五代目団子・初役のヤマトタケル
令和6年2月新橋演舞場:「ヤマトタケル」
五代目市川団子(小碓命後にヤマトタケル/大碓命)、五代目中村米吉(兄橘姫/弟橘姫)、九代目市川中車(帝)、八代目市川門之助(皇后/姥神)、三代目中村福之助(タケヒコ)、四代目中村歌之助(ヘタルべ/熊襲弟タケル)、二代目市川猿弥(熊襲兄タケル/山神)、初代中村隼人(帝の使者)他
1)「ヤマトタケル」古典への道
本稿は令和6年2月新橋演舞場の五代目団子・初役による「ヤマトタケル」の観劇随想です。梅原猛原作・三代目猿之助(二代目猿翁)脚本演出によるスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が初演されたのは、昭和61年(1986)2・3月新橋演舞場でのこと。実に38年前のことになります。幸い吉之助はその初演の舞台を見ることが出来ました。吉之助はかなり熱心な猿之助ファンでしたが、その後いろいろ理由あって猿之助の舞台と次第に疎遠になってしまいました。その経緯については別稿「四代目猿之助襲名のヤマトタケル」で触れました。(自分で言うのも何ですが、この論考はなかなか出来が良い。)
*昭和61年・1986・2月新橋演舞場チラシ(左)と令和6年・2024・2月新橋演舞場チラシ(右)
今回(令和6年2月新橋演舞場)で団子が主演のヤマトタケルを勤めることの歌舞伎史的意義(と云うと大袈裟かも知れないが、長年歌舞伎を見てきた者は・これを何某かのストーリーを以て受け取ってしまうわけで、やはりこれは意義と云わねばならないでしょうねえ)のひとつは、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」が本公演によって歌舞伎の財産演目として認知されると云うことです。戦後の歌舞伎でそのような作品は、宇野信夫の「じいさんばあさん」・北条秀司の「井伊大老」とか三島由紀夫の「鰯売恋曳網」とか、いくつか挙げることができます。しかし、歌舞伎のここ50年ほどを考えると、この時期は歌舞伎史のなかで例外的に新作が枯渇した時期で、繰り返し上演に耐えてきた新作は、ほぼ「ヤマトタケル」くらいしかないわけです。ただしその大半が初演者である三代目猿之助による上演でした。初演者が演じている間はそれはまだ古典と呼べません。時代・世代を越えて演じられる作品だけが古典と呼ばれるものになっていくのです。今回、三代目猿之助の孫である団子(20歳)が澤瀉屋の家の芸として「ヤマトタケル」を継承することで、本作も歌舞伎の財産演目として認知され、これから「ヤマトタケル」は古典としての道を歩むことになるでしょう。「ヤマトタケル」興行はこの後も、名古屋・大阪・博多での上演を控えており、これはまだ若い団子にとって、技芸的にも体力的にも、とても大きな・あまりに大きな試練になるわけですが、そこは持前の若さと意欲で無事に乗り切ってもらいたいですね。
実は「ヤマトタケル」初演の時に吉之助は「三代目猿之助のスーパー歌舞伎路線はもういいや」と思って、その後「ヤマトタケル」を見ることをしなかったのです。実演としては今回「ヤマトタケル」を38年振りに見ることになります。このことについては、吉之助はまったく自身の不明を恥じねばなりません。団子のヤマトタケルに「じいじ(三代目猿之助)」の姿を重ねながら今回の舞台を見ましたが、あの頃の三代目猿之助も若かったが、吉之助も若かった。こうして新作が「古典」と成って行くシーンを見ることは、長い間歌舞伎を見続けてきたおかげと云うものですね。(この稿つづく)
(R6・2・21)
20歳の団子のヤマトタケルに感じるイメージは、みずみずしく松の新芽の「若緑(わかみどり)」と云うことでしょうかね。もちろん色はそのままに留まることはなく、やがて芽はまっすぐに伸びて色は次第に濃くなり・力強さを増して行き、さらに色は深みを増して行くことになる。歳を経るにつれ・芸もそのような変遷を辿るものですが、その出発点としての若緑です。
