知盛の肖像〜七代目染五郎の知盛
平成28年6月歌舞伎座:「義経千本桜・渡海屋〜大物浦」
七代目市川染五郎(十代目松本幸四郎)(平知盛)
1)見るべき程の事は見つ
「平家物語」のなかで平知盛はとても人間味ある武将として描かれています。寿永3年(1184)一の谷合戦の時のことですが、生田の森を守っていた知盛は不意を討たれて、息子知章(ともあきら)らと共に海岸へ逃げ延びようとしますが、敵方に追いつかれます。この時 、知章が防戦に立って戦死します。おかげで知盛は味方の船に乗り込むことができました。知盛は「いかなる親なれば、子の討たるるを助けずして、かように逃れ参て候らん。我身の上になりぬれば、よう命は惜しきものに候けりと、今こそ思ひしられて候へ」と泣いたということです。「平家のなかの平家」と云われた知盛が恥も外聞もなく人間的弱さをさらけ出した場面です。
「平家物語」に拠れば、翌年・寿永4年(1185)壇ノ浦の合戦の開戦に当たり知盛は大声で「運命つきぬれば力及ばず。されども名こそ惜しけれ。東国の者共によはげ見ゆな。いつのために命をば惜しむべき。これのみぞ思ふ」と味方へ激を飛ばして奮戦します。敗戦が濃厚になると知盛は幼帝の御座船に乗り移り、「世の中いまはかうと見えて候。見ぐるしからんものまな海へ入れさせ給え」と言って自ら掃除を始め、慌てふためく女官たちに「めずらしくあずま男をこそ御らんぜられ候はんずらめ」とからからと笑ったということです。やがて知盛は「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」と言い、鎧を二枚着てそれを錘(おもり)にして入水したとも・碇を担いで入水したとも伝えられています。
こうして知盛の逸話を追ってみると、知盛は明らかに滅びゆく平家の運命を自覚し従容として死に赴いています。知盛が考えることは、敵に未練なところを見せず、如何に潔く美しく散るかです。これは後世の日本人・特に武家階級がひとつの理想像と考えた死に方です。言い換えると、知盛の死に方はカラッとした陽性の印象で、この世にドロドロした怨念を留めるというところがない。まあ後世の民衆には「これほどの名将がそうやすやすと死ぬわけはない」と云うか・「どこかで生きていてほしい」という思いもあったことでしょう。そういうわけで知盛の落人伝説もいくつかあるわけですが、「平家物語」を読めば、知盛が死して怨霊と化するという発想はあまり出て来ない気がしますねえ。
ご承知の通り「義経千本桜・二段目」は、謡曲「船弁慶」を本歌取りした構造になっています。兄頼朝と不和となった義経は、摂津の国大物浦から九州へ落ち延びようとしま した。ところが途中で暴風雨にあって船が難破して摂津に戻されてしまいました。これで義経の九州落ちは不可能となり、義経は逃亡の方角を奥州へ変えることになるのです。後世のことですが、足利尊氏が新田義貞に破れて一時的に九州へ逃れて再起を図った例があり、義経が九州の有力者を頼 ろうとしたのも現実的なプランでした。これが成功していれば、義経のその後は大きく違ったはずです。ですから暴風雨が義経の運命を変えたということです。観世小次郎信光作と伝えられる「船弁慶」はこの暴風雨が知盛の怨霊の仕業だとしたところが味噌です。ただし「船弁慶」は、修羅能(二番目物)ではないのですね。シテが武人で・死後に修羅道に落ちて苦しむ様を描くのが修羅能ですが、「船弁慶」は四番目物(雑能)で、そのような構造になっていないのです。吉之助は、ここは結構大事なポイントじゃないかと思っています。
