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吉之助の雑談11(平成19年7月ー12月 )


○破滅のパラダイム・その3

経済史家のK.スネルはその著書「貧民労働階級の歴史」のなかで女性の徒弟制度は15世紀以降は文献で確認できるし・17世紀にはかなり一般的であったにも関わらず・たいていの歴史家はこのことを無視してきたと述べています。スネルはその理由を多分それは家庭における女性の役割についての現代の通念と矛盾するからだと推察しています。例えば15世紀英国では女性はほとんどすべての職業あるいはギルドに身を置くことが許されていました。17世紀初頭サザンプトンでの徒弟制度ではその48%は女性が占めていたそうです。ところが17世紀末頃には女性の数は著しく減少して9%くらいになっています。労働者が少なくて・女性労働力が必要とされた間はギルドは女性を受け入れていたのですが、時代環境が変化して男性労働力が増えてくると・次第に女性は排除されて縫製仕事のような手工業のなかに追い込まれていくのです。この傾向は産業革命後は 機械化によりさらに顕著になっていって、女性は家庭に押し込まれていきます。(日本においても江戸時代の日本人の大半は農民であり・農家にとって女性は大事な労働力でしたから、専業主婦の割合は武家や商家の女性などごくわずかなもので した。)

以上のことから推察されることは産業革命による経済構造・消費意識の急激な変化において特に大きく変化を受けたのは女性の社会的地位・生活・意識であったということです。19世紀の社会変化が岐路になっており、ここで女性のアイデンティティーが大きく揺らいだのです。このことが女性を主人公にした文学・オペラが19世紀に頻出することの背景にあることのひとつの理由ですが、実はそれだけ がすべてではありません。その背景はもっと複合的です。

プレヴォーの小説「マノン」は1731年刊行ですから時代は古いのですが、ふしだらな美女マノンは19世紀の芸術家たちの心を捉えます。モーパッサンは1885年に再刊された「マノン」の序文のなかで「騎士デ・グリューと彼の不実な愛人マノンの恥ずべき行為を前にして・読者は彼を許し、まさしく彼女が理由である から彼を許す。それはどんな芸術的創造も、この素晴らしくふしだらな女性以上に力強く人間の感性に訴えてくるものはなかったからだ」と記しています。 どうしてマノンはあれほど贅沢を好む女性であったのか。読者はなぜそんなふしだらな女性に魅力を感じて許すのか。その理由としてモーパッサンはデ・グリューの印象的な告白を挙げています。

「どんな若い女性も彼女より金銭に無関心な者はいませんでした。しかし、お金に不自由するのではないかという不安を抱えたままでは、彼女は一時も落ち着いていられなかったのです。費用をかけずに楽しむことができるなら、決して1スーにも触れようとはしませんでした。我々の財産が何によっているのかさえ知ろうとしなかったのです・・・。けれどもそういう風に快楽に耽っているのが彼女にはとても重要だったので、それがなければ彼女の名誉や愛情についてどんな保証もなかったのです。」

「お金に関心はない・・されどお金」というわけです。マノンの感じている不安とは、消費社会が大衆に常に投げかけている不安です。「常に楽しんでいなければ自分は生きていないような・常に消費していなければ自分は生きていないような」、そのような漠然たる不安を大衆に四六時中 撒き散らしているのが消費社会なのです。(現代でもこの状況は強まりこそすれ変わって いません。)これは女性だけが感じる不安ではありません。もちろん男性も同じような不安を感じています。だからマノンはひとつには生産から引き離されたところにある(ある意味で実体性を喪失したところの)女性を象徴していると同時に、男たちから見た時にはまさに消費社会が投げかけている不安を解消してくれる魅惑的な存在として立ち現れます。男たちはマノンと一緒にいて楽しみ・消費している時にはその不安を一時的に忘れることが出来る のです。ですから19世紀に女性を主人公にした文学・オペラは頻出することは社会的弱者としての女性がクローズアップされているということだけが理由なのではなく、実は19世紀の社会構造の持つ心理的風景と複雑に交錯しています。マノンの場合にはお金(消費社会)ということがキーポイントになります。その背景は作品(その主人公の女性)によって様々であり、このことは「歌舞伎素人講釈」でも時間をかけて考えていくつもりですが、本稿ではこの問題点を提起するに留めます。 (この稿つづく)

