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吉之助の雑談41(令和4年1月〜6月)


〇令和4年6月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜車引」・その2

「車引」の桜丸では、隈をとった江戸荒事の桜丸ももちろん悪くないものですが、見る機会は少ないけれど、隈なしで・襦袢が薄桃色の、上方様式の桜丸は、運命を受け入れてやがて散っていく桜の運命を暗示するもので、吉之助はこちらの方をより好ましく思っています。たぶん桜丸は、「車引」の場で気力を使い果たしてしまったのです。それが「佐太村」での桜丸の切腹へと繋がって行くわけです。

壱太郎の桜丸は、柔らかみと・そこはかとない儚さを感じさせて、祖父(四代目藤十郎)譲りと云うべきか、これはなかなかの桜丸であるなあと思います。後の「佐太村」へ繋がる何かを感じる桜丸です。これはとても大事な資質で、壱太郎はまだ演じたことがないようですが、これであれば壱太郎の「佐太村」の桜丸はさぞ良かろうと期待が出来そうです。

巳之助の梅王は一生懸命やっていて好感が持てますが、「対面」の五郎と同じく若干物足りなさを感じるところは、角々の決めの形(ポーズ)は取れているけれども、形から形へ移行する時の流れのなかに力感が乏しい・タメが乏しいということです。まあ今は形を決めるところで精一杯なのかも知れないが、もう一段腰を落とすことで、大分違って見えてくると思います。もうひとつは、義太夫狂言の台詞の息が詰んでいないと云うのが、ちょっと不満ですねえ。ノリ地の台詞はただカッカッカッと言葉を断ち切れば良いのではありません。息を詰めるということは腹に力を入れて息をタメることですから、つまりは動きに力感が乏しいのと原因は同じで、下腹に力の入れ方が足りないと云うことになるのです。キチンと形は取れているのだから、そこを直せば良い梅王になると思います。

(R4・6・22)


〇令和4年6月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜車引」・その1

「車引」は見取狂言としての地位を既に確立しているので・今更言うても詮無いことですが、見る度に思うのはやっぱりドラマとしての裏打ちが「車引」単体では足りぬ。そこで隈取や見得の形式美だ・様式美だと云わねばならぬことになるわけですが、これも初めて見た時は「ザ・カブキ!」だろうけれど、何度も繰り返してみるほど面白いものでもないと云うのが、まあ正直なところかと思います。しかし、「手習鑑」全体を見ると、「車引」は三段目の端場に当たり、菅丞相が筑紫へ流されて(二段目・道明寺)、それぞれの立場の違いから、三つ子の兄弟の運命が分かれ始めていることが、ここで暗示されるのです。後から振り返って見れば、桜丸が切腹せねばならぬことは既にこの場で明らかなのであり、この場で松王が憎々しい悪役面を見せておくことが、後の「寺子屋」のモドリで強烈に利いてくることになるのです。通しで見れば作品世界を覆い尽くす藤原時平の巨悪も、その凄まじさを舞台で視覚的に実感出来る場面は、この場しかない。三兄弟の流転のドラマが、ここから始まるのです。従って「車引」の後段への伏線たる役割をはっきりさせることで、三段目端場たる・この場の存在意義が理解できると思います。となると、やはり「車引」は、三段目切「佐太村」(賀の祝)とセットで上演されることが定式になってもらいたいと思うわけです。今更言うても詮無いことですが。

このことは見方を変えれば、三兄弟に軽重はないようだけれども、歌舞伎では、三つ子の兄弟のなかでも、桜丸を最も愛おしく扱っていると感じることとも深く関連すると思います。折口信夫は次のように書いています。

『手習鑑における桜丸の位置は相当重大である。作者が、作中の誰を主人公と考えていたかは別として、申し合わせて桜丸に深い興味を持ってかかっている事は、事実である。歌舞伎では、後ほど段々、解釈が変わって来ている。桜丸がどんどん年若な方へ逆行して来ている。女形からも出るというようなことになってきたようであって、抜衣紋の桜丸が踊るような身ぶりをすることになったりする。此れなどは、私にはまだよくわからないが、牛飼舎人だから元服せないでいるので、それを世間普通の男に引き当てて考えて、「前髪立」だから若衆であり、若衆方だから女方からも出るという径路を通ったものであろう。ともあれ、桜丸があんなに綺麗になったのは、歌舞伎芝居のあげた、よい成績だろうと思う。』(折口信夫:「手習鏡雑談」・昭和22年10月)

「寺子屋」においても、松王がいろは送りで「桜丸が不憫でござる」と云って泣きます。これは息子のことをあからさまに泣けない松王が桜丸にかこつけて泣くのだと云う説は昔からあるものだけれど、この場面で・或る意味では唐突に・桜丸の名前が出て来るのも、やはりそれなりの理由があったに違いないのです。松王は(もちろん息子の死が悲しいに決まっているが)ホントに素直に弟の無念を想って泣いています。ここで観客に桜丸のことを思い返してもらいたい、そのことが桜丸に対する供養にもなる、そんな気持ちが作者の方にもあった気がするのです。ですから歌舞伎における「手習鑑」の桜丸は、それほどまでに愛おしく・また大切な人物です。「車引」と「佐太村」は、セットで上演されることで、両者はその存在意義を互いに高め合うことが出来ると思っています。気持ちとしてはその向こうに「寺子屋」も見える。まあそのようなことを今回(令和4年6月歌舞伎座)の「車引」での、壱太郎の桜丸を見ながら考えていたのですがね。(この稿つづく)

(R4・6・20)


〇令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・その7

「誣い物語とは嘘であって、嘘ではない。真実を語るものだ」とする時、作り話(ウソ)の要素は、物語のなかでどのような働きをするものでしょうか。本当にあったこと(事実)をさらに「もっともらしく」聞かせるためのウソもあるでしょう。偶然起こったこと(事実)をあたかも「必然的に起こったが如く」重く仕立てるためのウソもあるでしょう。いずれにせよそれらは、話しの真実味をより高めるためのウソなのです。聞き手を陥れる意図があるならばそれは論外ですが、そうでないならば・まあ別にいいじゃないかと笑える程度のウソなのです。誣い物語のウソの申し訳が滑稽味という形をとることが多いのは、そこから来ています。

『横浜はここ岩亀楼、攘夷女郎として天下に名高い亀勇さんが花も蕾の十七才、夢も幼い紅(くれない)を自ら断ったのは文久二年二月二十二日、二の字、二の字が並ぶのは何の因果か因縁か、今から五年前の出来事でございます。・・・』

玉三郎の「物語り」は、小道具の懐剣の恭しく儀礼的な扱いや、その「もっともらしい」語り口、あたかもその場に居合わせた如くに語るその「真実らしさ」、お座敷客の反応をサラリといなし・お慰みに供する・その軽やかさと愛嬌を自在に見せて、まことに素晴らしいものです。ここでは本当にあったこと(事実)と作り話(ウソ)は混然一体となっており、どちらが実か虚であるか、両者の境目が見分けのつかないところにあります。「物語り」だけでなく、「ふるあめりか」では、全編に渡り玉三郎の「しゃべり」の芸が堪能できます。これをみれば、立役ならば滑稽で見せるところを女形芸では愛嬌でいなすと云うことは、自然に納得されると思います。

ところで「ふるあめりか」初演は、昭和47年(1972)12月・名古屋・中日劇場での文学座公演で、主演のお園は杉村春子が演じました。残念ながら吉之助は杉村のお園の舞台を見ていませんが、以下に吉之助の推測を絡めて、「ふるあめりか」のお園の、最後の台詞について、若干の考察をしたいと思います。

『私がしゃべったのは、全部本当だよ。おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだんだい。私が吉原にいたのも本当だよ。吉原でね、私はあの歌を大・・・(慌てて口を押える)畜生、まだ腰が抜けてらあ。しゃべりませんよ、はい申しませんとも、私なんざ芸者ですからね、あんな偉い先生なんぞとは口も聞いたこともございませんですよ、はい。(汽笛が聞こえる)みんな嘘さ、嘘っぱちだよ。おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい。(汽笛)それにあれからもう五年、藤吉どんはアメリカでいまごろはどうしているんだろうね。このお園さんと来た日にゃ、ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ。・・(間)・・それにしてもよく降る雨だねえ。・・』(幕切れのお園の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・現行台本)

これが最後の台詞(現行台本)です。この場面において、誣い物語の申し訳としての滑稽は、もはや機能していません。どこまでが実で・どこからが虚か・そんなこととはお構いなく、お園の物語りは「フェイク」(ウソ物語り)と決め付けられ、お園は惨めな姿で取り残されます。この場面でお園がかろうじて自分を保っていられるのは、自分が真実を語っていると云う気持ちだけです。それが「おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」という台詞です。なぜならば、お園自身が寂しくって、哀しくって、心細くって仕方がなかったからです。それが、しがない三味線芸者お園の人生であったのです。

そうなると、この次にある「このお園さんと来た日にゃ、ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」と云う台詞の扱いが、とても気になって来ます。この台詞で観客の笑い・拍手を引き起こしてしまうと、お園の人生の哀しみがしんみり伝わって来ない気がします。吉之助ならば、この台詞を叫ばせたくありません。どうも具合が良くないなあと思って吉之助は有吉佐和子の意図を図りかねたのです。ところが「ふるあめりか」初出台本(昭和45年・1970・7月・中央公論)を参照すると、最後の台詞は次のようになっていました。なお昭和45年と云うことは、文学座での初演以前と云うことです。

『(ややあって立とうとするが、腰が抜けている。這いながら、膳を手前にひいて、銚子の酒を茶碗に注ぎ、一息に呷る。)ああ、あーあ、こわかった。(まだ震えが止まらない。)ずぶ濡れだよ、まあ、ふるあめりかに袖はびしょぬれ。畜生!(もう一杯、飲む。たて続けに三杯。そこら中の銚子を集める。)なんだい、へっ、抜き身がこわくて、刺身が喰えるかってんだ。私がしゃべったのは、全部本当だよ。おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだんだい。私が吉原にいたのも本当だよ。吉原でね、私はあの歌を大・・・(慌てて口を押える)畜生、まだ腰が抜けてらあ。しゃべりませんよ、はい申しませんとも、私なんざ芸者ですからね、あんな偉い先生なんぞとは口も聞いたこともございませんですよ、はい。(汽笛が聞こえる)みんな嘘さ、嘘っぱちだよ。おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んでしまったのさ。(汽笛)・・それにしてもよく降る雨だねえ。・・』(幕切れのお園の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・初出台本)

初出台本では、「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれ」の台詞が、ずっと前の方に位置しています。この台詞は叫ぶ台詞ではありません。なるほどこの台本であれば、「亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」が、シリアスに響く気がします。恐らく、昭和47年文学座での初演に当たり、事情あって有吉が書き換えたのが、現行台本であろうと推測します。多分、幕切れをあまり暗くせず、もう少し明るい幕切れに処理したい意図だったのでしょう。とすると、吉之助にはこの改訂は一長一短があるような気がしますねえ。初出台本であると、物語りの語り手が「真実」に却って、お園の人生の哀しみがしんみりと伝わって来るようです。改訂台本であると、確かに幕切れは映えますが、「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」とお園が叫ぶと、ここで観客が思わず拍手してしまうので、語り手の「真実」が消し飛びそうな感じです。

恐らく杉村春子のお園も、「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」と叫ぶところでは、観客の拍手と笑い(もちろん好意的な笑いですが)を若干引き起こしただろうと想像はします。しかし、杉村には女としての「実」がありますから、そこはさすがに滑稽にも愛嬌にもならず、語り手の「真実」(お園の哀しみ)は伝わっただろうと思います。そこがやはり杉村の名優たるところで、その目算がないのならば、有吉は台本改訂をしなかったと思います。

一方、歌舞伎の女形は、女ではない者が女を演じると云う・いわば「誣いる」存在である。それが人生を誣いる「物語り」の語り手の立場と、自然にオーバーラップしてくるのです。そのおかげで「ふるあめりか」では、「誣いる」存在の申し訳としての玉三郎の愛嬌が、絶大な効果を発揮しました。虚と実の狭間に遊ぶ感覚が、まさに女形ならではの面白さです。ところが、最終場面に至り攘夷武士の脅しのために、愛嬌の申し訳が機能しなくなってしまいました。ここで「ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ」と叫んでしまうと、どうしても観客から拍手と笑いが起きてしまいます。そうすると「亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」の台詞もシリアスに伝わらないことになります。なぜならば、ここで却るべき「実」が女形の方にないからです。そこが女形芸の限界であるかなと云うことをちょっと思いますねえ。

しかし、吉之助は玉三郎のお園の幕切れが悪いと言うつもりは毛頭ないのです。多分、玉三郎のお園は、杉村のお園の幕切れとは、少し異なる色合いを見せているのです。横浜にまで流れてきた・うらぶれた三味線芸者としては、玉三郎は綺麗過ぎるせいもあります。玉三郎のお園は、最後の最後にいくらか平静を取り戻し、また明日からもお呼びが掛かれば、またあの「物語り」を何とか続けていけそうな気がします。物語りの語り手の「真実」と云っても、それは一時の感傷に過ぎない。そんなことにこだわっていたら、わたしゃ明日からおまんまを喰って行けませんよと言いそうなお園ではある。まあそれもそうかも知れませんねえ。

*文中に参照した台詞は、有吉佐和子著「ふるあめりかに袖はぬらさじ」はどちらも中公文庫からですが、初出台本は(昭和57年2月出版)、改訂台本が(平成24年9月出版)です。

(R4・6・17)


〇令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・その6

かつて全国各地を放浪して「物語り」を語ってまわる者たちがおりました。盲目の琵琶法師や熊野比丘尼のような芸能者たちです。彼らが苦労して放浪の旅をして語り歩くのは、物語をして人に知ってもらわなければならないことが何かあったに違いなかったのです。それは、罪障消滅のための懺悔の生活をして居るんだと言ふことです。お園の「攘夷女郎」の物語りが次第に作り話(ウソ)で塗り固められていくのは、或る意図を以て「それらしい」話しを仕立てたと云うことではありません。昨今の・いわゆる「フェイク・ニュース」にはそう云うものが多いでしょうが、お園の物語りはそれとは全然違うものです。似ているみたいだけれど、これはまったく違うものです。

話しを事実通り、「亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだ」ままにしておいたのでは、亀遊さんがあまりに可哀そうだ。語り次ぐ私たち(岩亀楼の面々)も、悲しくってやり切れない。だから死んだ亀遊さんを少しでも綺麗に飾ってあげようじゃないかと云う、そんな気持ちから出て来るのです。なぜならば語り次ぐ私たちの人生だって、考えて見れば亀遊さんの人生と大して違うわけじゃない。みんな寂しくって、哀しくって、心細く感じながら必死で生きているんだと云うことなのです。ですから語りのなかで亀遊を立派に仕立てることで、語り次ぐ者たちも何かしら癒されているのです。だからお園が主張する真実とは、「攘夷女郎」の物語りは嘘であって、嘘ではない。真実を語っているのだと知りなさい」ということです。

ところで和事の「やつし」の芸が身分が落ちぶれた哀れさ(シリアスな要素)を強調しながら・その傍らで三枚目的な(滑稽な)演技を見せると云うことは、先に触れました。演技のなかに実の要素と滑稽な要素が交錯するわけです。この場合、滑稽な要素がウソを云っているということではないのです。しかし、面子やら建前やらで本音を素直に表現できない複雑な状況があって、そのため本音を茶化してみたり、時にわざと本音でないことを混ぜてみたりします。そう云う状況は心理的にストレスが掛かるわけで、だから声の調子が上下してみたり、テンポが微妙に揺れたりします。同時代の、江戸荒事の台詞のような急激な変化ではなくて・緩慢な変化ですが、これも歌舞伎のアジタートな表現のひとつなのです。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」を参照ください。)ただし、これは和事の立役の台詞術のことで、女形の台詞術ではありません。初代藤十郎の相手役であった初代芳沢あやめは、藤十郎の息を当然承知していたでしょうが、当時の女形の台詞術ではまだそれは実現できませんでした。しかし、後年人形浄瑠璃へ移籍した近松門左衛門の「嫗山姥(こもちやまんば)」の八重桐の廓噺の「しゃべり」が、そこに藤十郎の「しゃべり」の女役への応用の可能性を示してくれています。それは、実の要素を女形の愛嬌で紛らせて聞かせる「しゃべり」の芸です。もっとも歌舞伎化された「嫗山姥」では、八重桐のこの場面は「しゃべり」(仕方話)ではなく、「おどり」みたいになってしまいました。やはり在来の女形の「しゃべり」の芸では、具現化が難しかったのかも知れませんねえ。

そう考えると、玉三郎の「しゃべり」の芸が、在来の女形の「しゃべり」と一線を画す、明治維新の時点で進化を止めてしまった歌舞伎の女形の、そのもうちょっと先の、新しい感覚を行っているということの意味も、自ずから明らかだと思うわけです。実の要素と愛嬌とが交錯する「しゃべり」の芸と云うことです。(この稿つづく)

(R4・6・13)


〇令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・その5

「ふるあめりか」で玉三郎が芸者お園を演じるのは、平成24年(2012)10月赤坂ACTシアター以来10年振りということで、歌舞伎座であると平成19年(2007)12月以来の上演ということになります。今回(令和4年6月歌舞伎座)の玉三郎の芸者お園を見てひときわ印象的であったことは、玉三郎の特質である「軽やかさ」が、これまでよりも前面に出て見えたことです。玉三郎の「軽やかさ」が水を得た魚のように心地良く泳いでいるように感じました。女形が持つ「虚」の要素(つまり「誣いる」要素と云うことです)とその申し訳としての「愛嬌」が、ほどよいブレンドと軽快なテンポで、玉三郎の「しゃべり」の芸の軽やかさとなって現れたということです。

恐らくそれは今回が新派を主体とする共演メンバーであったことにも拠ると思います。そう書くと平成19年(歌舞伎主体)・平成24年(新劇主体)の共演メンバーが良くなかったように聞こえたかも知れませんが・そう云う意味ではないですが、しかし、今回の新派主体の共演メンバーは玉三郎にとってより「水が合っている」と思うのです。だから玉三郎が、自然に振る舞えるのです。やはり玉三郎には新派が似合うなあ・・もしかしたら歌舞伎よりも・・ということをチラッと考えてしまいますが、これは玉三郎にとって全然不名誉なことではないと思いますね。別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」でも触れたように、女形・玉三郎は、明治維新の時点で進化を止めてしまった歌舞伎の女形の、そのもうちょっと先の、新しい感覚を行っているのです。

平成19年歌舞伎座での上演では、歌舞伎の共演メンバーが妙にはしゃいだ印象を受けました。ホントは歌舞伎役者ならばこれを「古典的に」落ち着いた色調で処理すべきところなのですが、そこで変に頑張っちゃってドタバタ喜劇に処理してしまったのです。その筆頭が故・十八代目勘三郎で、滑稽を煽る印象が強いものでした。勘三郎の岩亀楼主人を見ると、「客なんて自分の聞きたい話しを勝手に聞きたがってんだから、例えウソでも適当にあしらっておけば、それでいいんだよ」と言う感じに見えましたねえ。まあそういう解釈もあり得ることとは思いますが、今回(令和4年6月歌舞伎座)の鴈治郎であると、「お客は自分の聞きたい話しを聞きたがっているのだから、そのようにして差しあげるのが、私らの務めと云うものでしょ」と言う感じに見えます。ホンのちょっとの違いのようであるけれども、それが大きな違いになって芝居のなかに表れるのです。鴈治郎の岩亀楼主人はトボケた味わいのなかに、人の良さと・そのなかで誣い物語りを生み出す無垢さが見えるようで、これはとても良い出来だと思います。総じて今回の出演メンバーはほどよく落ち着いて、バタバタしたところが少ない。おかげで玉三郎の芸者お園が随分演りやすくなったと思います。(この稿つづく)

(R4・6・12)


〇令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・その4

「誣い物語とは嘘であって、嘘ではない。真実を語っているのだと知りなさい」と云うことは、「人生の真実を誣いる」演劇という芸能について目を転じて見ると、これもいろんな場面に当てはまると思います。芸能の演技が「物真似」から発したことは、よく知られています。断じてしまえば、それは嘘事に違いありません。つまり「物真似」が滑稽味や諧謔味を重要な要素とすることも、「誣いる」という行為の原義から来るのです。和事の「やつし」の芸が身分が落ちぶれた哀れさ(シリアスな要素)を強調しながら・その傍らで三枚目的な(滑稽な)演技を見せるのも、そこから来ます。つまり和事芸における真実とは、「ここに見せている惨めな姿は、本当の私の姿ではない、本当の姿は別のところに在る」ということなのです。(別稿「和事芸の起源」をご参照ください。)

歌舞伎に於いて「誣いる」要素の最たるものが、女形であることは言うまでもありません。しかし、普段歌舞伎を見る分には、女形の滑稽ということにあまり思いが至らないかも知れません。実は女形芸にも滑稽な要素が潜んでいるのです(別稿「現代演劇において女形が象徴するもの」を参照のこと)が、歌舞伎のなかでの女形芸は、滑稽な印象を引き起こさないように、独自の様式感覚のなかでしっかり守られているのです。そうでないと演劇上のジェンダーが崩壊してしまいます。そうならないように長い歴史のなかで歌舞伎が編み出した様式感覚で守っているのです。しかし、女形がジェンダーのズレの感覚を意識的に駆使する場面がやはりあります。それは、女武道とか悪婆芸などで見ることが出来るものですが、単純に滑稽という形では現れません。それは、女形の「愛嬌」と云う、やや捻った形で現れます。この場合の女形の真実とは、「ホントはこんなことはやりたくないんですよ、やりたくないんだけど、愛する人の為だから仕方ないのよ」ということです。(別稿「悪婆の愛嬌」・「源之助の弁天小僧」を参照ください。)

さてこれでやっと玉三郎の「しゃべり」の芸について考える準備が整いました。別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」でも触れましたが、伝統芸能としての女形の「しゃべり」の芸は、もちろんそれは従来からも在るものですが、どちらかと云えば、それはアクが強く・重ったるく粘って・しかもどこか暗いと云うのが、これまでの印象だったのではないかと思います。ところが、玉三郎の「しゃべり」には、そのような重ったるいところがなかったのです。玉三郎の「しゃべり」は、軽やかでした。もちろん様式的な裏付けがしっかりあるのだけれども、伝統的な女形のエグ味から開放された軽やかさがあったのです。この「軽やかさ」は、玉三郎の「愛嬌」と言い換えて宜しいものだと思いますね。そこが女形玉三郎が現代的である所以だと、吉之助は考えているのです。

しかし、玉三郎の体質にピッタリ嵌った役は、残念ながら、歌舞伎にはそれほど多くなかったのです。玉三郎の美しい姿を拝める役はもちろん多くあります。役の解釈において玉三郎の優れた理解力に感心させられる役ももちろん多い。しかし、「日本橋」のお孝や「ふるあめりか」のお園ほど玉三郎の「しゃべり」の芸を堪能できる役は、残念ながら歌舞伎にはそう多くはありません。それでは誣い物語りを扱った「ふるあめりか」のドラマのなかで、玉三郎の「しゃべり」の芸がどのような効果を発揮しているか、それについては次章で考えます。(この稿つづく)

(R4・6・8)


〇令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・その3

別稿「和事芸の起源」をなぞることになりますが、「物語り」とは、もともと歴史上あった事柄・事実を語り伝えるのが、本来のあり方でした。しかし、時代が下ってくると、事実でないことを「物語る」ということも出てきます。これを「誣(し)い物語」・あるいは「作り物語」とも言います。しかし、「物語り」はあくまで事実を語り伝えるところに信用があるわけなので、真実味を以って真実めかして語り・これを相手も真剣に聞くことに意味があるわけです。しかし、作り話であるならば、どこかに作り話であることの申し訳が必要になります。そうでないとそれは人を騙すことを意図した「嘘話」になってしまうからです。「これは実は作り話なんでーす・そうかそうかそうだろな」という暗黙の了解が作り手と受け手にあった上での「物語り」なのです。

誣い物語であることの申し訳は、滑稽味・諧謔味という形をとることが多いようです。例えば平安初期の「今昔物語」や「宇治拾遺物語」などに滑稽味のある作品があるのは、そうした理由から来ているのです。しかし、一方で「源氏物語」のように比較的まじめな作り物語もあるわけですが、これもどこかに滑稽味・諧謔味をその要素に含んでいると考えるべきで、その間に厳密な区別はできないのです。こうして長い歳月を掛けて「まじめな誣い物語」が出来上がって行きます。

物語りを素直に信じて感動する者は少なくないでしょうが、どうせ嘘話だとシニカルに笑う者もいるだろうし、どこまでがホントでどこがウソだと始終疑いの目付きで聞く輩もいるでしょう。お園は機転が利く女ですから、聞き手の反応を察知して、話しの方向をパッと変えてしまいます。こうして「物語り」は成長して行きます。このような物語り」の成り立ちを踏まえて「ふるあめりか」の舞台を見ると、そこに映るものは、「攘夷女郎の死」という誣い物語の生成と消長の過程(プロセス)なのです。お園は、自分の意志に係わらず、「物語り」の語り手の役割を負わされてしまいました。これからもお園は「攘夷女郎」を語って生活していかねばならないでしょうが、こうなった以上、それは辛いものにならざるを得ないでしょうねえ。「攘夷女郎」の物語りが既に世間に流行らなくなって来たことは、舞台からも察せられます。

ですから誣い物語りを扱った「ふるあめりか」のドラマが滑稽の様相を呈することは、ごく自然なことではあるのです。しかし、幕切れの状況に於いては、滑稽の申し訳がもはや機能しなくなっています。ここに見えるのは滑稽さではなく、惨めさです。だからお園は、改めて「物語り」の本義に立ち返らねばなりません。「物語り」は本当のことを語るのが本義です。だからお園は、「おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」と言うのです。これがお園にとっての真実であるからです。ですからここでお園が主張することは、「誣い物語とは嘘であって、嘘ではない。真実を語っているのだと知りなさい」と云うことです。幕切れのお園の、この台詞は、シリアスに響いて欲しいと思います。(この稿つづく)

(R4・6・7)


〇令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・その2

幕末の開港間もない横浜の遊郭「岩亀楼」で、花魁亀遊が自害してしまいました。この事件が瓦版に「外国人に買われることを拒否して死んだ攘夷女郎」と大々的に取り上げられ、噂を聞きつけた客で岩亀楼は大いに賑わいました。このため亀遊の死の真相を知る芸者お園は、心ならずも「攘夷のヒロイン」を物語る役廻りとなり、自分でも何が何だか分からなくなって、話にどんどん尾ひれがついていく・・・・と、まあ「ふるあめりか」の粗筋を紹介すれば、こんなところかと思います。お園は、いつの間にやら自分が周囲を動かしているような錯覚に陥っていたかも知れません。しかし、お園がしゃべった或る「事実」を好ましからぬと感じた連中から脅迫を受けて、得意満面だったお園は、惨めに打ちひしがれて一間に残されます。この芝居は、世間に横行する「フェイク・ニュース」(事実とは違う作り物の報道)とか、逆にSNSで本音を語ったつもりがその意図に係わらず「誹謗中傷」だと受け取られて大揉め事になってしまうとか、現代にもよくありそうな話しに思えます。

もちろん「ふるあめりか」はそのようにも読むことが出来ますし、多分、それが普通の、現代的な読み方であろうと思います。しかし、伝統芸能である歌舞伎でこの戯曲を取り上げるならば、歌舞伎とは義太夫狂言など語り物芸能の系譜を色濃く引き継ぐ芸能であるわけですから、この戯曲を新劇スタイルでやる時とはちょっと異なる色合いで、この戯曲が見えて欲しいものであるなあと吉之助は思うのです。別稿物語る者と語られる者」は、そのようなことを論じたものです。折口信夫は次のようなことを書いています。

