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魂(たま)を呼ぶ声


これから本稿で述べる考察は民俗学的な考証を経たものではありませんが、吉之助のなかでは確信があることなので、このようなことを書く人も他には居なさそうであるし、後学のために記録しておきたいと思うのです。

昭和61年(1986)7月歌舞伎座での宇野信夫作「じいさんばあさん」(伊織は三代目猿之助・のちの二代目猿翁、るんは九代目宗十郎)のことでありました。序幕・江戸番町伊織屋敷の幕切れで、これから京都へ赴任せねばならぬ伊織が庭の桜の木の幹に手を触れて、

「・・・きっと帰ってくるぞ」

と呼びかける印象的なシーンがあります。伊織は京都滞在中に不祥事を犯し・加賀へお預けの身となって、屋敷に戻ってくるのは38年後のことになるわけですが、そのことは本稿では置きます。思い出すのは、幕切れで若き日の伊織が桜の木に呼びかける台詞のことです。三代目猿之助の伊織は、「きっと帰ってくるぞ」の最後の「ゾ」の音を・吉之助の予想よりも三音くらい音を高く上げて、「きっと帰ってくるゾオ」と云う風に長く引き延ばして発声したのです。変わった言い回しをするなあ・・と思いました。しかし、妙に気になる言い回しでもあり、今も吉之助の耳の奥に残っています。「じいさんばあさん」の舞台は他の役者でも何度か見ましたが、後にも先にも猿之助のような言い回しをした伊織を見たことがありません。

しかし、実は吉之助は、それ以前にも三代目猿之助が似た言い回しをしたのを、別の役で聞いた記憶があったのです。それは昭和61年(1986)2月新橋演舞場での梅原猛作のスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」初演(ヤマトタケルはもちろん三代目猿之助・のちの二代目猿翁)の大詰めで、瀕死のヤマトタケルがまさに白鳥と化して天高く羽ばたかんとする場面でした。そこでヤマトタケルが、

「さようなら、エヒメ。さようなら、ワカタケル。さようなら、ヘタルべ。さようなら、タケヒコ。…」

と仲間に別れを告げます。猿之助は「さようなら」の最後の「ラ」をやはり三音くらい音を高く上げて「ラア」と引き延ばす、相手の名前を呼ぶ時も「エヒメ」の最後の「メ」を音を高く上げて「メエ」と引き延ばしたのです。この時にも吉之助は猿之助は妙な言い回しをするなあと首を捻りながら聞いたのでした。

その後「じいさんばあさん」の伊織で似た言い回しを再び聞くに及んで、なるほど祖父・二代目猿之助(初代猿翁)の本作初演の伊織も、多分こう云う言い回しをしたのだなあと感じました。劇評でそう云うことを記録したものは見当たらないようですが、この言い回しはひとつの型としてあるもので、猿之助はそれを忠実に踏襲したのだろうと推測しましたが、いまひとつ確信が持てないままであったのは、三代目猿之助以外でこの言い回しを聞いたことがなかったからでした。

しかし、その後、古い録画でよく似た言い回しをもうひとつ見付けました。それは昭和36年(1961)1月明治座での新派公演「婦系図」(泉鏡花作)での、花柳章太郎が演じる早瀬主税の台詞でした。主税は久能山で宿敵河野英臣と対決しますが、この後に東京で病に臥せっていたお蔦が危篤だという知らせが届いて・すぐさま主税は東京へ向かうことにします。この時の幕切れで主税が、

「お蔦、死ぬな、待ってろよ。」

と(お蔦がそこにいる心持ちで)呼び掛けます。この時の花柳の言い回しがまさに、最後の「よ」を三音くらい音を高く上げて「まってろヨオー」と引き延ばしたものでした。

以上、三代目猿之助・花柳章太郎と、三つの事例を挙げました。(吉之助はこの三つの実例しか知らないのです。)ひとつ(じいさんばあさん)は目には見えないが・すぐそこに居るであろう桜の精霊に呼び掛けたもの、もうひとつ(ヤマトタケル)は今まさにあの世へ旅立とうとする者が・心のなかに見える仲間たちの魂へ呼び掛けたもの、もうひとつ(婦系図)はこの世に在る者が今まさにあの世へ旅立とうとする者の魂へ呼び掛けたものです。いずれも魂(たましい、たま)に呼び掛けたものです。

ここに共通したひとつの型(スタイル)が見られる気がします。いずれも最後の音を三音くらい音を高く上げて長く引き延ばす、それは決して強く張り上げるものではなく、弱くても遠くへいるところの何かに思いを確実に届ける心持ちで長く引き延ばす、自分の気持ちを密やかに伝えるように引き延ばす、共通したイメージはそんなところでしょうかね。そこに魂呼びのイメージがあるように思います。

ちなみに折口信夫の小説「死者の書」(昭和14年・1939)のなかに、行方不明となった藤原南家郎女の行方を探し求める人たちの声が、

「こう こう お出なされ、藤原南家郎女の御魂(みたま)、こう こう」

と響き渡る場面があって、これがまさに魂呼びです。「こう こう」と魂を呼ぶ折口の描写が吉之助がイメージするものと同じ言い回しなのかは確証が持てません。(同じであるように感じますけどねえ。)芸能の魂呼びの様式について折口信夫がもう少し詳しく言及してくれていれば良かったのにと思います。

昔の人は、魂と肉体のふたつが揃って人間は生きていると考えたものでした。死というのは魂が肉体から離れてもはや戻ってこない状態を云うので、死んだ人でもその直後に再び魂を呼び戻せば蘇生する可能性があると考えられたようです。このため民間では「魂呼ばい」の風習がつい最近明治頃まであったそうです。例えば死んだ人の枕元で名前を呼ぶ、地方によっては屋根へ上って呼ぶもの、近くの井戸の底に向かって呼ぶものもありました。呼び掛けるのは近親者だけでなく、そこへ居合わせた人であっても良かったそうです。

例えば歌舞伎でも(現行の舞台ではあまり見ませんが)「実盛物語」の古い上方型では上手に井戸が置かれたもので、死んだ小万に腕を継いで蘇生を試みる場面で、九郎助や婆らが井戸に向かって小万の名前を呼ぶ型があったものです。「小万やーい」・「かか様いのう」と呼び掛ける時、その魂を呼び返すためには、大声で名前を叫ぶのはあまり好ましくないように思いますね。それだと魂が驚いて向こうへ逃げちゃいそうな気がします。遠くのところに居る魂を呼び返すためには、小さな声であっても良い、大事な大事なものに呼び掛けるように気持ちを込めて、密やかに密やかに・・・、そのような魂呼びの様式が昔はあったように思うのです。

このように考えてみると、ここは魂呼びじゃないかと思える場面が歌舞伎には少なからずありそうに思いますね。しかし、それにしては様式めいたものを感じた経験が(上記三件以外には)吉之助にもほとんどないわけで、・・と云うことは、伝統芸能のなかに魂呼びの様式があったと考える吉之助の推測自体が間違っているのか、昔はあったが明治以降に魂呼びの様式が廃れたものと考えるべきなのか、どちらかなのは分かりません。そこは民俗学の方にご教授いただきたいところです。まあそう云うわけで、現在のところは吉之助の推測の域を出ませんけれど、歌舞伎を見ながらこう云う想像をするのは面白いと思いませんか。

(R5・6・24)


 

 

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