽車は離れたり…)のリズムです。 このリズムのなかにある種のマンネリズムが感じられるようです。このことがひとつの傾向を生み出します。
『山田(耕作)先生のオペラは、一音符一語主義というご自分のシステムに忠実ですから、どうしても人間の思考速度が無視されるのです。歌劇「黒船」のなかの緊迫した場面で、お吉が弁天島で姉さんにものを聞く場面があるのですが、そこで「ね・え・さ・ん/お・し・え・て/ちょ・う・だ・い/な」って歌うんだな。(・は音符の区切り、/は小節の区切りとお読みください)自分の運命がどうなるかという差し迫った時にこんなのんびりした言葉は変だ。「姉さん・教えてちょうだいな」と言うのじゃないですかと言ったら、「うん、それはそうだけど、オペラってものは拡大するんだ」とか言っておられた。劇的な迫力というようなものは管弦楽でつけて、歌はいつも情緒的に歌うのだとういうことを、ご自分独特の楽劇観からつねづね言っておられましたから、あのオペラも四時間くらいかかるでしょう。内容的には一時間半のものだと僕は思います。それがあんなに拡大されると、全部がピントの甘いレンズで見ているようなふやけ方になることにはどうも気がつかれなかった。あれほど演劇に詳しかった人でも自分のオペラになると、自分のシステムに淫したのですね。」(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)
「オペラってものは拡大するんだ」という発言はとても正直なもので・かつ興味深いものだと思います。団氏は「先生は演劇にあれほど詳しかった人なのに・・」と言っていますが、吉之助には「オペラってものは拡大するんだ」という山田耕作の表現は演劇に詳しい人でないと絶対に出てこない表現だと感じられます。この場合の演劇とは歌舞伎に限らず・能狂言も含む日本の伝統演劇です。例えば黙阿弥の七五調ですが、これもまたまた「拡大する」ものだと言えます。心理・感情を精妙に描こうとするほど次第に拡大して、リズムがダラダラ調に変化していきます。それと似たような 道程を山田耕作のオペラも同じように辿っているらしいのが興味深く・またいじらしく思われます。これは偶然の一致ではない。吉之助はその原因の一端が「一音符一語主義」にあると思っています。
本稿「アジタートなリズム」をお読みになればお分かりの通り、吉之助は歌舞伎の台詞のリズムは写実の観点に立たねば解析できないと考えています。そのために「一音符一語」の原則 は崩さなければならないと思っています。その意味では団氏の言いたいことは分かり過ぎるくらいよく分かります。しかし、そのような情緒に傾斜して・拡大しようとする 性質を日本語が本質的に持っていることもまた確かであるようです。 恐らく「一音符一語」の観念は明治以後の音楽教育のなかで不必要に強められて・染み付いて・今日に至っているのです。このことを音楽家も・演劇に携わる役者も演出家もよく承知しておかねばなりません。日本語のなかにおのずと拡大しようとする性質があること・感情を込めようとすれば台詞が伸び勝ちになる性質があることを役者が十分承知して、この傾向を引き 止め・写実の方へ引き戻す努力を役者が意識的にしていかねばならないと吉之助は考えます。歌舞伎の台詞は黙阿弥の七五調も・二代目左団次の台詞もこのまま放置していると同じようなダラダラ調に変化しかねませんし、もうすでにそれに近い状態になりかけています。ですから歌舞伎の台詞を 意識して写実の方へ引き戻すこと、これが歌舞伎の活性化のために最も大事なことであると思っています。そのためには台詞のリズムをユニットで捉えて・息を深く持つ習慣を付ける必要があります。そのために「一音符一語」の原則は崩されなければならないのです。
日本の伝統音楽は二拍子(あるいはこれを細分化した形の四拍子)が多いということは音楽の解説書によく出てきます。例えばわらべ唄である「かごめかごめ」は二拍子です。しかし、「かごめ・かごめ」と同じ言葉を繰り返す時に・リズムを単純に繰り返しているかと言うと実はそうではありません。最初の「か」は一拍分長く、二番目の「か」は短くなります。最初の「め」は短いですが、二番目の「め」の後には一拍の休止があります。ただし、この休止は休みでも良いし ・「めー」と一拍分伸ばしても良いのです。すなわち、最初の「かごめ」は頭に大きな音価が来て・次の「かごめ」では末尾に大きな音価が来て・このセットでフレーズのまとまり感を出すのです。ということは、「かごめかごめ」は二拍子だと言うけれど・単純な「一音符一語」の二拍子を取っているのではないということです。音符の長さは語句に応じて微妙に伸縮しているわけです。しかし、全体を聴けば二拍子の基本的なテンポ感覚は確かにあるようです。つまり大事なのは二(あるいは四)のユニット感覚だということです。 ユニット感覚をしっかり出せるならば、ユニットのなかを多少自由に持ってもよろしいわけです。(本件については民族音楽研究の小泉文夫氏の著書「日本の音」・平凡社ライブラリーをご参考にしてください。)
小泉文夫:日本の音―世界のなかの日本音楽 (平凡社ライブラリー)
小泉文夫氏の指摘は、日本演劇の台詞にいかにして抑揚を加え・フレーズのまとまり感を生み出し・自然な 音楽的なリズム感を生み出すかという課題のヒントになるものです。台詞の解析のポイントは、台詞が内包する登場人物の根源的な感情(心情)をどう捉えるかということです。本稿「アジタートなリズム」をお読みいただいて、歌舞伎 とはそれは「かぶき的心情」に発する演劇であり、それはリズム様式から見ると「アジタート」というキーワードにおいて括られるものであることがご理解いただけたと思います。歌舞伎は雑多な形式を取り込んだ演劇ですが、大きく捉えればそれらはすべてリズム様式では「アジタート」という概念のなかに乗ってくるもの なのです。この認識をベースにして歌舞伎の台詞を「如何に写実に歌うか・如何に様式的に 写実にしゃべるか」という風に考えれば、歌舞伎の台詞の解析は至極容易になるのです。
本稿冒頭に記した通り・折口信夫は「歌舞伎芝居のなかに近代的精神を・あるいは新劇的生命を生かすにはどういう風にすれば良いか」ということを問われ、正しい発声やエロキューションが顧慮されていないことが歌舞伎の問題点だと指摘しました。役者の台詞回しを「調子が良い・悪い」という印象論 だけで片付けてしまって、作品あるいは登場人物の台詞のフォルムを正しく表現するという観点から論じるということをしてきませんでした。 役者が仕勝手で台詞のフォルムを崩しても、観客も劇評家も「役者の味で良いじゃないか」ということでこれを許してきました。このことが伝統芸能として考えた場合の現行歌舞伎の一番大きな問題点なのです。「歌舞伎の台詞は様式的な抑揚をつけて歌うもの」という漠然としたイメージを捨てて、歌舞伎の台詞が本来あるべきエロキューションをしっかり見出したいものだと思います。
(H21・8・15)
○アジタートなリズム・エピローグ:歌舞伎の台詞は拡大する?・その2
『西洋の声楽家が日本に来て、アンコールに日本の歌をよく歌いますが、向こうの発声法の人であるにもかかわらず言葉がよく聞こえますね。これは日本の声楽家への大変な挑戦状じゃありませんか。向こうの発声法でもそのシステムが本当に身体の中に入り込んでいれば、外国語である日本語を聞いた場合に、自分の発声のヴァリエーションのどこかで日本語をとらえられるのではないですか。おそらくシューベルトの歌を歌う場合とモーツアルトのオペラを歌う場合は発声法を変えているのですね。しかし、それが生半可な習得だと、硬直状態でいつも同じ発声法になってしまうのではないでしょうか。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」・・・小泉文夫との対談・平凡社ライブラリー)
団伊玖磨・小泉文夫:日本音楽の再発見 (平凡社ライブラリー)
ジェシー・ノーマンがリサイタルのアンコールで「さくらさくら」を歌ったのを聴いたことがありますが、実に素直に歌っていました。「さくらさくら」のような歌であると「一音符」の長さをひとつの音程で一語を一定に保つことが・西洋歌曲の感覚であると単純過ぎて難しいだろうと思います。ノーマンは息を腹に保つ力があるからそれができて、しかも、ひとつひとつの音を手のひらに乗せて大事に大事に発声している感じが あるのです。また、意味が分からないまでも・ノーマンは日本語の語感を天性でつかんでいるのでしょう。作曲家・団伊玖磨氏の指摘する通り、クラシック音楽の日本人歌手が日本の歌曲を歌っている場合に、その日本語 の発声がとても不自然に感じるということがしばしば起こります。シューベルトの歌曲は上手に歌えるのに、日本歌曲のイントネーションが大年増の厚化粧みたいに妙に気持ち悪 くなるのです。むしろアマチュア歌手が歌う日本歌曲の方が発声が素直なのか言葉がよく聞こえます。恐らく日本のクラシック歌手は表現を芸術的に高めようと情感を無理に込めるために言葉の抑揚が不自然になり勝ちなのです。「上手の手から水が漏れる」ということです。この問題を考えるには団氏の次の言葉がヒントになると思います。団氏は日本歌曲のなかにある「一音符一語主義」について次のように語っています。
『日本語をどのような音型化していくかという問題にしても、一音符一語主義が無批判的に伝承されてきて、例えば「私はあなたを愛します」は「ワタシハアナタヲアイシマス」と十三の音符で書いて疑わない。外国の歌で「I love you」なら三つ、「Je t'amie」なら二つの音符で表現できるのに日本語では十三音符が必要だということの不自然さに気がつけば、日本語をどう音楽化するかというシステムを作ったはずでしょう。そういうことだけでも先輩たちの手でできていたら、次の時代にまったく新しい生きた日本語の歌ができていたはずでしたね。』(団伊玖磨・「日本音楽の再発見」)
「私はあなたを愛します」を「ワタシハアナタヲアイシマス」と13の音符で書いて疑わないということは、つまり「私はあなたを愛します」を13の同じ長さの刻み(リズム)で捉えて疑わないということです。確かに日本歌曲は基調のリズムとして はその刻みで成り立っているわけですが、言葉のリズムというものは人間の息に発するもので生き物なのですから、本来ははそれ自体にある範囲のリズムの伸縮(揺れ)を持つのです。つまり、 言葉をメトロノーム的な機械的な刻みとして厳格に捉えてはならぬわけです。言葉の持つ自然な揺れを無視して・機械的な刻みを無理に守ろうとして・その一方で情感を強く込めようとすると抑揚が不自然にな ってしまいます。クラシック歌手の日本歌曲によく見られる現象はそういうことです。このような事態に陥らないようにするには、言葉のリズムの刻みをゆったりと持つ・言い換えると息に余裕を持つということです。つまり厳格な意味においてリズムの刻みを正確に保つ必要はない・歌において大事なのは言葉の息であると割り切ることです。ただし、あまり余裕を持ちすぎても音楽としての格調は出せません。基調のリズム感覚を乱さない程度に・リズムに遊びを持たせるということです。ところが、不幸なことに・西洋音楽の五線の記譜法ではそのような音符の長さを自在に持つ記し方はできないのです。基調の音符の長さを1とすると、ある音には1.05の長さを当て・別の音には0.95の長さを当てるというような記し方ができません。ここが西洋音楽を取り入れて新しい日本の歌曲を創造しようとした作曲家たちが直面した問題でした。日本の伝統音楽の記譜法ではその辺が曖昧に記されています。良く言えば自由度が高いわけです。だから、日本の伝統音楽にはリズムがないということが言われることがありますが、そうではありません。リズム(拍)がなければ音楽になるはずがありません。日本の伝統音楽にはそれを厳格な刻み・メトロノーム的な刻みとして捉えることはなかったということだけです。(注:西洋音楽においても息を深く持って・リズムの刻みに余裕を持つということはとても大事なことです。リズムを厳格に機械的に持ち過ぎますと、その音楽はしばしば窮屈になってしまいます。ですからリズムは崩してはいけないのは当然のことですが、そこに遊びがなければならぬわけです。)ですから団氏が指摘する通り・日本が西洋音楽を摂取する初期段階で「一音符一語主義」のイメージが立ちはだかったことが、明治黎明期の作曲家の道程をとても困難なものにしました。
吉之助の密かなお気に入りに「へフリガー・日本の歌曲を歌う」というCDがあります。(1992年5月録音) ドイツの名テノール:エルンスト・へフリガーが、ドイツ語訳で日本の歌曲を歌ったものです。歌詞翻訳は村上紀子さんとマルグリット・畑中さんのふたりにより行われたそうですが、この翻訳が素晴らしくて・まるでこれらの歌曲が初めからドイツ語の詩に作曲されたかのように聞こえます。山田耕作作曲・北原白秋作詞の「この道」を見てみます。
白秋詩「この道はいつか来た道 ああそうだよ あかしやの花が咲いてる」
ドイツ語訳「Ja, diesen Weg / seh ichi mich einmal gehen. / Ja, Ja, auf diesem Weg, / Akazienbaeume seh ich, / Akazien seh ich bluehen. 」吉之助が感じることは・この試みの成功は翻訳のうまさにだけ帰せられるものではなく、もっと本質的な問題があるのではないかということです。それは山田耕作の音楽が豊かな抑揚をその心底に求めているように 聴こえることです。つまり、日本語の平坦な抑揚では単純過ぎて・微妙な感情の綾を洋楽の手法では十分に拾い上げられない。また逆に山田耕作の旋律の持つ叙情を日本語の抑揚が支え切れない。そのようなことがあるのではないかと感じます。そのような日本語と西洋音楽を結び付けようとする明治の先達の苦労のほどが偲ばれて、とてもいじらしく感じられるのです。
*注:「エルンスト・へフリガー・日本の歌曲を歌う」は第3集まで発売されています。
赤とんぼ~浜辺の歌/ヘフリガー、ドイツ語で歌う日本の歌曲 VOL.1
浜千鳥~宵待草/ヘフリガー、ドイツ語で歌う日本の歌曲 VOL.2
花の街~我は海の子/ヘフリガー、ドイツ語で歌う日本歌曲 VOL.3(H21・8・10)
○アジタートなリズム・エピローグ:歌舞伎の台詞は拡大する?・その1
吉之助が「観劇随想」で「近年の歌舞伎の演技はどこかしら重い・・」ということをよく書くのはご承知かと思います。「近年」というのは大体昭和40年頃から現在までの歌舞伎のことを指しています。映像や録音などでそれ以前の歌舞伎を見たり・聴いたりしますと、吉之助の生(なま)で見た歌舞伎よりテンポが早く感じられて驚くことが多いのです。もちろんテンポが早ければそれだけで良いわけでもないですが、昔の方があっさりとして・若々しく簡潔な印象です。昔の歌舞伎の方が今よりもずっと感覚的に新しい感じがします。ですから吉之助が生の舞台を見ながらいつも考えるのは、こういう新しい感覚をどうすれば現行の歌舞伎に付加できるかなのです。
まあ歌舞伎のファンというのはいつの時代でも自分が舞台に熱中した時代の歌舞伎が最高と思いたいものです。ですからこういうのを感覚の相違にすぎぬと片付けてしまいそうです。吉之助は近年の歌舞伎が重く粘っていく傾向にあることは・歌舞伎の古典化の流れとして止め難いことだと思っています。しかし、伝統芸能としての歌舞伎役者は歌舞伎の干物化を阻止すべく古典化の流れに抗していかなばならぬと思いますねえ。古典化の流れにどっぷり浸ることは、歌舞伎の死を早めるだけです。古典化の流れに抗する手法としては猿之助 や現・勘三郎の試みにあるような新作をやるとか・新演出をするとか言う方法論ももちろんあり得ます。しかし、もっと大事なことは歌舞伎役者が日常演じるところの古典作品において・どれだけポジティヴな演技ベクトルを保持できるかなのです。「脚本のこの箇所を整理すれば何秒カット出来る。ここを省けば芝居をぐっとテンポ・アップできる」ということはよく言われますが、現行歌舞伎役者の間延びした演技に対する反省 ・批判は全然言われていないと思います。例えば台詞廻しについてです。そこで本稿では、どうして現代の歌舞伎役者の台詞廻しは間延びして・テンポが重くなるのかということを「アジタートなリズム」の締めくくりとしてちょっと考えてみたいと思います。
いつの時代においても、偉大な芸術家が出現してその時代の芸術のスタイルを変革して・周囲の者がそれを模倣し追随することで芸術の大きな流れが出来ていくものです。音楽・芸能のような再現芸術(パフォーミング・アート)の場合は特にそうです。ひとたびカルーソーやカラス・ホロヴィッツのような天才が出現すれば・その後に出てくる演奏家はそのように歌わないと観客からなかなか「良い」とは言われないという苦難の時期がしばらく続くのです。歌舞伎でも初代団十郎のように演らないと荒事とは言われません。初代藤十郎のように演らないと和事とは言われません。三百年も前の役者など具体的なイメージはほとんど残ってないのですが、荒事・和事ということになればそのイメージは明確に立ち現れます。これはとても不思議なことですが、そのイメージとは「演者の風」とでも言うべきものです。そこに初代団十郎・藤十郎というものの何かがあるのです。これを如何にして自分なりに忠実に追うかということが、歌舞伎役者の課題になるのです。
先人のお手本を後輩が心を込めて丁寧に再現しよう(つまり模倣しようと・なぞろうと)努めると、大体その演技のテンポは遅くなるようです。これは模倣するという初期段階(まだ自分の血肉と化していない)においては仕方がないことです。台詞廻しのことで言えば、台詞の要素には節回しとテンポのふたつがありますが・このふたつは不可分でして、節回しを情感を込めてなぞろうとすると・どうしてもテンポが自然と遅くなるのです。もちろんテンポを遅くせずに節回しに情感を込める方法はあります。その場合はリズムの刻みを深く持つのです。つまり息を詰めて・テンポを本来の速度に正しく保ちながら・線をなぞっていくことになるわけで、これはなかなか技量が要ることです。一般的には節回しに力を込めると・ いくぶんテンポが落ちるという関係なのです。ですから、 古典化というのはある種の上等な「なぞり」でありますから、歌舞伎の古典化においてリズムが遅く・重めになることはまあ傾向としては仕方ないということです。能楽も世阿弥が生きていた時代にはもっとテンポは早かったと言われていますが、能楽も今のテンポに落ち着くことで「幽玄」のイメージを手に入れて古典化しているわけです。歌舞伎もその方向に行くことは避けられません。
歌舞伎は能楽と違ってまだ生乾きの伝統芸能(古典化が現在進行形の伝統芸能ということ)です。しかし、歌舞伎にそのような古典化の方向を認めつつも、現行歌舞伎に次のような問題点を見ないわけにはいきません。それは歌舞伎役者が息を深く取れていないということです。吉之助の師匠である武智鉄二は「息がつむ」ということをとてもうるさく言いました。 それでなくても「なぞり」ではテンポが遅くなり勝ちになるのに、息を深く取れていないから正しいテンポを維持しきれない・だからテンポが「なし崩し的に」遅くなっていくのです。逆にテンポが遅くなったことに気付いてテンポを早い方に戻そうとすると、息が浅 いと今度は節回しの方が崩れていきます。現行歌舞伎ではそのような現象がいたるところで見て取れます。もうひとつ同様の問題が観客の方にもあるのですが、それは観客も役者も同じ時代空間を共有する以上当然のことです。何だかいつもセカセカして・イライラして・急きたてられて・落ち着かない現代は「息を深く持て」と言っても自然に息が浅くなってしまう・そういう時代なのです。逆に言いますと、こういう落ち着かない時代であるからこそ、現代から時空を隔てて江戸の世界に遊ぼうという歌舞伎の場合には、意識して「呼吸を深く持つ」ことを学ぼうという・そういう鑑賞法があって良い。現代においては「呼吸を深く持つ」ことの重要性 がさらに増していると思うのです。そのためにはまず歌舞伎役者の台詞術から直していかねばなりませんねえ。
(H21・8・3)
○アジタートなリズム・その32:原型(オリジナル)とは何か・2
七代目三津五郎は他人に型を教える時に、必ず原型(オリジナル)に立ち返って、何が正しく・何が正しくないか・自分はどこを変えて演じたかをしっかり押さえて教えたということについて触れました。原型の九代目団十郎とは柄も仁も違う役者が同じ型を演じるならここは変えても結構・しかしここを変えてしまったら九代目団十郎の型にならないよ・ここは変えてはいけないよ・ここを押さえなければいけないよということがあるのです。そういう違いが分かることが大事なのです。六代目菊五郎の指摘する通り・十五代目羽左衛門の言い回しはどちらかと言えば七のユニットに比重が傾いており・厳密に言えば時代世話ですが、まあこれは羽左衛門の工夫であるということも言えます。問題は後世の役者(それと 世間もですが)が十五代目羽左衛門の台詞を漫然と聞いて、それを音楽的な言い回しだと受け取って、七のユニットに比重を置いて節回しを付けてねっとりと言う・その結果七のユニットが伸びてしまうことが黙阿弥の七五調のお約束みたいにとらまえたことにあります。(この点については後段において・もう少し考察いたしましょう。)ですから六代目菊五郎が「橘屋の兄貴(十五代目羽左衛門)の黙阿弥の台詞廻しは親父(五代目菊五郎)の言い回しとは違う」と指摘しても、「俺の贔屓の橘屋を悪く言うとは何事か・菊五郎はけしからん」みたいな 感情的な反応になって・まともな議論にならないわけです。黙阿弥の七五調において押さえるべきことは七五のユニットを等間隔に持つこと・それが七五調の様式感覚を生むのだということが分かってさえいれば答えは簡単です。 十五代目羽左衛門がどこを変えたかを分かっていれば、そこを元に戻せば・ちゃんと五代目菊五郎の言い回しになるのです。
別稿「左団次劇の様式」では剛球投手二代目左団次の言い廻しを技巧派投手三代目寿海がどう工夫して受け継いだかを考察しました。現代の新歌舞伎での問題は寿海の新歌舞伎の台詞を漫然と受け継いで「台詞を緩急付けて朗々と音楽的に歌うのが新歌舞伎の台詞廻しだ」と思い込んでいることにあります。例えば昭和32年9月歌舞伎座の二代目猿之助(猿翁)の夜叉王・寿海の頼家が共演する「修禅寺物語」の舞台映像が残っています。左団次劇団の副将格が共演する記録はとても貴重なものです。二代目左団次の舞台どころか・寿海も猿翁の舞台さえ見たことのない後世の人間(吉之助もそのひとりです)がこの映像を見る時・大事なことは、「どちらの役者の台詞が巧いか」なんてことではありません。左団次劇を引き継いだふたりの役者がどこに左団次の面影を追って演じたのか・その共通した要素は何かということです。台詞を歌うか・歌わないかなどということよりも大事なものがあるのです。「修禅寺物語」は明治44年5月・明治座初演時は左団次の夜叉王・十五代目羽左衛門の頼家という配役でしたが、脚本を読めば・そこに共通した 新歌舞伎のリズムが読み取れます。
頼家『あたたかき湯の湧くところ、温かき人の情も湧く。恋をうしないし頼家は、ここに新しき恋を得て、心の痛みもようやく癒えた。』(アタ/タカ/キ/ユノ/ワク/トコ/ロ/アタ/タカ/キ/ヒト/ノ/ジョウ/モ/ワク)
夜叉王『神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まず我が作に現れしは、自然の感応、自然の妙、技芸神にいるとはこの事よ。』(シゼン/ノ/カン/ノウ/シゼン/ノ/ミョウ/ギゲイ/シンニ/イル/トハ/コノ/コト/ヨ●)
このリズムを念頭に入れて寿海と猿翁のそれぞれの台詞を聞けば、ふたりの役者がどこに左団次の面影を追って演じているのかは歴然としています。新歌舞伎の台詞で大事なことは、アジタートなリズムに現れる「胸のなかに溜ったものを吐き出さずにはいられない」という熱い思いです。前に押すアジタートなリズムこそが左団次劇の様式です。そこに二代目左団次の原型(オリジナル)がありありと聞こえてくるでしょう。
(H21・7・31)
○アジタートなリズム・その31:原型(オリジナル)とは何か
七代目三津五郎は他の役者に芝居の型を教える時には次のような教え方をしていたそうです。「九代目団十郎は次のようにやった。自分(三津五郎)は九代目とは柄が違うので・ある部分は工夫してこのように変えてやっている。しかし、あなたは 私のようにやってはいけません。本当はこのやり方(九代目のやり方)が正しいのです。」という風にです。三津五郎は九代目団十郎とは柄も仁も違うので・自分の寸法に合せて型を工夫しているのですが、他人に教える時には必ず原型(オリジナル)に立ち返って、何が正しく・何が正しくないか・自分はどこを変えたのかをしっかり押さえて教えるのです。この教え方は伝統芸能の伝授の時に大事なことなのですが、実際にはとてもラフな形でそれが行なわれていることが少なくないようです。「俺はこのやり方でやってるよ・あとはお前の工夫でやりな」で終わりということです。だから、その役者の仕勝手(良く言えば工夫なんでしょう けどね)が無批判的に伝わって・原型がどんどん崩れていく・何が正しいかが分からなくなってしまうのです。
ですから歌舞伎の舞台を見ていて「何が正しいか」を見極めるためには、その舞台を見て「良かった・悪かった」の印象だけで判断してはいけません。「良かった」けれども正しくないということが、実はたくさんあるのです。 しかし、正しいものは必ず良いはずです。もし「正しい」けれども良くないと感じるならば・それはその役者が十分その型を消化できていないからそうなるのであって、「正しい」けれども良くないということは絶対にありません。
昭和10年代半ばのこと・ 六代目菊五郎が「橘屋の兄貴(十五代目羽左衛門)の黙阿弥の台詞廻しは親父(五代目菊五郎)の言い回しとは違う。あれでは世話でなくて・時代世話だ」という趣旨の発言をして物議を醸したことがありました。周囲の反応は「俺が贔屓にする橘屋を悪く言うとは何事か・菊五郎はけしからん」というような感情的な批判、あるいは「六代目の言い回しは地味で渋いが、橘屋の方は華やかで音楽的だからずっと良い」とかいう印象批判的なものばかりで、菊五郎の真意はほとんど顧みられることがなく・菊五郎を大いに失望させることになりました。この事件を契機に菊五郎のマスコミ嫌いにますます拍車が掛かった感があります。しかし、六代目菊五郎の指摘することはとても重要です。六代目菊五郎の提起する問題は「世話とは何か・何が正しいか」ということです。
十五代目羽左衛門の七五調の言い回しは高調子であり・音楽的な節回しがあり、六代目菊五郎のボソボソした低調子の言い方より確かにずっと華やかに聴こえます。六代目菊五郎は何だか渋くて・芝居っ気がないように感じられるかも知れません。しかし、羽左衛門の言い回しは七五のユニットで見た場合に、七のユニットに比重が掛かっていることが明らかです。その結果・「黙阿弥の七五調」の項で述べた通り・七五のユニットは等間隔で展開せねばならないのに、七が伸びた感じになっています。七五調のリズムは時代と世話の揺り返しの感覚をそのなかに含んでいます。だから七に比重が掛かると、言い回しが時代世話の感覚に傾くのです。六代目菊五郎が羽左衛門の言い回しを時代世話だと指摘するのはそういうことです。「黙阿弥の七五調」は世話なのですから、五のユニットに比重を掛けるのが正しいやり方なのです。
ただし十五代目羽左衛門の言い回しそれ自体を「間違っている」と決め付けることはできないかも知れません。黙阿弥の七五調に様式的な要素が全然ないわけではないからです。それはお嬢吉三や弁天小僧の長台詞がしばしば「ツラネ」と呼ばれることでも分かります。ツラネとは本来時代物の用語ですから、お嬢吉三や弁天小僧のそれをツラネと呼ぶのは正しくないのです。正確には「世話の長台詞」と呼ぶべきものです。しかし、そこに様式的な要素 も確かにあるのです。本来はそこから世話の方に引き戻す表現に重きを置くべきですが、時代の方に押すことで・世話の表現との対比を付けるというやり方もあり得ることです。また五代目菊五郎は低調子の役者でした。一方・その甥っ子にあたる羽左衛門は高調子の声質であり・また九代目団十郎崇拝の役者でもありましたから、その言いまわしは羽左衛門の独自の工夫として一定の評価はできると思います。ただし、後世の役者が羽左衛門の言い回しを「良い」として・「世話とは何か」を押さえないままに・それを無批判的に真似るならば、それは問題 になります。しかし、現実には多くの役者が羽左衛門のやり方を受け継ぎ、菊五郎のやり方は残らなかったのです。それは恐らく羽左衛門のやり方の方が何となく「華やかで良い」という見た目の印象・それだけなのです。そこに大きな問題がある わけです。歌舞伎の案内書には「黙阿弥の七五調には、写実で地味な六代目菊五郎の言い回しと、音楽的な様式美を強調した十五代目羽左衛門の言い回しと二通りのやり方があり・・」と書いてあるものが多いと思いますが、これは正しい認識ではありません。正しい黙阿弥の七五調の言い回しは六代目菊五郎のものであり、十五代目羽左衛門はそのバリエーション(亜流)であると考えるべきです。吉之助が「ダラダラ調」と 批判する現代の歌舞伎役者の七五調の言い回しは、十五代目羽左衛門の言い回しを無批判的に受け継いで・その結果七のユニットが伸びきった状態になったものだと考えられます。ですから、これを正しい七五調に戻すためには・「黙阿弥の七五調」のリズムが何を意味するのか・その正しい意味を知らねばなりません。
(H21・7・26)
○アジタートなリズム・その30:新歌舞伎のリズム・2
坪内逍遥が「桐一葉」・「沓手鳥孤城落月」により新歌舞伎作品の執筆を志した時、その根底にあったリズムはタンタンタン・・・・というインテンポの速いリズムであったと思います。それは決してシェークスピア様式の表層的な模倣ということではなく(もちろん発想のきっかけはそこにあるわけですが)、20世紀初頭という「無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代」の時代的気質の表出として必然的にこのリズムに極まってくるわけです。逍遥は豊臣家滅亡・大坂城落城という世紀末芸術的なテーマを取り上げることで作品に古典悲劇的な格調を持たせる工夫もしています。 これが日清・日露戦争から戦争の時代に突入していく世相に同時代的な意味においてシンクロしてくるわけです。「沓手鳥孤城落月・糒倉」での淀君狂乱は明らかにマクベス夫人狂乱がイメージされています。淀君の台詞のインテンポのリズムは台詞に古典的に引き締まった厳しい造型を与えると共に、既に間延びしてしまっていた歌舞伎の台詞術にこれまでになかった新しい感覚を吹き込むことに成功しました。
淀君『何じゃ、右大臣じゃ。右大臣とは。秀頼殿は日本の武将、征夷大将軍じゃ・・・征夷・・(ト言いかけて、如何にも悔しげに、じっと向こうを見つめて)エエ、 くち惜しや、誰あろう、征夷大将軍の母を・・・(トさめざめと泣き出す。饗庭の局が介抱しようとして寄るを手荒に突きのけ)おのれ、ようもようも、(ト急に目に角立て)何じゃ何じゃ、妾じゃ。妾とは何じゃ。今一度言うて見い。もう一度言うて見い。・・・・ ヤイ日本四百余州はみずからが化粧箱も同然じゃぞ。(しばらく無言で睨みつけて)フム、面白い。聞きましょう。・・・(ト誰かの言葉を聴いている思い入れ。やがてまた急に気色ばんで)ヤイ誰かある。治部少輔を呼びや。治部少輔を・・・・。』(「沓手鳥孤城落月・糒倉」・明治30年9月に「新小説」の付録として発表。初演は明治38年5月・大阪角座・初演の淀君は十一代目仁左衛門)
