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吉之助の雑談46(令和6年7月〜12月)


〇令和6年9月・木ノ下歌舞伎・「三人吉三廓初買」・その5

明治維新(大政奉還)が慶応3年(1867)10月14日のことですから、「三人吉三」が初演された安政7年(=万延元年・1860)1月は、その7年前になります。つまり江戸時代が終わる寸前です。安政7年頃の世の中はさぞや落ち着かない雰囲気であったろうと想像出来ますが、実はその前の10年くらいも何とも凄まじい時代でした。

安政2年(1855)10月2日に「安政の大地震」が起きました。被害の規模は大き過ぎて定かでありません。民家の倒壊は1万4千戸以上、町方の死者4千7百人以上、これに武家方・寺社方の被害を加えると死者は1万人を超えると推定されるそうです。安政5年(1857)には疫病が流行しました。6月頃長崎からコレラが流行り出し、7月には江戸にまで拡大、発病すると3日以内に死ぬので「コロリ」と呼ばれて恐れられました。江戸での死者は三万人を超えたと云われ、火葬が間に合わないほどでした。政治の方も落ち着きませんでした。米海軍司令長官ペリーが率いる4隻の黒船が浦賀沖に姿を現したのは、嘉永6年(1853)6月3日のことでした。その後の幕府内の混乱は云うまでもありませんが、大老井伊直弼が尊王攘夷派に対して行なった「安政の大獄」は安政5年(1857)のことです。このような人心の落ち着かない時代に書かれたのが、黙阿弥の「三人吉三」でした。

大川端での三人の吉三郎の出会いを、明日生きているかどうかも分からない・こんな行く末の見えない世の中であっても・力の限り生きてやる・おのれの生を刻み付けてやると懸命にあがく三人の若者の出会いを描いていると読むことは、もちろん出来ます。その見方はとても大事なことですが、それだけであると見方が一面的になってしまいます。裏を返せば三人の吉三郎たちは、俺たちの人生なんて吹けば飛ぶようなちっぽけなものさ・どうせ生きるなら目一杯楽しまないとな・来る時が来ればそれで人生おさらばよと、自暴自棄になったところで泥棒稼業をしているわけです。その二つの見方が同時に必要になって来ます。

(お嬢)「浮き世の人の口の端に」
(和尚)「かくいふ者があつたかと」
(お坊)「死んだ後まで悪名は」
(お嬢)「庚申の夜の語り種」
(和尚)「思へばはかねへ」
(三人)「身の上じゃなあ」

大川端の三人の割り台詞には、「どうせ生きるなら目一杯楽しまないとな」と口では言いながら、その実ちっとも楽しんでいない気持ちが反映しています。三人の吉三郎は、「もしかしたら俺には別の人生があったのではないか」とどこかで感じているのです。それは「あらかじめ失われた人生」です。もしあの時こうしなければこんなことにならなかったのでは?もしあの時こうしていれば別の人生があったのかも?そう思うことは誰にだってあるものです。

「もし親父(伝吉)が泥棒だったという因果の理(ことわり)に巻かれなければ、俺はお寺の僧侶として真っ当な人生を歩んだのだろうか」(和尚)、「もし実家(安森家)が断絶しなければ、俺はいい所のお坊ちゃんで暮らしていたのだろうか」(お坊)、「もしかどわかされたりしなければ、俺は実家の八百屋で真面目に商売していたのだろうか」(お嬢)という思いがどこかに常にあるのです。彼らはどこかで人生をやり直したいと思っています。「失われた人生」を取り戻したいのです。大詰「火の見櫓の場」では彼らはその思いだけで動いています。

現行歌舞伎での「三人吉三巴白浪」(「侠客伝吉因果譚」を主筋とする)でもそのことは見ようとすれば見えるのですが、大抵は三人の吉三郎のカッコ良さの方にツイツイ目が行ってしまうものです。今回(令和6年9月・木ノ下歌舞伎)のように「通客文里恩愛噺」を並行させて「三人吉三」を読めば、三人の吉三郎が普通にやっていても、彼らが背負っている哀しみや悔恨が無理なく浮かび上がって来ることになる。黙阿弥はそのような作品構成をしているのですね。(この稿つづく)

(R6・10・15)


〇令和6年9月・木ノ下歌舞伎・「三人吉三廓初買」・その4

同時代演劇と同時進行劇とは同じ事を言っているようですが、意味がちょっと違います。「三人吉三」を同時進行劇として見ると、旧暦・安政7年1月14日初日・江戸市村座の観客にとって、旧暦1月12日(節分)の大川端での三人の吉三郎の出会いはつい2日前に起こった出来事です。他方、旧暦1月16日(斎日)の和尚吉三の夢(地獄正月斎日の場)はこれから起こる出来事だと感じることになる。このことの意味は、決して小さくないのではないでしょうか。つまり原作の「三人吉三廓初買」は大きく分ければ、第1番目・第2幕まで(現行の「三人吉三巴白浪」であれば「大川端」まで)が直近の過去、これより以降の第1番目・第3幕から(現行の「三人吉三巴白浪」であると「伝吉内」から以降)が現在・或いはこれから起こる出来事(つまり近未来)であると考えられます。

もちろん興行が進めば日が経過して同時進行劇としての形が失われてしまいます(つまり同時代劇と変わりなくなってしまうのです)が、作劇中の黙阿弥の脳裏に上記のような「同時進行劇」のイメージがはっきりあったに違いない。このことを実感させる証左が、「大川端」です。「大川端」は静止的なイメージがしますねえ。三人の吉三郎の出会いを描いていますが、全体から見渡すと「これからドラマがどう展開していく?」とその後の展開を予測できる材料がここには何もない。だから単幕で取り上げても中途半端な感じがしなくて、「切り取られた名場面」という扱いにも耐えるのです。

つまり「大川端」はその後の本編に対する「プロローグ」だと云うことですね。プロローグについては別稿で論じました。プロローグの役割は劇的な予兆を提示すると云うことですが、本編への伏線を書き過ぎれば、それはプロローグではなくなります。「大川端」を第1番目・第2幕第2場に置くことで、黙阿弥は「三人吉三廓初買」を、直近に起こった事(直近の過去)とこれから起こる出来事(近未来)とに感覚的に仕分けています。「伝吉内」からそこまで止まっていた土座衛門伝吉の因果の車が再びカラカラと音を立てて回り始めます。(この稿つづく)

(R6・10・13)


〇令和6年9月・木ノ下歌舞伎・「三人吉三廓初買」・その3

黙阿弥の「三人吉三廓初買」は安政7年(=万延元年・1860)1月14日初日で江戸・市村座での初演。時代設定は鎌倉時代に仮託されていますが・これは江戸期の作劇の常套手段で、誰でも当時の現代劇だと承知して見ていたのです。

ところで本作は1月初日であるから初春狂言であるわけです。それじゃあどこに初春狂言の趣向が出てくるのかと云うと、これは現行歌舞伎上演ではさっぱり分りません。しかし、原作を見ると、第1番目大詰に「地獄正月斎日の場」というのが出てきます。これは和尚吉三の夢の場で、ここに「曽我対面」でおなじみの小林朝比奈(四代目小団次)が出てきて地獄の閻魔大王とご対面となります。斎日(さいにち)というのは旧暦の1月16日と7月16日に閻魔堂に参拝する祭日のことで、斎日には地獄の窯の蓋が開き、亡者が責め苦から解放される日とされていました。「三人吉三」が初春狂言であることの証(あかし)はこれくらいのもので、歌舞伎の本を読むと「初春狂言には必ず曽我物・「対面」の趣向が取り入れる約束があった」などと書かれていますが、幕末も安政頃になるとお約束も大分形骸化してきたことが察せられます。

ともあれこれで「三人吉三」は初春狂言ということになり、和尚吉三が夢を見たのは1月16日ということだから、三人の吉三郎が出会う稲瀬川庚申塚の場(第1番目・第2幕第2場、いわゆる「大川端」)はそれより数日前ということになるわけですが、ここで思い出すのは、大川端でお嬢吉三がおとせから百両を奪い、気持ちよく「月もおぼろに白魚の・・」と歌っている時に脇から声あって

厄払:「御厄払いませう。厄落とし厄落とし」
お嬢:「ほんに今夜は節分か。・・・」

となることです。だから三人の吉三郎が出会うのは節分の夜ということなのだが、「三人吉三」は初春狂言でなかったのか。この疑問は誰でも持つものだと思いますが、歌舞伎の本には大抵「江戸の旧暦(太陰太陽暦)では正月と節分がほぼ同時期に来る。節分は立春の前日で、旧暦では正月元旦から7日までの間に節分が来ることが多い」みたいな解説がされています。(「新潮日本古典集成」での今尾哲也先生の解説もそうですね。)それで何となく毎年そんなものかと思ってしまいますが、吉之助はいつも机の前に旧暦カレンダーを置いて生活してますが、節分が師走(12月)に来ることだってあるのです。そこで「三人吉三」初演の安政7年(1860)までの10年の節分(2月3日)が旧暦では何月何日になるか調べますと、

西暦の節分(2月3日)        旧暦
1860年(安政7年)        1月12日
1859年               1月1日
1858年              12月20日
1857年               1月9日
1856年              12月27日
1855年              12月17日
1854年               1月6日
1853年              12月25日
1852年               1月14日
1851年               1月3日

となるのです。(12月は前の年の師走ということです。)つまり節分はいつも正月と重なるわけではなく、半分くらいは師走になります。ちなみに本年(2024)の節分(2月3日)は旧暦・師走24日です。

これで話は終わりません。お嬢吉三は大川端で「月もおぼろに白魚の・・」と言っていますね。朧月というのはどのような月でしょうか。これには諸説あるようですが、朧にかすんでいても或る程度はっきり見えている月ですから、満月ではないけれど・ある程度太っている三日月だと思われます。そうすると安政6年(1859)は節分が元旦に当たりますが・新月(月が出ない)の日なので、お嬢が「月もおぼろに白魚の・・」と歌えるはずがない。安政4年(1957)は9日目の月だが・月はまだ痩せており、お嬢が「月もおぼろに白魚の・・」と気持ちよく歌うにはちょっと頼りない。結局、初春(正月)にして節分、お嬢が「月もおぼろに白魚の・・」と気持ちよく歌えそうな明るい月という2条件に合致するのは、10年間では安政7年(1860)と嘉永5年(1855)の節分しかないことになります。とすれば黙阿弥が「三人吉三」に何年を想定しているか明らかです。江戸市村座初演の観客にはピンと来たはずです。三人の吉三郎が出会ったのは、旧暦の安政7年1月12日の節分の夜です。

ですから黙阿弥が「三人吉三」を書いたのは、当時の同時代劇として書いている、もちろんその認識で結構ですけど、詳細をみれば明らかなことは、黙阿弥は「三人吉三」を初演した安政7年(1860)の「同時進行劇」としてこれを書いていると云うことです。黙阿弥ははっきり「今」の気分をを描こうとしているのです。別段これを隠そうとしたつもりもなさそうです。これって随分大胆な実験じゃないでしょうかねえ。旧暦カレンダーから色んな想像ができますね。(この稿つづく)

(R6・10・9)


〇令和6年9月・木ノ下歌舞伎・「三人吉三廓初買」・その2

木ノ下歌舞伎のシステムを詳しく承知していませんが・大筋としては、まず主宰である木ノ下裕一が原作(歌舞伎)を読み込んで、脚本を削ぎ落していくことから始まるようです。歌舞伎で補綴と云うと、大抵の場合、いつもやる有名な場面はそのままにして、そうでない部分を削る、そうすると筋の伏線が分からなくなるのは当然のことで、これを埋め合わせるために筋を適当に取り繕う、と云うと聞こえはいいが・筋を捻じ曲げる。早変りするために・或いは宙乗りするために筋を捻じ曲げる。これでは原作の意図が正しく伝わりません。歌舞伎では、こう云うのを補綴と呼んでいます。ところが木ノ下歌舞伎はそのようなことをしないのですねえ。確かに脚本を削ぎ落しているけれど、筋の大まかなところではちゃんと元の形を保っているのです。もちろんアレンジするなかで・補綴者の視点がそこに入るのは当たり前です。しかし、原作に目を通して舞台を見ても、まあそっくりそのままではないにしても、一応その場面はちゃんとあるのです。だから原作の全体像が見渡せます。このような補綴台本作成の作業は、結構手間が掛かるでしょう。何度も何度も原作を読み直して、少しづつ筋をスライスしていく作業です。こうして原作を煮詰めていきます。

補綴台本が出来上がったら、木ノ下歌舞伎は現代劇団ですから、次に補綴台本を元に現代劇用の台本を作成する作業に移ります。この作業は現代語を混ぜたり・ト書きで現代風俗を交えたり、作業の自由度は高いわけですが、ここでも補綴台本の骨格がしっかり守られています。だから木ノ下「歌舞伎」なのです。「東海道四谷怪談」でも「桜姫東文章」・今回の「三人吉三」でもそうですが、「上演時間に制約がある」と云う理由で歌舞伎が平気でバッサバッサ切り落としてしまった場面でも、木ノ下歌舞伎ではこれがちゃんとあるわけです。「ああ歌舞伎の舞台では分からなかったけど、なるほどこういう伏線があったわけね」ということが、木ノ下歌舞伎であると兎も角も分かる。これはホントは歌舞伎がやらねばならない仕事であるはずで、考えてみればこれは本末転倒というか、面妖な話ではありますね。