『語る人が、見て居た人で、同時に物語を生活にして居る人だと考えられている。それで、非常に長く生きて居る人があったと(世間に)考えられている。(中略)何の為に生きて物語をしていなければならないか。聖なる仕事をせんが為に長く生きて居ると見える者もある。つまり長生きして語り歩くのは、物語をして人に知ってもらわなければならないことがあったのだ。つまり罪障消滅のための懺悔の生活をして居るんだと言ふ考えにはいってくるのである。』(折口信夫:「八島語りの研究」・昭和14年2月)

このことを念頭に置いた上で、幕切れのお園の台詞を読んでみてください。

『私がしゃべったのは、全部本当だよ。おいらんは異人さんに身請けされかかって、それで喉突いて死んだんだい。私が吉原にいたのも本当だよ。吉原でね、私はあの歌を大・・・(慌てて口を押える)畜生、まだ腰が抜けてらあ。しゃべりませんよ、はい申しませんとも、私なんざ芸者ですからね、あんな偉い先生なんぞとは口も聞いたこともございませんですよ、はい。(汽笛が聞こえる)みんな嘘さ、嘘っぱちだよ。おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい。(汽笛)それにあれからもう五年、藤吉どんはアメリカでいまごろはどうしているんだろうね。このお園さんと来た日にゃ、ふるあめりかに袖も何もびしょぬれだよ。・・(間)・・それにしてもよく降る雨だねえ。・・』(幕切れのお園の台詞:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」)

お園は脅された恐怖で混乱しており、最初は自分がしゃべったことは全部本当だと言い、次にはみんな嘘っぱちだと言っています。しかし、そんなところから分かって来ることは、「語られていることは事実か、それとも嘘か、この話しはどこまで信じて良いものか」という問題は、実は大したことではないということです。そんなことは、実はどうだって良い事なのです。物語を語るお園の気持ちは、そう云うところにはない。真実は、「おいらんは、亀遊さんは、寂しくって、哀しくって、心細くってひとりで死んだんだい」と云うところに在ります。お園には、物語をして人に知ってもらわなければならないことがあったのです。なぜならば、お園もまた、寂しくって、哀しくって、心細くって仕方がなかったからです。つまり、お園が「攘夷女郎」の語りを続けるのは、自らの罪障消滅のための懺悔の生活をして居ると云うことです。それがお園の人生であったのです。

「物語りを語る者」と云う伝統芸能の視点からは、有吉の「ふるあめりか」はそのように映るわけです。戯曲の細かいところを読んでも、有吉は「物語り」の成り立ちを確かに分かって書いていると思います。かと云って、この戯曲を、事実に尾ひれがついて次第に成長していく「フェイク・ニュース」と、それを信じて振り回される人々のドタバタ喜劇と読んだって、それが間違いだなんてことは決してありませんがね。それもまたこの戯曲の一面ではあります。(この稿つづく)

(R4・6・6)


〇令和4年6月歌舞伎座:「ふるあめりかに袖はぬらさじ」・その1

今月(令和4年6月)歌舞伎座第3部は、もともと「与話情浮名横櫛」半通しが出る予定でしたが、切られ与三郎に出るはずであった仁左衛門が帯状疱疹で降板したために、急遽「ふるあめりかに袖はぬらさじ」に変更となったものです。こういう場合代役を立てずに演目事態が差し替えになってしまった事例を俄かに思い出せないのですが、既に前売りが始まっていた時点での突然の発表であったので、これにはちょっと驚きました。こうなったのにはいろいろ事情があると察しますけれど、ひとつには「自分が興行を守る」という玉三郎の並々ならぬ決意を感じますねえ。実際今回の演目での玉三郎(芸者お園)の出番・台詞の多さはお富とは比較にならぬものです。芝居のなかでの主役の比重が突出しています。玉三郎の「しゃべり」の芸が味わえるということならば、歌舞伎にこれに匹敵する役はないと云えるほどのものです。玉三郎がお園を演じるのは11回目(歌舞伎座での上演は2回目)で、女形玉三郎の芸を語る時、これを抜きにして語ることが出来ない当たり役のひとつです。

しかし、恐らく仁左玉の久しぶりの与三郎とお富での共演に期待したファンは多かったであろうし、「せっかくの歌舞伎座出演なのに新劇の玉三郎なの?」と云うガッカリが多少あったのかも知れません。客席の入りは玉三郎出演にしてはちょっと寂しい感じがします(終演が9時を過ぎることも影響しているのかも)。が、まあ悪いことは言いませんから、玉三郎の久しぶりのお園は、是非見ておいた方が良いとお勧めしておきます。別稿「玉三郎の稲葉屋お孝」でも触れましたが、「日本橋」のお孝や「ふるあめりか」のお園ほど玉三郎の体質にピッタリした役を、歌舞伎は十分に提供できなかった・・・玉三郎の天才は、結局、歌舞伎という器に収まり切れなかったのだなあ・・・ということを思いますねえ。女形玉三郎を、或いは歌舞伎の女形を考えるための材料を、この「ふるあめりか」の舞台は提供してくれます。(この稿つづく)

(R4・6・5)


○令和4年5月国立劇場:前進座の「杜若艶色紫」・その4

矢之輔の願哲も、間が抜けたところがある悪役を軽妙に演じて、なかなか面白く見せました。願哲は武士に変装して、「自分が八つ橋を身請けした次郎左衛門である」と偽って万寿屋寮に乗り込みます。次郎左衛門は次郎左衛門でも、佐野次郎左衛門ではなくて船橋次郎左衛門だというのは観客が笑えるところで、初めから尻尾を出してしまっている、これは法界坊にも似たところがある・ちょっと間抜けた悪坊主なのです。願哲はお六に協力して首尾よく事を運んだつもりなのに、お六が自分の事情で勝手に方向転換してしまうものだから、何がなんだか分からないままお六に殺されてしまって、ちょっと可哀そうなところがありますが、この「杜若」を見ても結局願哲がどういう位置付けの役であるのか、よく分からないところがあります。逆に云えば、願哲というのはそのような軽い感じの悪役であると云うことなのです。

このことは、文化12年(1815)初演五代目半四郎の土手のお六の悪婆の役どころの対照からも考えることが出来そうです。悪婆には「ホントはこんなことはやりたくないんですよ、やりたくないんだけど、愛する人の為だから仕方ないのよ」という愛嬌が必要であることは、前章で触れました。そのような悪婆とコンビを組む立役が、ニヒルで冷酷極まりない真の悪人であろうはずがありません。その相手役は、ちょっと抜けた、悪(ワル)と云っても、お人好しなところがどこかにある悪人と云うことになるでしょう。

別稿「南北の感触は何処に」でも触れましたが、五代目幸四郎は稀代の実悪役者と云われた名優でした。だから世間のイメージはどうしても、例えば仁木弾正のような、スケールが大きい時代物の重量感を持つ大敵になり勝ちです。しかし、この「杜若」の願哲や・「於染久松色読販」の鬼門の喜兵衛を見ると、ちょっと小振りで・動きがチョコマカと軽妙で、間が抜けたところがあって、マンガチックな端敵なのです。五代目半四郎の土手のお六の引き立て役に廻っても、そんなことはちっとも気にしない、そんな五代目幸四郎のきさくな人柄さえ感じてしまいます。だから願哲のような役を大敵のイメージで演じてしまうと、ちょっと具合が良くない。少なくとも(五代目幸四郎初演の)南北の生世話の悪役に関しては、「スケールが大きい・冷酷極まりない悪役」と云う思い込みを捨てた方が宜しいのではないでしょうかね。矢之輔の願哲を見ていると、そのような道哲の軽いイメージが湧いてくるのです。前進座の舞台は、「南北の悪」を考える時の良いヒントになると思います。

(R4・6・2)


○令和4年5月国立劇場:前進座の「杜若艶色紫」・その3

今回(令和4年5月国立劇場)「杜若艶色紫」は、「五代目河原崎国太郎33回忌追善」と銘打たれています。国太郎が亡くなって、もう33年になるんですねえ。いつぞや書きましたが、何を隠そう吉之助が初めて見た歌舞伎の女形が国太郎でありました。今から50年前のことです。吉之助が生(なま)で見た国太郎の舞台はそれほど多いわけではないですが、幸い悪婆物では「切られお富」を見ることが出来ました。国太郎はバラガキの味わいのする貴重な女形でありましたねえ。

「バラガキ」と言う言葉は、現在ではすっかり死語になってしまいました。バラガキとは、日常会話に近い、散文的なパサパサした写実の風(ふう)です。テンポは早く・歯切れよく、台詞の末尾を引き伸ばすことはしません。そのような乾いた台詞廻しから引き出される悪婆の役どころの印象とは、彼女らの性根が決して曲がっていないと云うことです。育ちは悪くて・言葉遣いは粗暴だけれども、根は善良である。自分の信条に忠実で、一生懸命ただひたすらに生きていると云うことです。別稿「悪婆の愛嬌」で触れましたが、出刃包丁を振り回しながらも、「ホントはこんなことはやりたくないんですよ、やりたくないんだけど、愛する人の為だから仕方ないのよ」という愛嬌が切られお富から滲み出るのは、性根が善人(お人良しなくらいの善)に根差しているからです。「杜若艶色紫」の土手のお六も同じ様なもので、最初は亭主(伝兵衛)の身内の金五郎のために悪事に加担するということであり、途中で八つ橋が探していた妹であったということが分かって軌道修正することになります。願哲はどうしてお六が豹変したのか最後まで理解出来なかったでしょうねえ。お気の毒なことです。しかし、お六のなかでは決して行動はブレたわけではなく、性根は真っすぐ善に根差しているのです。

もうひとつ大事なことは、五代目国太郎にとっての女形芸の在り方がサッパリと健康的な感触で、そこが悪婆の愛嬌と相通じるところがあったと云うことだと思います。別稿「悪婆についての考察」でも触れましたが、女形が出刃包丁を振り回すような振る舞いをしても、立役が悪女を勤める場合(例えば岩藤や八汐)とはまったく違うということ、それは或る種の露悪趣味であって・女形の慎ましい清楚なイメージをぶち壊すことを意図するものですから、まったく違うものだということです。(ここのところは現在ではしばしば混同されています。)悪婆の役どころは女形芸の延長線上にあるもので、女形の慎ましい清楚な善のイメージをしっかり守ったものです。五代目国太郎の悪婆は、そこのところを再認識させてくれるものでした。杜若半四郎(五代目半四郎)が演じる悪婆とはそう云うものであったに違いありません。

今回(令和4年5月国立劇場)の(先代の孫に当たる)六代目国太郎も、先代のサッパリした悪婆を意識した役作りで、なかなか良かったのではないでしょうか。先代よりは見た目に線が太い印象がするせいか、このため愛嬌というところがいまひとつであったかも知れませんが、まあそれは個性の違いと云うことです。自分の信条に忠実で・ひたすらにまっしぐらと云うお六の生き様をしっかり見せてくれたと思います。(この稿つづく)

(R4・5・29)


○令和4年5月国立劇場:前進座の「杜若艶色紫」・その2

「杜若艶色紫」(かきつばたいろもえどぞめ)は文化12年(1815)5月・江戸河原崎座での初演。題名に悪婆役で鳴らした五代目半四郎の俳名「杜若(とじゃく)」を利かせたところが味噌で、半四郎が蛇遣い女の土手のお六と遊女八つ橋の二役を勤めて、芝居の芯を取っています。五代目幸四郎がワキへ回って修行者願哲を勤め、七代目団十郎がお守り伝兵衛と佐野次郎左衛門の二役を勤めました。筋としては、お六と伝兵衛、八つ橋と次郎左衛門、小三と金五郎という、三組の男女関係が複雑に絡み合いますが、行き違いから次郎左衛門が八つ橋を殺してしまい、さらにお六と八つ橋が実は姉妹だったという新たな事実が発覚して、事態がよじれて行くという展開を見せます。後年の南北の「四谷怪談」(文政8年・1825)などと比べても、主題と云うほどのものはあまりなくて、役者それぞれの個性を生かした茶番劇の連続と言った方が良いかも知れません。

近代演劇においては、作家が書いた戯曲がまず最初にあり、作品世界に基づいた筋(ストーリー)というものがあって、役者がこれを具現化するわけです。だから戯曲(テキスト)が記したもの(主題)を如何に血肉化するかと云うところに役者の仕事があるのです。戯曲が主であって、役者が従であると、一般的にはまあそう云うことになるかと思います。そのような視点からすると、今回の「杜若艶色紫」のように、まともな「筋」を持たず・役者を生かすための素材にすぎないような芝居は演劇の「前近代的な形態」であると見える、そのような見方もあるわけです。しかし、よじれよじれた筋のなかから、観客それぞれの心のなかに、何か「世界」の様相が浮かび上がって来るであろう、各々それを見詰めてくれと云うことならば、これはベケットのような現代演劇にも通じる、南北の「前衛性」(未来性)であると受け取ることも出来るかも知れません。別稿「南北の台詞は現代に蘇ったか」では、この問題を取り上げています。しかし、漫然と「かぶきらしさ」に浸っているのならば、それは無理なことです。そのためには演技のエッジが立っていなければなりませんね。

『今では、ほとんど日の目を見ることもない、歌舞伎正本類を見ても考えさせられることだが、この狂言は果たしてどれが主役になるのだろうと思うようなのが、相当にある。またそう云うものの中に、幸い今も演出者が伝承されていて、時々舞台にのぼっている戯曲などのあることがある。(中略)茶番のつもりであったものが、だんだん真の写実劇になった例が、ほとんどすべての歌舞伎劇を例に取ることが出来る。(中略)遡れば、多くは茶番類似のものが、そのくらいの自覚しか持たぬ人々の手で行なわれていたのであった。だから歌舞伎芝居は、この発生様態の悪臭を洗い落とす必要が、今でもある。散切り物なども世話狂言の引き続きと云えば正当なものと考えられそうだが、世話物のなかでも、殊にあてこみ・場当たり・一夜漬けの傾向の甚だしく残って見えるものである。殊に、自然主義で行かねばならぬ写実劇に、最も不調和な台詞廻しや、こなしの問題が、江戸芝居のままに、今までも持ち越して来た。そんななかにも、名優の練り上げた型が、不調和や不自然を幾分滑り良くして、それほど噴き出さずに済まして居られる程度に見えるものもあるが、これも慣れてきたしびれに過ぎない。』(折口信夫:雑感・昭和21年3月)

ここで折口が回りくどく書いていることは、歌舞伎が現代に真の写実劇として(つまり演劇芸術として)立つために、洗い落としていかねばならぬ「悪臭」があると云うことです。そう云うと、長年の歌舞伎ファンならひと言物申したくなる方は多かろうと思います。しかし、そこは折口自身がそのような「かぶきらしさ」の悪臭の呪縛から終に逃れることが出来なかった人であったと云うことを思い出して、まずは折口の言うことを聞いて欲しいと思います。そうすると、南北の生世話芝居の延長線上に、写実劇の可能性(未来性)が見えて来るだろうと思うのです。(この稿つづく)

(R4・5・26)


○令和4年5月国立劇場:前進座の「杜若艶色紫」・その1

国立劇場での前進座公演「杜若艶色紫」(かきつばたいろもえどぞめ)を見てきました。吉之助は昔から前進座の南北物を評価しています。歌舞伎の南北物では、文化文政期前後の初演から切れ目なく上演されて来たのは、「四谷怪談」など限られた演目に過ぎません。南北物の伝統は幕末までで途切れているのです。その後、大正から昭和初めの・第1次南北ブーム、戦後の昭和40〜50年代の・第2次南北ブームで、いくつかの作品が復活されて現行レパートリーになっていますが、歌舞伎座で上演される南北物は、幕末歌舞伎のテクニックで処理されるので、間延びが甚だしい。一例を挙げると、「桜姫東文章・桜谷草庵」で仁左衛門の権助が桜姫の胸元に手を入れてニンマリとして「久しぶりだナ〜ア〜ァ」と云う、その台詞廻しがまるで切られ与三郎です。と云うかここで与三郎を重ねていると云うのが正直なところじゃないでしょうかね。南北は台詞の末尾を引き伸ばさないのです。引き伸ばすのは、南北の時代から50年ほど下りますが、幕末歌舞伎のテクニックです。台詞のしゃべりの速さももっと早い。そう云うわけで、空ッ世話の南北を歌舞伎座で見る期待はあまり持てません。

そこで前進座に期待が掛かることになるわけです。今回(令和4年5月国立劇場)の「杜若艶色紫」上演ですが、休憩時間を除いて大体2時間25分くらいで上げています。松竹歌舞伎で同じ内容をやるとすると、恐らく3時間で収まらないだろうと思います。これは役者の台詞のしゃべりの速さの違いだけではなく、いろんな所作の間(ま)の取り方・下座の扱いの違い、要するに現在の我々がこれが「かぶきらしい」と感じる様々なテクニックが積み重なって、結果的にそれくらいの時間差になって表れるのです。今回の上演を見ても、前進座の芝居は、さらっとしてテンポが良い。これが大事なことなのです。筋がこんがらがって分かりにくい(これは南北の原作のせい)ですが、そんなことおかまいなしに芝居がトントン運んで行くので、ちょうど遊園地のジェットコースターに乗っているようなもので、場面場面の面白さをアレヨアレヨと愉しんでいるうちに、瞬く間に時間が過ぎて行く。そうすると筋の細かい辻褄なんてどうでも良くなると云うか、終わってみれば「まあそんなところか」ということで何となく納得した気分になる。「杜若艶色紫」の愉しみ方は、これで十分だと思うのですねえ。

日頃松竹歌舞伎を見慣れた目からすると、最初のうちは前進座の役者さんたちの所作・台詞廻しがアッサリし過ぎに思えると云うか、薄味と云うか、「もうちょっとタップリと決めてくれないかねえ」と不満を感じる方が少なからずいらっしゃることでしょう。幕末期の江戸の閉塞した気分が持つ暗くて重めの・ちょっと湿り気を帯びた芝居のテクニック、そう云うものを明治以降の歌舞伎は「江戸のかぶきらしい感覚」であるとして大事に守って来ました。そのような長い年月をかけて表面にこびりついた古色を取り去って、文化文政期前後の南北の芝居を改めて見直してみると、それは存外アッケラカンと明るく健康的なものかも知れないと想像してみて欲しいと思います。吉之助は前進座の舞台が正解だと言っているわけではありませんが、前進座の舞台はそのようなことを考える良きヒントを与えてくれると思います。(この稿つづく)

(R4・5・25)


○六代目菊五郎の「娘道成寺」映像・その2

さらに驚いたことは、鈴太鼓の踊りで六代目が上半身を思い切り前後に揺らし、全身を使って激しく踊っていたことです。この映像を初めて見た時には、「これではまるで新体操だなあ」と唖然としてしまいました。もし七代目三津五郎が舞台端からでもこの踊りを見ていたら苦笑いしたかもと思うほどです。多分これは日本舞踊の骨法からは逸脱した踊りだと思います。お手本通りに踊るならば、ここはホントはもっと身体の軸を残して踊らなければならないでしょう。しかし、ここで何か熱いものが湧き出て六代目を内面から激しく揺さぶっていることも、無声の映像からでもビンビン伝わって来るのです。

もし吉之助は生(なま)の舞台でこの六代目の踊りを見たならば、そのダイナミックな踊りに「これはもう日本舞踊なんて範疇を越えたダンス・パフォーマンスだ」と興奮してしまうと思いますねえ。吉之助は、これと似たような感じの踊りを生で見た記憶があります。それは十八代目勘三郎の襲名の時の「娘道成寺」でした。あの時の勘三郎の踊りも、特に鞨鼓から鈴太鼓の踊りが、実にリズミカルで・かつ激しいものでした。勘三郎のなかで、祖父・六代目の血が騒いだのだと感じた瞬間でした。

*右手を差し出して・思い切り上半身を前傾斜する六代目菊五郎。

このことは「娘道成寺」のなかに潜む享楽的な要素・「陽」の要素をはっきりと認識させます。そう云う要素が踊りのなかから立ち現れると、鐘への恨みとか清姫の情念とか、そんな口伝はもうどうでも良くなってしまうのです。花が散ると、桜の枝から芽が吹き出て、今度は青葉が伸び始めます。若々しい燃えるような若葉の緑色はグングン成長する生命の鼓動です。しかし、花の立場からこれを見るならば、美しい花弁の奥底にそのような燃え盛る生命のエネルギーがもう既に渦巻いていたと云うことなのです。そして、熱いエネルギーが動き始めて、表皮を突き破ぶり美しい花を散らしてしまうことになります。だから平安の人々が鎮花祭のお囃子で「やすらへ。花や、やすらへ。花や」(そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。)と歌い掛けるのは、花が動き始める瞬間を恐れている(そこが「娘道成寺」の怖さに通じるわけですが)、と同時にその瞬間を内心待ちわびてもいるのです。それは、生きる力・伸びる力であるのです。だから立役が踊る「娘道成寺」は、或る種アッケラカンと健康的な方向を志向していると云えそうです。もちろん真女形が踊る「娘道成寺」であれば、もうちょっと違った色合いがあり得るでしょう。

ちなみにこの「娘道成寺」映像断片で見る六代目の踊りは、映画「鏡獅子」(昭和10年東京劇場)での小姓弥生の端正な踊りとまるで印象が異なるみたいですが、映画については本人に「これは後々まで残るものだから・決して好い加減なことは出来ないぞ」と云う強い意識があったに違いありません。「鏡獅子」で見る踊りの技術の確かさがあってこそ、あの「娘道成寺」の激しい動きが可能になったと云うことです。

(R4・5・23)


○六代目菊五郎の「娘道成寺」映像・その1

本稿で紹介するのは、六代目菊五郎が「娘道成寺」を踊った貴重な8mmフィルムです。残念ながら細切れ断片で、時間としては合計1分半くらいのものに過ぎません。映像は、恋の手習いと・鈴太鼓から鐘入りが断片で映っています。無声の8mm映像であるし、恐らく揚幕の陰から遠距離で撮ったものなので、画面の六代目の姿が小さくて、踊りの細かいところまでは分かりません。しかし、伝説の名手・六代目の踊りの雰囲気を垣間見ることが出来るだけでも、実に有難いものです。この映像は、二代目市村吉五郎が昭和10年から11年頃に8mmカメラで個人的な記録として撮った一連の舞台映像断片で、そのいくつかの映像はNHKで放送がされました。吉之助が所持するのは・その時のビデオ映像です。当時の8mm機械とは速度が違っているようで、NHK放送映像で見ると動きが早くて気忙しく感じるので、吉之助は下座の鳴り物の手の動きで速度を調整して・大体15%ほど速度を遅くして見ています。正確ではないかも知れませんが、これならば六代目の踊りがずっと自然に見えて来ます。

六代目は昭和10年代は体力的に充実した時期でもあり(昭和10年ならば50歳です)、この前後の時期にはあちこちで頻繁に「娘道成寺」を踊っています。「娘道成寺」映像については、NHK放送時に上演年月の表記がありませんでしたが、吉五郎の撮影時期がほぼ昭和10年から11年の東京歌舞伎座に集中していることから推察すれば、昭和10年と12年には歌舞伎座での上演がないので、昭和11年(1936)4月歌舞伎座・団菊祭での上演映像であると断定して間違いなかろうと思います。蛇体の映像が残っているので、最後の場面は欠けていますが・押し戻し付き(十五代目羽左衛門)であることも合致します。

1分半くらいの映像ですけれど、いろいろ考えさせる材料があります。まず印象的なのは、クドキの「〽露をふくみし桜花、さわれば落ちん風情なり」の箇所で、涙を振り払う心で手拭いを大きく振り回すところですねえ。ここの六代目の動きは、誰よりもゆったりと大きい気がします。手拭いのクドキの最後の締め括りですから、ガラリを気を変えて、手拭いの先がピンと跳ねて・生きているかのように見えることが大切であると云われますけれど、六代目の動きは力強く勢いがあって、そこに立役が踊る「娘道成寺」の特質が見える気がします。本質的に踊りが陽性で、決して「陰」にならないということです。このこと「娘道成寺」では大事なことであると思います。(この稿つづく)

(R4・5・20)


〇令和4年5月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」・その3

まあそう云うわけで、生(なま)な表現意欲を持つことは役者の前提として大事なことではあるので、これを20代なりの右近の弁天小僧だと認めないわけではありませんが、そのような要素は将来的にはもっと大きな形容(様式)のなかに取り込んでいかねばならぬものです。「写実と様式」のバランスの実現を、役者と清元の「二刀流」でどのように追求して行くか?ということを右近ははっきりイメージしてみた方が良いと思います。あの「勢揃い」のような発声を聞いていると、いつか喉を傷めないかと心配になります。清元では喉は命なのですから、大切にしてくださいよ。

いつぞや上演頻度が高い演目ほど様式が崩れる危険が大きい、そのなかでも最も危ない演目は、「勧進帳」と「弁天小僧」であると書きました。今回(令和4年5月歌舞伎座)の「弁天小僧」も例外ではありません。彦三郎の日本駄右衛門は、声がよく通るのはこの人の美質ですが・硬く聞こえるところが少々難ではあり、そのせいかこの駄右衛門も、賊徒の首領のスケール感がちょっと乏しいようです。抑揚をゆったりと大きく仕立てることで、台詞を豊かに響かせる工夫が必要だろうと思います。これは駄右衛門だけのことでなく、その他古典の役柄にも役立つことだと思います。大和屋は伝承がしっかりした家系であるので・様式感ある台詞を聞かせてくれると期待しましたが、今回の巳之助の南郷力丸は、何となく右近に煽られた感じがしますねえ。勢いはあるが、粗い仕上がりになってしまいました。これも抑揚をゆったりと大きく取る必要があります。「勢揃い」の五人男のなかでは、ちょっとおっとり気味の感はあるけれども、米吉(赤星十三郎)と隼人(忠信利平)は、それなりの様式感覚を捉えていて安心して聞けます。

(R4・5・14)


〇令和4年5月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」・その2

右近本人が「二刀流」にどのようなイメージを持っているのか、多分何かのインタビューでそんな話しをしたかも知れませんが・承知はしていませんが、最近の右近の舞台を見た感じでは、どうやら生(なま)な表現意欲の方が勝ち過ぎるような印象を持っています。例えば昨年(令和3年)5月歌舞伎座での「大川端」のお嬢吉三ですが、ツラネはテンポ早めで生きた写実(リアル)さを意識した台詞廻しでした。様式的・音楽的と云うより芝居の方へ傾斜した台詞廻しで、生っぽいと云うか・ちょっと荒っぽい印象がしましたが、この台詞廻しを批判なさる方は当然いらっしゃることと思います。吉之助は「初役でこれだけできれば上々吉」と書きましたけれど、若い時分から無批判的に二拍子のダラダラ調で様式美に浸るようでは困るから「これで良い」と褒めたわけで、役者として年季を積んでくれば、このような生っぽさ・荒っぽさは、当然落としていかねばならぬものです。イヤ「落とす」と云うよりも、そう云うものは肚のなかに押し込んで、もっと大きな形容のなかで魅せるようにせねばなりません。しかし、その前段階として生な表現意欲を持っていないことにはどうにもなりませんから、まだ20代の段階では「これで良い」ということです。(右近は今月(5月)28日に30歳になります。)このような発展途上の段階に右近の二刀流は在るわけですが、どんどん若枝を伸ばしていく力を感じさせるところが、現在の右近の大きな魅力に違いありません。