淀君の表情・言動がころころと変転して一定しないところに・ロマン的心情の発露を見るべきですが、もうひとつの特徴が淀君が無言で狂態を見せる長い間合いがとても多いことにあります。こういう場面では次は何が起こるかと観客はぐっと息を詰めて舞台を見るわけですから、演技に一貫したリズム感覚がないと・観客は疲れて全体が見れなくなってしまいます。それでは何でリズム感を付けるかと言えば、それはもちろん台詞のリズム によってです。ここでのインテンポのリズムは「機械的なリズム」と呼ぶべきですが、淀君は迫り来る滅亡への予感に慄いており・その感情のなかで突き動かされる木偶であるのです。それがインテンポのリズムが示すものであり、それは20世紀初頭の芸術思潮である「ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)」と密接につながっているものです。一方で淀君お傍の饗庭の局の台詞を比べてみます。
饗庭の局『(泣きながら)ササそのお嘆きもお怒りも、お道理とも、ことわりとも、御もっともとも、当然とも、申し上ぐる言葉とてもござりませねど、何を申すも此のように御本心無き御有様でござります。』
ある座談会で「余韻を重んじ・言葉少ないのがいいとして・逍遥が力を入れて書いたところ(淀君の台詞)より、「そのお嘆きもお怒りも・お通理とも・ことわりとも・ごもっともとも・当然とも・・」なんて台詞の方が芝居らしくて面白い」とお笑いになった先生方がいらっしゃいました。まず申し上げておくべきは、迫り来る滅亡へのリズムをひしひしと感じている淀君にとって、それを感じ取れない周囲の鈍感な人々はまったく別世界の人間だということです。もちろん彼らは淀君の敵ではありませんが、概念上は淀君と対立している人たちです。だから逍遥はわざと旧来調の古臭い・まあ言ってみれば芝居らしい台詞のリズムを饗庭の局に与えているのです。そういうところに逍遥の芝居好きの地が出ていることは事実だと思います。しかし、逍遥が新歌舞伎で目指すところの本意は、逍遥が言うように「在来の台詞回しのようにただ見物に聞かせることを主にしたのと別様に見てもらわねば」分からぬものです。逍遥が新歌舞伎で目指すところのものがどこに現れるかと言えば、台詞の様式から言えばそれはタンタンタン・・・・というインテンポのアジタートなリズムなのです。
二代目左団次の新歌舞伎については別稿「左団次劇の様式」で詳しく論じたのでそちらをお読みいただきたいですが・新歌舞伎運動のなかで二代目左団次(とそのブレーンたち)は坪内逍遥とまったく別の流れになりますけれど、彼らもまったく別の経路から同じタンタンタン・・・・というインテンポのリズムに到達したのです。左団次の発想の原点は明治39年(1906)の欧州演劇視察旅行・特にロンドン演劇学校での体験であったと吉之助は考えています。しかし、結果として左団次も逍遥も共に同じリズムに到達した根拠はもちろん20世紀初頭の時代的気質にあるのです。この時代においては日本史も「世界のなかの日本」という視点で読まねば正しい形はつかめません。もちろんこの時代の歌舞伎も同様です。 新歌舞伎のアジタートなリズムは、明治末期から大正期の日本の状況だけから読むものではなく、20世紀初頭の世界を取り巻く状況を念頭に入れて読めば・その意味はおのずと明らかになるのです。
(H21・7・18)
○アジタートなリズム・その29:新歌舞伎のリズム・1
明治44年(1911)帝国劇場において坪内逍遥をリーダーとする文芸協会により第1回公演としてシェークスピアの「ハムレット」が上演されました。それ以前にも翻訳劇は上演されていますが、演劇史において「新劇の創始」とされるのがこの帝劇公演です。しかし、その評判はあまり結構なものではありませんでした。この時の芝居で「主役の台詞がせきこみ過ぎである」という評が出たそうです。つまり新歌舞伎での二代目左団次の台詞が「一本調子を以って・焦き込みがち」と批判されたのと似たようなことを言われたのです。これに対して逍遥は次のように反論しています。
『 僕の耳に触れた評のたいていは、我々の劇を評するに在来の劇を評するとまったく同じ標準を用いていたようである。たとえば土肥氏の台詞回しをせきこみ過ぎると評した人があったが、その実あの調子が我々の工夫の一である。人物の性格に応じ、その情調に応じて在来の台詞回しにはかってないような調子を用いさせたような例がいくつもある。せき込むべき時にせき込むのは当然のことである。在来の台詞回しのようにただ見物に聞かせることを主にしたのとは別様に見てもらわねばならぬ。』(坪内逍遥・「ハムレット」公演後の所感・明治44年6月)
逍遥は「そのせきこみ過ぎに聞こえる台詞の調子こそ我々の工夫した点だ」と言うのです。その工夫の詳細について逍遥は述べてはいませんが、しかし、逍遥の周辺の論文を追って行けばその察しはつきます。そのヒントはシェークスピアの英語の台詞のリズムです。ご存知の通り・逍遥はシェークスピア作品の全訳を最初に手がけた人ですが、その翻訳は「旧劇の雰囲気を濃厚に引きずって・旧文体で読みづらく・また古臭い」としばしば笑われます。しかし、「小説真髄」や「当世書生気質」などを書いて近代日本文学のきっかけを作った逍遥ほどの人物が文体に鈍感のはずが ありません。逍遥は明らかに意図的にあの「古臭い」文体を駆使しているのです。逍遥は「沙翁劇の翻訳」(明治43年1月)において次のように書いています。逍遥はシェークスピアの韻文 (それはエリザベス朝演劇の古い時代の近代英語なのです)のスタイルをそれにふさわしい日本語に移し変えるにあたり、日本古今の文学作品をいろいろと研究しました。 その結果・文章の格調において近松周辺の浄瑠璃作品の文体が感じとしてそれにふさわしいと判断して、さらにシェークスピアの語彙の多さなどを考慮し・これに文化文政期までの物語本などの用語も参照しながら 逍遥は翻訳を進めたのです。
シェークスピアの韻文の特徴はブランク・ヴァース(blank verse)すなわち韻を踏まない韻文だということです。韻を踏まないのにどうして韻文と言うのかというと、行末を空白(blank)に置くからです。つまり、文章にリズムがあれば・それが韻を踏んだのと同じ効果を生むことになり・それは詩(韻文)になるということです。逍遥以後 のシェークスピア翻訳には語呂合わせや駄洒落を組み合わせて・言葉遊びの要素を強調したものが多くあって、台詞にリズム感を出そうとするそのご苦労が察せられます。しかし、語呂合わせや駄洒落などはシェークスピアの文体の本質的なものではな いのでして 、実は言葉自体のリズムが重要なのです。だとすれば逍遥がシェークスピアのアイアンビック(ianbic)すなわち「弱/強」のリズムのリズムをその翻訳の基本イメージとするのは当然のことです。結局、逍遥が「せきこみ過ぎに聞こえる台詞の調子こそ我々の工夫した点だ」と言うのは・日本古来の二拍子に「強/弱」(trochiaic)の アクセントを付けたものであり、これは本稿「アジタートなリズム」で記した荒事の・例えば「大福帳読み上げ」でのタンタンタン・・・・の基本リズムに結果的に極めて近いものとなったのです。(詳細は別稿[左団次劇の様式・10」を参照ください。)
もうひとつ・明治40年代・すなわち20世紀初頭の芸術思潮を考慮せねばなりません。それは別稿「左団次劇の様式」でも考察した「ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)」の考え方で、その基本理念はイン・テンポです。逍遥は「九世団十郎」(明治45年9月)において、明治40年代という時代を『いかにも曖昧で、無解決で、あやふやで、成敗去就ともにほとんど誰にも解りかねて、昨日の楽観者が悲観者になるまいものとも知れず、大抵の人の心が、ともすれば不安の状態にある。ひと言を以って言えば、無解決の時代、不安の時代、煩悶の時代、神気疲労の時代である』と規定しました。このようなアジタートな・気ぜわしい・急きたてられた気分は単に当時の日本の状況を反映したというだけではなく、それは20世紀初頭の世界的な 時代気質というべきものから来るのです。それがタンタンタン・・・・の速い基本リズムに現れるものです。
(H21・7・12)
○アジタートなリズム・その28:黙阿弥の七五調・5
黙阿弥の七五調はそのすこし前の瀬川如皐の「与話情浮名横櫛」(切られ与三郎)の台詞とはアクセントがちょっと違っています。与三郎の有名な科白「しがねえ恋の情けが仇、命の綱の切れたのを、どう取り留めてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し・・・」 では、「しがねえこいの/なさけがあだ/いのちのつなの/きれたのを」という風に、すべて ユニットの頭にアクセントが付きます。これは関東方言の「頭打ち」のアクセントです。「切られ与三郎」の成功は人気の美男役者・八代目団十郎の魅力によるところも大きいのですが、関東なまりの科白が写実を感じさせたことも大きな魅力であった のです。最近の与三郎の台詞を聞くとねっとりと引き伸ばす感じでやられることが多いですが、本来この台詞は「しゃべり」・写実の要素が強いものです。
一方、黙阿弥の「七五調」を見ると、お嬢吉三の科白「月も朧に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、つめてえ風もほろ酔いに心持ちよくうかうかと・・・」では、「つきもおぼろに/しらうおの/かがりもかすむ/はるのそら」という風に、 七五のユニットの二字目にアクセントが付きます。これは「二字目起こし」と言って、上方のアクセントです。黙阿弥に強い影響を与えた四代目小団次は江戸生まれですが・大坂の小芝居で長く修行をした役者であり、芸風も科白廻しも上方仕込みでした。小団次が好んだ竹本・清元など浄瑠璃の多用も上方修行の賜物ですが、音曲はすべて二字目起こしの原則に沿っていますから・下座音楽との整合性を取るために科白もやはりその原則に沿わなくてはならないことになります。
このことは黙阿弥の七五調が如皐よりも音曲(様式)の方に若干寄っているということを示していますが、しかし、これは黙阿弥の七五調が写実から離れたものだということを意味しません。むしろその逆であると思います。台詞を下座音楽から浮き上がらせる為に、台詞はより強く写実を志向せねばならぬと考えるべきです。様式の乖離感覚を出す為に台詞は さらに写実を志向すると言ってもよろしいのです。黙阿弥の登場人物を内的に突き動かす力は、七五調のリズムのなかに沸々としています。これが七五調の揺れるリズム・微弱な興奮と沈静の波が示すものです。状況に対する憤懣はアイドリング状態で主人公の心のなかに渦巻いており、「汝、目覚めよ」というきっかけの声さえあれば、それは一気に噴き出すのです。台詞のなかの反音楽的な要素・反様式的な要素 こそドラマを内面から突き動かすものです。だから七五調の五のユニット・すなわち写実を表現する要素が重要になります。なぜならば黙阿弥の芝居は世話物なのであり・世話とは写実を志向するものだからです。
七のユニットはタテ言葉に似て・時代の感覚があるということを先に書きましたが、そうすると五のユニットは同じ長さのなかに5音しか入らないのだから・つまりそこに2音分の余裕があるわけです。この余裕を使って・如何に して世話の表現をたっぷり加えるかなのです。「月も朧に/白魚の」の「白魚」という言葉・あるいは「篝も霞む/春の空」の「春の空」という言葉にどういうニュアンスを入れるかは、黙阿弥の七五調を写実にするための大事なポイントです。また「月も朧に白魚の」で台詞が切れて・ ここで息継ぎが入るのではありません。ここで区切ってしまうから台詞が意味をなさなくなり、黙阿弥の台詞は音楽美だなどという誤解が生じます。「月も朧に白魚の篝も霞む春の空」まで がひとつの台詞なのですから、それは一気に流れるように言わねばなりません。「白魚」をたっぷりと言って「の」を次のユニットにスムーズに繋げるのです。「の」を引き伸ばして詠嘆調にしてはいけません。すべての語句は「春の空」に掛かるのですから、そのように聴こえるようにリズムを組み立てるのです。「春の空」 で大事になるのは「春の」の言い回しです。そこに春という季節ののったりとした雰囲気が欲しいわけです。ですから五のユニットのなかのリズムは一様なインテンポ になるのではなく、語句とその意味によって微妙かつ自在の伸縮があるのです。そこに写実の工夫があるわけです。
(H21・7・1)
○アジタートなリズム・その27:黙阿弥の七五調・4
黙阿弥の七五調にはストレスが弾けてリズムが破綻する内的要因が見当たらないようです。お嬢吉三の長台詞を見れば、台詞の破綻は「厄落とし厄落とし」という舞台脇からの掛け声によって付けられており、お嬢吉三の台詞自身から破綻が発するのでは ありません。このことは波のように揺れるリズムの特性によります。舟歌ではありませんが・同じく揺れるリズムを持つ代表的な旋律を例に挙げますと、ワーグナーの楽劇「ジークフリート」第2幕の「森のささやき」の場面がそうです。ドイツの深い森のなかで・風に静かに揺れる木々のざわめきが聴こえてきます。それはジークフリートにとっては顔を知らない母の胎内にいるような安らぎを覚える心地良さです。ところが、そこに突然小鳥の声が響きます。小鳥の声はジークフリートに新たな冒険・旅立ちを示唆します。小鳥の声に誘われるかのようにジークフリートはブリュンヒルデの眠る炎の山への歩みを始めます。この場合も小鳥の声が破綻の外的要因として働いています。
小鳥の声は二通りの意味を持ちます。ひとつは母の胎内に留まっていれば確かに安心・安全ではあるのですが、それはジークフリートが原始状態・あるいは愚鈍な隷属状態に留まることであり、さらなる成長をするために男は歩みを進めねばならない、小鳥の声は旅立ち・冒険を即す知恵の声であるということです。 それは「汝、目覚めよ」という声なのです。もうひとつは、ジークフリートが荒波のなかに乗り出していく時、彼は否応なしに世間の権謀術数のなかに巻き込まれ、それはもしかしたら 最終的に彼を悲劇を導くことになるかも知れないということです。事実ジークフリートは炎の山へ歩み・そこで妻となるブリュンヒルデを見出すのですが (そこまでは良いのですが)、続編の「神々の黄昏」ではハーゲンの陰謀に巻き込まれて・殺され、その死はやがて神々の世界の破滅を導くことになります。ですから小鳥の声は 彼を破滅へ導く声かも知れないのですが、同時に一旦それを聞いてしまったら・ジークフリートを内側から突き動かす強い強制力を持つ声でもあるのです。
お嬢吉三の長台詞での「厄落とし厄落とし」という声にもドラマ的な意味を感じます。この時にお嬢吉三が手にしている刀(庚申丸)と・そして百両こそが、まさしくこの「三人吉三廓初買」のドラマ全体を動かし・その後の三人の吉三郎の運命を引きずりまわす元凶だからです。するとこの時の「厄落とし厄落とし」は「そんなもの(厄)は早く捨ててしまえ」という天の警告なのかも知れません。それを捨てなかったから三人の吉三郎は悲劇に向かうとも言えそうです。 この声はまだ主人公を改心させるだけの力は持っていないようです。
しかし、黙阿弥・特に幕末期の四代目小団次との提携作品においては、偶然の外的要因が主人公の心境変化の大きなきっかけとなって、そこから他動的に変心していくものが実に多いのです。「十六夜清心」では隅田川の岸で清心は死のうとしますが、「・・・ちょっと待てよ」と言って変心します。主人公の変心を即す伏線となるものは、その前に奏でられる清元の旋律です。よそ事浄瑠璃的に使われているその清元は、その情緒纏綿たる雰囲気によって清心の世俗への執着を引き出しています。「鋳掛け松」で松五郎は橋の上から船上でドンチャン騒ぎをやっているのを見て頭に来て「あれも一生、これも一生・・・」と言って変心してしまいます。偉そうに言っても・どちらの変心も盗賊になるだけのことです。その先に待っているのは破滅でしかありません。彼らはその正体をまだはっきりと認識してはいません。しかし、彼ら は 「汝、目覚めよ」という声を確かに聞いたのです。
但し書き付けますと、「十六夜清心」の清元や「鋳掛け松」のドンチャン騒ぎが直接的に「汝、目覚めよ」と言うメッセージを含んでいるわけではありません。主人公のなかに無意識的な形で 状況に対する憤懣がずっと渦巻いており、それがある些細なきっかけで化学反応を起こすように目覚めるのです。それは主人公の内的な変化ではありますが、他動的としか言いようのない変化なのです。
このような偶然の外的要因をきっかけに主人公が他動的に変化するドラマは、幕末江戸の閉塞した気分から来るものです。それは緩慢なストレスが掛かった状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分を醸し出します。それは台詞としては独特の揺れるリズムを持つ七五調となって現れ、ドラマツルギーとしては他動的な 変心という設定となって現れます。どちらも表裏一体で切り離せないものです。(この閉塞した時代の空気を打ち破ったのが黒船という外的要因であ ったことは決して偶然ではありません。 結局、そういう形でしか明治維新はならなかった。このことは「歌舞伎素人講釈」のテーマではありませんが、日本人として考えておくべき歴史的な課題です。)
このことは別稿「黙阿弥のトラウマ」でも触れました。黙阿弥個人の段階としては・ライバル瀬川如皐に水をあけられ・隅田川に身投げしようかと思いつめ・街を当てもなくさまよった若き日の体験から来るように吉之助は想像します。橋から身を投げようかとユラユラ揺れる河面を見つめていると、そこに街の灯かりが揺れています。どこからかドンチャン騒ぎも聞えて来ます。 愉しそうな小唄や三味線の音も聞こえて来たでしょう。死を考えている黙阿弥にとってそれは煩い・イライラしたしたものにしか聞こえないのですが、実はそれが黙阿弥の意識を世間の方に・生きる意欲の方へ繋ぎ止める働きもしているのです。「あれも一生、これも一生・・・」ということを若き黙阿弥も考えたかも知れません。そこで黙阿弥は盗賊になろうとはもちろん思いはしなかったのですが、多分何かの強い破壊衝動は感じたと思います。自らは明確な形を取り得ない七五調の揺れるリズムに「汝、目覚めよ」という旋律が重なる瞬間です。その瞬間をきっかけにして、ドラマは内側から動き始めます。黙阿弥のドラマをそのように理解したいと思います。
(H21・6・28)
○アジタートなリズム・その26:黙阿弥の七五調・3
黙阿弥の七五調のリズムとは七・五のユニットを等分に取り・そのなかを七と五に割るリズムであること、つまり七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムです。「三人吉三」での有名なお嬢吉三の長台詞(ツラネ)を見てみます。
『月も朧(おぼろ)に白魚の、篝(かがり)もかすむ春の空。冷たい風もほろ酔ひに、心持ちよくうかうかと、浮かれ鳥(からす)のただ一羽。塒(ねぐら)へ帰る川端で、棹(さお)の滴(しづく)か濡れ手で泡。思い掛けなく手に入る百両。(御厄しませう、厄落とし厄落とし)ほんに今夜は節分(としこし)か。西の海より川のなか、落ちた夜鷹は厄落とし。豆沢山に一文の、銭(ぜに)と違った金包み。こいつァ春から、縁起がいいわへ。』(「三人吉三廓初買」・大川端のお嬢吉三の長台詞)
この場合、「月も朧に(七)/白魚の(五)/篝もかすむ(七)/春の空(五)」となり、ユニットを揃えれば・七が早く・五がゆっくりとなる揺れるリズムとなるわけです。前章で触れた通り、これを時代と世話の揺り返しであると考えるならば、七のユニットがやや高調子となり・時代の部分になるわけですが、ここが大事なのではありません。ここで張り上げて歌おうとするからダラダラ調に陥るのです。この台詞が世話の台詞だということを忘れてはなりません。世話の台詞 ・つまり写実の重きを置かねばならぬのですから、五のユニットの方が大事なのです。この部分はテンポとしては若干ゆっくりめになり、ここを世話に低調子で・写実にあっさりと処理することで、時代と世話の様式の揺らぎが際立つということです。ですから黙阿弥の七五調は歌うものだというのは大きな誤解です。
揺れるリズムとは、どういう気分を表現するものでしょうか。揺れるリズムとは典型的なロマン的心情のリズムです。それはしばしば幻想的で優雅なイメージで捉えられますが、実はこれは緩慢なストレスが掛かった状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分です。だんだんとテンポが速くなり・やがて猛烈な最高速度に達する極度な興奮状態(すなわちアッチェレランドのリズム)を示すこともなく、かと言って・リズムが遅くなり・やがて沈静していく状態(すなわちリタルダンドなリズム)を示すこともなく、どっちつかずに微弱な興奮と沈静の波が交互に慢性的・かつ緩慢に続くのです。
お気付きかと思いますが、このような気分は元禄期の荒事・あるいは和事のリズムともそのイライラしたところのアジタートな気分において根本で共通するものです。しかし、荒事の場合は・台詞は時にブツブツ切れ・時に大絶叫・時には速度を上げてまくし立てるという風にストレスが適度に弾ける場面があるのです。和事の場合にもフラリフラリと・時に右に行き・時に左に大きく振れながら・それで適度な発散はしているわけです。和事でも時にカツンと来ることはあるのです。 ところが黙阿弥の七五調の揺れるリズムの台詞ではそのようなリズムの破綻の場面が乏しいと思います。ストレスが弾け・イライラ気分が発散されるところがない。上記のお嬢吉三の長台詞を見れば、台詞の破綻(アクセント)は「厄落とし厄落とし」という舞台脇からの掛け声によって付けられており、お嬢吉三の台詞自身から破綻が発するのではないのです。掛け声が終わると、お嬢吉三はまた同じリズムで滔々と台詞を続けます。閉塞した気分は揺れながら漂い・決して解決されることがありません。
揺れるリズムとは典型的なロマン的心情のリズムであると申し上げました。西洋音楽では揺れるリズムの音楽は19世紀半ば過ぎから盛んに現れます。その典型的な音楽形式は舟歌(バルカローレ)です。例えばオッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」の第2幕・ベネチアの歓楽街で歌われる有名な「ホフマンの舟歌」です。「ホフマン物語」はあらかじめ消え去ってしまった愛・求めても実現しない愛を描いています。詩人ホフマンが愛する女性は人形(オランピア)であり・娼婦(ジュリエッタ)であり、真実愛する女性(アントニア)は死んでしまいます。ホフマンは愛するものを手にすることはできません。ですから「ホフマンの舟歌」は 幻想的で美しい旋律ですが、描いているものは死または虚無なのです。もうひとつ、舟歌では水のイメージが非常に大事です。これもまた死のイメージに深くつながっています。世紀末美術で盛んにとりあげられたもので水に関連する題材(モティーフ)のひとつに、恋人ハムレットへの恋に悩乱したあげく・気が狂って河に落ちてしまったオフィーリアの死体が河面を静かに流れていくものがあります。ですから舟歌の揺れるリズムは水のイメージ・死のイメージなのです。
このことは黙阿弥の七五調を考える時に重要な示唆があると考えねばなりません。幕末期の黙阿弥の作品(すなわち四代目小団次との提携期である)はどれも隅田川のイメージと切り離すことはできないからです。例えば「忍ぶの惣太」・「三人吉三」・「弁天小僧」・「十六夜清心」・「鋳掛け松」です。黙阿弥の世話物の舞台となる浅草と隅田川周辺というのは、江戸の二大悪所と言われた吉原遊郭と芝居小屋があり、そこは徳川幕府によってまさに「他界」として位置付けられた地域でした。(別稿「監獄都市・江戸の都市構造」を参照ください。)また江戸時代には隅田川では実際身投げが多かったようで、「三人吉三」でも土左衛門伝吉という人物が登場します。伝吉は和尚吉三の父親ですが昔は盗賊で、 その後改心して隅田川に浮いた水死者を引き上げては埋葬することをするようになって、それで誰とはなく彼を土左衛門伝吉と呼ぶようになったという設定になっています。(別稿「生と死の境」を参照ください。)黙阿弥の七五調の揺れるリズムの背後には つねに水のイメージ・死のイメージがつきまといます。そこまで考えれば黙阿弥の七五調がどうして幕末期の・江戸歌舞伎のまさに最後の最後になって誕生したのか・その理由が明確に分かるはずです。それは 袋小路に追い込まれた幕末江戸の閉塞した気分を反映しているのです。
お嬢吉三になったつもりで・奪った刀(庚申丸)を手にして隅田川に向かってポーズを取って・月光で明るく輝く川面を見ながら長台詞(ツラネ)を言う場面を想像してみてください。 隅田川はゆったりと流れて、その波は静かに揺れています。河面には月の光が反射して・それがユラスラと幻想的な光景を見せています。向こう岸の街の明かりも河面に静かに揺れています。それを見ながらお嬢吉三が気持ちよく「月も朧に/白魚の/篝もかすむ/春の空」と台詞を言う時、そのリズムは美しくユラユラと 河面に揺れるのです。これが本当の黙阿弥の七五調のイメージなのです。
(H21・6・24)
○アジタートなリズム・その25:黙阿弥の七五調・2
別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」において・黙阿弥の七五調のリズムは、七・五のユニットを等分に取り・そのなかを七と五に割るリズムであること、したがって七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムであることを考え てみたわけです。このことは例えば昭和7年2月録音での六代目菊五郎の弁天小僧の台詞でも聴いていただければ、簡単に分かることです。大事なことは一音一音の刻みでリズムの差を計ろうとせずに、ユニットの長さで大掴みすることです。7/7と5/5の差異など人間の耳に正確に感知できるものではないです。大まかな枠でその差異を感知することです。七・五のユニットが同じ長さということを念頭に入れて・六代目菊五郎の弁天小僧の台詞を聴くと、実に台詞の リズムが小気味好く耳に入ることに感心すると思います。そして五の部分が若干緩やかに聴こえるはずです。これが正しい黙阿弥の七五調のリズムなのです。
現代の役者がしゃべる七五調を、同じように七・五のユニットが同じ長さというイメージで聴いてみてください。多分五のユニットが早いように感じられると思います。実はこれは聴感上の錯覚で、これが吉之助の言うところのダラダラ調の場合に起きる現象です。実はこれは七五の一音が同じ長さでダラダラと続いており、結果として七・五のユニットが伸び縮みしているから起きる錯覚なのです。ですから五のユニットが早く感じられるならばダラダラ調です。
黙阿弥の七五調が、七が早く・五がゆっくりとなる変拍子・揺れるリズムであるということは何を意味するでしょうか。この場合七のリズムを基調にして考えなければなりません。七のユニットの早めのリズムは感覚的にタテ言葉のようなものと考えてよろしいです。(注:「その19・義太夫狂言のリズム」でのタテ言葉の項を参照ください。)つまり感覚として時代なのです。一方、五のユニットは・同じ長さを五で割ってゆったりと回すので、ここが世話の感覚になるのです。このことは例えば「浜の真砂と(七)/五右衛門が(五)/歌に残せし(七)/盗人の(五)/種は尽きねえ(七)/七里ヶ浜(五)」の場合に、七の部分を若干高調子に声を持ち(すなわち時代の感覚)、五の部分は低めに持つ(つまり世話の感覚)となることでも分かるはずです。ですから黙阿弥の七五調というのはそのなかに時代と世話の揺り返しのリズムというものを持っている のですが、大事なのは五の部分(世話)なのです。しかし、ユニットとしては等分に出てくるので・全体の感覚はインテンポになっており、それが古典的な様式感覚を聴く者に与えるということです。
昭和10年代半ばだと思いますが、 六代目菊五郎が「十五代目羽左衛門の黙阿弥の台詞廻しは世話でなくて・あれは時代世話だ」という趣旨の発言をして物議を醸したことがあったそうです。十五代目羽左衛門の台詞が世話でないと切り捨てたわけではなかったようですが、「親父(五代目菊五郎)の言いまわしとは違う」というニュアンスは確かにあったようです。ご存知の通り・ 十五代目羽左衛門は五代目菊五郎の甥っ子であり、五代目菊五郎の役柄は実子である六代目菊五郎と・十五代目羽左衛門のふたりによって継承されました。ふたりの芸風には微妙な差があって・役どころもあまり勝ち合った印象がありませんが、世間は六代目菊五郎が「生世話の本家はあっちでなくて・こっちだよ」と言ったという風に受け取ったようで、橘屋贔屓は大いに腹を立てたようです。
しかし、遺された録音を聴いてみれば六代目菊五郎の言いたかったことはよく分かります。十五代目羽左衛門の台詞はもちろん見事なものです。しかし、十五代目羽左衛門の台詞はダラダラ調とまでは行きませんが、全体にテンポが 滑らかで・高調子であり、七のユニットに比重が掛かって・様式的な・つまり時代の感覚に傾斜していると思えるからです。これでは世話ではなく・時代世話だと批判したくなる気持ちは吉之助にはよく理解できます。五代目菊五郎は実子の六代目菊五郎の台詞を聴いても分かる通りで・「六代目は五代目とどこが似てるかって・・それは声です」というくらいですから、五代目菊五郎が低調子の人であったことは間違いありません。だから低調子のところに世話(写実)の感覚があるのです。だから五のユニット(ゆっくり)の部分の言い回しこそ黙阿弥の七五調を世話の感覚に引く・とても大事な部分となるのです。
一方、現行のダラダラ調は「黙阿弥の七五調は歌うもの」という先入観から来たもので、わらべ歌にあるような日本古来の二拍子のリズム感覚を基調にしています。そして七のユニットの方に比重を置いて、ここを高調子で抑揚を付けて歌おうとします。「歌う」ということは様式的に反写実な行為ですから、自然と感覚は時代の方に向くことになります。つまり現行のダラダラ調は、本来写実を志向すべき黙阿弥の七五調を理念としてまったく逆の方向(時代の感覚)に引いていることになります。
十五代目羽左衛門の台詞は様式を織り交ぜた台詞回しとして確かにそれなりの評価ができるものだと思います。これは大正期の歌舞伎の保守化現象の流れのひとつとして検証ができるでしょう。しかし、十五代目羽左衛門の台詞回しが現行のダラダラ調の原型になっていることも確かなのです。こういうことになるのは本稿冒頭(「その1・リズムの緩急」)で引用した折口信夫の指摘した通り「歌舞伎ほど台詞のエロキューションに頓着しない芸能は珍しい」ということにあるのです。 歌舞伎はフォルムに応じたリズムで台詞をしゃべるという感覚に実に鈍感であり、役者の自分勝手な言いまわしを「味がある」・「調子が良い」などと言って許してしまう。役者も劇評家も 観客もそうですから、何が正しいフォルムかなんてことはすっかり忘れられているのです。基準は自分が好きか・嫌いかだけ。だから「黙阿弥の七五調は歌うもの」などという誤解が罷り通ります。
昭和7年の六代目菊五郎の弁天小僧の録音では南郷を男女蔵(三代目左団次)がつきあってますが、これは世話のお手本がすぐ横にいるというのにダラダラ調です。まあそういう役者もいますね。六代目菊五郎の側近では、吉之助がよく知っている晩年の二代目松緑も十七代目勘三郎も残念ですがダラダラ調で、芝居はもちろん巧いものでしたが・七五調の台詞はいただけませんでした。恐らく彼らの脳裏にあったお手本は十五代目羽左衛門の台詞回しであったでしょう。そっちの方がどうしても派手で良く思えるのですね。しかし、菊五郎劇団の生き字引と言われた十七代目羽左衛門はさすがに六代目菊五郎のリズムをしっかりと継いでおりました。
現代の役者では当代・十代目三津五郎の七五調は正確なもので、さすが大和屋は伝承がしっかりした家だなあと思います。当代・十八代目勘三郎もなかなか良いです。恐らくお祖父さん(六代目菊五郎)の録音をよく聴いているのだろうと思います 。これは親父さんよりずっと正しい七五調です。ただし勢いが良過ぎる感じがしますね。吉之助としては全体をもう少しゆっくりめに持って・五の部分に写実のニュアンスを加えることをお勧めしたいのですが。他の役者については・・・・まあ触れないことにしておきます。