(H19・6・17)


○破滅のパラダイム・その2

19世紀の文学・オペラには女性を主人公としたものが多く見られます。例えばモーパッサンの「女の一生」・ゾラの「ナナ」であるとか、イプセンの戯曲「人形の家」など もそうです。女性の生活・心理を正面から見据えたものですが、その多くが悲劇的な暗い色合いを帯びています。特にオペラの場合はそれが多いようです。ムラデン・ドラーは18世紀(つまりフランス革命以前)のオペラは基本的にハッピー・エンドが多いのに対して、19世紀のオペラは壮大な破滅のパラダイムであるとして次のように述べています。

『ディ-ヴァは火中に身を投じ(「ノルマ」・「神々の黄昏」・「ホヴァンシチナ」)、子供は火のなかに投げ込まれる(「トロヴァトーレ」)、また、ディーヴァは刺され(「リゴレット」・「カルメン」)、絞殺され(「オテロ」)、生き埋めにされ(「アイーダ」)、自殺し(「マダム・バタフライ」)、城から身を投げ(「トスカ」)、結核で身を落とし(「椿姫」・「ラ・ボエーム」)、愛で死ぬ(・・・・・)。(中略)破滅というルールは絶大な力を持っている。オペラを見に行くことは、むしろ、まやかしの喜びから涙や絶望へという行程を進むことなのである。そして良質の涙をもたらす力こそが、良質のオペラのトレード・マークとなるのだ。』(ムラデン・ドラー:「音楽が愛の糧であるならば」、スラヴォイ・ジジェクとの共著「オペラは二度死ぬ」に所収、青土社)

ここでドラーはディーヴァ(歌姫、オペラのヒロイン)に対する扱いのことを言っています。ディーヴァは散々な扱いをされたあげくに愛で死ぬ。(・・・・)となっているのは例を数え上げたら枚挙に暇がないから。このことは女性が基本的に社会的弱者であり・社会の歪みというのはそういう弱い部分に特徴的に現れるということに起因するのですが、女性を主人公にした題材が19世紀になって急に増えていく理由はもう少し歴史的背景を考えてみる必要があります。 (この稿つづく)

(H19・6・15)


○破滅のパラダイム・その1

本年(2007年)4月29日にダニエル・バレンボイムがベルリン国立歌劇場において、マスネの歌劇「マノン」を新演出で上演して・テレビ中継もされて大きな話題を呼びました。このところバレンボイムは社会性のあるテーマを意識して取り上げていますから、この「マノン」のヴィンセント・パターソンの演出もその線で 練られたものです。歌手もマノンにアンナ・ネトレプコ、騎士デ・グリューにローランド・ヴィラゾンという話題の組み合わせです。ネトレプコは出演する舞台の切符が争奪戦になってたちまち売り切れるという 今超人気の美人歌手です。第3幕での愛の二重唱もなかなか情熱的で素晴らしく・楽しめる上演となりました。

