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十五代目仁左衛門の俊寛

令和5年7月大阪松竹座:「平家女護島〜俊寛」

十五代目片岡仁左衛門(俊寛)、初代片岡千之助(海女千鳥)、十代目松本幸四郎(丹波少将成経)、五代目尾上菊之助(丹左衛門尉基康)、六代目嵐橘三郎(平判官康頼)、初代坂東弥十郎(瀬尾太郎兼康)


1)恋する俊寛

歌舞伎を見ると、俊寛はヨボヨボ老人に仕立てられることが多いと思います。これは演じる役者の年齢にも拠りますが、鬼界ヶ島に独り置き去りにされる俊寛の哀れさを強調したいと云う意図が大きいように思います。草の根食んでも生き延びそうな頑健な俊寛であると哀れでなさそうだからです。しかし、「平家物語」・巻第三・「僧都死去」に拠れば、俊寛は亡くなった時に37歳であったようです。まだまだ血気盛んなお年頃であったのですね。鹿ケ谷の変への関与もそんなところから発したものかと思います。

まあそれは兎も角、歌舞伎の俊寛が史実より大分年上のイメージに仕立てられることが多いなかで、今回(令和5年7月大阪松竹座)の仁左衛門演じる俊寛は、「若さ」を強く意識した俊寛だと云えそうです。そこを興味深く見せてもらいました。仁左衛門は常に若々しいイメージを大事にする役者さんですが、特に今回は俊寛の「若さ」が、都に残した妻東屋への愛情という形で意識されていたと思います。丹波少将と海女千鳥との恋の話を聞いた俊寛は、これを我が事のように喜んで、こう言います。

『珍らしし珍らしし、配所三歳(みとせ)が間、人の上にもわが上にも、恋といふ字の聞き始め、笑ひ顔もこれ始め。殊更海士人の恋とは大職冠行平も、磯にみるめの汐なれ衣。濡れ初めはなんと、なんと。俊寛も故郷にあづまやといふ女房、明け暮れ思ひ慕へば、夫婦の中も恋同然、語るも恋聞くも恋、聞きたし聞きたし、語り給へ』

俊寛の東屋への思いと云うのは「恋同然」で、ワクワク・生き生きした・暖かい人間的な感情を伴ったものです。俊寛は、少将の恋話を聞いて客観的に喜んでいるのではなく、同じく現在恋をする者として共感しているのです。俊寛の東屋への恋と、少将と千鳥の恋が重なっている。ホントに我が事なのです。「今生よりの冥土」と呼ばれる鬼界ヶ島に棲む身にとって、この二つだけが大切な・絶対に守らなければならない希望です。このことが仁左衛門の俊寛であると、よく分かります。イヤ他の役者さんの俊寛がそうでないと言っているわけではありません。多分、仁左衛門の俊寛には「現在恋をする者」の実感と云うか、色気があると云うことなのでしょうねえ。確かにヨボヨボ老人の俊寛だと、この色気は出せませんね。このことが後半になって効いてきます。自分の代わりに船に乗れと千鳥に言う時の俊寛の台詞を見ます。

『アヽこれ、われこの島に止まれば、五穀に離れし餓鬼道に、今現在の修羅道、硫黄の燃ゆるは地獄道、三悪道をこの世で果たし、後生を助けてくれぬか。俊寛が乗るは弘誓(ぐぜい)の船、浮世の船には望みなし。サア、乗つてくれ、早乗れ』

この「俊寛が乗るは弘誓の船」と言う時の仁左衛門の俊寛の表情は、何と言いますかねえ、「ああ何という喜び・・」と云うかのように満たされた、しかし遠くの方を見る優しい目付きでありましたねえ。妻東屋を亡くした俊寛にとって、少将と千鳥の恋だけが、残された自己実現への道なのです。つまり今回の俊寛のキーワードは「恋」、現在進行形の恋と云うことです。(この稿つづく)

(R5・7・7)


2)十五代目仁左衛門の俊寛

仁左衛門の俊寛は、人情味が強い。と云うことは世話の要素が若干強めに出てくると云うことで、そうすると「俊寛」のなかの「平家物語」の政治的構図(時代物の構図)が少し後ろに退くということになろうかと思います。政治的構図を意識することは、作品解釈のうえからは大事なことに違いありません。しかし、実際のところ、「俊寛」の幕切れの感動は、そのような平家物語の世界の構図とはちょっと異なったところから来るものでしょう。それは「愛する人の役に立って死んでいくことの尊さ」(犠牲になると云うことではなく、もっと積極的な意味合いに於いてです)ということで、これだけで「俊寛」の悲劇は十分に立つと云うことなのです。「自分が大切だと感じているものを命を掛けて守り抜く」ということです。このことを仁左衛門の俊寛は、ホントに気負わず自然体の感覚で教えてくれました。

これは前月(6月)歌舞伎座での、仁左衛門のいがみの権太で書いたのと、まったく同じことなのです。平家物語の時代物の構図から無関係にしても、「鮓屋」での権太一家の悲劇は立つと云うことです。仁左衛門は、そこに「鮓屋」や「俊寛」の普遍的視点・とでも云うか「感動の取っ掛かり」を見ているのです。二つの舞台に共通した自然体の感覚(それはどこか世話物的感触に通じる)がするところに、現在の仁左衛門の芸の成熟を見る思いがします。

この俊寛であると見苦しい様を見せないままで終わりそうな気もしますが、まあ人間と云うものは・そう理屈通りに動くものではないわけで、悟っているようでも尚且つ浅ましい姿を晒してしまうのが人間という生き物のなのでしょうねえ。仁左衛門の俊寛は、花道の波布に切れ目を入れて・スッポンを下げて・俊寛が肩まで海水に浸かって・船を呼び続ける場面を写実的に見せました。これはかつては初代猿翁や三代目延若が見せた古い上方での演出法だそうです。

幕切れでの・孤岩の上で沖合いに消えゆく船影を見つめる俊寛の表情は、ここはどんな役者も工夫を凝らす箇所です。誰が良いとか・誰が正しいとかではありませんが、仁左衛門の俊寛の場合は、五体からフッと力が抜けて「ウンウン・・そうだ、これで良かったんだ・・」と微笑みをかすかに浮かべると云う感じであったでしょうか。ホント優しい目でありましたねえ。あの俊寛の目には「弘誓の船」の帆が遠くに映っていたことでしょう。

今回(令和5年7月大阪松竹座)の「俊寛」は、周囲の役者も仁左衛門の俊寛の意図を体現すべく、不足ない演技を見せたと思います。前述のとおり、「平家物語」の政治的構図(時代物の構図)がやや後ろに退いて、世話物的なこじんまりした感触になりましたが、逆に云えば「まとまりが良かった」と云うことになるでしょうか。丹左衛門(菊之助)が「・・見ても見ぬふり知らぬ顔」と鸚鵡して瀬尾(弥十郎)をやりこめる場面は近松の原作にはないものだけれど、上手く出来れば効果的な場面になります。今回は観客によく受けていましたねえ。それだけ観客が芝居に入れ込んで見ていたと云うことですね。(大阪のお客さんだからかもね。)幕切れの俊寛の微笑みが、後味良く感じられた舞台でありました。

(R5・7・11)


 

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