(H21・6・20)
○アジタートなリズム・その24:黙阿弥の七五調・1
まず最初に一般論として七五調を考えてみたいのですが、短歌や俳諧を例に挙げるまでもなく・遠く神代の昔から七五というのは日本語によくマッチする形式であるとされているわけです。日本語は言葉の調子を整えようとすると、それは自然と七五の調子に極まってくるようです。謡曲においても、例えば「高砂」での有名な『高砂や。此浦舟に帆をあげて。月もろともに出で汐の。波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖すぎてはや住の江に着きにけり。』の文句は完全に七五の調子になっています。人形浄瑠璃・歌舞伎においても台詞の調子の良いところは大抵七五に成っていると言っても良いわけですし、役者の仕勝手として・台詞を七五に調子を整えて言い易くすることはしばしばです。
しかし、七五調の様式的な台詞ということになれば・それはまず黙阿弥の七五調を指すということになると思います。何せあのベストセラー本「声に出して読みたい日本語」(斉藤孝著)のトップは黙阿弥の弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」であるくらいです。それ以前の・例えば謡曲あるいは人形浄瑠璃の詞章を「七五調の様式」として論じることはまったくないわけです。それらは結果として七五に極まってしまった詞章であると考え られているわけで、それらを作者が意図的に七五調の様式で書いたものとは誰も見なさないわけです。それは正しい見方であると思いますが、そうすると幕末の・江戸歌舞伎のまさに最後の最後になって・黙阿弥の「様式としての七五調」が成立したということになる。どうして歌舞伎の黙阿弥以前に七五調の様式が成立しなかったのでしょうか。そうであるならば黙阿弥の七五調の様式の台詞と、それ以前の七五の調子に整った台詞を同じように捉えて良ろしいのでしょうか。
この疑問に解答を与えてくれる論文を・少なくとも吉之助は読んだことはないですねえ。一般に黙阿弥の七五調の様式の台詞は・それ以前の七五の調子に整った台詞と同じ性質のものに理解されていると思います。 この考え方に沿うならば、自ずと七五の調子に極まってしまう日本語の性質を「七五調の様式」にまで高めたのが黙阿弥の功績であるということになるのだろうと思います。フーンなるほどねえ。で・・・それでどうしてそれが幕末の・江戸歌舞伎の最後の最後に出なければならないのですかね。黙阿弥のもっと以前に七五調の様式が歌舞伎に出てきても良いのじゃないのでしょうか。なぜ幕末江戸の七五調なのでしょうか。そういうことを考えてみて欲しいと思うのですねえ。
結論から申し上げると、黙阿弥の七五調の様式の台詞と・それ以前の七五の調子に整った台詞とはまったく次元が異なるものなのです。黙阿弥の七五調は伝統の形式を表面として踏襲しながら、実はリズム的にまったく性質が違った要素を持っているのです。それは「アジタート」(急き立てる)のリズムの概念で解析されるもので、それこそが黙阿弥の七五のリズムを様式的にするものです。このことが分かれば、黙阿弥の七五調の様式が幕末の・江戸歌舞伎の最後の最後に登場しなければならなかった・その必然が理解できます。別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」をご参照ください。
(H21・6・18)
○アジタートなリズム・その23:南北劇のリズム・2
南北劇の台詞が写実な「しゃべり」の芸・つまり生世話に根差していることは、新劇俳優が南北を演じた場合でも・さほど違和感を感じないことでも分かります。新劇俳優の南北の台詞は確かに感触がさっぱりし過ぎる感じで・抑揚にもうちょっと膨らみを持たせてくれないと面白みが出ないよと不満を覚えないこともないですが、実は感触としては 「さっぱり」の方が南北本来の味に近いのです。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代前半には・南北は歌舞伎でもまだ上演が多くなかったせいか、役者が台詞のリズムにうまく乗れないで詰まる場面を舞台で見ることがよくありました。また大向うが掛け声の間合いを見事に外すこともしばしばありました。 これは現代の我々がもう少し後の時代の黙阿弥の台詞の技巧を歌舞伎らしい台詞の基準として擦り込まれているせいで、 無意識のうちに南北を黙阿弥の間合いで処理しようとするからなのです。(最近はそのような場面をあまり見かけませんが、逆に黙阿弥の方が怪しくなってきたのかも知れませんね。)
南北は「四谷怪談」や「馬盥の光秀」などごく少数を除けば・江戸から現代まで継続的に上演されてきた作品は少ないのです。そのほとんどは大正期の二代目左団次による復活上演をきっかけにした第1次南北ブーム、昭和40年代から50年代前半の アングラ芝居をきっかけにした第2次南北ブームを通じて現在の歌舞伎のレパートリーになっていったものです。ですから南北は様式的に幕末で途切れてしまったというのが 実情です。現代においても南北の台詞は様式的に正しく・つまり正しく生世話で発声されているとは言えません。多少でも黙阿弥の技巧を加えて歌舞伎らしい感じに処理されているというのが本当のところです。この「歌舞伎らしい」というのが曲者でして、例えば「四谷怪談」隠亡堀の場での直助権兵衛が伊右衛門に言う科白「女房が姉のお岩が敵、民谷伊右衛門、イザ立ち上がって勝負なせ・・・トサ云うところだが、そこを云はねえの。その代わりはお前が・・・・」を「そこを云はねえその代わり」と七五調に調子を整えるなどするわけです。「そこを云はねえその代わり」と言い換えてしまうと・確かにリズムに乗って言いやすくなりますが、台詞は様式のパターンにはまって・そこに時代の感覚が入り込んでくるでしょう。このような些細な積み重なりが「四谷怪談」全体の印象に及ぼす影響というのは意外と大きいものです。このため芝居が生世話の感触から離れてしまうわけです。「隠亡堀」前半の様式めいた処理は後半の「だんまり」と違和感ないとお感じの方がいるかも知れませんが・これはまったく逆でして、生世話が一転して時代の「だんまり」に変化する落差の妙こそが南北劇の面白さなのです。
世話から時代への変化・あるいは時代から世話へ戻る変化の妙こそが南北の面白さです。例えば時代を際立たせるために、その直前の世話をテンポを速めてサッと切り上げて・次を時代に意識的にゆったりと引き伸ばすという技巧ですが、その基調になるのはもちろん写実の世話です。「桜姫東文章・山の宿町権助住居」での清玄の幽霊に対する風鈴お姫(桜姫)の台詞を見てみます。
『コレ、幽霊さん、イヤサ、そこへ来ている清玄の幽霊どの。つきまとうような性(しょう)があらば、ちっとは聞きわけたがいいわな。自らが先々を鞍がえするも、そなたの死霊がつきまとうゆえ、馴染みの客まで遠くなるわな。エエ、人の稼ぎの邪魔をするのか。妨ぐるのか。最初はいとしやとも不憫なとも、因果の道理と思いしに、毎夜の事ゆえ慣れっこになって、怖くないよ。幽霊もそう足が近くっちゃア、飽きが来るよ。サア消えなよ消えなよ。夜が明けるよ。幽霊が朝直しでもあるまいサ。消えな帰りな。エエ聞きわけの悪い。坊主客はこれがうっとうしい。桜姫の前生(さきしょう)は、稚児白菊かは知らねども、こっちの知ったことでなし、いわば、そなたにこっちから、恨みこそあれ恨まるる、コレ話はねえよ。これじゃそっちがあんまり横というものだ。今こうしたしがねえ身になっていると思って、自らをみくびってつきまとうか。世に亡き亡者の身を以って、緩怠至極。エエ、消えてしまいねえよ。』
この風鈴お姫の台詞ですが、時代のお姫言葉の部分はテンポを遅くして様式的な感触を持たせます(またトーンも時代物調に多少高く作ります)が、全体は写実の「しゃべり」が基調になっています。ですから台詞の末尾はテンポ良く世話に短く切り上げて・長く引き伸ばさない方が良ろしいわけです。最後の「消えてしまいねえよ」も「シマイネエヨウ」と抑揚を付けて七語に揃えて時代にゆっくり引き伸ばすのではなく、「シマイネエヨ●」とテンポ早く・寸足らずで切る方が南北になるのです。どうしてそうなるのかは、このすぐ後に 幽霊の清玄が赤子を指差す思い入れがあって風鈴お姫が桜姫の性根に戻って言う「エ、ナ、ナ二、そんならこの子が妾(わらわ)が腹に誕生の。・・・」以下の台詞の大時代の台詞につながっていくことでも分かります。舞台の雰囲気は ここで一気に時代に変化する ・つまり作品の基本構造である「隅田川の世界」に戻っていく核心の場面であるわけですから、その直前は当然世話に引くのが定石であることがお分かりになると思います
風鈴お姫のお姫言葉は滑稽味を醸し出します。それは生世話(写実)の世界のなかに無粋にも時代(様式)の要素がしゃしゃり込むことに対する違和感ということです。このことを南北は趣向として・ 純粋に技巧の意味しか持たぬプロットとして捉えることによって、実に健康的な感覚で処理しています。そうでなければ風鈴お姫と桜姫の人格はふたつに分裂してしまって・「どちらの人格が真か嘘か」ということになってしまうのです。通常のドラマツルギーならばそういう読み方になってしまうのは当然のことですが、南北の場合はそうではありません。「どちらの人格も真」・そうでないならばむしろ「どちらの人格も嘘」であると言うべきなのです。それが南北の趣向です。吉之助はそこに文化文政期の江戸の庶民の健康な精神の証を見るのです。そのことが南北の台詞のリズムから考察できると思います。
(H21・6・13)
○アジタートなリズム・その22:南北劇のリズム・1
江戸時代の庶民文化の隆盛期と言えば前期の元禄文化・後期の化政文化(文化文政期)ということになりますが、歌舞伎作品から見ると・このふたつは若干様相が異なるように吉之助には思われます。まず元禄文化(元禄年間は1688年〜1703年)ですが、これは上方が中心になります。元禄期は社会構造の大枠がほぼ固まった時期であり・社会倫理道徳の基礎が出来上がった時期でもあります。逆に言えば生活のリズムは 次第に固定されてきて・逆らわずにルール通りにやっていれば何の支障もなく事は運ぶのですが、個人の自由はだんだん利かなくなってきて・人々は窮屈な気分を感じ始めた時期でもありました。江戸創成期に巷に跋扈したかぶき者たちは寛文期に幕府の弾圧によって姿を消します。このような窮屈な気分がイライラ・モヤモヤした疎外された気分を生み出すのです。かぶき者たちの「かぶき的心情」は違った形で受け継がれていくことになります。江戸の荒事・上方の和事は江戸人と上方人の気質によってちょっと見は違った印象を呈しますが、現象的にまったく同じ気分・心情から発したものであることが先の荒事と和事の台詞のリズム解析からはっきりと分かります。(これについては本稿11節〜17節を参照)
一方、文化文政期(1804年〜1829年)には上方経済が衰退に向かい、経済の中心が江戸に次第に移っていきます。化政文化では中心が江戸になります。この時期の鶴屋南北の作品を見ると・その台詞のリズムの様相がまったく異なるようです。南北劇の台詞には「しゃべり」の復権がはっきり聴き取れます。南北劇では義太夫が使用されないというのも常識ですが、これは南北が江戸の戯作者である(つまり上方発の義太夫節にそれほど親近感がない)という背景とともに、ある意味において芝居を音楽の呪縛から解き放つこと(脱義太夫)を志向しているように も感じられます。つまりこれは台詞の様式性が比較的弱いということであり、リズム面でのアジタートな要素もまた弱いということです。また「しゃべり」の復権ということになれば、場所が江戸であるからして・芝居のなかに関東方言・アクセントとしては「頭打ち」(言葉の最初の音にアクセントが付く)が強くなる傾向になるのもごく自然のことです。このようなことから察せられるのは、文化文政期の江戸庶民の精神の状況は・江戸時代260年ほどを通じ・もっとも良好であったということです。もちろん全然ストレスが掛からないということはいつの時代にもあり得ません・どの時代にも何らかのストレスがありますが、これは相対的なものでもあります。歌舞伎の台詞様式をいろいろ見ていくと・文化文政期の江戸庶民の精神はもっとも健康的であったというのが吉之助の所感です。
恐らく巷の通説ではその逆になると思います。南北劇は残虐でドギツクて、趣向本位で・刺激的であるとされています。江戸庶民もそのような娯楽を大いに求めたとされています。このような通説は、南北劇の台詞のリズム解析によって否定できます。文化文政期の江戸の庶民はとても健康な精神を持っており、その考え方も常識的です。この視点から南北作品の読み直しを計る必要があると吉之助は思います。 ですから南北の綯い交ぜの趣向も別視点で読むべきでしょう。別稿「世界とは何か」でも引用しましたが、ドナルド・キーン先生は次のように 指摘しています。
『文化文政期の南北あたりの歌舞伎は非常に残酷ですけど、それは当時の生活の鏡だとは思えないのです。よく芝居は生活の鏡だといいますけれど、僕はそれは嘘だと思います。生活といちばん関係のないようなものになることが多いのじゃないか。それはネガみたいなものです。(中略)本当に刺激の多い激しい時代には、全く牧歌的というか、非常にきれいな田園風の芝居や文学が出てくる。ナチス時代のドイツはいろんな人を殺していましたが、文学の方はたいへん健全です。眼が明るく輝いているような人物ばかり出ていました。』(ドナルド・キーン/安部公房との対談:「反劇的人間」・中公文庫)
ドナルド・キーン/安部公房:反劇的人間 (中公文庫 M 89)
これはキーン先生の指摘がまったく正しいのです。南北劇の台詞は様式性が弱く、「しゃべり」の復権が志向されています。このような健康的な視点から南北劇を読んでみたいと思います。
(H21・6・10)
○アジタートなリズム・その21:義太夫狂言のリズム・4
義太夫狂言が文楽(人形浄瑠璃)の真似ではない・生身の人間が演じる芝居であるならば、何がそう感じさせるのか・どこをどう工夫すれば歌舞伎になるのか・そういうことを考えて見なければなりません。現行の歌舞伎の演技ベクトルはどちらかと言えばその逆かも知れませんねえ。巷の劇評によく言うところの義太夫味・人形味という用語はどういう風に使われているでしょうか。「あのお芝居は元が文楽だったんだって。なるほどそんな感じだねえ」という風にオリジナルを想起させる方向に演技ベクトルが向いているようです。それは決して間違いというわけでもないのです。故郷は常に意識されるべきものだからです。しかし、義太夫狂言が歌舞伎であることの意義は、むしろ歌舞伎と文楽のリズムの微妙な齟齬から生まれてくるものです。本稿は台詞のリズム論が主旨ですが、これは歌舞伎の演技のリズム設計・あるいは全体の場面構成とも密接に絡むものですから、ここで手短かに触れておきたいと思います。
例えば「寺子屋」において奥で小太郎が首打たれる音がして・松王が思わずよろめいて戸浪に突き当たり・「無礼者め」と叫んで大きく見得をする箇所は最高に歌舞伎らしい場面です。しかし、原作である文楽にはこの場面はなく・これは歌舞伎の入れ事です。松王の心理行動をたんねんに追えば「無礼者め」は何だか取ってつけたような不自然な感じが多少しなくもありません。それでは原作通りにして・歌舞伎から「無礼者め」を取ってしまったらどうなるでしょうか。多分歌舞伎らしくなくて・物足りなく感じると思います。そう感じるのは我々が普段の歌舞伎の「寺子屋」の型を見慣れてしまったせいではなく、歌舞伎はそうすることで文楽の丸真似ではない・生身の人間が演じる芝居であることの何かを主張しているのだと考えたいと思います。(実はこの場合に本当に大事なのは「無礼者め」の見得ではなく・その前に思わず松王がよろめいてしまう世話の演技なのですが、そのことは更に以降をお読みください。)
別稿「六段目における時代と世話」で触れましたが、「六段目」には世話の場面にフッと時代の陰が差し・それが消えては現れたりしながら・やがて 全体が大きな時代の構図に飲み込まれていくという流れがあります。これはもちろん原作の文楽自体が持つものですが、現行歌舞伎の音羽屋型(三代目菊五郎の型から発したものです)はその様式の揺れを利用して・巧みに歌舞伎の生世話の手法を挿入しています。そこに歌舞伎独自の主張があるのです。したがって、別稿「時代と世話」に触れた通り・歌舞伎の勘平の台詞回しにも同じような世話と時代の揺れが出るわけですが、それはオリジナルの文楽が示すところのリズムとは微妙に異なったものとなります。
別稿「吉右衛門の樋口」で触れた「逆櫓」での松右衛門(実は樋口)の見顕しも同様で、歌舞伎の見顕しの方がオリジナルの文楽より世話の切り込みをより強くする入れ事がされています。それによって世話と時代の交錯がより強まっているのです。当然のこと・この場面の樋口にはその様式の揺れに即応した台詞回しが要求されるわけで、それはオリジナルの文楽が示すところのリズムとは微妙に異なったものとなってきます。そこに歌舞伎独自の主張があるわけです。
義太夫狂言が文楽の真似ではない・生身の人間が演じる芝居であるということの意義は、オリジナルに対して世話の切り込みを細かく挿入するという工夫によって表出されます。なぜならば出雲のお国以来・歌舞伎の本義はずっと写実なのであり・そのことは決して変っていない 。つまりそれは演技理念としては世話であるからです。世話の切り込みが、その前後の時代の彫りをより強く深く・より印象的に浮き上がらせます。ですから「寺子屋」の「無礼者め」の見得においても、重要なのはその直前の・バタッと小太郎が首打たれる音がして・思わず松王がよろめく・その写実の表現にあるのです。逆に言えば、世話の切り込みの深さをより効果的に見せるためにその前後の時代の表現が次第に強めになって行きます。これが歌舞伎の義太夫狂言の表現です。ですから義太夫狂言を演じるのに役者に義太夫の素質は必要なことはもちろんですが、役者が義太夫そっくりそのままの息で台詞をしゃべったのでは歌舞伎にならぬということを肝に銘じなければなりません。巷で言われるところの「義太夫味」という用語の意味はよくよく吟味されねばなりません。
(H21・6・6)
○アジタートなリズム・その20:義太夫狂言のリズム・3
舞踊でチントンシャンで「きまる」ようなことは先行芸能である能や狂言には存在しないものでした。能のお稽古で何かの拍子で動きが定間に入ってしまうと、「何ですか。いやでございますね。」と師匠から叱られるのだそうです。「きまる」というのは、それまでの日本の芸能の感覚からすると「いやなこと」だったのです。それは音楽的に言えば本来の日本音楽の概念には存在しなかった間・三味線の作る西洋音楽的な間(定間)に思わずはまってしまうということでした。これは既成の感覚からすると「 いやなこと・野暮なこと」だったのです。逆にいえば歌舞伎はそのような人に嫌われるようなことを意識的に行なって観客を挑発したのかも知れません。当時の「識者」たちはそれを見て顔をしかめたことでしょう。そこに歌舞伎の「傾いた」要素があるわけです。
しかし、ちょっと視点を変えて義太夫狂言で生身の役者が義太夫のリズムに乗って芝居を演じることを考えてみると、こんなことが言えると思います。定間というのは慣れてしまえば観客にとって も役者にとっても・乗り易い・分かり易い間なのです。心地良いリズムに乗ってしまえば・何となくそれで良いような気分に陥ってしまいます。しかし、その情感は実体をサラサラと上滑りして・その上を通り過ぎてしまうのです。演技面から見れば、これは生身の役者が音楽に動かされる木偶と化すということに他なりません。役者の動きは義太夫の視覚的な説明にしかすぎなくなる。(これについては別稿「子別れの乖離感覚」をご参照ください。)台詞面から見れば、それは写実の「しゃべり」から様式的な「 語り」・さらに「歌い」の方向に引き寄せられて しまい、肉声の要素を失なってしまうということです。ですから「きまる」あるいは「糸に乗る(リズムに乗る)」ということは確かに歌舞伎のひとつの特徴ではありますが、これに身を完全に預け切ってしまうことは 本来は写実の演劇を目指すはずであった歌舞伎の本義にもとることなのです。そこに歌舞伎の葛藤がある。ですから義太夫狂言の場合、役者が地(台詞の部分)・竹本が色(音楽的な部分・あるいはト書きの部分)と分けて持つわけですが、 竹本との掛け合いの・おそらく最も義太夫狂言らしい場面においても、音楽的なトーンの統一を破壊しない程度にまで・役者は台詞を写実の「しゃべり」の方へ引っ張ることが大事なことになります。実際、義太夫狂言の台本を・丸本(オリジナルの人形浄瑠璃本)と比べて見れば、人形浄瑠璃の真似ではない・生身の人間が演じる芝居にしようと狂言作者が出来る限りの苦心をしていることが察せられます。まあそのためにオリジナルの骨格が崩れてしまっている弊害も確かにあるのですが、それは仕方がないことなのです。
前章で取り上げた「盛綱陣屋」での盛綱の台詞を見てみれば、「大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智」の箇所は、歌舞伎では「教へも教へ・・覚えも覚えし親子が才智」のところで盛綱の「泣き」が入り、それまでの台詞の定間の快速リズムが ここで大きく破綻します。「かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう」の箇所も同様で、盛綱は大きく声を張り上げて・ここに強い感情の揺れを入れなければ歌舞伎になりません。さらに「母人、褒めておやりなされ、なぜ褒めぬ、褒めてやれ褒めてやれ」の箇所は歌舞伎の入れ事で・ここは役者が思い切り膨らませて歌舞伎独特の華やかさを全面に出さねばならぬところです。このような歌舞伎の工夫は、義太夫の視点から見れば崩しに他なりません。また歌舞伎が盛綱という役の性格を「情」の方へ傾斜させてしまった嫌いも確かにあると思います。しかし、歌舞伎の視点から見れば・それは様式的なリズムに乗った台詞を「しゃべり」の写実の方向へ・生身の人間の声に なんとか引き戻そうとする格闘でもあったのです。(別稿「歌舞伎における「盛綱陣屋」」もご参考にしてください。)
(H21・6・1)
○アジタートなリズム・その19:義太夫狂言のリズム・2
三味線は旋律楽器であると同時にリズム楽器でもあります。安土桃山時代に南蛮から渡来したとされる三味線が日本の音楽に与えたものは、明確な拍(リズム)の概念でした。いや正確にはそれまでの伝統音楽にももちろん拍はあるのですが、それを拍という概念で捉えることがなかったのです。例えば舞踊でチントンシャンで「きまる」というようなことは、先行芸能である能や狂言には存在しないものでした。三味線が観客に与える定間のイメージにはまるから「きまった」という感覚が生まれてくるわけです。三味線のリズムが義太夫節に与えた表現の幅というものはそれまでの芸能とは次元が違ったダイナミックなものであったと思います。
義太夫節の最も華やかな場面は「熊谷陣屋」や「実盛物語」に見られる「物語り」の場面であり・これももちろんアジタートの概念で論じられるものですが、本論は台詞のリズムを主題にしているのでそれは別の機会に論じるとして、ここでは「タテ言葉」について考えてみます。タテ言葉とは「立て板に水を流す」ようにサラサラと早口に台詞をしゃべるもので、元は浄瑠璃(義太夫)の用語です。現代なら「機関銃のようにしゃべる」とも表現できます。早口の台詞が荒事のなかにもあることは「荒事の台詞・14・15」でも触れた通りです。しかし、荒事の早口は写実の「しゃべり」が基本にありますから、その台詞のなかに緩急の波があり、時に急ストップ・時に大絶叫というアクセント で変化が付いています。これに対して義太夫のタテ言葉の場合には、タンタンタンと心地良い軽快なリズムがインテンポで続く点が違っています。タテ言葉の例として「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」での佐々木盛綱の台詞を挙げておきます。
「イイヤいっかな心は変ぜねど、高綱夫婦がこれ程まで仕込んだ計略。父が為に命を捨つる幼少の小四郎が、あんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志。彼が心を察するに、高綱生きてある中は鎌倉方に油断せず、一旦討死せしと偽って山奥にも姿を隠し不意を討たんず謀(はかりごと)。しかれども底深き北條殿、一応の身替りは中々喰はぬ大将、そこを計って一子小四郎を、うまうまとこの方へ生捕らせしが術の根組、最前の首実験、贋首を見て父上よ誠しやかの愁嘆の有様に、大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智、みすみす贋首とは思へども、かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう。主人を欺く不調法、申し訳は腹一つと極めた覚悟も、負うた子に教へられ浅瀬を渡るこの佐々木、甥が忠義にくらべては、伯父がこの腹百千切っても掛け合ひがたき最期の大功。そちが命は京鎌倉の運定め、出か いたな出かした」(「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」・浄瑠璃床本での佐々木盛綱の台詞 )
「盛綱陣屋」の最終場面で盛綱が一気にまくし立てる台詞はどういう気分を表現しているのでしょうか。北条時政を前にした首実検で盛綱は偽首を「弟佐々木高綱の首に相違ない」と偽証しますが、その理由を盛綱はここで一気に述べ立てます。それまで何かに押さえ付けられて言いたくても言えなかった事を吐き出すようにです。逆に言えば、そのようなただならぬ所まで盛綱を追い込んだ状況の正体が・その早いリズムのなかにはっきりと意識されているのです。早いリズムが盛綱を急き立てて、真実を一刻も言ってしまわねば胸の内がどうにも収まらない気分になって現われます。それがタテ言葉の表現するものです。タテ言葉の早いリズムは、観客の耳に小気味良く・快適に感じられることと思います。そう感じるのは間違いではありません。快適に感じるように・聴き手を興奮させるようにタテ言葉は作られているのです。しかし、見方を変えれば、そのタテ言葉のリズムは決して自然なしゃべり言葉のリズムではないことが明らかです。それは異様な興奮に裏打ちされた・機械的なリズムなのです。そう考えると、小気味良いリズムの陰に実は人間性を押さえ込む不気味で圧倒的なものが潜んでいることが見えてきます。
義太夫のタテ言葉の基本は上記の通りですが、これを歌舞伎で演る場合に義太夫そっくりそのままインテンポで台詞をしゃべったのでは歌舞伎にならぬこともあるので 少々工夫が必要になります。すなわち一気にまくし立てる快速リズムを基調として維持しつつも、内面から突き上げる感情によってそのリズムを突き崩そうとするような揺れの表現・激しさの表現を微妙に加えることが必要になってきます。このことは歌舞伎のバロック的な表現を考える時に非常に大事なことです。いずれにせよタテ言葉の基調となるインテンポの快速リズムによって主人公の内面の葛藤を表現する・これが義太夫狂言の「アジタート」なのです。
(H21・5・27)
○アジタートなリズム・その18:義太夫狂言のリズム・1
寛永6年(1629)の江戸幕府による遊女歌舞伎禁止の禁止・すなわち歌舞伎での女優の禁止によって、創成期の歌舞伎の写実の理想は頓挫しました。「歌舞伎素人講釈」ではこのことを「歌舞伎の 1回目の死」と呼んでいます。このため歌舞伎は一時的に袋小路に追い込まれました。(これについては別稿「歪んだ真珠〜バロック的なる歌舞伎」で触れています。)ですから歌舞伎の女形は仕方なく生まれたものなのですが、仕方なく生まれたものでも・女形がいなければ芝居が出来ません。だから歌舞伎は芝居のなかで女形をどう生かすか・言い換えれば芝居全体のなかで如何に女形の芸を不自然に見せないように 位置つけるかという形で発展していきます。つまり女形が歌舞伎の全体の表現を規定していくことになります。そのひとつの解決法が人形浄瑠璃の歌舞伎への導入・すなわち義太夫狂言の誕生でした。
なぜ人形浄瑠璃の導入が歌舞伎の窮地を救うことになったのかと言うと、それは義太夫節が男性の語り手(大夫)によって語られるモノ・セックスの芸能であったからです。義太夫では大夫が男性・女性の役柄を声色を変えて描き分けるのです。つまり男性の大夫が声のトーンを変えることで女性みたいな声を作る・この技術を女形が取り入れることで 歌舞伎のなかに女形芸をすんなりと位置付けることが可能になったのです。人形浄瑠璃の ドラマとしての質の高さがそれまでの物真似芸的な歌舞伎の演劇性を飛躍的に高めたということも疑いありませんが、これについては別の機会に詳しく論じたいと思います。本稿では義太夫狂言の台詞について簡単に考えますが・人形浄瑠璃を取り入れたことによる顕著な変化は、歌舞伎の台詞 が写実の「しゃべり」の芸から・様式的な「語り」の方向へ傾斜したということです。「様式的」ということは、義太夫節は三味線による伴奏を持つ音楽であり・つまり「歌謡」であるわけですから、必然的に台詞のなかに節回し(一定の音程・リズムに縛られた要素)があるということです。義太夫狂言の場合は役者が地(台詞の部分)を受け持ち・竹本が色(音楽的な部分・あるいはト書きの部分)を受け持つということになりますが、そこに音楽的なトーンの統一がなければ舞台が分解してしまうからです。
したがって義太夫狂言の台詞が音楽的な要素を持つことは間違いありません。しかし、その一方で台詞が音楽的な要素に傾斜しすぎることは歌舞伎の独自性を損なう ことであるということも意識しておかなければなりません。歌舞伎役者に義太夫の素養が必須であることはもちろんですが、ある狂言のサワリを本格の義太夫の息で演ることが良い成果を挙げると必ずしも言えない場合があります。それならば人形浄瑠璃の人形の代わりを役者が勤めるのと大して変わらなくなるからです。ここで具体例は挙げることはしませんが、ある役者さんが見事な義太夫の息で演技を見せた時、吉之助の耳には台詞がリズムに乗りすぎて・情感が沈みこまねばならぬ場面で・演技がサラサラと前に進んでしまうような印象を受けたことがあります。これは人形浄瑠璃の場合ならばそのリズムで良いのですが、人間が演じる歌舞伎の場合にはそれでは駄目で、 場合によってはもっとリズムを粘って取っていかねばならぬ・あるいはテンポを意識的に揺らしていく必要がある・そうやって音楽的な要素を崩す方向へ行かねばならない・そういう場合が歌舞伎にはあるのです。そうすることで歌舞伎というバロックな要素を持つ芸能の特徴が出せるということです。これはちょっと逆な感じに見えるかも知れませんが、これがバロック的な写実の手法です。(これとはちょっと違う観点からですが、別稿「子別れの乖離感覚」をご参照ください。)このことはしばしば誤解されていますが、義太夫狂言の台詞の場合でも三味線に乗った「歌う」ということを全面に出すことは禁物で、「写実」ということ・どうやってリアルさを出すか・ということを常に念頭に置かねばならないと思います。
(H21・5・23)
○アジタートなリズム・その17:和事の台詞・2
ご存知の通り、初代藤十郎は傾城買いの狂言を得意としました。藤十郎が演じた歌舞伎作品 そのものはもはや上演されることはありませんが、藤十郎の和事のイメージは歌舞伎の和事の演技のどこかに残っているはずです。「廓文章(吉田屋)」での伊左衛門の台詞を抜き出してみます。