したがって今月(令和4年5月歌舞伎座)の「浜松屋」での右近の弁天小僧が、このような生っぽい・荒っぽい印象に出来上がったことに別に驚きはしないのですが、昨年のお嬢吉三よりも、生な表現意欲が先走ってしまった感が強く、音羽屋の手順がしっかり決まったこの芝居では、そこから外れたリアルなことを試みても、却って「汚く見える」ということを思いますねえ。いつぞやの猿之助の弁天小僧も、そんな感じがしました。猿之助ほどのセンスがあったとしても、やはり様式の裏付けを伴わない変更ではどうにもならないのです。右近の弁天は、娘の成りでいる時はなかなか艶やかで、その後の期待をさせます。しかし、男を見顕わしてしまうと何だか醒めた心持ちがするのは、「そこに居るのは男であったか。しかしホントにこれが男なんだろうか、やっぱり娘なのではなかろうか・・」と改めてその顔をマジマジと見てしまう不思議感覚が不足しているからです。弁天のツラネが、イケメンのならず者の兄ちゃんがまくしたてる威勢の良い啖呵だと云うならば、右近の台詞廻しはまあそれなりです。しかし、ここでのツラネに聞く写実と様式の揺れ動きと云うものは、「ホントにこれが男なんだろうか、やっぱり娘なのではなかろうか」という感覚の揺れ動きに照応するもので、これをバッサリ写実で割り切ってしまうことは出来ないのです。ここに右近に様式への意識が足らないことが露呈していますね。付け加えると、立役で写実を意識する割りには、弁天が娘でいる時の写実への意識が足らず、定形べったりで・生きた娘の感覚になっていないのも物足りない。

それでも「浜松屋」は写実に根差した世話物の芝居ですから、弁天のツラネを写実で割り切ったとしても、まだ耐えられると云うところはあります。しかし、「稲瀬川勢揃い」には、ドラマ性なんてものはありません。様式の見せ場と云うべき場ですから、そこの長台詞で写実で割り切った台詞廻しをされてしまうと、どうにもなりません。右近の勢揃いの弁天はただ勢いよく怒鳴っているだけで、手も足も出ない感じがしますねえ。吉之助の見た日(初日2日)には、右近は「・・女に化けた美人局(つつもたせ)」の末尾と「・・島に育って其の名さえ」の末尾の2か所で、かなり大きな間(ま)を取る台詞廻しを聞かせました。しかし、吉之助はそれが間と云うよりも、長台詞の流れ(つまり音楽的な流れ)がブツ切れた如くに感じました。(同様の流れのブツ切れが「浜松屋」でのツラネでもあります。)怒鳴り声が汚く感じられるのも、とても気になる。これはイケナイことです。少なくとも音曲をやる人がこう云うことをやるのは、日頃音楽を聞く吉之助には信じられません。音曲をやる人ならば、音楽的な流れを途切らせることなく、心地良い七五の揺れのなかで、次のフレーズに流れ込んで行く、そう云うセンスを持たねばなりません。こうして「浜松屋」では露わでなかった右近の台詞廻しの欠点が、様式的な「稲瀬川」の場ではっきり判ることになります。写実と様式をエッジの立った現代的な感覚でハイレベルなところで両立させるような、そのような二刀流のイメージを持ってもらいたいですね。まだまだ右近は清元と役者を別ものだと考えているようです。

ご参考までに吉之助がリハーサルを生でも何回か聴講した名指揮者リッカルド・ムーティの言葉を揚げておきます。これは2017年イタリア・ピアツェンツァで若い音楽家たちで編成したケルビー二k管弦楽団でのリハーサル映像でのムーティの助言ですが、

「(フレーズの)終わりは、(次のフレーズの)始まりでもあるのです。」

「よく起こることですが、二拍子があって・それが長く連続すると、在るべきではない区切れが出来てしまうことがあります。これを解決する方法は、(フレーズを)四連符で(大きく)捉えることです。」

これを歌舞伎の七五調に置き換えるならば、「七」のユニットの終わりは・次の「五」のユニットの始まりであり、「五」のユニットの終わりは・次の「七」のユニットの始まりである、そのように考えて七五調の旋律の流れを途切らせてはならないと云うことです。ユニットの終わりは、休止ではないのです。吉之助は七五調を二拍子で割るのを好ましいことと考えていませんが、右近も二拍子気味であるから・百歩譲って云うのですが、二拍子のリズムを単調に続けるから、上記に指摘した通りの台詞のブツ切れが起きるのです。これを解決する方法は、「七」と「五」のユニットで息を大きく捉えて、その流れのうえに二拍子を乗せていくことです。このようにすれば、歌舞伎の台詞を音楽的・様式的な感覚に出来ると思いますね。(この稿つづく)

(R4・5・12)


〇令和4年5月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」・その1

米大リーグの大谷翔平選手の二刀流(投手と打者)の大活躍が、連日の話題となっています。160キロ前後の剛速球をビュンビュン投げて、打つ方でも指名打者でヒット・ホームラン連発というのは驚くべきことですが、恐らく本人には両方を使い分けていると云う意識はあまりないのだろうと思うのです。多分両者の身体の動きのなかに何か相通じるものを感じていると云うか、投げるための練習・打つための練習がそれぞれ別箇のものではなく、両者が互いに高め合っているような・そんなイメージを大谷選手は掴んでいるのではないでしょうかね。それは体幹とか回転軸とか・そう云うことなのだろうと推測はしますが、そうでなければ、あれほどのハイレベルを長く維持出来るものではないと思うのです。二兎を追おうとすると、普通はどちらも中途半端で終わってしまいます。まあ野球の話しはここで置くとしまして、我が歌舞伎界の・役者と清元太夫との若き二刀流・尾上右近のことです。(清元では栄寿太夫として活躍。)台詞廻しと音曲というのも、どこか相通じるところがあるのではないでしょうかね。

清元というのは、情緒的な要素が強い浄瑠璃です。もしかしたら旋律を気分で転がしているように聞こえるかも知れませんが、それだけだと良い音曲にならぬのです。息をしっかり保ちながら喉を繊細にコントロールして旋律を紡ぐかのように描き出していく、それは実に理性的な作業なのです。それは役者の台詞の音遣いにも、相通じるところがあると思います。同時に音曲がもし情緒的な方向へあまりに傾斜してしまうならば、例え響きとして心地良いものであっても、それは歌詞(意味)との関連を見失ってしまう危険性もあるわけで、そう云う時には、役者の台詞の写実への意識が役に立つであろうと思うわけです。優れた俳優の台詞と云うのは、洋の東西を問わず、「まるで音楽を聞く如き心地良さ」と形容されるものです。歌舞伎ならば、なおさらのことです。写実的であって様式的。様式的であって写実的なものです。なかなか難しいことですが、それが両立する瞬間が確かにあるのです。

したがって役者と清元太夫との二刀流をハイレベルで実現したとするならば、「あの役者は清元の太夫もやるんだってねえ。言葉がしっかり聞き取れてリアルな感情がこもっていて、しかも音楽的・様式的な心地良さもある。さすがに両方の要素を兼ね備えた見事な台詞廻しだねえ」と観客が感嘆するような台詞になるだろうと思います。そう云うレベルを目指すつもりで、二刀流を頑張ってもらいたい。吉之助が右近に期待するところは、そう云うことですねえ。(この稿つづく)

(R4・5・10)


〇令和4年4月歌舞伎座:「荒川の佐吉」・その4

今回(令和4年4月歌舞伎座)の「荒川の佐吉」の舞台は配役バランスも良く、みんな生き生き演技して・なかなか良い出来に仕上がりましたが、気が付いたことをちょっとだけ記しておきます。幸四郎の佐吉は今回が二回目だそうですが、幕切れに桜の花がパッと咲いて散る・爽やかなところを見せてくれて、後味がなかなか良かったと思います。

本作の前半と後半に約6年の歳月があるわけです。その6年の間の佐吉の印象の変化・人間としての成長具合をどう描き分けて見せるかが役者の工夫の仕どころだとなるのは、まあ分かる気がします。初演の羽左衛門も「最初はみすぼらしく哀れで、最後に桜の花がパッと咲くような男の芝居」がしたいと言っていたくらいですから、考えるところは同じだったと思います。後半(第四・五幕)の幸四郎の佐吉は、腹が座った感じでなかなか良いです。そうなると、前半(第一・二幕)の佐吉をもう少し軽い・と云うか弱々しい印象に仕立てたくなる、そうなることも十分理解は出来ます。しかし、宇野信夫の「ぢいさんばあさん」ではないのですから、そこまで歳月の差を意識する必要はないと思いますがね。そういう見掛けの「らしさ」というものは、表層的なものです。もともと歌舞伎の役作りはどうしても表層的な「らしさ」(パターン思考)に固執してしまい勝ちなものですけれど、新歌舞伎はもうちょっと違うところを目指していると思います。そこが新歌舞伎の近代的演劇の要素なのです。むしろ佐吉が生来変わらず持っているもの、佐吉の正義感や一本気な性格・自然と出て来る人間としての度量の大きさとでも云うか、そう云うものが見えてくるならば、それで十分だと思います。それが佐吉に、6年もの歳月、「くやしさ」という初一念を維持させたものです。

前章で引用した尾崎宏次の言にある通り、「青果は時や人を証明する芝居を書いた。時がくずれ、人が変る芝居ではなかった」と云うことなのです。そう考えるならば、幸四郎の前半の佐吉は、ちょっと柔過ぎたのではないでしょうか。もう少し声を低めにして、口調を工夫する必要がありそうに思います。しかし、幕切れの江戸に別れを告げる佐吉は良く出来ました。

(R4・5・7)


〇令和4年4月歌舞伎座:「荒川の佐吉」・その3

話しが前後しますが、第三幕で丸総(実家)が卯之助を力ずくで取り返そうとしたことから激しい争いとなり・初めて人を殺めてしまった佐吉が仁兵衛親分から所場を奪った成川を討つ決心をするところで、「人間・捨て身になれば怖いものなんかない」と言っています。この佐吉の言を取ってこの芝居はこの6年親分の仇討ちに踏み切れなかった佐吉の成長物語だとする見方もあるようですが、そういう読み方もあるものですかねえ。この危急の場面に於いては佐吉は卯之助を連れてどこかへ逃げる、その方が賢明であるように思います。どうしてあの場面で佐吉の脳裏に突然「成川」が出て来るのか?ちょっと変だと思いませんか?そう云うことを考えてみなければなりません。そこは佐吉の「くやしさ」を考えないと分からないと思います。

結局6年前に佐吉が卯之助が引き取り育てることになった経緯・たった今卯之助を返す返さないで刃傷沙汰にまで至った顛末を思い返してみるに、すべての発端は浪人成川が仁兵衛親分を斬って所場を奪ったことに発しているということです。仁兵衛親分の「くやしさ」の原因がそこにあるからです。佐吉は親分のくやしさを自分のくやしさにして、卯之助を育て続けて来ました。だからこの絶体絶命の場面で、突然「成川」のことが頭に浮かぶのです。「そんなこんなになったのも、ぜんぶ「成川」のせいだ、コンチクショウ」となっているのです。しかも大事なことは、それが佐吉が自暴自棄になって出た激情ではなく、佐吉が6年間培ってきた論理的な結論として出たものだと云うことです。実はこの「くやしさ」こそ、佐吉の「初一念」です。ちなみに青果の「元禄忠臣蔵・大石最後の一日」初演は昭和9年(1934)2月東京劇場ですから、「荒川の佐吉」初演の2年後のことになります。佐吉と大石内蔵助は、まったく同じ論理の下で動いているということが分かると思います。

もうひとつ付け加えなければならない大事なことがあります。佐吉は成川があの時の浪人だと知りませんでした。しかし、佐吉が成川に向かって行った時、成川は佐吉のことを覚えていました。成川は、「あの時(六年前)お前(佐吉)が俺に「勝つ奴が強いんだ」と言ったから・なるほどと思って・俺は仁兵衛を斬ることにしたのだ」と言い放ちました。これは佐吉には相当なショックであったと思います。これはつまり、「そんなこんなになったのも、ぜんぶ「成川」のせいだ」と佐吉が思っていたことが根底から崩れたということです。元をただせば、全部あの時の自分の軽々しい一言から発していたと云うことです。と云うことは、「勝つ奴が強いんだ」と云うテーゼはそもそも正しかったのであろうか?勝つ奴が正しい奴とは限らない。そうすると「容(い)れられるはずのことが容れられない」やくざの世界はどうなる?そこに佐吉の思いが至らないはずはないと思うのですね。まあしかし、そう云う面倒なことを考えるのは、とりあえず仁兵衛親分の仇(成川)を討ってからの話しではある。青果の戯曲では、その後の佐吉の心境にまったく触れていませんねえ。これは新国劇の募集プロットがそうなっていたのかも知れないし、恐らく戯曲の流れが錯綜するからマズいと云うことで青果が書かなかったのだろうけれど、ここにもうひとつ大きな心理的ドラマがあるはずです。第四幕で卯之助を丸総(実家)に返した後・佐吉が所場を捨てて「一介の三下奴として旅をしながら生きていきたい」と結論を出したところに、多分それが通じているのではないでしょうか。「荒川の佐吉」が佐吉の成長物語だと読むのならば、そこのところだろうと吉之助は思いますね。(この稿つづく)

(R4・5・6)


〇令和4年4月歌舞伎座:「荒川の佐吉」・その2

佐吉が目の見えない赤ん坊の卯之助を育て続けてこれたのは、何故でしょうか。そして、卯之助を返してくれと難題を振りかけられて佐吉が烈火の如く怒るのは何故でしょうか。卯之助が可愛いから・大事だから別れたくないと云う気持ちは、もちろんあります。そのように解釈しても「荒川の佐吉」は芝居として十分成り立ちますが、それだけでは青果劇にならないのです。それだけでは、青果劇の本質である・佐吉の「くやしさ」が、そこに見えて来ません。

佐吉が卯之助を育て続けた第一の理由は、佐吉が仁兵衛親分に卯之助の面倒を頼まれたからです。これは親分から請け負った責務なのです。が、実は散々な苦労をしつつも・佐吉が卯之助を手放さなかったのは、二番目の理由の方が大きいはずです。それは佐吉には、所場を失って死んだ仁兵衛親分の「くやしさ」が、よく分かっているからです。佐吉は親分のくやしさを自分のくやしさにして、卯之助を育て続けてきたと云うことです。仁兵衛は成川という浪人に肩先を斬られ縄張りを奪われて、寂しい暮らしをしていました。子分たちはみな仁兵衛を早々に見限って、成川へ鞍替えしてしまいました。そんななかで佐吉だけが仁兵衛を親分として立て続けていました。その仁兵衛に頼まれた以上、佐吉には卯之助を見放すわけにはいきません。長く育てていれば卯之助に対する愛情みたいなものも、自然に湧いて来ます。しかし、それだけでは子育ては続きません。慣れない男手で目の見えない赤ん坊を育てるのは大変なことです。そうすると卯之助を捨てた薄情な母親(仁兵衛の長女お新)や養育を断ったお八重(仁兵衛の次女)に対しても、また「くやしさ」が湧いてくる。そのような「くやしさ」もバネにしながら、佐吉は卯之助を守って来たのです。

前章で尾崎宏次が述べた通り、「くやしい」とは、容(い)れられるはずのことが容れられないからくやしいのです。ここで云う佐吉の「くやしさ」は、もちろん佐吉が個人的に思うところの・恨みつらみから発してします。しかし、佐吉はその「くやしさ」が個人的なものだと、ちっとも思っていません。佐吉は、それが「人の道」として立たないから「くやしい」と言うのです。これは、「世間と云うのは薄情なものですねえ」と云うのと同じことです。世の中を見回せば、そんなことばかりじゃないか。だったら自分の力で卯之助を守るしかない。第四幕で佐吉がお新に対して言う恨みの言葉、「金持ちというのは無理と云うより、酷いものですねえ・・」と云う長台詞に、佐吉の「くやしさ」が溢れています。その「くやしさ」が公腹(おおやけばら=公憤)であるから、青果の生きた時代の大衆の「くやしさ」とも自然と重なって来るわけです。青果劇というのは、そのような構造になっているのです。

ですから佐吉の「くやしさ」を公腹であると認めるとすると、佐吉が(自分ではまだ気が付いていないようですが)「くやしさ」のなかに紛れ込ませてしまった個人的な感情がちょっと不純なものに見えて来るかも知れませんねえ。政五郎親分は、そこのところをさりげなく指摘してみせます。(この場面の白鸚の政五郎は実に巧い。さすがの貫禄と云うべきです。)

 「俺が育てたから、俺が可愛いからと云うのは、子を持たねえ隠居が犬猫飼って可愛がるのと同じだ。卯之助さんは人の子だよ、人間だ。今はまだ幼ねえが、あの子の一生の幸せってものを考えてやらなきゃ、お前、そりゃア嘘と云うもんだぜ。」

という台詞が、それです。吉之助が感じるところでは、「隠居が犬猫飼って可愛がるのと同じ」と云われた時に、佐吉は一瞬色をなしたかも知れません。しかし、政五郎親分の手前それを面に出すわけにはいかぬ。そこを踏みとどまって冷静に考えてみるに、「確かに親分の仰る通り俺の感情が出過ぎたかも知れぬ」と云う思い入れしばしあって、佐吉は卯之助に親元へ返すことを承知するのです。吉が訴える・この「くやしさ」を親分が然りと受け受け取ってくれるならば、それならば佐吉は「立つ」と云うことです。それならば泉下の仁兵衛親分も許してくれであろう。だから佐吉と政五郎の間ではきちんとした論理(ロジック)の応酬が出来ており、そこに涙が入り込む余地はまったくないわけです。そこが青果らしいところです。長谷川伸ならば、ここで泣きになるでしょうねえ。(この稿つづく)

(R4・5・5)


〇令和4年4月歌舞伎座:「荒川の佐吉」・その1

真山青果の「江戸絵両国八景〜荒川の佐吉」は、昭和7年(1932)4月に東京歌舞伎座で十五代目羽左衛門の佐吉によって初演されたものです。同じ月に大阪中座でも新国劇が「天晴(あっぱれ)子守やくざ」という題で島田正吾の佐吉で初演して、東西同時初演と云うことで話題となったそうです。青果と云うと二代目左団次との提携関係が強いわけで、青果が羽左衛門のために書いたというのは意外の感がしなくもないですが(実際は左団次のためばかりに書いたわけでないけれど)、青果が「荒川の佐吉」を書いたきっかけは、青果宅をぶらりと訪れた羽左衛門がとりとめもない世間話をした帰り際に、「最初はみすぼらしく哀れで、最後に桜の花がパッと咲くような男の芝居を書いて欲しい」と言ったからだそうです。青果はこれをおもしろく思い、たまたま新国劇が募集したプロットの入選作が手元にあったので・これを下地に青果が書いた芝居が、「荒川の佐吉」であったのです。本作が新国劇との同時上演になったのは・そのような経緯ですが、なるほど骨太な歴史劇を得意とした青果にしては毛色がちょっと異なる人情世話物であることも、これで納得が行きます。

初演の羽左衛門の佐吉は概ね好評でしたが、「羽左衛門を生かす芝居ではない」という批評も一部出たとのことです。そのような批評が出るのは、恐らく評者に青果=左団次の論理劇の思い込みが強いことから来るのに違いないですが、一理がないわけでもないと思います。そこはやはり青果は青果のことであるから、いくら羽左衛門のために書いたものであっても、論理劇の色彩は強くなって来ます。そこが羽左衛門の個性に微妙に似合わぬと云うところはあるかも知れないとは思います。青果のことだから、やはりただの人情物では終わらないのです。そこを踏まえて「荒川の佐吉」をどう読むかと云うことかと思います。演劇評論家尾崎宏次は次のように書いています。

『青果のセリフ術が論理的であるということに入っていかねばならないが、結論をさきにいってしまうと、その論理性のでてくる源は、「くやしさ」ということである。くやしい、ということは、容(い)れられるはずのことが容れられないからくやしいのである。くやしいという感情は、そういう状態をひき起こす事物や制約をきわめて即物的にならべたてることのできるものである。したがって、青果の戯曲にそなわっている論理性というのは、論理的に証明するためのものであって、論理的な発展のためのものではない。そう断言してしまうと例外がでてくるけれども、しかし、秀作のほとんどはそうである。そして、くやしさから出て来る論理性が、まさに青果の生きた時代の大衆にとって、魅力のある芝居になりえたのだ。かれは時や人を証明する芝居をかいた。時がくずれ、人が変る芝居ではなかった。』尾崎宏次:「青果のセリフ術」〜真山青果全集・別巻1・真山青果研究)

というわけで、青果劇においては「くやしさ」が重要なキーワードなのです。そこでちょっと青果の「荒川の佐吉」を「くやしさ」の視点から読んでみたいと思います。(この稿つづく)

(R4・5・4)


〇令和4年4月歌舞伎座:「ぢいさんばあさん」

今月(令和4年4月)の歌舞伎座の「ぢいさんばあさん」は、人気コンビ・仁左衛門(伊織)と玉三郎(るん)の、東京では「四谷怪談」以来の共演ということです。しかし、歌舞伎座での「ぢいさんばあさん」はつい先日・昨年12月に勘九郎(伊織)と菊之助(るん)の組み合わせで出たばかりで・これもなかなかの好演であったので、正直云うと「またか・・」という感じがしなくもない。多分若手に演技指導している内に自分たちも演ってみたくなったというところか。その気持ちは分からぬことはありませんが、客席の入りを見た感じでは仁左玉で見たいのはこの演目ではないというのが観客の正直な気持ちではなかったでしょうか。

仁左玉のことですから、舞台はもちろんそれなりの水準の仕上がりになっています。38年後に夫婦が思い出の我が家へ戻ってきた時のしみじみとした感動は、さすが仁左玉と言いたいところです。しかし、見ている方(吉之助)には昨年12月歌舞伎座の感動がまだ残ってもいるので、自然と比べて見ることになります。どちらが良いとか悪いとかではなく・どちらにもそれぞれの良さがあると云うべきだろうが、まあ批評をやる身であるから書きますが、「原作其儘と原作離れ」みたいな話しになりますけれど(原作とはもちろん森鴎外の短篇のこと)、芝居の味わいを素直に表現していると云う点で、勘九郎と菊之助のコンビの舞台の方に吉之助は軍配を上げたいと思います。宇野信夫の作劇はとても上手いですが、仁左玉であると宇野の手の内(原作離れ)が透けて見える感じがしますねえ。そこは抑えてもらいたい気がします。仁左玉の上手さを愉しむのだと思えば、それもそれなのですが。

「ぢいさんばあさん」を若手が演じる場合、若夫婦は役と実年齢が近いから良いけれど、老夫婦で若干役造りに無理が出るかも知れない、まあこれは仕方ないことです。一方、ベテラン役者が演じれば老夫婦で役と実年齢が近くなる・それはそうですが、だからと云って、若夫婦の造りに無理が出るということでもないと思います。仁左玉ならば、お軽勘平だって相性ピッタリなのですから。(今回もそちらの方をやってもらいたかったくらいです。)それなのに今回の仁左玉の舞台を見ると、二人とも、夫婦の若造りを過剰に意識し過ぎではないでしょうか。そのため芝居前半に作り物臭い印象がします。これが芝居全体のバランスに良くない影響を与えています。そもそも仁左玉は台詞がいつも高調子の気味があります(吉之助はそれが仁左玉の特徴であると認識しています)が、この若夫婦の台詞のキーの置き方は、いつもよりさらにキーを半音ほど上げた行き方です。特に玉三郎の若き日のるんに、甲高い印象が強い。これは若造りを意識した結果だと思いますが、こう云うことをする必要は全然ないと思いますがねえ。お二人とも、いつものようにやれば、それで十分若々しく美しいのですから、自然にやればよろしいことです。どうやら若夫婦と老夫婦をはっきり仕分けることを意識し過ぎたようです。だから「原作離れ」が起きて来る。この点が勘九郎と菊之助のコンビの舞台の方を吉之助が評価する理由です。

鴎外が随筆「歴史其儘と歴史離れ」のなかで書いている通り、「わたくしは現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も(ありの儘に)書いて好い筈だと思つた」と云う自然主義小説の態度が、宇野信夫が書き換えた芝居「ぢいさんばあさん」を演じるについても、とても大事なことになると思います。「ありの儘に」自然にやれば良いことなのです。(別稿「歴史その儘と歴史離れ」をご参照ください。)

(R4・4・23)


〇令和4年4月歌舞伎座:「天一坊大岡政談」・その5

今回(令和4年4月歌舞伎座)に限ったことではないですが、「天一坊」には、いつからこれが定型のやり方になったのか分かりませんけれど、これは見直した方が良いと思える箇所が、他にもあります。例えば大岡邸奥の間で、天一坊が乗物に飴色網代蹴り出しの塗棒(高貴な人しか使用を許されない)を用いた理由を大岡が伊賀亮に問い糺(ただ)す、いわゆる「網代問答」(あじろもんどう)です。大岡と伊賀亮が四つに組んでの網代問答は、「勧進帳」の山伏問答にも比せられる激しい論戦であり、この芝居の最大の見せ場のひとつです。天保11年(1840)「勧進帳」初演には、若き黙阿弥も参画していました。山伏問答が下座を入れない・純粋な対話劇であることは、ご承知の通りです。一方、網代問答では、大岡の問いの箇所で三味線の下座が入ります。三味線がこの場を如何にも「形通り」の芝居の雰囲気を強めてしまって、問答のリアルさを甚だしく削いでいます。このため問答で、松緑の大岡がかなり損をしています。ここは思い切って下座を取っ払い、純粋な対話劇に仕立てた方がずっと良いです。松緑の大岡は悪くはないですが、声がよく通る人なのだから・2月の助右衛門みたいな感じで・二拍子のリズムで論理をどんどん押していけば、もっと迫力ある対話劇に出来たはずだと思います。本家の講談の網代問答を上回るリアルな芝居を造ろうと思ったら、そうするしかないと思いますがねえ。

もうひとつ、大岡邸奥の間・切腹の場にト書き浄瑠璃が入ります。もちろんここは黙阿弥がそのように脚本を書いたわけですが、ト書き浄瑠璃にはト書き浄瑠璃の仕様があるだろうと思いますね。これを通常の義太夫狂言の感覚で芝居をすると、演技が間延びして見えてしまいます。逍遥の「牧の方」観劇随想でも触れましたが、ト書き浄瑠璃では、人間の肉声(台詞)は音楽によって分断されているのです。音楽のト書きは脇から刺さり込んで心理的情景を説明するという・まったく別個の役割を負います。だから音楽もまた台詞によって分断されていると云うことです。このバラバラ状態から如何にして演技にひとつの息の流れを構築するか、これが役者が担うべき仕事です。それは竹本の仕事ではありません。肝要なことは、ト書き(竹本と唄)の最中に息を詰めて、所作を簡潔にし、役者は台詞と次の台詞の息が繋がるように緊張を持続するよう努めることです。台詞は二拍子を基調にテンポ良く流す、これで演技の流れに一貫したリズム感覚を保つことが出来ます。

前回の歌舞伎座所演(平成27年5月)でもそんな感じでしたが、「天一坊」半通しのなかで・大岡邸切腹の場は、大抵芝居が浮いた印象になってしまいます。ひとつには、無常門〜水戸家奥殿をカットしてしまうと、幕府内でひとり大岡だけが天一坊に不審を抱いており、このため大岡が孤立している状況が理解されません。そうなると網代問答も大岡の切迫感(というか焦り)が見えなくなるので困るのだが、切腹の場でも、何故ここで大岡が切腹せねばならぬのか・肝心のところがあやふやになるから、とても困ったことになります。そこでト書き浄瑠璃が入ると、芝居はますますリアルから乖離してしまいます。何だか大岡が形だけ切腹のポーズをしているかのような嘘っぽい印象になってしまう、その責任の多くはカットだらけの補綴脚本にあることは明らかですが、仮にそうであったとしても、ト書き浄瑠璃をリアルな感覚の方向へ持っていくことで、役者にも対処の仕様があると云うことは申し上げたいと思います。このことが分かって来れば「都鳥廓白浪」など黙阿弥の小団次劇でト書き浄瑠璃が入る場面の印象がガラリ変わって来ると思います。そのためには「黙阿弥劇は音楽劇だ」と云う固定観念を打破せねばなりませんね