このオペラの原作はプレヴォーの小説「マノン・レスコー」ですが、文学・オペラの世界ではマノンはカルメンなどと並んで「ファム・ファタール( 男を破滅させる宿命の女)」の代表的なキャラクターとされています。小悪魔的な魅力を持っており ・その性格は享楽的・刹那的であり、その性的な魅力で男に寄生して・その男が破滅すると・次から次へと男を替えて渡り歩くという女です。 しかし、今回の上演ビデオを見ますと、序幕でのマノンはパリの都会に出てきたばかりの田舎娘で・清楚な女学生風であり、それが幕を重ねると都会の楽しみを知って・次第にケバくなって・娼婦のようになっていくように描かれています。パターソンの演出は 、時代設定を1950年代頃に置いて・こうしたマノンの変化をネトレプコの旬の魅力で視覚的に楽しませてくれました。マノンは自分の願望に素直なだけの世間知らずな娘であって、それが消費社会の享楽的な生活のなかで次第に心を侵されていく女性の悲劇として描かれています。プレヴォーの原作ですと「慎ましい生活と祈りの心を忘れて・自分の楽しみ だけを追い求める女はこうして破滅するのだ」という教訓的メッセージとして読めなくもないですが、マスネの歌劇「マノン」はヒロインに同情的で「彼女は多分ちょっと間違っただけなのだよ」という感じにも思えます。そこにマノンに道を踏み外させたものの存在(つまり贅沢と消費だけを追い求める実質のない社会)が意識されています。

ところでデュマ・フィスの小説「椿姫」には主人公マルグリットがプレヴォーの本を読んで思いにふける場面があって、マルグリットがマノンに自分の行く末を重ねていることが分かります。高級娼婦である自分は絶対に幸せにはなれないという予感がそこにあるのです。マルグリットが愛する男のもとを去るのは世間体を気にする彼の父親の懇願もあるのですが、実はそれ以上に娼婦である自分に「こんな幸せはふさわしくない」と言う破滅への予感が彼女のなかにあるからなのです。フィスの小説をオペラ化したヴェルディがそのオペラの題名を「椿姫」とせず に「ラ・トラヴィアータ(道を踏み外した女)」としたのは、そうした破滅型ヒロインの系譜が文学・オペラにあるわけです。(この稿つづく)

(H19・5・11)


○バレンボイムのマーラー第9:その2

サイードはバレンボイムとの対談(「音楽と社会」)のなかで、1999年に開始されたウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラの最初のワークショップでの印象的な光景を回想しています。バレンボイムの指揮でベートーヴェンの交響曲第7番のリハーサルをした時のこと。第1楽章の最初の方でオーボエの駆け上がる音階をエジプト出身の奏者が軽やかに奏でるのを聴いて、イスラエルの音楽家たち(ユダヤ系には伝統的に優れた弦楽奏者が多い)が一斉にハッと驚いた表情をして彼の方を 振り返って見たというのです。イスラエルの音楽家たちはパレスチナやカイロに自分たちと同じ音楽を奏でる音楽家がいるなどということを・これまで想像だにしていなかったのです。サイードは「(このことに気付いた以上)この子供たちが、あるものから別のものへと変化してい くことは基本的に止められないことだ」と言っています。これに対しバレンボイムは次のように返事をしています。

『僕を驚かせたのは「他者」についてどれほどの無知が横行していたかと言うことだ。(中略)彼らは同じ音を・同じ強弱で・同じボウイングで・同じ響きで・同じ表現で演奏しようとしていた。一緒に何かをやろうとしていた。ただそれだけのことだった。ふたりが共に関心を持ち、情熱を燃やしているものを、一緒にやろうとしていたのだ。そのたったひとつの音を達成してからは、彼らはもうお互いを前と同じようには見ることができなかった。共通の体験を分け合ったからだ。これこそが出会いの大切さだと思う。』(ダニエル・バレンボイム:「音楽と社会」)

バレンボイム/サイード 音楽と社会

もちろんこの出会いだけですべてが解決したわけではありません。イスラエルとアラブの若い音楽家たちは一緒に生活して・音楽を学びながら、少しづつ緊張を解いて・対話のきっかけを見出していきます。ワークショップでは時に真っ向から政治的な議論をたたかわせる場も設けられています。そうやって、自分たちがどこから来て今まで何を考えていたのか・どうして我々は今ここにいて一緒に音楽をすることに何の意味があるのか・これまで自分たちが感じていた相手との「違い」とは一体何だったのか・この後自分たちはどこへ帰らなければならず何をしなければならないかを彼らはずっと合宿の間中自問自答を続けます。その間にも故国で同胞たちは憎みあい・殺し合いを続けているのです。こうして育まれた彼らの友情は・ピリピリとした痛みと・胸の奥底に重く淀む憤りを伴ったものとなっていくのです。バレンボイムのマーラーを聴くと、そのピリピリした痛みと・やりきれない憤りがそこに反映していることが分かります。バレンボイムのマーラーの感触はザラザラしています。しかし、そこにあるのは決して絶望ではありません。