『イヤイヤ隠しんな、知っている。アアこれを思えば傾城買いより紙屑買いが遥かにましや。ハテなぜと言や。金銀を出してあっちから取るものは状文(じょうふみ)ばかり、七百貫目の紙屑では富士の山の張り抜きが出来る。本に埒(らち)もないことで、大事の紙衣を涙で濡らした。アア継ぎ目の離れぬそのうち、さらばお暇申しましょう。(中略)イヤ慳貪なら、夕霧より蕎麦切りにしましょう。帰るぞ帰るぞ。(中略)イヤ留めるな留めるな。エエ留めぬなと言うに。わが身たちも常からわしの気質を知って居ながら、帰ると言うて留まった事があるか。ありゃせまいがな。留めるな留めるな。(中略)コレ喜左衛門、今日はわが身の内の餅つきじゃのう。(中略)せっかくめでたい餅つきに、わしが腹を立てて帰ったら、わが身たちは気にかかるであろうな。(中略)そんなら一口呑もうか。(中略)それでも只今わしが一旦帰ろうと言うて又ここに居ようと言うと、わが身たちは笑うであろうな。(中略)それそれ二人とも笑うて居るではないか。(中略)そんならそちら向いて怖い顔して居や。(中略)イヤどう思うても、やっぱり帰りましょ帰りましょ。(中略)イヤイヤやっぱり去のう。くるりと回って往きましょう。行こうか居ようか。いっその事に寝てこまそう。』(「廓文章・吉田屋」での伊左衛門の台詞)
伊左衛門は帰ると言ったり・居ると言ってみたりして我が儘放題で、突然に餅つきの話をしてみたり・気まぐれそのもので、ちっとも落ち着きません。『帰るか居るか・・イヤイヤやっぱり 去のう』というような安定しない・明確な形を取ることがなく・絶えず揺れる感情、これがアジタートな感性そのものです。台詞のリズムの形で言えば、微妙に早くなったり・遅くなったり・波のような揺れを示すもので、 これはまさにロマン派以降の音楽に頻繁に現れるリズムなのです。このリズムは心理学的には次のように説明できます。だんだんとテンポが速くなり・やがて猛烈な最高速度に達するような極度な興奮状態(すなわちアッチェレランドのリズム)を示すこともなく ・だんだんとリズムが遅くなり・やがて沈静していくような状態(すなわちリタルダンドなリズム)を示すこともなく、つまりどっちつかずに微弱な興奮と沈静の波が交互に慢性的・かつ緩慢に続くということです。つまり揺れるリズムとは 何とも落ち着かない・何となくイライラした気分を示すものです。またその旋律も音程的に高くなったり・低くなったりして・落ち着くことがなく、明確な旋律線を描かない音楽になっていきます。 和事の台詞もまったく同じで、伊左衛門の台詞もドラマ的・意思的な展開を示さない台詞です。
もうひとつの和事のアジタートな側面は突然気まぐれにワーッと騒ぎ出したりすることです。しかし、すぐに別のことが浮かんで・気分が変わってしまって・飽きて投げ出してしまうのです。ひとつことに熱中することが全然できないのです。伊左衛門は『そんなら一口呑もうか』と言ってワアワア騒ぐかと思えば、急に『わしがここに居ようと言うと、わが身たちは笑うであろうな』と言い出して・プイッと出て行こうとするのです。 『イヤ留めるな留めるな。エエ留めぬなと言うに』では突然カチンと来てみたりもします。そこがまさにアジタートなのです。これは音楽で突然急に大音響がカツーンと来る感覚と同じもので、そこにイライラした気分の破綻が来るわけです。これは江戸の荒事の台詞で、助六が「つがもねえ」と大声で叫ぶのと同じ突っ張った感覚なのです。音楽で言えば異なる旋律が次々に繰り出される感じとなり、ひとつの旋律が論理的に展開する形式が取りにくくなります。したがって、がっしりした構成の大曲よりも小品の集合体 的な作品が多くなってきます。このような特徴はロマン派の典型であるシューマンの音楽にとても顕著に現れているものです。
一般的に江戸の荒事と上方の和事は対極の芸と思われています。しかし、表面的に剛と柔の違いがあって・全然似た要素がないように見えても、アジタートという観点から見れば元禄という時代の共通した気分を背負っているのです。考えてみれば京都の藤十郎も・江戸の団十郎も同じ元禄の時代を生きた役者なのですから、同じ時代の共通した気分を取り込んでいるのは当たり前ではありませんか。そのことが荒事と和事の台詞のリズム分析から感知できます。気分の表出の仕方が違う・そのことだけで荒事と和事は分けられているのです。
(H21・5・18)
○アジタートなリズム・その16:和事の台詞・1
江戸の荒事が初代団十郎ならば、同時代のライバルである上方の和事は初代藤十郎ということになります。 荒事と和事はまったく対照的な芸のように思われがちですが、藤十郎の和事の台詞まわしも江戸の荒事とは異なる方法論で写実的な「しゃべり」の技術のうえに成り立つものです。近松門左衛門は藤十郎と提携して多くの歌舞伎作品を書き、藤十郎のしゃべりの芸を発揮させるために台詞の工夫をこらしたことと思います。「傾城仏の原」は元禄12年(1699)京都都(みやこ)万太夫座で初演された近松の代表的な歌舞伎作品で、主人公の梅房文蔵は藤十郎の当たり役のひとつとなりました。 (「傾城仏の原」は近年では武智鉄二演出により近松座で復活上演されたことがあります。)
『されば八月十五日夜の月見、いづれの人も歌をよみ詩を作り、或いは音曲、手なぐさみにて月を見る。身はその格をかへて三笠原といふ揚屋の座敷に布団を敷き、其の上に奥州と二人とんと寝て月を詠めた。時に此のなんぴんが申すは『あの月はそち、月の中にある桂男は身じゃ、偕老同穴翼連理は古い』といふた。時に太夫がこましゃれたことを問ひました。『昔より中を水洩らさぬと申すは如何やうな事を言ひます』と尋ねました。私が返答には『それはそなたとおれがやうに睦まじく寄添い、じつと締合うた中へ水を流したりとも、中々通らぬをいふ心じゃ』『然らば流して見ん』とあたりを見れども水はなし、折ふし枕元に燗鍋があった。これ幸ひと両人ばったりと抱付き、上から彼の酒を滝の如く通したれども通らぬ。『太夫、見や、そちと二人が中は水漏らさぬ事はさて置き、酒漏らさぬ中じゃ』と共に戯れました・・・』(「傾城仏の原」)
藤十郎の台詞回しは今日まったく伝わっていませんが、この文蔵の長台詞を見ればそれは狂言の「こざる」調の台詞ではなく・新劇の台詞だと言っても通りそうな感じで あり、ずっと近代の方に寄った写実の「しゃべり」の芸であったことが明らかです。この台詞を口のなかで読んでみると、文蔵と太夫のじゃれあいがあるせいもありますが・リズミカルにしゃべろうとすると調子に高低を強くつける必要があって、すんなり流れているようでいて・実は結構細かい変化があることが分かると思います。 台詞の調子が持続せず、ひょいひょいと調子が変わるところが藤十郎の持ち味なのです。後に近松は藤十郎と袂を分かち・人形浄瑠璃の執筆に専念しますが、藤十郎一代の当たり芸であった「夕霧伊左衛門」は後に形を変えて義太夫での「傾城阿波鳴渡」となり、あるいは「嫗山姥」での八重桐のしゃべりの芸が見られることで分かる通り、藤十郎の芸は後の近松の作品にも大きな影響を与えているわけです。(H21・5・7)
○アジタートなリズム・中休み:「阿吽の二字」
連載中の「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズム・その14・荒事の台詞」において「勧進帳」の富樫と弁慶の山伏問答について考えました。そのなかで「山伏問答の最高潮は富樫「出で入る息は」・弁慶「阿吽の二字」の箇所であり、ここで最速ギアに入っていた問答が弁慶の甲高い大声で急ストップが掛かる・これがまさに荒事らしいアジタートな表現である」ということを書いたわけです。「阿吽の二字」で急ストップ・ということは「ニジッ」と強く言い切るということでして、「二ィジィー」と長く引き伸ばさないということです。
一昨日届いたばかりの歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評・42」を読んでましたら、次のような中村梅之助の発言が載っていました。梅之助の父・翫右衛門は富樫を得意としましたが、梅之助が弁慶を初めて勤めた時に「俺は弁慶をやっていないので・教えるわけにはいかないが・相手役の富樫の立場から見て弁慶の大事なところをこれから話す・・」と言って教えたそのなかで、「出で入る息は」・「阿吽の二字」と切るんだ、そうすると「そもそも・・」の前に息を吸えるんだ、「二字ー」と伸ばすと富樫が息を吸えなくなっちゃう・と翫右衛門は語ったということです。(中村梅之助:「前進座の戦中・戦後」)期せずして翫右衛門に吉之助の説を裏付けしていただいたわけで、心強いことです。吉之助は残念ながら梅之助の弁慶を見たことがありませんが、「阿吽の二字」を強く言い切った素晴らしい弁慶だろうと想像します。
「阿吽の二字」を強く言い切らねばならぬのは、荒事の台詞の基本イメージとして二拍子(細分化すれば四拍子)のリズムからすれば「アウ/ンノ/ニジ」となるのですから、「ニジ」を中途半端に伸ばせばリズムが余るし・「二ィジィー」と長く伸ばせば気が抜けることを考えれば、台詞を読めばそれは簡単に分かることだと思います。しかし、松竹の歌舞伎の方で「阿吽の二字」を言い切った弁慶を近頃は滅多に見ませんねえ。みんな「二ィジィー」と伸ばしています。ついでに言えば富樫の方も「出で入る息は」の末尾を「ワァー」と伸ばす感じ に聴こえます。そう聴こえるのはホントは弁慶は富樫の「息は」の「ワ」の母音に・「阿吽」の「ア」の母音をかぶせる感じで出なくてはならぬの に、弁慶がそうしないからです。こういうことも出来ていません。最近の「勧進帳」を見れば弁慶が「二字」を「二ィジィー」と伸ばすので・ここで緊張が緩んでしまって、「そもそも九字の真言とは・・」で富樫が弁慶ににじり寄る時に何だか富樫が妙にいきり立ち・しかもその興奮が空回りしているように見える舞台が多いと思います。例えば平成20年4月歌舞伎座での「勧進帳」の勘三郎の富樫がそのような感じでしたが、富樫がああいう風に見えてしまうのは、実は問答全体のリズム設計を維持できていない弁慶(仁左衛門)の方にも責任があるのです。
弁慶が「阿吽の二字」を前の富樫の台詞にかぶせるように出て・「二字」の末尾を強く言い切るということはどういう意味を持つでしょうか。弁慶は「長々しい問答など無用・何度質問したって俺は答えられるぞ」という感じで富樫の問いを強く遮るわけです。そう書くと「勧進帳をでっち上げることぐらい弁慶には簡単なことだ」と書いてある評論と吉之助は同じ意見だと思われるといけないので付け加えますが、実はその逆です。弁慶はこれ以上質問されてボロを出すと困るから早く問答を打ち切りたい・だからわざと高飛車に出ているのです。ここは弁慶絶体絶命という場面なのです。だから富樫は緊張を維持したまま畳み掛けるように「そもそも九字の真言とは・・」と早いテンポで弁慶を さらなる窮地へ追い込んでいかねばなりません。そのためにはその直前の「阿吽の二字」を「二ィジィー」と引き伸ばされたのでは緊張が緩んでしまうので富樫は困るわけです。翫右衛門は弁慶に「二字」を伸ばされると富樫が息が吸えないと言ったようですが、 「二字」を引き伸ばされると富樫が息をグッと詰めて「そもそも」をトップギアで一気に切り出す時のタイミングが不明瞭になるのです。ここは最高潮になったアッチェレランドを急スットプされた音楽がまた一気にトップスピードに入る・まさにここは急転直下急発進の波乱の音楽です。さあ弁慶はこのピンチを切り抜けられるか。だから最後の弁慶の長台詞が生きてきます。以上が山伏問答のドラマ面からのリズム解析ですが、大事なことは荒事の台詞の二拍子の基本イメージが山伏問答の背後にあるということです。弁慶・富樫は 二拍子の基本イメージを意識して問答をしてもらいたいと思うのです。
(H21・5・3)
○アジタートなリズム・その15:荒事の台詞・4
初代団十郎の台詞廻しが「物いはるるに息つぎ急はしく、じゅつなそうに見えて気の毒」と評され、その約200年後の二代目左団次の台詞回しも「一本調子で焦き込みがち」と似たようなことを言われたことは先に触れました。別稿「左団次劇の様式」において左団次が創始した新歌舞伎様式について考えました。左団次劇の台詞は「強・弱」でタンタンタン・・とリズムを刻んでいくのが基本イメージ になります。これは荒事の台詞の「しゃべり」のリズムと感じがとてもよく似ています。例えば「助六」でのツラネは厄払いの様式をとっており、台詞は緩急が付きますが・部分的に早めの四拍子(四拍子は二拍子 を細分化したものです)でタンタンタン・・・と畳む箇所があります。関東方言は頭打ち(拍の頭にアクセントが付く)になるので、「強・弱」の四拍子のリズムになっています。そのリズムにいきり立つ男達(おとこだて)の気分が現れています。同様に「修禅寺物語」の夜叉王の幕切れの台詞にも高揚した気分を一気に吐き出そうとする「強・弱」」(trochiaic)のリズムなのです。
(助六)「遠くは八王子の炭焼売灰の歯っ欠け爺い、近くは山谷の古やりて梅干婆ァに至るまで、茶呑み話の喧嘩沙汰、男達の無尽のかけ捨て、ついに引けステを取ったことのねえ男だ」(ハチ/オウ/ジノ/スミ/ヤキ/バイ/タン/ノ/ハッ/カケ/ジジ/イ/チカ/クハ/サン/ヤノ/フル/ヤリ/テ/ウメ/ボシ/ババ/アニ/イタル/マデ/チャノ/ミ/バナ/シノ/ケン/カ/ザタ/オト/コ/ダテ/ノ/ムジ/ンノ/.カケ/ステ ・・・)
(修禅寺物語)「神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まず我が作に現れしは、自然の感応、自然の妙、技芸神にいるとはこの事よ。伊豆の夜叉王、我ながらあっぱれ天下一じゃのう。』(カミ/ナラ/デハ/シロ/シ/メサ/レヌ/ヒトノ/ウン/メイ/マズ/ワガ/サクニ/アラ/ワレ/シハ/シゼン/ノ/カン/ノウ/シゼン/ノ/ミョウ/ギゲイ/シンニ/イル/トハ/コノ/コト/ヨ●/イズノ/ヤシャ/オウ/ワレ/ナガラ/アッ/パレ/テンガ/イチ/ジャ/ノウ)
この類似は元禄の荒事が表現するところの時代の空気と、左団次の生きた大正・昭和の空気がその閉塞した気分において似通っているところから来るのです。民権運動や大正デモクラシーで個人の意識が高まっていたにもかかわらず・国家の締め付けが急に強くなり・世相は戦争の方に大きく傾いて 行きました。そのような大正から昭和にかけての時代の閉塞感が、元禄のかぶき者のイライラした気分ととても良く似ているのです。そのイライラした気分は、この胸のなかに詰まった熱い心情を一気に吐き出さずにはいられないという・切迫したリズムに なって現れます。その基本イメージはタンタンタン・・と畳み掛けるような早いリズムです。周知の通り・左団次は新作歌舞伎を次々と上演すると同時に 、「毛抜」や「鳴神」など歌舞伎十八番の復活にも力を尽くしました 。歌舞伎十八番の復活は古典が苦手な左団次劇団のレパートリー開拓のための窮余の策であったみたいなことを書いている論考もありますが、そうではありません。荒事が様式的に左団次の体質に似合っているジャンルであったからこそ・それは左団次のレパートリーに取り入れられたわけです。そのことが台詞のリズムの類似から見て取れます。(この稿つづく)
(H21・4・24)
○アジタートなリズム・その14:荒事の台詞・3
「勧進帳」の山伏問答は原作であるところの謡曲「安宅」にはないものです。七代目団十郎は当時講談で呼び物であった「弁慶と富樫の山伏問答」を講談師燕凌(えんりょう)と南窓を招いて実演させて、これを「勧進帳」のなかに取り入れました。団十郎の意図は「勧進帳」に更なるドラマ性を盛り込むとともに、そこに元禄歌舞伎の伝統である「しゃべり」の技術を応用することにありました。市川家の家の芸(荒事)を標榜するためだけなら 、団十郎は「御贔屓勧進帳」の芋洗いの弁慶を演じれば・それで良かったはずです。その案を団十郎が採らず、弁慶を単なる荒事のキャラクター以上のものに仕立てたということは、元禄の時代遅れの荒事(天保期には荒事は 既にそのようなイメージで見られていました)ではない・新しい時代の荒事を七代目が意図したということです。ですからこの芝居のタイトルが原作と同じ「安宅」ではなく「勧進帳」であるということ・さらに歌舞伎十八番の内を名乗っ たということは、勧進帳読み上げとそれに続く問答こそ「勧進帳」の核心であることを示すものです。
山伏問答のテンポ設計については別稿「勧進帳は音楽劇である」で考察しました。全体的なイメージはだんだんと速度を上げていくアッチェレランドと考えて間違いありません。しかし、「しゃべり」の本質は写実性にあるわけで、前述した通り・弁慶の問答のタンタンタン・・のリズムを決めるところが話し言葉の原型を持つ箇所です。ですから弁慶の台詞のテンポが変化するのではなく、テンポの変化は富樫が押していくことで作るものです。富樫が押したテンポを弁慶が受け取って答える。さらに早めたテンポで富樫が問うて、そのテンポを受け取って弁慶が答えるという形です。そうやって問答のテンポが 段階的に上がってきます。互いに息を詰めて間髪入れずに問答する気合いが必要なのです。現行の歌舞伎の舞台のように富樫の問いに弁慶が「・・・ううむ」とうなずいて鷹揚に構えた返答を したり、富樫の方も弁慶の返答に対して「・・・なるほど・・それならば次の問いを・・」という感じで間を置いて質問するのでは「音楽」にはなりません。
アッチェレランドは急き立てる(アジタート)な感覚の典型的なパターンです。山伏問答の最高潮は富樫「出で入る息は」・弁慶「阿吽の二字」の箇所になります。ここで最速ギアに入っていた問答が弁慶の甲高い大声で急ストップが掛かります。これがまさに荒事らしいアジタートな表現 です。しかし、ここで富樫も負けていません。「そもそも九字の真言とはいかなる義にや事の次いでに問い申さんササ何と何と」、速い速度で息を継がずに一気に言い切って ・弁慶を追い込まねばなりません。このテンポの急転変転自体がドラマなのです。
次の弁慶の「九字の大事は神秘にして・・・」以下の長台詞は読み上げと同じくツラネの伝統を引いていることは言うまでもありません。そして「あなかしこあなかしこ大日本の神祇諸仏菩薩も照覧あれ・・」から最後までギアをいきなりトップに入れて 、これは体操の床運動演技のフィニッシュとでも言うべきものです。そして「かくの通り」で声を甲高く裏に返して決めてみせれば、それでこそ荒事の山伏問答なのです。そこにアジタートな感覚が出てくるのです。現行の歌舞伎は 山伏問答を対話劇だと考えていると思います。もちろんその要素はあるわけですが、そちらの方へ傾き過ぎると意味が通る問答にはなっても・荒事のアジタートな感覚が出てこないのです。アジタートな感覚は台詞のテンポが生み出すものです。言葉の意味が生み出すのではありません。読み上げ・問答にテンポ設計がなければ「勧進帳」が歌舞伎十八番(荒事)であることの意味が見えてこないわけです。(この稿つづく)
(H21・4・19)
○アジタートなリズム・その13:荒事の台詞・2
歌舞伎十八番の「暫」の始まりは、初代団十郎が元禄10年(1697)に演じた「大福帳参会名護屋」と言われています。「暫」になくてはならないのが「つらね」です。 それは大福帳の来歴を豪快かつ流麗に言い立て・「ホホ敬って申す」で終わる様式的な長台詞で、初代・二代目団十郎ともに名調子で鳴らしたものでした。この「しゃべり」の技術は元禄歌舞伎の話し言葉の原型を残すものです。(注:その後の歌舞伎は人形浄瑠璃を取り込むことで語り言葉に傾斜していきます。)次に挙げるのは同じく「暫」の系譜である・享保2年(1717)森田座での「奉納太平記」での二代目団十郎自作による大福帳のつらねの最後の部分です。
『天下泰平の大福帳紙数有合ひ元弘元年、真は正徳文武両道紅白の、梅の咲分前髪に、かつ色見する顔見世は、渋ぬけて候栗若衆、幕の内よりゑみ出ると隠れござらぬいが栗の、神も羅漢も御存じの、十六騎の総巻軸、篠塚五郎定綱が、大福帳の縁起ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足、万々 ぜいたく言ひ次第、大福帳の顔見世と、ホホ敬つて申す。』
この台詞を口のなかでムニャムニャつぶやきながら・どうしたら荒事の台詞らしくなるか想像してみて欲しいのですが、「ぐわつぽうてんぽうすつぽうめつぽうかい令満足 、万々ぜいたく言ひ次第」の部分は棒に一気にまくし立てるところで、「ぐわつ/ぽう/てん/ぽう/・・」という風にタンタンタン・・という機関銃のようなリズムが想像できます。これがツラネ全体のリズムの基本イメージですが、それだけでは台詞が単調にな りますから、実際には前後にリズムの緩急・音の高低をつけて・それで変化をつけるのです。ですから「ぐわつぽうてんぽう」の直前の「大福帳の縁起」はテンポを持たせて・ 大きく張り、最後の「大福町の顔見世と」でテンポをぐっと落として・「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げる形となります。これで荒事の台詞になります。最後の「敬って申す」で声を張り上げる様式的印象が鮮烈なので・忘れてしまいそうですが、タンタンタン・・のリズムを決めるところが基本的に写実であり・そこが話し言葉の原型を持つ箇所なのです。台詞の語句はしっかりと明確に噛むように発声しなければなりません。ただし、緩慢ではあるがタンタンタン・・のリズムのなかに急き立てる感覚が感じられます。この点に注意をしてください。
この大福帳のツラネのテンポ設計は「勧進帳」の弁慶の勧進帳読み上げの最後の部分にそっくりそのまま当てはまります。現行舞台の「勧進帳」読み上げはどれも実事の色が勝ち過ぎで・荒事だということが どうも感じられませんが、この台詞は「・・蓮華の上に座せん」までをタンタンタンのリズムで一気に言って、そのあとテンポをぐっと落として「敬って申す」で声を高く・裏に返して張り上げるのです。
『一紙半銭奉財の輩は、現世にては無比の楽を誇り、当来にては数千蓮華の上に座せん。帰命稽首、敬って申す。』 (「勧進帳」弁慶の読み上げの最後の部分)
「勧進帳」は天保11年(1840)に七代目団十郎が初演したもので、初代・二代目得意の荒事に発する歌舞伎十八番のなかで成立年代がかけ離れ、作風においても異質に思われ るかも知れません。しかし、七代目が「勧進帳」を歌舞伎十八番の内と位置付けたことは、この作品が荒事の系譜を引くということを意味するのです。「勧進帳」が荒事であることの証(あかし)は随所に見えますが、そのひとつの例が勧進帳読み上げです。それは「暫」のツラネの様式を踏襲するものであり、元禄歌舞伎の「しゃべり」の技術をそこに再現しようとした意図が明らかです。さらにつづく弁慶・富樫の山伏問答でその技術的・演劇的発展を試みることになります 。(この稿つづく)
(H21・4・15)
初代団十郎が14歳で「四天王稚立(してんのうおさなだち)」の坂田金時を演じて大当りを取って劇界にデビューしたのは寛文12年(1672)のことでした。かぶき者の最後の時期に当たります。その少し前のことですが・寛文4年(1664)に旗本奴の代表と言うべき水野十郎左衛門が切腹を申し付けられました。評定に呼び出された十郎左衛門は髪も結わず白装束で席に着いたため、お上を恐れる振る舞いであると即日切腹を命じられたのです。かぶき者は江戸初期に都市部で流行した異風を好み・派手な身なりで・奇抜な行動に走る者たちのことを言いますが、この頃から幕府のかぶき者の弾圧が強化されていき・元禄期にはかぶき者の姿は見えなくなりま した。
別稿「荒事における稚気」において・「荒事芸は童子の心を以て演ずべし」という口伝は何を意味するかを考えました。荒事に見られる「稚気」には、かつてかぶき者の過剰さが人々に愛された時代の名残りがあるのです。元禄の初代団十郎の時代にはかぶき者は既に姿を消していますが、芝居のなかのかぶき者に「元気の素」がまだしっかり残っているのです。初代団十郎の初演 (元禄10年・1697・ 初演外題は「大福帳参会名護屋」)に始まる「暫」の鎌倉権五郎は奇怪千万なメーキャップと衣装で虚仮脅しをしていますが、そこに自分の過剰さが観客に愛されているという甘えが見て取れます。それが童子のイメージに繋がる 要素です。童子のイメージから祭祀性が照射されます。権五郎は揚幕の方まで下がってくれと言われて「嫌だ」と拒否しますが、「イーヤーダー」と幼児がダダをこねるように高調子で言います。「睨み殺すぞ」というような台詞も・リアルに言わないで、「ニラミコーロースゾー」と子役の台詞みたいにわざと棒に言ってみたりします。かぶき者である自分の気風が観客に愛されているという確信があるから、観客に媚びているのです。そして観客もそれを許す。そこにかぶき者にとって古き良き時代の記憶があるのです。それは楽しかった過去の幼児期の記憶のようなものです。
と同時に芝居のなかのかぶき者は「今は俺の時代ではない(俺の時代はとっくの昔に過ぎ去ってしまった)」という憤懣を感じてもいます。そうした焦燥感・イライラ感が荒事の台詞に しばしば現れます。急に大声を張り上げる・あるいは急に台詞の速度を上げて勢い良くまくしたてるという表現などです。音楽で言えば・いきなりバーンと大音量 を立てて旋律を立ち切って聴衆を驚かせる。猛烈なアッチェレランド(急加速)で聴衆を急き立てるということです。これがアジタートな表現の典型的な例です。
二代目団十郎の初演(正徳3年・1713・初演外題は「花館愛護桜」)に始まる「助六」で言えば、助六が花道から本舞台へ行く時の「どうでんすなどうでんすな。いつ見ても美しいお顔揃い。そんならぶつしけながら割り込みましょうか」という台詞は「どうですんな」の頭の箇所にアクセントを付けて大きく張り上げて、セカセカとしたテンポで一気に まくし立てないと引き立ちません。セカセカしたテンポにかぶき者の竹を割ったような性格が現れます。花魁たちに煙管をたくさんもらった助六が言う「このようにめいめいご馳走に預かりましては、しんぞ火の用心が悪うごんしょうえ」という台詞もセカセカと一気に言い、「悪うごんしょうえ」では急に大声を張り上げて見栄を張ります。
『なんとキツイものか。大門へぬっと面を出すと、仲野町の両側から馴染みの女郎の吸い付け煙草で煙管の雨の降るようだわ。昨夜も松屋の店へちょっと腰を掛けると、五丁町の吸い付け煙草で、誓文、店先へ煙草を蒸籠(せいろう)のように積んだ。女郎づかを握る者は是でなければ嬉しくねえ。大尽だなぞと大きな面をしても、こういうことは金づくじゃならねえ。そこな撫で付けどの、誰だか知らねえが煙草が用なら、一本貸して進じょう。サア、持ってござらぬか、どうでんすな・どうでんすな』
この助六の 台詞ではベリベリと早口で・全体にセカセカした気分が漂っており、急に声が高くなったり・大声になったり、しかも台詞がブツブツと切れます。「煙管の雨が降るようだわ」というカツンと頭に当たるような高い音への飛躍、「どうでんすな・どうでんすな」と強くブツブツ切れる台詞。誰かにこのイライラをぶつけなければ納まらないような気分に満ちています。まさにアジタートの表現です。このような助六の台詞のアジタートのリズムが表現するところのイライラした気分は意休に対する助六の敵意を示すものですが、それと同時に当時のかぶき者の抑圧された鬱屈した気分を表現してもいるのです。(この稿つづく)(H21・4・5)
○アジタートなリズム・その11:急き立てる台詞
元禄の江戸歌舞伎の名優・初代市川団十郎は江戸に於いて金平物で大人気を博しましたが、団十郎はその勢いを得て元禄七年(一六九四)に京都に上り村山座で荒事芝居を演じました。しかし、京都の観客の評判はあまり良いものではありませんでした。当時の評判記「役者口三味線」は初代団十郎の台詞廻しを次のように伝えています。
『物いはるるに息つぎ急はしく、じゅつなそうに見えて気の毒。』
「じゅつなそう」というのは台詞の技術がないという意味です。京都の観客には初代団十郎の台詞は早過ぎて落ち着かない・拙い感じに聞こえたようです。当時の上方と江戸では話言葉のアクセントもイントネーションも相当違っていたと思われます。京都人には初代団十郎の台詞廻しが実際以上に早口に感じられたかも知れません。ここで「物いはるるに息つぎ急はしく」と記されていることに注目したいと思います。翻って時代は変わりますが、大正時代に新歌舞伎を創始した二代目市川左団次の台詞廻しを久米正雄は次のように評しています。
『人は左団次の口跡を悪評して、ややもすれば単なる怒号と云う。しかも彼があの一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く時、その息の刻み方に於いて、吾々のそれとぴたりと合致する。(中略)息の刻みだけで吾々を捉へずには置かない。』(久米正雄:「左団次の信長」・『演芸画報』・大正九年二月)
二代目左団次の台詞は録音も残っていますが、いわゆる棒に読む感じの台詞廻しに感じられます。その二代目左団次の台詞を久米正雄は「一本調子を以って、焦き込みがちに台辞を畳んで行く」と書いており、ここに「焦き込みがち」という表現が出てきます。この点に注意をしたいと思います。
およそ二百年の時を隔てたふたりの名優の台詞廻しについて触れました。そこにある共通の表現(イメージ)は「気ぜわしく・焦き込みがちで・急き立てるような台詞」と言うことです。どちらの名優にも早口で・どこかしらセカセカした気分があったということです。このことは初代団十郎・二代目左団次というふたりの役者の個人的な特徴に過ぎないと簡単に片付けるわけにはいきません。初代団十郎は三升屋兵庫という筆名を持ち・脚本まで書いていました。だから、その台詞廻しは団十郎の作品の台詞に直接的に反映したはずです。二代目左団次についても・多くの作家たちが二代目左団次に演じてもらうために(つまり二代目左団次を想定して)作品を書いたのです。だからその作品の台詞廻しは初代団十郎については元禄歌舞伎(荒事)の・二代目左団次については新歌舞伎の・それぞれの様式(フォルム)の根本をなしていると考えられます。
武智鉄二は歌舞伎の演技様式はおおよそ12あるとしました。歌舞伎は異なった演技様式の集合体なのです。そこで本稿では約二百年の時を隔てた歌舞伎の創成期(初代団十郎)と最終期(二代目左団次)のふたりの名優を結びつけるキーワードとして「急き立てるリズム」を想定してみることにします。そして、このふたりの名優を結んだ直線上に・すなわち「急き立てる 気分」のイメージの上に歌舞伎の台詞のすべての様式が乗ってくるということを考えてみます。遠くから眺めてみれば・それらは急きたてる気分・すなわちアジタートな 気分によって括ることが出来るわけです。(この稿つづく)
(H21・3・30)
○アジタートなリズム・その10:中休み・「アジタートなリズム」成立の背景
ただいま連載中の「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」は、その構想自体は本サイトを始めるかなり以前から吉之助のなかにあったものです。しかし、歌舞伎の台詞を西洋音楽視点で解析する手法は既成概念からすると突飛な発想ですから・サイトで発表する素地がまだできていなかったのと、歌舞伎の様式をひとまとめにするキーワードが見つからなかったので、これまで掲載を見合わせていました。吉之助がキーワードを「アジタート」とすることに決めたのは平成18年秋のことで、その後・平成20年春に「歌舞伎の台詞のリズム論」の新歌舞伎の項が「左団次劇の様式」として出来上がりました。「左団次劇の様式」はもともと「歌舞伎の台詞のリズム論」のなかで時代順に様式を並べた・その最終章になるはずだったものでして、それが分量が多くなったので先に独立して出来上がったものです。新歌舞伎のリズムが比較的単純なので・様式的に解析がしやすかったこともあります。その後・本サイトに歌舞伎とオペラの対比など西洋音楽関連の記事もかなり増えてきたこともあり、そろそろ「歌舞伎の台詞のリズム論」を書く環境も十分出来上がったということで、今回の連載に踏み切りました。したがって本来は現在連載中の「アジタートなリズム」をお読みになってから・「左団次劇の様式」を読んでいただけば、初代団十郎の荒事の台詞から二代目左団次の新歌舞伎の台詞まで・歌舞伎の台詞の様式すべてが「アジタートなリズム」の概念の周囲を展開していることが見えるように全体が構想されているわけです。
