爽やかな知盛〜十五代目仁左衛門の知盛
平成29年3月歌舞伎座:「義経千本桜〜渡海屋・大物浦」十五代目片岡仁左衛門(渡海屋銀平実は平知盛)、五代目中村時蔵(初代中村萬寿)(女房お柳実は典侍の局)
1)爽やかな知盛
爽やかな知盛でありましたね。風姿のすっきりした仁左衛門ならば知盛もこうなって当然というところはありますが、吉之助が特に感心したのは、安徳帝から「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情、今日またまろを助けしは、義経が情けなれば、仇に思ふな知盛」と声を掛けられて、憑き物が落ちたように知盛が、晴れやかな表情に変わったところです。入水の場面の後味がとても良いのです。確かに知盛は、こうでなればなりません。
全身傷付いて血まみれの知盛の入水は視覚的に壮絶な場面ですから、この場面を知盛が怨念とか妄執やらあらゆる情念を一身に背負って地獄に連れていくみたいに受け取る方もいるかも知れませんが、そうではないです。知盛の台詞に「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」とあるように、「千本桜・大物浦」入水の時点では、そういう情念は知盛のなかから 既に落ちてしまっています。これでもう自分は役割を終えたと思っているから、知盛は爽やかに消えて行くのです。それならば静かに消えていけば良さそうなものですが、芝居ではそうも行きません。知盛の入水は「平家物語」が定めたところの、知盛らしい死に方なのですから、ここで壇ノ浦の再現をして知盛は消えてもらわなければならない、そうでないと閉まらないと浄瑠璃作者は考えたのでしょうねえ。
ところで仁左衛門の「渡海屋〜大物浦」ですが、原作からのカットがいくつか見えますが、一番目立つ大胆なカットは、渡海屋銀平が知盛の本性を現わす二度目の出での、「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤(こういん)、平の知盛幽霊なり」という能掛りの文句をカットしたことです。(これは平成16年4月歌舞伎座の仁左衛門の知盛初役の時も同じでした。)これはいろんな意味で問題提起であると思うので、この点をちょっと考えたいのです。まず「千本桜・渡海屋〜大物浦」というのは能の「船弁慶」の趣向をひっくり返して出来てるわけです。「そもそもこれは・・」の謡の文句はこのことを予め観客に予告する大事の詞章です。だから普通ならこの文句はカットしないものですが、もちろんそんなことを仁左衛門が知らないはずがありません。
それにしても驚くのは、銀平が知盛の本性を現わして白糸縅(おどし)の装束で登場する場面は立役ならば誰でも演りたいカッコいいシーンであって、そこで「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤(こういん)、平の知盛幽霊なり」という謡が入ると、これは時代物役者が映えて効果満点だということです。それなのにこれをカットしてしまうのは、実にもったいない。主役としたら非常に損なことです。しかし、もちろんそんなことを仁左衛門が分かってないはずがないですから、覚悟の上でカットしたわけです。吉之助としては、それでも仁左衛門がこうせねばならなかったことの、積極的理由を考えてみたいわけです。
まず大事なことは、「平家物語」での知盛は明らかに滅びゆく平家の運命を自覚し従容として死に赴くということです。知盛の死に方はカラッとした陽性の印象で、この世にドロドロした怨念を留めるというところがない。(詳しくは別稿「知盛の肖像」を参照いただきたい。)
ところが後世の観世次郎信光作になると伝えられる謡曲「船弁慶」では、知盛が亡霊となって現れ、義経一行を襲います。史実に拠れば、文治元年11月6日、兄頼朝と不和となった義経は、摂津の国大物浦から九州へ落ち延びようとしました。ところが途中で暴風雨にあって船が難破して摂津に戻されてしまいました。これで義経の九州落ちは不可能となり、義経は逃亡の方角を奥州へ変えざるを得なくなりました。この時の暴風雨は平知盛の怨霊のせいだったというのが、「船弁慶」の発想です。
謡曲「船弁慶」の価値を貶めるつもりはないですが、「平家物語」を正しく読むならば、知盛が死して怨霊と化するという発想は出て来ないと思います。「船弁慶」の知盛を怨霊とする発想は、民間伝承から来ているか、いずれにせよあまり筋の良くない発想に思われますね。知盛が怨霊となるべき人物であるならば、彼をシテとする謡曲は、正しく二番目もの(修羅能)として作られるはずです。妄執を抱いて成仏できない武将を主人公にするのが修羅能です。それならば謡曲「知盛」という修羅能が出来て良いはずですが、そういうものはない。一方、「船弁慶」は五番目ものに分類されます。もうひとつ、知盛をシテとする作に「碇潜(いかりかずき)」というのがありますが、これも五番目ものです。(二番目ものとしている流派もあります。)このことは能楽の世界においても、知盛は修羅物の主人公として適当でないと考えられている証だと思いますし、「平家物語」を正しく読むならばそれは当然のことだと思います。