もうひとつバレンボイムの最近の演奏活動のなかで重要なものに、2004年にベルリン国立歌劇場で新演出されたシェーンベルクの歌劇「モーゼとアロン」が挙げられます。演出家ペーター・ムスバッハは「神と民衆との在り方」を主題とした作品を「信じさせようとすること、信じようとすること」と読み替えて、現代における個人と社会の問題として斬新な舞台を作り上げました。ご興味ある方はこのサイトに動画がありますから・その映像を是非ご覧下さい。舞台は金の子牛の像が巨大な人物像に置き換えられ、その前年(2003年)の湾岸戦争のフセイン政権崩壊の光景を思わせます。登場人物は映画「マトリックス」みたいに背広にネクタイ・髪を撫で付け・サングラスといういでたちで「スターウォーズ」さながらライト・サーベルを振り回すといった具合です。アロンとの論争に負けたモーゼは「おお、言葉だ・言葉、私に欠けているのはお前なのだ・・」と言って崩れ落ちます。シェーンベルクの音楽は耳に優しい音楽では全然ありません。聴き手に突き刺さるような・キリキリとした痛みを伴う音楽です。シェーンベルクの「モーゼとアロン」はユダヤ人たちがナチスに追われてドイツ・オーストリアからの亡命を余儀なくされた時期に作られた音楽なのです。

実は吉之助はシェーンベルクをずっと喰わず嫌いでおりました。吉之助にとってのシェーンベルクは後期ロマン主義の残渣が濃厚な「浄められた夜」までがせいぜいの領分で、十二音音楽は ずっと理解の外でありました。しかし、今回バレンボイムのマーラーを聴いて・マーラーにシェーンベルクの「モーゼとアロン」と同じ響きがあるのにハッとしました。ここにはピリピリとした痛みと・胸の奥底に重く淀む憤りを伴った・しかし 決して絶望ではない何ものかがあるのです。マーラーの延長線上にシェーンベルクの音楽があることを明確に意識させられました。これでやっと「モーゼとアロン」が分かる・・という確信が持てました。本年(2007年)秋のバレンボイムとベルリン国立歌劇場の来日公演が楽しみになってきました。

(H19・6・8)


○バレンボイムのマーラー交響曲第9番:その1

芸術家と言うと日本では世間知らずで・芸道だけに精進しているようなイメージがあって、多少不祥事を起こしても「芸阿呆」で許されちゃうみたいなところがありますが、本当の芸術というのは時代・社会・生活の関連のなかで生まれてくるものです。そのようなことから外国の芸術家は積極的に自らの思想的・政治的立場を表明して、社会と能動的に関わっていこうとする方が多いようです。そのなかでも優れた指揮者であり・ピアニストでもあるダニエル・バレンボイムの活動は際立っています。バレンボイムのそうした政治的活動はイスラエルと・パレスチナやその周辺のアラブ諸国の若手音楽家たちを集めて・合宿レッスンを行い、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラを組織するなどの活動に象徴されます。 それは「音楽は国境を越える」などという甘っちょろいお題目と違って、もっと切実に・現実的に世界と対峙しようとする芸術活動なのです。またパレスチナ出身の哲学者エドワード・サイードとの対論(「音楽と社会」・みすず書房)は音楽論としてだけでなく思想的にも重要なもので、興味ある方には是非お読みいただきたい本です。

