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五代目玉三郎・久しぶりの富姫

令和6年12月歌舞伎座:「天守物語」

五代目坂東玉三郎(富姫)、五代目市川団子(姫川図書之助)、二代目中村七之助(亀姫)、四代目中村歌昇(小田原修理)、六代目市川男女蔵(朱の盤坊)、二代目中村獅童(近江之丞桃六)他


1)玉三郎・10年振りの富姫再演

本稿は令和6年12月歌舞伎座での、玉三郎の富姫と団子の図書之助による「天守物語」の観劇随想です。玉三郎が富姫を演じるのは平成26年・2014・7月歌舞伎座以来のことになるので、実に10年振りのことです。云うまでもなく富姫は玉三郎の当たり役の一つです。昨年(令和5年・2013)に玉三郎は七之助(富姫)・虎之介(図書之助)に「天守物語」を指導して、この時点で傍目からは「役を七之助に渡して、玉三郎が富姫を演じることはもうないだろう」と思えたのです。しかし、その後わずか1年(つまり今回)で歌舞伎座で再び富姫を演じることになったのは、ちょっとビックリと云うか・もちろん嬉しいことではありますけれど、一体どのような心境の変化だろう?と思いました。聞くところでは、本年(令和6年・2024)に団子(20歳)が主演したスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の舞台を見て、団子を図書之助に起用して富姫を演ってみたくなったと云うことであるそうです。まあ歌舞伎も世代交代が緊急の課題となっている昨今でもありますから、きっかけは何であれ、玉三郎が再び富姫を演じてみる気になったことは嬉しいことです。

ところで富姫が玉三郎の当たり役の一つであることは疑いなく、もしかしたら世評ではベスト3であっても富姫を入れるかも知れませんが、或る理由により吉之助はこれまでの玉三郎の富姫に諸手を挙げて賛成と云うわけではなかったのです。それは玉三郎の富姫が「図書之助がいい男だから好く」ように見えたせいでした。鏡花が描く女には共通したパターンが見えます。それは「弱い男に女が惚れて、女がこれを庇護する、その弱い男に正義がある、いわば女は正義に惚れたも同然である」と云うことです。「天守物語」では富姫は妖怪であり、図書之助は人間なのですから、どんな場合でもそれは対等な関係での恋ではあり得ません。図書之助からはそれは常に富姫を仰ぎ見る形になると云うことです。

吉之助が見るところでは、玉三郎の芸が持つ愛嬌(或いは媚態)が本人が意図しないところで、正しい富姫像の表現の邪魔をする、そんなところがあったと思います。ここは吉之助が将来「玉三郎論」を書くことがあるならば、大事な論点になるところです。「天守物語」で云うならば、富姫が図書之助に論理的な段階を踏んで惹かれていく大事な台詞・つまり観客が心に留め置かねばならぬ大事な箇所で観客がウフフフ・・と笑ってしまう(もちろんファンの好意的な笑いではあるのですが)、それが玉三郎本来の意図とは違うところに連れて行ってしまう、そこに現代の玉三郎人気の表と裏が見えると云うことです。例えばそれは図書之助に対する富姫の三つの台詞、「すずしい言葉だね」、「ああ爽やかなお心」、「帰したくなくなった」と云う三つの台詞です。これまで吉之助が見た玉三郎の富姫では、いずれの舞台でも観客の含み笑いが起こりました。或いは、図書之助に対する富姫の詰めの台詞、「何しに来ました」、「二度とおいででないと申した私の言葉を忘れましたか」などの台詞の末尾を上げて疑問形に流してしまって、結果として富姫像の輪郭を甘くしてしまうなどの問題がありました。(これについては七之助の富姫の観劇随想で触れましたから、詳細はそちらを参照ください。)

以上で玉三郎の富姫の台詞に問題がありそうな箇所を5箇所挙げました。しかし、今回(令和6年12月歌舞伎座)の玉三郎の富姫では、それが5箇所ともすべて修正されていたことをここに報告しておきます。これまでの舞台のように観客がウフフフ・・と笑ってしまうことは、今回はありませんでした。どこが変わったかは、これは簡単なことだったと思います。「すずしい言葉だね」をサラッと言わずに、「●すずしい言葉だね」とちょっと間合いを置いて実(じつ)に押すことで、観客の笑いのタイミングを外したのです。これだけで客席の雰囲気が浮つかず、富姫の実(じつ)を聞こうという方向へ変わりました。「何しに来ました」でも末尾を押さえて、図書之助の動きをしっかり止めました。これで良いのです。

結果として今回は富姫のイメージがブレることなく・くっきり描かれて、吉之助も何回「天守物語」を見たか思い出せませんが、これまで見た玉三郎の富姫のなかで最も出来が良い舞台であったと思いました。このような玉三郎の内的変化が、昨年(令和6年・2023)七之助・虎之介の演技指導のなかで生じたものか(玉三郎の作品理解が変化したのか)、或いは今回団子の図書之助への指導のなかで生じたものか(富姫と図書之助との関係性が変化したのか)は分かりませんけれど、これだけで今回の玉三郎の「天守物語」再演の意義は十分あったと申し上げておきます。(この稿つづく)

(R6・12・11)