このような若緑のイメージは梅原猛原作・三代目猿之助脚本の初めてのスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」と云う作品にも感じられるものです。このことは当時・梅原猛60歳・三代目猿之助46歳と云うことを考えれば驚くべきことですが、作品から受ける印象がホントに若々しい。意地悪く云えば、ちょっと青臭いかなと思えるくらいに若々しい。これは例えば二代目左団次の新歌舞伎の最初期の、例えば明治44年(1911)5月明治座初演の岡本綺堂作「修禅寺物語」などにも感じられるもので、それは最初期の作品だけに見られる理念的な若々しさであり、別角度から見ればまだ十分練り込まれるまでに至っていない理念の青臭さでもあるでしょうか。ただし理想(信じるもの)に向かってピーンと張り詰めたひた向きさみたいなものは何ものにも替えがたい。これが若さと云うものです。
思い返せばこの若々しさは昭和61年(1986)初演の時にも横溢していたものですが、当時はそれは三代目猿之助の身体から発散されたもののように感じたものでした。もちろんそれで良かったのです。これは初演者として当然のことであるし、もともと歌舞伎と云う芸能は役者の味が全面に出るものです。
一方、今回(令和6年2月新橋演舞場)の舞台を見ると、むしろ作品の若々しさの方を強く感じますねえ。「ヤマトタケル」と云う作品が持つその若々しさ・同時にその青臭さがホントに素直に立ち現れます。それは20歳の団子が無心に役に取り組んでいるからそう見えると云うことなのです。多分三代目猿之助にとって「ヤマトタケル」は「私」の作品だと云うことなのだが、団子の場合はこれは「じいじ」の作品なのであって、だから或る種第三者的な視点に立てているからです。こうして新作はゆっくりと「古典」に成って行くのですね。
団子は「じいじ」のヤマトタケルの映像を繰り返し・繰り返し見たと思います。若干高調子気味の声質が「じいじ」と似るのは血縁だからそんなものでしょうが、微妙な台詞回しで口調が似ると感じる場面が多いのは、映像を見ながら「じいじ」と一緒に台詞を言って稽古したのだと想像出来ます。例えば、これは別稿「魂(たま)を呼ぶ声」で触れたことですが、大詰めで瀕死のヤマトタケルがまさに白鳥と化して天高く羽ばたかんとする場面でヤマトタケルが、
「さようなら、エヒメ。さようなら、ワカタケル。さようなら、ヘタルべ。さようなら、タケヒコ。…」
と仲間に別れを告げる台詞ですが、三代目猿之助は「さようなら」の最後の「ラ」をやはり三音くらい音を高く上げて「ラア」と引き延ばす、相手の名前を呼ぶ時も「エヒメ」の最後の「メ」を音を高めに上げて「メエ」と引き延ばすのです。ワカタケル・ヘタルべ・タケヒコの最後の音も同じく。吉之助はここに魂呼びの様式が表れていると感じますが、これは特に三代目猿之助に特徴的に表れる口調で、「ヤマトタケル」では他の場面でも同様の口調が見られます。意識してか否か、そのような箇所を団子のヤマトタケルは教えられたかのように発声しています。これは多分「じいじ」の言い回しを必死になぞった結果です。今の段階ではそれで十分です。やがてそれは様式として意識されたものになるでしょう。
団子は今は「じいじ」の台詞を必死でなぞらねばならぬ段階です。発声はよく届いているし、今の段階ではこれで十分過ぎるほどの出来であって、現時点で台詞の巧拙を沙汰するのはまだ早いですが、敢えて触れておくと、別稿「左団次劇の様式」で取り上げた二拍子のリズム、タンタンタン・・と畳み掛けるリズムが、三代目猿之助歌舞伎の基本フォルムでもあることを意識してもらいたいと思いますね。団子の台詞のリズムはサラサラして素直であり・変な癖がついていないのは良いことだけれど、台詞を心情を以て押していくことはまだ出来ていない。しかし、まだ20歳の若者なのですから、そういう台詞はこれから学んでいけば良いことです。例えば幕切れの「天翔ける心、それがこの私だ」というヤマトタケルの最後の決め台詞ですが、団子の台詞回しは、