「義経千本桜・大物浦」を見ると、知盛は「われかく深手を負ふたれば、ながらへ果てぬこの知盛、只今この海に沈んで末代に名を残さん。大物の沖にて判官に仇をなせしは知盛が怨霊なりと伝へよや。サア、サヽ息のあるその内に、片時も早く帝の供奉を頼む頼む」と義経に言っています。これは今回の戦さのことは、知盛が生きて再び義経を襲ったということではなく、公には「知盛の怨霊が義経を襲った」ということにでもしておけと言っているのです。つまり知盛はもともと壇ノ浦で入水して死んだということになり、歴史の上からは何も変わらなかったことになります。浄瑠璃とは語り物であり、歴史を物語るということです。「千本桜」が大序で提示した「知盛はどこかで生きている」というトンデモ設定を、こうして再び歴史の正しい在り方に納めたのです。
ということは「千本桜・大物浦」で知盛は歴史の舞台から降りて消えて行くわけですが、怨念を以て死ぬのではないということです。怨念は謡曲「船弁慶」が背負うべきもの。「千本桜」の知盛は、「見るべき程の事は見つ」と云って入水した「平家物語」の知盛なのです。(この稿つづく)
(H28・7・18)
「大物浦」での知盛は「我れ一門の仇を報はんと心魂を砕きしに」と言い、「討つては討たれ討たれて討つは源平の習ひ。生き代はり死に代はり、恨みをなさで置くべきか」と言っています。義経に対する憎しみ骨髄で・一門の仇を奉ずるまでは死んでも死にきれないということで、この世に再び迷って出た怨霊の如くです。確かにこの時点までの知盛は、そのように見て良いでしょう。しかし、「平家物語」の知盛は迫りくる平家の運命を見定める目を持った貴公子であって、これを莞爾として受け入れて死に赴く度量のある男なのですから、決して死に臨んで未練なところを見せることはありません。「大物浦」の知盛もそのように締めねばなりません。知盛は怨念を抱いたまま死ぬのではありません。また義経を討つことを果たせず絶望のなかで死ぬこともあり得ません。そうでなければ「知盛はどこかで生きている」というトンデモ設定を、歴史の正しい在り方に納めることはできないのです。
知盛は歴史のなかに自分がどう位置付けられているか、言い換えれば、自分がどこへ帰って行くべきかを、正しく分かっている男です。知盛が歴史を見通す力を持つことは、知盛が「討つては討たれ討たれて討つは源平の習ひ」と言うことでも分かります。これは源平交代史観(源氏と平家が交代して武家政権を担うという歴史観)のことを指しています。江戸期の庶民にとっては常識ですが、もちろん源平合戦当時に在り得ないものです。そのことを知盛が平然と言います。そのような知盛なのですから、安徳帝に「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情、今日またまろを助けしは、義経が情けなれば、仇に思ふな知盛」と言われた時に、知盛は憑き物が落ちたように、ハッとこの世の真実に気が付きます。父清盛が横暴のかぎりを尽してきた報いが平家一門に降りかかったのだということです。知盛が恨むべきは源氏ではなかったのです。ここに至って知盛は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ」という「平家物語」の心を悟るのです。
知盛は最後に義経に対し「昨日の仇はけふの味方、アラ心安や嬉しやな」と言います。つまり、この時点での知盛は義経への恨みを完全に捨てています。安徳帝を義経に託したことで、自分の役目は終わったということです。 これで心安らかに死んで行けるというのが、知盛の心境です。碇を担いで海に飛び込むというのは余りに壮絶ですから、「心安らか」というのとは違うと言う方がいそうですねえ。知盛はやり直しているのですよ。「平家物語」の壇ノ浦での死をやり直しているのです。これが自分にふさわしい死に方だからです。
知盛には歴史の舞台を降りて・これからは名もなき庶民として生きるという選択肢も残されてはいるのです。弁慶が知盛の首に数珠を掛けます。義経は知盛を出家させようとしていたわけです。しかし、知盛は歴史のなかに戻ることを選びます。それが何故なのかは自害する典侍の局の最後の言葉を聞けば分かります。「いつまでも義経の志、必ず忘れ給ふなや。源氏は平家の仇敵と、後々までもこのお乳が、帝様にあだし心も付けふかと人々に疑はれん。さあらば生きてお為にならぬ。君の御事くれぐれも、頼み置くは義経殿」