もうひとつ木ノ下歌舞伎の特徴は、舞台稽古の前半で「完コピ稽古」と云うのをやることです。本家本元の歌舞伎の舞台映像を見ながら、木ノ下歌舞伎の俳優さんがこれをそっくり真似て・やってみるのだそうです。「完全コピー」であるので、元の映像の役者の癖までもそっくり写すそうです。こうやって本家本元の世界観・或いは演技のロジックみたいなものを、知識として学ぶのではなくて・身体で覚えて落とし込む、これがこの後の本番に役に立つのでしょうねえ。吉之助が観た日(26日)は上演後にトーク・イベントがありましたが、そこで聞いた話では「完コピ稽古」を2週間掛けてやるそうだから、舞台稽古のなかのかなりの時間を割くわけです。「ちょっと真似てやってみる」ではなくて、もう木ノ下歌舞伎のシステムのなかにこれが完全に組み込まれているのです。この後に現代劇用の脚本での稽古に入り、完コピ稽古で学んだものを解体して・現代劇のスタイルへと順次置き換えて行くということです。普通こう云うことをやってしまうと俳優さんの演技のなかに「こうやったら歌舞伎らしくなる」みたいな残渣が残ってしまいそうに思うのですが、実際に出来上がった舞台を見ると・意外とそのような「クサさ」は残らないものだなあと感心します。そこはさすがプロの現代劇の俳優さんと云うことでしょうか。(この稿つづく)

(R6・10・7)


〇令和6年9月・木ノ下歌舞伎・「三人吉三廓初買」・その1

本稿は令和6年9月・池袋・東京芸術劇場プレイハウスで行われた、木ノ下歌舞伎による現代劇版・「三人吉三廓初買」(さんにんきちさくるわのはつがい)の観劇随想です。木ノ下歌舞伎は歌舞伎を素材にして・これを現代劇のスタイルにアレンジしつつ・現代に古典を蘇らせる可能性を模索している劇団です。本サイト「歌舞伎素人講釈」でも・そのいくつかを観劇随想で取り上げました。(「東海道四谷怪談」、「義経千本桜・渡海屋〜大物浦」、「桜姫東文章」など。)

木ノ下歌舞伎の「三人吉三」は平成26年(2014)10月に初演されて当時大いに話題になったものですが、吉之助は見ていません。その後いくつか再演の機会があったようですが、巡り合わせが悪くて、吉之助がこれを見るのは今回が初めてです。木ノ下歌舞伎版・「三人吉三」の特長は、黙阿弥の原作を歌舞伎がそのままやれば10時間を超えそうな分量なのを、補綴で出来るだけ筋や台詞を切り詰めて、それでも現代劇のスピード感を以てしても上演時間は5時間10分(2回の休憩時間を含む)掛かる長さですが、兎も角も原作の全体像が把握できるものに仕立て直したことです。

黙阿弥の原作は、ふたつの筋立てが並行して絡み合う形で書かれています。ひとつは「侠客伝吉因果譚(きょうかくでんきちいんがものがたり)」と云われるもので、これはほぼ現行歌舞伎でお馴染みの・三人の吉三郎の物語です。もうひとつは現行歌舞伎でもはや全く上演されない「通客文里恩愛噺(つうかくぶんりおんあいばなし)」です。文里の筋が上演されなくなったのには、それなりの理由がないわけではありません。しかし、黙阿弥の本来の意図はこのふたつの筋立てを対称させることにあったわけですから、これを三人の吉三郎の物語だけで読んでしまうと、風景が違って見えてしまいます。

例えば或る劇評で大川端の三人の吉三郎の出会いを「自分たちが悪党であることを世間に誇る気持ちが感じられる・自分たちの所業を世間に知らせたいと思っているのである」と書いてあるのがあって、まあこの場面だけならば・そう感じるのも分からなくはないですが、この場面をよくよく見れば、夜鷹から奪った金を不良の三人が「俺のものだ」と言い張って・互いに意気がっているだけの・虚しい場面なのです。三人の吉三郎のなかの「虚しさ」を感じ取るところから「三人吉三」の理解が始まると思います。ちゃんと正しく読めば、現行の「三人吉三」の舞台からでもそれを感じ取ることは出来ますが、こうして「通客文里恩愛噺」を並行して見ると、黙阿弥の本来の意図がスッキリ形になって現れることに感じ入ってしまいますね。晩年の黙阿弥は自身の会心の作として「三人吉三」を挙げたそうですが、その気持ちがよく分かります。

こういう仕事は、ホントは本家である歌舞伎がやらねばならないことなのでしょうねえ。「現代劇スタイルで歌舞伎を早いテンポでやれば良い」と言っているのではありません。歌舞伎は歌舞伎でしかやれない方法で、それをやらねばなりません。それをやり抜く度胸が据わっていないのだね。このところの歌舞伎座の演目建てを見ていると、歌舞伎がこれから何をやったら良いか・自信の無さが透けて見えるようです。木ノ下歌舞伎の「三人吉三」でこれだけのことをやられて、歌舞伎役者は「悔しい」と思って欲しいのですがねえ。(この稿つづく)

(R6・10・5)


〇令和6年9月歌舞伎座:「勧進帳」・その4

冒頭での富樫(菊之助)の名乗り・花道での弁慶(幸四郎)の台詞から、二人の目指す芸の方向(様式・佇まい)がピッタリと合って、造形が引き締まり端正な印象がします。何と云いますか、豪放磊落でスケールの大きな感じはしませんけれど、これによって「かぶき」と云うよりも、松羽目もの(能取りもの)の格調の方を強く感じますね。この特長がよく出たのが山伏問答とそれに続く呼び止め・詰め寄りで、無理な力が入ったところをまったく感じさせません。確かにこれとは別の、もっとスケールの大きさや熱さで押しまくる行き方もあり得るとは思う。けれどもこれが菊之助・幸四郎の二人のニンによく似合っているのです。山伏問答はきちんとクライマックスに向けて速度を上げていくテンポ設計がなされている。熱い風があっても・しっかりコントロールされて、決して足取りが乱れない。だから品位を落とさない。吉之助の印象では、こんなに主役二人がよく噛み合って・なおかつ端正な印象がする山伏問答〜詰め寄りのシーンは、近頃見なかったなあと思いました。菊之助の富樫も理知的に見えます。

富樫・弁慶を褒めましたが、酷なようだけれども・染五郎の義経には若干注文を付けたいと思います。父上と小父さんがこれだけのものを見せているのだから、染五郎も二人から何か盗んでもらいたいと思いますね。決して悪くはないが、何となく・いつもの通りの義経なのです。例えばこれは近年の義経役者ならみんなそうやってることで・染五郎もそのようにやっているまでのことですが、冒頭での義経の台詞、

「かく行く先々に関所あっては所詮●●陸奥(みちのく)までは思いもよらず」

と「所詮」で大きく二間ほど空けるのが、(誰が始めたのだか分かりませんが)現在ではこれがまるで口伝の如くになっています。しかし、本来ここはひと息で言い切るべき台詞です。今回の父上と小父さんの息遣いを採るのならば、当然この台詞はひと息で言い切る、或いはどうしても継ぎたいのならば「関所あっては」でちょっと継ぐと云うことになると思います。このようにすれば様式が揃うのではないかと思います。染五郎の義経は、抑揚や間の取り方にまだまだ研究の余地があります。

まあそれは兎も角、今回(令和6年9月歌舞伎座)の「勧進帳」は、本行に対するリスペクトが感じられる、いつになく気持ちが良い「勧進帳」でありました。これが故・吉右衛門のお導きに終わらず、幸四郎がこれで「何かを掴んだ」ことを期待したいですね。

(R6・10・2)


〇令和6年9月歌舞伎座:「勧進帳」・その3

当代幸四郎は芸域が広い役者です。荒事から実事・和事、二枚目・三枚目・新作までも勤めて、しかもそれなりのレベルでこれらをこなすのだから大したものです。しかし、これは裏返せば「この役は幸四郎でなくちゃあ」という役が見えないと云うことにもなるので、そこが損になる。特に歴代高麗屋が得手にしてきた立役の太い役どころについて若干の物足りなさがある。例えば弁慶です。或いは由良助ということになりましょうか。そこは現在51歳になる幸四郎も気にしているだろうと思います。もちろん当代幸四郎は当代なりの弁慶をこしらえれば良いわけですが、それじゃあ「当代なり」ってどう云うこと?ってものが見えて来ない。

先日・7月歌舞伎座での「裏表太閤記・杉の森」で幸四郎が勤めた鈴木喜多頭(きだのかみ)ですが、登場した時には発声を低めに取って肚が据わっているようで・なかなか良かった。それでホウと思っていたのだが、芝居が進んで喜多頭が腹を切り・息子孫市(染五郎)に「我が首を斬れエ」・「それは出来ません」と云うクライマックスになると・声が上ずって絶叫調になってしまって・もうイケませんでした。この絶叫調が染五郎にも伝染してました。肚がブレるのだねえ。この調子であると二ヶ月後の9月歌舞伎座での弁慶は困ったことになるなあ・・と思って聞いておりました。

幸四郎が勤めた弁慶も富樫も・これまで何度も見ましたが、相手役の行き方に印象がかなり左右されるような気がしています。相手にフレキシブルに合わせられると云えば聞こえはいいのだが、このために「役者幸四郎」の印象が中途半端になってしまう。当代なりの「勧進帳」の解釈、「俺がこうやるならば相手はこのように受けて欲しい」というイメージを幸四郎も持っているはずだ。そろそろ幸四郎も(どんな役に於いてもそうですが)共演者に対してそう云う確固たるものをきっちり押し出さなくてはなりません。そうでなければならない位置に幸四郎はもう居るのです。

しかし、今回(令和6年9月歌舞伎座)の「勧進帳」の舞台を見ると、幸四郎(弁慶)と菊之助(富樫)が「しゃべりの芸の原点に共に帰ろう」ときっちり話し合ったに違いない(注:これは吉之助個人の推測に過ぎません)と思えたのは、弁慶登場から幕切れの飛び六法まで、幸四郎の肚にブレたところを感じなかったからです。様式感覚をきっちり押さえて、ブレない弁慶でした。もちろんこれは菊之助の富樫のおかげでもありますが、幸四郎は「何か手応えを掴んだかな」と感じる弁慶でありました。ホントにそうであったら良いなあと思いますね。(この稿つづく)

(R6・9・28)


〇令和6年9月歌舞伎座:「勧進帳」・その2

別稿「勧進帳のふたつの意識」のなかでふたつの相反する表現への意識があることを考えました。ひとつは「勧進帳」が内面に持つ高尚志向・上昇志向のことで、つまり「勧進帳」初演(天保11年・1840)当時は武家の式楽であった能狂言への憧れということです。この方向は明治の九代目団十郎以降ますます顕著なものになります。もうひとつは、「勧進帳」が歌舞伎十八番を冠していることからも分かる通り、元禄歌舞伎の荒事・つまり「かぶき」の心を継承しようとするものです。これらふたつの行き方は完全に相反するわけでもないのですが、役者によって様式感覚の置き所・役の性根の把握がそれぞれ微妙に異なるために、義経も含めた三者三様の行き方がしっかり噛み合った「勧進帳」の舞台を平成以後滅多に見ることがないようです。

例えば「勧進帳」を能取り物として見た場合、お能は様式的な芸能だと云うことで・台詞を謡(うたい)みたいに平坦に引き伸ばして謡おうとする役者が多い。このため演技が伸びたウドンみたいな感覚になる。(誰とは言わぬ。)或いは「勧進帳」が古(いにしえ)の荒事の心を持つということで、やたら肩肘張って目を剥いて相手を威嚇しようという弁慶も多い。(これも誰とは言わぬ。)まあそれぞれの理屈があることでしょうが・それならば、舞台稽古の時にそこをよく話し合って・互いの役作りを擦り合わせしてください。歌舞伎役者はアンサンブルということをあまりお考えでないようですね。

そこでふたつの相反する表現に・どのように折り合いを付けるかと云うことですが、例えば「暫」のツラネとか「助六」の名乗り・「勧進帳」の読み上げなど、元禄歌舞伎の「しゃべり」の芸は狂言の台詞術から発したものなのですから、「しゃべりの芸の原点に帰れ」という考えのもとに芝居の流れを組み立てるならば目算が付くだろう。これで取り落とす要素がないわけではないが、しゃべりの芸に帰ることで山伏問答は端正な印象となり、能取り物としての様式性との折り合いも付くと云うことです。これについては、別稿「台詞劇としての勧進帳」と「団十郎襲名披露の弁慶」をご参照ください。二本の論考に共通する役者は仁左衛門です。仁左衛門の「しゃべりの芸の原点に帰れ」という主張のなかに、ひとつのヒントがあるということですね。

今回(令和6年9月歌舞伎座)の「勧進帳」の舞台を見ると、幸四郎(弁慶)と菊之助(富樫)が「しゃべりの芸の原点に共に帰ろう」と話し合ったかどうかは分からないけれども、きっとそうに違いないと思える「協調性」みたいなものを感じますねえ。

このことは冒頭の富樫の名乗り、花道での弁慶と義経との対話辺りから既に感じられることです。様式性にこだわって台詞が伸びるようなこともなく、しっかり「しゃべり」の感覚になっています。このことは本舞台に入り弁慶と富樫が対するとますますはっきりして来ます。弁慶が絶叫調にならないことが(確かに豪快な荒事味は薄くなるとしても)弁慶の沈着冷静さを表現することにこんなに寄与するんだと云うことが改めて分かりますね。対する富樫も決して熱くなることなく、これで決して冷静さを失わない能吏となります。このことが弁慶の義経打擲のクライマックスで効いて来ます。(この稿つづく)

(R6・9・26)


〇令和6年9月歌舞伎座:「勧進帳」・その1

本稿は令和6年9月歌舞伎座・秀山祭での、「勧進帳」の観劇随想です。令和3年11月に亡くなった二代目吉右衛門は、80歳になったら「勧進帳」の弁慶を勤めることが夢であったそうです。没後3年目(存命であれば80歳)の今回、甥の幸四郎が弁慶を・娘婿の菊之助が富樫を勤めて故人を偲ぶと云うことだそうです。