「アマ/ガケ/ルコ/コロ/ソレガ/コノ/ワー/ター/シー/ダー」
という感じにリズムの打ちが平坦になっている印象です。言葉の抑揚とリズムとが合っていないから第1拍にアクセントを置けない。言葉が粒立たない。末尾は声を張り上げているけれど、心情で押して行けません。ここは割り方を工夫してみる必要があります。
「アマ/ガケル/ココ/ロ●/ソレガ/コノ/●ワ/タシ/ダー」
と割れば第1拍にアクセントを置けます。これならば息で押して行けます。ワタシの前で息を貯めて・「ワ」を低く押さえて(つまり「ワ」を二拍目に置いて)・「ワタシ」で三段上がり、「じいじ」はそのようにやっていますね。こう云うことは、何度も何度もムニャムニャ台詞を繰り返して感覚で会得して行くことです。三代目猿之助歌舞伎の台詞の様式は、第1拍にアクセントを置いた二拍子のリズム。これを念頭に置いて「じいじ」の台詞を聞けば、自然に身につくと思います。(この稿つづく)
(R6・2・23)
歌舞伎では役者と演じる役の年齢がかけ離れることがしばしばです。70歳の役者が20歳の役を見事に演じてみせる・それが芸の力と云うものですが、役者と役の年齢が近いと・役者の身体が醸し出す真実味(リアリティ)に思わずハッとさせられることもあるものです。20歳の団子がヤマトタケルを演じることは、当時46歳であった「じいじ」とはまた違った強みです。団子のヤマトタケルを見て作品の若々しさを強く感じるのは、そのせいです。一生懸命やっているから、「ヤマトタケル」と云う作品が持つその若々しさ・同時にその青臭さがホントに素直に立ち現れます。「ヤマトタケル」はホントに若書きの作品なのだなと思います。初めてのものを創ろうと云う意欲に燃えているということですね。「スーパー歌舞伎がどのような形になるか、まだよく分からぬ、しかし、何か途方もなく大きなものを追い求めている気がする」という感じが確かにあります。こう云うところが「ヤマトタケル」の青臭さに通じるのだと思います。
今回(令和6年2月新橋演舞場)は「初演の精神に立ち戻って脚本・演出を練り直した」そうです。初演の感触を思い出しましたが、38年ぶりに舞台を見ても、やはり第1幕・前半のヤマトの国の場面は、若書きのため手探りと云うか・弱いところがあると思います。「早替わりの猿之助のための芝居」という前提に固執しすぎて、ドラマの骨格を弱くしています。小碓命と大碓命の双子の兄弟を無理に二役で兼ねる「必然」はないと思います。(これは兄橘姫と弟橘姫を兼ねることについても同様です。)小碓命の兄殺しを本人の故意のものでなかった(つまりその意味で小碓命は無実であった)としたことで、帝が小碓命をヤマトから放逐し・戦さの日々に追い込むことの「必然」を弱くしてしまいました。聖書を知る人ならば、ここでカインの兄殺しの逸話が重なるはずです。古事記の小碓命の兄殺しは「原罪」にも似た暗い陰を強く感じます。(スサノオの高天原からの放逐(「天つ罪」)も同様です。)実はこの暗い陰こそ古事記のヤマトタケルの逸話全体を貫くものです。まあこんなことは梅原先生には釈迦に説法に違いないですが、多分、梅原先生は三代目猿之助が演じるヤマトタケルを、果てしない夢を追い求める清き英雄に仕立てたかったのでしょうねえ。ここに梅原古代学での読みとはちょっと異なる、芝居のための(三代目猿之助のための)ヤマトタケルのイメージがあったように思います。学問と芝居は違うと割り切って梅原先生は「ヤマトタケル」を書いたのかも知れませんね。しかし、結果的にこれが「ヤマトタケル」のドラマを弱くしてしまいました。