知盛の気持ちも典侍の局と同様です。つまり自分が生き永らえておれば、いつか源氏討伐の企てを起こすと疑われることだろう、また人間であるからそんな気持ちが湧いて来ることがあるかも知れない、そうならないためにも自分は生きているわけにはいかないということです。安徳帝の安全が保証されるならば、知盛にはもう 生に執着する理由はない。こうして知盛は「平家物語」の世界へ還ってきます。(この稿つづく)
(H28・7・24)
「千本桜・大物浦」は荒事ではありませんが、歌舞伎の舞台は何となく荒事めいて見えないでしょうか。吉之助は大物浦を見ると「思ひ込んだる無念の顔色、眼血走り髪逆立ち、この世からなる悪霊の相を顕はすばかりなり」と描写される知盛は御霊に見立てられており、対する弁慶が押し戻しであるなあといつも思います。別にそれが悪いと言うのではありません。それが歌舞伎演出の発想法であったということです。歴代の荒事役者が知盛を得意としてきたのも、そのような理由からでしょう。 だから知盛というと豪快な役どころということになっています。
ところで、芝居でも映画でもそうですが、その役が持つイメージが受け手に漠然とあって、そこに大きな齟齬があると、この配役はちょっと違うのじゃないかと感じること があるものです。容貌は最も大きい要素に違いないですが・それだけではなく、表情・身のこなしとか、全体に醸し出される雰囲気が大事です。それが役から発想される仁(ニン)とでも云うべきものですが、それだけならば歌舞伎だけのことではありません。新劇でも映画でも、それらしき概念は間違いなくあります。
一方、歌舞伎で仁ということをうるさく言うのは、それは役者の仁のことです。歌舞伎には役人替名という概念があって、役というものは芝居という空間のなかで・その役者(人間)が纏う一時的な仮の姿であるという考え方です。例えば九代目団十郎が演じた大星由良助から或る印象が浮かび上ります。当然それは九代目団十郎が演じた弁慶や熊谷直実の印象にも通じます。その共通した印象から九代目団十郎の仁が浮かび上がります。恐らく歌舞伎の仁の概念が特殊なところは、そこです。歌舞伎においては、役から発想される仁よりも、役者から発想される仁の方が大事です。(注:九代目団十郎が演じた由良助・弁慶・熊谷の三役から、そのまま明治前半期の歌舞伎を語ることができるくらいのものです。)
さて今回(平成28年6月歌舞伎座)での染五郎初役の知盛のことですが、染五郎はどちらかと云えば優美で柔らかな印象が強い役者で、線の太い豪快な印象がちょっと乏しいかも知れません。だから(荒事ではないのだけれど・歌舞伎の荒事風味が強い)知盛が染五郎の向きでないと 仰る方もいらっしゃるかと思います。しかし、歌舞伎における仁は役者から発想されるべきものなのですから、染五郎は、染五郎の仁において自分の知盛を構築すれば良いのです。自分の仁にふさわしい知盛が構築できているかの方が、大事です。
ポイントは、知盛は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす」という「平家物語」の思想を体現する男であるということにあります。つまりもののあはれに感応する繊細さと云うことです。歌舞伎ではそのような要素は、優美さ・或は柔らかさとして表現されるものです。知盛は怨念を抱いたまま死ぬのではありません。義経を討つことを果たせず絶望のなかで死ぬのでもありません。豪快なイメージだけが知盛ではありません。そこにパッと散る花の一瞬の美しさみたいなものが見えて欲しいと思います。だからもしかしたら、知盛という役が持つ仁は、荒事風の知盛とはちょっと違ったものかも知れませんねえ。染五郎は染五郎の仁において、そのような知盛の横顔を見せてくれたと思います。
(H28・7・31)