キーワードを「アジタート」に決めたのは平成18年秋と申し上げました。そのきっかけは当時NHK教育テレビで放送されたミッシェル・ダルベルトによる「スーパー・ピアノ・レッスン」です。この時のレッスンでダルベルトはリストのロ短調ソナタや・シューマンの「謝肉祭」などを取り上げました。これは吉之助にとってとても得るところのあった番組でしたが、その「謝肉祭」の第12曲「ショパン」でのことです。生徒の方がこの部分をほぼイン・テンポで弾き出し始めたのです。楽譜では波のように上下するノクターン風の左手の伴奏が八分音符の流れで示されています。この部分を楽譜通りに素直に弾いたわけです。するとダルベルト先生がそれを制して、「この曲はシューマンのショパンに対する尊敬を表しているのですが 、あくまでシューマンの視点から見たショパンなのですから・ショパンのノクターンのように弾いてはいけません。そこにシューマン的な気質が表われなくては。そのヒント が楽譜冒頭に記されたアジタートという表記ですよ。」という意味のことを言って、「ショパン」冒頭を弾いてみせたのです。これがゆっくりと速く遅く・揺れる波のように動くリズムです。その瞬間に吉之助の脳裏に「アジタート」で歌舞伎の台詞の様式すべてがひとまとめに出来るというアイデアが閃いたわけです。
*YOUTUBEの映像でミッシェル・ダルベルトの弾く「謝肉祭」をご覧ください。「謝肉祭」のなかの最後の2曲・「休息」から「フィリシテ人と闘うダビッド同盟の行進」。かっきりとした枠組みのなかに・アジタートな気質を感じさせる・これは素敵な演奏です。 ダルベルトはフォルム感覚がしっかりした良いピアニストですね。残念ながらダルベルトの「謝肉祭」はCDになっていないようです。
別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」は本サイトの最初期の論考になりますが、ここで(7)の部分を早く・(5)をゆっくりの繰りかえしのリズムが「七五調」の基本リズムであることを考察しました。実はこれはシューマン:「謝肉祭」の第12曲「ショパン」のアジタートなリズムとまったく同じパターンなのです。揺れるリズムは幻想的で優雅なイメージで捉えがちですが、実は緩慢なストレスが掛かった状態であり・ユラユラと物憂げで・明確な形を取り得ない気分 を表しています。つまり強度としてはごく弱いものですが・慢性的かつ持続的なアジタートなのです。これが揺れるリズムのイメージです。その典型的な形式は「舟歌(バルカローレ)」でいろんいろな作曲家が舟歌を書いています。最も有名な舟歌は もちろんショパンのものです。とても魅力的な作品ですね。歌舞伎の台詞で言えば・もちろんお嬢吉三の「月も朧に白魚の・・・」です。ゆったりと流れる隅田川の川面に映える月の光のユラユラする場面を想像しながら「月も朧に白魚の・・・」を呟いてみてください。これがホントの黙阿弥の七五調のリズムなのです。 しかし、現実の歌舞伎の舞台でそのような川面に揺れる月の光を感じさせるお嬢吉三を、残念ながら吉之助は見たことがありません。揺れるリズムは吉之助の頭のなかだけで響いています。(この稿つづく)
(H21・3・22)
○アジタートなリズム・その9:台詞の基本は写実である
歌舞伎の台詞のなかのリズムのアジタートな要素を考える時に留意すべきことがいくつかあります。 ひとつは手垢が付いた現実の舞台での役者の台詞に惑わされないで、作者の書いた台本の台詞とその言葉・それだけを考察の手掛かりにすることです。これは現代の役者の台詞回しが間違っているということではないのですが、何らかのバイアスが掛かっていることも事実なのです。ですからあの役者の台詞回しに感激したからそれが絶対正しいなどと思い込まない方が良いと思います。作者が台本に書き記した言葉がそう発声して欲しいと望んでいるところの・自然な抑揚とリズムをまず虚心に検証して・そこから現代の役者の台詞回しを見直してみれば、現代の役者の様式の引き出しが意外と狭いということにお気付きになると思います。それらは遡ってもせいぜい幕末辺りまでのテクニックなのです。
もうひとつは芝居の台詞の根本を常に写実(リアル) の方に置くべきであるということです。芝居の台詞は決して音楽ではありません。「台詞を歌う」ということがよく言われますが、台詞が音楽的であることは望ましいことですが、台詞がリズムや音調に支配されるならば・それは本末転倒です。 様式化したリズムや抑揚のために台詞が観客に言葉の意味を正しく伝えられないならば、まったくナンセンスです。ですから言葉が内的に望んでいる抑揚とリズムを役者が感じ取って・そこから言葉が自然に涌き上が ってくる時に、台詞は観客に意味を正しく伝えることができ・また音楽的な感興を与えることが出来るのです。それが出来ないならば役者は台詞を音楽的にしようなどと思わず に、むしろひたすらリアルに徹した方が良ろしいのです。ですから台詞の意味を無視して杓子定規にリズムに台詞を当てはめ ようとしてはなりません。ところが現実の舞台では器楽的な様式概念のなかに歌舞伎の台詞を押し込めたような台詞回しをしばしば耳にします。吉之助がダラダラ調と非難するところの七五調の台詞回しなど はその典型です。そのようなことにならないために芝居の台詞は写実(リアル)が根本であることを肝に命じておく必要があります。
「歌舞伎素人講釈」は「歌舞伎はもともと写実を志した演劇であったが・それが女優を奪われることによって写実の本質が裏切られた演劇である」ということを重要な史観としています。歌舞伎という演劇自体が「生きすぎたりや」というかぶき者の気分を根底に強く持つ演劇だということです。それはかつて失われた写実の理想を求めつつ・それゆえにやむを得ず様式化するのです。ですから歌舞伎の台詞 は内的には常に写実を志向するものです。それが非写実の要素(すなわち様式)に引っ張られることにより引き裂かれます。歌舞伎の台詞のなかのリズムのアジタートな要素はこのことを示すものです。
本稿ではほぼ時代に沿って歌舞伎の台詞を順に検討していきますが、ひと口に江戸時代と言っても1603年(慶長8年)〜1867年(慶応3年)までの長い期間ですから、 江戸時代がずっと一様な鬱の状態にあったわけではなく、その鬱の気分にはとてもゆっくりした波があるのです。鬱の状態が強い時期もあるし・そうでない時期もあって、その波がゆっくりと交互に来ます。またその症状はいろいろな現れ方をします。例えば元禄期は鬱の状態が強いと 吉之助には感じられます。ところが同じく町民文化の隆盛期であるとされる文化文政期の方は鬱の症状が軽いと感じれます。文化文政期は多少躁の気配さえありますが、まあこれは鬱の裏返しと考えられなくもありません。そのような 時代の気分の違いが近松門左衛門と鶴屋南北の作品の対比から浮かび上がってきます。これは同時代の絵画や文学などさまざまな事象を俯瞰することでさらに裏付けられるでしょう。その時の政治・経済などの状況を踏まえながら・その時代の気分を読んでいく必要があります。 芝居は興行ですから、時代の気分を敏感に反映するものです。芝居の台詞のリズムもまた時代の気分を映し出すのです。(この稿つづく)
(H21・3・21)
○アジタートなリズム・その8:かぶき的心情のリズム
作家五木寛之氏が「現代は鬱の時代である」ということを最近よく仰っています。五木氏は『鬱病と言えば・何をやるにも気が滅入るとか・やる気が出ないとか・とかくマイナスイメージで考え勝ちで すが、「鬱」という字は鬱蒼たる森林とか・鬱乎たる噴煙とか、物事が盛んに湧き上がる・エネルギーが内部に沸々としているようなホットな状態を言うのである、自分は鬱だなどと言う方はその胸のなかに秘めた心情が強くて・ただそのエネルギーの持って行き場所が見つからないので悩んでいるだけで、それは決して 異常なことではない」ということを講演会で仰っていました。これは非常に大事なことで、ロマン的心情の「求めているものが既に失われてしまったという思い」あるいは「生き過ぎたるやという思い」 も決して投げ槍な・捨て鉢な気分なのではありません。それは何かの障壁があって自分の生きる意味が容易に見出せない・そのために自分のなかの旺盛なエネルギーを振り向けていく方向をなかなか見出せないという状態なのです。それが憤懣となって・時として奇矯な行動になって現れたりします。したがって、そのようなロマン派の時代の気分は芸術作品には後ろから背中を押されるようなイライラした急いた気分・どこかしら落ち着きがない・一箇所に止まることがないソワソワした気分になって現れ ます。
吉之助は ロマン的心情の典型的な作曲家はロベルト・シューマンであろうと思います。ロマン派の芸術家はその時代(19世紀)の鬱の心情を描き出すために・ある意味での狂気を必要としました。狂気を得るためにベルリオーズは阿片に走ったりしましたが、しかしベルリオーズはやっぱり正気の人でした。シューマンは必死で正気に留まろうとして、 ついに狂気に引きずりこまれた人でした。その意味でシューマンは最もロマン的な心象を持つ作曲家でありました。ところで若きシューマンの作品に「謝肉祭」作品9があります。作曲は1834年から35年ですから、1810年生まれのシューマンの二十代半ばの初期の作品です。この「謝肉祭」は20曲の小曲が連なって・カーニバルの仮装のように次々と表情を変えて繰り広げられるパレードのような作品で、これは吉之助の大のお気に入りです。その「謝肉祭」の第12曲に「ショパン」と題される夜想曲風の短い曲があります。これはシューマンが高く評価した 同時代のピアニスト・ショパンに対する尊敬の表れです。この楽譜冒頭にシューマンが「アジタート」と指定を記しています。 「アジタート」とは「気ぜわしく」あるいは「急き立てるように」という意味です。具体的には微妙に速くなっらり遅くなったりする波のようなリズムのことですが、音符で その微妙なところを記載できるものではありません。それでシューマンは楽譜にアジタートと記しているのです。(別稿 「吉之助の音楽ノート・シューマン:「謝肉祭」をご参照ください。)
吉之助がとても興味深いと感じるのは、この第12曲「ショパン」が醸し出す揺れるような気分をシューマンが「アジタート」と記したことです。普通に「気ぜわしく」・「急き立てるように」と 言うのならばもっとグイグイと力で押すような曲想をアジタートと指しそうに思います。例えば「クライスレリアーナ」作品16の冒頭の速いテンポでうねるような旋律をアジタートというのならば、それはよく分かる気がします。これももちろんアジタートなのですが、この「ショパン」のような微妙な波のようなリズムをシューマンがアジタートと呼んだということが吉之助のとても新鮮な衝撃でありました。そのような視点で改めて「謝肉祭」を聴 くと、シューマンは別にアジタートと記しているわけではないですが、吉之助には「気ぜわしく」あるいは「急き立てるように」聴こえる箇所が「謝肉祭」には随所に出てきます。付点付き音符で飛び跳ねるようなリズム(「アルルカン」や「踊る文字」)、突然断ち切るようにフォルテで切れる旋律( 「ピエロ」や「コケット」)、押しては引きながら次第に高まっていき・また引いていくリズム(「キャリーナ」)、突然急加速するリズム(「フィリスティンたちを討つダヴィッド同盟の行進」の中間部)などです。もちろんシューマンの作品の随所に同様の表現が見られますし、さらにはその後のロマン派の作品 にはこのような表現が頻発してきます。
*YOUTUBEでクラウディオ・アラウの「謝肉祭」の映像をご覧ください。第11曲「キャリーナ」から第18曲「パガニーニ」まで。
音楽に興味ない方は細かいことは気にせずに「歌舞伎素人講釈」が提唱するかぶき的心情とはまさにロマン的心情であり、その気分はアジタートなリズムによって表現されるということを要点として理解して欲しいと思います。アジタートなリズムに一定なものがあるわけではありませんが、その代表的なパターンは急加速(あるいはその反対としての急減速)、急停止・あるいは急に大声を出して切る、遅くなったり・速くなったりしてリズムが揺れる、ピョンピョン跳ねる、グイグイ押すなどです。以後の章において歌舞伎の台詞のなかにそのようなリズムの表れを見ていきたいと思います。(この稿つづく)
(H21・3・16)
○アジタートなリズム・その7:あらかじめ失われたもの
「歌舞伎素人講釈」では19世紀末西欧で流行したジャポニズムは単なる物珍しさ・エキゾキシズムからのものではなく、「江戸の精神的状況が19世紀の西欧の状況を先取りしていた・だからこそ江戸の芸術が彼らにとっての道しるべとなった」ということを提唱しています。(別稿「19世紀における西欧芸術と江戸芸術」をご参照ください。)このことは逆に言えば19世紀西欧の精神状況と・17世紀日本の精神状況がある点において相似形となっていることを意味 します。ですから歌舞伎の表現のある部分を・逆にロマン派芸術での事象から読み解くことも可能だということです。なぜそうなるのかと言えば、どちらも同じ心情から発する芸術であるからです。 だから歌舞伎を論じるなかでオペラを引き合いに出すことは吉之助のなかでは必然性があるわけです。
まず19世紀西欧芸術についてちょっと考えます。吉之助は産業革命とフランス革命によって西欧の人々の生活・精神状況が劇的に変化したことが、19世紀のロマン派芸術に大きな影響を与えたと考え ています。例えばフランスの中世史家ジャック・ル・ゴフは中世は19世紀初めに終わると言う「長い中世」の概念を提起しています。その理由をル・ゴフは「この頃まで人々の生活はほとんど変わっていないから」と言 うのです。(ジャック・ル・ゴフ:「中世とは何か」・藤原書店)19世紀西欧の精神状況は大体次のようにイメージできます。ひとつは人権思想により・人々のなかに権利 と自由の意識が目覚めたことです。その一方で産業の発展により人々がパーツ扱いされる要素が増えてきました。またウィーン体制後の西欧は一気に反動化して・とても窮屈になっていきます。この相反した要素が強いストレスを生 み、「得られるはずだったものが失われてしまった」という感情を引き起こします。フランス革命以前の古典派芸術においては「未だ得られないものに対する憧れと希望」があり、フランス革命以後に急速に反動化する時代にあるロマン派芸術においては「あらかじめ失われた ものに対する失望と諦め」があるのです。この心情は19世紀から20世紀になって更に強くなっていきます。この心情が音楽・特にリズム面にどのように反映されるかは・これから本論で検討していきます。
ジャック・ル・ゴフ:中世とは何か
一方、江戸芸術の場合は江戸初期のかぶき者の「生きすぎたりや」という心情がその契機となります。それは「 この俺を求めていたはずの時代が過ぎてしまった・俺はもっと早く生まれるべきだった・この時代は俺が生きるべき時代ではない」という失望と諦めの感情です。(別稿「いきすぎたるや」を参照ください。)安土桃山期のダイナミックな変革な機運が江戸期になって急速に冷え込み・ 社会が固定化していきます。つまり江戸のかぶき者が求めるものは「あらかじめ失われたもの」です。江戸の若者の心情は19世紀西欧の精神状況と とてもよく似ており、時代的に見ればそれは100〜150年程度早いことになります。もちろん西欧の音楽と日本の歌舞伎とは表現技法が異なることはもちろんです。しかし、その表現ベクトルが向く方向は 「あらかじめ失われた・生き過ぎたるや」という心情であり、同じ心情が反映する芸術はその気分において似ることは間違い ありません。人間の感じることなんて古今東西そう変るものではないのです。(この稿つづく)
(H21・3・8)
○アジタートなリズム・その6:歌舞伎の台詞のバロック性
ピアニスト園田高弘氏が作曲家諸井誠氏との往復書簡のなかでショパンの演奏法について語っています。園田氏によれば・ショパンの場合・楽譜に記されたリズムは決して一様な形態を意味するものではなく・テンポ指示ですらそのおおよその目安に過ぎない・このことが十分に理解されていないというのです。そのためショパンの装飾音は得てしてあまりにも早くブリリアントに誇張して弾かれるか・単なる装飾音として機械的無味乾燥に弾かれるかのどちらかだと園田氏は言います。その論拠として園田氏は音楽学者ハインリッヒ・シェンカーの「バッハの装飾音について」という考察を挙げています。
シェンカーが言うところは『バッハの作品に向けられる非難のひとつは装飾音が多すぎるということである。これは当時のクラヴィコード(ピアノの原型)の性能の貧弱さから来るものだと一般には考えられている。しかし、時代が下ってショパンやシューマンの 時代のピアノと比較したらどうか。楽器の性能は音量も響きも機能的に格段に進歩したにも係わらず、ショパンの装飾は少なくなるどころか・とてつもなく多く豊かになっている。 つまり、これは楽器自体の本来の要求であるのだ。装飾音はクラヴィコード演奏の本質的な要素だと考え・装飾音をそのまま旋律要素と捉えることでバッハの新しい解釈が可能となる』ということです。園田氏はこのシェンカーの説を踏まえて、ショパン演奏の場合でもそれぞれの装飾音はその楽節の意図・表情付けによって、早く・遅く・短く・長く・演奏されるべきであると主張しています。(園田高弘・諸井誠共著「ロマン派のピアノ曲〜分析と演奏」・音楽之友社)
園田高弘・諸井誠共著:ロマン派のピアノ曲―分析と演奏
まずシェンカーの主張・ロマン楽派に至って装飾音はますます豊かに絢爛豪華になっていくということは、別稿「バロックに関する対話」 でも触れた通り・芸術の変遷をバロック的な要素と古典的な要素の間での「揺らぎ」と見なし、ロマン派芸術は古典派の形式を崩していくことで表現の自由を得るが・次第にそのバロック的な本質が露わに現れるという経過を取るという吉之助の考え方に完全に合致する考え方です。ショパンの旋律の微妙なニュアンスはバロック的な表現要素として捉えることが出来ると思います。シェンカーの主張でもうひとつ大事な点は(園田氏にとっては当たり前のことなのでこの点に言及していないのですが)、「装飾音はクラヴィコードという楽器自体の本来の要求である」ということです。これはピアノだけがひと りで音楽の世界を作ることができるということです。他の楽器においては無伴奏チェロ・ソナタなどとか若干の例外はありますが・ ほとんどピアノなどの共演者を伴う室内楽であり、ひとりで音楽を作ることは唯一ピアノだけが可能なのです。オーケストラのルバート・アッチェレランドがどれほど即興的に聴こえようが・それは入念なリハーサルの産物であり、指揮者が思い付きで極端なことをしようとすればアンサンブルは崩壊してしまいます。ピアニストだけが旋律の微妙な表情付け、早く・遅く・短く・長くを自分だけの意志で自由自在に・しかも即興的に操ることができます。 逆に言えばピアノ作品には作曲者の時代の気分を直接的かつ濃厚に盛り込むことができるということです。このことはロマン楽派の作曲家の多くが優れたピアノストでもあったこととも密接に関連します。
長々しく音楽論を前座に置きましたが、台詞は対話の場合ももちろんありますが・役者がひとりでしゃべることが芝居の基礎となるのです。 台詞をコントロールで出来るのは、当たり前のことですが・役者その人しかあり得ません。ですから俳優(歌舞伎役者だけではなく)は台詞を音楽的に響かせるためには台詞の意味と息を理解し、それに応じた微妙な表情付けを早く・遅く・短く・長く付ける技術を修得せねばなりません。それがすなわち台詞のエロキューションの問題ということです。 こうすることでバロック的な歌舞伎の本質が台詞のリズムに現れます。
逆に言えば「台詞をコントロールで出来るのは役者その人しかない」ということに落し穴があるわけです。それはしばしば独りよがりに陥ってしまう危険性があるのです。折口信夫が指摘した通り 、日本の演劇では台詞のエロキューションの問題が伝統的になおざりにされてきました。歌舞伎においては台詞のエロキューションをフォルム(様式)という概念で理解する習慣が欠けています。作者・成立年代によってフォルムを明確に演じ分けるというところまではとても至っていません。今の歌舞伎役者が持っているのはせいぜい幕末歌舞伎の様式のいくつかで、それらを巧く使いこなし ながら切り抜けているのが現状のところです。しかし、実のところは様式ということならばすでに黙阿弥でさえ様式として正しく演じられない事態にまで歌舞伎は至っています。(このことについては後で考えます。)新劇においては歌舞伎(旧劇)を否定することにやっきになっているうちに・様式の否定が写実だという誤解を無意識のうちにしてきました。ですから新劇からアングラに至るまで多くの俳優がただ早口で怒鳴っているような印象です。さすがに主役級にはまともな方がいますが・それはご本人の素養がたまたま良かったからで、台詞訓練として理論系統立ったものは確立されていないようです。こういう集団のなかに歌舞伎の方が入ると・もう歴然とした力量の差を感じますが、それは歌舞伎役者が完璧でないにしても演技様式をそれなりに持っているからです。しかし、折口の言う通り・「歌舞伎芝居のなかに近代的精神を・あるいは新劇的生命を生かすにはどうすべきか」ということを考えるならば、台詞のエロキューションは避けて通れない問題になるわけです。(この稿つづく)
(H21・2・28)
○アジタートなリズム・その5:足取りについて
九代目団十郎の「間(ま)」についての考え方をもう少し考えます。
『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)
これは一尺をユニットと考えればよろしいのですが、原則的にはそのなかのリズムの割り振りに多少自由度を持たせても・最後に余った長さをチョイと合わせて(足して・あるいは引いて)「一尺にぴったり合わせることができるならば」それで良いということです。ただし、前提となることは踊り手にも・観客にも・そこに共通した「一尺」という感覚が存在することです。そうでないと「やった・決まった」という感覚にはな りません。観客は「あいつは何ヘマやってんだ」と感じることになります。ですからその場に共通のユニット感覚をどう持たせるかということです。結局テンポが速い・遅いという感覚は、何か基準があって・それに比べて速い・遅いという判断になるわけです。ですから、まずその場に居合わせた者(演者・観客)の共通した速度バランスの基準をどう提示してみせるかという問題です。それが足取りの問題ということになります。
『私たちの西洋音楽ですが、人間の声を犠牲にして楽器を強調したために、音楽として語るという私たちの感性はほぼ消し去られていますね。しかし、実際、語られた言葉こそがどんな時でも音楽、純然たる音楽なのです。それは歌の形式です。嘘だと思うならどの時点でもいいから話す速度を遅くしてみれば良い。自分が歌っているのが分かるでしょう。その一瞬に持続するどんな言葉も歌なのです。これは明らかなのですが、過去四・五世紀に渡り、私たちの西洋音楽では、いくつかの効果を加速させて、通常の語りのレヴェルをはるかに凌駕してしまいました。独奏の効果を発揮する場面で名人芸的な楽器を際立たせたことは、アラビア人や中国人が夢にさえ見ない行為でした。彼らはあらゆる音楽的効果を日常の話言葉に従属させたがりますから。そして今、西洋世界の私たちは、むしろそういう方向に動いていると思うのです。シェーンベルクの業績はその方向における大きな一歩です。』(マーシャル・マクルーハン:グレン・グールドとの対話「メディアとメッセージ」・1965・「グレン・グールド発言集」に収録)
マクルーハンはメディア理論で知られるカナダの文明批評家ですが、同じくカナダのピアニスト・グールドとの対話のなかでマクルーハンはとても重要な指摘をしています。19世紀の西洋音楽は概念的に若干行き過ぎたところがあって、通常の語りのレヴェルを器楽的な効果に従属させようとする傾向があったかも知れません。その概念に現代の我々はどうしても捉われるところがあるので、「音楽的」というイメージをしばしば器楽的な・すなわち五線譜的な考え方で捉えてしまい勝ちです。二拍子は日本のわらべ歌の伝統的なリズムではあるのですが、 そのため明治においてはそれがメトロノーム的な二拍子で理解されてしまうことになりました。例えば「鉄道唱歌」・「きーてきいっせいしんばしをー」の二拍子のリズムです。吉之助は現代の黙阿弥の七五調をダラダラ調と呼んでいますが、そのリズムの起源がここにあります。これは七五調を無意識のうちに器楽的な二拍子で 捉えているのです。
ですから非西洋音楽においては、マクルーハンが指摘する通り ・「彼らはあらゆる音楽的効果を日常の話言葉に従属させたがる」のですから、歌舞伎の台詞のリズムを考える時も、台詞のエロキューションを器楽的に捉えるのではなく・もっと柔軟に捉えるべきなのです。そのためにはまずリズムを「ユニット」で捉えること・そしてユニットのなかをある程度自由な息に持たせることです。そうすると大事なのは正しい足取りということになるのです。これがあって初めて歌舞伎の台詞は正しい意味において「音楽的」ということになります。吉之助が本稿で言うリズムとはそういう意味だとご理解ください。(この稿つづく)
(H21・2・22)
○アジタートなリズム・その4:リズムをユニットで捉える
リズムを考える時に押さえておかなければならない点をもうひとつ挙げます。それはリズムを刻み(拍)で捉えるのではなく、ユニットで大きく捉えることです。これは音楽の場合で言えば「小節」という場合が多いですが、さらに小節をまとめた「中小節」・あるいはさらに「大小節」という場合があり、さらに大きなまとまりになれば「楽章」・「全曲」にまて至る・そのようなユニットです。
例えばメトロノームの場合で言えば、目盛りを100に合わせた時のテンポは一分間におよそ100拍を打つ速度で・これを「テンポ100」と呼びます。このテンポが数%ぶれたとして、この差異を感知することは実はプロの音楽家でも容易なことではありません。メトロノームの刻むリズムをじっと聴いていると、何だかテンポがだんだん速くなるような錯覚に襲われることがあります。実際・同じリズム・パターンが延々と続く曲では、テンポが次第に上がってしまうということがプロの演奏でもしばしば起こります。こういう場合の対処法は拍の刻みに正確を期することに意識の多くを置かないことで、どちらかと言えば旋律の始めから終わりまでのユニットを一定に保つという意識で演奏することです。次に引用するのは三味線の名人鶴沢道八の言葉ですが、吉之助が言うところのユニットとまったく同じことを道八が語っています。(この問題は曲あるいは芝居のバランス感覚にも通じるのですが、本稿ではリズムに話題を限定します。別稿「芝居のバランスを考える」を参照ください。)
『義太夫の三味線で足取が重要なことはお話しするまでもないことです。世話時代の弾き分け、文章のすがたを弾き表すのは第一に足取です。これは一寸口ではうまくいひ表せませんが、例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと、その一尺のものを等分に割らずあるところは一寸五分、あるところは三寸二分、また次には五寸、その次は四分……といふ風に辿つて、結局は一尺のものに納めるのが足取で、その割り方、辿り方によつてその場その場のすがたが表れて来るのです。一尺のものを一寸づゝ十に等分する場合もないことはありませんが、まづ少く、何時でも等分ではそれは足取といへません。ですから同じ一つの「フシ」でも足取をつけ変へると全く別のものになります。』(鴻池幸武:「道八芸談」より)
「例へば一つの「フシ」の長さがかりに一尺あるとしますと」、西洋音楽で四分の四拍子と言えば・一小節を一尺として・そのなかに四分音符が四つあるという状態を足取りとするということです。ですからユニットの観点から捉えれば西洋音楽と邦楽が違うと感じたことは、吉之助の場合はまったくありません。西洋音楽の場合はたまたま定間の足取りの意識が強いだけのことだと吉之助は考えます。次に九代目団十郎が六代目菊五郎に踊りの極意を語った言葉を引用します。
『一尺の寸法を十に割って、一寸つづ十に踊れば一尺になる。それは極まっている定間のことだが、これを八寸まで早くトントンと踊り込んで、残った二寸をゆっくり踊って、一尺に踊り課せばそのところに面白さが出るのだ。』 (六代目尾上菊五郎:「芸」)
団十郎の言うところは、ユニットを正確に一定に保つことができるなら・そのなかの刻みを比較的自由に持っても・それで形式感は出せるという考え方です。もちろんこれは決して簡単なことではないので、上手にやらな ければユニット自体のバランスが狂ってきます。こうなると全体の足取りが揃ってきません。しかし、折口信夫が言ったことですが、六代目菊五郎がタンタンタンと踊りこんでいって・舞台の端もうちょっとと言うところでピタリと決めて見せる・この感覚は「菊五郎の科学性」だと言って良いと 折口が言っています。それは菊五郎にも折口にも共通した正しいユニット感覚を持っているからです。このことは台詞のリズムを考える時の非常に重要なヒントとなります。(この稿つづく)
(H21・2・17)
○アジタートなリズム・その3:内的必然のリズム
リズムを考える時に押さえておかなければならない点があります。音楽では「リズム」・「テンポ」という言葉を通常同じような意味合いで使います。強いて言えばリズムは打ち込み(拍)を意識し・テンポは速度(前進することを前提とした間)を意識しているということが言えますが、これは表裏一体のもので・両者を分けることはできないものです。一般的な傾向としてリズム・テンポという時にメトロノームが打つ機械的な拍子をイメージすることが多いと思います。例えば現代のもっとも優れた指揮者のひとりバレンボイムは次のように語っています。
『問題は今日の音楽批評の世界で自由が語られる時、それは速度の自由・テンポの自由にほとんど限定されていることだ。演奏に対して「彼のテンポは柔軟だった」とか、「とても厳格だった」という批評がなされるとき、それが暗示するのは「彼は厳格だった・それゆえ彼は分析的で妥協がない」あるいは「彼のテンポは柔軟だった・それゆえ彼はロマンティックで感情的だ」ということだ。』(ダニエル・バレンボイム:エドワード・サイードとの対話:「音楽と社会」)
音楽批評がテンポのことに神経質なのは、音楽において客観的に(データ的に)語れる指標がそれしかないせいもあります。フレージングのニュアンスがいかに素晴らしくても・それを「旋律の立ち上がりの何秒目の部分の音色が・・」と言っても所詮印象に留まって・いまひとつその感動を文字で伝えきれないもどかしさがあります。「彼のテンポは・・」・「演奏時間は・・・」と言うと何となく客観的に批評しているような風になります。テンポはメトロノームで計れるからです。もちろんそのテンポの受け取り方は人それぞれですが、論じ合える客観データがあると感じられる。これが批評の根拠になるわけです。ところが批評されるバレンボイムの側からすると、そんなの全然意味ないということになるのです。
ここでの問題はテンポをメトロノーム的な・機械的で一定の・それゆえ客観的な指標としてしばしばイメージすることにあると思います。むしろテンポは心臓の鼓動のイメージで捉えた方が良いのです。同じ心臓のドキドキでも、落ち着いた時はゆっくりと・興奮すれば早く・びっくりした時はいきなり跳ね上がります。同じドキドキでも心理状態によってそれは微妙に伸縮するのです。テンポとは内的世界において相対的であるということです。リズムをそのように考えたいと思います。