まず最初に総括から書いておきたいのですが、今回の舞台は近来になく良い出来の「勧進帳」でありました。「勧進帳」は役者もひときわ気合いが入る演目ですから、もちろんどの舞台でも弁慶・富樫共にそれぞれ見るべきものは多い。荒事味があって豪快なスケールの大きい弁慶、忠義第一で肚の決まった弁慶は無論多い。情に厚く・爽やかな富樫ももちろん多い。それぞれ見所はあるが、しかし、弁慶・富樫が二人揃って・がっぷり四つに組んだ時に、芸の向く方向性(演技ベクトル)・芸の佇まい(様式感覚)に微妙なズレを感じることが少なくない。役者のニンにおいてやるべきことは正しくやっているのだが、二人が同じ方向を向いた感じがしない。「俺がこうやるならば相手はこのように受けて欲しい」というイメージを、誰もが持っているはずだ。どうして舞台稽古の時にそこをよく話し合って・互いの役作りを擦り合わせしないのだろうか、これじゃアめいめい勝手にやりたいことをやってるのと同じではないかと感じる「勧進帳」の舞台が多い。

そのような「勧進帳」が多いなかで、今回(平成6年9月歌舞伎座)の幸四郎(弁慶)と菊之助(富樫)は、近頃珍しく、弁慶と富樫が噛み合い、二人がビシッと同じ方向を向いていると感じる舞台なのです。しかもこれは過去の幸四郎と菊之助の・それぞれの役の印象とも異なるようです。これは事前に二人でよく話し合い・方向性をしっかり擦り合わせしただろうと思える新鮮な印象がしました。もしそうでないのであれば、これは故・吉右衛門のお導きと云うことでありましょうかね。そう感じるほど良い舞台なのです。

もしかしたら今回の「勧進帳」は歌舞伎十八番としてはスケール感に乏しい、こじんまり纏まった印象がすると感じる方もいらっしゃるかなと思います。そのこと認めないわけでもないが、まさにこの点こそ吉之助が評価したいポイントです。今回の「勧進帳」の舞台は、豪快さは乏しいかもしれないが、端正な印象がします。その結果、松羽目物(能取り物)としての「勧進帳」の格調がスッキリ立ち上がりました。この「勧進帳」の格調ということは、長い間見落とされてきた要素だと思います。(この稿つづく)

(R6・9・23)


〇令和6年8月歌舞伎座:「髪結新三」・その5

勘九郎の新三は、最初に材木町白子屋店先に登場した時の雰囲気はなかなか悪くありません。しかし、芝居が回り始まると次第に感触がカラッと軽い方へ傾斜していきます。良く云えば小気味が良いということですが、もう少し粘った感じに、例え少々時代っぽく見えたとしても、たっぷりやってくれた方が、勘九郎の太いタッチの個性が活かされるだろうにと思います。多分勘九郎のなかに在る写実のイメージがこういう軽い感触なのでしょうねえ。だから芝居に勢いが付いてくると、自然と感触が軽い方へ傾斜してしまうのです。

そこで勘九郎のなかの写実の軽い感触を生かして、勘九郎の特質である太いタッチの個性との両立を考えてみたいのです。「現代の観客から見れば世話物ももはや時代物みたいなものである」という現実認識を踏まえるならば、全体の芝居の感触の基調(ベース)をもう少し粘った感じに・重くたっぷりとした方向へ持っていく。「時代の感触を少々強めに置く」と云えば、まあそう云うことです。こうしておいて「世話と時代の活け殺し」の技法で軽い世話の感触へ刺さり込む、これで勘九郎の個性が生きて、なおかつ勘九郎のなかに在る写実のイメージも活かされると思いますけどね。そういう意味で昭和期のお祖父さん(十七代目勘三郎)の映像が大いに参考になるだろうと思います。つまり世話と時代の押し引きの呼吸、これが大事なのです。

当然ですが、このためには共演者の協力が必要不可欠です。例えば富吉町新三内での新三と家主長兵衛(弥十郎)のやり取りですが、この場を落語での大家と熊さん・八っあんの掛け合いみたいな軽妙で軽いお笑いタッチのシーンだとするならば、勘九郎と弥十郎のやり取りはそれなりのものだと思います。観客もよく反応しているし、上手いものです。しかし、これでは肚のなかに・言いようのない「怒気」を抱えて・何か「でっけえ」ことをしてみてえと日々イラついている新三になりません。そう云う新三を描くことこそ、ホントの生世話の写実(リアル)ではないでしょうか。そこを突き詰めることで、勘九郎の新三は自分のものになって行くと思いますね。再演を期待いたしましょうか。

(R6・9・19)


〇令和6年8月歌舞伎座:「髪結新三」・その4

「世話と時代の活け殺し」なんて言葉を、昨今は滅多に聞かなくなりましたね。世話と時代の活け殺しというのは、いままで基調のテンポを取っていた演技を最後の方で速度をぐっと落としておいて・時代の感覚で終わるかなと思いきや・世話の軽い感覚にサッと引いて終えてみせるなんて技法を云います。音楽ではこれをテンポ・ルバートと呼びます。ルバートとは盗むという意味で、まさに基調のテンポを盗んでおいて、最後に帳尻を合わせるということ。つまり活け殺しと同じことです。この技法は時代物でも世話物でも使うことが出来ます。活け殺しで、時代と世話のどちらが強調できるかは場面にもよるし、役者の個性にもよります。

現代の歌舞伎役者は、世話物のなかで台詞の一部を大時代に張り出すなんてことが、わざとらしくって・クサくって・恥ずかしくって出来ないと思っているでしょう。世話物の写実ってのはサラッと軽い感じで演技することだという思い込みから逃れることがなかなか出来ないのです。しかし、現行歌舞伎の世話物は感触がサラサラしていてコクがない。

『一般的に新劇と言われているものは、どんなささいな言葉「あっ」っていう叫び声一つでも、フィクショナルなそれに対応する肉体があるんだっていう意識を、日常を描写する演技を志向したがために欠落させちゃったっていうことがあると思うんですよ。だから新劇の演技ってのは、おおむね日常にもたれかかっている。そういう意味で表現が自律してこないわけです。今の歌舞伎の場合は、そういうことを一時期やったんだけども、今度はそういうフィクションが習慣になっているわけだから、新しく自分が作ったものじゃないわけでしょう。もう歌舞伎の世界全体がそういう約束事で出来ているわけだから、全体がフィクションになっちゃっている。そういう肉体をその都度作る必要がない。それは最初からなぞりになるわけですね。そうするとこのフィクションは日常と等しいわけで、新劇とちょうど対極にあるひっくり返った関係にすぎないんだっていう考え方を取れる。』(鈴木忠志:広末保との対談・「行為と論理のはざま」・1975年3月)

歌舞伎役者だって元々、どんなささいな言葉「あっ」っていう叫び声一つでも、フィクショナルなそれに対応する肉体があるんだっていう意識を持っていたのです。しかし、現代歌舞伎ではそういうものは主として時代物に適用される原理であって、世話物は写実・つまり日常をありのままに映すものだと云う近代演劇の概念に毒されて、世話物からこのフィクショナルの原理を排除してしまいましたね。逆に時代物の方は、フィクショナルななぞりが主体になるものだと決め込んでしまって、これもおかしな感触になってしまいました。しかし、本来の歌舞伎は、時代と世話の感覚が・様式と写実の狭間に自在に揺れ動いて、それでそれぞれの作品独自の色合いを醸し出していたものなのですがねえ。そういう意味では時代物・世話物なんて区分自体がどこか変なのです。

勘九郎は、昭和期のお祖父さん(十七代目勘三郎)の髪結新三でも早野勘平でも遺された映像(最晩年のものよりは・出来るだけ昔の映像が望ましい)を見てみれば宜しい。世話物であるのに「どうしてここで大時代か」と驚くような瞬間がありますから。そんな「世話と時代の活け殺し」に、勘九郎本来の骨太い個性を活かすためのヒントがあると思うのですがねえ。(この稿つづく)

(R6・9・17)


〇令和6年8月歌舞伎座:「髪結新三」・その3

同月(8月)歌舞伎座での新作歌舞伎「狐花」での勘九郎の悪役上月監物は、たっぷりとした濃厚な悪の味わいを醸し出していました。他の役者が軒並み新作っぽいサラッとした軽い感触であったなか、勘九郎の監物だけが漆黒の重量感で以て中心に居座り、それが「狐花」を「かぶき」の感触にしていました。新作ものの監物と古典の新三を一緒にするようで恐縮ですけれど、生世話の「髪結新三」も現代人にとって或る意味・時代物だとするならば、生世話の「写実の様式」をたっぷり濃厚に見せることで、却って江戸のリアルが際立って来る、そう考えることが出来ると思います。しかし、多分歌舞伎役者は、写実と様式は相反するもので・「写実の様式」なんかないと思っているでしょう。写実とはサラッとした軽い感じで演技することだと云う呪縛から逃れることはなかなか難しい。

序幕第2場・永代橋は新三の悪の味わいを出して、生世話の「髪結新三」のなかで最も様式的な場面だと云えます。手代忠七を蹴倒して「オイよく聞けよ・・」で始まる新三の長台詞のことを「ツラネ」とは呼びませんが、それは芝居のなかからシーンを切り取って・新三の気っ風を歌うブレヒト的な意味での「ソング」であって、まさに「写実の様式」を歌うものです。今回(令和6年8月歌舞伎座)の勘九郎の新三はこの長台詞をやや早めの二拍子で処理していますねえ。タンタンタン・・というリズムで小気味良く写実らしく聞こえるし、ダラダラと粘る感じはないので・そこに適度な様式感覚もある、まあそう云うことでしょうかね。しかし、これだと勘九郎本来の骨太い個性があまり生きて来ない印象がします。それなりに骨っぽいところはあるのですが、どこかアッサリして物足りない。勘九郎の個性を生かすならば、ここは現代人にとっては「髪結新三」も或る意味・時代物だと開き直って、新三の悪の野太さを前面に押し出した方が良いのではないでしょうかね。そこで「写実の様式」という考え方が役に立つと思います。

勘九郎は新三の長台詞をやや早めの二拍子で処理しています。ここは役者の個性・考え方に拠るので・基調のテンポとしてはこれでも良いですが、長台詞全体を二拍子で通しているために一本調子に聞こえます。長台詞のなかの山場が見えない。山場を作るためには谷もなけりゃいけないわけですから、谷も作らねばならないのです。新三の長台詞の山場はどこでしょうか。それは「相合傘の五分と五分・・」と「覚えはねえと白貼りの・・」という箇所です。しかし、タンタン・・という二拍子で通しているなかで・そこだけいきなり時代に押そうたって押せるわけがない。ここで押すためには正しい「段取り」というものが必要なのです。

「にこにこ笑った大黒(だいこく)の口をつぼめた傘(からかさ)も並(なら)んでさして来たからは、相合傘の五分と五分・・」

時代に張りたい箇所の直前を同じ早さの二拍子で割るのではなく、「七」と「五」のフレーズで大きく括ってみる。こうして「七」を心持ち早めに、「五」を心持ち遅めにとる。こうすることで二拍子感覚を大まかに保ちながら、台詞を小さくユラユラした揺れる感覚に出来ます。そうして直前の台詞を小さくユラユラ揺らしておいて、「相合傘の五分と五分」でググッと一気に強く時代に押し出す。これが生世話の「写実の様式」の段取りの取り方です。別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」をご参照ください。

「七」と「五」のリズムの揺れを様式と写実の交錯・時代と世話の揺れであると考えることは出来ます。まあ一般的には早めが写実・遅めが時代の感覚でしょうが、逆に捉えることも出来ます。そこは役者の個性・考え方次第です。勘九郎の個性を生かすならば、「傘も(5)/並んでさして(7)/来たからは(5)/相合傘の五分と五分」は、「来たからは(5)」の最後でテンポをぐっと落として時代の色を強くして、「相合傘の五分と五分」でさらにテンポを落として大時代の感覚、このように持って行ったら如何でしょうか。俺は入墨者だけど素人のお前(忠七)と人間として・と云うよりも「男」として対等なんだゼエと云うわけです。そのような新三の強い自己主張がここにあるのですから、これであのモノクロのビジュアル写真に近いドス黒い悪の感触の新三が出来上がると思うのですが。(この稿つづく)

(R6・9・9)


〇令和6年8月歌舞伎座:「髪結新三」・その2

前節で新三の「怒気」ということを書きました。多分、新三は日常に飽き足らぬところがあって・何か「でっけえ」ことをしたいと思っているのです。「でっけえ」ったって、大店のお嬢さんをかどわかして銭をふんだくり、街の顔役の親分の鼻を明かして、周囲から「あいつも大した男になったもんだ」と云われたいだけのことです。新三の「でっけえ」って云うのは、そんな程度のことに過ぎません。しかし、新三は閉塞した日常に不満を抱いており、何かヒリヒリした刺激的なものが欲しい。そのような説明が出来ない憤懣こそが新三の「怒気」です。日々そんなモヤモヤを抱えているところで・白子屋店先でお熊と忠七の話を立ち聞きしてしまう。これをきっかけに普段は押し込んでいる「怒気」が新三のなかで立ち上ってくる。それはお熊に対する身分違いの淡い恋心であるかも知れないし、お店者(忠七)に対する入墨者のやっかみであるかも知れません。これを世間・社会に対する怒りだとしてしまうとちょっと筋が違うようではあるけれど、新三としては何となくそこに重なるところがあるんだと主張したい気分が多分あるだろう。そんなところで「髪結新三」は社会的視座を帯び、江戸の新三の気分が現代に重なってくるのかも知れませんね。

例えば富吉町新三内の新三と家主長兵衛のやり取りは、どんな場合でも、落語での大家と熊さん・八っあんの掛け合いみたいな、軽妙で軽いお笑いタッチになりやすいものです。大家と店子の馴れ合い構図みたいなものを感じてしまいます。しかし、長兵衛の台詞をよく読めば、親分・弥太五郎源七にも屈しない新三がどうして年寄りの家主に屈するかが分かるはずです。