(R4・4・17)


〇令和4年4月歌舞伎座:「天一坊大岡政談」・その4

猿之助の法沢(後に天一坊)ですが、線の太い造りで、「俺りァあ偽者だ」と開き直って・その度胸の良さで相手を感服させて・逆に味方に付けると云う常楽院の場(三幕目)は、なかなかよく出来ました。翻って序幕(お三婆ァ住居)は、何げない会話から始まって・それが思いもかけず将軍吉宗公の御落胤の話しに展開して・殺しへ発展していく意外なプロセスに、ヒッチコック張りの心理サスペンスの面白さがあるはずです。(ここに黙阿弥の小団次劇の経験が活きています。)それが時間的制約でこの場を無理に切り詰めた補綴脚本のせいで、お三婆が自分から秘密をベラべラしゃべり始める不自然な形に変わってしまいました。このため法沢の心変わりが十分に描かれません。しかし、どうせ型らしい型など残っていない芝居なのですから、脚本のバランスが変わったら変わったで、役者の思い切った工夫で面白く出来るところもあろうかと思います。御落胤の話しをお三婆が語り始めたところで・鼠取りの薬で死んだ鼠の死骸が天井から落ちて来る、猿之助はこの箇所を、法沢に悪心が芽生えるきっかけとして、ここでグッと声を低く太く変えて悪心へ変わります。だからその後の法沢の会話は悪の魂胆が見え見えになっています。これが定型のやり方かも知れませんが、ここは別の手を考えてみたらどうでしょうかね。もし吉之助が法沢を演るならば、二人の会話の最後の最後、お三婆が酒で寝込んだ後・法沢がお墨付きと懐剣を確かめて「いいものが手に入った」とボソッと独り言を云う箇所で、ここで声色を低めて・写実に簡潔に・悪の性根へガラリ変わるようにしたいと思います。そこまでは悪を気取られない行き方にしたい。この方が法沢の変わり身が大きく・変化が際立つと思います。

このやり方の根拠は、ないわけではありません。明治2年市村座初演「桃山譚(地震加藤)」で九代目団十郎が演じる加藤清正が夢から覚めた時・「夢か」と簡潔に言い切ったのが大評判となって、これが「活歴」の始まりとされたことです。普通の歌舞伎のやり方ならば、ここは「夢であったかア」と引き伸ばして言うところです。そこをしないで、グッと思い入れを入れて「夢か」と手短かに済ませる、そこに観客は新しい時代の到来を感じたのです。「天一坊・お三婆ァ住居」で、法沢がお墨付きと懐剣を確かめて「いいものが手に入った」とリアルに呟く場面は、つまり黙阿弥がここで五代目菊五郎(初演の法沢)に活歴をさせたのだと云うことです。そこが「天一坊」の新しさ・実録物の新しさだろうと思いますね。(この稿つづく)

(R4・4・16)


〇令和4年4月歌舞伎座:「天一坊大岡政談」・その3

ところで講談などで人気だった大岡政談が芝居に脚色されるようになったのは、幕末の嘉永年間(1848〜53)頃からのことであったようです。史実の大岡越前守の没年が宝暦元年(1752)ですから、約百年後です。幕末に大岡政談が急に人気となるのには色々な理由が考えられますが、やはりこれは白浪狂言の流行と根は同じで、当時の閉塞した社会状況に庶民がうんざりしていたことが大きいでしょう。当時は実名による劇化はご法度でした。だから芝居は鎌倉時代の青砥左衛門藤綱などに仮託した形にせざるを得ませんでした。黙阿弥の「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり・通称「村井長庵」・文久2年・1862・江戸守田座)も大岡政談ですが、大岡は大館左馬之介義晴(おおだちさまのすけよしはる)という役名に変えられています。狂言作者にとって、ついちょっと前までそのような窮屈な世の中であったのです。

ところが「扇音々大岡政談」(おおぎびょうしおおおかせいだん・通称「天一坊」・明治8年・1875・1月・東京守田座)では、世が替わって、もう設定を鎌倉にする必要がなくなりました。だから本作では役名を大岡越前守としています。しかし、このことは役名だけに止まらないと思います。材料は幕末の講釈師初代神田伯山の人気演目「大岡政談天一坊」から採ってはいますが、黙阿弥はこれを、出来るだけリアルに・実録物に近い芝居に仕立てようと考えたはずです。明治の世になって、そう云うことが堂々と出来る世になったのです。まあ世が変れば黙阿弥にも演劇改良運動とか別の苦労が生じて来るわけですが、とりあえずこれは良いことです。

当然観客の方にも、世が変って、実名を使った本物の芝居を見たいと云うワクワクした期待があったに違いありません。初演の記録を見ると、観客の評判が良かった箇所は、無常門から呉服橋外迄(今回の上演には含まれません)と大岡邸切腹の場であったそうです。どちらも伯山の講談にない場面でした。これらこそ黙阿弥が腕に選りをかけて書いた場面であったに違いないのです。老中の調べにより御落胤と定まった天一坊になおも不審を抱く大岡が、謹慎を申しつけられて動きがままならない中、死人が出たと偽って早桶のなかに隠れて・秘密裡に屋敷を抜け出し、水戸藩主綱條に助力を願う場面(無常門から呉服橋外・水戸家奥殿)、紀州に差し向けた天一坊の素性調査の報告を待つ大岡が、もはやこれまでと腹切る寸前に吉報が届くという大岡邸切腹の場面です。そこで黙阿弥がやろうとしたことは、10年前には、やりたくても絶対に出来なかった、大岡越前守の苦悩と大逆転のドラマを、堂々と実名で、より生々しく・リアルに突っ込んで描いてやると云うことだったと思います。ですから本作は講談タネには違いないですが、黙阿弥の気概としては「実録物」(歴史物)だったと思います。

これは大事なことですが、「天一坊」が初演されたのは明治8年、と云うことは、演劇改良運動の波がもう黙阿弥の元に押し寄せていた時期です。時系列を整理しておくと、いわゆる大政奉還があって明治の世になったのが、明治元年(=慶応4年・1868)のこと。明治政府が斬髪脱刀令を発したのが、明治4年(1871) のこと。ガス灯など近代設備を備えた新富座が開場したのが、明治11年(1878)のことでした。文明開化の世の中で、西洋の風俗や考え方が日本にドッと流入してきて、「西洋のものならば何でも良い、江戸の昔のままを守るのは悪い」という風潮さえありました。そんな雰囲気のなかで、黙阿弥がのんびり江戸の狂言作者の伝統に甘んじていられたはずがないわけなのです。

ですから、吉之助がここで申し上げたいことは、明治8年初演の「天一坊」のなかに、「実録物」たる・リアルさへの追求と云う課題があるということです。それは明治初頭の世の、改革の気風を反映しているのです。吉之助がどうも杓然としないのは、今回の「天一坊」に限らないのですが、補綴者・演出者・役者のなかに、「黙阿弥の芝居はこういうもの」と云うような一様な様式イメージがあって、幕末のものも、明治初期のものも、明治中期の晩年のものも、どれも一緒くたに・同じような味付けに処理しようとするところがありはしないかと云うことです。。今回の「天一坊」も、いつもの黙阿弥もの、感触的には先月(3月歌舞伎座)の「河内山」とあまり変わらないような芝居です。そこのところを考え直さないと良い復活物は出来ないと申し上げたいですねえ。(この稿つづく)

(R4・4・14)


〇令和4年4月歌舞伎座:「天一坊大岡政談」・その2

このことは「天一坊」のなかで大岡越前守が芝居の芯を取ることを意味しますが、それは大岡がこの芝居の主人公だと云うのとは若干異なります。あくまで芝居の本筋は、悪方の天一坊(法澤)が担うものです。しかし、結局、天一坊はお縄に掛かり、芝居は「悪は滅び善は栄える、天下泰平で目出度い・目出度い」となり、大岡の正義を証明することになるのです。この時、観客は「世界」が正しく在るべき形に収まったことを確認して安心します。つまり「義経千本作」で、三人(知盛・権太・忠信)の主人公がどんなに活躍しても、最後は「義経記」(義経)の世界へと収束するのと似たような構図を、「天一坊」も持っていることが分かると思います。

ですから黙阿弥の勧善懲悪のドラマは、すべからく「天下泰平」の祝言(しゅうげん)の意味合いを持つものです。これは風紀の乱れを厳しく監視する幕府に対する方便(ポーズ)だと主張する方がいるだろうと思います。確かにまさかの時にはお上に対し悪人が主役の芝居を書いたことの言い訳に役立つでしょうが、それが目的で黙阿弥は勧善懲悪の結末を書いたわけではないのです。黙阿弥は謹厳実直な人で、酒も莨もやらず女遊びもせず、特に信心に凝ることもない人でした。しかし、因果応報の理(ことわり)だけは、これを信条としていました。つまり「正しい者は救われなければいけない。悪い奴らには相応の罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか」と云う心情が根底にあるのです。悪方と善方が対抗し・一時は悪が栄えて善を圧倒するかに見えるが・終には悪は滅び去り・善の正しさが明らかとなる、これで「天下泰平」の祝言の構図が立つ、それが黙阿弥の勧善懲悪のドラマでした。江戸の庶民は、元禄のその昔から「正義が大好き」なのです。

ところが祝言の構図が正しく理解されないと、勧善懲悪の結末が、何だか取って付けたような・居心地の悪い・ベタな結末に映ってしまうことになります。それこそ体制におもねる論理として「天下泰平」が使われていると見えてしまいます。こうなると大岡が旧弊の象徴の如くに見えてきます。だから「黙阿弥の芝居は毒にはならぬが薬にもならぬ、社会批判の精神が疲弊した旧時代の産物だなあ」みたいな感想になりかねないのです。

こうなってしまう原因の最たるものは、歌舞伎の解説で「歌舞伎の悪の魅力・アウトローの魅力」と云うことがしばしば言われるせいです。黙阿弥は悪を賛美しているわけではありません。実際にはその真逆で、黙阿弥が書く悪とは、「善(正義)を賛美するために生成する悪」です。似たような悪人を挙げれば、例えば名探偵シャーロック・ホームズに対して、彼との頭脳比べを愉しむためだけに次々と難事件を仕掛ける極悪人モリアーティ教授です。

『此神の如き素人探偵の持った特異性は、いつも固定していない。人間の生き身が常に変化しているように、ホームズは、生きて移っている。しかも彼らの特異性が世間に働きかけて、犯罪を吸い寄せ、罪悪を具象して来る。そうしてあたかも神自身のように、犯罪を創造していく。彼の口は、皮肉で、不逞な物言いをするに繫らず、犯蹟を創作する彼の心は、極めて美しい。ホームズを罪悪の神のように言ったように聞こえれば、私の言い方が拙いので、世の中の罪が彼の気品に触れると、自ら凝集して、固成しないではいられなくなる。そして次々に犯罪を発見し、またそれ自身真に、その罪悪と別れて行く。(中略)だから、ホームズの物語は、ドイルの行なう鎮魂術であったと言ってもよい。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年・仮名遣いなど吉之助が若干手を入れました。)

折口信夫とホームズとは、ちょっと意外な組み合わせだと思いませんか。江戸の庶民も(黙阿弥も)、この世が公正に動いているなんて決して思っていませんでした。むしろこの世には不正なことが沢山はびこっている。そのような世にはびこる邪悪な心が自ら凝集して、芝居のなかの悪人として固成していく、しかし最後にそれらが大岡らによって裁かれる、勧善懲悪のドラマとは、黙阿弥が行なう鎮魂術に他ならないのです。(この稿つづく)

(R4・4・12)


〇令和4年4月歌舞伎座:「天一坊大岡政談」・その1

歌舞伎座での「天一坊」は、平成27年(2015)5月の上演(この時の天一坊は菊之助)以来のことです。今回(令和4年4月歌舞伎座)上演は、猿之助(天一坊)・愛之助(伊賀亮)・松緑(大岡越前守)と云う、歳が近くて共演してそうでいて・その機会があまりなかった三人の珍しい組み合わせが、興味深いところではあります。「天一坊」は、あまり出る芝居ではありません。定本と云えるものが存在しないので、適切な脚本アレンジが必要です。今回の脚本は、見たところでは第1部の時間枠に収めるため、平成27年上演時の半通し脚本をベースに若干(十数分ほど)切り詰めて、三幕6場(正味2時間半)の芝居に仕立てたようです。まあ一応の筋は通っており芝居はトントン運びますが、芝居は筋が通ればそれで良いものでもないので、ドラマ的に盛り上がるかと云うとそれほどでもなく、「黙阿弥の芝居は毒にはならぬが薬にもならぬ・他愛のないものだなあ」と云う感想になりかねない感じではあります。ただしこれは脚本だけの問題ということではなく、役者の工夫によって補える場面もあるだろうとは思いますね。

まず今回の「天一坊」ですが、ジャンルとしては「政談」物と云うことです。「政談」物は、歌舞伎から映画・テレビにも引き継がれて大きな流れを成すものですが、例えば大岡越前守や遠山景元(遠山の金さん)などを主人公としたものです。裁判場面はありませんが、広義には水戸黄門や長谷川平蔵(鬼平)なども入れても良いと思います。いずれも庶民に長く愛されたキャラクターです。ところで折口信夫が「人間悪の創造」という論考のなかでこんなことを書いています。

『神だって人を憎む。むしろ神なるが故に憎むと言って良い。人間の怒りや恨みが、必ずしも人間の過誤からばかり出ているとは限らない。恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。日本でも旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。(中略)人間の処置はここまでで・これから先は我々法に関わる者の領分ではないと言ふ限界を、はっきり見つめて、それははっきりと物を言っているのである。すなわち法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

この世においては、禍福が必ずしも合理的にもたらされるものではなく、誠実に生きる人が必ずしも幸福になるわけではありません。ひどい災厄を受けることもあります。そう云う時に「おかしいじゃないか、真面目に誠実に信心深く生きている私が、こんな仕打ちを受ける理由はない、私が何か悪いことをしたのか」と神に抗議したい気持ちになることだってあると思います。そういう時に法(政治或は社会の機構)は、大抵、何もしてくれません。結局、法は被害者の気持ちを十分に救いあげることが出来ません。しかし、正しい者は救われなければいけない。悪い奴らには相応の罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか。そのような憤る庶民の気分を、「大岡裁き」みたいなものがちょっとだけ和らげてくれると折口は云うのです。「世の中捨てたものじゃない」と云う気持ちになるのです。一時的なものには違いありませんけどね。

江戸の芝居や小説に勧善懲悪ものが流行るのは、結局、そう云うことなのです。とは云え、江戸の庶民は、お上が神の如く公正に裁くなんて決してないことはちゃんと分かっているのです。それが現実というものだし、諦めということもある。されど誰だって、良いことは良い・悪いことは悪いと、裁きは情けを以て公正に行ってもらいたいと思っているのです。例えば大岡越前守・あるいは遠山の金さんのように。今が正しい世の中であるならば、公正な裁きがきっとなされるはずだ。(それがなされないのであれば、今の世の中どこか間違っている。)

歌舞伎の「大岡政談」物は、天一坊の他にも、村井長庵・越後伝吉・雲切仁左衛門・小間物屋彦兵衛・畔倉重四郎・鈴川源十郎・髪結新三など、いろんな事件を素材にして劇化されています。今回(令和4年4月歌舞伎座)の「天一坊大岡政談」を見る時、そんな視点を少し持って見ると面白くなるだろうと思いますね。(この稿つづく)

(R4・4・9)


〇令和3年8月国立劇場:「春興鏡獅子」

国立劇場制作による「尾上菊之助の歌舞伎舞踊入門」シリーズとして「娘道成寺」と「鏡獅子」の2作がネット配信されました。本稿では、「鏡獅子」の映像を取り上げます。(「娘道成寺」については別稿をご覧ください。)収録時期は、共に昨年(令和3年・2021)8月国立劇場(無観客上演)とのことです。なお本企画は、東京2020オリンピック(コロナにより実施は2021年に延期)を契機として、「日本の美」を国内外に発信する日本博プロジェクトの一環であるそうです。

同時配信の「娘道成寺」映像については、無観客上演とか1時間前後に尺を収めたかったとか・いろいろ事情もあったにせよ、聞いたか坊主のカットや映像上の問題が、これが「娘道成寺」のドラマの本質に絡むところで気になりましたけれども、この「鏡獅子」映像については、カットなしでも1時間内に収まるので、胡蝶の踊りも含めて丸々収録されています。菊之助の踊りに関しては、現時点でひとつの完成形と云える域にまで達したものです。映像は余計な手を加えず・忠実に記録するスタンスに徹しており、後シテの獅子の登場での花道背景が真っ暗なのは是非もないですが、それ以外では気になるところはあまりなかったことを申し上げておきます。

菊之助の「鏡獅子」は本興行としては令和3年5月歌舞伎座所演が直近のものでした。全体の印象としてその時と変わるところはないけれど、映像で見ると迫って来るせいか、生(なま)の舞台で見るよりも、後シテの獅子に雄々しさが増したように感じられました。まあこのことは、前シテのお小姓(女性)と後シテの獅子(男性)にイメージの落差を付けたい「鏡獅子」(九代目団十郎)の作意に叶ったものであると理解はしますが、これ以上獅子を勇壮に仕立てないように・この辺で留めていただきたいと思うところではあります。吉之助としては、女形舞踊の獅子物舞踊(石橋物)の系譜のうえに「鏡獅子」をしっかりと位置付けてもらいたい。後シテはもう少したおやかであっても良いと思うくらいですが、勇壮な獅子に慣れちゃったご見物は多分それでは満足しないでしょうが。

この件は本サイトでは何度も取り上げたので繰り返しになりますが、初期の歌舞伎では、舞踊は女形が専門的にするものでした。唐伝来の獅子はもともと男のイメージが強いものですから、このままであると女形のレパートリーには出来ません。獅子を女形舞踊のなかに取り込むためには、獅子を女のイメージに変える・或る種の合理化が必要になります。その辺を歌舞伎は、前シテで女の恋の煩悶・執着を描き・その情念を以て後シテの獅子の狂いになるという論理にして切り抜けたのです。こうして獅子物(石橋物)が、「道成寺物」と並ぶ女形舞踊の二大系譜となっていくことになります。(別稿「獅子物舞踊のはじまり」・真女形の獅子の精」をご参照ください。)「鏡獅子」の前シテ・小姓弥生の踊りの、

「時しも今は牡丹の花の咲くや乱れて、散るわ散りくるわ。散りかかるようで面白うて寝られぬ。花見てあかす花見てあかす。」

という詞章も、元々は初期の「道成寺物」である・初代瀬川菊之丞による「百千鳥道成寺」の歌詞から発したもので、これが「執着獅子」にそのまま取り入れられて、さらに「鏡獅子」へと引き継がれたものです。従ってここから「道成寺」の鐘への恨みと重ねて読むべきとまでは云えませんが、そこに若い娘の恋の煩悶をチラッとイメージしてみても良いかなと思うのですね。その思いが小姓弥生の姿を獅子に変える(ただしこの場合は女の獅子です)と云う論理は、変身の論理としてやや弱いかも知れませんが、「道成寺物」と獅子物舞踊の関連を踏まえるならば、あながちおろそかに出来ぬものだと思うのです。吉之助が「鏡獅子」の前シテをたおやかなイメージに留めてもらいたいと考えるのは、そんな理由からです。

菊之助の前シテ・小姓弥生の踊りについては、無駄な動きがない・コンパクトな踊りで、文句はまったくありません。清楚な印象で、七代目梅幸以来の出来と申し上げて良いと思います。

(R4・4・7)


〇令和3年8月国立劇場:「京鹿子娘道成寺」・その4

同時配信のメイキング映像のなかで、菊之助は「「道成寺」が難しいのは白拍子は清姫の霊だというのが核になければならないこと」だと語っていました。それが華やかな桜の光景という視覚と相反する「陰」の要素だと云うことです。もちろんそれは性根として正しいです。それがなくては「道成寺」になりませんが、大事なことは怨霊の正体をどのようなプロセスで・どの程度までほのめかすかと云うことだと思います。どの場面においても鐘に対する思い(恨み)を常に持ち・それが時にグッと前に出て来る瞬間もある・逆に奥に引っ込む瞬間もあると云うことかと思います。それは歌詞や振りの具合に拠ります。そういうところに、菊之助のなかの「道成寺」のストーリー性・論理性が表れます。「陰か陽か」ということで云えば、菊之助は「「道成寺」はどちらかといえば陰の感じがする」とも語っていました。これも菊之助のなかの論理性から導き出された感覚です。菊之助はこのことを正直に吐露しています。

これについて吉之助が申し上げたいのは、以下のことです。「娘道成寺」を分析すれば、どちらかといえば「陰」になるという結論は、論理的には正しいと思います。論理的な破綻は見出せません。だから菊之助の踊りを見てもきっちり正しい楷書の踊りだと感心しますし、細部においての不満はほとんどありません。本行(能)に対するリスペクトも立派に立ちます。しかし、これはかぶきの「道成寺」ですよね。かぶきの「道成寺」たる所以をそこに見ますか?と云うことですねえ。

菊之助の「道成寺」は色調が暗いとまでは言いませんが、明るさが不足気味です。特に前半(道行から乱拍子・中啓の舞まで)がそうです。それは本人が「陰」と言っているのだから・当然そうなるわけですが、かぶきの「道成寺」ならば、そこはやはり「陽」でなければならぬと思います。パッと明るい陽でなくてはなりません。内面の「陰」を引き立てるために、なおさら「陽」でなくてはならぬのです。これがかぶき的感性の本質です。吉之助はチラッと思いますが、何となく菊之助にとって玉三郎との「京鹿子娘二人道成寺」の経験があまり良くない方向に影響した感じがしますねえ。「白拍子は清姫の怨霊」と云う印象が強いところが似ています。これだから伝承は気を付けねばなりません。あの時の観劇随想「あなたでもあり得る」でも触れましたが、「娘道成寺」においては鐘入りまで白拍子が怨霊であることは伏せねばならないのです。「鐘に思いを向けることを忘れてはならない」という口伝はありますが、それは踊り手の覚悟を問うものです。白拍子が怨霊であることは最後まで観客に明かしてはならない、これがかぶきの「道成寺もの」の約束事であると考えるべきです。

菊之助の「道成寺」を「陰」から「陽」の感覚へと変えるための、料理にかけるスパイスの最後のひと振りが必要です。いいところまで行っているのですから、それはホンのちょっとのことです。それだけのことで菊之助の「道成寺」は、見違えるように華やかに変わるでしょう。それは歌舞伎の痴呆的・享楽的な要素をもっと強く意識することです。どちらかと云えば、これは反理知的な要素です。吉之助も論理で作品を読みに掛かるところがあるから・そこは分かるのですが、菊之助も理知的なのですねえ。今回(令和3年8月国立劇場)の「娘道成寺」映像は、現段階での菊之助の「娘道成寺」の完成形を見せてるのだから、これで十分良いです。現段階での菊之助は型や性根を肚に落とし込まねばならぬ段階に在るわけですから、芸のプロセスとして菊之助は正しい道程を踏んでいると思います。菊之助が更にもう一段上の芸の高みを目指すならば、今回造ったものを壊して・また新たなものを作り上げていかねばなりません。まことに芸とは果てしないものですねえ。

(R4・4・4)


〇令和3年8月国立劇場:「京鹿子娘道成寺」・その3

本興行での菊之助の「娘道成寺」としては令和元年(2019)5月歌舞伎座が直近のものですが、これは「道成寺説話」が強く意識された舞台であったと思います。つまり鐘に対する思いということですが、前半を抑え目にして、後半の「恋の手習」のクドキ辺りから徐々に開放し、鞨鼓の踊りでは情念がメラメラ燃え上がるように表出される、そのような踊りのストーリー設計がされていました。それから約2年後になる今回(令和3年8月国立劇場)の「娘道成寺」映像では、その印象がより一層強いものに仕上がっています。そのことの良さとそうでないところがあるように思います。

まず良い点は、「娘道成寺」を鐘に対する強い思い(恨み)で徹底的に読み込むことで、普段我々があまり意識することがない作品の骨格(ストーリー性・論理性)の存在を強く印象付けたことです。我々が「こういう踊りは感覚的に愉しむもので、あまり論理的に見るものではない」とついついスルーしそうなところを、菊之助は論理的に面白く見せてくれます。特に後半部・白拍子の踊りが変奏になる毬唄から鞨鼓の踊りまでの面白さは格別です。菊之助が詞章・音楽両面から振りを如何に深く考えているか、よく分かります。そう云う点においては、今回の映像は、現段階での菊之助の「娘道成寺」の完成形みたいなものを見せていると思います。菊之助(44歳)はそのようなものを肚に落とし込まねばならぬ段階に在るわけですから、芸のプロセスとして菊之助は正しい道程を踏んでいると思います。

一方、上述と裏腹なことになりますが、良くない点としては、全体の色調が暗めに感じられることです。画面の明度だけを問題にしているのではありません。桜の花が満開の明るい雰囲気にはなっていないと云うことです。しっとり落ち着いた色調ではありますが、吉之助としては、「娘道成寺」ではもっとパアッと明るい印象が欲しいのです。もしこれが舞台を生(なま)で見たのならばあまり気にならなかったかも知れませんが、舞台の単なる記録ではなく・映像作品として見た場合、そこは少々気になります。特に前半部(道行から乱拍子・中啓の舞まで)ですねえ。それは、云うまでもなく、白拍子が清姫の怨霊であるということで、菊之助が鐘に対する恨みを前面に押し出しているせいです。このため全体のコンセプトが本行(能)に大きく寄った印象が強くなってしまいました。それならば「娘道成寺」が「かぶき」である意味はどこにあるか、「娘道成寺」に於ける「かぶき」的感性とは何かが問われると思います。

原因はいくつか考えられます。ひとつは、今回の「娘道成寺」が(これはコロナのせいではないと思いますが・全体を1時間程度の分量に抑えたかったからかも?)無観客上演の舞台映像収録であり、聞いたか坊主の件が一切カットされてしまったことにあります。聞いたか坊主の件は、吉之助だって踊りの間の息抜きとしてあるもので真剣に見るわけではありませんが、無くなってみると改めて痛感することは、聞いたか坊主も「娘道成寺」の春風駘蕩たる「かぶき」的感性の醸成に一役買っていたんだと云うことです。聞いたか坊主を一切カットしたことで、無駄がなくなって、踊りの密度は確かに高くなりました。そのことの良さももちろんあります。しかし、その分、鐘に対する強い思い(恨み)が前面に強く出過ぎた印象になってしまったようです。このため雰囲気が暗めの印象に映ります。今回ばかりは、聞いたか坊主が恋しくなりました。