演奏が始まったら指揮者は振り出したテンポをそのまま一定に保つものだと杓子定規に考えてはいけません。もちろんフォルム感覚を生み出す根本はそこにあるわけで、テンポが大きく乱れるとフォルム感覚は正しく維持できません。20世紀前半の名指揮者トスカニーニは「イン・テンポ」の代表的な指揮者でした。確かにトスカニーニはリズムの刻みを前面に出し・リズムが生み出す推進力を一貫して維持するので・そのような印象が強くなりますが、実は曲の旋律のさまざまな場面で曲想に応じて微妙にテンポを伸縮させており、メトロノーム的なテンポの維持を決してしていません。それでなければあのようなカンタービレの力強さが生まれるはずはないのです。そのテンポは内的必然において 微妙に伸縮するが・その音楽的密度は一定に保たれている・だから「イン・テンポ」の印象が生じるということです。トスカニーニ以後に彼のスタイルを引き継いだ指揮者たちの多くはそのことを表面的に模倣しました。それで「イン・テンポ」は振り出したテンポをそのまま厳格に保つというイメージになってしまったわけですが、先駆者であるトスカニーニは実はそうではありません。
別稿「左団次劇の様式」においてトスカニーニのことに触れました。二代目左団次の芸風はトスカニーニと同時代的に論じられます。二拍子のリズムの刻みを前面に出し・その推進力で一気に駆け抜ける二代目左団次の台詞のリズムも同じように考える必要があります。芝居の台詞が音楽的だと感じることがあります。それは台詞回しに微妙な節付けがされているとか・音程を以って歌うように発声されるから音楽的であるということではないのです。特に黙阿弥の七五調の台詞の劇評などでしばしばそのようなことが書かれますが、その言い方はどこか間違っています。それは台詞と音楽の類似性を外面的な要素として受け取るからです。音楽ではないはずの芝居の台詞が音楽的であると感じるならば、その表現要素のなかに内的な共通項があると見なければなりません。台詞回しの息の内的緊張と・微妙な息の伸縮が一定の相関関係と波長をなしていると明確に感じられる時、 その時に観客はその台詞回しが音楽的であると感じるのです。(この稿つづく)
(H21・2・11)
○アジタートなリズム・その2:台詞が内包するリズム
今でも必ず行われるものかどうか知りませんが、興行前の顔合わせで台本が役者に配られる時に・狂言作者が役者の前で台本を読みあげる「本読み」という儀式があります。大きく間を取って芝居するように台本を読むわけではなく、あくまで本読みですから聴く者に大雑把なイメージを与えるべく早めの速度で事務的に読み飛ばしていくのです。儀式ではありますが、作者にとっては「自分はこういうつもりで芝居を書いた・この役はこういう風に演じて欲しい」ということを役者に伝えられる唯一の機会でもあります。本読みが巧いということは狂言作者にとっては大事な素養でした。本読みのせいで役者から物言いが付いてトラぶることもしばしばでした。黙阿弥はこの本読みがとても巧い人 だったと言われています。黙阿弥の本読みを聞いて・ある役者が「これは良い役をもらった」と喜んだけれども、実際演ってみるとそんなに良い役ではなかったというような笑い話も残っています。しかし、考えようによっては黙阿弥が本読みした通りにできなかったその役者が駄目だったのではないでしょうかねえ。
坪内逍遥も本読みの巧い人でした。「桐一葉」が初演されたのは明治38年のこと(執筆はそのずっと前で明治27年)ですが、これが歌舞伎が座付き狂言作者以外の外部の作家の作品を上演した最初のこと・すなわち新歌舞伎の最初になります。顔合わせの時に役者たちは「どこの誰だか知らぬ外部の作家に歌舞伎が分かるのか」という雰囲気であったそうです。ところが並み居る役者たちが逍遥の本読みを聞いて吃驚してしまったのです。なにしろ逍遥は九代目団十郎の大ファンで・片桐勝元に団十郎を想定してこの芝居を書いたのです。団十郎は明治36年に亡くなって・団十郎に上演してもらうことは叶いませんでしたが、逍遥はその団十郎の息で本読みをしたのです。役者たちは「芝居をよく知っている偉い先生だなあ」と感心して・神妙に役を勤める気になったそうです。もし逍遥の本読みが下手だったならば、その後の新歌舞伎の道程は10年かそこら遅れたかも知れません。
逍遥の本読みの録音は結構残っています。早稲田の演劇博物館に行けば「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年10月ポリドール録音)などを簡単に聴くことができますから是非聴いてみることをお勧めします。間合いを取らずにサッサと読んでいるので・芝居っ気というものをあまり感じないですが、勘所においてのリズムの力強さ・抑揚の巧さは逍遥の本読みの確かさを示すものです。一方、五代目歌右衛門(淀君)・十五代目羽左衛門(秀頼)・七代目中車(氏家内膳)の豪華顔合わせの「沓手鳥孤城落月」の音源(昭和6年ポリドール録音)も残っていますが 、これを聴くと歌右衛門の台詞はさすがに当たり役のことでもあるし・なかなかのものですが、羽左衛門も中車も脚本の様式を理解せずに自分勝手にしゃべっていてひどいものです。特に中車はこれでいいのかと思うような・旧態依然のだるい台詞回しで・がっかりします。この録音について逍遥が日記(昭和6年6月21日の項)に「試聴してその拙きと・イキの合わぬに呆れる」と書いて いるので笑えます。まったく逍遥の言う通りです。
三島由紀夫も本読みの巧い人でした。新版・三島由紀夫全集に「我が友ヒットラー」を朗読した録音が収録されています。昭和43年10月に神田駿河台の劇団浪漫劇場事務所での顔合わせで本読みした時の録音です。これもかなり早めのスピードで読み飛ばしていますが・途中でトチるとか・詰まるとか・言い直すとかまったくないもので感心させられます。ヒットラーとレームの対話の口調を変えてみせたりして・役を色分けして、ちゃんと芝居になっています。そこに作者が「この芝居はこうして欲しい」というものが確かに伝わってきます。 (三島は歌舞伎の本読みもしましたが、このことについては機会を改めて触れます。)
「自分で書いた台詞なんだからトチらないのは当然だ」と言う方は芝居の台詞の秘密が決して分らないでしょう。台詞が内包する息のリズムを感知して・その通りにしゃべっているから 台詞回しに無理が無い・だからトチらないのです。もちろん上記の場合は自分のリズムから発した台詞をしゃべっているからトチらないということですが、つまり作者にはそれぞれ台詞の独自のリズムがあるということなのです。そのリズムを理解すれば、誰でも無理のない自然な台詞をしゃべることができるし、無理がないから決してトチったり・詰まったりすることはないのです。黙阿弥には黙阿弥の・逍遥には逍遥の・三島には三島の息 のリズムがあるのです。究極には作者のそれぞれの息のスタイルを突き詰めるということが演じる者の課題であるべきです 。しかし、作家別はともかく・歌舞伎のなかにあるいつくかの様式をおおまかに捉えて描き分けることくらいはしてもらいたいものです。歌舞伎役者はその辺を何でも自分流のスタイル に引き寄せてひと色に処理してしま ういい加減なところがあると思います。しかも、それが役者の味だとか独特の調子だとか言って世間に容認されているわけですから劇評家や観客の方も甘いわけです。そこで本稿においては 大雑把にいくつかの歌舞伎の様式を取り上げて、そのリズムを考えてみたいと思っています。(この稿つづく)
(H21・2・5)
○アジタートなリズム・その1:リズムの緩急
「歌舞伎素人講釈」において・歌舞伎と並んでクラシック音楽が柱であることは本サイトを長くお読みの方はご承知のことと思います。実は歌舞伎評論以前の吉之助は音楽評論を考えていた時期があり、歌舞伎よりもクラシック音楽の付き合いの方が長いわけです。音楽の経験が吉之助の歌舞伎の見方に反映していることは明らかです。まあ多少の誤解を恐れずに言えば・吉之助の歌舞伎の見方は明らかに西洋視点ですし、そこに吉之助の独自の視点があると思っています。ですから吉之助は台詞のリズムの緩急がとても気になります。音楽においてリズムはフォルムを決めるための重要な要素です。旋律を歌う時に息に微妙な緩急がつく・テンポが変化する・あるいはバランスが変化するということでフォルムは驚くほど大きく変化するものです。まあ試しにシューベルトの歌曲を何人かの歌手で聴き比べてみてください。同じ歌詞を・同じ楽譜で歌っているのに ひとつとして表現が同じことがありません。リズムや緩急のちょっとした変化でこれほど多様な表現が可能なことに驚きます。
このことは芝居の台詞でも同じなのですが、台詞のリズムの緩急という問題に歌舞伎の方はちょっと疎いのではありませんか。台詞の緩急が歌舞伎の台詞のフォルムの要素として 強く意識されておらず、役者それぞれの自己流(よく言えば自分なりの工夫)で済まされているように思われます。また観客もそれで良しとしているようです。歌舞伎では「一声二顔」とよく言います。ということは台詞回しを役者の魅力の第一とするはずです。しかし、実際には歌舞伎役者で名調子と言われる人には悪声の人が少なくありません。折口信夫はこう書いています。
『これだけは恐らく、歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言われている優人には、かなりの悪声の人がいた。抑揚頓挫が、ただしく旧来の発声の型に入っているものを、ほめて言う場合に言われることもある。そうでなくとも歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を、名優のなかに持っていたものはないであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年)
*折口信夫:「花の前花のあと」はかぶき讃 (中公文庫)に収録
折口信夫は「歌舞伎芝居のなかに近代的精神を・あるいは新劇的生命を生かすにはどういう風にすれば良いかという問題を若い人から与えられたので興味を持ってこの文章を書き出した」と書いています。正しい発声ができないということは正しい台詞術が身についていないということです。ですから折口は台詞のエロキューションに歌舞伎の問題点を見ているわけです。 折口は歌舞伎役者は発声が良くない人が少なくないという不満を周囲によくこぼしていました。このことは歌舞伎では正しい発声や台詞術があまり顧慮されていないことを示しています。明治40年に欧米演劇視察旅行から帰ったばかりの二代目左団次と小山内薫との対談 を読んでも、歌舞伎は明治の昔からそうだったことがうかがわれます。
小「サラ・ベルナールの芝居をみたかね。」
左「「レ・ブッフォン」というのを見ました。」
小「巧かったかね。」
左「声のいいのには、実は感心しました。」
小「僕も日本で西洋人の芝居は1・2度見たが、当たり前の台詞を言っているのを聞いても、まるで歌を聴いているようだというが本当かね。」
左「まったくそうです。それというのもまったく声の練習が積んでいるからです。私が俳優学校へ参りまして、声の先生に会いました時も、自分の口を大きく開いて咽喉の内部の構造をすっかり鏡に映してくれました。その時の話に、日本人は咽喉からばかり声を声を出すから、少し長くしゃべると声が枯れてくるのだし、風邪をひいて咽喉に故障が出ると、すぐ声が出なくなってしまうのだ。だから声を腹から出す練習をしなければならんと申しておりました。 」
(「瓦街生、市川左団次と語る」・ 明治41年出版「演劇新潮」)この対談を読めば・左団次が西洋人の台詞の音楽的なこと・発声法を大事にしていることに実に素直に感動していることが分かります。後年の新歌舞伎の左団次の台詞回しはこの感動から生まれたのです。このことを考えに入れれば新歌舞伎の様式の根源的なところが分かってきます。(別稿「左団次劇の様式」をご参照ください。) それにしても歌舞伎では発声法はもちろんですが・「台詞の調子の良し悪し」がリズムの緩急に関連して論じられることがほとんどないようです。そのくせ「歌舞伎の台詞は音楽的だ 」とみな言っています。歌舞伎の台詞が音楽的だと言うなら・音楽のように台詞を発声するというのならば、台詞の緩急に注意を払わないのは変なことだと思います。そういう変な見方が歌舞伎ではまかり通っているのです。(この稿つづく)
(H21・1・31)
近松のかぶき的心情〜巣林舎の「殩静胎内捃」
○近松のかぶき的心情〜巣林舎の「殩静胎内捃」:その5
「殩静胎内捃」 という外題は「ふたりしずかたいないさぐり」と読みます。「殩」はほとんど見ない漢字ですが「サン」と読み、食べ物を表す漢字であるようです。例えば「殩孝」は喪家に供物を贈ることを言います。 しかし、「殩」には「ふたり」という読み方は ありません。「捃」は「クン」と読み、「集める」とか「拾う」という意味です。「捃」にも「探る」とか「取る」という意味はありません。ですから「ふたりしずかたいないさぐり」というのは当て読み です。歌舞伎の外題にはこういうことはよくあることですが、そう考えると逆に「殩静胎内捃」から「ふたりしずかたいないさぐり」という読み方がどうして出て来るのか・そのことの方が 興味深いと思います。また「殩静胎内捃」という外題の文字のなかに隠された意味があるようにも思われます。
「ふたりしずか」と言えば謡曲「二人静」を思い出します。謡曲「二人静」は正月七日の神事のために若菜を摘みに出た乙女が狂乱状態になり、憑きものの正体を尋ねると判官殿に仕えていた女であると答えます。宮人が蔵に収められていた静御前の衣装を乙女に着せると・乙女が舞い始め、義経の吉野落ちの辛苦の様子・頼朝に召されて舞を所望され舞わされたことを語り、「しずやしずしづやしづ、しづのおだまき繰り返し昔を今に、なすよしもがな」という有名な歌を歌って舞うというものですが、舞台にふたりの静御前が登場するというものではありません。狂乱状態の乙女の姿に静御前の姿がダブって見えるというのを「二人静」と表現した ものです。史実の静御前については捕われて鎌倉に送られ・そこで男の子を生みますが、頼朝の命により赤子は由比ヶ浜に沈められたという記載が「吾妻鏡」にあります。ですから「三段目」での大津二郎の妻の悲劇はそのまま史実の静御前とダブります。「ふたり静」ならばそれは静御前と大津二郎の妻であることは明らかです。 「殩静」を「ふたりしずか」と読むのはその辺に根拠があるでしょう。
ところで近松研究の大家・木谷蓬吟は「一説にはさんにん静と読む」ということを書いています。これは「殩」をサンと読むことを考え合わせると説得力のある説に思えます。さんにん静(三人の女)ならばこれに義経の母・常盤御前が加わることになることは明らかです。「殩静胎内捃」原作では常盤御前の名は義経の述懐のなかに出てくるのみで、 作品に常盤御前は登場しません。しかし、常盤御前は作品中で義経に対しとても重要な役割を持っています。義経は常盤御前と幼くして別れ・母の愛情を知らずに育ちました。義経の亡き母への思いは、恨みや復讐心といった現世的な 感情に義経を強く縛りつけるトラウマになっています。 近松門左衛門は熊坂長範一味の惨殺も・壇ノ浦に平家を討ち滅ぼした軍功も、義経の亡き母への無念の思いが生み出したものだと見るのです。そこに精神分析の視点から見た近松の斬新な歴史解釈があります。義経は母のことを思いつつ、周囲の人物(大津二郎・弁慶たち)の犠牲的行為にとって・そうした迷いから少しづつ解き放たれていきます。こうして最後に義経は人生の儚さ・無常を知る男としての本性を明らかにするのです。
「胎内」という言葉は仏教用語にもあるものですが、それにしても「胎内捃(たいないさぐり)」という言葉はちょっと普通ではない響きがあります。西洋には「胎を開く(=open the womb)」という言葉があり、これは「生まれる」ことを意味します。これはルカ福音書2.23に典拠があるもので、日本聖書教会訳では「初めて生まれる男子は」 (つまり長男のことです)となっている箇所です。日本正教会訳ではこの箇所が「初めて胎を開く男子は」と原文に忠実に訳されています。ここで吉之助は近松隠れキリシタン説を蒸す返すつもりはありませんが、この「胎内捃」も近松隠れキリシタン説のひとつの材料になるかも知れません。「胎内捃」とは自分の生い立ちを振り返って・そこからひとつひとつ何かを拾い集めていくという意味のように思われます。「殩静胎内捃」とは母常盤の死を契機とした義経の自分(ルーツ)探し の旅・自分が本来備えていた神性再発見への物語であるという風に解されると吉之助は考えています。
巣林舎上演での鈴木正光脚本は冒頭部に赤子の牛若丸を抱いた常盤御前が平家の追っ手に捕まるという場面を置き、最終場面に義経たち仲間全員が平泉で討ち死にする場面が付け加えられています。いずれも近松原作にはない場面です。しかし、これらの場面が挿入されることによりこれで「殩静胎内捃」の常盤御前と兄頼朝を絡めた「義経の一生」という構造がより明確になりました。観客の作品理解をより深めた優れた脚本アレンジであったと思います。歌舞伎はこのように巧く再構成すれば現代の観客に強烈にアピールできる宝の山(古典の作品群)を持っているのですから、歌舞伎ももっと埋もれた名作の発掘に目を向けてくれれば良いなあと思います。
(H21・1・24)
○近松のかぶき的心情〜巣林舎の「殩静胎内捃」:その4
「三段目・大津二郎宿」 最終場面で大津二郎は妻の腹から取り上げた赤子を身替わりとして梶原に差し出し・赤子はその場で首を刎ねられます。今回の巣林舎上演での鈴木正光脚本では・二郎は静御前と生まれた若君を逃がした後に妻の死骸の傍らで自害することになっています。この部分は近松原作と大きく異なります。近松原作では二郎は静御前と若君を守って・義経のいる奥州平泉を目指すのです。「五段目・平泉」で二郎は義経と対面します。義経は「静は梶原に生け取られ・生まれた子供はその場で首を打たれたと風聞で聞いては恨めしく、しかも昔自分が打ちもらした熊坂の手下が関係していたと聞けばなお恨めしく無念に思っていたが、(静と若君をこうして守ってくれて)親殺しの恨みまで晴れたるぞ。この子が為には汝は親。若に代わって この義経が礼を言うぞ」と言って手をついて・二郎に礼を言います。更に義経を追って平泉に来た梶原が捕まります。梶原の殺害は二郎に任されます。二郎は妻の苦しみを思い知れと言って斬りつけ、我が子の恨みと言って梶原の首を刎ねます。そして一同が喜び・我が君万歳と叫ぶなかで「殩静胎内捃」は終わります。そういうわけで近松原作の平泉の場では義経と二郎の恨みは晴れて・明るく終わり、義経の寂しい最後が描かれていません。もちろん義経 に衣川の戦いで死する運命が迫っていることは絶対的な前提であり・誰もが承知していることです。しかし、近松はそのことをここで敢えて無視しています。衣川の戦いの後も二郎は落ち延びて・静御前とその若君を守って生き続けたに違いありません。
鈴木脚本で二郎が妻の死骸の傍らで自害するという改変は、実は主人公が他者に対して犠牲を捧げて許しを得るという古典劇の構図の根幹に係わる問題です。しかし、この鈴木脚本の改変は改悪だとは吉之助は思いません。夫が妻の腹を割き・取り出した赤子を身替わりに差し出すという理不尽極まる悲劇を 現代人の倫理観で捉える時に、夫が妻の死骸の傍らで自害するという結末でなければならないということは十分納得できることです。その場合、主人公が他者に対してその運命の理不尽さを抗議するという感じになると思います。 現代人は古典の悲劇をそのように読むわけです。これは悲劇のバロック的な展開で・寸切れでドラマを終わらせて・聴き手に問題意識を突きつけたままに終えるやり方です。近松の現代劇による再生をテーマにする巣林舎ならではの読み方だと思います。
しかし吉之助は・もし「殩静胎内捃」が歌舞伎で上演されることがあるならば、この箇所は近松原作の通りに・つまり二郎は死なずに静御前とその若君を守って奥州を目指す形にせねばならない大事なポイントであるとも思います。主人公が他者に対して犠牲を捧げる・その行為の葛藤と悲嘆のなかにドラマがあるという古典悲劇の構図をはっきりと示すのが歌舞伎の役割だと思うわけです。そして義経が「この子が為には汝は親。若に代わってこの義経が礼を言うぞ 」と言う時にすべてが癒されるというのが、義経もののドラマの根幹であるからです。妻の死も・子供の死も踏み越えて・ようやく掴むことのできた許しと癒しということです。(付け加えますが、これは二郎だけが癒されているのではありません。二郎の死んだ妻も子供も・ 地獄に堕ちた父親も癒されているのです。)犠牲的行為のなかの葛藤・悲嘆というバロック的な要素を古典的な枠組みのなかにいかに美しく収束させるかということが、近松が創始した新浄瑠璃の悲劇の大事なテーマなのです。(この項つづく)
(H21・1・17)
○近松のかぶき的心情〜巣林舎の「殩静胎内捃」:その3
このように大津二郎夫婦の悲劇は贖罪の物語として読めるわけですが、それは誰に対する罪であるのかということが大事になります。表面的には確かに二郎の父・擂針太郎が常盤御前を殺したことの罰が子孫にまで及ぶということです。それは因果応報の悲劇としても読めます。しかし、この「殩静胎内捃」は義経物の系譜なのですから、義経の神性ということを思いやる必要があります。義経は幼い時に親兄弟と別れて孤独に育ち、成人しては・まるで彗星のように現われて・奢る平家をアッと言う間に打ち滅ぼし、その栄光もつかの間・兄頼朝に疎まれて奥州の地に寂しく果てるというように、その人生に栄光と悲惨・まさに諸行無常・流転の人生を体現してきた人物です。だから義経はもののあはれを理解することのできる人物だとされてきました。まさに義経はこの世の哀しみを涙ですくい取る菩薩なのです。それが義経信仰の原点です。芸能の世界では謡曲においても義経は神性を備えた神に等しい存在として描かれてきました。その義経を生んだ母常盤はいわば聖母ということです。擂針太郎は義経の母を殺したからこそ地獄で罰を受けるのであり 、これは明確に義経に対する罪なのです。義経に対して親の罪を償う責務はその息子である大津二郎に課せられますが、それは同時に大津夫婦が義経の神性を明らかに しようとする行為でもあるのです。ですから大津夫婦も・まさに首を切られるためだけに生まれてきたような赤子も義経信仰に帰依し・その神性に奉仕する使徒なのです。それは同じく「四段目・安宅の関」における富樫 もまったく同じ役割です。(これについては別稿「勧進帳についての対話」もご参考にしてください。 富樫のこの性格は後年の「勧進帳」にも受け継がれています。)
後年の「熊谷陣屋」の義経を見れば・義経は最初からあはれを解する人物として登場しています。義経物の系譜からしてこれは当然のことですが、しかし、近松の「殩静胎内捃」の場合は趣が異なります。 近松原作を読んでいて吉之助がとても驚いたのは序段・北野天神で酒宴を開いた義経が弁慶たちに絵馬を見せて次のようなことを語ることです。この絵馬は自分が母常盤を殺した熊坂長範という盗賊を殺した場面を描いた絵だ・長範の仲間 を片っ端から討ってやった・父義朝の敵平家一門を討ち滅ぼした如く・母の敵の盗賊たちの子孫も根絶やしにしてやるところなのだが・残念ながら壬生の小猿という小盗人ひとり(これが大津二郎のことである)を打ち漏らしてしまった・いつかその恨みを晴らそうと思いながら今日まできたが・未だそのことを果たせないでいるのが口惜しいと義経は涙するのです。つまり、 ここでの義経はあはれを解する人物であるどころか・まさに恨み骨髄の人物なのです。岩佐又兵衛の絵巻物「山中常盤」と見てもそう感じますが、ここで義経 が言うことはまさに鬼神の台詞そのものです。義経はその怒りによって熊坂長範一党を斬り殺し・さらには平家一門を討ち滅ぼしたのです。つまり序段の義経はまだ修羅道のなかにあるわけです。
ですから吉之助は義経物である「殩静胎内捃」を次のように読みたいと考えています。序段での義経は修羅道にあり・母を殺した盗賊たちへの怒りを維持し・鬼神の性格をまだ濃厚に残しているのです 。しかし、五段目・奥州平泉の場においてはその性格がすっかり消えています。「三段目・大津二郎宿」での大津夫婦・「四段目・安宅の関」での関守富樫というふたつの犠牲的行為によって、義経は鬼神の性格をすべて洗い流され、あはれを解する神へと転化していくのです。つまり「殩静胎内捃」とは母常盤の死を契機とした義経の自分(ルーツ)探し・自分が本来備えていた神性 再発見への物語である(つまり「胎内さぐり」ということになる)という風に吉之助は読みたいわけです。そう考えれば近松が序段義経に母常盤の死への無念を語らせている場所に北野天神を設定していることもその意味が見えてきます。菅原道真もまた怨霊の性格を捨てて・守護神へ転化した神であるからです。(この項つづく)
(H21・1・10)
○近松のかぶき的心情〜巣林舎の「殩静胎内捃」:その2
「三段目・大津二郎宿」は「御伽草子・山中常盤」から題材を取っています。「山中常盤」では常盤御前は奥州にいる牛若丸を訪ねて旅に出ますが、その途中の美濃国山中宿で盗賊・熊坂長範一味に惨殺されます。その翌日・奇しくも同じ宿に泊った牛若丸は夢のなかで母が殺されたことを知り・一味を討つという話です。(注:史実では常盤御前の晩年は定かではないようです。「山中常盤」の話は江戸時代の絵師・岩佐又兵衛によって見事な絵巻物になっています。こちらでご覧ください。なお岩佐又兵衛は「吃又」のモデルとも言われています。)
大津二郎の亡き父・擂針太郎はこの時の長範の仲間であり、当時・13歳で壬生の小猿と名乗っていた息子の二郎は・父の無残な最期を見て改心して・その後は大津松本で宿屋商売をしていま した。今回の巣林舎・鈴木正光脚本では若干改変がされていますが、近松原作では旅の僧が登場して・擂針太郎が地獄で常盤御前を殺した罪を責められており・常盤御前ゆかりの者を助け父の罪を少しでも軽くするようにとのお告げを二郎夫婦に伝える場面があります。夫婦が家に戻ると宿屋にはすでに梶原一行が到着しており、産気付いた静御前が宿奥へ担ぎ込まれます。二郎夫婦が動転しながらも・同じく臨月の妻のお腹の子供を静御前の子供の身替りとするという決意をする場面が何とも壮絶です。まず印象的なのは二郎の妻(鈴木正光脚本では 凛とあるが・原作では名はない)がまるで憑かれた如く・自らが犠牲になることに突っ走ることです。夫の方はどちらかと言えばビビッているのですが、妻の方が夫を叱咤して・夫に身替わりの行為を貫徹させます。妻がこのように自分が死んでも良いと思い立つ背景にはどうやら自分が三回死産を繰り返してきたのは 義親が常盤御前を殺した業罰だという強い畏れの気持ちがあるのです。静御前を見殺しにすれば夫婦はさらに因果の罪を重ねることになるし・四回目のお産も多分死産であろう・それならば・・ということです。もし生まれるのが女の子ならば助かる道もあるという賭けの気持ちもあります。しかし、静御前の生んだ子供は男の子であった。もはや妻の腹を割くしかない。ついに夫は意を決して妻の腹を割いて子供を取り出しますが、 無念やこれも男の子であった。内容が凄惨極まるということもありますが・よくよく考えてみるとこれはまったく作為的で現実にあり得ないドラマです。しかし、近松は観客を作為的なシチュエーションのなかに追い込んで決して離しません。夫婦の動転と気持ちの変化の筆致が緊迫感あって実に劇的です。
身替り物は確かにどれも作為的なドラマで・登場人物を犠牲的行為に追い込むための設定が極端ですが、近松の「大津二郎宿」に特徴的なことは登場人物に自分たちは罪を背負って生きているという意識が強くて・その罪を更に深めてしまうことに強い畏れを感じているということです。 それが熱い情念になって渦巻いています。まさに原罪と贖罪がこのドラマの主題です。ただしこの悲劇はそのような過酷な運命から逃れたい一心という受動的な形ではなくて、もっと積極的に自分から運命に働きかけて ・自分の力で運命の流れを変えていこうとする行為であると読みたいと思います。
後代の「寺子屋」の松王の行為は菅丞相に対する忠誠を証明しようとする行為ですが、この裏には松王(三つ子の兄弟)と丞相との出生にまつわる深い繋がりがあり・つまりそれは松王の出目(アイデンティティー)の問題であるのです。しかも松王には心ならずも敵方である藤原時平に仕えているという 負い目があるわけですから、「寺子屋」の身替りも「大津二郎宿」と悲劇とまったく共通の要素を持つわけです。「大津二郎宿」ではかぶき的心情のドラマツルギーの核を剥きだしの形で見せてくれた気がして、その点で吉之助にはとても感銘深いものがありました。後に浄瑠璃・歌舞伎の定型パターンとなる身替り物の原初の形が恐らくここにあるのです。(この項つづく)
(H21・1・5)
○近松のかぶき的心情〜巣林舎の「殩静胎内捃」:その1
本年(2008年)10月新宿・紀伊国屋ホールでの巣林舎・第6回公演「殩静胎内捃」(ふたりしずかたいないさぐり)の舞台を見ました。巣林舎は劇団名に近松門左衛門の俳号・巣林子を 冠し、近松の埋もれた時代物を毎年1作づつ現代語訳で上演していこうという連続的な企画で・歌舞伎のスタイルではありませんが、とても意欲的な試みです。近松は現代ではもっぱら世話物作家として知られています 。しかし、当時の演劇は時代物が本領であり・時代物で評判を取ってこそ一流作家でした。近松もまた120編とも150編とも言われる作品のなかで世話物は24編にすぎず・その大半が時代物でした。現在の我々が舞台で目にすることができる近松の時代物は「俊寛」や「吃又」などを除けば・ほとんどありません。その意味でも巣林舎の 試みはとても貴重なものです。当初吉之助が「殩静胎内捃」を注目していたのは四段目に「安宅の関の場」があ るからで、つまり「勧進帳」と同じ場面を近松がどう料理しているかということでした。しかし、実際に舞台を目にして見ると三段目「大津二郎宿の場」(今回の上演本では第5場に当たる)が 断然インパクトのある出来であったので、本稿では「大津二郎宿」を中心にして・随想的に展開することとします。
兄頼朝と不和となった源義経は都落ちして奥州平泉を目指しますが、義経一行と別れた静御前は鎌倉方の梶原に捕まってしまいます。その時・静は臨月で・鎌倉へ送られる途中で産気づきます。梶原は大津二郎夫婦が営む旅籠に宿泊することとし、そこで静が出産した赤子が女の子ならば許す・男の子ならば即座に首をはねると言います。実は大津夫婦は義経と深い因縁がありました。その昔・義経の母常盤御前を殺したのが熊坂長範という盗賊で・その 一味の息子が大津二郎で あったのです。その業罪の意識から大津夫婦は静御前の赤子を守らねばならないと決意をして、二郎は同じく臨月である妻の腹を割き・取り出した赤子を義経の子として身替わりに差し出し・赤子は首をはねられます。これが三段目「大津二郎宿」のあらましです。まず驚くのはその身替わり手法の猟奇的かつ陰惨なことです。大津夫婦の罪の意識と・その報いへの恐怖が夫婦が生まれてくる子を身替わりに差し出す背景となっています。
「殩静胎内捃」が始まる前の客席での解説に立たれた鳥越文蔵先生は「近松はクリスチャンじゃないですが、この作品には贖罪のテーマがある」ということを仰いました。鳥越先生が「近松はクリスチャンじゃないですが・・」と仰ったのは、劇作家として名を成す以前の近松の経歴については・その出生地も含めて不明な点が多く・諸説には近松と隠れキリシタンとの接触をうかがわせるものもあるので・その辺も踏まえての発言かと思います。(近松の作品を読むとその知識が非常に広範囲に及ぶだけではなく、外国の情報に通じている と思われるものがあり、近松・隠れキリシタン説も興味深いものがあります。これについては近松研究家・宮原英一氏のサイトをご参照ください。)
大津夫婦の悲劇は親の犯した罪を生まれてくる自分の子供を殺して償うというもので、それ以前の日本の演劇あるいは文学において類例を見ない特異なものです。そこにどこか原罪という観念にも通じるものがあって・近松隠れキリシタン説というのが頭をちょっとかすめるところがあります。これは確かにとても魅力的な想像です。しかし、これは親の所業が子に報いるという因果論・宿業論としても理解できますから・本稿ではそういうことにしておきますが、それにしても大津夫婦の行為 の・そのテンションの高さには驚かされます。しかも自らの意志で他者に犠牲を捧げるというのとは少し異なり(表面的にはそう考えることもできますが)、他者に対して自分の罪の許しをひたすらに請うという悲壮さが際立っています。その点でも「大津二郎宿」は特異な悲劇であると思います。(この項つづく)