バレンボイムは非常にレパートリーの広い指揮者ですが、これまでマーラーへの取り組みは慎重すぎるほど慎重で・まだその作品の多くを取り上げていません。(ピアニストとしてはF=ディースカウとの歌曲全集の素晴らしい録音があります。)ユダヤ系であるバレンボイムにとってマーラーが重要な作曲家でないはずがなく・むしろマーラーが最もユダヤ的な作曲家であるゆえに意識して遠ざけて来た感じがはっきりありました。しかし、ここに来てバレンボイムはいよいよマーラーに本格的に取り組む決意をしたようで、最近は交響曲第7番・第9番を頻繁に指揮しているようです。吉之助は2003年10月 24日のシカゴ響との来日公演で・バレンボイムが指揮するマーラー第9番を聴きました。確かにダイナミックで見事な演奏でしたが、まだどことなく曲にのめり切れない迷い・ためらいのようなものが感じられた演奏でした。

しかし、今回、2007年3月20日のベルリン・フェスト・ターゲで、ベルリン・シュターツカペレ(国立歌劇場管弦楽団)を振った第9番の録音を聴きますと、その迷いが完全に吹っ切れたようで・確信を以って歩みを進める素晴らしい演奏に圧倒されました。ここでのマーラーは当然ながらのめり込みの強い表現になっています が、しかし、それはバーンスタインのマーラーのような没我的なのめり込みではなく、むしろ逆にバレンボイムは理性的なのです。バレンボイムは感情の揺れ動きと冷静に対峙して現代にマーラーを演奏することの意味を再確認しているかのように思われま す。例えばリズムに細かく緩急や強弱をつけて・リズムをプッシュするように聴き手を急き立てていく。あるいは響きのブレンドを粗くして 聴き手の耳に刺激的な・ある意味で不快な響きを意識して作って、聴き手に仕掛けていくのです。この表現が特に中間二楽章で生きてきます。(まさにここの部分が2003年のシカゴ響との演奏で物足りなかったところでした。) いろんな発見が随所にあります。これは第9番の数多い名演の演奏のなかでも・傑出した出来だと思います。(この稿つづく)

マーラー:交響曲第9番

(H19・6・3)


○伝統芸能現代化の試み・その3

歌舞伎は能狂言より具象的で・より写実に近い芸能であるのですが、歌舞伎は歌舞伎で表現の制約を抱えています。歌舞伎の古典に照明や音響の効果を加えることは却って煩わしく 感じられて、むしろ能狂言の方がこうした試みを面白く見られるというところがあるようです。昔、八代目中車が「双蝶々曲輪日記:引窓」で引窓の開閉をするたびに舞台を明るくしたり・暗くするという写実演出を試みたことがありますが、とても評判が悪かったそうです。 写実の手法が観客に舞台の嘘を意識させてしまうのです。

歌舞伎の様式は江戸という時代と密接に絡み合う要素が強いだけに、表現の自由度が意外に狭いのかも知れません。明治になって盛んに作られた歌舞伎の松羽目物を見ると、明治期には能役者たちは 既にみんな散切り頭になっていたにも関わらず・それを真似する歌舞伎役者の方がチョンマゲをつけて太郎冠者をするというのも 、これは考えれば奇異なことです。実は明治12年(1879)2月新富座の「勧進帳」において九代目団十郎が「素顔に地天窓(あたま)にて眉毛も格別太くせず白粉も施すことなく・・」という散切り頭の扮装で弁慶を演じた記録があります。九代目が「活歴」に熱中していた頃のことです。しかし、この時の弁慶の扮装が幸か不幸か甚だしく評判が悪かったのです。それで九代目も仕方なく「勧進帳」 を昔風の姿に戻したのです。もし・ここで九代目の「実験」が成功していた ら、現代の舞台の「勧進帳」や松羽目舞踊は散切り頭で演じられていたことでしょう。しかし、結果としてそうはならなかった。そこに歌舞伎の本質もあり、また表現の限界もあると思います。