話を歌舞伎の「千本桜」の知盛に戻しますが、安徳帝に「今日またまろを助けしは、義経が情けなれば、仇に思ふな」と声を掛けられるまでの知盛は、悪鬼の如くであって良いです。「思ひ込んだる無念の顔色(がんしょく)、眼(まなこ)血走り髪逆立ち、この世からなる悪霊の相(そう)を顕はすばかりなり」と本文にも書いてある通りです。しかし、安徳帝に「仇に思ふな」と云うお言葉を受けた時に、知盛は変わります。知盛に憑りついていた何かが落ちたのです。そして知盛のなかに「アラ心安や嬉しやな」と云える感情が湧き上がって来る。安徳帝の一言で、どうしてそのような大きな変化が、知盛の心のなかに起こったのかを考えてみなくてはなりません。(この稿つづく)
(H29・3・23)
安徳帝の一言が、知盛にとって、どうしてそのような大きな意味を持つのか。それを考える為には、安徳帝が幼な神であることを理解せねばなりません。今回の上演でもカットされていますが、渡海屋では寝ているお安(実は安徳帝)を弁慶が跨いで足を痺れさせる場面があります。後で分かることですが、実はこれはお安の正体を調べるために義経が弁慶に指示したことでした。これはお安が現人神(あらひとがみ)の不思議な力を持っていることを示しています。それで義経はお安が安徳帝だと見抜くわけです。ここで大事なことは、安徳帝が幼な神であるということを、ただ「尊いお方」だというイメージにおいてのみ読まねばならないということです。幼な神は、あらゆる点においてニュートラル(中立)な存在です。それゆえ幼な神は、その清い心で、物事の真実を素直に、ひたすら素直に見抜くのです。
但し書きを付けますが、「天皇」という機能においてこの芝居を読むのは、「義経千本桜」を誤解させることになるから、慎むべきことです。安徳帝は「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情、今日またまろを助けしは、義経が情けなれば、仇に思ふな知盛」と言います。このことを、天皇は自分を担ぎ上げた側の方に都合良く機能するもので、これまでは知盛・これからは義経と、担がれた相手にココリと立場を変えて、安徳帝は非情にも知盛を切り捨てたという風に考えるのは、良くないことです。安徳帝はただ「自分を助けてくれたこの人(義経)はいい人だ」と言っているに過ぎません。幼な神が私心(わたくしごころ)無く言うことは、絶対的に正しいのです。安徳帝の言葉は、知盛に或ることを気付かせます。
それは平家だ源氏だと騒いでいるけれども、どちらが正義でもなく、どちらが悪でもないということです。どちらが正しいとか、安徳帝はそんなことは全然言っていません。しかし、幼な神の言葉が、歴史の大きな真実を語ります。平家のなかにも源氏のなかにも、権力欲の強い奴、私利私欲の強い奴、心の汚れた奴、それらに追随してへつらう奴がいるのです。多分そういう「悪しき人」の方が多いのでしょう。平清盛がその代表であることは言うまでもありません。清盛が権力の頂点にいた時、平家は驕り昂ぶって、大いに世間を乱しました。一方、数は少ないですが、物のあはれを知り・情けを知る、心の清い人物もいました。代表的な人物は、もちろん小松重盛(清盛の長男)です。重盛存命中は、平家は問題が多少あってもかろうじて安泰を保っていました。しかし、重盛の死後、平家は坂道を転げるように滅亡への道をたどることになります。
結局、知盛が安徳帝の言葉から知ったことは、ふたつあったと思います。知盛は源氏が平家を滅ぼしたのは源氏だ・その大将が義経だと恨んでいたが、実はそうではなかったということです。平家が滅びた原因は、平家自身にあった。父清盛の悪逆と、平家一門の驕りにあったということです。つまり平家は自ら滅びたのです。「父清盛の悪逆が積り積もってて一門わが子の身に報ふたか、是非もなや」と知盛は嘆息します。驕る平家を罰するために、天が源氏を遣わされた。源氏はその役目を請け負ったに過ぎなかったのです。知盛が源氏を恨んだのは、筋違いであったということに知盛は気が付きます。となれば、壇ノ浦で本来死ぬべきところだったのを逃げ延びて、その後、復讐の炎に燃えて義経を討つためだけに生きてきた知盛にとって、これは歴史の舞台から自分が降りる時が来たということに他なりません。