(H20・12・27)
歌舞伎の平面性〜次元の乖離
○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その7
毎回話題になる串田・勘三郎の「夏祭」の幕切れは、今回は捕り手に追われた団七(勘三郎)と徳兵衛(橋之助)があちこち逃げまわり・やがて高い壁に行く手を阻まれて 逃げ場を失い万事休すとなったところで・「まず今日はこれ切り」という形でした。これはベルリンの壁のことを指しているのでしょう。自由を求めて生きるかぶき者を阻むものを指しているとも考えられます。
吉之助がベルリンを訪問したのは1979年3月のことでした。当時は米ソ冷戦時代でしたから、東西ベルリンは壁で分断されていました。ベルリン訪問の目的はベルリン・フィルを聴くこともありましたが、もちろんベルリンの壁を見ることでした。行ったのはチェック・ポイント・チャーリー (米軍が管理する東西ベルリンの関所のあだ名)に程近いフリードリッヒ通りの壁であったと思います。あれは「壁」とひと言で言いますが、(場所にもよると思いますが)むしろ堤防だか橋頭堡の感じでありました。高い壁の向こうの多分100メートル近くコンクリートで固められたただの平地で、あちこちに鉄条網が転がされていました。さらに向こうにも高い壁がありました。監視台には兵士がいて、脱走者を見つければ機関銃で撃つという態勢です。それでも脱走を試みる者が絶えなかったというのだから驚きです。しかし、吉之助が行った日はのどかなもので、展望台から手を振ると・向こうで銃を肩にした東ドイツの兵士が手を振って応えるみたいな風景でした。国境というものが海の上にしかない日本人にはこれは想像を絶する光景です。「何だ、これは。何が同じ人間を隔てているんだ」という言いようのない怒りが腹の底から涌いてくるようでした。のんびりした光景だけに・余計にその理不尽さが身に沁みました。しかし、ベルリンが「のんびり」というのは表面上のことで、ベルリン・ドイツ・オペラを観て吉之助がホテルへ帰る途中でしたが、暗い路上で吉之助の足音を聴いて数名の人間がワッと蜘蛛の巣を散らすように逃げたのにはこちらの方が襲われるかと思ってビックリしました。どうやら彼らは共産主義のプロパガンダ・ポスターを貼っていて慌てて逃げたのです。ドーベルマンを連れた警官 たちがクーダム(西ベルリン繁華街)の店をガサ入れしているにも出会いました。ベルリンはやっぱり東西陣営がパチパチと火花を散らす最前線であったわけです。
1963年6月26日、西ベルリンを訪問したケネディ米大統領は「自由を求める者は皆、ベルリン市民である。私も一人のベルリン市民である(Ich bin ein Berliner )」と演説しました。吉之助がベルリンに行った1979年には、10年後にこの状況が解消するなどとはとても想像が出来ませんでした。当時ベルリンの壁は決して越えることのできない障害や永遠になくなることのない大きな障害のたとえとしてしばしば使われたものです。1979年に伝説的なロック・グループ・ピンク・フロイドが発表したアルバムに「ザ・ウォール」というのがあります。学校教育や社会の中での抑圧・疎外感を「壁」に例えています。「壁」はいろんな観点から冷戦時代を考えるキーワードでした。
冷戦時代にあって「壁」にはふたつの意味がありました。ひとつはネガティヴな意味ですが・個人を引き裂き・分け隔てる非人間性としての「壁」です。そこには圧倒的な力を持つ存在があって、それが個人を抵抗しようもない力で抑圧します。 これは個人から見れば抵抗・反抗・反体制の象徴です。もうひとつはポジティヴな意味で・いつかはこれを乗り越えてみせるという「壁」の存在があるから、自分もこれに対抗する形で・自分のなかの力を高めていけるというものです。
1989年のベルリンの壁崩壊は予想も付かない形で起こりました。非常に幸運なことでしたが、一滴の血も流さずにベルリンの壁は崩壊しました。このことは良い意味においてベルリンの壁をベルリン市民に記憶させています。それは「ついに乗り越えたもの・自由の信念においてついに崩壊させた無用の長物」なのです。この勝利の余韻は未だ続いており、現在のベルリンは建設ラッシュが続く・ヨーロッパのなかで最も活気のある街です。
そう考えれば串田・勘三郎のベルリン版「夏祭」のエンディングは、ベルリンっ子にその意味はもちろん分かるでしょうが・30年前ならいざ知らず・インパクトが足りなかったと思います。現在のベルリンっ子にとっての「壁」という意味を正しく体現できていないのであるなあ。このなかにかぶき者の精神と共通したものがあるのではないでしょうか。 「壁」とは場における乖離そのものであり、歌舞伎はそれと明晰に対峙せねばなりません。万事休して逃げるのを諦めるということはあり得ないのです。逃げ切るか・そうでなければぶちあたって死ぬしかない・それがかぶき的心情です。吉之助ならツルハシ持ち出して壁をぶっこわして・団七と徳兵衛は壁の向こうに逃げちゃうエンディングにしたいと思います ねえ。かぶき者は規制や柵をぶっこわして・自由を求めて明日に向かってひた走る。それが今のベルリンにふさわしいエンディングであったと思います。
(H20・12・23)
○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その6
串田版「長町裏・義平次殺しの場」は感心する部分とそうでない部分があって評価がなかなか難しいところです。まず感じることは串田版は泥田を本格に作り・義平次に笹野高史を起用して・これは徹底した写実を指向するのかと思いきや、これに反して殺し場を暗闇にして・黒衣が面明かりを持ち出しておどろおどろしい雰囲気を出し、さらに義平次を殺した後・バッと舞台を明るくして・祭囃子が近づいてくるという風で・その場その場の効果はなかなか巧いものですが、演出コンセプトとして一貫性に欠けるように思えることです。殺しの段取りは従来の歌舞伎とさほど変わるわけでもなく、その辺の細かいところは勘三郎にお任せをして・照明効果で変化を付けたということかと思います。まあいつもの歌舞伎と違うものを見せようとしているわけですから目くじら立てるのも野暮ですが、黒衣の面明かりも含めて・この照明は手法としてシュールなものでかぶき的とはちょっと言い難い感じがします。いや歌舞伎の技法というのは確かにシュールな一面を持っており・その点に共通項がないわけではないので、串田氏の照明技法も義平次殺しの暗いドロドロした情念を巧く表現したと好意的な評価ができないことはありません。そのため吉之助はこれを歌舞伎でないと断定するのは躊躇しますが、しかし、吉之助は歌舞伎のシュールは明晰なもので 、ドロドロしたものではないと思っています。
義平次殺しは前場「三婦内」に「早暮れ近く」という文句があり、そこからさほど時刻は経っておらぬので・夕方のことです。夏の夕方のことですから・周囲はまだ明るいと考えて良いです。だから西日の明るいなかで殺しが行われるのが本来であるし、この後で宵の祭囃子が来ることを考えても・殺し場を漆黒の闇にしてしまうことは写実とは言えません。 しかし、義平次殺しは明るい舞台で行われるのがふさわしい・そのように作者は芝居を書いていると吉之助が考えるのは別の理由に拠ります。
団七はもともと浮浪児で・それがいかさま師の老輩義平次に拾い上げられて育てられて・そこの娘と出来てしまい、肴のふり売りしていたものが喧嘩で名を売って、色町で武家奉公人を斬って入牢したという設定になっています。また徳兵衛も備中玉島を脱走して一時は非人の群れに入った喰いつめ者で、喧嘩の尻押しに買われたり・いかさま師です。義平次から見ると団七は浮浪児であったのを拾い上げてやったことでもあるし・娘の連れ合いでもあるし、団七を応援してやればよさそうなものですが、これが全然そうではないのです。この根性の捻じ曲がった老人は「お前ばかりにいい目見させてたまるか・格好付けやがって・誰の世話になったんじゃい」という感じで団七の足を引っ張り続けます。義平次には底辺を這いずり回った人間の強烈な僻みと妬みと醜さがあり、そこから抜け出そうとする団七を邪魔することしか考えていません。そのしがらみが結局、団七を絡め取ることになるわけです。
団七から見ると義平次は自分の過去を握っている男です。団七は義平次に恩義がありますが、それは団七にとって一番思い出したくない過去です。その忌まわしい過去が自分を襲ってきます。つまり団七がここで向き合っているのは義平次であると同時に・向き合いたくない自分の忌まわしい過去なのです。消し去らねばならないものが団七に目の前にありありと見えています。だから団七は義平次を殺すのです。義平次殺しが明るい場所で行われなければならない理由はそこにあります。鳴り響くお囃子のリズムはそれが公然の場所で行われている・いつ誰が来てもおかしくない場所で行われていることを示しています。しかし、この時の団七にとってもうそんなことはどうでも良い・消さねばならぬと見込んだものは消し去らねばならない・殺すべき対象は明確である・お囃子のリズムさえ自分をけしかけているようにさえ感じられる・義平次殺しはそういう場なのです。推理小説には功なり名遂げた人物が自分の忌まわしい出目だか過去だかを知っている人物に脅され・これを殺すという設定のものが数多くありますが、義平次殺しもまたそうです。
このことは状況は異なりますが・ビゼーの歌劇「カルメン」最終場面を思い出させます。「カルメン」最終場面は吉之助の知る限りほとんどの舞台で「自分と一緒に暮らしてくれ」とホセがカルメンに迫り・カルメンがこれを撥ね付けて・指輪を投げ捨てる場面で、闘技場から勝利した闘牛士を称える合唱が聞こえてきますが・舞台上には 主役ふたりしか登場しません。ホセがカルメンを殺して「俺を捕まえてくれ」と叫ぶと急にぞろぞろと野次馬が出てきて・ホセを取り囲みます。考えればこれはちょっと奇異なことで、実際のことならば闘技場の周囲は物売りとか子供とか・最初から人間で溢れているはずです。ホセのカルメン殺しは本当はそういう公衆の場で行われているはずなのですが、殺しの場面においては周囲が消えています。ホセにはカルメンしか見えていません。カルメン殺しにはスペインのギラギラとした太陽の輝きと・強烈なリズムという明晰な印象が必要です。なぜならばホセの殺したカルメンはホセのすべてであり ・これまでの堕落した過去のすべてであり、つまりこの場でホセが向き合っているのは明確に自分自身にほかならないからです。
このような類似は決して偶然ではありません。「カルメン」の19世紀西欧の浪漫的心情と・「夏祭」での団七の義平次殺しのかぶき的心情はまったく同じバロック的な感性から発するものだからです。だから義平次は自分にまつわりつく嫌な奴だから殺した・自分の正義の邪魔をする悪い奴だから殺した・男の生き面を割ったから殺したというのは実は表面的なことで・もし団七が裁判で殺しの正当性を主張するならばそういうことを言うでしょうが、この芝居の題名の「夏」というものが示すイメージ・「強烈な太陽光線・いらだつような暑さ」が示すものはそれとはまったく異なるものです。団七の殺すべき対象は日に照らされたように明確に見定められています。義平次は明るい場所で殺されてこそ歌舞伎にふさわしいと吉之助は思います。
義平次殺しの場面を明るくすべきか・暗い方が良いかと言うことはどちらが正しいとか・間違っているとかいう問題ではありません。それは手法の相違と言うべきですが、まあこの点で串田氏と吉之助とは歌舞伎のイメージに違いがあることは確かですねえ。 ここにも立体性と平面性の問題が絡んできます。「強烈な太陽光線・いらだつような暑さ」を考えれば・ここでは逆に平面性の方が歌舞伎のリアルさを持つのです。串田版を見ていると・暗がりのなかで面明かりでボーッと照らされた義平次の表情が深層心理の闇のなかから浮き上がってくる亡霊のようにも見え、それが歌舞伎の何ものかを表現して興味深いことを吉之助は認めないわけではありません。それは表現者としての串田氏の立場からすれば当然あり得ると思いますが、様式からみればそこには明晰さ がなく・ドロドロと粘った感触に感じられます。これは 江戸のかぶき的感性から遠いもののように吉之助には思われます。乖離した感性のザラザラとした粗い感触を見せてくれるものではなく、やればやるほど歌舞伎のリアル さから離れていく感じがします。むしろ義平次に留めを差した後・黒幕が落ちて・舞台がパッと明るくなり・祭連中がなだれ込んで来る場面に明晰さとかぶき的な感触が満ち溢れています。(この項つづく)
(H20・12・21)
○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その5
ご存知の通り・歌舞伎は閉鎖的な世界でして、約束事や文献的知識も必要な歌舞伎において部外者が演出することは至難なことです。歌舞伎の世界で平気で演出ができた部外者は武智鉄二くらいのものです。それも手放しで受け入れられたわけではありません。また定式の舞台装置で演技手順の些細な部分を手直しすることはかえって仕勝手の横行を許すようなことになりかねないので十分な注意が必要です。別稿「空間の破壊」において触れましたが、部外者が歌舞伎を演出して勝負するならば一番勝ち目のある方法は舞台空間を破壊し・まったく新しい舞台装置で演出することです。装置を一新してしまえば・当然演技手順は変えざるを得ません。それは自分の領域に敵を引き込む戦法です。歌舞伎の空間を破壊さえすれば部外者にも勝機はあるのです。ですから串田氏が平成中村座やコクーンの舞台に立体性・写実性を持ち込むのは当然のことです。例えば「三人吉三」の終幕「火の見櫓の場」のシンプルな装置 とスピード感ある演出はなかなか新鮮なものでした。舞台は絵面ではないけれど・かぶき的なエネルギーが出ていたと思います。それが舞台を確かに歌舞伎にしていました。
今回の串田演出「夏祭」の「九郎兵衛宅の場」では下手から強い照明を当てて・家の奥に強い西日が射し込む感じを巧く出しています。この照明は観る者をハッとさせます。通常の歌舞伎の照明であると・季節が夏であることが舞台面から感じにくいからです。役者が眩しそうに上をちょっと見上げて・扇子を掲げながら歩く演技は夏の強い太陽光線を表現するものですが、空調の効いた観客席では それがどうもピンと来なくなっています。串田演出の照明はそういうことを思い出させます。それは悪くないのですが、この奥行き(立体性)と写実性が出た舞台面で役者をどう動かすかが問題になると思います。
「九郎兵衛宅の場」で徳兵衛がある意図を以ってわざと団七女房に言い寄り・団七がそれに怒って喧嘩になろうとするところへ・三婦が止めに入る場面を見てみたいと思います。ここで三人は絵面に決まり・リズミカルな長台詞の啖呵を吐く歌舞伎らしい様式的な場面です。この場面で串田氏は西日の照明をそのままにして・さらに正面から強い照明を加えます。それまでの西日の写実の印象を犠牲にした・この処置は何を意味するのでしょうか。正面から照明を当てることで・役者の影は消されて舞台面は平面的になってきます。「三人の役者の演技により強いインパクトを与えるため」かも知れません。しかし、これは吉之助から見れば真相は逆で・そう串田氏が説明するかどうかは分かりませんが、串田氏は意識するか・しないかは別にして・この場面での役者の演技に歌舞伎らしいインパクトが足りないと感じたから・正面から照明を当てる処置をしたのです。吉之助が見るに・この場面での勘三郎らの演技は侠客 (正確には市井のならず者であり侠客とはちょっと違いますが)の荒々しい気風と迫力を出そうとする余り・台詞が崩れて正しい発声のリズムになっていません。勢いはあるけれど、唾が飛びそうな写実の台詞回しです。その表情も眼を吊り上げ・眉を動かし過ぎです。要するにこれは歌舞伎というよりは・歌舞伎風味の新劇的な演技なのです。だから西日が射した写実味がある舞台面との乖離とインパクトが足らぬことになる。つまり歌舞伎らしい感じがしない。それで串田氏は当初のコンセプトを修正して・正面から照明を当てる応急処置をしたと推察します。
役者の立場から見れば・舞台面は写実がコンセプトなのだから・普段の演技よりも写実性を少し加えればちょうど様式的に良いだろうという感覚があるのかも知れません。しかし、それでは新劇役者の時代劇とあまり変わらぬことになってしまいます。それでは歌舞伎役者がそれをやることの意味がありません。定式の歌舞伎の舞台ではあり得ない奥行き(立体性)を持った舞台では、役者は普段よりもっと強い様式性を意識した演技をせねば写実の舞台に負けてしまいます。そこに乖離感覚・すなわち歌舞伎らしさが出てこないのです。三人が絵面で決まるまでの様式的な段取りを慎重に 積み上げていかねばなりません。恐らく部外者のこうした演技の段取りや台詞回しの細かい指図は歌舞伎の世界ではアンタッチャブルで・串田氏にはできないでしょう。そこは勘三郎が仕切らねばならぬ仕事であるはずです。
「夏祭」に様式的な演技が出てくることの「不自然さ」ということを考えてみます。「夏祭」は世話物ですから写実を志向するものです。人形浄瑠璃原作ですからその音楽的な様式を引き継いでいますが、地狂言にするならば本来そういう要素は捨て去っても良いものです。こうした様式的な表現を歌舞伎の「夏祭」が後生大事に保持していることには重要な意味があります。団七・徳兵衛たちを取り巻く社会の義理とか意地とか言うものは、彼らの行動をがんじがらめに縛るものです。それは 確かに非人間的な要素である・と同時に彼らの「男」はそれによって成り立ち・それによって鼓舞されるものでもあるのです。それは常々吉之助がかぶき的心情と呼んでいるもので、「それこそが俺が俺であることの証だ」と感じさせるものです。写実であるべき世話物「夏祭」に出てくる様式的な不自然な表現はそのような背景から出てくるものです。ですから「九郎兵衛宅」においてもこれが歌舞伎であることを誇示するかのように三人が絵面で決まり・様式的に台詞を言うというのではなく、「登場人物の心情において彼らは様式的に極まる」と観客に感じさせる演技でなくてはなりません。それが歌舞伎らしさということです。(この項つづく)
(H20・12・14)
○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その4
本年(2008)5月・ベルリンで行われた平成中村座での串田和美演出・勘三郎の「夏祭浪花鑑」の映像を見ながら・舞台の平面性を考えてみます。芝居が始まる前から 祭礼気分で観客席通路を役者たちが歩き回り・時には観客と談笑したりするのは・コクーンなどでもおなじみの趣向ですが、歌舞伎が初めてのドイツ人にとって異国の江戸の雰囲気に引き込まれる効果があって・それは楽しいものであったでしょう。額縁に囲まれた舞台を観客席から切り離されたところからご拝見するような芝居では、このような親近感は生み出せません。日本人は今も紙と木で作った家に住んでいて・男はサムライみたいなカッコして・女はゲイシャガールのカッコして・と思っている方が西洋にはホントに多いです。ベルリンにはソニー・センターがありますから日本のビジネスマンを見る機会は多いはずですが・西洋人にはこっちの方が案外イメージ通りで・親しいかも知れません。まあ日本は友達・ずっと昔の江戸も友達という感覚も悪くはありませんが、しかし、役者の平面性は失われてしまいます。吉之助の考えでは、芝居の始まる前は役者が通路を歩き回るお祭りの趣向は大変結構だと思いますが、芝居が始まって役者が舞台に上がったら・次元が変わったことを役者ははっきり 示さねばならぬと思います。これは演じる場所がベルリンだろうが・渋谷であろうが関係ないことです。
串田演出の「夏祭」は・同じ串田演出の「法界坊」なども同様ですが、ある場面においては「コメディー・お江戸でござる」を思い出させます。「お江戸でござる」をご存知ですか。1994年から2004年にかけてNHK で放送された時代劇バラエティーです。誤解がないように・吉之助は馬鹿にして言っているのではありません。「お江戸でござる」は肩の凝らない楽しく良く出来た娯楽番組でした。しかし、歌舞伎役者が演じる「夏祭」が「お江戸でござる」と同じ感触では困ると思いますねえ。串田・勘三郎の主張は舞台に居る人間も観客の私たちと同じ人間だということだと思います。その意図を理解しないわけではないですが、しかし、「歌舞伎は友達・江戸は友達」という感覚は観客席の空間との亀裂を埋める働きをします。そのために歌舞伎の平面性は失われ・結局江戸風俗の新劇と言うのと大して変わらない印象になってきます。そうならないためには、いったん舞台に上がったら・役者は 通路で観客と談笑していたのとは全然違う演技をせねばなりません。「オッ舞台に上がったらあいつらは違う」という感じを観客に与えなければなりません。さすが伝統演劇は違うということを見せなければ・歌舞伎じゃないと思います。
例を挙げれば三婦内の場において・義平次が琴浦を預かると言って駕篭屋を連れてきたということを三婦女房が団七に言う場面です。勘三郎の団七は「義平次」という名前が出た時点で扇子の手を止め・「あっ」という表情をして・さらに「・・しもた」という表情をして落ちつかず・もう後の話が聞いていられないという感じです。まあ確かにリアルな写実の演技であると言えます。しかし、これでは新劇役者が着物を着て時代劇しているのとまったく変わりがありません。化粧が違う・着物の着こなしが巧い下手という・そういう次元の違いでしかない。ここは三婦女房が台詞を言い終わるまで・団七は扇子を扇ぎながら「暑いな・暑いな・・」とやっていて、台詞が終わってから「エッ・・」という表情で反応を示せば歌舞伎の演技になるのです。そういう時間的に乖離したリアルでない演技を見せることで・ドラマの局面の変化がはっきり見えてくるのです。団七にとってその存在を脅かす大変なことが起きかかっているということです。 この印象から団七の演技はこの後の通路での決まり(通常は花道七三で行う)へ向けて構築されていくのです。団七の見込んだ先に「破滅」が見えなければなりません。
「長町裏へ・・」で団七が駆け出して・行く手を見込んで通路で決まるその形・踏み出す時の脚の使い方は勘三郎は力感があって実に素晴らしく・さすが天才だと唸らせます。それは確かにそうなのですが、それまでのリアルな写実の演技の流れのなかで・この形はドラマとしてどういう意味を持つのでしょうか。「さあこれが歌舞伎だぞ」と言わんばかりの形(見得)です。「これはもともとが人形芝居だったんだって。なるほどそんな感じだねえ」などとドイツ人も感心しそうな動きですが、吉之助にはその見得が見得のための見得としか見えませんねえ。見得をするからこの芝居は歌舞伎だというための見得だと思います。芝居の次元の亀裂というのはそこに在るというものではありません。最初に身体に感知されない微振動としてあり・さらに鯰が暴れだすような不穏な予兆としてあり・そして地面を揺るがす大振動としてあり・その結果が地面がパックリと割れる亀裂となって現れるのです。さらに言えば・それは亀裂だけで終わるのではなく・何度かの余震(振動)も伴うものです。ですから次元の乖離 は現象としてではなく・動きあるいは流れのなかで捉えなければなりません。見得はその前後にその段取りが取れていることで・ドラマの流れのなかに位置付けられるのです。これが見得という技法の正しく近代演劇的な理解であるべきです。ですから・見得に入る以前のドラマの流れをどう構築していくかが大事です。その流れの構築のための ひとつの方法が団七の扇子の件です。
写実の演技に亀裂を入れる方法は実は些細な工夫で済むことで、別にこうやらねば歌舞伎にならぬという決まった手法があるわけではありません。ちょっとした様式的な仕草を入れるだけで・演技の印象は全然変わってきます。そこは役者の工夫次第です。ちなみに昭和55年9月歌舞伎座での先代勘三郎の「夏祭」(吉之助は生の舞台を見ましたが)この映像が 手元にあるので・これを見比べてみると、先代は先ほど吉之助が先ほど言ったような扇子の使い方はしていません。全体の段取りとしては先代と当代はあまり違わないようです。先代も当代よりは抑えた演技ですが、三婦女房の台詞の途中で扇子を止めて・表情を変えています。しかし、見た印象はかなり違います。これは舞台装置とか・相手役との兼ね合いもあります。団七だけの問題ではありません。当代の「夏祭」の場合は舞台装置に立体感があるもので・芝居全体が写実めいているので、役者の動きに平面感が出てこないのです。こういう場合は勘所では演技に様式による切れ目を普段よりも強く意識しなければ演技に乖離した印象が出てきません。定式の舞台ならば先代のような演技がその写実味が十分良い 感じになるのです。しかし串田演出の奥行きのある舞台装置ならば・同じ段取りを取ったのでは環境に演技が減殺されます。三婦女房の台詞の途中で扇子を止めるくらいの様式的な要素を入れて・ バランスがちょうど良くなるのです。そうすることで芝居は様式の方へ引き戻され・そこに乖離感覚が生まれて・演技はぐっと歌舞伎らしくなってくるし、「長町裏へ・・」での見得がドラマの流れのなかへ自然と位置付けされていくことにな ります。要するに歌舞伎を現代に生かすために・変えても良いところはどんどん変えても良いのですが、歌舞伎が歌舞伎であり続けるためにどこを頑固に変えないか・どこを守らねばならないか・さらに歌舞伎であることをどのように逆主張していくべきか・そこのところの方法論が、串田・勘三郎の舞台は甘いと吉之助は思います。そういう目で見るならば、些細なところで気になるところが随所にあります。(この項つづく)
(H20・12・7)
○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その3
歌舞伎は巡業でさまざまな場所で上演を行い・花道のない場所で興行を行うこともしばしばで・そのせいか段取りを その場に合わせて適当にちょこちょこ変えることに対する抵抗が歌舞伎役者にはあまりないようです。悪く言えば型(演出)に対して厳格でなく・いい加減である。良く言えば柔軟性・適応性があると言うことです。歌舞伎の場合は能狂言のように舞台の規格にこだわるということがありません。そう考えれば明治に入って西洋演劇思想の洗礼を受け・時代遅れの遺物 と揶揄されながら・歌舞伎が定式の平面的な舞台装置をここまで守ることが出来た方が奇蹟のように思います。それは結局、定式の装置でなければどうも「歌舞伎らしく」見えないという・その一点にあったと思います。明治以降の観客は歌舞伎がリアルな舞台になるのを拒否したのです。そこに歌舞伎の美学があるわけです。どうして「・・らしく」見えないのか・「・・らしい」とはどういうことなのか・そういうことを考えてみる必要がありそうです。
ところで平成8年(1996年)5月に鹿児島県の硫黄島の浜辺で勘三郎(当時は勘九郎)が「平家女護島・俊寛」を演じたことがあり・テレビでもその模様が放映がされました。平成中村座・コクーン歌舞伎などを始める以前の勘三郎の挑戦でした。俊寛僧都が流された因縁の地で・自然のなかで近松のドラマを演じるのは勘三郎にも万感の想いがあったようです。上演は日が暮れてから行われたので自然光ではなく・ライトアップされたために背景の自然感が減殺された面があって、せっかく硫黄島の荒々しい岩肌の絶壁が背景にあったのに・それが見えなかったのはとても残念でしたが、野外芝居の感触を多少は感じることが出来ました。下手に海岸があるために演技の手順は変わるところがありましたが・全体として現行と同じ型で演じられました。赦免船が遠ざかっていくあたりはリアルそのものでしたが、その光景もまったく 不自然に見えませんでした。印象的であったのは自然のなかでも歌舞伎の演技が負けることなく・その様式性がよく映えたことです。ライトアップされているためにその辺が確認しにくいのですが、役者が自然の光景に溶け込むということがなく・ドラマの輪郭が浮き上がって見えてきます。
このことは吉之助にとても良いヒントを与えてくれました。結局、歌舞伎の様式性は反自然を指向しているということです。創設期の歌舞伎は写実を指向したわけですが、幕府の規制により女優は奪われ・さまざまな制約を受けて・歌舞伎はその理想を自ら裏切る形で様式化していきます。その相反した表現ベクトルに歌舞伎のバロックな面があるのです。反自然とは・先に触れた通り・自然に対する欠落感覚・つまり表現の平面性を指向するものです。江戸時代の自然光あるいは蝋燭の照明による上演においては立体性(影はそれが立体であることの証なのです)を取り去ることは不可能でしたから、視覚的な面において平面性(反自然)を実現することはなかなか困難なことでした。ですから歌舞伎の平面性は舞台面においては奥行き・高さのない定式の舞台装置に現れたのです。演技面においては平面性は見得・隈取りなどに最初に現れました。そのような平面性の世界のなかで写実(世話)の表現を絡ませることで芝居が生きてくる・写実の表現を生かすために歌舞伎の世界はあらかじめ歪んでいると言 うことです。
以上のことから吉之助は次のように考えています。歌舞伎が立体性を持った写実の舞台装置で上演されることはそれはそれでも別に良いのです。しかし、立体性のある舞台のなかで写実の演技を指向 したのではそれは新劇と変わらないものになってしまいます。歌舞伎が歌舞伎らしくあり続けるためには、歌舞伎役者の演技は意識的に様式性を強める必要があります。そうでなければ「・・らしさ」は失われてしま うのです。歌舞伎の欠落感覚・平面性をどこかに強く保持しなければなりません。それが歌舞伎の「・・らしさ」の根拠であるからです。(この項つづく)(H20・11・30)
○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その2
歌舞伎の平面性とは厳密に言うならば「欠落感覚」であると言えます。しかし、見得や隈取り・荒事の発声など表現はそれぞれ独自の座標を持っており・次元が微妙に異なるものですから、これらの欠落感覚をひとつのイメージで括るならば・立体(三次元)的な世界に対する平面性(二次元)の乖離だということになります。これが歌舞伎の表現の本質であり・歌舞伎らしさの根源です。
しかし、歌舞伎的な表現の次元の欠落は三次元的な演技(まあ自然な写実の演技と考えてよろしいでしょう)と並列的に提示されて初めて観客はその乖離性を感知できるのです。見得の本質はその形を見ているだけではその平面性の十分な理解ができません。ドラマのなかで・その見得の前後の演技の流れのなかで捉えなければ見得の本質は見えてこないのです。見得は前後の演技の流れの上でこそ平面性を以って屹立 するとも言えますし、見得の平面性を際立たせるために前後の演技の段取りをそのように構築していかねばならないとも言えます。そうした歌舞伎の平面性がどういう意味を持つかは今後の機会に考えたいと思います。本稿においては歌舞伎の舞台面の視覚的な立体性が歌舞伎の持つ平面性の本質にどのような影響を及ぼすかを考えます。
実際、舞台の印象は照明によってかなり大きく左右されるものです。例えば本年(2008)8月の北京オリンピックでのチャン・イー・モウ監督演出による開会式式典は実に素晴らしいものでしたが、あれは照明の特殊効果なしで成立しないものでした。昼間の自然光線のなかであの式典を見たならば・その印象は随分と違ったものになったでしょう。これはイーモウ監督の演出を貶めているのではなく・その演出コンセプトのなかの照明の比重がもう半分以上だと思えるほどでした。現代演劇において照明が持つ表現の可能性はそれほど大きなものです。