それでは歌舞伎の現代化はならぬのでありましょうか。7月歌舞伎座では「NINAGAWA十二夜」の再演が予定されています。吉之助はどうせシェークスピアを演るなら・シュークスピア劇を歌舞伎の様式のなかに取り込んじゃうくらいに果敢に 原作のまま挑戦をしてもらいたいと思ったのですが、結局、「十二夜」では江戸時代の風俗・言葉に置き換える翻案という形になってしまいました。その方が 歌舞伎役者が演り易いのは分かりますが、もっと違う土俵で歌舞伎の技法の可能性を試してもらいたかったなあとちょっと残念でありました。まあ、そう言う意味で「NINAGAWA十二夜」は歌舞伎役者にとっても・蜷川さんにとってもホントのガチンコ勝負にはなっていないと思うのです。(注:ただし今井豊茂の脚本はうまく翻案をしていて・それ自体は良い仕事であったことは付け加えておきます。)

2005年9月世田谷パブリック・シアターで野村萬齋が「敦〜山月記・名人伝」を能狂言の手法で上演した時、萬齋はインタヴューで「狂言役者の象徴である足袋と(・・ござる)を捨てて挑戦する」と言ったそうです。その意気や良しです。歌舞伎の現代化を トコトン試すなら歌舞伎役者もチョンマゲと・女形の「・・じゃわいなあ」を捨てる気概が必要だなあと思うのです。

(H19・6・1)


○伝統芸能現代化の試み・その2

それにしても音響や照明で色を付けるという程度のささやかなものではありますが、能楽の場合にはそれでもずいぶんと雰囲気が変わるものだと思いました。そこに演劇における写実(リアルさ)というものを考える材料があるようです。武智鉄二はこんなことを書いています。

『この一枚の松羽目が海淵であると同時に深山であり、地獄であると同時に極楽であり、草原であると同時に殿堂であらねばならぬ。これを空間性の制約を超越した豊かなる能の表現性の例証だという説をなす人もあるが、これほどあきれた現実無視の言はない。松羽目のある三間四方の舞台は、つねにただそれだけでしかない。能にあってはシテの仮面から始まって舞台装置にいたるまで、ことごとく劇的内容、その人間性につらなる一切のものの表現を否定するために用意されているとしか思えない。』(武智鉄二:「能楽の特異な性格について」・昭和28年10月)

これは狂言を実際に演じ・知り尽くした武智鉄二であるから言える言葉であるのはもちろんです。能狂言は田楽猿楽に発し・その芸は物真似から始まりますから、その芸の根本はもちろん写実なのです。しかし、能狂言が様式として固まっていくなかで、能狂言はあるレベル以上の写実の表現を削ぎ落として抽象化していきます。能狂言 は様式としてある一定枠外の写実の表現を許さなくなるのです。これを言い換えますと、何かがそれ以上の自由な表現・更なる写実を阻んでいるということにもなります。「花」だとか「幽玄」などと言う 理念は・これを正当化するために後から出て来た理屈なのかも知れません。このことを武智鉄二は言っています。

芸能は人間の実生活を活写するべきものであるという考え方・写実こそ究極の芸術の方向であるとする史観 (必ずしもそれだけでもないと思いますが・そういう史観もある)からすると、「この一枚の松羽目が海淵であると同時に深山であり・地獄であると同時に極楽であり・草原である」と理屈をこね出した瞬間から 、能狂言は自らの表現に枠をはめてしまって次第に様式化して行くということになるわけです。その時点で写実の更なる段階は次世代の芸能に期待されるということになるのです。能狂言から歌舞伎への時代の役割の移行はそのようにも考えられると思います。

そう考えますと・海を表現するために床に波状模様を映し出す・あるいはおどろどろしい雰囲気を出すために舞台に稲妻を鳴り響かせるというのは、「松羽目の三間四方の舞台はつねにただそれだけでしかない」という能楽の隠された真実を暴き出すことになるわけです。つまり、それは非常にラジカルな実験なのです。 (この稿つづく)