『・・・入れ墨というものを手前は何と心得てる。人交じりのできねえ証だ。たとい手前に墨があろうが知らねえつもりで店(たな)を貸すのだ。表向き聞いた日には一日でも店は貸せねえ。・・・・おれが太えのを今知ったか。こういう時にたんまりと金を取ろうばっかりに、入れ墨者を合点で、店を貸しておく家主(いえぬし)だ。』

「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言われる裏長屋の生活にも、裏返せば、親方・子方という隷属関係によって常に監視される厳しい権力構造があるのです。それを拒否すれば共同体のなかで生きて行けない。せっかく取った三十両の半分持っていかれるということは、新三も「仕方ねえなあ」とヘラヘラ笑って取られたはずがありません。それでも長兵衛は有無を言わさず搾取するのです。新三は苦虫を噛み潰した表情で、しかし何も抗弁出来ず、黙って下を向いたでしょう。新三は「でっけえ」ことをしたつもりでも、社会はこれを許さず・容赦なく半分奪い取る、新三は甘んじるしかない。このような厳しい社会的現実が、現行歌舞伎の「髪結新三」の舞台からは全然見えて来ません。

そういえば「髪結新三」は明治6年(1873)初演ですから、すでにリアルな江戸の世話物ではないわけなのです。当時ならば人心・風俗ともに幕末江戸から大して変わっていなかったでしょうし、作者黙阿弥は新時代の演劇に適応出来ず苦しんでいたでしょうが、吉之助にはこの時期の黙阿弥が前を見据えずに・後ろ向きの芝居を書いたとは思えないのですがね。しかし、現代で「髪結新三」に人気があるのは、本作が後ろ向きの芝居(江戸ノスタルジーの芝居)だと思われているからですね。「髪結新三」はもう少し積極的な読み直しがされて良いかも知れません。

そう云うわけで、新三の「怒気」を取っ掛かりに、これまでの新三役者にはない、祖父・父の新三ともひと味違う、新しい切り口の新三像を見せてくれるかもと、勘九郎初役の新三に大いに期待したのです。ところで勘九郎が次のように語っている記事を読みました。

「父(十八代目勘三郎)が世話物をやるときに、『リアルだけど、現代劇になってはいけない』とよく言っていました。世話物は、当時の“あるある”を現代劇としてやっていたものですが、今では、畳で生活をしたことのない方々も観にいらっしゃるわけでして、つまりは時代物なんです。これを、現代のお客様は分からないからいいやと諦めずに、追求していくのが我々歌舞伎役者の宿命だと思っています。世話物のなかでも、お客様自身が江戸の生活をどこかからそっとのぞいているような気持ちになる“生世話物”として、ぜひお楽しみいただけたら」中村勘九郎:「歌舞伎美人」インタビュー・2024・8・1

インタビューで勘九郎が「「髪結新三」を時代物だと思ってやりたい」と言ったのでないことは明らかですけれど、言ったご本人も気が付いていないようだが、勘九郎はホント大事なところに触れているのです。世話物も、現代の観客から見れば、もはや時代物のなかのバラエティーのひとつだと云うことです。だから、「髪結新三」も或る意味・時代物だと思って覚悟してやった方が良いのです。ただし「様式的に写実する」こと。そこに生世話の様式をしっかり出して見せること。このように考えれば、勘九郎のニンに於いて野太い新三像を新たに作り出すことが出来る、吉之助はそう思うのですがね。(この稿つづく)

(R6・9・7)


〇令和6年8月歌舞伎座:「髪結新三」・その1

本稿は令和6年8月歌舞伎座・納涼歌舞伎・第2部・「髪結新三」の観劇随想です。勘九郎が初役にて新三を勤めるのが話題です。勘九郎は現在42歳ですが、とっくに新三はどこかで経験済みかと思っていたので、これが初役とは驚きでした。思い出だせば親父さん(十八代目勘三郎)が初めて新三を勤めたのは昭和63年(1988)4月国立小劇場でのことで勘三郎(当時は五代目勘九郎)が32歳の時でした。公演中の4月16日に先代(十七代目勘三郎)が亡くなりました。当時のことはよく覚えていますけど・本稿ではそのことに深入りはしませんが、ここで吉之助が言いたいことは、中村屋にとって「髪結新三」が大事な演目であるのは云うまでもないことで、だからこそ当代勘九郎は新三を演じることに殊更慎重になっていたのであろうなと、心中が察せられるということです。

別稿(本年2月歌舞伎座「籠釣瓶」観劇随想)でも触れましたが、親父さん(十八代目勘三郎)の死後・中村屋一門を率いる勘九郎の苦労は並大抵でなかったでしょう。亡父の人気をそのまま引き継げるメリットもあるが、どうしてもご贔屓が亡き父の再現を息子に求めます。そうなってしまうのは仕方がないことですが、これに応えようとする勘九郎の舞台が亡き父のコピーに見えてしまう。そのような場面をこれまで幾度となく見てきました。しかし、勘九郎の芸質は、愛嬌が勝った亡父とは異なるものです。どちらかと言えば、線が太い実事の役に向きのニンであろうと思います。これまでの勘九郎はそこを亡父の方へ引き寄せた印象があって、自らの資質を十分生かし切れていなかったと思います。

しかし、十三回忌を過ぎて2月・「籠釣瓶」では、亡父の呪縛を吹っ切って・自分なりの次郎左衛門を作ろうとする姿勢が見えました。今回の「髪結新三」も満を持して取り組むということで、勘九郎の芸もこれから大きく変わると思います。そうこうしている内に襲名の話が出てくるでしょう。

ところで今回公演の特別ビジュアルですが、この写真はモノクロで新三の野太い悪を印象付けてなかなか良いですねえ。この写真の新三には「怒気」が見えます。十八代目勘三郎の新三はもちろんいいものでしたけど、このようなドス黒い悪の感触は出せませんでした。またこれは十七代目の新三とも違った感触です。勘九郎が親父さんのイメージを吹っ切って・このような野太い新三像を新たに作ろうと云うのならば・これは大いに期待が持てると思いました。

そんな期待をして歌舞伎座に向かったのですが、実際の舞台で見た勘九郎の新三は、まだそこまでの域に至っていないようでした。特別ビジュアルでイメージしたよりも、カラッと軽い印象がしますねえ。吉之助としては少々時代に傾いたとしても・もう少し重く粘った感じに持って行って欲しかったのですが、或いは親父さんの新三の行き方との折衷を取ったということでありましょうか。まあそんな不満も若干ありますが、これから回数を経ることで変わるでしょう。今回は勘九郎の新三が線の太さを意識したところを評価したいと思います。(この稿つづく)

(R6・9・1)


〇令和6年8月歌舞伎座:「狐花」・その5

その昔・角川映画全盛期の宣伝コピーに、「読んでから見るか、見てから読むか」と云うのがありましたねえ。小説には小説の・芝居には芝居のリアリズムの表出技法があるわけですから、どちらが良いとか云っても仕方ないことですが、今回(令和6年8月歌舞伎座)の「狐花」は、やっぱり小説版を先に読んでおいて良かったと思いました。事前に読んでいなければ、吉之助の場合は、芝居を観ただけでは頭のなかで筋がうまく繋がらなかったかも知れません。なるほどこれを舞台化する時にはこうするのだねえと、その苦労を思うところが確かにありました。

「謎解き」物である以上後半の解き明かしの会話が説明的になってしまうのは仕方ないことですけれど、作品が根底に持つ割り切れなさが幕切れで「心情」にまで高まって来ないもどかしさがあるようです。血が繋がった弟を殺されたらばそりゃ苦しいでしょと云うことで・理屈としては理解されるのですがね。「心情」にまでは高まっていない。そこは前述したように・原作小説がそこを十分膨らませていないことに起因しますが、ここを改善すると芝居はずっと長いものになってしまいますがね。

冒頭の曼殊沙華の野原での長い対話は、なかなか印象的な場面です。ここで洲齋は萩之介の行く手に立ちふさがり、「ここより先へお通しする訳には参りません」と言います。どうして洲齋はそんなことをするのか、憑き物落としにしては出過ぎた行為ではないでしょうか。この時点で洲齋は彼が弟であることをもう突き止めていたのでしょうか?イヤ多分それは未だでしょう。洲齋が真実を知るのはまだ先のことになる。しかし、洲齋は何かしら胸騒ぎがして、萩之介がこれ以上復讐の道を歩むことを思いとどまらせたかったと云うことでしょう。そこのところの洲齋の感情はもっと掘り下げてみても良いと思いますね。

例えば真山青果の登場人物はもっと理屈っぽくて、対話は論理の応酬ばかりに聞こえると思いますが、あれは理屈の細かいところはどうでもいいのです。あれは「心情」の応酬であって、「俺は納得が出来ないんだア」・「俺はここをこう変えたいんだア」という自己の心情を声高に叫んでいるだけのことです。その理屈が正しいかなんてどうでもいい。心情こそが大事なのです。実はこれが青果の芝居を「かぶき」(新歌舞伎)の感触にします。

「狐花」の主人公(洲齋)の場合は基本的なポーズがニヒルで醒めていると云うことでしょうけれど、その洲齋でさえも醒めたポーズを保っていられないほどに「割り切れなさ・やりきれなさ」の心情が内で激するということならば、「狐花」をもっと「かぶき」の感触に出来ると思うのですがねえ。いいところまで迫っているのだから、小説版ではそこのところをエピローグで掘り下げてみたら如何でしょうか。

芝居では三人の若女形、米吉(雪乃)・虎之介(実弥)・新悟(登紀)がそれぞれの持ち味を発揮して華やかさを添えました。七之助(萩之介)はスッキリした存在感を見せ付けました。「ナウシカ」のクシャナと云い、七之助の新作物はどれも良いですね。勘九郎(監物)は、線が太い悪役ぶりでなかなかのものでした。染五郎(佐平次)は年嵩の役をそれなりに見せてよく頑張りました。これならば先月(7月)の「杉の森」での染五郎の鈴木孫市役も、原作通り腹を切らせてもやれそうだなと思ったくらいで、頼もしく思いました。幸四郎(洲齋)は、前述の幕切れのところで印象的に損をしています(これは脚本のせいもあります)が、もう少し押しが欲しいところです。特に台詞は、二拍子のリズムで気迫で押した方がもっと「かぶき」の感触に出来ると思います。

(R6・8・30)


〇令和6年8月歌舞伎座:「狐花」・その4

主人公・中禪寺洲齋の仕事は「憑き物落とし」、迷妄に囚われた者を夢から覚ますのが彼の仕事です。洲齋は恨みを含んだ監物に対して自ら手を下すことをしません。「あなたを裁くのは私ではなく、裁くのはご定法であるべきです」と洲齋は言うのです。この台詞はいろいろな解釈が出来ると思います。額面通りこれを受け取るならば、憑き物落としの仕事は、犯人をお上に引き渡した時点でそれで終わりということです。あとはお上が慈悲とお情けで以て尋常にお裁きくださるであろうから、御沙汰を待とう。この論理のおかげで憑き物落としは真っ当な仕事(decent work)として社会的に認知されるわけです。

しかし、憑き物落としは、お上のお裁きが決して被害者を十分に救いあげることが出来ないことくらいもちろん分かっているのです。どんな御沙汰が下されたとしても、それで被害者の気持ちが癒されることは決してない。かと云って復讐・仇討ちという手段に訴えようとすれば、これも虚しい結果に終わらざるを得ない。つまりどちらであっても、結局憑き物落としには、何かしら割りきれない・満たされない思いが付きまとうことになるのです。だから、人が人であるならば、とりあえず裁きはご定法に委ねようと云うことだと思います。

『日本でも旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。(中略)人間の処置はここまでで・これから先は我々法に関わる者の領分ではないと言ふ限界を、はっきり見つめて、それははっきりと物を言っているのである。すなわち法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

推理小説はどんなものでも・多かれ少なかれ・この要素を含むものですけれど、他の京極作品はいざ知らず、もしかしたら小説版「狐花」では、そのような割り切れない要素がひときわ強く出ているのかも知れませんねえ。京極氏が最後に大ドンデン返しを用意しているからです。主人公・洲齋が請け負った事件が思いもかけず自らの出生に係わる事項であったために、自分が事件の関係者になってしまって、「憑き物落とし」が「憑き物」になってしまいかねない事態に陥ってしまう、そのなかで主人公が如何にして本来の「憑き物落とし」のスタンスを理性的に保って行けるか?という結末になっているのです。

「萩之介、お前の幽霊は、私が見よう」

という最後の台詞のなかに、裁きをお上に委ねながらも、これからの洲齋が割りきれない・満たされない思いを抱きつつ生きて行かねばならないことが暗示されています。しかし、どうやら洲齋「憑き物落とし」のスタンスを守り通したようですね。

このように小説後半は結構重い主題を孕んでいるわけですが、ただ小説版「狐花」を読んだ印象を云うと、本来ならばそこの主題をもう少し膨らませて欲しかったところです。芝居のための原作である制約のせいで、詰めを急いでしまったきらいがあるようです。そこのところを「恋しくば・・」の和歌で済ませてしまったようで(まあ歌舞伎ファンにとっては・多くを語らずとも・この歌で察せられるというところはあるのだけれども)、この点はもったいないと云うか・残念なことでしたが、或いはエピローグ風に続編的なものをお書きになる予定があるのかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R6・8・29)


〇令和6年8月歌舞伎座:「狐花」・その3

意外に思うかも知れませんが、折口信夫は推理小説が大好きでした。海外の推理小説も、江戸川乱歩などもよく読んだそうです。そんな折口がこんな事を書いています。皆がそれを知っており、例え誰かが知らなくても、それを読んだ世間から押し寄せてくることで、一体の知恵の水準が高まっているということがある。明治以後そのような影響を与えた書物を挙げればキリがないが、その十冊のなかに入るくらい、日本人の心のなかに広がっている「知識の書」があると云うのです。折口が挙げているのは、コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」です。ちょっとビックリしませんか。