ヤマト朝廷の先鋒としての征服者ヤマトタケルの葛藤、何のために自分はヤマトを放逐されて・果てしない戦いの日々に明け暮れなければならぬのかと云う自問自答が浮かび上がって来ない。 「帝の意向で自分は動いているだけのことだ」という無反省な感じがどこかにある。ヤマトタケルはただ父(帝)に認めてもらいたいために殺戮を続けるのか。このためドラマがヤマトタケルの人間的な成長を呼び起こさないのです。ここの反省がないままヤマトタケルが「天翔ける心、それがこの私だ」とカッコよく死んでしまうと、何だかキレイ事の征服者史観しか残らない印象がします。これは38年ぶりに舞台を見ても同じように思うところです。しかし、梅原先生の「ヤマトタケル」原作に征服される者たちの憤りが描かれていないわけではないので、そこも膨らませた上で脚本に手を入れたいと思う箇所がないではないが、まあそれも含めたところで、「ヤマトタケル」の青臭さと云うことですかねえ。
それにしても三代目猿之助は「歌舞伎の所作と、シェークスピアの台詞と、ワーグナーのロマン性が全部在るようなドラマが欲しい」と云う大変欲張りな注文を梅原猛に突き付けたそうです(対談「ヤマトタケルを語る」での梅原発言〜「演劇界」昭和61年1月号)が、「ヤマトタケル」ではこの注文がかなりのレベルで達成されていることを認めなければなりません。これについては、恐らく三代目猿之助の成功の半分くらいが長沢勝俊作曲の舞台音楽から引き出されていると言って過言ではありません。
例えば第1幕の小碓命の熊襲タケル征伐の場面(ここでは朝倉摂の舞台装置がなかなか良い)、第2幕の焼津の草原で国造ヤイラムの火攻めに遭う場面(ここでは多人数で赤い旗を振り回しながら火炎の行方を表現する猿之助の手法がなかなか斬新である)、走水の海上で弟橘姫が入水する場面(この場面でも猿之助の浪布の使い方が上手い)などの、劇的なシーンにおいてです。第3幕幕切れのヤマトタケルが白鳥になって飛び去る宙乗りシーンもそうです。これらの場面は、長年オペラに親しんできた吉之助でも(歌唱はないけれども)まるでグランド・オペラを見るかのような気分に襲われます。芝居の情緒を盛り上げるだけの背景音楽に終わらず、もっとドラマの核心に踏み込んだ形で音楽が鳴っています。明治37年(1904)初演の坪内逍遥の「桐一葉」初演(これが新歌舞伎の始まりとなる)以来現在まで、数え切れない数の新作歌舞伎が作られましたが、恐らく「ヤマトタケル」ほど音楽がドラマのなかで積極的に関与した事例はないと思います。もし坪内先生がご覧になったのならば「これこそ新楽劇だねえ」と感激するだろうと思うほどです。この「ヤマトタケル」をご覧になった若い方々は、「何だ、生(なま)でなくて録音の背景音楽か」なんて言わずに、音楽とドラマが一体になっているところを良く感じ取ってもらいたいと思います。そこが三代目猿之助が金と時間と手間を惜しまず掛けたところなのです。スーパー歌舞伎は、音楽が決め手です。
若き団子のヤマトタケルの動きは俊敏で、ここでは「じいじ」の動きに伍するものを見せています。周囲の役者たちも動きが良くて・若さ溢れて、これは初演の感触を良く伝えていると褒めて良いと思います。一座のなかには初演当時を知っている役者もいますが、多くが新たに「ヤマトタケル」と取り組む若い役者たちです。強いて云えば、前章で触れた三代目猿之助歌舞伎の台詞の様式(第1拍にアクセントを置いた二拍子のリズム)がやや平坦な印象を受ける役者が何人かいるようです。その辺は世代の交代・時代の推移を確かに感じてしまいますけれど、ともあれ、「ヤマトタケル」の若々しさを・そして青臭さをも思う存分吸い取って、本来の歌舞伎役者の領分である「古典」に新たな気持ちで取り組んでもらいたいですね。
(付記)
今回(令和6年2月新橋演舞場)のヤマトタケルは、隼人と団子とのダブルキャストで上演されています。
(R6・2・25)