(H19・5・27)


○伝統芸能現代化の試み・その1

野村萬齋ほか能狂言の若手によるユニット「能楽現在形」による公演で、三軒茶屋の世田谷パブリック・シアターでの舞囃子「猩々乱」・能「鉄輪」を見てきました。普段の能楽堂での上演と違って、現代演劇や舞踊などのパフォーマンスを上演するための異質な劇場空間において能楽を上演することはいろんな意味で「挑戦」で、現代に生きる能楽を考える上で興味深い試みとなりました。

世田谷パブリック・シアターはもともと舞台を観客席が半円形に取り囲むような構造になっていますが、今回の上演では観客席に向かってせり出した形の本舞台から右・左・後方に向けて三方向に橋懸かりを設けるという特設舞台が使われました。能「 鉄輪」では夫に棄てられて・嫉妬に苦しむ先妻が鉄輪(鉄の輪に三本足をつけた五徳)を頭にいただき・恐ろしい生霊となって登場します。舞台奥の暗闇に照明で浮き上がった生霊が中央の橋懸かりを通って本舞台の方へ真っ直ぐに向かってくるのはなかなか生々しく・おどろおどろしい瞬間でありました。これなど・その照明効果も含めて・いつもの能舞台では決して見られない印象的なシーンです。 このほか「鉄輪」では陰陽師・安倍晴明が張り巡らせた結界や五芒星を床に照明で映し出すなどの照明効果が使われました。また「猩々乱」でも猩々が海上から現れ・波の上を舞い遊ぶ場面で舞台に波 状模様が映し出されました。

このように能楽の上演で照明を駆使することは見る人によっていろいろ意見があると思います。能の象徴性が照明で解説されてしまうことで・その神秘性が失われてしまうとか、観客が想像力を働かせる余地を奪ってしまうという見方もあると思います。現代人には難解な能の世界を少しでも分かりやすくして・理解への糸口を付けてあげる ことは大事なことだと肯定的に見ることももちろん出来ます。これはどちらの要素もあると思います。あちらを取れば・こちらは失われ、こちらを取れば・あちらを捨ててしまうことになるのです。それを怖がっていては・仕事になりません。演出・解釈とはそういうものです。

今回の3日間の上演では・演出のいくつかのオプションを劇場側が提示して・三人のシテ方に自由に選択をしてもらったそうで、結果的に三者三様の舞台に仕上がったようです。せっかくいつもの能舞台とは違った空間で演るのだから・思い切っていつもと違うことをしてみたいという方もあれば、こういう違った空間であるからこそ・(安全志向ということではなく)ここはいつもの演じ方が通じるかどうか試してみたいと言う方もある かも知れません。聞くところでは他の日には「鉄輪」の生霊の登場場面で照明・音響効果で稲妻が炸裂し・響き渡るという具合で、これはなかなかの迫力であったそうです。また橋懸かりの位置が違うだけでも・シテの動き・段取りはかなり変わってくるものがあると思います。それはどの シテの行き方(演出)が正解であるかとか・こっちの方が良いか悪いかという問題ではなく、そこに演者の風・個性が自然と出てくるものなのでしょう。(この稿つづく)

(H19・5・23)


○機械的なリズム:その3

ここで急に思い付いて・舞踊「二人椀久」のビデオ(平成9年9月歌舞伎座)を見てみました。狂乱舞踊の椀久物のなかでも古いものですが、現在これが人気作品になっているのは 当代富十郎・雀右衛門のコンビに由るところが大きいことは言うまでもありません。その大筋は松山太夫との仲を裂かれて狂乱した椀屋久兵衛が松山太夫との華やかかりし頃の幻影をみて一緒に踊りますが・やがてその幻が消えて・ひとり舞台上に取り残されて泣き伏すというものです。この久兵衛と松山の関係も相手が実現されることのない幻ですから、これもやはり「すれ違い」です。それは久兵衛の「私が・・私が・・」の意識が生み出す幻です。