もうひとつは、(無観客の客席を見せたくなかったからだと思いますが)冒頭・花道での道行の背景が真っ暗で、白拍子と云うよりも・まさに怨霊の清姫が踊っているかのような雰囲気に見えたことです。画面にまったく華やかさが不足しています。この暗い印象が最後まで尾を引いてしまいました。ここは照明にもっと工夫が欲しいと思いますが、何よりも国立劇場に桟敷席がないことが、決定的に不利に作用しています。しかし、歌舞伎座収録であったとしても無観客の桟敷席では画になりませんが。ここは無観客上演映像であることを逆手に取って、敢えて道行で演出の冒険をしてみても良かったのではないかと思いますねえ。例えば六代目歌右衛門の映画「娘道成寺」(昭和31年5月・松竹・萩山輝男監督・カラー映像)はスタジオ収録なので舞台面をいつもと違えて、道行を桜満開の道成寺門前の場に仕立てていました。このような工夫もあり得るかなと思います。「娘道成寺」での道行は、とても大事なのです。七代目三津五郎は「舞踊芸話」のなかで、「娘道成寺」で芝居をするのは道行だけなのですから役者にとってここは大事な箇所ですと語っています。同時に、これも大事なことですが、ここで鐘に対する思いを吐露するわけですが、それが過ぎてもいけないわけなのです。

ともあれ吉之助としては、何か鐘供養の場にふさわしくない明るいものが突然に現れる・異様な明るさを持つ何ものかが・・という印象が道行に欲しいと思います。このことが「娘道成寺」のなかで道行が最も「かぶき」的なシーンであるという本質を明らかにしてくれるでしょう。このようなシーンは、現実の劇場では視覚的な実現は不可能かも知れません。しかし、無観客上演ならば出来ると思うのです。(この稿つづく)

(R4・4・2)


〇令和3年8月国立劇場:「京鹿子娘道成寺」・その2

外国人に見せて一番評判が芳しくないのは「娘道成寺」だそうですが、その理由は事前解説で白拍子が清姫の怨霊だと云うことをあまりに強調し過ぎるところから来ます。道成寺の二代目の鐘供養に、その昔不実な恋人を焼き殺した清姫の怨霊が白拍子の成りで登場して、踊っているうちにやがてその本性を顕わし・・・」なんて説明をするものだから、白拍子が次々衣装を替えていくなかで蛇の姿へと次第に変わっていくのだろうと思ってしまう、そういう筋だと思い込んで舞台を見ていると「娘道成寺」は何をやっているのかサッパリ分からん踊りだと云うことになってしまうわけです。ですから歌舞伎の「娘道成寺」と云うのは、頭と尾っぽに本行(能)の筋を借りているけれども、中味は「娘」の恋心を形を変えていろいろな踊りで連ねて見せたものに過ぎないと単純に説明した方が宜しかろうと思いますね。もちろん作品を貫くテーマとして「鐘に対する思い(恨み)」は大切なことですが。加賀山直三は次のように書いています。

『ひとつの主題、ひとつの場面としての組曲舞踊の本質は、結局「芸尽くし」だと云うべきであろう。「鐘に恨み」を主題としているように見えて、それはモティーフにもならぬ、ほんの申し訳みたいな謳い文句に過ぎず、本質的な内容は一向に「恋の執着」でもなく、単なる舞踊芸を見せるに過ぎないのである。もっとも後年になると「道成寺」の性根は鐘だとして、しきりに性根呼ばわりするようになったものの、これは踊り手が成立当初の如く無心に踊るだけの境地に安住できなくなって、何か心持のうえでの拠りどころを欲するようになって、それを金科玉条化したのに違いない。歌舞伎舞踊としては、能から趣向を借りたお印に乱拍子で少々鐘に敬意を払ったら、あとの部分では綺麗さっぱりと返上してしまうのが、歌舞伎の本質であるはずなのだ。』加賀山直三、文章は吉之助が多少アレンジしました。)

これはまったくその通りで、「鐘に恨みは数々ござる」と恋への執着に重きを置くことは、「本行(能)に対するリスペクト」と云うことなので・もちろん大切なことに違いありませんが、それだけであるならば、それは本行でやれば宜しいこと・何もそれを歌舞伎舞踊でやる必要はないと云うことなのです。ですから、何が「娘道成寺」をかぶき的なものにするかと云うことが大事なのです。

『あの「道成寺」の舞台をつくり出した江戸時代の劇場と観客の雰囲気は、桜の花のいっぱい咲いた中にやたらに美しい娘姿を踊らせて恍惚としていたので、日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったのである。そういう理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさ、気味の悪い美しさを(六代目)菊五郎の白拍子はふんだんに持っていた。菊五郎の「道成寺」を見ていてある老婦人が「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」という言葉のせっぱつまった実感は私にもうなづける。菊五郎の「道成寺」はそういうものであった。』(円地文子「京鹿子娘道成寺」)

円地文子の文章にある六代目菊五郎の「娘道成寺」の舞台はおそらく昭和の初期、つまり菊五郎全盛期のものだと思います。「こんなにも面白くていいものでしょうか、そら恐ろしい」という感想は、痴呆的・享楽的なかぶき的な世界に浸っていたはずが、まったく予期せぬプロセスから、いつの間にやら「鐘に恨みは数々ござる」と云う本行の世界へ立ち返っていると云うことです。観客にそんなことを想わせた六代目菊五郎の「娘道成寺」と云うのは、一体どんなものだったでしょうかねえ。(この稿つづく)

(R4・4・1)


〇令和3年8月国立劇場:「京鹿子娘道成寺」・その1

国立劇場制作による「尾上菊之助の歌舞伎舞踊入門」シリーズとして「娘道成寺」と「鏡獅子」の2作がネット配信されました。本稿では、まず「娘道成寺」の映像を取り上げます。(追って「鏡獅子」を別稿にて取り上げます。)収録時期は、共に昨年(令和3年・2021)8月国立劇場(無観客上演)とのことです。なお本企画は、東京2020オリンピック(コロナにより実施は2021年に延期)を契機として、「日本の美」を国内外に発信する日本博プロジェクトの一環であるそうです。

咲くからは龍頭へとどけ山桜        慶子

慶子(けいし)は初代中村富十郎の俳名。龍頭(りゅうず)とは、釣り鐘を鐘楼の梁(はり)に掛けて吊るすための、龍の頭の形をした吊り手のことです。宝暦3年(1753)3月江戸中村座で「京鹿子娘道成寺」を初演した時、富十郎は絵看板に自筆でこの句をしるしたと伝えられています。「道成寺の鐘に届けよ我が思い」と云うことでしょうか。これは吉之助の解釈ですけどね、「我が思い」と云うと、どんな思いでしょうかね。恨みの気持ちではなさそうです。富十郎の句からは、恨みの気持ちは窺(うかが)えないと思います。これは恋心でしょう。これは「娘」道成寺なのですから。「咲くからは」と云う文句には、そんな恋する「娘」の気分がしますね。

「鐘に恨みは数々ござる」と詞章にありますが、蛇体となった清姫が鐘に巻き付いて安珍を焼き殺してしまったのは、自分を裏切った不実な恋人が憎かったからでしょうか。そうではなくて、彼を心底好きだったからではないでしょうか。他人から見ればそれは邪恋だとか妄執だとか言いますが、本人は真剣です。清姫は安珍のことがただただ好きであったのです。「食べちゃいたいくらい好き」という表現がありますが、清姫も似たようなものです。ところが愛し方の度が、ちょっと過ぎちゃったのです。清姫が鐘に巻き付いたら、安珍が焼け死んでしまいました。しかし、清姫には決してそんなつもりはなかったと思うのです。安珍が彼女に笑って振り向いてくれさえすれば、結末はハッピーエンドになったはずです(と清姫は主張するでしょうね)。ですから「鐘に恨み」と云っているけれども、その恨みは安珍に対する恨みではないのです。安珍に対する思いは、あくまで恋心です。清姫は、彼が自分に振り向いてくれなかった事実だけを恨んでいます。或いは、彼が自分に振り向いてくれなかった「定め」を恨んでいます。この思いが「念」となって、鐘にずっと残っています。紀州道成寺に二代目の鐘楼が建立された時、鐘に残っていた「念」に感応して、清姫の霊が蘇ります。「だって好きなんだも〜ん」と云うことです。「娘道成寺」とは、そういうドラマなのです。(この稿つづく)

(R4・3・30)


〇令和4年3月歌舞伎座:「天衣紛上野初花」〜河内山

仁左衛門の河内山は、東京では10年振りのことだそうです。思いの外太い造りで、もちろん報酬も目当てには違いないけれど、それよりも正義感とでも云うか、大名相手に話しを付けるとなりゃあ俺にしか出来ねえよと云う肚があって、難儀な仕事であればあるほど燃えて来るという河内山であるようです。権力を笠に着て威張る奴を懲らしめるのが生き甲斐と云うところでしょうか。したがって愛嬌もあるにはせよ・それが前面に出るわけではなく、広間での松江公との対決の場面は意外とシリアス・タッチに仕上がっており、こう云う河内山もあり得るかと思いました。この場は鴈治郎の松江公も不機嫌なムードを漂わせて、仁左衛門とよく張り合ってなかなか面白く見ました。

ただどの「河内山」にも多かれ少なかれ言えることですが、今回(令和4年3月歌舞伎座)の「河内山」も、全体的にちょっと時代っぽい感触がしますねえ。このところ同じ「天衣紛上野初花」のなかの「直侍」との感触がどんどん離れて行っているように思うのです。これは強請りの現場が大名屋敷であることがひとつの原因に違いありませんが、河内山も東叡山のお使僧に化けていることだし、格式を出そうとすると感触はどうしても時代っぽい方へ傾いてしまいます。それも分らぬではないけれど、役者全員「河内山」は世話物であると意識して、芝居を世話(写実)の感触へ引き戻すように努めて欲しいと思います。

これは河内山の太い造りと裏腹になると思いますが、仁左衛門の河内山は、総体に何となく時代っぽい印象がします。台詞も七五に割る感じが強いようで、仁左衛門のことだから台詞はよく回って歯切れが良いけれども、この口調はあまり世話とは申せません。そのせいか玄関先の長台詞が開き直りが強い感じに聞こえます。まあここの河内山は確かに開き直ってるのでしょうが、ここで余裕をかませておくと、幕切れの「バカめ!」の印象が大分和らぐと思うのですがねえ。シリアス・タッチなので、今回の「バカめ」はちょっと強い感じに響きますね。やはり河内山にはそこそこ愛嬌が必要なのだろうと思います。

(R4・3・22)


〇令和4年3月国立劇場:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その5

そう云うわけで、菊之助の盛綱の今後の課題は、役の性根を心情において熱く読み込んでいくこと、それによって表現の彫りを深くしていくこと、そのためには多少「クサいかな」と思うくらいでちょうど良いのだと云うことだと思います。菊之助の盛綱は「初役」にして十分な成果を上げています。形(段取り)はしっかり取れています。型を肚に落とし込んだらば、その次の課題はこれを内から心情で突き動かす方向へ持っていくことです。これで盛綱という役は実事に根差すものになります。

先ほど「クサいかな」と思うくらいでちょうど良いと書きましたが、初代吉右衛門については、昔はそう云うことがよく言われたものでした。特にライバル・六代目菊五郎贔屓からの悪口としてですが、しかし、播磨屋の芸と云うことを考える時に、「クサさ」は結構重要な要素だと思うのですよね。つまり、裏返せば、それは音羽屋の芸にあまりない要素だと云う事です。そこのところを二代目吉右衛門がどう考えていたのかは分かりませんけれど、多分真摯なストイックな方向で受け取っただろうとは思うけれども、播磨屋の芸のクサさは、「法界坊」とか「お土砂」みたいな観客に受けに行くような演目にだけ出るものではなく、「熊谷陣屋」とか「盛綱陣屋」などシリアスな演目に於いても、播磨屋のクサさは形を変えて、真摯なストイックな方向で出るものであると吉之助は考えているのです。例えスケールが小さくなったとしても良い、目指すべきは細やかな感情表現、感情の変わり目をくっきりと観客に示唆することです。(別稿「時代物役者か・実事役者か」をご参照ください。)音羽屋の御曹司である菊之助が、岳父を尊敬して・播磨屋の芸を学びたいと云うことならば、菊之助が最終的に学び取るべき・播磨屋の芸のポイントはそこであると、吉之助は思います。

さて今回(令和4年3月国立劇場)の「盛綱陣屋」は、それぞれの役者がみんな同じ方向を向いて自分の職務を果たして、予想以上に纏まりが良い出来栄えであったと思います。個々の役者に改めて触れることはしませんが、丑之助の小四郎についてはちょっと触れておきましょうかね。前月(2月)歌舞伎座の「鼠小僧」の蜆売り三吉に続く大役でしたが、三吉ですっかり自信を付けたようです。良い出来でありましたね。

(R4・3・18)


〇令和4年3月国立劇場:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その4

「人情か、義理か」と云うテーゼは、情を取るならば理は立たず、理を取るならば情は廃れる、本来どちらを取っても・片方を裏切らればならぬと云う、究極の選択を迫るものです。これは半二のドラマによく出て来るものです。本作であると、「所属陣営に忠誠を尽くすか、それとも家族の絆を取るか」ということで、それならば、贋首を弟の首に違いないと偽証した盛綱は、鎌倉方(北条時政)を裏切ったことになるのでしょうか。そんなことはありません。盛綱は「イイヤいっかな心は変ぜねど」とはっきり言っています。確かに「不忠と知って大将を欺きし」とも言ってますが、これは盛綱自身の鎌倉方への忠誠を疑わせるものではありません。・・と云うことは、盛綱が行なったのは、これはまったく別の論理による選択であったと云うことなのです。

それは「佐々木家の名誉を取るか、家族の絆か」と云うテーゼです。兄弟が敵味方に別れて戦う状況では、普通に考えれば、家族の絆を取るならば、盛綱も高綱も互いに思う存分戦うことが出来なくなる、結果として、兄弟はそれぞれの陣営に対して不忠となり、武家としての佐々木家の名誉は地に堕ちることになるでしょう。盛綱の危惧は、そこにありました。弟が子ゆえの闇に迷い、武士の名誉に恥じる行動に走らぬかということでした。逆に武家としての名誉を取るならば、兄弟は家族の絆を踏みにじり、互いに遮二無二戦うしか道はありません。だから「佐々木家の名誉を取るか、家族の絆か」も、究極の選択なのです。ところが、首実検において、さすがの盛綱も予想もしなかった返答を高綱親子が返して来ました。それが贋首を見た小四郎が咄嗟に「父様さぞ口惜しかろ、わしも後から追付く」と叫んで刀を腹に突き刺すと云う行動であったのです。その瞬間、盛綱のなかで、本来通るはずのない論理が通ったのです。それは、自らの命を捨てる覚悟で盛綱が、「この首は弟高綱の首に相違ない」と偽証するならば、これで「佐々木家の名誉も、家族の絆も、その両方が同時に守られる」と云うことなのです。情を取って・なおかつ理も立つという、本来あり得ないことがここで起こるのです。

最初のうちは「盛綱陣屋」のドラマは、「互いに所属陣営に忠誠を尽くすか、家族の絆を取るか」というテーゼで進むかに見えます。しかし、芝居がこのテーゼで進む限り、ドラマは袋小路の結論しか見出せません。首実検の場面に於いて、「佐々木家の名誉を取るか、家族の絆か」と云うテーゼへと飛び越える(ワープする)ことで、盛綱はこのドン詰まり状況に「死中に活を見出す」のです。これで正真正銘、盛綱を「悲劇中の人物」だとすることが出来ます。

ですから盛綱が家族の絆を大切にして・思いやりの心を持っていることは確かにその通りであるけれども、同時に家族の絆はそれが強ければ強いほど、盛綱が命を懸けて武士としての本分に生きようとする時の、厳しい足枷となり・疎外要素になることもあるのです。本作では、それは戦時の状況が生み出したものです。だから盛綱が、家族の絆も・武士としての名誉も、どちらをも手中にするための、まったく別の、「線の強い論理」が必要です。それが無いままに・思いやりの心だけだと、どうしても盛綱が柔く見えてしまいます。

今回(令和4年3月国立劇場)の菊之助の盛綱であると、母・微妙に対し・小四郎を殺してくれろと頼み難いことを頼み、「コレ聞分けてたべ母人」の場面は、菊之助の盛綱は肚が固まっているので、思いやりの真情がこもって・とても良い出来です。ここは前半のドラマが「互いに所属陣営に忠誠を尽くすか、家族の絆を取るか」というテーゼで進んでいるから、ドラマの方向性がぴったり合うから、これで良いわけです。ここはよく出来ました。

一方、首実検での菊之助の盛綱は、やはり柔く見えますねえ。沈着温和な印象なので、ここの箇所が、じっくり時間を賭けて盛綱の思考プロセスを説明的に追うかの如く見えてしまいます。もっともこれは菊之助だけの話しではなく、歌舞伎の盛綱は誰でもこんな感じなのです。首実検で心底納得できる盛綱を、吉之助は見たことがありません。この場面を家族の絆(情)だけで通そうとしても、そりゃあ通らないでしょう。盛綱はもう別の論理へとワープしてしまっているからです。これで「私は申し訳に腹を切ります」としても・それはただ後で責任を取るだけの話で、カタルシスには至りません。これでは盛綱が「悲劇中の人物」にはなりません。菊之助も、演じてみて歌舞伎の在来型のもどかしいところを感じたのではないでしょうか。と云うか、もどかしさを感じてもらいたいと思いますねえ。そこから盛綱の性根の見直しが始まると思います。

しかし、首実検は兎も角として、その後の「褒めてやれ褒めてやれ」の長台詞が良ければ、失点はかなり挽回出来ると思います。大事なことは、情があって理も立つという、本来あり得ないことが起こったことの、感動と云うか・興奮が観客にビンビン伝わるように、長台詞をお願いしたいと云うことです。菊之助の盛綱は、この長台詞をしっかりリズムを踏んで発声して分りやすかったけれども、やや説明に傾いた印象でありましたね。ここは一気に行った方が良いのではないでしょうか。(この稿つづく)

(R4・3・16)


〇令和4年3月国立劇場:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その3

ところで前幕の作品解説のなかで菊之助(音声のみで出演)は、「恕(じょ)」の気持ち・家族に対する思いについて語りました。「恕」とは、他人の気持ちを理解し・ゆるし・思いやること。論語には、

「子貢(しこう)問いて曰く、一言にして以て終身(しゅうしん)之を行う可きもの有りや。子(し)曰く、其れ恕か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ。』
(現代語訳)
「弟子の子貢が尋ねました。人生のなかで死ぬまで行ない続けていくべきものは、一言で云えば何でしょうか。師は仰いました。それは「恕」の心であろう。自分がされて嫌なことは、他人にしてはならないと云うことだ。」

とあります。なるほど・・弟・高綱親子の贋首の計略に賭ける決死の気持ちを察し・思いやり・受け入れて、みすみす贋首と分かっているのに、盛綱は証言を翻して、自分は腹を切る覚悟で、この首は高綱のものに相違ないと偽証したと云うことでしょうか。そこに盛綱の恕の心があると云うわけですね。これについては、まあそう云う解釈もあるかも知れないねと云っておきます。ただし「盛綱陣屋」をそのように解釈すると、盛綱の肚が柔く見えはしませんかということも指摘しておきたいと思います。「菊之助の盛綱は沈着温和そうな武将に見える」と先に書きました。そのような印象に見えるのは、菊之助が盛綱を恕の心で捉えているせいかも知れませんねえ。(吉之助の「盛綱陣屋」解釈についてはサイトの一連の記事をお読みください。)

近松半二は儒学者穂積以貫の次男として生まれました。だから半二が論語の「恕」の逸話を知らないはずがありません。しかし、半二の芝居に於いては、家族の絆(きずな)・家族への思いは決して暖かい(そこへ還るべく・懐かしいもののような)イメージで描かれていません。もちろん肉親への情は何よりも大切にしなければならないものですが、むしろそれ故に、個人を一層縛り付け・強制し、個人が自らの自由意志で振る舞うことを決して許さぬものと云う厳しいイメージで描かれています。例えば「伊賀越道中双六・沼津」の十兵衛も然りです。仇の側に立ってしまった息子十兵衛に対して、生みの親(平作)が命を捨てて「仇の行方を親に教えろ」と迫り、十兵衛は苦渋の末にこれを明かします。それは十兵衛が「命に懸けて沢井股五郎を守る」と誓った男と男の契約を破ることでした。代償は大きかったのです。伏見の場で、十兵衛は自裁同然で死ぬことになります。(別稿「世話物のなかの時代」を参照ください。)半二の芝居は、どれを見てもそんなドラマなのです。したがって、ここは「盛綱陣屋」のドラマを単独で考えるだけではなく、その読み方で半二の他の作品も読めるかと云うところも考え合わせる必要があります。

半二のドラマがこのような極端な形になるのは、半二の時代においては、共同体(社会・奉公先・家)の個人への規制・縛りがあまりに強く、「個人」とは彼が所属する共同体に在っての個人、「個人」のアイデンティティーが共同体のアイデンティティーと別ち難く同化しているからです。それでは現代に於いて、「個人」はそのような柵(しがらみ)から完全に解き放たれているでしょうか。そんなことはないと思います。現代に於いても、社会生活を営むなかで、多かれ少なかれ、「個人」は柵に縛られながら・時に押し流されながら生きているのではないでしょうか。そこから現代の視線で半二のドラマを読むことも可能になるでしょう。

盛綱には(そして芝居に登場しない高綱もそうなのですが)「私は佐々木家の武士である」という強いアイデンティティーがあって、これを失ってしまったら「佐々木盛綱」という人間は有り得ないほどです。武士という者は、命を懸けて家の名誉のために戦うものです。昔は「一生懸命」のことを「一所懸命」と云ったもので、武士が戦うのは本来自らの領地を守るためでした。自らの領分(本分)を守るために戦うのが、武士(もののふ)であるのです。戦争と云う厳しい状況は、盛綱に「佐々木盛綱」という男のアイデンティティーを守る覚悟がどれほど固いかを問うているのです。同時に盛綱は弟・高綱に対してもこのことを鋭く問うています。「お前にその覚悟はあるか」と云うことです。

盛綱が証言を翻し・腹を切る覚悟で・この首は高綱に相違ないと偽証したということは、「お前にその覚悟はあるか」と問うたことに対し、高綱親子が「これを見てくれ」と正にこれ以上ない・盛綱の予想をも越えた・ドンピシャの解答を示して見せたからに違いありません。その瞬間、盛綱のなかですべての縛りが消し飛びます。これを「恕」の心と呼べるかと云うことですが、まあいろいろ読み方があるだろうが、これは孔子の言うこととはちょっとニュアンスが異なるように吉之助は思いますねえ。これは男心に男が応えると云う・理屈を越えたところの・もっと厳しく・熱い「心情」と呼ぶべきものでしょう。吉之助はこれを「かぶき的心情」と呼んでいます。(この稿つづく)

(R4・3・13)


〇令和4年3月国立劇場:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その2

但し書きを付けますが、「生締めの役どころは優美ではいけない」と言うのではありません。十五代目羽左衛門のような風姿優れた役者が演じれば、優美さが際立つのは当たり前です。しかし、もし優美さが勝ち過ぎて、リアルな心情を覆い隠してしまうことがあるのならば、これはいけません。だから「生締めの役どころは優美ばかりではいけない」と云うべきでしょうか。菊之助の盛綱は、若手花形らしく見た目の風姿も爽やかです(その意味では優美であると云える)が、決して優美さに重きを置いてはいません。心情を描こうと努めていることは、舞台を見れば確実に伝わって来ます。そこのところは、菊之助は如才がない。

菊之助を見ていて感心するところは、当然菊之助は岳父・二代目吉右衛門の盛綱をお手本としているに違いないが、時代物の役どころの骨太さとか重々しさとか、現時点の自分にとって身の丈に合わぬイメージには固執せず、現時点の自分に出来る精一杯のところで役を造っていると云うことです。現在の自分に何が出来て・何がまだ足りないかよく分っているのでしょうねえ。どんな役でも及第点を取って来ると云うことは、そう云うことです。この盛綱も44歳の菊之助の初役と考えれば、「このくらいは出来て欲しい」と思う・そのくらいには確実に役を仕上げて来る、そこが菊之助の感心するところです。

良く云えばそう云うことですが、別の見方をすると、「まとまり過ぎている」と云う不満を感じる方がいるかも知れませんねえ。「まとまっている」から、古典的に丸く収まった印象になって来るわけです。確かに今回の盛綱は、そう云う印象があると思います。ただし、現在の菊之助は型をその通りに演じて・自分の肚にこれを落とし込む段階であるから、今の段階ならばこれはこれで良いのです。しかし、菊之助が今後持ち役として盛綱をモノにして行くのならば、もちろん課題はあります。聡明な菊之助は、分っていると思います。だから申し上げますが、「まとまり過ぎている」ために、盛綱の感情の起伏がやや平坦に感じられます。何だか盛綱が沈着温和そうな武将に見えてしまうきらいがあります。盛綱は表面は落ち着いた人物(それでないと冷静な判断が出来ないはず)に見えるでしょうが、むしろ内面は逆です。盛綱の頭のなかはスーパーコンピュータが始終情報処理を高速で行なうが如く、内に秘めた感情が激しく渦巻いているのです。芸の次の段階においては、ここはもう少し起伏を付ける、表情・目付きの変化、声色の変化に更なる工夫が必要になると思います。

まず盛綱を見ると、ここで心理の局面が変わったと読める箇所が随所にあると思います。ここの変わり目をはっきりと、これを観客に示唆すること、表情・目付きの変化、声色の変化を大きく付けることです。こういう演技は「クサい」と思うかも知れないが、クサいと思うくらいでちょうどよろしい。例えば、上使和田兵衛を送り出し・陣屋に一人残った盛綱が佇む場面、文楽詞章を見れば、

盛綱は只茫然と、軍慮を帳幕の打傾き思案の扇からりと捨て、「母人それにおはするや」と音なふ声に立出る。

です。和田兵衛との火花散る対決での熱い興奮の後、「只茫然」と弟高綱の心中を思いやる盛綱の暗澹たる気持ちが描写され、しばし沈思黙考が続きます。そして「からりと捨て」で盛綱は何か踏ん切りを付ける。しかし「母人それにおはするや」と云う声はやはり重苦しいものにならざるを得ない。「音なふ声」にそれが表れます。これだけで盛綱の心理は三転していますね。この心理変化の局面を、ひとつひとつ、くっきり描き分けなければなりません。盛綱の心理は二転三転して・よじれて・また元に戻る、そのような変化を度々繰り返します。それは一貫した心理の流れを想定してしまうと、バラけているかの如く見える心理の変転なのです。そこに盛綱と云う役のバロック的な・つまりかぶき的な要素があるのです、

菊之助の盛綱を見ると「そこのところは腹のなかにグッと持っている」と云うことかも知れないけれども、傍目からは、ジェットコースターのような、盛綱の心理の激しい変転があまり見えて来ない感じです。控えめに見えてしまうきらいがある。そこが古典的で丸く収まった印象にもつながるわけですが、芸の次の段階においては、この印象を意識的に崩しに行くことを試みてはどうですかね。つまり、ここは表情・目付きの変化、声色の変化を大きく付ける工夫をすることです。こういう演技は「クサい」と思うかも知れないが、クサいと思うくらいでちょうどよろしいのです。これが「盛綱という役が実事に根差す」と云うことの意味です。別稿「鼠小僧」観劇随想のなかで、「菊之助の持ち味のなかで・どこまで写実(リアル)に刺さり込んで行けるか」と云う課題を書きましたが、これとまったく同じ事なのです。(この稿つづく)

(R4・3・12)


〇令和4年3月国立劇場:「近江源氏先陣館〜盛綱陣屋」・その1

今月(3月)国立劇場の「盛綱陣屋」は、盛綱を演じる菊之助が初役の他、又五郎・梅枝・莟玉も初役であるようです。10年後の義太夫狂言の行方を占うことができるフレッシュな顔触れですが、各人それぞれ気合いの入った演技を見せてくれて予想以上に纏まりが良く、今の段階でこのくらいのレベルの舞台を見せてもらえれば将来へ向けて期待が持てると嬉しく思いました。