『神だって人を憎む。むしろ神なるが故に憎むと言って良い。人間の怒りや恨みが、必ずしも人間の過誤からばかり出ているとは限らない。恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。日本でも旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。(中略)人間の処置はここまでで・これから先は我々法に関わる者の領分ではないと言ふ限界を、はっきり見つめて、それははっきりと物を言っているのである。すなわち法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

この世においては禍福が必ずしも合理的にもたらされるものでありません。誠実に生きて来ても、幸福になるとは限らない。逆にひどい災厄を蒙る場合さえあります。そういう時に「おかしいじゃないか、真面目に誠実に信心深く生きてきた私が、こんな酷い仕打ちを受ける謂われはない、私が何か悪いことをしたと云うのか」と神に抗議したい気持ちになると思います。そんな時に法が(或は社会の機構・ルールが)正しく裁いてくれることを期待したいが、大抵は被害者の気持ちを十分に救いあげることが出来ません。正しい者は救われなければいけないはずだ。悪い奴には罰を与えなければならない。そうならないのであれば、神も仏もあるものか。そのような民の憤る気分を、「大岡裁き」みたいなものがちょっとだけ和らげてくれると折口は云うのです。

江戸の芝居や小説に勧善懲悪ものが流行ったのは、結局、そのようなことなのです。悪いことをした奴は、その理由はどうあれ、しっかり裁きを受けてもらわないと始まらない。しかし、江戸の庶民はお上が公正に裁くなんてことがないことくらい分かっていました。それでもお上の裁きは情けを以て公正に行っていただきたいと思う。例えば青砥左衛門藤綱、あるいは大岡越前守・遠山金四郎のように。正しい世の中であるならば、公正な裁きがきっとなされるはずだ。そうでないのであれば、世の中の方が間違っている。幕末江戸の民がこのように考えた背景は、制度が固まって庶民の経済力も増し、民の社会への意識が次第に高まって来たからです。

『この神の如き素人探偵(ホームズ)の持った特異性は、いつも固定していない。人間の生き身が常に変化しているように、ホームズは、生きて移っている。しかも彼らの特異性が世間に働きかけて、犯罪を吸い寄せ、罪悪を具象して来る。そうしてあたかも神自身のように、犯罪を創造していく。彼の口は、皮肉で、不逞な物言いをするに繫らず、犯蹟を創作する彼の心は、極めて美しい。ホームズを罪悪の神のように言ったように聞こえれば、私の言い方が拙いので、世の中の罪が彼の気品に触れると、自ら凝集して、固成しないではいられなくなる。そして次々に犯罪を発見し、またそれ自身真に、その罪悪と別れて行く。(中略)だから、ホームズの物語は、ドイルの行なう鎮魂術であったと言ってもよい。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

ホームズと同じように・恐らく「百鬼夜行シリーズ」の主人公・中禅寺秋彦もまた、この世の生が引き起こす・ありとあらゆる理不尽さに感応して、その悪意を凝集させる、そしてその罪悪を鎮めていくのです。彼の曾祖父(中禪寺洲齋)もまた同じです。

どんな推理小説であっても折口の上掲文章に沿うものであると思いますが、吉之助が思うには、もしかしたら京極夏彦氏は、「憑き物落とし」の自らの立場を冒頭で表明することで、折口が言った通りのこと(鎮魂術としての推理小説の性格)を一層はっきり前面に押し出していらっしゃるのだなと思いますね。(この稿つづく)

(R6・8・26)


〇令和6年8月歌舞伎座:「狐花」・その2

新作歌舞伎を書く時は、「こうすればカブキらしいと思ってもらえるかな」なんて考えずに、まずは戯曲として良いものを書くことに徹することだと思います。現代劇みたいになったって構わない。これを「カブキらしい」感触に仕立てるのは、それは役者の仕事だと割り切れば良いのです。京極氏のジャンルは・幽霊や怨霊が跋扈するから・怪奇推理小説とでも呼ぶのでしょうか。小説版「狐花」にざっと目を通すと、京極氏はご自分の立場(スタンス)をしっかり守っており、変に「カブキらしく」書こうとしていないのは、良いことです。

冒頭の曼殊沙華の花が野原一面に咲き乱れる・燃え盛る情念の炎のイメージは、舞台化を強く意識しているでしょうが、ここは冒頭としてなかなか良い場面になりました。幕開きは大事なんですよね。商家の娘お登紀が問い詰められて・開き直って口調をガラリと変える辺りは、もしかしたらお嬢吉三でも意識したでしょうか?こういう場面は「カブキらしく」したい役者が取っ掛かりにしたくなる箇所なので、気を付けなければなりません。性格の変わり目をはっきり見せようとすると、お登紀が下品になってしまいます。(芝居でのお登紀役の新悟はこの場面を程よく抑えてましたが、上手く処理しましたね。)「誰と誰それは同一人物であった」(ネタバレするから書かない)と云う仕掛けは、意外と早く分かってしまいます。結末で知らされる陰惨な物語(まあ好き嫌いはありそうだが)は推理の外ですが、「誰と誰それは実は血の繋がった兄弟妹であった」とかいう件は、「三人吉三」のような幕末歌舞伎の陰惨な因果応報の色合いを塗り込めたように思いますが、或いは京極作品ではよくある趣向なのかも知れませんね。多分そこに京極作品と歌舞伎との親和性があるだろうという目論見でしょうか。「恋しくば・・」の和歌が出てくるのも「葛の葉」は歌舞伎ファンならばご存知のネタでしょうと云うことで、全般的には京極氏は怪奇推理小説作家としての本分をしっかり維持しながら、なかなか巧みに筋立てをしたものだと感心しました。

京極氏の作品は分厚い本が多いようですが、「狐花」は普通の厚みの本です。本来ならば筋をもっと膨らませたい題材であるように感じましたが、芝居の原作であるという事情(と云うか制約)からか意図的に筋をシンプルに仕立てたような印象は確かにします。そこが京極堂ファンとすれば本作を物足りなく感じるところかも知れません。後半台詞による解き明かしの説明会話が長くなるのは、芝居では少々モタれるところですが、本作が「謎解き」物である以上仕方がないですね。

「狐花」の主人公・中禪寺洲齋は、「百鬼夜行」と云う人気シリーズ(吉之助は読んではおりません)の主人公・憑き物落としの中禅寺秋彦の曾祖父という設定であるそうです。つまり小説版「狐花」は中禅寺秋彦のルーツ編と云うことになるわけで、本作は京極堂ファンならば必ず目を通すべき作品という位置付けになることでしょう。そんな大事なネタを歌舞伎新作のために惜しげもなく投入して下さったと云うことだから、歌舞伎ファンは大いに感謝せねばなりません。そのせいか千穐楽近くの歌舞伎座は京極堂ファンと思しきお客で盛況で、いつもとはちょっと違った雰囲気でありましたね。

ところで京極氏の小説版「狐花」を読んで、吉之助がホウと感じたことがひとつありました。冒頭の曼殊沙華の野の場面で、主人公(中禅寺洲齋)がこんなことを言うのです。対話の場面なので、アレンジをして引きますが、

『この世には、魔訶不思議なことなど御座いません。物の怪も幽霊も居りません。それが亡魂に見えるのであれば、それは彼(か)の者に疚(やま)しき心がある故なのです。そのような迷妄に囚われた者を夢から覚ますのが、私の仕事・憑き物落とし。』

と云うのです。これから怪奇推理を展開しようと云うのに、幽霊で読者を怖がらせる前に、冒頭で主人公がこんなことを言い始めるのです。吉之助はこれを興味深く思いました。同じ怪奇推理ジャンルでは吉之助は横溝正史を思い出します(吉之助の若い時分にブームがあったのです)が、探偵金田一耕助は冒頭にこんなことは言わなかったように思います。やっている推理のプロセスは同じなんですけど、読者を怪奇ロマンの世界に引き込んで・たっぷり酔わせておいてから謎解きを始めるのが横溝正史のやり方です。対する京極氏はいきなり冒頭でこの台詞を読者へぶつけてみせる、多分これが推理作家としての京極氏の基本スタンスなのでしょうね。或る意味では醒めていると云えるでしょうか。(この稿つづく)

(R6・8・25)


〇令和6年8月歌舞伎座:「狐花」・その1

本稿は令和6年8月歌舞伎座・納涼歌舞伎・第3部での、人気作家京極夏彦氏が書き下ろした新作歌舞伎「狐花」の観劇随想です。そもそも吉之助は新作というと二の足を踏む方です。おまけに吉之助は京極氏の本をまだ一冊も読んだことがありませんでした。それで今回も見るか見ないか・ちょっと迷ったのですが、結局舞台を見ることにしたのは、「狐花」の書き下ろし単行本が7月26日に出版されて歌舞伎版の方は8月4日に初日になるということで、つまり事実上構想・執筆がほぼ並行する試みがなかなか興味深く思われたからです。

人気小説の舞台化と云うのは、これまでもしばしばあったことです。しかし、多分ほとんどそれらはまだ舞台化が予定されていなかった時点で書かれています。つまり小説が書かれた時点では、純然たる文芸作品として書かれています。これがたまたま舞台化されることになると、脚色者はこれを芝居にするために原作のどこを生かして・どこを捨てるか、或いはどこを書き換えて芝居らしく仕立てるか、いろいろと苦心せねばなりません。小説と芝居とでは、ドラマ性やリアル感覚の表出技法がまったく異なるからです。芝居の展開を補うために原作にない場面を加えねばならないこともあり得ます。また原作にない登場人物を主人公に絡めてみることもあります。

あくまで一般論ですが、小説の舞台化と云うのは原作の陳腐化になることが少なくありません。しかし、それで予期せぬ効用が生まれることもあります。例えば新派では「婦系図」でお蔦主税の悲しい別れを描く「湯島境内」があまりにも有名ですが、これは柳川春葉の脚本から生まれたもので、泉鏡花の原作小説にない場面でした。これに大いに感心した鏡花が後に「湯島境内」の脚本を新たに書いたのだから、話がややこしい。

*左は初回限定特典:武蔵晴明神社魔除けの御札

一方、「狐花」の場合であると、京極氏はこれが歌舞伎座で上演されることを念頭に置いたうえで小説を書き・次の段階で舞台用に脚本を自分で書かねばならないわけで、それが相互に影響することで、またいろんな面倒が起きるかも知れません。例えば舞台化の仕様が無い内面シーンばかりを小説で連ねるわけに行かないだろうし、逆に舞台を意識し過ぎて小説の筋がこじんまり平板になってしまうこともあり得ます。京極氏は歌舞伎をよくご覧になる方であるそうですが、芝居をご存じであっても、いざ芝居を書くとなればいろいろ予期せぬご苦労があったことかと思います。

まあそう云うわけで、今回は舞台に先立って・舞台を想像しながら原作小説を読むことにして、そうすれば京極氏のその辺のご苦労も察せられるであろう、これで「一粒で二度おいしい」思いが出来るかも?と云うことで、まず小説版「狐花」の方を先に読んで見ることにしました。(この稿つづく)

(R6・8・24)


〇松岡正剛さんのこと

昨日(8月21日)報道によれば、著述家(或いは編集者か・定義が難しいけど)の松岡正剛さんが先日(12日)に亡くなったとのことです。1971年のことでしたが、松岡さんは工作舎という出版社を立ち上げて、「遊」という雑誌(〜82年まで)を発行していました。吉之助が松岡さんのことを知ったのはそれから暫く後のこと(吉之助が高校生の時)でしたが、「遊」と云うのは変わった雑誌でしたねえ。何と云いますかねえ、知識・情報が膨大かつ広範囲で、しかもそれらが均等・均質に並んでいるような印象で、例えばプラトンでもニーチェでもサルトルでも、「この人はどれだけ分かってるのかなあ」と驚くほどなのだが、読むと分かりそうな気がして何となくその文章を読んでしまう、しかし読んでもやっぱりよく分からないので、「仕方がないから原本に当たってみるか」ということになる。松岡さんのことを思索家とは呼ばないと思うし・本人もその呼称は辞退するだろうが、そう云うわけで、結局、吉之助は松岡さんから「教わった」と云うよりも・「紹介される」ような恰好で、いろいろ雑多に本を読んだものでした。

このような当時の吉之助の印象は、松岡さんのサイト「千夜一冊」(第1850夜で終わることになりました)をご覧になれば、何となく納得いただけるかと思います。ちなみに「千夜一冊」のなかの伝統芸能関連の記事を纏めた一冊が文庫本で読めます。興味ある方は是非手に取ってみてください。

松岡正剛:「千夜一冊エディション・芸と道」(角川ソフィア文庫)

ところで本サイト「歌舞伎素人講釈」のことですが、一見しても俄かにお分かりいただけないかと思いますが、その編集コンセプトは何となく雑誌「遊」に影響されたようなところがあると、吉之助は自分では思っております。「歌舞伎素人講釈」を読んだ方に、「何だかよく分からんが・奥に何か深いものがありそうな、そうであるならば実際の舞台でも見てみようかな」と思っていただける文章が書けているならば、吉之助は本望ですね。これが松岡さんから吉之助が教わったことです。丸の内丸善での「白川静 漢字の世界観」(平凡社新書・2008年11月)の出版記念サイン会の時に、松岡さん御本人に感謝の意を伝えたことがあります。吉之助と松岡さんとの個人的な接点は、これだけです。ご冥福をお祈りいたします。

(R6・8・22)