2)富姫と図書之助のバランス関係

「天守物語」を見ると起こりがちな誤解ですが、人間界と妖怪界が対立構図にあるわけではないのです。富姫が「ああ人間というものは不思議な咎を被せるものだね」と呟く時、人間界は身分とか柵(しがらみ)とか詰まらぬものに縛られて窮屈なものだねえと人間界を批判的に見下しているかのように聞こえるかも知れませんが、妖怪界にも妖怪界なりの俗な世間があるのです。人間の生首を見て「美味しそう」と舌なめずりする感覚は人間にはありません。この感覚は人間の目からすると奇矯であり、不道徳なことです。したがって「天守物語」の結末は「・・こうして二人はいつまでも幸福に暮らしましたとさ・・」で終わるけれども、図書之助がこれから富姫の元でずっと暮らしていくなかで、彼がどのような道程を辿らねばならないのかについて考えてみることも、決して無駄なことではないと思いますね。ヒントは同じく鏡花の「海神別荘」に見えます。

海神別荘」の公子の会話で明らかになることは、人間界で美しい感じるものと妖怪界で美しいと感じるものはまったく異なるその感性の尺度がまったく異なると云うことです。例えば浄瑠璃でのおさん茂兵衛・八百屋お七の処刑の場面について、公子は血と残虐さと悲惨さに異様な美しさを感じて興奮します。それは妖怪界では無邪気な当たり前の感性ですが、人間からするとそれは感性が歪んでいると見える。耽美主義?それは人間界の尺度で公子の見方を無理やり解釈するからそう見えるだけのことです。

つまり「天守物語」のなかで人間界と妖怪界とは対立構図にあるのではなく、両者は並列構図にあるのです。妖怪界から人間界が批判されているのではなく、それとは無関係なところで妖怪は無邪気に自由な感覚で遊ぶ、そのような構図です。だから図書之助が人間の感覚を捨て切れないまま富姫の元で暮らし続けるならば、いつか必ず図書之助は苦しむことになります。「天守物語」ではそこまで描いておらぬだけのことです。

富姫から見て図書之助は常に庇護するべき存在であって、だから対等な関係での恋愛ではあり得ません。「天守物語」で玉三郎がこれまで共演してきた数々の図書之助役者は、(それが悪いとか言っているのではないので要らぬ誤解をして欲しくありませんが)富姫と図書之助とのバランス関係が比較的均衡した状態に近かったのではないかと思われます。今回(令和6年12月歌舞伎座)の玉三郎(74歳)・団子(20歳)ほどにバランスがかけ離れたことはなかったと思います。このため富姫から見れば「庇護すべき相手」、図書之助から見れば「仰ぎ見る相手」という二人の関係が、これほど明確に舞台上に立ち現れたことはなかったのです。だから富姫は図書之助がいい男だから好くのではなく、図書之助が真っすぐな男であるから・図書之助が清らかな男であるから好く、このことが玉三郎と団子のコンビからはっきり視覚的に伝わって来ました。(この稿つづく)

(R6・12・16)


3)団子の図書之助

玉三郎が相手役に団子を抜擢したのは、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」で主演した団子の舞台を見て、団子の図書之助で富姫をもう一度演ってみたいと思ったからなのだそうです。吉之助は本年2月新橋演舞場での「ヤマトタケル」初日の舞台を見ました。その後同演目で各地を巡演し、これにはいろいろ経緯があったことにせよ、20歳の青年にはちょっと過酷過ぎる試練でありましたが、団子はこれを見事にやり通しました。吉之助が団子の舞台を見るのは2月以来のことでしたが、今回(令和6年12月歌舞伎座)の団子の図書之助を見ると、「ヤマトタケル」での経験が100%どころかそれ以上に生きていることを実感させられました。団子はヤマトタケルと云う役の若々しさ、青臭く感じるほどの若々しさをホントに素直にストレートな形で表現しました。今回の図書之助でもほぼ同じ行き方で役に対しています。その結果、三代目猿之助のスーパー歌舞伎も、歌舞伎としての鏡花物も、どちらも新歌舞伎様式を共通項として処理出来ることがしっかり確認出来ました。

ただし、これはヤマトタケルでも指摘したことですが、団子の台詞は歯切れが良く・言葉が明確に聞き取れることは得難い美点ですが、二拍子のリズムの打ちが平坦に流れて・台詞が一本調子気味に聞こえるところがあり、熱い心情を以て台詞を押すところにまでは至っていません。この点に更なる改善の余地が見えます。新歌舞伎様式の台詞は、第1拍にアクセントを置いた二拍子のリズムです。そこが感覚的に掴めれば、台詞をグッグッともっと強く心情で押せるようになります。そうすると図書之助の性格にもっと陰影が付いて来るのですがね。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)

図書之助はただ清らかで真っすぐなだけではありません。もちろん真っすぐさは不可欠な要素で・これがなくては図書之助になりませんが、忘れてはならないことは、図書之助のこの美質が現世(人間界)に於いてはまったく評価されず、まさに社会から放逐されようとしているほど理不尽な扱いを受けていると云うことです。このことに対する憤り・憤怒のようなものが図書之助のなかに沸々としてあるのです。このことが図書之助に現世を捨てることを決意させるのですから、「天守物語」をロマンティックな恋愛譚として読むだけではまだまだ不十分です。しかし、団子の図書之助はこのようなことを考えさせる突端は掴んでいると思いますね。

(R6・12・19)


 

 


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