さて菊之助の初役の盛綱のことです。残念ながら岳父・二代目吉右衛門に役を直接教わることは叶わなかったようですが、故人が遺した盛綱の心情や演技について記した資料を元に盛綱を構築したとのことです。この数年菊之助はいろんな初役に挑戦し、なかにはエッと驚くような意外な役もありましたけれど、それらのどの役についても一定の成果を収めて来ました。これは驚くべきことですが、とりわけ今回の時代物の大役・盛綱は、今までの初役のなかでも群を抜いてしっくり行っている気がしますねえ。役者振りが役の大きさに負けていない。それは菊之助のニンが生締めの役どころに似合うと云うこともあろうけれども、この数年いろんな役に挑戦してきたことで、菊之助の役者としての器量が着実に大きくなっていることを如実に示すものです。岳父の死に決意を新たにするところもあったでしょう。学んだことをその通りしっかり形にして、自己流に崩すところがなく、見ていてほとんど文句の付けようがない仕上がりです。初役でこれだけの盛綱を演じるならば、上吉または上々吉と云うところです。もちろん「初役として」と云うことですけれど、菊之助は役者の道程を確実に歩んでいると思います。これで菊之助は、斎藤実盛や梶原平三なども射程圏内に収めたことになるでしょう。

そう云うわけで、現在の菊之助は型をその通り演じて・自分の肚にこれを落とし込む段階であるから、今はこれで十分過ぎるほどの成果であるけれども、菊之助の盛綱が今後回数を重ねていくうえで、どんなことを課題にして行けば良いかをちょっと考えてみたいと思うのです。

作家小島政二郎が大正13年(1924)9月東京・邦楽座で上演された「盛綱陣屋」での初代吉右衛門の盛綱について記した「憚劇評」(はばかりながらげきひょう)と云う文章がありまして、武智鉄二はこれを激賞して「当時高校生であった自分は批評精神の根本をこの劇評から学んだ」とまで書いています。この劇評では当時盛綱役者として並び称された、十五代目羽左衛門と初代吉右衛門を比較して論じています。

『(十五代目)羽左衛門(の盛綱)なら顔を真っ白に塗り立て、鬢は漆塗りでテカテカ光り輝いて、目ざめるばかりの美しさに舞台を一身に引き締める。が、羽左衛門の盛綱は、どこから見ても、悲劇中の人物とは思われない。そこへ行くと、(初代)吉右衛門は素顔に近い顔色をし、鬢も漆の黒光りでない為に、金襴の衣装ばかり光って、出は一向引つ立たない。舞台としては損かも知れないが、私にはこの方が親しい気がする。』(小島政二郎:「乍憚劇評」・大正13年)

初代吉右衛門の佐々木盛綱

ここで小島は「十五代目羽左衛門の盛綱は顔を白く塗る、初代吉右衛門は素顔に近い顔色(砥の粉)に塗る」と書いています。吉之助は初代吉右衛門の盛綱の舞台写真をいろいろ見ましたが、遺された晩年の映画(昭和28年・1953)も含めて、モノクロームであると顔色の微妙な具合がよく判別できません。上演年代によって化粧が微妙に変化することもあり得るので、ホントに初代吉右衛門の盛綱が砥の粉だとして良いか確信にまでは至っていませんが、武智も小島の劇評を引き合いに、「今の(九代目)幸四郎さんも(二代目)吉右衛門さんも盛綱をやる時白く塗ってはいけません」と書いたくらいであるから「そうだっただろう」と思っています。(武智の文章は吉之助編「武智鉄二 歌舞伎素人講釈」でお読みいただけます。)化粧の色は役の性根を暗示するものであるから、とても大事なのです。盛綱の化粧が砥の粉であると云うのは、どう云うことでしょうか。それは盛綱の性根が(優美さではなく)実事に根差すと云うことです。それが初代吉右衛門の盛綱なのです。

別に吉之助は盛綱の化粧に固執するわけではないのです。生締めの役どころは顔を白く塗るのがお約束と思っている方は多いでしょう。お約束とまで思いませんが、それはまあ良い。盛綱の顔が白塗りでも構いませんが、初代吉右衛門(播磨屋)の盛綱は実事に根差すと云うところは押さえておいて欲しいと思うのですねえ。(この稿つづく)

(R4・3・9)


〇令和4年2月歌舞伎座:「元禄忠臣蔵〜御浜御殿綱豊卿」

梅玉の綱豊は青果劇の様式をよく掴んで、実直とも云える位に・台詞のリズムをしっかりと踏んでいます。梅玉の良いところは、「そちたちを信じたいのだ」と云う台詞の末尾を、「シーンジターイーノーダーーー」のように長く引っ張って歌わないことです。梅玉は「シンジターイーノダ」くらいに止めています。これで台詞は浮かず・しっかり実質を伴ったものに出来ています。これが青果劇の様式なのです。その結果、綱豊の内面に有るシリアスな要素、つまり指導者として・天下の人心の荒廃を憂い、世の模範ともなるべき行動を大石以下浅野家浪人たちに期待する気持ちはよく伝わって来ます。反面シリアスな要素が少々勝つために、世の憂さを酒色で紛らせ(本人に言わせれば決して楽しくてやっているわけではない)、世間からはそれが将軍綱吉の猜疑の目から逃れるための偽りの放埓とも見られていると云う艶あるいは色気(これが世間の甲府様人気にも繋がる理由でもある)という要素においては若干渋く見えるところがあります。そのどちらにどのくらい重点を置くべきかは、結局、役者のニンに拠るでしょう。大名の品格において梅玉に不足があろうはずがありませんが、梅玉のニンであればシリアスな要素に主軸を置くのは当然のことかと思います。

対する松緑の助右衛門も、これは梅玉の綱豊のニンに沿った形での役作りになっていたようです。吉之助は現松緑の父(三代目松緑・当時は初代辰之助)の助右衛門を見たことがあります(昭和54年・1979・11月国立劇場でのこと)が、熱く一本気な造りでした。台詞は勢いで突っ走る感じであったかと記憶します。実は吉之助は現松緑もそんな感じに助右衛門を造ってくるかなと予想していましたが、予想とは違って、松緑はむしろ赤穂の純朴な田舎侍と云う感じの助右衛門に仕立てて来ました。台詞のリズムはかなりゆっくり目に踏みしめるように発せられています。もちろんここは梅玉の綱豊の行き方に合わせるのは当然のことで、おかげで御座所での二人の印象が噛み合ったものになりました。

ただし御座所での対話は、これは梅玉と松緑の双方に課題が若干ありそうです。助右衛門から大石の仇討ちの決意を読み取りたい綱豊と、綱豊にそれを気取られたくない助右衛門と云う二元構図に思えて、だから話しが分かりやすいとも云えますが、流れがいささか単純に見えなくもない。だから助右衛門が「あなた様には、六代の征夷大将軍の職をお望みゆえ、それでわざと世を欺いて、造り阿呆の真似をあそばすのでございますか」と叫び始めるのが、その訥々とした流れからして、いささか唐突に感じられます。ここは対話の流れの設計にもう少し工夫が必要でありそうです。「もうこれ以上俺を責め立てるのはやめてくれ」と悲鳴をあげているかように見えます。まあそれも決して的外れではありません。それもひとつの解釈ではありますが、御手打ち覚悟の言なのであるから、そこはもうちょっと助右衛門の気持ちを考えて見たいと思います。

助右衛門は、いつまでたっても仇討ちの決断をしない大石に心底イラ立っているのです。助右衛門自身は、いますぐにでも仇討ちがしたい。しかし、大石が決断をしなければ自分は何も出来ない。それで日頃からずっとイライラしているところに、「綱豊のために行くべき道を示せ、俺はあっぱれ我が国の義士としてそちたちを信じたいのだ」などと今のお前の正直な気持ちを聞かせろとばかり責められると、義士の代表でも何でもない助右衛門としてはどうしようもない。それで大石への憤懣が綱豊に向かうことになるのです。つまりこれは八つ当たりみたいなものなのですが、助右衛門のなかには彼なりの論理的プロセスが確かにあるのです。それは綱豊との対話が、何だか助右衛門には大石と対話しているかのように思えているからです。綱豊の方も、何だか大石と重なったような気分になっている。観客にそこが見えるようにお願いしたいですね。二拍子の感覚を維持しつつ・台詞の速度にもっと緩急を付ける工夫してみたらどうでしょうか。(別稿「指導者の孤独」をご覧ください。)

ところで史実の助右衛門を見ると、劇設定の元禄15年3月半ばでは、当時33歳。分別のある年頃です。助右衛門は江戸給人(江戸藩邸勤務の役人)の子で、江戸生まれの江戸育ち。仲間の大高源吾とともに俳句をする教養人でもあり、赤穂育ちの他の義士たちとはかなり雰囲気が異なった人物であったかも知れませんねえ。助右衛門は江戸近郊の平間村(現在の川崎市内)に住み、堀部安兵衛を始めとする江戸急進派とはあまり付き合いをしなかったようです。このため「浅野仇討記」と云う古文書に拠れば、助右衛門は「うろんなり」(疑わしい)・つまりアイツは仇討ちに参加せぬだろうと周囲から見られていたようです。しかし、その1年前・主君浅野内匠頭が幕府の裁断により即日切腹となった時、助右衛門の母はその不当な裁きに憤慨し、武士の本懐を果たすように息子に言ったそうで、仇討ち当日は助右衛門は母から贈られた女小袖を身に着けて討ち入りに参加しました。人付き合いは上手くないが、周囲に振り回されず・信念を決して曲げない男と言う人物像が浮かんで来るようです。多分そんなところから、青果は「御浜御殿」の助右衛門を構築したと思います。

それと能舞台前で綱豊が助右衛門の襟髪をつかんで地面に押さえ付け説経する場面ですが、今回はここを綱豊から二歩ほど離れて助右衛門が平伏する形に変えたのは、これは何故でありましょうかね。(平成25年12月京都南座所演では、梅玉の綱豊は助右衛門を地面に押さえつけてますね。)まさかコロナ仕様でもあるまいし。いまいち絵面的に緊迫感が乏しい気がします。ここでは「七段目」で由良助が九太夫を打ち据えるのと同じ構図が見立てられているのです。「阿呆払いにして追っ返してやれ」も、由良助の「水雑炊を喰らわせやい」に見立てられています。そこに青果の遊び心があるだろうと思います。

(R4・3・5)


〇観劇50周年

今回は「雑談」というよりは「愚痴」と云うことになりますが、まあ聞いてください。実は吉之助にとって、今年(2022)は「観劇50周年」という節目の年です。多分それ以前にもお芝居は目にしていますが・それは子供向けのものであったり・学校で見たものとかであったりするので・まあそれらは有史以前のもので、はっきり「観劇」と呼べるもの(本格的なストレート・プレイ)は、それは昭和47年(1972)8月・日生劇場での、シェークスピア作「ハムレット」が初めてでありました。主演のハムレット役は六代目市川染五郎(当時29歳、8月19日がお誕生日なので・もしかしたら30歳であったかも知れません)、つまり現在の二代目白鸚でした。だから吉之助の観劇初体験は歌舞伎ではありませんが、最初に舞台で目にした俳優は歌舞伎役者・染五郎であったということです。(ちなみに吉之助が最初に歌舞伎を見たのも同じ年の9月のことで、それは前進座での「俊寛」の公演でした。したがって今年(2022)は吉之助にとって「歌舞伎50周年」でもあるわけです。もっとも吉之助が歌舞伎を本腰入れて見始めたのは、昭和50年代に入ってからですが。)いちおう証拠のチラシを添付しておきます。

   

*昭和47年(1972)8月・日生劇場・「ハムレット」チラシ(左上)
市川染五郎(ハムレット)、山口果林(オフィーリア)、高橋幸治(クローディアス)、草笛光子(ガートルード)、夏八木勲(レアーティーズ)、小沢栄太郎(ポローニアス)他・・・懐かしい顔ぶれですねえ。

台詞廻しは明晰で、若者らしく溌剌とした、それでいて繊細なところもあるハムレットでしたねえ。剣術試合の場面などカッコ良かったですよ。染五郎が歌舞伎役者だと云うことを意識はしませんでしたが(その時は歌舞伎をまだ知らないのだから仕方がない)、その後に何人かの役者のハムレットの舞台を見ましたが、吉之助には今でも染五郎のハムレットが一番良かったように思われますし、「やはり様式の裏付けを持つ役者は違う」ということを都度思ったものです。新劇でこれだけ素晴らしい・・それならば本家での舞台はどれほどのものか見てみたい・・・と云うようなことを考えさせる伝統芸能の役者は、吉之助にとっては染五郎と玉三郎と萬斎しかいません。

まあそういうことですので、今回(令和4年・2022・2月)日生劇場での、白鸚の「ラマンチャの男」ファイナル公演(チラシ右上)については、実は吉之助にとって、いろいろ個人的な思い入れがあったわけなのです。ところが、吉之助が見に行く予定をしていた日の公演が、コロナのせいで休演になっちゃいました。と云うことで、人知れず自らの「観劇50周年」を祝うつもりが、パーになっちゃいました。残念無念というのは、こういう時に使う言葉ですねえ。・・・「愚痴」を書いたら、少しスッキリしましたよ。

(R4・2・21)


〇令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形〜鼠小僧次郎吉」・その7

ですから「鼠小僧」のなかの「世界」は捻じれているのです。この芝居ではヘンな人間ばかり登場して・寄ってたかって幸蔵(鼠小僧)の過去を暴き立てるかのようなご都合主義のドラマに見えるかも知れませんが、それは「世界」が歪んでいるからそう見えるのです。幸蔵は「パラレル・ワールド」に迷い込んだのです。だから芝居が新しい次元に入ったことを明確に観客に示さねばなりません。稲毛家屋敷塀外辻番の場を見ます。

与惣:「呼び留めましたは盗人どの、こなたにちっと頼みがござる」
幸蔵:「なに、私に頼みとは。」
与惣:「外でもない、この親父の命を取って貰いたい。」
幸蔵:「何と言わっしゃる。」

上記の場面が幸蔵が「パラレル・ワールド」に迷い込むきっかけなのですから、「なに、私に頼みとは」・「何と言わっしゃる」と云う幸蔵の与惣兵衛に対する反応(リアクション)は、観客にそのことを暗示するように、幸蔵の心理を細密に描かれなくてはなりません。それは「クサい演技だ」と云われるくらいであっても良い、それが小団次の空っ世話の写実なのです。この場面の菊之助幸蔵(鼠小僧)は品行方正な泥棒と云う感じで、そこがまあ菊之助らしいとは云えますが、それが駄目だと云うことではなく、菊之助の持ち味のなかで・どこまで写実(リアル)に刺さり込んで行けるかと云うことが今後の課題になろうかと思います。小団次の写実を学ぶことは、菊之助には大いに役に立つと思いますよ。

それにしても今回の「鼠小僧」が他の小団次劇と違って新鮮な印象がするのは、例えば「宇都谷峠」であると、最後で破滅した主人公(十兵衛)の耳元で他者が「これで君にもやっと分かっただろ」と囁く結末ですが、「鼠小僧」ではその構図が稲葉幸蔵内で実質的に終わることです。したがって、大詰(奉行所白洲・裏手水門)では、芝居は元の「世界」に還っているわけです。だから鼠小僧が縄目を脱して、「今はひとまず立ち去るが、泡と消えゆく悪事の終わり、情け深い早瀬殿の縄に掛かって死ぬ覚悟である」と告げて、鼠小僧が暗闇へ消えていく、この幕切れに、鼠小僧の後の刑死が予告されているけれども・そこは観客に見せず、気持ち良く観客に劇場からお帰りいただけると云うことです。通し狂言での・この収め方は悪くありません。安政4年(1857)1月江戸市村座での「鼠小僧」初演が好評で、芝居が3月まで90日余りも打ち続けたというのは、そう云うところからも来るのでしょう。

実は明治・大正期の、五代目・六代目菊五郎らによる「鼠小僧」上演は通しで行なわれたことはなく、今回上演で云うと二幕目・三幕目のみの「見取り上演」でした。「鼠小僧」の場合には2幕の見取り上演であっても、パラレル・ワールド」に迷い込み・そこから元の「世界」へ還る(自首に走る)と云う基本構図が取れることになるので、まあそういう上演の仕方もあろうかと思います。これでも因果劇の最低限のところは見せることが出来ます。しかし、通し狂言に仕立てて大詰を付けると、いつもの因果劇の重苦しさから逃れられて、とても後味が良い。コロナ状況下での通し狂言であったため、上演時間の制約もあり(それでも九時半近くの終演は近頃珍しいことでした)・補綴脚本には多少無理な箇所もあったようでしたが、今回の「鼠小僧」半通しは歌舞伎座で久しぶりにコース料理に近いものを味わった気分がして、いつになく満足をいたしました。

(R4・2・20)


〇令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形〜鼠小僧次郎吉」・その6

黙阿弥という人は酒も煙草もやらず女遊びもせず、特に信心に凝ることもなかった真面目人間であったそうです。醒めた眼でさまざまな人生を観察し・芝居作りに励む職人気質、そんな人物が浮かんできます。しかし、そんな黙阿弥が因果応報の理(ことわり)だけは固くこれを信じ、これを終生、処世の方便・信条としていたそうです。

ところで吉之助は、黙阿弥の芝居は現代の村上春樹の小説によく似ている、そこに黙阿弥の「未来性」を理解する取っ掛かりがあると思っています。(ホントはどうして似るのか・時代がどこか似ているのかと云うことまで考えねばなりませんが、本稿ではそこまでは論じません。)佐々木敦氏は、居心地の良い自我のなかで自足していた「僕」が思いがけない事件によって外界へ自己を展開することを強いられていく・そのようなパターンが村上文学だと世間では思われているようだが、実はそうではないと思うと佐々木氏は云います。村上文学の「主人公=僕」はひとの気持ちが分からない人間である。自分が外界に対して不感症であることに本人は気が付いていて、これではいけないと思う。そこで主人公は色々するのだが、やっぱり彼は変ることはないと佐々木氏は言います。(詳しくは別稿「村上春樹・または黙阿弥的世界」をご参照ください。)

『なぜ彼は変れないのか。それはつまり、実のところ、彼には何故「これではいけないか」のかさえ、本当はまったく分かっていないからだ。それが「人の気持ちが分からない」ということなのである。だから彼には、分かった振りをしてみる・分かったことにしてみる、ということしか出来ない。そうすると何だか自分でも、分かったような・分かっているような気がしてくるから不思議だ。そしてここがポイントなのだが、そこに誰か(他者)がやってきて、こう言ってくれるのである。「やっと分かったわね」と。でも本当は、彼は分かってなどいないし、分かりたい気持ちがあったとしても、どうしても分かれないのだ。』(佐々木敦:「リトル・ピープルよりレワニワを」 〜「村上春樹・「1Q84」をどう読むか」に所収)

この文章を読んで吉之助が感じることは、「これは黙阿弥とまったく同じだ」と云うことです。黙阿弥の主人公も、何だか漠然と「今の自分ではいけない」と感じて・何とか変りたいと感じているのですが、何をしたらいいのか彼は全然分からない。それで何とはなしに日々を過ごしているのですが、そこに突発的な事態が起こって・状況は彼にとって非常にマズい方向に傾いていきます。「どうしてこうなっちゃうの」とボヤきながら、彼は否応なしに決断せざるを得ない状況に追い込まれます。大抵の場合彼は泥棒になっちゃうのです。結局は破滅する破目になるのですが、その時に他者が登場して「これで君にもやっと分かっただろ」と言うのです。でも彼は自分があのままでいて良かったとはとても思えない。ホントは自分が何をしたかったのか・何をするべきだったかも死ぬ間際までやっぱり分からない。疑問は最後まで重く残ったまま終わる。これが幕末期の黙阿弥のドラマなのです。「十六夜清心」が、このパターンであることはお分りでしょう。

「鼠小僧」の場合は、これとは若干パターンが異なります。芝居の最初から幸蔵は怪盗鼠小僧です。しかし、後の経路は驚くほど似ています。幸蔵は何の罪の意識もなく(と云うか深いことは何も考えず)、自分は義賊だと信じていました。大名の財を盗んで・これを恵まれない人に分け与えているだけだ、自分は良いことをしているんだと信じていたのです。ところが、実はそれがそうではなかったのです。(史実の鼠小僧はどうやら義賊ではなかったようですが、これは芝居とは全然関係ないことです。民衆が鼠小僧を義賊だと信じたことこそ大事なのです。)

それが分り始めるきっかけは、幸蔵が稲毛家屋敷に忍び込み奪った百両を、金に困って身投げしようとしていた新助とお元に与えたことから始まります。ここまでは何も起きません。多分幸蔵は「ああ、良いことをした」と得意な気持ちだったでしょう。ところがそれを見ていた辻番(与惣兵衛)が「そなた(鼠小僧)を捕えるようにも老人の非力では無理だ・それならばいっそ俺を殺してくれ」と奇妙なことを云い始めます。ここから幸蔵(鼠小僧)の思いがけない「気付き」が始まります。これをきっかけに芝居は違う次元の「世界」へと入って行くのです。村上文学では、これを「パラレル・ワールド」と呼んでいます。これを村上文学に見出すならば、その予兆(サイン)は、例えば突然失踪した妻(ねじまき鳥クロニクル)、人間の言葉をしゃべる猫(海辺のカフカ)、夜空に浮かぶ二つの月(1Q84)などです。

いったん運命の歯車が廻り始めたら、もうこれを止めることは出来ません。占い店(稲葉幸蔵内)に三吉がやってきて、新助にやった銭には刻印があって・それを証拠に新助が盗みの嫌疑で捕われの身となったことを語ります。さらに稲毛家若党曾平次から辻番・与惣兵衛が盗賊手引きの疑いで・これも捕縛されたことを聞きます。これで幸蔵は自首を決意しますが、さらに(追い打ちするかの如く)生き別れした女房お松(遊女松山)との思いがけない再会・育ての母である強欲なお熊を殺してしまう件と、「選りに選ってこんな時に、どうしてこうなっちゃうの」ということが次々と幸蔵に振り掛かります。しかも、それらすべてが幸蔵の過去と絡んでおり、それが廻り巡って幸蔵の元に一気に押し寄せて来るのです。否応なく幸蔵は自分のこれまでの人生と全面的に対さざるを得なくなります。この時、幸蔵の耳元で「これで君にもやっと分かっただろ」とささやく他者の声がするのです。これが因果応報の理の声です。多分その声は芝居を見ている観客の耳元でも聞こえます。(この稿つづく)

(R4・2・19)


〇令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形〜鼠小僧次郎吉」・その5

四代目小団次が上方修業を終えて江戸に戻ったのは弘化4年(1847)のことですが、この時代の江戸歌舞伎は役者の面から見るといわゆる「端境期」で、文化文政期(つまり鶴屋南北の時代)に活躍した名優たちがこの頃次々亡くなっています。例えば天保2年(1832)三代目三津五郎、天保9年(1838)三代目歌右衛門・五代目幸四郎、弘化4年(1847)五代目半四郎、嘉永2年(1849)三代目菊五郎などです。「鼠小僧」が初演された安政4年(1857)だと七代目団十郎は存命ですが、団十郎は天保改革で天保13年(1842)に江戸追放になって嘉永2年(1849)に赦されて江戸に戻りますが、その後も旅芝居で江戸を空けることが多かったのです。(七代目団十郎は安政6年・1859に死去。八代目団十郎は嘉永7年・1854に自害。) 後に明治の歌舞伎をリードすることになる九代目団十郎・五代目菊五郎・四代目芝翫らはまだ海のものとも山のものとも知れません。そんな中で上方仕込みのケレンや舞踊で人気を集めたのが、小団次でした。言い換えればそんな「端境期・混乱期」であったからこそ、家柄のない小団次が実力でのし上がれたということでもあります。この時代は大名題がそんなお寒い状況でしたが、一方で名題下の役者連中には文化文政期の名優に仕込まれた腕利きがゴロゴロいました。ですから黙阿弥の芝居などでも、名題下の役者が勤める脇役の台詞の方が写実(リアル)で面白く書かれており、主役級の台詞の方は、七五で割ってしゃべりたくなりそうな・つまりリズムに乗りさえすれば何とかなりそうな様式っぽい感じで書かれています。

現代でこれを上演しようとすると、上演時間の制限もあるので・枝葉を刈り込んで筋を整理せねばなりません。だから主筋に直接関係ない脇役が活躍するコミカルな写実の芝居の場面をバサバサ切り落とさざるを得ない。そうすると筋の通りは良くなるようだけれど、却って細かいところで筋の矛盾が目立って来ることになる。芝居としてはスカみたいになって、あまり面白くなくなってしまう。そこが現代の黙阿弥物の通し狂言復活の難しいところです。(実はいつも見る「三人吉三」通しなどにもそんなところがあります。)

これは黙阿弥物の復活には必ずつきまとうジレンマです。ここで役者が心掛けねばならぬことは、兎も角も補綴・整理した脚本で、どこまで写実(リアル)でテンポの小気味良い芝居に仕立てられるかと云うことです。その昔には「空っ世話」ということをよく云ったものでした。現代ではほとんど死語ですが。「空っ世話」とは、要するに様式の要素が少ない・写実の芝居のことを云います。サラッとして粘らない・テンポが早めの芝居です。様式っぽい歌舞伎に慣れた現代の観客からすると、「これは新劇なのか・・?」と驚くくらいのものです。昔、六代目菊五郎の勘平を舞台脇で見ていた若き八代目三津五郎が「六代目の勘平って、まるで新劇ですね」と口走って、父親(七代目三津五郎)に「バカっ、あれが歌舞伎だよ」と怒られたと云う話しがありますが、「空っ世話」と云うのはそう云うものです。今回(令和4年2月歌舞伎座)上演の「鼠小僧」の芝居も、ホントはそのくらいの「空っ世話」でやって欲しいわけです。

但し書き付けますが、今回の「鼠小僧」上演は、29年振りと滅多にやらない芝居なので、どの役者も先入観がないところで頑張っています。まずは素直な出来で、いつもの黙阿弥劇とは違う側面を垣間見せたと思います。吉之助の耳に入るところでは「なかなか新鮮で面白かった」と好意的な声が多かったようです。

そのことを認めた上で申し上げますけど、臍曲がりの吉之助の目から見ると、小団次劇としてはまだまだ物足りませんねえ。因果応報と云うのは、「原因があるから・この結果がある」と云うようなものです。悪事が巡りめぐって自分のところに返って来る。その過程を明解に説明する。しかし、因果の筋が分かったからと云って・それだけで因果応報の闇の深さが実感出来るものでしょうか。吉之助は、芝居に写実(リアルさ)が足りない不満が残ります。一応の形は取れていますが、芝居に写実(リアルさ)への突っ込みが足りないと思うのです。それは、幸蔵が庚申の夜の生まれであったから泥棒になったとか、与惣兵衛が実は幸蔵の・生き別れた父親であったとか、説明が付けば・それでドラマが分かる(だろう)と云うような、何と云うかな、楽観的なところに留まっているせいだろうと思います。これが補綴脚本のせいか・役者のせいかと云うことは今は置きますが、ドラマの真実と云うところにいまいち肉薄出来ていない。だから、ドラマを嘘事にしないためにも「空っ世話」ということが必要になってくるのです。大事なことは、ドラマの真実を抉り出そうとする気迫と云うことですかねえ。