〇令和6年7月歌舞伎座:「裏表太閤記」・その3

今回(令和6年7月歌舞伎座)の「裏表太閤記」の「杉の森」の改変の発想は、(補綴のクレジットがありませんが)演出担当の勘十郎か・座頭格の幸四郎に拠るものと思います。これは吉之助の憶測に過ぎませんが、今回の場合・同じ舞台で幸四郎と染五郎親子を共演させたいのが興行側の希望としてまずあって、しかし原作だと鈴木孫一役の年齢は凡そ三十前半と思われるので・現在の染五郎であるとチト若過ぎる、そこで「杉の森」の芝居の芯を喜多頭(幸四郎)の方に移して筋を書き直したと云うことかと思います。つまり筋を変える必然が作品に在るのではなくて、「あっちの筋より・こっちの筋の方が面白い」とか「こっちの筋の方がやりやすい」というところにあるのです。

確かに歌舞伎では上演のたびに役者の顔触れなどに合わせて脚本を微修正することはよくあることです。現行歌舞伎で見る「忠臣蔵」の演出だって、長い歳月のそう云うことの繰り返しで・オリジナルの人形浄瑠璃とだんだん違ったものになって行ったわけです。それはそれで重い意味があることで、そう云うことを全否定はしませんけど、吉之助から見ると今回の改変は、初演が43年前のことで・昔の舞台を知っている人が少ないのをいいことに、根拠がない改変を勝手にやってるようにしか見えないわけです。何と云いますかねえ、「こういう風にして伝統が崩れて行くんだなあ」という有様を見て寂しい気分にさせられますね。奈河彰輔氏は原作の「絵本太功記・杉の森」の筋をほとんど変えなかった、そこのところはとても大事なことだと思います。「忠臣蔵」は人形浄瑠璃初演からもう270年以上経過していますが、そのことを考えると現行歌舞伎の「忠臣蔵」は上演頻度の割にホントに驚くほど変えたところが少ない。そこには役を演じてきた歴代の歌舞伎役者に或る種の自己規制が働いている、そう云う風に考えることは出来ないでしょうか。そう云うことを想像してみて欲しいと思いますね。

今回の「裏表太閤記」の大詰・第1場は舞踊「西遊記」ですが、これが仇敵光秀を討ち果たして天下人になった後の・太閤秀吉の夢の場面として設定されています。しかし、43年前の初演では、この場面は「杉の森」に続く(昼の部の)第4幕第1場に在るものでした。すなわちこの時点(備中松山城攻めの和睦時)では天下を取ろうなどと夢にも考えていなかった秀吉が、「・・!?・・もしかしたら俺は天下人になるのか?」とフト思う場面が、「西遊記」の夢の場なのです。これ以後の(初演の夜の部の)秀吉は天下取りに向けて一気呵成に進むことになる。だから今回上演のように「西遊記」を大詰に持ってきたら全然意味を成さないことになります。周囲の観客は「太閤記を見ていたはずが、どうして突然孫悟空なの?」とキョトンとしてましたよ。

「裏表太閤記」の筋(秀吉の天下取りの物語)に決着を付けるならば、クライマックスは当然「大徳寺」でなければなりません。つまり三法師を押し頂いて秀吉が天下に号令をかける場面です。(初演では夜の部の第3幕が「大徳寺」です。)しかし、こうしてしまうと肝心の宙乗りの見せ場が出せなくなってしまう、そのため「西遊記」を大詰に持ってきたのでしょうね。つまり補綴の発想がドラマ起点でないのです。だから宙乗りを見せるためだけの「西遊記」になってしまいました。

初演では昼夜一日掛かりで上演したものを今回の「裏表太閤記」では夜の部のみ・つまり半分強をごっそり落として上演しようと云うのであるから、元々の企画に難があるということです。もう少し補綴・演出の発想をドラマ起点にしてもらわないと、これからの復活物はこんな感じで形骸化したものを見せられることになるのかと、ちょっと重い気分にさせられました。(別稿の最終章をご覧ください。)もう一度書きますが、令和の若い歌舞伎ファンの方々にこんなのが三代目猿之助・奈河コンビの仕事だと思われてしまうのは、何だか「寂しい」。先達の遺産は敬意を以って守っていただきたいものです。

(R6・8・11)


〇令和6年7月歌舞伎座:「裏表太閤記」・その2

今回(令和6年7月歌舞伎座)上演の第2幕第1場・備中高松塞(とりで)の場は、初演時には昼の部・第3幕第3場に在ったものですが、目まぐるしく趣向を展開させる「裏表太閤記」のなかで唯一ドラマをじっくり見せる幕であったと思います。この箇所は奈河氏が、歌舞伎では「尼ケ崎閑居(太十)」が有名な「絵本太功記」・七段目・「杉の森」から採ったものです。「杉の森」は文楽ではたまに出ますが、歌舞伎では滅多に出ることがないようです。江戸時代の劇作では史実そのままの設定がお上に対し憚られましたから、丸本原作では石山本願寺攻めのエピソードになっています。奈河氏は設定を備中高松城へ移した他・いくつかの改変を加えていますが、総体としてほぼ原作通り脚本を作っています。初演時の備中高松塞の大まかな筋を以下に記します。

備中高松塞は長期の籠城のため既に存亡の危機にありました。鈴木喜多頭(きだのかみ)の息子孫市は攻め手の大将・真柴久吉との和睦の交渉に臨むが・合意に達することが出来ず、不首尾の責を負って喜多頭は孫市と孫の重若を勘当してしまいました。孫市は勘当を許してもらうため・単身で久吉の命を狙いますが、敵の間者を打って捨てた時、その懐中の手紙から「小田春永が本能寺で光秀に討たれた」と知ります。孫市は「久吉は主殺しを討つため一刻も早く京都へ引き返したいと考えるであろう。ここで我が首を添えて和睦を申し出るなら、久吉は必ずこれを受ける」と読んで、自らの腹を切り・(功名を立てさせるために)息子重若に我が首を切らせようとします。陰でこれを見ていた喜多頭は息子と孫の勘当を許し、これを聞いた孫市は喜んで死んで行きます。そこに久吉が現れて、孫市の忠義を誉めて・和睦の親書を喜多頭に渡します。

以上でお分かりの通り、この場の主人公は鈴木孫市なのです。当然のことですが、初演の三代目猿之助が演じたのは孫市と・幕切れ早替りでの久吉の二役でした。(喜多頭は三代目権十郎が演じました。)勘当された孫市が命を捨てて和睦をまとめあげて、籠城した大勢の味方の命を救うドラマなのです。「勘当された」という屈辱が、孫市の非常に強い動機になっています。

ところが今回(令和6年7月歌舞伎座)の場合であると、久吉との和睦をまとめるために腹を切るのは親の喜多頭(幸四郎)の方で、介錯する息子孫市(染五郎)の方は「親の命は取れません」と云って泣くという筋になっています。最終的には斬るのですが。しかし、喜多頭が寝返って久吉側に味方する(実はそれはウソ)と言ったのに怒って最初に親に斬り掛かったのは孫市だったようだが、悪い親ならば命を取っても構わないという理屈なのでしょうか。今回の脚本補綴のおかげで安直なファミリー悲劇に落ちてしまったようですねえ。

ここで吉之助は、「あっちの筋より・こっちの筋の方が面白い」、「あっちの筋より・こっちの筋の方が俺は納得できる」と云う類の議論をしたいのではないのです。そんなことを云ったら、備中高松塞の展開はもっといろんな面白い筋があり得るかも知れません。歌舞伎でないならば、どうぞ好きなように変えておやりください。しかし、これは歌舞伎であるはずです。守らねばならぬところはしっかり守ってもらわねばなりません。吉之助がここで問題にしたいことは、今回の備中高松塞の場が、これで「絵本太功記」・七段目・「杉の森」の復活であると言えるのか?ということです。孫市が死んでもいいし、喜多頭が死んでもどっちでもいい、どちらも同じ「杉の森」なのでしょうか。何がホンモノの「杉の森」なのでしょうか。歌舞伎の方はこういう状況でもホントに良いと思っているのでしょうか。(鶴屋南北作品でも同じような事例があります。こちらご覧ください。)(この稿つづく)

(R6・8・5)


〇令和6年7月歌舞伎座:「裏表太閤記」・その1

連日猛暑が続いており・夏が大の苦手の吉之助はバテ気味で、執筆の方が思うように進みません。本稿で取り上げる「裏表太閤記」については、観劇随想と云うより雑談風に話をゆっくりペースで進めたいと思います。

三代目猿之助(二代目猿翁)による本作初演(昭和56年・1981・4月明治座)はもちろん見ました。43年前のことゆえ舞台の記憶が吉之助のなかにあまり残っていませんけれど、当時の筋書の切り抜きが手元に残っています。(我ながら物持ちがいいですねえ。)筋書にある狂言作者・奈河彰輔氏の文章を読むと、歌舞伎で「太閤記」物とされる脚本を集めて・その数26本、それらの原本を読み比べながら、表の世界に真柴久吉(豊臣秀吉)の出世物語、裏の世界で武智光秀(明智光秀)など久吉の華々しい活躍の陰で消えてしまった人々のドラマを対照して描こうと云うコンセプトで再構成したのが、この「裏表太閤記」なのだそうです。悪い言い方をすれば「でっち上げた」ということですけど、こうして忘れ去られていた古典の一場面を掘り起こしたのです。しかし、内容がバラバラ・様式もバラバラな断片を組み合わせて、筋の一貫性を揃えて・ひとつの大きな作品に仕上げていくことは、なかなか煩雑で・根気の要る作業ではあります。そのような奈河氏の業績のなかでもっとも有名なのが、「慙紅葉汗顔見勢(はじもみじあせのかおみせ)」・いわゆる「伊達の十役」であることはご存知の通りです。「裏表太閤記」は昼夜通しの一日掛かりの大作になりますが、三代目猿之助・奈河コンビの数ある「古典復活路線」のなかでも際立った構想の壮大さを見せたものであったと云えます。

ただし、初演上演を見た吉之助のなかで舞台の記憶があまり残っていない。と云うことは、構想は壮大であったけれど、見どころばかり羅列して・山があっても谷がなく、ドラマとして何となく焦点散漫に見えたせいだったかなと思います。見終わって腹応えのするドラマを見たという満足感がちょっと弱かったかも知れません。そう云うわけで少なくとも吉之助のなかでは本作は成功作と云う評価がないのですが、しかし、こういう試みは「やってみなけりゃ分かりません」。やってみることに価値があるのです。そういう実験を試みたなかから「伊達の十役」が残っただけでも大したものだと思います。

今回(令和6年7月歌舞伎座)の「裏表太閤記」は夜の部のみ(休憩含む4時間15分)での上演ですから、初演台本の半分強をごっそり落としたことになります。そりゃあ半分にされてしまえば、元の形態を保つことはなかなか難しい、これでは奈河氏の当初の「表の世界と裏の世界」のコンセプトが生きません。それにしても、再演を重ねていく内に・あちらをカットして・こちらを改変して・古典がだんだん形骸化していく過程を見るようで、令和の若い歌舞伎ファンの方々にこれが三代目猿之助・奈河コンビの仕事だと思われてしまうのも、何だか「寂しい」気がしますねえ。上演時間の制約があることは理解はしますが、本作が上演プランに上ってきた段階で・作品コンセプトを十分生かすためにも・前提として昼夜通し上演の是非が議論されるべきだったと思いますけど、その辺の経緯はどんなものだったのでしょうかね。過去の遺産は大切に扱って欲しいと思いますね。(この稿つづく)

(R6・8・1)


〇令和6年7月大阪松竹座:「嫗山姥」・その

八重桐のしゃべりは、近松が当時の上方和事の名手・初代坂田藤十郎の「しゃべり」の雄弁術(これは立役のしゃべりですけれど)を人形浄瑠璃の女役に取り入れたものでした。これだけ聞けば「あっそう」みたいなものかも知れませんが、当時の歌舞伎の女形の台詞術はまだ完成していませんでした。この時代の女形はしゃべらせると男が見えてどうもいけませんでした。女形はあまりしゃべらせず・美しく着飾って踊らせていればそれで良いのだと考えられていた時代に、人形浄瑠璃のこととは云え・女役にベラベラしゃべらせたと云うことは、これは結構大胆な実験であったのです。初代藤十郎は近松を尊敬して、脚本を一語たりとも変えることを許しませんでした。一方、藤十郎の相手役であった名女形・芳沢あやめは近松に「この台詞は言い難いから語句を変えてくれ」と要求したことがあったらしく、一説には近松が歌舞伎から人形浄瑠璃へ移籍した遠因にあやめとの諍いがあったとも云われています。このような背景を考えれば、近松が八重桐に「しゃべらせた」のが如何に革新的なことであったか分かるでしょう。

もうひとつ大事なことは、藤十郎の上方和事とは「やつし」の芸である、「やつし」の本質とは「私が今していることは、本当に私がしたいことではない。本当の私は別のところにあって、今の私は本当の私ではない」と云う気分にあるのですから、八重桐の「しゃべり」も当然そのような気分を反映すると云うことです。ですから八重桐は夫とのなれそめを面白おかしく語り始めますが、実は煙草売(源七)に身をやつす夫時行に対する怒りで、これを目一杯「当てこする」のです。(前述のとおり、言ってしまえばそれで気分はスッキリして後腐れがないものですが、怒っているには違いありません。) 当てこすられた夫の方は、身の置き場のない気分でこれを聞くことになります。

武智鉄二が指摘する通り、現行歌舞伎の八重桐のしゃべりは、詞章を床(義太夫)に取らせる割合が高めなので、「仕方噺」と云うよりは「おどり」に近く見えるのは事実でしょうが、まあそれはそれとしても、上述の事情を踏まえれば、八重桐のしゃべりは「カラッと軽妙」なだけのものではなく、表現に変化を付ける可能性が随分出てくるものと思います。

そこで新・時蔵の八重桐ですが、時蔵の義太夫狂言への相性の良さは承知していますが・時蔵の八重桐が良い点は、「しゃべり」の息を踏まえて、「当てこすり」の変化を上手く付けていたことですね。夫にする愛情と、夫に対する歯痒さ・じれったさが交錯する気分がよく表現出来ていたと思います。そこに八重桐の「しゃべり」の表現の面白さの可能性を見せました。夫の魂が胎内に入ってからの幕切れの立ち回りも変化があってなかなか面白く出来ました。先月(6月)歌舞伎座での襲名披露のお三輪も悪くない出来栄えでありましたが、今回(令和6年7月大阪松竹座)の八重桐は時蔵ならではの長所を発揮して、将来を大いに期待させるものになったと思いますね。