古典歌舞伎の舞台をちょっと見ただけでは・ただ舞台を明るくして役者の影を消しているだけで・何かしているように見えないでしょう。しかし、実は陰影を消すことで・舞台面は視覚的に平面的な印象に変えられているのです。つまり、江戸時代の自然光や蝋燭照明ではあり得なかった・舞台の視覚的な平面感覚の表現が現代の電気照明で可能になった のです。歌舞伎独特の照明によって・あの奥行きがなくて平べったい定式の舞台装置あるいは歌舞伎役者の表現の本質がより鮮明に浮かび上がってきます。江戸時代を遠く離れて歌舞伎の表現が次第に風化して行くことは時間の必然のように我々は思い勝ちですが、いや実は現代の方が歌舞伎の表現が進化した要素だってあるわけです。
古典歌舞伎に舞台装置の立体性を持ち込んだ場合にどうなるかを考えてみます。「忠臣蔵」四段目の城明け渡しの場面の引き道具で城門がずっと奥に引かれると、歌舞伎座ってこんなに広いんだなあと改めて驚きます。しかし、こうした奥行きのある舞台を見ると、どこかいつもの歌舞伎ではない新劇的な感覚に違和感を感じてしまいます。これは明治30年(1897)6月歌舞伎座「裏表忠臣蔵」で九代目団十郎が由良助を演じた時の演出が残ったもので、実録風「忠臣蔵」を目指したところから発想されたものでした。 明らかに明治の近代演劇の思想から来たものです。
しかし、奥行きのある舞台で由良助が主人の血の付いた九寸五分を手にして「血に染まる切っ先を打守り・拳(こぶし)を握り・無念の涙はらはら・判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り・・・」と 号泣する場面を見れば 背景の城門は観客の脳裏から消し飛んでしまい、由良助の無念さ・怒りだけが迫ってくるでありましょう。普段とは違う写実感覚のある舞台に・歌舞伎の様式的な演技が全然負けていません。むしろ立体性のある舞台の上で由良助の演技が浮き上がるように・その表現の独自性を主張しています。この乖離感覚こそが歌舞伎の本質です。ちなみに昭和3年(1928)8月に二代目左団次がモスクワで歌舞伎を演じた演目のなかに「忠臣蔵・大序〜四段目」があってエイゼンシュタインはこの舞台を見ています。この門外での由良助の演技は見得というものと は違いますが、しかしそれが観客に与える心理的効果は見得とまったく同じです。「歌舞伎の見得は映画で言えばクローズ・アップだ」と言ったエイゼンシュタインの言葉を聞けば・彼が由良助の演技のなかにも平面性を感知したことは明らかなのです。(この項つづく)
(H20・11・22)
○歌舞伎の平面性〜次元の乖離:その1
別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ」において歌舞伎の照明のことを考えました。現行の歌舞伎の舞台を見ると・影を消してしまう特殊な照明が施されており、役者の立体感が意識的に消されています。これは電気照明だからこそ可能になった技術で、もちろん江戸時代にはあり得なかったもので した。ならばホントの歌舞伎は蝋燭照明だった江戸時代の陰影がある舞台にあり、現行の影のない歌舞伎の舞台はウソだということでしょうか。舞台は明るければ良いという単純な考えでいるうちに、いつの間にやら役者の影を消してしまって・次いでに江戸時代の芝居のニュアンスも消してしまったということでしょうか。 それは違うと吉之助は思いますねえ。
このことを考えるには江戸時代の芝居絵・つまり浮世絵を見れば良いのです。浮世絵には影がまったく描かれていません。当時の劇場の自然光や蝋燭による照明では役者の影を消すことは不可能であり、舞台に陰影があったことは確実です。それでは浮世絵師たちは嘘を描いたのでしょうか。そうではないでしょう。絵師たちは彼らの眼に映った真実を絵に描いているのですから。「あまりに真を描かんとて・・」と評された写楽でさえ役者絵に影を描いていません。このことは非常に重大なことだと吉之助は思います。ならば絵師たちが見た歌舞伎の真実とは何か・ということを考えなければなりません。 そこから次のように言えると思います。浮世絵師たちが真実を描いたのならば、江戸時代の蝋燭照明では実現しようとして出来なかったものが・電気照明の発展によって初めて可能になったということです。歌舞伎の真実が現代の電気照明によって遂に視覚的に明らかになったということです。歌舞伎の照明が完成したのはついちょっと前・そんな昔のことではない わけです。
歌舞伎では電気照明によって役者の影が消され・役者の立ち姿の視覚的な立体感が消されることは、歌舞伎の平面性が歌舞伎の真実に大きく係わっていることを示しています。もちろん役者はアニメーションではありませんから・ 現実に平面ではあり得ません。陰影を消されることで・舞台面において視覚的に平面的な印象に変えられるということです。舞台における「平面性」とは何でありましょうか。立体性を持つ物体が陰影を持つことは自然なことです。ですから影を持たない物体は不自然であるということになるでしょう。つまり歌舞伎の舞台においては三次元空間に視覚的に二次元的な役者が存在するという不自然な事態が現出することになります。そこに次元の乖離感覚があるのです。この乖離感覚こそが歌舞伎の真実に係わるものです。
乖離感覚は実は歌舞伎の至るところに見られるものです。見得とは役者の動きにストップモーションを掛けることで、その感情表現に強烈なズレを生み出そうとするものです。隈取りとは化粧に人工的な彩色を施すことで、役者の風貌に自然ではあり得ない強烈な印象を加えるものです。人形振りとは役者が普段の人間に見られない機械的な動きをすることで、人間を背後から操る強力な存在があることを観客に悟らせるものです。荒事で役者が声を高く張り上げる誇張された発声はこの世のものとは思えない圧倒的なパワー(御霊)の存在を感じさせます。ですから我々がそれが歌舞伎的なものだと感じ・歌舞伎と新劇とを分け ていると感じる演劇的な要素はすべて乖離感覚に関連するものです。これらすべてが二次元的な感覚であることが言えます。
例えば見得が二次元的な技法であることはロシアの映画監督エイゼンシュタインが「歌舞伎の見得は映画で言えばクローズ・アップだ」と言ったことを考えればよく分かります。(別稿「見得〜クローズアップの技法」をご参照ください。)カメラが被写体にググッと近づいていくと、被写体の背後の風景は次第に失われていくことになります。つまり画面の奥行き(立体感)は次第に失われます。さらにカメラが近づけば被写体で画面は一杯になり・被写体の立体性 も失われ、画面は違う有様(ありさま)に変貌していくことになります。映画のクローズアップで表現されるものは感情の視覚的な実現であって、それは二次元的な感覚なのです。歌舞伎の見得も同様であると看破したエイゼンシュタインはやはり只者ではありません。
隈取り・人形振り・荒事の発声が二次元的な技法だということは・その演技が不自然であるという意味を観念的に考えてみれば分かります。自然という印象は曲線的で滑らかであり・ある幅の揺らぎと散らばりを持つものです。不自然で人工的なものはその反対の印象で、直線的で鋭角的であり・局所的な一点にパワーが集中するものです。直線(不自然なもの)は曲線(自然なもの)に対して・横の軸はあるが縦の軸がないことで分かるように、不自然なものは自然なものと並べた場合に次元が欠落した印象を見る者に与え ます。つまり隈取り・人形振り・荒事の発声という不自然な技法には次元が欠落した感覚があるのです。それは自然な演技と並べたところで提示された時に初めて意味を持つものですから・ そこに次元の乖離感覚があるということが演劇的にとても重要になるわけです。(この項つづく)
(H20・11・20)
「本朝廿四孝」〜超自我の奇蹟
○「本朝廿四孝」〜超自我の奇蹟:その4
中国の故事「廿四孝」は江戸時代の寺子屋教育の重要な教材でした。その説話は教訓のためとは言え・いかにも中国流の極端過激な設定で、現代の感覚で見れば横暴な親に子供がひたすら献身的に尽くすことを強要する自虐の美学という風に見えるかも知れません。しかし、民衆に「廿四孝」がこれほど普及した背景をもうちょっと考えてみた方がよろしいようです。「廿四孝」の流行は「君君たらずといえども、臣は以て臣たらざるべからず。父父たらずと言えども、子は以て子たらざるべからず」(古文孝経序)という儒学の倫理観に支えられています。「たとえ親に親としての徳がなかったとしても、子は子としての本分を尽くせ」ということです。つまり子としての(あるいは家 の一員としての)アイデンティティーをそこに強く見ており、これに対して全身全霊を尽くすことを義務であると当時の人は見ていたということです。当時の人々もそれがあり得ない珍談奇談だと分かっていたでしょうが、しかし、そこに何かしら高いものを見ていたこともまた事実なのです。
ひとつには大坂町人の世界においては身分制度を基盤とした社会の基盤が急速に固まって・社会のなかの家・家のなかの個人の位置付けが固定化されたということがあります。言い方を変えれば、それは 身分社会が柔軟性を失 って・個人がそのような閉塞した枠組みのなかで生きることを余儀なくされたということです。この気分が元禄あたりからとても強くなってきます。枠組みのなかで生きることを強いられた個人は、枠組みをアイデンティティーであると思い込まないと生きられないのです。つまり、「あれが私の尽くすべき人だ」と絵姿を拝むうちにこれを自分のアイデンティティーに遂に同化させてしまった・八重垣姫やゼンタ はその究極の形態を示しているのです。その究極の思いが奇蹟を引き起こすのです。「その時に奇蹟は起こるのかも知れない」というのが当時の民衆の感覚です。
「本朝廿四孝」を書いた近松半二は儒学者穂積以貫の次男として生まれました。以貫は竹本座と関係が深く、その著書「浄瑠璃文句評注難波土産」のなかで近松門左衛門の「虚実皮膜論」を記録していることで よく知られています。一般に儒学者は浄瑠璃など芸能を嫌った人が多く、江戸の太宰春台などは「今の世に淫楽多きなかに、うたひ物のたぐひには浄るりに過ぐる淫声はなし」とまで書いています。ですから以貫は儒学者としては相当さばけた人だったと思いますが、 その息子の半二が浄瑠璃作家になってしまったわけです。(半二とは半人前で及ばぬ近松という謙遜です。) 近松半二はさすが儒学者の息子であるなあと思う作品を多く書いています。この「本朝廿四孝」もそうですが、夫と父親の間で引き裂かれる時姫(鎌倉三代記)・殺されることで北の方と呼ばれて喜んで死んで行くお三輪(妹背山婦女庭訓)・腹を切って敵の名を聞き出そうとする父親に泣きながらその名を告げる十兵衛(伊賀越道中双六)などです。
八重垣姫は大名のお姫様ですが、実はこれは大坂の大店の娘に置き換えてみれば良く分かります。大坂の商家では男の子よりも女の子が生まれることを喜んだものでした。息子が必ずしも優秀な経営者の才を以って生まれてくるとは限りません。娘ならば雇い人のなかから優秀な者を厳選して婿に取ることができます。その方が店が発展存続する確実性はグッと増すのです。つまり八重垣姫の政略結婚は大坂の大店の娘が置かれた状況によく似ており、当時の大坂町人は「本朝廿四孝」をそのように重ねて見たわけです。
ゼンタが商人の娘であり・父ダーラントは娘をオランダ人と結婚させて・自分の事業を拡大 しようと考えたということは先に触れました。ヨアヒム・ヘルツは「オランダ人」で描かれているダーラント家は・その作品の成立時期と同じく・1840年代のドイツ市民階級を明確に想定すべきであるとしています。19世紀初頭のドイツではフランス革命によって市民社会という概念が普及しました。しかし、王政復古によってその夢は破れ、世の中は再び閉鎖的な社会に逆戻りしてしまいました。このような諦めムードのなかで・理念的なものよりも・日常的なものに眼を向ける(言い換えれば内に閉じこもる)市民階級の風潮をビーダーマイヤー文化と言いました。ビーダーマイヤー時代は概ねウィーン体制(1815年)から3月革命(1848年)までの時期とされます。元禄期(1690年頃)〜天明期(1720年頃)の大坂と非常に似た状況がここにあるのです。ゼンタと八重垣姫の様相が似るの も当然であることが分かると思います。
(H20・11・19)
○「本朝廿四孝」〜超自我の奇蹟:その3
「十種香」後半・事態は急変し、謙信は蓑作(勝頼)に文箱を託して立ち去らせた後・すぐさま家来を呼び出し・勝頼殺害を命じます。「諏訪法性の兜を盗み出ださんうぬらが巧み、物陰にて聞いたる故、勝頼に使者を言ひ付け、帰りを待つて討ち取らさんと、示し合はせし討手の手配り」というのです。八重垣姫は勝頼の助命を請いますが、謙信は聞き入れません。次の「奥庭・狐火の場」で八重垣姫は「みすみず夫を見殺しにするはいかなる身の因果。アヽ翼が欲しい、羽根が欲しい。飛んで行きたい、知らせたい。逢ひたい、見たい」と煩悶します。ところが諏訪明神に祈り・諏訪法性の兜の押し戴くと、不思議や諏訪明神に守護する狐が現れ・その狐に守護されて・八重垣姫は勝頼の元へと諏訪湖を渡っていきます。
これは「あの男が絵姿の男だから尽くせ・恋せよ」と命じる超自我が引き起こす奇蹟です。超自我は内面の声に服従するように自己に強制します。超自我のロジックは極めて狡猾です。絵姿の男に尽くさなければ自分は生きていると感じない・絵姿の男に尽くさなれば罪悪感を感じてしまうのです。その喜びは決して自然発生的な喜びではありません。八重垣姫のアイデンティティーは「あの男は絵姿の男だから尽くせ ・恋せよ」という超自我の命令によって維持されています。それは父親の願い(勝頼は父親の定めた許婚である)と沿っていると見える状況においてはその実相があからさまに見えて来ることはありません。「どんな状況であったとしても・たとえ父親が逆らってでも・絵姿の男に尽くせ」という状況になって八重垣姫が自己のアイデンティティーにどれほど忠実であるかが試されることになります。
八重垣姫の奇蹟は第三者から見ると父親の意思と反するように見えます。謙信は家来に勝頼の殺害を命じており、八重垣姫は父に逆らって勝頼を助けようとするからです。八重垣姫を突き動かしているものは最も個人的な心情・彼女の恋心のように見えます。しかし、実は八重垣姫は父に背いているつもりは全然ないのです。もともと八重垣姫の政略結婚を決めたのは父謙信であるからです。八重垣姫は「私の許婚にあの人(勝頼)を定め・あの人に尽くせと言ったのは父上よ。だから私は父上の言い付けを忠実に守っているのよ。」と言うことでしょう。実はこの八重垣姫のロジックにはちょっと微妙なところがあるのです。これが超自我の狡猾さです。超自我の命令は八重垣姫のアイデンティティーに強く結びついており・これを決して分けることができません。だから「勝頼を許婚に定めた父の意思に忠実である」ということが八重垣姫の行動の正当性の強い根拠になっています。つまり、八重垣姫の行動は忠孝の行為であるということができるわけです。同時にそれは八重垣姫のアイデンティティーと強く結びついていますから・その恋心は情念として非常に強固なものとなり、それが八重垣姫を内面から突き動かすことになります。
ゼンタの場合を見てみます。ゼンタの恋人であった猟師エリックは彼女をなじって・こう言います。「親の言葉に従順だからって、おい君、そりゃ無茶じゃないか。お父さんの目配せを喜んで」 第三者の目からはゼンタが父親の言葉に振り回されて・父親を喜ばせる為だけにオランダ人とつきあっているようにしか見えません。これに対してゼンタはこのように言います。
「よしてちょうだい。ねえ、黙って。私はもうあなたに会ってはいけないの。心に思ってもいけないの。高い義務(つとめ)の掟なのよ。」
ゼンタはこれを「高い義務」であると言っています。ゼンタが言う高い義務とは超自我の命令を忠実に遂行することです。ゼンタの父親ダーラントは彼女がオランダ人のために死ぬことを望んだわけではありません。結果的にゼンタは父親の世俗的な期待を裏切って死を選ぶことになりますが、ゼンタもまた「父親が引き合わせてくれたあの人に尽くすことは私の義務なのです」と言うことでしょう。ここでも父親の意思に忠実であることがゼンタの行動の正当性の強い根拠になっています。つまりゼンタの奇蹟も・八重垣姫の奇蹟も忠孝の奇蹟であると言えるのです。(この稿つづく)
(H20・11・9)
○「本朝廿四孝」〜超自我の奇蹟:その2
翻って・ここで「本朝廿四孝」のことを考えます。「本朝廿四孝」とは中国の故事「廿四孝」の日本版という意味です。「廿四孝 」は元の時代に編纂された二十四人の親孝行者の話で・いつの時代に日本に伝わったのか定かではありません。儒教精神が鼓舞され・忠孝の道が強調された江戸時代に寺子屋教育によって「廿四孝 」は庶民に普及しました。「廿四孝」の忠孝譚は継母のために体温で池の氷を溶かして魚を取った王祥の話であるとか、貧しくて母を養えないので・子供を犠牲にして埋めようとしたら地中から黄金の釜が出てきた郭巨の話とか 、現代人にはついていけない・あり得ない極端な話ばかりです。(「廿四孝」を通じて・当時の庶民が何を感じていたのかは後ほど考えます。)
人形浄瑠璃「本朝廿四孝」(近松半二作・明和3年・1766・竹本座)の三段目(勘助住家・通称「筍掘り」)では、母のために祈り・寒中に筍を求めて雪の藪を掘る孟宗の話を取り込んでいます。三段目幕切れの詞章に「返らぬ昔唐土の廿四孝を目の当たり。孟宗竹の筍は雪と消えゆく胸の中、氷の上の魚を取るそれは王祥これは他生の縁と縁。黄金の釜より逢ひ難きその子宝を切り離す、弟が慈悲の胴慾と兄が不孝の孝行は、わが日の本に一人の勇士、今に名高き山本氏、武田の家の礎と、事跡を世々に残しける」とあります。したがって「本朝廿四孝」の外題は三段目から来るとされています。
これはもちろんその通りに考えて良いのですが、吉之助は以前からずっと疑問に思っていたことがありました。それでは「四段目・十種香」は「廿四孝」と関係はないのかということです。八重垣姫の勝頼を想う一途な恋心はおよそ忠孝と程遠い個人的心情に見えます。四段目幕切れでは父・謙信が家来を呼び出し・勝頼の殺害を命じます。八重垣姫はこの危機を勝頼に知らせようとして・諏訪明神に祈り・狐の姿になって諏訪湖を渡ります。つまり八重垣姫は父の命に背いて・ 姫という立場さえ忘れ・恋心という最も個人的心情に導かれるままに動き・その情熱が奇蹟を起こす・現代人から見るとそこが八重垣姫の魅力だということになります。
しかし、四段目というのは時代物の構造のなかで最も重い位置を持つ段です。その四段目に作品の主題(この場合は「廿四孝」)とかけ離れた筋を近松半二が持ってくるはずがないと吉之助は思うわけです。ということは「十種香」は一見すれば反・忠孝の物語のように見えますが、「十種香」は実は忠孝の物語なのではない のか。八重垣姫の奇蹟は忠孝の奇蹟であり・これこそが「日本版・廿四孝」ではないのかというのが吉之助の推論なのです。ここで「さまよえるオランダ人」のゼンタの考察が役に立ちます。
長尾謙信の娘・八重垣姫は武田勝頼と許嫁の関係です。大序において国境の隔てて対立する甲斐の武田と越後の長尾の両家の和睦のために八重垣姫と勝頼との縁組みが提案されます。つまり政略結婚です。八重垣姫は勝頼に会ったことはなく、 結婚は姫の意志に係わりのないところで取り決められたものでした。しかし、二段目において勝頼は切腹してしまいます。その日から八重垣姫は館に引きこもり、 まだ見たこともない勝頼の絵姿を見ながらお経を読む日々を過ごしています。そして勝頼の絵姿に向かって何やらぶつくさ言っています。
「申し勝頼様、親と親との許嫁、ありし様子を聞くよりも、嫁入りする日を待ち兼ねて、お前の姿を絵に描かし見れば見る程美しい。こんな殿御と添ひ臥しの身は姫御前の果報ぞと、月にも花にも楽しみは、絵像の側で十種香の、煙も香花となつたるか。回向せうとてお姿を絵には描かしはせぬものを、魂かへす反魂香、名画の力もあるならば可愛とたつた一言の、お声が聞きたい ・・」
実際は例外はいくらでもありますが、戦国時代の大名のお姫様に自由意志はないことになっています。政治の取り引きの材料として他家に嫁いで、実家の安泰を保つのが大名の娘の役割です。また大名の娘とはそういうものだと八重垣姫自身も思っていて・そこに彼女は何の疑念も持っていません。八重垣姫には完成すべき行為というものがありません。八重垣姫は 政治的取り決めで許婚と定められた武田勝頼と結婚して実家を守るための道具に過ぎず、その期待に応えることが彼女の使命でした。ところがその縁組み相手の勝頼が突然切腹してしまいました。八重垣姫の生き甲斐は失われてしまい、彼女は絵姿に向かってぶつくさ言うことで自分をどうやら保っています。
そう考えると「さまよえるオランダ人」のゼンタが会ったこともない男の肖像画を見ながら「私こそあなたを、まごごろでお救いする妻です。おお天使さま、私をお引き合わせください。私こそこの人をお救いする者です」と叫ぶのとまったく同じ心理状況が八重垣姫にある ことが分かります。ゼンタも八重垣姫も隔離された環境のなかに閉じ込められており、自立した自我を獲得することができない状況にあります。
しかし、八重垣姫がふっと外を見ると・そこに絵姿そっくりの男(蓑作)が立っている。ここで突然八重垣姫の空想が現実のものになります。勝頼は死んだはずだから・勝頼様によく似た別のお方だと思 うところですが、八重垣姫はこの方は勝頼に違いないと直感します。ここが大事なところです。八重垣姫はこの蓑作と名乗る男が 勝頼そっくりの男だから好きになって「見初めたが恋路の始め」と言って迫るのではありません。八重垣姫は直感的にその男を「絵姿の男」だと見定めて迫るのです。八重垣姫は父から定められた役割が何かしら「高い義務」であると信じて生きてきました。八重垣姫はそれを絵のなかの男性に託して思い描いていました。絵のなかの男性に尽くすことは自分が自発的に奉仕する喜びを伴ったものであると同時に、父親の期待にも添うところの義務を果たすことでもありました。この行為は八重垣姫にとって 自分の恋であると同時に・忠孝の行為でもあるのです。その絵姿の男性を八重垣姫はついに見出しました。それが蓑作です。蓑作が 「絵姿の男」だということは彼が尽くすべき許婿の勝頼であるというのが八重垣姫のロジックです。八重垣姫の直感が正しかったことが後で分かります。
壁に掛かった肖像画がオランダ人とそっくりであったという設定を・ワーグナーがオペラでは採用しなかったことは先に触れました。一方、「十種香」では蓑作が絵姿の男に生き写しであるということが重要な伏線になっています。父謙信が八重垣姫に「お前のお婿さんだよ」と言って蓑作を引き合わせたのではありません。八重垣姫は自分で「絵姿の男」を見つけ出して・自分から蓑作に迫ります。八重垣姫と蓑作との出会いは宿命論的な色合いを強く帯びてきます。
別稿「宿命の恋の予感」において・「新薄雪物語」の薄雪姫と左衛門との恋を考察しました。宿命の恋とは自ら望んで恋に落ち・恋の喜びに震えるというような無邪気なものではありません。それは運命によって義務付けられた恋・自分の意志とは無関係にそうなるとあらかじめ定められた恋です。 ここでの愛は自分のなかから湧き出て・愛に服従するように自分を強制して・自分の心の自由さを失わせるものとして意識されています。同じ宿命の恋でも八重垣姫の恋が薄雪姫と違う点は義務という意識が非常に強いことです。これは 八重垣姫の恋が戦国時代のお姫様の政略結婚を背景としているせいです。神様の定めた恋ならばロマンチックかも知れません。しかし、八重垣姫の場合は政治的に親が取り決めた結婚ですから・それは打算的意味合いを持っています。しかし、彼女は これを宿命であると思い込もうとしています。なぜそうかと言えばそれが親に対する忠孝(=高い義務)の成就であるからです。八重垣姫の場合は忠孝だから恋するのか・忠孝それ自体に恋しているのかその境目が見えません。つまり「あの男が絵姿の男だから 尽くせ」と言う内面の声に突き動かされるが如く八重垣姫は蓑作に恋するのです。
「あの男が絵姿の男だから尽くせ」というのは八重垣姫のなかの超自我の声です。そう考えると八重垣姫のお姫さまにあるまじき言動・あられのない行動も、実は内面から突き浮かされる衝動から来ている ことが分かります。五代目歌右衛門は芸談で「姫らしい品位と高尚な色気を見せることが大切で、決して蓮葉な真似をしてはいけません」と語っています。そう言いながら八重垣姫のやっていることは実は大胆で蓮葉と言ってもいいほどなのです。お姫さまの品位と・大胆な行為との間で八重垣姫は乖離しています。そこが八重垣姫のバロック的な要素です。(この稿つづく)
(H20・10・29)
○「本朝廿四孝」〜超自我の奇蹟:その1
ワーグナーの歌劇「さまよるオランダ人」(1843年初演)は、「呪いを受けて7年に一度上陸できるが・乙女の愛を受けなければ呪いは解かれず・死ぬことも許されず永遠に海をさまよわなければならぬ」という幽霊船の船長がゼンタという娘の自己犠牲によって救われて昇天するという物語です。第2幕では・船乗りたちの帰還を待つ娘たちが歌を歌いながら糸を紡いでいます。しかし、ゼンタだけは壁に掛かっている「さまよえるオランダ人」の肖像画を見てひとり物思いにふけっています。そこへ商人の父親ダーラントがオランダ人を連れてやってきます。ダーラントはオランダ人の財宝に目がくらんで・娘をオランダ人と結婚することを承諾してしまったのです。しかし、ゼンタは目の前に肖像画とそっくりの船乗りが立っているのを見て呆然とします。オランダ人もゼンタを見て・彼女こそ自分を救ってくれる娘だと直感して、ふたりは言葉もなく立ち尽くします。
このオペラのヒロイン・ゼンタは壁に掛かった会ったこともない男の肖像画を見ながら「私こそあなたを、まごごろでお救いする妻です。おお天使さま、私をお引き合わせください。私こそこの人をお救いする者です」と叫んだりする空想癖のある・ちょっと変わった娘です。糸も紡ぎながら楽しげに歌を歌ったりしている娘たちのなかでゼンタは完全に浮いています。娘たちがからかうと、「よして、あなたたち、そんなふざけた大笑いして、私を本気で怒らせるつもり。そんなつまらない歌はもうやめて。頭がガンガンするばかりだわ。少しはまともな歌を歌いなさいよ」とエキセントリックに怒ったりします。
ところで男の肖像画を見ながら・何やらブツクサ言って空想に耽る女性と言えば、歌舞伎ならばそれは「本朝廿四孝・十種香」で勝頼の肖像画を見ながら空想に耽る八重垣姫を思い出します。片や「オランダ人」の方はゼンタの自己犠牲によって・呪われたオランダ人船長が救われるという奇蹟、もう一方の「十種香」は勝頼を慕う八重垣姫に狐の霊力が乗り移って・張りつめた諏訪湖の氷の上を一気に走っていくという奇蹟です。そうやって見るとふたつの作品はヒロインの雰囲気が驚くほどよく似ています。
まずゼンタの場合ですが、父親ダーラントは商人であり・ゼンタの母親は若くして亡くなって・ゼンタは乳母のマリーに育てられたと思われます。父親は事業拡大の意欲に燃えており・本当は男の子が欲しかったのですが、その望みはなくなりました。したがって父親の望みは娘を裕福な商人と結婚させて、自分の事業を継がせたいということです。男性中心社会にはよくあることですが、ゼンタは男性論理の補助として父親の期待を背負っていたということです。したがって彼女は自立した自我を獲得することができません。彼女にできることは絵のなかにある男性の姿を投影することだけです。それによって自分の欠けたものを補うことができるし、何よりそれ が父親の期待に応えることでもあるからです。しかし、彼女は何かしらそこに「高いもの」があると信じています。
一方、糸紡ぎの歌を歌う娘たちですが、彼女たちの彼氏は水夫であり・ゼンタとはちょっと階層が異なります。彼女たちは他愛のないおしゃべりを楽しみ、ゼンタをからかって・彼女に理由もなくしきたりに従うことを要求します。なぜならば古い歌を歌うのも・古いしきたりを守るのも、決してぶらぶらしてはならぬ・主婦たるものそういうものだと思い込んでいるからです。そういう理由のないことを言われるとゼンタは猛然と反発します。そしてますます高いものへの奉仕への空想に耽ります。ドイツの演出家ヨアヒム・ヘルツは次のように書いています。
『ゼンタという女性のなかに、われわれはロマンティックな精神的な態度を芸術家が透視するように見た象徴的な姿を見ることができる。彼女は自分の環境に満足できない。なぜならそこには完成すべき行為というものがないからである。彼女にはふたつの道だけが開かれている。ここから逃げ出すか、あるいは自分のために夢の世界を創り出すか。夢の世界でなら、生活が彼女にかなえてくれなかった偉大な 行為がまだ可能だった。彼女の憧れは自分の人生のための生き甲斐を求めることだった。彼女の生まれつきの強さが、健全な性格が、彼女の周囲のもったいぶって偉ぶるものに反抗して自己を主張する。』(ヨアヒム・ヘルツ:「さまよえるオランダ人の演出」・1962)
センタには完成すべき行為というものがありません。裕福な商人と結婚として父親を満足させるだけの道具に過ぎないということです。しかし、ゼンタは・父親が婚約者として自分に引き合わせたオランダ人を見て・衝撃を受けます。自分がずっと眺めてきたあの肖像画にそっくりな男がそこにいたからです。ゼンタはオランダ人に対して次のように言います。
『たとえあなたがどなたであろうと、むごくも運命があなたに強いた破滅がどんなものであるにしても、また私が負うべき運命がどんなに恐ろしいものであろうとも、どこまでも私は父の言う通りにいたします。』
どうしてゼンタはすんなりと結婚を受け入れ「私は父の言う通りにいたします」と素直に言うのでしょうか。オランダ人が肖像画の「運命の男」そっくりの・彼女好みの男性だったからでしょうか。これはオペラでは判然としないところがあります。壁に掛かっている肖像画に気付いて・ダーラントもオランダ人本人も「画とそっくりじゃないか」と驚く ような場面がオペラではまったく出てこないからです。ワーグナーがタネ本にしたとされるハイネの小説ではオランダ人は壁の肖像画が自分とそっくりなのに気が付くことになっています 。しかし、ワーグナーはオペラではこの部分を採用していません。
この点はこう考えるべきだと吉之助は思っています。ワーグナーの場合には肖像画の男性がオランダ人そっくりかどうかは重要なことではないのです。 父ダーラントはオランダ人をゼンタに引き合わせる時に「さ、手を出しなさい。お婿さんと呼んでも良い方だぞ。お前がお父さんに同意なら、明日からでもお前の旦那さまにしてやるぞ」と言っています。ゼンタは父親の期待に応えることと・自分の思い描いていた夢の世界を実現することを両方いっぺんに叶える方法を思いついたのです。 それは父親の引き合わせてくれたこの男性に全身全霊で尽くすということです。これは義務(やらなければならないこと)でありながら・同時に自分が自発的に奉仕する喜びを伴った極めて高い務めであると・そう思える倫理的な根拠をゼンタはついに見出したのです。このことで彼女の願望はもはや空想ではなくなり、父親の期待にも添うところの現実の目標となったのです。ゼンタは自立への糸口をついに見つけたと感じたと思います。ここからゼンタは突っ走ります。
オランダ人と出合った時点(第2幕)でゼンタがオランダ人の為に死ぬことを想像していたとは思えません。 ゼンタが自分は彼とともに死ぬつもりだとひと言も言っていません。ゼンタは自分の願望が救済であると確かに信じていますが、それは 彼女が死ぬことではなく・現世において彼女の愛を通じてオランダ人を救済することでした。しかし、オランダ人は自分は幸せを見出したと歓声を上げます。ゼンタの願望は一旦は実現されるかに見えます。しかし、第3幕 でゼンタの周囲の状況が一変します。以前にゼンタがつきあっていたエリックという猟師とゼンタが言い合いになってしまって・これを見たオランダ人が絶望して出帆してしまいます。後を追うゼンタは断崖から身を投げます。
「あなたの天使さまを、そしてその仰せごとを讃えてください。この通り、命を捨てても、私はあなたにまごごろを捧げます。」
その瞬間にオランダ人の船は轟音を立てて沈没し、海中から昇天していくオランダ人とゼンタの姿が見えます。これが「さまよえるオランダ人」の最終場面です。 (この稿つづく)
(H20・10・23)