ところで話しが飛ぶようですが、真山青果に昭和4年(1929)に初演された「鼠小僧次郎吉」という新歌舞伎があります。この芝居では、その昔困窮していたところを和泉屋次郎吉に大金を恵まれて助けられ(実はそれが盗んだ金であった)、これを恩義に感じて次郎吉を慕っていた船頭菊松は、ひょんなことから次郎吉が泥棒・鼠小僧であったことを知ります。菊松は何とかして次郎吉に江戸の地を離れて堅気で暮らさせたいと奔走しますが、そうするうち菊松はもうひとりの偽鼠小僧に殺されます。今際の菊松が次郎吉に呟く台詞を挙げておきます。

菊松:「親分さん、あたしは・・あたしはね、お前さんの死ぬ日を、いつか一度見せられる日があるだろうと思って、今日まで苦労していたが、あたしが先に死ねば、その悲しい日を見ないで済みます。親方、お前さんもどうで・・長くはありませんぜ。」
次郎吉:「ううむ、そうだ。(涙を呑み)菊松、途中で待っていてくんなよ。(中略)大抵の覚悟はしているつもりだ。」
菊松:「親分、この世は苦しうござんすねえ。お前さんも、さぞ・・・苦しうござんしたろうねえ。」
次郎吉:「ううむ・・・」
(真山青果:「鼠小僧次郎吉」)

もちろん黙阿弥の「鼠小僧」は、青果版とは設定が全然違います。青果が黙阿弥版を参考にしたともまったく思いませんが、それにしても同じ鼠小僧次郎吉を主人公に、黙阿弥も青果も、何だか似たような芝居を創ったものだなあと不思議に思うのです。つまり二つの芝居に共通する主題は、「この世は苦しうござんすねえ。お前さんも、さぞ・・・苦しうござんしたろうねえ」と云うことなのですがね。因果応報の理自体はどうでもよろしいのです。吉之助は鼠小僧の哀しみをそこに見たいのです。(この稿つづく)

(R4・2・16)


〇令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形〜鼠小僧次郎吉」・その4

さらに「鼠小僧」・稲葉幸蔵内の場のト書浄瑠璃の「未来性」について考えます。通常の義太夫狂言では、本行(文楽)の義太夫の詞章・節附けがまず最初に在って、これを役者のパート(台詞)と・竹本のパート(情景描写)に振り分けするわけです。これは音曲を分解する作業ですが、義太夫節の縛りが厳然と根底に在りますから、これに沿って役者が動くことをする限り、場が崩壊することはありません。言い換えれば、様式を縛る力(ベクトル)と崩壊させる力(ベクトル)が拮抗するところで、義太夫狂言独特の緊張感が成立するのです。これがいわゆる「義太夫味」と云われるものです。

一方、ト書浄瑠璃では、通常、作者はまず一連の台詞を書き、次に台詞と台詞の間にト書を挿入するわけです。さらにト書き部分を義太夫に仕立てて・流れを繋げます。これはバラバラの材料を繋げていく作業になります。そうなると枠組みの縛りが元々存在しないわけだから、先ほど言った「様式を縛る力(ベクトル)と崩壊させる力(ベクトル)が拮抗する」状態があまり強くない。だからト書浄瑠璃の芝居は、下手をすると演技が伸びて締まりがなく・緊張感がないものになり易い。三流の義太夫狂言を見る気分に陥りやすいのです。役者が「義太夫味」を出そうとジタバタすると、ますますそうなります。

こう云う場合、歌舞伎が本行(文楽)の義太夫が生み出すひとつの流れのなかから人間(役者)の台詞を抜き出して義太夫狂言に仕立てて行くのとは真反対のプロセスをイメージせねばなりません。ト書浄瑠璃では「人間の肉声(台詞)は音楽(竹本)によって分断されている」という認識を大前提として持つべきなのです。つまり音楽もまた台詞によって分断されていることになります。一貫した流れなど最初から存在しないのです。このバラバラ状態をひとつの息の流れがあるように(繋がっているように)見せることは、これは役者が担うべき仕事です。その取っ掛かりは、一連の台詞にあります。ですからト書浄瑠璃は、むしろ演技の心理的情景を補足説明してくれるものと割り切り、役者は演技に余計な思い入れを籠めず、自らの写実的演技に徹した方が宜しいのです。演技が「繋っている」ように見せるために肝要なのは、(ト書きの間を)「息を詰める」ことに尽きます。テンポ早めにして粘らない方がよろしい。あくまで演技の写実(リアルさ)を際立たせるためのト書浄瑠璃なのです。

竹本(義太夫)が入ると芝居が様式の感触へ傾くとまあ普通はそんなものです。だから竹本に合わせて思い入れをしてみたりすると、すればするほど芝居は様式の方へ傾きます。しかし、細かいところは竹本が観客に説明してくれるのだから、竹本は映画の背景音楽みたいなものだと割り切ってしまえば、役者は思い切って写実の・アッサリした演技が出来るはずです。鳥目で夫の顔を判別できない遊女松山(お松)が泣いてみせても、これだけでは視覚的に観客に十分伝わらないものがあります。そこで〽見えぬ鳥目のいじらしさ・・と竹本が説明してくれれば、「あ〜ア私は目が見えてません」なんて余計な説明的演技をしなくても良くなるわけです。そうすると演技がスッキリ見えてきます。このことは映画から背景音楽を奪ってしまえば、俳優がどれほどショボく見えるか想像してみれば分かると思います。小団次劇のト書浄瑠璃に求められている役割は、それです。

そのように考えることで、ト書き浄瑠璃は引き裂かれた(バロック的な)近代演劇の一形態として認知されるはずです。そこにト書浄瑠璃の「未来性」があると考えます。別稿「牧の方」観劇随想に於いて、逍遥が試みた新歌舞伎でのト書浄瑠璃の挿入は時代遅れのアナクロニズムに感じるかも知れないが・実はそうではなく、幕末の小団次と黙阿弥のト書き浄瑠璃から発した未来志向の手法だと申し上げたのは、それ故です。

今回令和4年2月歌舞伎座)稲葉幸蔵内の場のト書浄瑠璃での、菊之助(幸蔵)と雀右衛門(遊女松山)は、もともとあまり粘らない芸風のお二人ですから・さほど悪くはないですけれど、やはり「古典」の感触に安定的に収まってしまった印象です。しかし、明け方になって目が見えてきた松山が家に戻ってきて夫・幸蔵と対面を果たす場面は本来幕切れの熱くなるべきところで、これがオペラならば・ここでテンポが早くなって・音楽がクレッシェンドして・熱い夫婦の二重唱で幕を下ろすところです。そう云うフィナーレは、さりげなく短い方が印象的で良いのです。グッと高まって・さりげなく引く、ヴェリズモ・オペラ(世話物オペラ)では、そう云う終わり方をするものです。ところが菊之助と雀右衛門を見てると、そこはテンポをしっかり守ってお行儀は良いけれど、何だか醒めた感じにも見えるわけです。〽両人ひしと縋り付き・・と竹本が語るところなんて、切ない場面じゃないか。幸蔵は一刻も早く自首せねばなりません。夫婦に残された時間は少ないのです。ここを熱く盛り上げて印象的に締めるにはどうしたら良いか、そういうところをもう少し工夫して欲しいのです。それが演技の写実(リアルさ)を際立たせるコツだと思いますがねえ。(この稿つづく)

(R4・2・12)


〇令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形〜鼠小僧次郎吉」・その3

今回(令和4年2月歌舞伎座)の「鼠小僧」の舞台は、近年上演されない為・役者にほとんど先入観がありませんから、良い意味において・余計なものを何も足さない(つまりいわゆる「歌舞伎らしい」・ねっとり伸びた湿った感覚にしない)行き方であったことが功を奏して、テンポもまずまず良くて・素直な感じがして、まあ書き物(新作)に近い感触ではありますが、いつもの黙阿弥劇とは違う側面を見せたのではないでしょうか。そこのところは十分評価出来ると思います。ただし、前章で触れた小団次劇の「未来性」を垣間見せるところまでは行っていない。この小団次劇の演劇理念をこのまま延長して行ったらば、その後の歌舞伎はどんな様相になったかなと思わせる「危ないところ」が欲しいのです。その危ない要素こそ、後に(慶応2年・1866)小団次を死に追いやった原因です。(別稿「小団次の西洋」を参照ください。)そこのところをちょっと考えてみて欲しいのです。

まず今回の「鼠小僧」の4幕(原作脚本は5幕)を見ると、3幕目稲葉幸蔵内の場の感触が他幕とは少々異なることに気が付くと思います。良いの悪いの云うのではなく、他幕よりも稲葉幸蔵内がいつもの「歌舞伎らしい」感触の方へ少し寄っているように感じるのです。どうしてそのように感じるかと云うと、原因は二つあります。ひとつは、蜆売り三吉が登場して、いつもの子役芝居の感触の方へ傾くからです。周囲が(観客も含めてですが)息を詰めて子役を見守る雰囲気になるので、どうしても子役芝居になってしまう。もうひとつは、他幕が下座音楽を入れない形式で・ほぼ完全な地狂言(台詞劇)として推移するのに、稲葉幸蔵内のみに、遊女松山(実は幸蔵女房お松)が登場して幸蔵との思いがけない再会の愁嘆場でト書浄瑠璃が入るからです。このため感触がいつもの義太夫狂言っぽくなってしまいます。音楽が前面に出てくることで、芝居が様式の感触に傾くのです。つまりこの稲葉幸蔵内が「未来性」とは逆の方向(ベクトル)へ引っ張られていると見えるのです。そこのところが、吉之助には引っ掛かります。吉之助はそこを小団次劇の「未来性」だと受け取りたいからです。

まず丑之助の名誉のために付け加えますが、丑之助が悪いと言っているのではありません。丑之助の蜆売り三吉は8歳にしてよく頑張りました。三吉は歌舞伎の子役のなかで突出した難役です。これだけの長台詞をよくこなしたと褒めてやってください。それはそうだけれども、やはり子役芝居の感触になってしまうのは仕方がないことです。そこでもし丑之助が14歳でまた三吉を勤めたら・・ということを想像してもらいたいのですが、当然子役芝居の感触にならないはずです。この芝居「鼠小僧」ではそれ(子役芝居でないもの)が本来望まれていると云うことを想像して欲しいのです。安政4年(1857)江戸市村座での初演では、後に明治期を代表する名優となる・五代目菊五郎が14歳で三吉を演じ、好評を得ました。しかし、これは演らせてみたら意外と上出来だったと云うサプライズでも何でもなく、脚本を読めば歴然としていることですが、黙阿弥・小団次は少年菊五郎の天才を見抜いたうえで子役芝居以上のものを出すつもりで、計算してあの長台詞を与えているのです。

今回(令和4年2月歌舞伎座)の稲葉幸蔵内の場を見ると、三吉が「泥棒がどこに居るか、教えておくんなせえ」と易者幸蔵に云う場面、あるいは幸蔵が銭を与えようとすると三吉が「銭に刻印があるといけない」(原作脚本では「また縛られるといけねえものを」)と云う場面で、菊之助の易者幸蔵はほとんど表情を変えず、はっきりした反応を見せませんねえ。ここは子役の見せ場だから・ここで為所を奪っちゃいけねえと云うことでしょうかね。確かに普通こう云う場面では、歌舞伎ではあまり生(なま)な・リアルな反応は見せないものです。しかし、小団次劇では、そこの表現が真反対です。例えば原作脚本を見ると、

三吉:「あい、泥棒がどこに居るか、教えておくんなせえ」
幸蔵・左内:「えっ」(ト顔見合わせ思い入れ)
幸蔵:「藪から棒に盗人を教えてくれとは、どういうわけだ」

易者幸蔵が実は泥棒・鼠小僧であることを、観客は前幕で見て承知しています。「泥棒がどこに居るか、教えておくんなせえ」と三吉が言えば、当然幸蔵はギクッと驚くだろうが・観客だって驚きます。「何だって急に小僧は泥棒のことを云うのだ?もしかしたら小僧は幸蔵が泥棒だと知っているのか?」と思って、次の展開を期待して、観客は視線を幸蔵の方に向けるに違いない。だから、黙阿弥はちゃんと「えっ」と云う幸蔵の驚きの反応を書いています。そうすると「藪から棒に盗人を教えてくれとは、どういうわけだ」という幸蔵の台詞はどうなるでしょうか。動揺を気取られないようにしつつも・不安を抑えきれないという心持ちで、声の調子を低く取る、或いは声を小さくしても良いと思いますが、息を詰めて・三吉の返答をじっと待つ・・という感じになると思います。しかし、この場面での菊之助は「えっ」とも言わず、したがって顔色も変えず、正面を向いたままでしたねえ。これでは小団次劇では駄目なのです。小団次劇は心理芝居です。ここでは幸蔵の心理がクローズアップされているのです。

左内:「せつかく先生が(銭を)やろうとおっしゃるに、何故貰わぬのだ。」
三吉:「また縛られるといけねえものを。」
幸蔵:「え。」(トぎっくり思い入れ)

この場面も同様です。黙阿弥はここでも観客が幸蔵の方に目を転じるように脚本を書いています。幸蔵は親切心で(盗んだ)百両を新助に恵んだはずでした。しかし、これが飛んだことになってしまいました。「しまった・・しくじった」という気持ちで、幸蔵は一杯のはずです。だから幸蔵は占いの代金も取らず、そのうえ銭を三吉にやろうということまでしてしまう。済まなかった・・という気分があるからです。そんなところで「また縛られるといけねえものを」と三吉に言われてしまうと、図星を指されたようで、幸蔵はオドオドしてしまうのです。しかし、ここでも菊之助は「えっ」とは言わず、顔色を全然変えませんねえ。これでは小団次劇では駄目なのです。まあ傷と云うほどのものでないようだけれど、吉之助から見ると表現が後ろ向きに見えますね。「未来性」を感じさせてくれません。せっかく丑之助が頑張っているのだから、こう云う場面では、菊之助は息子の台詞を真正面で受けた方がずっと良いのです。

こう云う場面で役者が生(なま)な・リアルな反応を見せると「クサい」と云うのが、いわゆる「歌舞伎らしさ」の感覚でしょう。しかし、ここでの幸蔵の反応は心理の襞(ひだ)の襞まで分け入って・心理学的に裏付けされたもので、そこを意識してやってみせるのが小団次劇なのです。この表現手法をずっと延長していった先に、大正期の自然主義演劇が見えると考えて欲しいと思います。さらに後の映画の表現があると言っても良いかも知れません。それは小団次の憤死によって歌舞伎では結果として断ち切られたのですが、それが小団次劇の「未来性」であったのです。これを引き出すために、黙阿弥・小団次が14歳の少年菊五郎に役を与えて、この場に子役芝居以上のものを期待したことは、これで明らかなのです。以上本稿では典型的な2ヶ所を例に挙げて説明をしました。付け加えますが、この表現手法が適用できる場面は、他幕も含めて「鼠小僧」のなかの随所に見られるものです。(この稿つづく)

(R4・2・10)


〇令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形〜鼠小僧次郎吉」・その2

「明治維新により幕末歌舞伎の写実劇(小団次劇)の流れは一旦断ち切られた」と云う歴史認識について、こう云う質問が出るかも知れませんねえ。小団次劇を引き継いだ五代目菊五郎の芸もまた写実(リアル)を旨とするものではなかったかと云うことです。よいご質問です。

五代目菊五郎が写実を旨としたのは、その通りです。しかし、小団次が目指す写実とは若干異なるものでした。五代目菊五郎の写実が目指したところは、「・・らしさ」・本物らしさの追求でした。「・・らしさ」ということは、或る種のパターン(型)みたいなものです。この考え方では確かに髪結らしい・按摩らしい人物は造れるけれども、例えばその人物が何故悪の道に手をそめるようになったか・その人生の奥行までも表現することは出来なかったのです。折口信夫は六代目菊五郎の写実について、こんなことを書いています。

『舞台批評に繰り返される道玄・長庵を演じる基礎としての写真表現は、おそらく道玄・長庵以上に、そうした職業人の習性またそういう悪人らしき者に共通する生の様式を表現していることは事実である。識者(劇評家あるいは好事家)はそれに心づき、その準備行動の周到なのを喜ぶのである。だが、それは性格不明な座頭が蕎麦を喰い、老車夫が如何にも老車夫らしく車を引く様を演じている場合と、ちっとも違っていないのである。畢竟、(六代目)菊五郎ほどの人間が、こう云う段階の写形に止まった理由は、性根の意義の解釈が異なっていて、性格表現とは別なものに向いていたからである。』

誤解ないように付け加えますが、これを五代目・六代目菊五郎の表現意欲の減退であるなどと決して考えてはなりません。向いている方向が異なるだけのことです。このことは江戸と云う故郷から切り離された明治〜大正期の歌舞伎の、古典化・様式化の流れの上で理解すべき事象であろうと考えます。

話しを基に戻すと、小団次に於ける写実(リアル)とは、緻密な心理表現・性格表現に根差すものです。深い脚本理解に基づき、役の人物の人生の奥行までも表現しようとする態度、つまりこれは後の大正期の自然主義演劇の考え方を先取りしたのかと思うほどのものです。小団次劇の流れは明治維新で断ち切られたために実現は成りませんでしたが、小団次劇はそのなかに「未来性」を孕んでいました。もしこの小団次の思想をそのまま延長して行くならば、それはそのまま自然主義演劇の考え方へと行き着く可能性さえ孕んでいたと吉之助は考えています。

そう云われると、恐らく歌舞伎好きには「歌舞伎役者が自然主義演劇思想なんかに染まったら百害あって一利ない」と感じる方も少なくないと思います。それは役者が近代を云うものを表層的に受け取るからそうなってしまうのです。正しい方法論を以て歌舞伎の歴史認識を踏まえるならば、決してそんなことにならないのです。そこから小団次に於ける写実の「未来性」が見えて来るはずです。なぜならば芝居の原点が「物真似尽くし」・つまり写実にあるからです。したがって別稿「六代目歌右衛門の牧の方」のなかで坪内逍遥の新歌舞伎の「未来性」を考えましたが、小団次劇(幕末)-逍遥劇(明治)-自然主義演劇(大正)という幻の流れを思い浮かべながら、これ以降をお読みいただきたいと思います。

(R4・2・7)


〇令和4年2月歌舞伎座:「鼠小紋春着雛形〜鼠小僧次郎吉」・その1

2月歌舞伎座の「鼠小紋春着雛形」(ねずみこぞうはるぎのひながた)・通称「鼠小僧次郎吉」(以下「鼠小僧」と略す)を見てきました。本作は黙阿弥が四代目小団次のために書き下ろしたもので、安政4年(1857)1月江戸市村座で初演されて大評判を取ったものです。この時、後の五代目菊五郎が14歳(当時は十三代目羽左衛門)で蜆売り三吉を勤めました。深川蛤川岸へ実地見学に行ったりして口の利き様など覚えて熱心に演じて大出来で、小団次もこの少年の技量に大いに感心したと云うことです。五代目菊五郎が「弁天小僧」を演じて大ブレークしたのは、この5年後のこと。そんなことも縁となって、本作は明治の世では五代目菊五郎が鼠小僧を演じて継承され、さらにこれを六代目菊五郎が受け継いだので、本作は「音羽屋の家の芸」的なイメージで見られています。しかし、「鼠小僧」は大正14年(1925)2月二長町市村座で六代目菊五郎が演じて以来しばらく上演が絶えていて、平成5年(1993)3月国立劇場で当代・七代目菊五郎が演じたのが、実に68年振りのことでした。つまり昭和期に本作は一度も上演されなかったわけです。吉之助も巡り合わせが悪くて、平成5年の上演は見ていません。今回の上演はそれ以来のことで、29年振りのことになります。

今回(令和4年2月歌舞伎座)の菊之助の鼠小僧による上演は、脚本もスッキリ筋が整理されて・この芝居のアウトラインが十分理解出来るものになっています。また主演の菊之助も一生懸命演じて、エンタテイメントとして楽しめる芝居に仕上がっています。このところの歌舞伎座は、コロナだから仕方がないと云いながら、いつもながらの演目を・役者を替えて繰り返して・演目建てに新味が感じられないことが多い。だからこのような埋もれた名作の掘り起こしは、有難いことです。そこから新たな古典の見直しの動きが始まるかも知れません。そこで今回上演の意義を認めつつも(菊之助の挑戦を讃えつつも)、ここをこうすれば芝居がもっと良くなるのじゃないのという視点で本稿を進めて行きたいと思います。

まず「鼠小僧」を考える時に念頭に置かねばならぬことは、この芝居が四代目小団次のために書き下ろされたものだと云うことです。黙阿弥(当時は二代目河竹新七)と小団次との提携により生まれた作品群を「小団次劇」と総称したいと思いますが、ちなみに黙阿弥と小団次との提携は嘉永7年(1853)「都鳥廓白浪」に始まり、「鼠小僧」の前後を見ると、安政3年「宇都谷峠」、安政4年「小猿七之助」、安政5年「黒手組助六」、安政6年「十六夜清心」、万延元年「三人吉三」・「縮屋新助」・・と続々と傑作を送り出しています。当時の江戸の芝居好きは「小団次と新七は次は何をやるか」という期待でワクワクして新作を待ったのではないでしょうか。「鼠小僧」はそのような空気のなかで生まれた作品です。このところの吉之助は、この時期の黙阿弥の小団次劇の心理主義的なリアル(写実)で細やかな作劇術に感嘆させられるところが、実に多くなりました。それゆえ、もし小団次が早世せず、明治の世に在って黙阿弥との提携が長く続いたとするならば、現在の古典歌舞伎はまるで違った様相になっていただろうとつくづく思うのです。

しかし、小団次が慶応2年(1866)2月に憤死したことによって、幕末歌舞伎の写実劇の流れは断ち切られました。小団次はいかつい風貌のアクが強い役者であったと思われます。明治以後、小団次のレパートリーは小団次と芸風が少々異なる役者たち(例えば明治期の五代目菊五郎、大正期の十五代目羽左衛門への流れ)によって継承されました。また明治維新によって社会構造が根本から変わることで、幕末江戸の風俗がもはや靄の向こうに見える錦絵みたいな感覚になってしまいました。このため小団次の芝居の風合いが微妙に変わってしまいました。このことが良いことだったか・悪いことだったかと云う議論はここではしていません。ここで持つべき大事な認識は、明治維新により幕末歌舞伎の写実劇(小団次劇)の流れは一旦断ち切られて、別の様相に変化したということです。したがって現在歌舞伎座で見る小団次劇は、良かれ悪しかれ、その後の明治・大正期の感性によって塗り替えられた様相になっているのです。

したがって先に「鼠小僧」には「音羽屋の家の芸」的なイメージが世間に在ると書きましたが、実はそこに音羽屋の芸の・江戸前のスッキリと粋なイメージを重ねてしまうと、それは多分小団次が演じた鼠小僧とはかなり違うものになると云うことなのです。しかし、現在音羽屋の芸を模索中の菊之助に、仁とはまったく異なる・陰を背負った渋い野太い鼠小僧を演じろと云うほど吉之助も野暮ではないですが、例え小団次と方向性は異なっても構わないから、本作「鼠小僧」に見られる心理主義的な要素、映画的とさえ云える写実(リアル)さへの傾斜の要素だけは、是非この機会に学んでもらいたいと思うのですねえ。このことは、菊之助がこれから幾多の役々(世話物だけのことを言っているわけではありません)に取り組む時に、必ず財産となるはずです。現在の菊之助は、何と云いますかねえ、どんな役を演じても必ず及第点を取って来る・それは凄いことなのだけれど、悪く云えば優等生的なところが抜けていない、まだ小奇麗にまとまってしまっている印象がします。そこを内面から突き破るものが欲しいのです。心理主義的な小団次劇の演技術を学ぶことは、菊之助が役者として新たな段階へ上がるためのきっかけになると思います。大事なことは、繰り返しますが、「明治維新により幕末歌舞伎の写実劇(小団次劇)の流れは一旦断ち切られた」と云う歴史認識です。(この稿つづく)

(R4・2・5)


〇令和4年2月歌舞伎座:「義経千本桜〜渡海屋・大物浦」

2月歌舞伎座・渡海屋・大物浦」では、仁左衛門が渡海屋銀平実は平知盛を一世一代で演じるのが話題です。仁左衛門が登場すると客席は大喝采。拍手が暫し鳴り止みません。仁左衛門の知盛については別稿「爽やかな知盛」にて前回東京での所演(平成29年3月歌舞伎座)について触れました。前回とコンセプトは変わらず、恨みを残さず・爽やかな後味で「平家物語」の世界へ還っていく知盛です。仁左衛門は自らの型を作り上げていくなかで細部にこだわりをみせています。最も大きい相違は、渡海屋銀平が知盛の本性を現わす二度目の出で、「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤(こういん)、平の知盛幽霊なり」という謡掛りの文句をカットしたことです。この件については別稿「爽やかな知盛」で詳しく述べましたから・そちらをご参照いただきたいですが、確かに「平家物語・巻11」を正しく読むならば知盛がこの世に恨みを残して怨霊となることはあり得ないと思います。だから知盛は爽やかに死んでいきたいとする仁左衛門の考えには吉之助も大賛成ではあるのですが、この場の白装束での知盛の登場は数ある時代物のなかでも最もカッコいいシーンであって、ここをカットするのは如何にももったいない気がします。逆を言えば、それでも敢えてそれを行なったところに役者仁左衛門の真骨頂を見るべきですが、本作が謡曲「船弁慶」の絵解きである以上そこまでこだわる必要もないように思います。どちらが良いかは悩むところですね。

今回(令和4年2月歌舞伎座)の舞台を見ると、銀平実は知盛を一貫して太いタッチに描きたい意図があったようで、知盛の最後を爽やかに見せる対比上、世話のパートである銀平を若干重めに仕立てた印象がします。仁左衛門は銀平の声質をやや低めに抑えたところに置いていたようです。「町人の家は武士の城郭・・」の台詞は、初演当時の大阪町人たちが快哉を叫んだ(受け狙いの)箇所に違いありません。もちろんそこは仁左衛門だから悪かろうはずはないですが、仁左衛門ならば高らかに張り上げたらばもっと良かろうにと思うのです。そこが若干抑え目で渋い印象がしたのは、ここが奥の間にいる義経一行に向けての「芝居」(つまりこれは嘘事)だと云うことを意識したからでしょうかね。そこまで意識する必要はないように思うのですがね。このことは周囲も仁左衛門に合わせたようで(あるいは仁左衛門の指導か)、この場では孝太郎のお柳(実は典侍の局)も若干重たい感じがしますし、又五郎・隼人の偽鎌倉の二人侍もそんな風が若干します。まあ全体としては時代物二段目には違いないので大した齟齬になっていませんが、渡海屋前半は世話の・軽めの感触に仕立てた方が本来はよろしかろうと吉之助には思われます。知盛が本性を顕わし・安徳帝が顕われる変化がそれで際立つものと考えます。本作が「ひらかな盛衰記・三段目・松右衛門内(逆櫓)」を下敷きにしていることがヒントになるかも知れませんね。つまり渡海屋前半を世話場と意識してもよろしかろうと云うことです。そう考えると今回の舞台前半は時代の方に若干寄り気味でしたね。

知盛が本性を顕わして以降からの芝居は、芝居もテンポ良く進んで良い出来に仕上がりました。孝太郎の典侍の局は安徳帝を抱いての「如何に八大竜王・・」の台詞が素晴らしく、見事にこの場を大舞台の風格にしました。時蔵の義経も素晴らしい。知盛の感情を真正面で受け止め、慈悲の心で返すことが出来る義経です。その他共演者にも恵まれて、仁左衛門の知盛は、「昨日の仇や今日の友・・」とニッコリ笑って去って行きます。爽やかな後味で・スケールが大きい知盛は、仁左衛門の数ある時代物の当たり役のなかでも特に大事な一役になったと思います。

(R4・2・3)