もうひとつ、安徳帝の言葉から知盛が知る大事なことは、平家滅亡後を描く「義経千本桜」の世界のなかで、数少ない、物のあはれを知り人の情けを知る、心の清い人物、つまり「良き人」は誰かということです。平家側ならば知盛つまり自分自身です。これは知盛本人も自らそう任じていたかも知れませんが、源氏側にも一人いたのです。それが義経だったのです。歴史の舞台から降りる時が来たと自覚した知盛にとって、唯一気に掛ることは自分が死んだ後の安徳帝の行く末でした。しかし、安徳帝の言葉から知盛は、義経こそ安徳帝を託すことの出来る人物であることを確信します。だから知盛は、「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」と言うのです。義経を信じて安徳帝を預けることで、これで自分は安心して役目を降りることが出来る、つまり死ぬことができると、心から喜んで言っているのです。(この稿つづく)
(H29・3・26)
「千本桜・大物浦」が謡曲「船弁慶」をひっくり返して出来ていることは、先に触れました。大物浦のドラマを如何にして「船弁慶」へ返すか。知盛は次のように言っています。
「われかく深手を負ふたれば、ながらへ果てぬこの知盛、只今この海に沈んで末代に名を残さん。大物の沖にて判官に仇をなせしは知盛が怨霊なりと伝へよや。サア、サヽ息のあるその内に、片時も早く帝の供奉を頼む頼む。」
これまでのことは全部無かったことにして、壇ノ浦で死んだ知盛の怨霊の仕業だったということにして置いてくれと云うのです。こういう理由で後の世に「船弁慶」という作品が出来たのですというわけです。そうやってひっくり返しに「船弁慶」の謎の種明かしをしているのです。ここに江戸期の庶民の科学性とでも云うか、明晰な歴史感覚を窺うことができます。見方を変えると「千本桜」の知盛は、自分の後の世の処遇までお見通しで、とても醒めた人物であるようです。
そこで今回の上演で仁左衛門(知盛)が渡海屋での二度目の登場で「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤、平の知盛幽霊なり」という能掛りの文句をカットしたことの意図を改めて考えてみたいのですが、入水する時の知盛は、すべての怨念をふり捨て「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」と、爽やかな気持ちで死んでいくのです。謡曲「船弁慶」との関連は、死の直前の知盛が「そういうことにして置け」ということで、最後に無理矢理こじつけたものでした。だから渡海屋での二度目の登場で謡いの文句を伴って登場してしまうと、知盛が最初から「船弁慶」の関連を背負っているように見えて、観客に要らぬ誤解を与えることになる。(作品成立過程としてはその通りなのですが、筋の上ではそうではないということ。)こんな風に仁左衛門は考えたのかなあと吉之助は推察するわけです。つまり仁左衛門は怨霊というところに重きを置いていないのです。仁左衛門の知盛は、安徳帝の言葉で憑き物が落ちて晴れやかな表情に変わるので、入水へ至る知盛の心理的プロセスに、余計なものが介在しない。だからスッキリした印象になって、入水の場面の後味がとても良い。
それにしても吉之助の推察が正しいのであれば、仁左衛門さんは、失礼ながら、意外と理屈っぽい御方なのかも知れませんねえ。あそこの出に「そもそもこれは桓武天皇九代の後胤・・・」があったとしても、そこまで気にすることもなかろうにと吉之助などは思ってしまいますが、役者として損なのを承知でこの大胆なカットに踏み切った仁左衛門なりの理屈と、役者としての誠実さは評価したいと思います。確かに「平家物語」を正しく読むならば、知盛が怨霊になって出ることはあり得ません。
「千本桜」の知盛が碇を担いで入水するのは、壇の浦で死に損なったのを再度やり直しているという心です。そうすることで「千本桜」の知盛は、「平家物語」の世界に立ち返って、歴史のなかで正しく死んだことにリセットされるわけです。ちなみに歌舞伎では知盛は岩山に登って碇を投げ捨てますけれど、あの岩場から身を投げたとすると、すぐ真下が深海とは思えないので、歌舞伎の知盛は磯の大岩に頭をぶつけて死ぬんだろうなあと思ってちょっと気の毒に思うのですがね。文楽では知盛は小舟に乗って沖合いに漕ぎ出し、沖の岩組みの上で碇を差し上げて海に飛び込むのですが、こういう段取りを歌舞伎でも試みても良いのではないかな。
最後に時蔵の侍典の局について触れておきます。「いかに八大竜王恒河(ごうが)の鱗(うろくず)、安徳帝の御幸(みゆき)なるぞや。守護し給へ」の台詞もよく出来ました。立派な時代の侍典の局であったと思います。安徳帝の右近クンも頑張りましたね。
(H29・3・28)