今回(令和6年7月大阪松竹座)の舞台は襲名披露ということで顔触れも豪華に揃って、充実した出来栄えとなりました。菊之助の時行は神妙な演技で、自らの不甲斐なさを恥じて自害する気持ちが手堅く表現出来ていたと思います。

(R6・7・29)


〇令和6年7月大阪松竹座:「嫗山姥」・その1

本稿は、令和6年7月大阪松竹座での、六代目時蔵襲名披露の「嫗山姥」の観劇随想です。新・時蔵は先月(6月)東京歌舞伎座で襲名披露を終えて、今月は引き続き大阪での襲名披露となります。八重桐は初役だそうですが、「嫗山姥」は三代目・四代目時蔵襲名披露でも上演され、五代目時蔵(つまり初代萬寿)も演じて、時蔵家には縁が深い演目です。本年(令和6年・2024)は近松門左衛門没後三百年という節目の年でもあり、ご当地大阪ということで選ばれたものでしょうか。

ところで6月歌舞伎座での萬寿の襲名披露狂言として「山姥」が上演されました。筋としてはこれが「嫗山姥」の後日談にあたり、足柄山の金太郎(後の坂田金時)の逸話に登場する山姥が、かつて人間であった時の・それ以前の経緯、「どうして山姥はお山へ籠って厳しい環境下で金太郎を育てることになったのでしょうか」の仔細を「嫗山姥」が説明する形となるわけです。そこには遊女八重桐とその夫・坂田蔵人時行との悲しい物語がありました。と云っても「嫗山姥」はそれを湿ったタッチで描いているわけではありません。近松は表向きカラッとしたエンタテイメントに仕立てています。とは云え、京都の遊女八重桐が東国の足柄山に独り籠って金太郎を生み育て・山姥(当時の人々はそれを山中に潜む妖怪と見ました)と化したということであるから、そこに込められた八重桐の思いにはさぞ凄まじい感情が渦巻いたであろうと思います。

まあ吉之助は別に「嫗山姥」を見る時にそういうことを考えるべしと言うわけでもないのです。しかし、坂田時行が自らの不甲斐なさを恥じて自害して、わが魂八重桐の胎内に入りて稀有な勇者となって転生せんと願う・その心に時行の悲痛な思いがあるわけで、その心情をしかと受け止めたいと思います。さらに妻・八重桐はこれを受けて山に籠り・山姥と化して金太郎を育てる、その強い思いのなかに夫を絶望の淵に追い込んてしまったことへの八重桐の深い悔恨が見られる、そこのところもしっかり受け止めたいと思います

いわゆる「しゃべり山姥」の軽妙な語り口は、夫とのなれそめを語りながら、これを傍で聞く時行に対して「当てこする」ものです。その語り口はカラッと軽妙であるけれど、むしろ語り口が軽妙であるからこそ、聞いている時行にはグサリと突き刺さります。さらにめざす敵を妹白菊が先に討ってしまったことを知らされて、時行は愕然とします。

「ソレ/\/\それは悉皆気違ひか。討つに討たるゝほどならば、頼光様に油断があらうか。彼等は威勢真最中討たれぬ仔細があればこそ、日蔭の御身となり給ふ。こなたが今駈出して心易く首取らうとは、重ねて恥がかきたいか。コレこなたが今までいたづらで娘をころりと堕したと、首をころりと落すとは雲泥万里」と恥しむる。

娘をコロリと落とすのと、敵の首をコロリと落とすのは大違いよ、アナタにそんなこと出来るはずがない」と、女房にここまで言われては夫は立つ瀬がありません。つまり八重桐は「言い過ぎてしまった」のです。だから八重桐には夫を自害に追い込んでしまったことへの、強い悔恨があるに違いない。その強い思いがなければ、八重桐が長い山中の生活に耐えて山姥と化すことは出来なかったと思います。八重桐は金太郎を育て上げ・都に送り出して、夫の遺志を見事果たしたのです。

このように「嫗山姥」の筋は考えようによっては・重苦しい情念の物語にもなりかねない題材なのですが、近松はこれをカラッとした感触のエンタテイメントに仕立てました。だから観客は「アハハそんな経緯で足柄山の金太郎が生まれたわけなのね」でもちろん結構なのです。実際「しゃべり山姥」の語り口は軽妙です。その軽妙さ・というか率直さ(ストレートさ)のなかに、夫に対して言ってやりたいことは沢山あるが、言ってしまえばそれでスッキリして後腐れがない、そんな八重桐のさばけた性格が現れているのかも知れませんね。ですから八重桐は夫をそこまで追い込む気など毛頭なかったのです。しかし、これを聞く時行の方はそうでなかったと云うことです。だから八重桐の夫に対する怒りは分かるけれども、八重桐のしゃべりを聞きながら、「八重桐さん、もうその辺で許してあげなはれ」と観客が感じるならば、「しゃべり」は成功と云うことになるでしょうかね。(この稿つづく)

(R6・7・26)


〇令和6年7月大阪松竹座:「義経千本桜〜鮓屋」

本稿は、令和6年7月大阪松竹座での、仁左衛門のいがみの権太による「義経千本桜〜木の実・小金吾討死・鮓屋」の観劇随想です。仁左衛門の当たり役と云われるものは数多いですが、奈良の田舎の野暮ったいならず者には仁左衛門はいい男過ぎるようで・イメージがすぐ結びつかないところはあるけれども、このいがみの権太は、「現代人に古典を出来るだけ分かりやすく見せたい」ということで常に工夫を凝らす仁左衛門の考え方が特に色濃く反映された役ではないでしょうかね。仁左衛門の権太は根っからの「いがみ」ではなく、根は善良で・どこか愛嬌を含んだ憎めない「ワル」なのです。それがどうしようもなくなって村からも・実家からも爪弾きにされていたところが、最後に良いことをして、みんなに許されて死んでいきましたトサ・・・というドラマになっていて、だからモドリになった(善心に立ち返った)権太の告白に観客が感情移入して素直に泣かされる。共演者も揃って、前回(昨年・平成5年・2023・6月歌舞伎座)同様、安定した仕上がりになっていたと思います。

ところで、たまたまのことですが、吉之助は先日、二代目松緑が東京で最後に演じた・いがみの権太の映像(昭和51年・1976・11月国立劇場)を見たのですが、役の本質をグッと大きく掴み取った松緑の権太の図太い印象と、今回の仁左衛門の権太とは、ちょっと見の印象ではなかなかの好対照を見せていたと思いますね。松緑の権太はあまり細かいことを考えさせない権太です。他方、仁左衛門の権太は、描線が細やかである。芝居巧者の仁左衛門らしい・しなやかな権太なのです。愛嬌を前面に出して観客を自分の方に引き付けて、ドラマを一気にドンデン返しに持っていく、そこの段取りがなかなか上手く出来ているのです。このような経路の違いはあるのですが、「鮓屋」のドラマとは、煎じ詰めれば、「どうしようもない放蕩息子が、最後にひとつだけ良いことをして、家族に許されて死んでいった」と云う、ただそれだけのドラマだと云う点に於いて、両者どちらともほぼ同じところに到達していることを興味深く感じました。

ただし今回の「木の実」幕切れで見るほのぼのとした・貧しくても幸せそうな権太一家が、何故自らを「時代」への生贄に供する決意をしたか・或いは「せざるを得なかったか」、このような疑問は仁左衛門の権太であると、どうしても希薄になってしまうようです。と云うか仁左衛門の権太の場合、恐らくそういう疑問があまり起こらないでしょうねえ。この件は別稿「権太一家の悲劇」で取り上げましたから・そちらをお読みいただきたいですが、権太が仕掛けた偽首の大博打に「女房小せんと息子善太郎が自らの意思で乗った」ところに・この一家の深い哀しみがあり、更に言うならば「生きると云うことの絶体の哀しみ」があり、それが深いところで「平家物語」の無常の思想に繋がっていく。そこが一見すると関係がないかに見える権太一家の悲劇が「平家物語」の世界へ取り込まれていくための唯一の接点なのです。愛嬌を含んだ憎めない「ワル」の権太であると、そこのところがどうしても弱くなってしまう。これだと「平家物語」の世界が若干後ろの方へ引いてしまう、そう云うところはあるようですね。

しかし、まあこれは松緑の権太と比べた場合の話です。松緑の権太では、全然関係ないように見えた権太の死が最後に「平家物語」の世界に粛々と取り込まれていく光景を見て「オオこういう仕掛けになっていたのか」と唸る思いでした。今回の仁左衛門の権太であると、「最後にひとつだけ良いことをして許されて死んでいった」権太の悲しみで収束する印象です。もちろんこれが悪いわけでもありません。これはこれでドラマとして立派なものなのです。ドラマの切り口が異なると云うことに過ぎないのですが、これは封建道徳を基礎とした歌舞伎の時代物のドラマを如何に現代の観客の心に訴えかけるものに仕立て直すか、如何に「鮓屋」を現代の観客に受け入れられるものにするかと云う、仁左衛門の試行錯誤の苦労を見るようでもありましたね。

(R6・7・13)


〇令和6年7月大阪松竹座:「恋女房染分手綱〜重の井子別れ」・その4

重の井が三吉とのやり取りのどの辺りで・この子は自分が生んだ子であると確信したかについても検討しておきたいと思います。三吉の道中双六のおかげでお姫様のご機嫌が直ったので、その御礼にと重の井がお菓子を持って現れました。三吉は「お乳の人の重の井様とはお前か。そんならおれが母様」とすがりつきますが、驚いた重の井は三吉を跳ね除けます。三吉はなおも「わしが親はお前の昔の連合ひ、この御家中にて番頭、伊達の与作。その子は私こな様の腹から出た、与之助はわしぢゃわいな」と言い、両親と別れて以後・自分がどのように苦労して育ってきたか長々と語ります。三吉の述懐の後の詞章には、

『お乳ははっと気も乱れ、見れば見るほどわが子の与之助。守り袋も覚えあり、飛びついて懐に抱き入れたく気は急けども、アッア大事の御奉公養ひ君のお名の疵、偽って叱らうかイヤ可愛げにさうもなるまい。マアちょっと抱きたい。アヽどうせう」と、百色千色の憂き涙。

とあります。この詞章を読むと、「信じられないことではあるが・顔を見れば確かに我が子・守り袋にも覚えがある、動かぬ証拠がある」と云うことで、この時点で初めて重の井は三吉が自分が生んだ子だと認めたかのように読めなくもありませんが、そうではないのです。重の井は三吉が「わしが親は、伊達の与作。こな様の腹から出た、与之助はわしぢゃわいな」と叫んだところ・つまり三吉とのやり取りの最初のところで、三吉が自分が生んだ子であると認めたのです。何故ならば重の井は身に覚えがあったからです。道中双六の場面では可愛い子供だとしか思っていなかったが、そこまで自分が感じていた三吉に対する好感は根拠がないものでなかったことを、重の井はこの時点で悟るのです。

このように考えなければ、この後で三吉が、両親と別れて後・自分がどのように苦労して育ってきたか・どうして馬方の子となったかを長々と語るのを、重の井がじっと聞くということは有り得ないのです。重の井が「この子が言っていることは本当のことか?」と疑いながら三吉の話を聞くことは有り得ません。三吉が語ることは全部「事実」だと重の井には分かっているのです。ここで重の井が聞くことは、罪もない我が子に・どれほど酷い苦労をさせて来たか、それを我が子に強いて来たのは母親であるこの私だ・・・という重い「事実」です。重の井はどこかで我が子(与之助)は幸せにスクスクと成長しているはずだと何となく信じていたのでしょうねえ。重の井のなかのそんな甘っちょろい虚像がここでガラガラと崩れます。目の前にいる馬方姿の三吉こそ現実なのです、このことを重の井は思い知ります。「見れば見るほどわが子の与之助。守り袋も覚えあり」の詞章は、重の井はその現実を追認する材料でしかありません。

ですから三吉の述懐をどのような性根で以て重の井が聞くかと云うことは、「重の井子別れ」を世話物浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」・上の巻として見た場合の、核心であると思いますね。三吉の述懐を重の井が身を入れて聞くことは、とても大事なことです。この場面の重の井の演技を工夫することで、「子別れ」の人情はますます深く陰影があるものに出来るはずです。

しかし、今回(令和6年7月大阪松竹座)の萬寿の重の井を見ると、やはり萬寿も「お乳ははっと気も乱れ、見れば見るほどわが子の与之助。守り袋も覚えあり」の箇所で重の井が三吉を我が子だと初めて認めたと云う解釈であろうと感じました。そこに現行歌舞伎の「重の井子別れ」の型の問題点があるかも知れませんねえ。そうなると、やはり「馬方の子とお姫様(調姫)が乳兄弟ということになれば姫の縁組みに差し障りが生じて・主家に多大な迷惑が掛かる」と云う論理が重くなって来て、芝居の感触は「時代」の方へと傾いてしまいます。

別稿「葛の葉子別れを考える」で、播磨少掾が弟子の順四軒に「浄瑠璃は人情が第一」と教えた逸話を引用しましたけれど、この逸話から学ぶべきポイントは、愛する子供を置いたまま去らねばならない「私」(葛の葉)の悲しみを描くのはもちろん大事なことであるけれど、この私がいなくなってしまったら、この子(童子丸)はどんなに嘆き悲しむであろうか、どれほど寂しがるだろうか、ちゃんと良い子に育ってくれるだろうか、親なし子じゃ狐の子じゃと苛められはしまいか等々、そんなこんなを思うと我が子が不憫で・可哀そうでならぬと云う、「子供の悲しみ・辛さを思いやる情」、そこを細やかに語ってこそ・初めて「人情第一」となると云うことなのです。「重の井子別れ」もまた同様に、「私は息子に対してどれほど罪作りなことをして来たことか、そして私は今また息子に対し罪を重ねようとしている、何と私は罪深いことか」、このように考えてこそ「人情第一」となるのではないでしょうか。