〇ニッポン人って何?・その2

「世界の果てからこんにちはT」(初演1991年9月利賀 野外劇場)は、吉之助は見ていません。「T」が平成3年(1991)初演と云うことは、恐らく戦後日本のバブル景気の狂乱とその後の崩壊(一般的にバブル崩壊は1991年3月から1993年10月までの景気後退期を指す)が深く関連しているでしょう。シェークスピアの「マクベス」終幕に侍者がマクベスに夫人の死を告げる「陛下、お妃様がお亡くなりになりました」という台詞がありますが、「T」では、鈴木忠志はこの台詞を切り取って文句をニッポンに置き替えて、「ニッポンがお亡くなりになりました」とやって、これが大いに話題になったそうです。「世界の果てからこんにちはU」でも同じ手法が使われていて、チェーホフやイプセン・長谷川伸や唐木順三など、いろんなテキストが「ニッポン」或いは「ニッポン人」に置き換えらえれて登場します。しかし、置き変えた後の台詞が大事なのであって、元テキストの何をどう置き変えたかなんてことは、どうでも良いことです。

約30年後の新作「世界の果てからこんにちはU」が前作「T」とどう関連するかは分かりませんが、もうとっくの昔に「ニッポン」はお亡くなりになっているわけですから、ここで連呼される「ニッポン」或いは「ニッポン人」という言葉は、虚しく響くことになります。「この世界は病院だ」と云うことは、鈴木も「一病人」だということです。ここで連呼される台詞をそのまま聞けば、鈴木が主張するところの「ニッポン人」の定義とは、東映任侠映画を愛し・演歌を愛し・ラーメンが好き‥と云うことになりそうです。実はその程度のことなのです。

この辺は吉之助も「かぶき的心情」なんて言っていますが、実はこれも似たようなものかも知れません。「俺が・・俺が・・」の心情なんてものは、他人にいくら客観的に説明しようとしても、どうしても納得させ切れないものが残ります。だから「この俺が言ってるんだから・・お前にも分かるだろ」ということで、最後の最後に相手の同胞意識にすがらざるを得ない。逆に言うならばそこが最後の縁(よすが)なのであって、それがないならば「寺子屋」の松王と源蔵のドラマもありません。絶体絶命のところで松王が「かぶき的心情」を熱く投げかけても、これに源蔵が反応しなければドラマはありません。だから松王が源蔵のなかに(菅丞相との)縁を見出すことが出来ないのならば、ドラマは最初から起こりようがないわけです。

そうすると、鈴木が「もはやニッポン人であることを忘れてしまったニッポン人」に求める最後の縁って何でしょうか。恐らくは、そこ(縁)に訴えることしか、彼らに自分がかつて「ニッポン人」であったことを思い出させる手段は、もはや残されていない・・と云うことなのでしょうねえ。しかし、そこで鈴木に出来ることは・彼の世代であれば、東映任侠映画を愛し(仁義と負い目と・・)・演歌を愛し(酒と涙と・・)・ラーメンが好き(これは何だろね)‥と云う、その程度の珍妙なことになってしまうしかないことも鈴木はよく分かっているのです。「世界の果てからこんにちはU」のなかで、鈴木は分かっていて・それをやっているわけです。

そうすると、任侠映画だ・演歌だ・ラーメンだと言われても、約20年生まれが遅い吉之助にはピンと来ない(もっと生まれが遅い若者にはもっとピンと来ないだろう)のだが、吉之助のなかにも「ニッポン」或いは「ニッポン人」という響きのなかにまだいくらか反応する取っ掛かり(縁)が残っている気がするのです。「この俺(鈴木)が言うんだからサ・・ナッ、お前にも分かるだろ、同じニッポン人なんだからサア・・・」と訴えている気がするわけです。それだけが最後の縁なのです。これでこの芝居は十分役目を果たしているのかも知れませんねえ。

(R4・1・28)


〇ニッポン人って何?・その1

先日(令和3年12月)に吉祥寺シアターで鈴木忠志主催のSCOT公演「世界の果てからこんにちはU」を見てきました。(SCOTとは、Suzuki Company of  Togaの略で、富山県利賀村に拠点を置く劇団です。)実は吉之助のお目当ては、公演後に行なわれた鈴木忠志と渡辺保との座談会であったのですが・そちらの方は概ね雑談に終始した感じで大した収穫はなく、イヤそこは両御大のお元気な姿を拝めただけで満足せねばならぬところではありますがね(鈴木忠志82歳・渡辺保86歳です)。ちょっとだけ面白かったのは渡辺先生が、2020年コロナ状況で軒並み劇場が休業に追い込まれた時、この最悪の状況にかすかな希望を見出すとすれば・それは劇場から質の悪い芝居が淘汰されることだなと密かに期待したのだけど、結局何も変わらなかったなあと仰ったことくらいでしたね。

ところで吉之助は鈴木忠志の芝居も数作を見たくらいのもの(「劇的なるものをめぐってU」についてはこちらを参照)で、普段は歌舞伎ばかりで現代演劇をそう見るわけでもないので・大したことは書けません。しかし、「世界の果てからこんにちはU」を見てから、芝居のなかで連呼される「ニッポン人」なるものがずっと気に掛かっていたので、そんなことでも綴りつつ観劇随想としたいと思います。

ところで「この世界は病院で、そのなかに人間は住んでいるのではないか」という演出コンセプトは、鈴木が「リア王」(初演1984年利賀山房)で初めて試みたものだそうです。舞台に車椅子に乗った病人たちが徘徊し、さらに医者や看護師が登場して(しかしこちらも正常ではなくて・かなりの重症である)、自らの心情を熱く語る(と云うよりも力説する・或いは演説するに近い)のです。そんな「世界の果てからこんにちはU」のなかで彼らが連呼するのが、「ニッポン」或いは「ニッポン人」と云う単語です。芝居ではこの二つの単語が執拗に繰り返されます。吉之助が普段見る歌舞伎とは次元がまったく異なる演劇です。筋はあるようでないようなもので、ここに列記しても大した意味はありません。正直申すと吉之助には何が何やらよく分からぬ芝居なのですが、「ニッポン人」の響きが吉之助の耳のなかでずっと長く残りました。多分それが鈴木の狙いなのだろうと思います。「世界の果てからこんにちはU」初演は令和3年(2021)9月利賀山房だそうですから、恐らく2020年春から始まり・現在も続いているコロナ状況が反映されたものだと思います。

劇中人物が自らの「心情」を熱く語り、それらはことごとく「ニッポン」或いは「ニッポン人」に結び付いています。吉之助も「歌舞伎素人講釈」で心情を語り(かぶき的心情という奴ね)・伝統を論じ・歌舞伎を考え続けて来ましたから、そこのところでは、つまりは「一病人」として、吉之助にも何か重なるところがあるのかも知れないなあと思いつつ芝居を見ました。しかし、芝居のなかの登場人物と吉之助が大きく異なると感じたのは、吉之助は確かに長年心情を語り・伝統を論じ・歌舞伎を考え続けて来て、それは確かに「ニッポン」或いは「ニッポン人」を考えると云うことに違いないのだろうけれども、そのなかで吉之助が「ニッポン」を意識したことはあまりなかったと云うことです。思えば師匠である武智鉄二には多少そう云うところがあったかも知れません。しかし、振り返って見ても、弟子である吉之助は文章のなかで日本・日本人という単語をあまり使わない方だと思います。吉之助にとっては「個」の問題の方が大事なのでね。自分のなかに在る「ニッポン」というものは、外的世界(非ニッポン的なもの)と接触することで違和感でしか意識されないものだと思います。日常生活でニッポン人のなかで安穏に暮らす分には、自分がニッポン人だと意識する機会などほとんどないはずです。羊水のなかに浮かんでいる胎児みたいなものです。母親の胎内を出て・外界に出て、初めて「私」が意識されるのです。それと同じことで、吉之助が「歌舞伎素人講釈」を書いているなかで思考が内的世界に浮遊している状態においては、吉之助が「ニッポン」を意識することはあまりないわけです。

それでは「世界の果てからこんにちはU」のなかで、登場人物がニッポン人・ニッポン人・・と熱く執拗に語るのは、一体彼らは誰に向かってしゃべっているのか?ということが問題になると思います。彼らが語り掛けている(つもりの)対象(相手)が違和感を醸し出しているのだろうと思います。これは多分題名がヒントになると思うのですが、「世界の果て=日出るところ=日本」ということで、相手に分かってもらえているかどうかは関係なく・登場人物がひたすらに熱く語る対象(相手)は、「かつてはニッポン人であったけれど・もはやニッポン人であることを忘れてしまったニッポン人」ということになるでしょうかねえ。(この稿つづく)

(R4・1・23)


〇令和4年1月歌舞伎座:「鬼一法眼三略巻〜一條大蔵譚」:その2

今回(令和4年1月歌舞伎座)の舞台では、獅童の鬼次郎が義太夫狂言の枠組みにしっくり嵌っていません。煽りを食ったか・七之助のお京の出来も、いまひとつです。この芝居のなかでの鬼次郎夫婦ですが、「嘘か実(まこと)か」で変転する芝居のなかで、揺るぎのない実を示すのが夫婦の役割です。夫婦の実に感応して、静御前も大蔵卿も、最後に実の姿を彼らに見せることになります。ここで大事なことは、こちら(源氏)は正義で・あちら(平家)は悪であると決め付けて、鬼次郎夫婦が声高に自らの正義を主張し、怒り心頭で常盤御前の不実を責めるのではないと云うことです。獅童・七之助が演じる鬼次郎夫婦を見ていると、自らの正義感のみで憤懣やる方ないと云う感じがしますねえ。背後に見える世界観が単純である。だから深みが感じられません。これでは大蔵卿も常盤御前も、おいそれと本当の姿を表わすことは出来ません。

どちらが正義かどちらが悪かは、政治信条や立場の相違で見え方が異なるものです。例え源氏が正義であるように見えたとしても、「平家物語」の世界に於いてはそのように見えると云うだけに過ぎません。それよりも、もっと大事なものがあるのです。それは「人としての道」つまり実(まこと)と云うことです。本作では、(平治の乱で敗退して亡くなった)源氏の頭領・源義朝の北の方としての常盤御前の実が問われています。事もあろうに常盤は夫の敵であるはずの平清盛の寵愛を受け入れた(義朝の三人の遺児を守る為であったかも知れないが真相は明らかでない)と云うことで、後世においても常盤の行動については議論があるところです。近松門左衛門の「平家女護島」三段目朱雀御殿でも、常盤は身を捨てて子供たちを守った貞女なのか・それとも色狂いかと云うところが問われています。これは本作でも同様です。ただし鬼次郎夫婦は、常盤に対してのみ「人としての道」を問うているわけではありません。源氏の一党(家来)としての「人としての道」をより一層厳しく自らに問うということでもあるのです。そうでなければ、鬼次郎に弓で打擲された常盤が「あっぱれ忠臣吉岡鬼次郎、ホホ出かしゃったなあ」と言い出すことになりません。つまり常盤の側からも鬼次郎夫婦の「人としての道」が試されていた。このことが後に明らかになるのです。

ですから鬼次郎が感じる憤懣は、あちらもこちらも悪(平家)に靡(なび)く現実から来るのではないのです。鬼次郎の憤懣は、自分が理想とすることが儘(まま)ならない・自分の力では如何ともし難いこの状況から来ます。憤懣は自分のなかに在ることを忘れてはなりません。ここから本作が、本音で生きていくことの難しさをどこかに感じている現代人の人生と自然に重なって来ることになるのです。「大蔵卿」の現代性がそこに在ると考えてもらいたいのです。この点において、獅童の鬼次郎は、背景にある世界観がまだ薄っぺらいと云うか、いささか性根違いに思われますね。桧垣茶屋での鬼次郎の口調が、単純な正義感から「常盤御前は許せん・・」と怒っている風の強い調子に聞こえます。茶屋亭主との会話でお京が「源氏は今に埋れ木の・・」と言いかけると「コレェ!」と大声で一喝する。どう見ても鬼次郎の声の方が無神経にデカいと思いますがね。そもそもこの場の獅童の鬼次郎は武士の性根丸出しで、大時代に過ぎます。七之助のお京も口調が高調子に過ぎます。この場面の鬼次郎夫婦は、世話口調で・もっと柔らかく話すべきところです。こう云うところに義太夫狂言の経験不足が出ますね。茶屋亭主が話し好きで・聞かれないことまでベラベラ話しているように見えてしまうならば、それは鬼次郎夫婦がいけないのです。茶飲み話にこと寄せて鬼次郎夫婦は大蔵卿屋敷の様子をそれとなく探りを入れて亭主から情報を引き出すのですから、口調をもっと亭主の線にまで下げなければなりません。優れた舞台ならば鬼次郎夫婦はそこのところきっちり出来てますから、過去映像を選んで・よく研究をすることです。

今回の「大蔵卿」の腹応えがいまひとつと感じるのは、勘九郎の大蔵卿にも改善の余地があるには違いないですが、上述のような作品の「嘘か実か」と云う時代構造を(奥殿での大蔵卿の見顕わし前までに)鬼次郎夫婦が十分用意出来なかったことが大きかったように思われますね。

(R4・1・18)


〇令和4年1月歌舞伎座:「鬼一法眼三略巻〜一條大蔵譚」:その1

近年「一條大蔵譚」の上演頻度が高いようです。大望を秘めつつ・不本意ながら世を欺き・雌伏せざるを得ない大蔵卿の哀しみが、本音で生きていくことの難しさをどこかに感じている現代人の人生と重なるところがあって、そこが興味を引くと云うことかも知れませんねえ。勘九郎の大蔵卿は、平成24年(2012)3月平成中村座以来の2度目だそうです。大蔵卿は祖父・父の当たり役でもありました。父・十八代目勘三郎の大蔵卿は愛嬌が勝って・作り阿呆と本性とをカチャカチャと鮮やかに切り替えるやり方でした。そこをあざとくなる寸前で留まるところが十八代目の巧みさ・面白さでしたけれども、勘九郎は愛嬌をあまり強調しない方向で、作り阿呆を抑え目に作っています。父とは芸質が微妙に異なりますから、真面目さが勝つ勘九郎にはこのやり方が似合っています。そこに勘九郎の成長が見えます。桧垣茶屋での作り阿呆はイヤ味のない出来で、奥殿での見顕わしも爽やかな仕上がりになりました。

勘九郎の成長を認めたうえで若干の注文を付けたいのですが、大蔵卿に作り阿呆と本性の間に落差を大きく付けないやり方には吉之助も賛成です。大蔵卿の「嘘か実(まこと)か」という境目が曖昧な様相を呈することが大蔵卿という役の本質であることは言うまでもないですが、そのような厳しい現実に生きねばならぬ大蔵卿の悲哀は、やはり実を基調に描かれなくてはならぬと思うのです。作り阿呆は嘘ですが、実までもが嘘のように見えてしまってはいけないわけなのです。実はどこまでも実である。だからユラユラと曖昧な様相ではあっても、実はやはり実の方向で感知されねばならぬと思います。つまりユラユラと揺れる感覚が軽めのところで揺れるのではなく、やや重めの感触のところで揺れると云う風にして欲しいと思います。桧垣茶屋はこれで良いと思いますが、奥殿の大蔵卿についてはそこに改善の余地を見ます。

分かりやすく「七段目」の由良助を例に説明しますが、由良助を引き合いにするのは勘九郎もいずれ由良助を視野に入れる時が来るであろうからそうするのですが、茶屋場での由良助の遊興三昧を、仇討ちの本心(実)を隠すために酒に浮かれた振りをする・だから遊興三昧のポーズ(虚)を強調した役作りを考えると云うのではなくて、仇討ちの本望(実)を柔らか味(虚)で隠そうとするが・覆い隠そうとしても実がついつい見えてしまう・この方向で実をベースに役作りをした方が、「やつし事」の約束に沿うということです。「今わたしが取っているポーズはわたしが本当に望んでいることではない」というのが「やつし」であるからです。(別稿「七段目の虚と実」を参照ください。)大蔵卿の場合も同様に考えて欲しいと思います。

先ほど勘九郎の奥殿での大蔵卿の見顕わしを「爽やか」と書きました。もちろん良い意味で書きましたが、爽やかさ・軽やかさの裏腹で「軽い」という印象もしないわけではない。そこの兼ね合いが難しいので、軽めの印象になってしまうと、大蔵卿の実まで嘘っぽく見え兼ねないのです。悪くない出来ですが、見終わって腹応えがいまひとつなのは、そこにも原因があるでしょう。ここはもっと強く実を感じさせて欲しいのです。軽めの印象に感じてしまうのは、ひとつは、全体を通じて台詞のトーンを高調子に近いところに置いているせいです。台詞の高調子は、勘九郎に限ったことではないですが、若手役者の義太夫狂言に共通する問題点ですね。高調子に置けば阿呆の性根はやりやすいに違いありませんが、大蔵卿の実を描くことを視野に入れるならば、全体の調子をもう少し下げて、実の基調へ近づけることです。阿呆は口調で仕分ければ良いのです。もうひとつは、実の台詞のリズムの打ちが軽いせいです。ここは台詞のトーンを低めにして・台詞のリズムを重みを以てしっかり踏むこと(そのためにはテンポをもう少し落としても良いでしょう)で、大蔵卿の実をもっと強めに感知させることです。そうすることで、作り阿呆と本性の間に落差を付けないやり方が、勘九郎の個性でもっと生きて来ると思います。(この稿つづく)

(R4・1・15)


〇雑誌「演劇界」の休刊について

新年早々暗いニュースが飛び込んできました。昨日(11日)、明治40年創刊の「演芸画報」からの流れを汲み、唯一の専門誌として歌舞伎ファンに長く親しまれてきた雑誌「演劇界」が、本年3月3日発行の2022年4月号を以て休刊となることが発表されました。たまたま偶然ですが、同じ日に岩波ホールが本年7月29日に閉館することも発表されました。これも映画ファンのみならず・演劇ファンにとっても気分が重くなるニュースです。

ところで「演劇界」は平成19年(2007)にも一度休刊になったことがあり、この時は演劇出版社が小学館の経営支援を受けて再スタート、3ヶ月ほど間(ま)を置いてリニューアル創刊して現在に至ったわけです。今回の休刊は事実上の廃刊であろうから、意味合いがまったく異なります。リニューアルからであると、約15年後の決断ということになります。平成19年の「演劇界」休刊時に、吉之助は「雑談」のなかで、いくつか記事を書きました。(をご参照ください。)この15年の間に社会状況も大きく変化し・歌舞伎の状況も大きく変化しました(十八代目勘三郎の死、歌舞伎座改築・再開場などいくつかの特記すべき事項がある)。しかし、これから書くコメントは、15年前に書いたことと、驚くほど変わらないことになりそうです。

あの時に『リニューアルされる予定の新「演劇界」の劇評がエンタテイメント系のご感想に行くのか・あるいは新しい劇評のあり方を提供する場になるか、興味深く見ていきたい』と書きました。その後の「演劇界」は、判型を大きくして写真主体の体裁に変えて、前者の道を採ったわけです。その結果、コンセプトが雑誌「和楽」とあまり変わらない印象になってしまいました。まあいろいろと事情があったのでしょうね。吉之助は「後者の道を採っていればこうならなかった」などと言うつもりは毛頭ありません(そんなことは分かりません)が、少なくともそれは「演劇界」初代編集長・利倉幸一氏(昭和30〜40年代の「演劇界」が最もアクティヴであった時期)の遺志を継承することにはなったかなとは思うのです。記録と評論に徹して欲しかったですねえ。ただ後者の道であると大部数は期待できなかっただろうし、親会社の小学館は認めなかったかも知れません。しかし、身軽であったならば、このコロナの荒波にもどうにか耐えられたかなと思うのです。それを思うとちょっと残念ですね。

*昭和32年(1957)の雑誌「演劇界」。

劇評に関して云うと、15年前よりも、状況はさらに悪化していると思います。「演劇界」休刊は役者評判記の伝統を引いた演劇批評(劇評)の役割はもう終わったと云うことだと、吉之助は受け止めています。ただし、これは別に歌舞伎劇評に限ったことではないことで、見渡せば他ジャンルの演劇批評でも、或いは文芸・音楽・美術批評にしても、お寒い状況になっています。これは批評する側(批評家)だけが悪いのでなくて、批評される側(芸術家と云うか・役者と云うか)にも時代の変化に耐え得るものを創造できているかという疑問があり、批評を読む側(読者)も物事の上っ面だけ見て・本質を見抜く目を持とうとする意識が足りないという問題があろうかと思います。劇評を読む側(読者であり・芝居を見る観客でもある)にも、実はかなり問題が潜んでいるのです。要するに、現代においては「主体」と云うものがそれだけ揺らいでいるのだと云うことですね。こういう時代には、個人がそれぞれの思いとして自らの「主体」の存続を計らないと、アッと云う間に「主体」が押し流されてしまいます。このような時代に「批評」が立つことはなかなか難しい。

ちなみに吉之助が書く文章は批評に違いないですが・これを劇評と呼ばず、「観劇随想」と位置付けています。観劇随想と称するのは、批評者としての主体を全面に出し・「中立公正」というお題目など最初から掲げないということです。批評家としてのスタンスに関しては吉之助は真摯に考えているつもりです。まあこのような時代ではありますが、「歌舞伎素人講釈」はこれからもマイペースでやって行きます。

(R4・1・12)


〇令和3年1月歌舞伎座:「義経千本桜・川連法眼館」

猿之助にとって久しぶり(5年半振り)の「川連館」ですが、このところの猿之助の芸の充実を裏付ける舞台に仕上がりました。たっぷりした量感があって、所作のひとつひとつに説得力がある。かと云って過度に重ったるくなることもない、猿之助の「川連館」として・ひとつの到達点に達したものと言ってもよろしいのではないでしょうかね。肉親への情愛を大切にする源九郎狐が・義経から初音の鼓を受け取って目出度く去るということで筋が納まって、見取り狂言の一幕として完結した間尺になっています。まあ吉之助は臍曲がりなので、「川連館」は四段目端場であるから・本来はもう少し感触を軽めにした方が・・とかチラと思わないでもないけれど、この後に吉野花矢倉の場が続くのであれば・そう云うことになると思います。しかし、初春興行の見取り狂言の間尺と見れば、今回は程良いところに落ち着いています。これはこれで良いと云う気がします。

今回の舞台が良かったのは、義経に門之助・静御前に雀右衛門など配役バランスの良さに恵まれたおかげです。全員が同じ方向を向いて芝居していることの良さが出ています。門之助の義経は、本物の忠信に「身に覚へ候はず」と云われれば気色を変えて「黙れ忠信」と叫んだり、狐忠信の述懐を聞けば「親とも思ふ兄親に見捨てられし義経が、名を譲つたる源九郎は前世の業(ごう)、われも業」とホロリとする。その辺、まことに正直で人間的な義経です。人間義経がやや前面に出た感じはあります。まあそこが現代の義経観の反映なのでありましょうかね。吉之助としては・こういうところで感情をあまり出さずサラリと云うところに義経の神性を見たいと思う立場ではあります。しかし、門之助の義経は品位を損なうことはありません。その点で抑えられたバランスの良い義経であったと思います。これは猿之助の狐忠信の行き方とも照応したものであったと思います。これからの歌舞伎では、(熊谷陣屋でも勧進帳でも)こういう感じの義経が多くなっていくでしょうねえ。

雀右衛門の静御前も、こう云う役はニンがぴったりということもありますが、源九郎狐の境遇に感応するセンスがあって良い出来です。ただ表現がやや内輪で・色合いが暗めの感じがします。これを情味と取るならば暗めであっても大きな不満はないのだけれど、しかし、狂言の彩りとしては、もう少し華やかなものを求めたい気がします。雀右衛門が立女形として・もうひとつ上の段階を目指すために、そこはクリアしてもらいたいのですがね。

猿之助の忠信・源九郎狐二役については、過去の観劇随想では・重ったるく感じられた箇所をいくつか指摘しましたが、今回の舞台ではその辺も抑えられて、良いバランスになってきたのではないでしょうか。演技に余裕が出てきたということでしょうが、今回の源九郎狐は愛嬌がこぼれるようでしたね。

コロナによる興行形態の自主規制は現在も続いていますが、1月からは歌舞伎座の観客収容枠は50%から68%へと緩和され、併せて自粛されていた客席上の宙乗りも再開になりました。今回の「川連館」の狐忠信はいつも通り花道上を飛行して三階鳥屋に消えたということで、こうして歌舞伎興行もコロナ前の形に少しづつ戻ろうとしている手応えが感じられた点で、或る意味・記念すべき上演ではなかったでしょうか。

(R4・1・6)


〇22年目の「歌舞伎素人講釈」

おかげさまで、「歌舞伎素人講釈」も22年目に入ります。コロナ騒ぎが始まって、ほぼ2年が経過しました。長引く外出自粛のために生活様式を自ずと変えざるを得ず、その結果、運動不足になってしまったり、健康・生活のいろんなところに影響が出た方も多いのではないでしょうか。吉之助も例外ではなく、全部が全部コロナのせいと云うわけでもないですが、吉之助もこのところ執筆ペースを維持するのに苦労をしています。執筆ペースが若干遅くなって来たようです。質的には、まずまずのものが書けているとは思いますが。

大きな要因は、これまでの吉之助は典型的な夜型人間で・夜間を中心に執筆していたのですが、この2年くらいで生活スタイルが変化して、次第に昼間に執筆するスタイルへと移行しつつあることです。ただし、吉之助のなかで昼型がまだ完全に定着していません。昨年夏頃からコロナ状況が改善して外出機会が多くなってくると、必然的に昼の執筆時間が減ることになり、このため執筆ペースがすっかりおかしくなってしまいました。もうひとつは、年齢のせいもあって、目の状態があまり良くないことです。手元がかすむようになって、本を読んだりするのが、面倒臭い。それで眼鏡を新調しましたが、これも執筆ペースが遅くなってきた原因には違いない。もっとも老眼気味なので、幸い芝居を見る分にはまったく不自由はありません。

そう云うわけで、書く予定であったいくつかの題材を放置したまま年越しすることになってしまいました。まあ体調と相談しながら、無理しないペースで執筆を続けて行きます。22年ともなれば、「続けること」自体に価値があるということかと思います。幸いネタの方は沢山あるので、まったく心配はしていません。

ところで昨年末の吉右衛門さんの突然の訃報には、重い気分になりましたね。平成期の歌舞伎は、立役陣が充実していたという点では、或る意味・昭和末期より恵まれていたかも知れません。幹部連中のなかでは年若い方であった(つまりもっと先のことだと思っていた)吉右衛門さんの死によってその一画が崩れてしまった衝撃は大きかったのです。これはあまり考えたくなかったことですが、これから歌舞伎が新しい時代(令和の歌舞伎)へと移行していく、いよいよそれが始まったことを思い知らされたと云うことかと思います。

ここで気に掛かることは、その変わりつつある歌舞伎の未来(10年位先の直近の未来)が明るいものであるという確信を、現時点でいまいち持てないということです。コロナの現況が興行界全体に深い翳を落としていることは確かですが・それとは別に、平成の幹部クラスから中堅クラスへの芸の受け渡しが、順調に進んでいると申せません。これは昭和の大幹部から当時の若手(現幹部)への受け渡しと比べれば、はっきり10年以上遅れていると思います。このところ歌舞伎座の舞台を見て吉之助は何だかじれったいような気分に襲われることがあり(もちろんそうでない舞台もあるにはあるが)、そのままの気分で年越しをすることになってしまいました。若手役者たちは歌舞伎の現状をどのように感じているのでしょうかねえ。

年明け早々暗い話題で申し訳ない。コロナを吹き飛ばして、今年もいい芝居を見せて欲しいですね。

(R4・1・1)


 

 

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