ですから場所が大名家の奥座敷であっても・主人公が片はずし役であっても、外見上は時代物のようであっても、「重の井子別れ」は世話物として、「人情が第一」で読んで欲しいと思いますね。

(R6・7・12)


〇令和6年7月大阪松竹座:「恋女房染分手綱〜重の井子別れ」・その3

そこで「重の井子別れ」を人情の観点で読むことをしたいのですが、三吉が我が子だと知れてからの重の井については・どの役者であろうが悲しみ・辛さを表現することに余念がないわけで、むしろ差が付くのはそれ以前のところ、道中双六の場面であろうと思いますね。双六でお姫様を慰めるために、由留木家奥座敷に三吉が通されます。ここで重の井が三吉に声を掛けます。もちろんこの時点の重の井は三吉が我が子であるなど知ろうはずがありませんが、例えばその第一声です。

『見ればいたいげな馬方の子。船頭、馬方、お乳の人、こちもそちらと同じこと。して年はいくつ、名はなんと言やる。』

字面だけ見れば、何と云う事もない、下々の子に儀礼的に声を掛ける感じの台詞です。しかし、重の井はお姫様のご機嫌を取るために、藁にも縋る思いで三吉を呼び寄せたはずです。三吉の協力無しでは事は進まぬわけですから、重の井の口調は自然と優しくなるはずです。見れば利発そうな可愛い子供である。子供の目線に合わせて「さてもそなたは良い児じゃの。サアサお姫様のご機嫌直しを宜しく頼みますね」という心持ちが口調に現れることになると思います。

このように重の井のなかに現れる三吉に対する好感は、三吉が可愛い子供だからとしか重の井は未だ意識していないでしょうが、もしかしたらそれだけではなかったかも知れません。それは何となく虫が知らせるという形で、重の井は我が子との縁(えにし)みたいなものを無意識のうちに感知したかも知れません。そんなことを観客に想像させてしまうように、重の井は三吉に優しい母親の口調で語り掛けなくてはなりません。これが三吉が我が子だと知ってからの重の井の悲しみに深い陰影を与えることになるのです。

初めて重の井の声を聞くことになる三吉の側からも考えてみます。三吉が由留木家玄関先で遊んでいたのは、偶然のことではありません。亡くなった乳母から「そなたの母は由留木家のお乳の人・重の井さまじゃ」と聞かされていたから、三吉は母親に会いたいと思って玄関先をウロウロしていたのです。とすれば、奥座敷に通された三吉が何を考えるでしょうか。このことは台本からはまったく見えませんけれども、多分、サテどの御方が自分の母親・乳人重の井さまであろうとキョロキョロすることになるでしょうね。お姫様のお傍近くにいる女性がそうかも知れぬと察しは付くけれども、確証は持てません。しかし、この女性の声を初めて聞いた時、三吉が何を感じるかは、とても大事なことだと思います。だからこそ三吉に語りかける重の井の口調は、優しくなければならないのです。その声は、三吉にとって、この女性こそボクのお母さんではないかという感じで聞こえているはずです。

吉之助が見た六代目歌右衛門の重の井(昭和58年・1983・4月歌舞伎座)は、そのような優しい母親の口調であったと記憶しています。ちなみに吉之助の手元に四代目雀右衛門の重の井(平成9年・1997・5月歌舞伎座)の映像がありますが、これを見ると雀右衛門は下々の子に儀礼的に声を掛ける感じでしゃべっていますね。確かに字面だけ読めばその通りに違いありませんが、それだと時代物の冷たい響きになってしまいます。それであると「人情を感じさせる芝居」になりません。

そこで今回(令和6年7月大阪松竹座)の萬寿の重の井ですが、萬寿はもともと母性を感じさせる女形であるから、上記・雀右衛門ほど冷たい響きにはなっていない・そこは良い点ですけれど、情を感じさせる・情を予感させる響きにはまだなっていない印象ですねえ。これであるとやはり重の井と三吉との間に垣根を感じてしまう、まだまだ時代物の感触に留まっていると思います。そこのところに更なる工夫を加えていけば、良い重の井になると思いますね。(この稿つづく)

(R6・7・10)


〇令和6年7月大阪松竹座:「恋女房染分手綱〜重の井子別れ」・その2

問題を整理しますと、重の井が三吉を追い返そうとしたのは、馬方の子とお姫様(調姫)が乳兄弟ということになれば姫の縁組みに差し障りが生じて・主家に多大な迷惑が掛かる、そのような封建社会・身分社会の厳しい論理が親子の素直な感情発露を許さないと云うことでした。確かにこれは重の井にとって辛いことです。これだけでも「子別れ」を泣ける芝居に出来ます。しかし、厳しい「時代」の論理であまり強く読み過ぎてしまうと、意地悪い見方をするならば、重の井がそれを封建論理のせいにして、母子の真実と正対することを避けているかのような印象になりかねません。

世話物悲劇として「子別れ」を読むためには、正規の親子の名乗りがしてやれないこと・三吉を追い返そうとしたことに、重の井がどれほど辛い苦しみを感じているかを、十分検討せねばなりません。このことが重の井の悲しみに必ずや陰影・深みをもたらすはずです。実はこれが「世話」の要素なのです。

かつて由留木家の奥勤めであった重の井は、家老の息子(丹波与作)と恋仲となり・密かに子供(三吉)を産み落としますが、これが世間の知るところとなり、不義の罪により与作は追放されました。重の井も手討ちとなるところでしたが・重の井の父が切腹して助命を嘆願して、殿の計らいで重の井は調姫の乳人として現在に至る・・と云う経緯は、とりあえず、今はすべて忘れることにしましょう。これらは「時代」の論理に深く関わる事情ですが、捨てられた三吉にまったく関係がないことです。どんなやむを得ない理由があったにせよ、両親の罪科によって幼い三吉は放り出された。三吉は散々な苦労をしながらここまで生きてきた。三吉にまったく罪はない。これらのことだけが大事なのです。つまり重の井はここまでずっと三吉に対し随分と罪作りなことをして来たわけですね。彼女はそんな自身の罪深さをよく分かっています。

そして今ここで三吉は重の井に正規の親子の名乗りをして・一緒に暮らしてくれと嘆願しますが、よんどころない事情(上述)によって、重の井はこれを拒否して・三吉を追い返さねばなりません。このことはつまり、重の井は三吉に対して散々罪作りなことをして来たあげく、やっと息子と再会出来たこの瞬間にあっても、またしても重の井は三吉に罪作りな行為を繰り返さねばならないと云うことです。このことが重の井にとって・どれほど辛く苦しいことであるかは想像を絶します。

ここで読み取れる重の井の深い悲しみ、「私は息子に対してどれほど罪作りなことをして来たことか、そして私は今また息子に対し罪を重ねようとしている、何と私は罪深いことか」・・・これこそ「子別れ」の世話の要素なのです。これは重の井の身に絡みついた「時代」の論理を除き取って、母親としての重の井の感情をピュアに抽出したものです。浄瑠璃の世界では、そのようなものを「人情」と呼びます。場所が大名家の奥座敷であっても・主人公が片はずし役であっても、外見上は時代物のようであっても、その場面を「世話物」の感触にするものが「人情」です。重の井は三吉に幾ばくかの銭を持たせ・追い返そうとしますが、これに対する三吉の台詞は痛烈です。三吉はこのように叫びます。

「母でも子でもないならば、病まうと死なうといらぬお構ひ。その一歩も入らぬ。馬方こそすれ、伊達の与作が惣領ぢゃ。母様でもない他人に金貰ふ筈がない。エヽ胴慾な。母様覚えてゐさしゃれ」

この台詞を、馬方であっても俺は一人の人間だと重の井が属する封建社会の論理の身勝手さを糾弾する・頑是ない子供からの無心の抗議だと読むことはもちろん可能です。しかし、それでは時代物の観点で三吉の台詞を読んでいることになりますね。これを世話物の「人情」の観点から読むならば、三吉の台詞は次のように響くでしょう。

「かれこれの事情で正規の親子の名乗りがしてやれぬなどと主家の事情ばかり言っておらず、お前(重の井)と俺(三吉)が確かに母子であるという「真実」と真摯に向かい合ってくれ。そうでないならば、もはや母でもない、息子でもない。俺が他人に施しを受ける謂われなどない。」

これは息子から母への最後通牒に等しい響きです。ここで三吉は、母が心の内に秘めながら・厳しい事情によって表に出すことが出来ない「人情」に直接訴えようとしています。これを聞いた重の井は身を引き裂かれる思いであったに違いありませんが、この悲しみはすべて我が身の罪深さから来たものであることを、重の井が一番よく分かっているのです。(この稿つづく)

(R6・7・7)


〇令和6年7月大阪松竹座:「恋女房染分手綱〜重の井子別れ」・その1

本稿は、令和6年7月大阪松竹座での「重の井子別れ」の観劇随想です。五代目時蔵改め初代萬寿が乳人重の井を、孫の五代目梅枝が自然薯の三吉を初舞台で勤めます。萬寿の重の井は、平成4年・1994・4月こんぴら歌舞伎金丸座で初役を勤めて・今回が3度目となるそうです。吉之助は巡り合わせが悪くて、萬寿の重の井を拝見するのは今回が初めてです。

萬寿の重の井は、さすがに片はずし役の重さを大事にして、風格ある演技を見せてくれました。梅枝は芝居好きらしく、先月(6月)歌舞伎座での「山姥」の怪童丸も感心しましたけれど・今回の三吉もなかなか大したもので、おかげで良い出来の「子別れ」になったと思います。以下はそのことを認めたうえで、作品考察を踏まえ・乳人重の井に更なる改良の余地があるものかを考えてみたいと思います。但し書きを付けますが、萬寿の重の井の情が薄いと聞えたかも知れませんが・そう云うことではなく、萬寿は「子別れ」として手堅い成果を示してはいるが、もしかしたら更に情が深い重の井に出来るだろう、更なる工夫の余地があるのではないか、そう云うことを考えてみたいと思うのです。

まず「恋女房染分手綱」は、吉田冠子・三好松洛合作による人形浄瑠璃で、宝暦元年(1751)2月大坂竹本座での初演。時代物。全十三段。このうち十段目が「重の井子別れ」として有名。ということは誰でもご存知のことです。舞台は大名である由留木家の奥座敷。女形の役のなかでも重の井の片はずしは重い役どころ。この場は歌舞伎では大抵見取り狂言として出ますが、そう云うわけで「重の井子別れ」は時代物の感触に仕立てられることが多いようです。確かにそれには一理あります。「恋女房」全体が時代物であるわけですし、重の井が三吉に親子の名乗りが出来ないのは、馬方の子とお姫様(調姫)が乳兄弟ということになれば姫の縁組みに差し障りが生じて・主家に多大な迷惑が掛かる、そのような封建社会・身分社会の厳しい論理が親子の素直な感情発露を許さない、そこが「重の井子別れ」を時代物の感触に仕向けると解釈することが出来ます。

今回(令和6年7月大阪松竹座)の「重の井子別れ」もその線で、萬寿の重の井はそこのところをしっかり押さえており、何の不満もありません。ドラマは一定の成果を挙げています。それならば何故吉之助は、「もしかしたら更に情が深い重の井に出来る、更なる工夫の余地があるのではないか」と言うのか。その理由を以下に申し上げます。吉之助は「重の井子別れ」をもっと世話物の感触で読めないものかと考えているのです。

「恋女房」のベースとなるものは、近松門左衛門の世話物浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」(たんばのよさくまつよのこむろぶし・宝暦4年・1707・大阪竹本座初演・上中下の三段構成)です。近松の世話物浄瑠璃は25編がありますが、本作もそのなかのひとつ。上中下の三段構成となっており、このうち上の巻がほぼそのまま「恋女房」・十段目に取り入れられて、「重の井子別れ」となっています。ちなみに「恋女房」・十一段目もほぼ近松原作(中の巻)通り。「恋女房」・十二段目については全体のお家物の筋立てに合わせるため近松原作(下の巻)を書き替えています。つまり通し狂言「恋女房染分手綱」とは、近松の原作(「丹波与作」)を核にしており、「子別れ」(近松原作では滋野井)に至るまでの経緯、すなわち丹波与作の前身や・重の井の父がどうして自害して・重の井がなぜ現在乳人となっているかなど、経緯の仔細が近松の原作のなかで語られていないので、この足りない部分を、竹本座の後進たちが芝居に仕立てて筋の補填を図ったのが、すなわち改作「恋女房」であると云うことなのです。

今回の大阪松竹座公演で本作が取り上げられたのは、萬寿と梅枝の・祖父孫で共演出来るということが第一でしょうが、多分今年(令和6年・2024)が近松門左衛門没後三百年という節目の年であることも理由のひとつであろうと吉之助は思っていました。しかし、今回の筋書のどこを探しても「子別れ」に関連して「近松」の字が出て来ないので・どうもそう云う理由ではなかったようですが、まっそれは兎も角、「子別れ」を見取り狂言で見るならば、本作は二つの読み方が可能であろうと思うのです。まずこれを通し狂言「恋女房染分手綱」のなかの一幕とするならば、お家物の筋立ての流れからして「時代物」。もうひとつ、近松門左衛門の「丹波与作待夜の小室節」の上の巻として見るならば、「世話物」と見ることが出来ます。「子別れ」の重の井の悲しみのなかに、「世話物」の視点を加えることで、もっと情が深い重の井に出来る、もっと人情の出汁(ダシ)が効いた重の井に出来る余地があると考えます。(この稿つづく)

(R6・7・6)


 

 

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