「二人椀久」で特に人気があるのは、松山太夫の幻が現れて・しばらくしっとりとしたやり取りがあった後、「按摩けんぴき按摩けんぴき・さりとはひきひきひねろ」の部分辺りから軽快なリズムで浮き立つような廓の賑わいが描写される部分です。リズミカルな踊りに人気があるのもさもありなんと思いますが、日本舞踊でこれほど早い定間のリズムが前面に出るのは珍しいようです。実はこの部分がこのような斬新な急テンポになったのは昭和31年9月明治座で富十郎と雀右衛門がコンビを組んで初めて踊った時以来のことだそうで、それ以前はそれほどの早間ではなかったのです。恐らくはアズマカブキ(昭和29年の吾妻徳穂によって行われた海外公演・富十郎の「二人椀久」はこの時が初演で・その時の松山 太夫は母・吾妻徳穂でした)の影響があるのでしょう。まあ、悪く言えば観客に媚びた下世話な感じがしなくもないですが、この部分からは「戦後」の匂いがぷんぷんして来るようです。

いずれにせよ・定間のリズムが前面に出ていることが重要です。軽快なリズムに惑わされてしまいますが、この部分は歪んでいるのです。恐らく本来のもう少し遅いリズムならばそこのところが明瞭に出るような気もしますが。やはりこのテンポはちょっと早過ぎるようです 。この舞踊が人気があるのもそれ故なのですけどね。この軽快なリズムは決して久兵衛が内側から湧き出す喜びのなかで踊るものではないのです。このリズムは久兵衛が何ものかに弄ばれていることを示しているのです。機械的な揺れるリズムが久兵衛を操って・踊らせていると言うことです。

長唄の三味線のリズムは、プロコフィエフの音楽を聴いた後ですと・その音階が意外に近いと感じられます。まあ、聞き比べて見てください。速度の違いはありますが、その半音階とリズム性が邦楽と現代西洋洋楽でこんなに近く感じられるものかと思います。「二人椀久」が戦後の新しさを感じさせるのは、やはりその早い定間のリズムなのです ね。

「按摩冥利に叶うて嬉し」辺りから久兵衛が右に行くと・松山が左へ行くという風に久兵衛と松山の動きが次第にズレ始めます。松山は幻でありますから「実」がないのは当然のこと。 やがて松山の姿は消えうせ、「私が・・私が・・」という久兵衛の一方的な想いはすれ違って、遂に受け取られることはないのです。

(H19・5・19)


○機械的なリズム:その2

ヌレエフ版の「ロメオとジュリエット」はヌレエフ自身が優れたダンサーですから、他の振り付けより男性パート・ロメオの動きに重点を置いた振り付けになっているのが特徴です。ヌレエフ版で特に印象に残るのは、バルコニー・シーンの最初の方で(ジュリエットがロメオの存在に気付くまで)・ロメオがジュリエットを追い駆ける場面です。ロメオはジュリエットが右に行くと右に行ってピルエット(回転)し、 ジュリエットが左に行くとまたそれを追って左に走ってピルエットします。

ロメオがジュリエットを追い駆ける場面についてルグリはロメオ役の生徒に「ジュリエットに見えないように・その背後にすばやく回り込むように」とアドバイスしていました。これは演じる側へのアドバイスですから当然そのようになりますが、ロメオはジュリエットを驚かせるために・後ろに隠れようとしているわけではないので・実はむしろその逆なのです。ロメオは自分がここにいることをジュリエットに懸命に知らせようとしているのに、ジュリエットの方は無邪気に自分の気持ちに忠実に振舞っていて・ロメオの存在にまったく気が付かないのです。そこにロメオとジュリエットの関係がさりげなく示されています。

これは「すれ違い」と言って良いと思いますが、ロメオの方がジュリエットをひたすら追っており、しかも、何となく「自分が自分が・・」と急いているような感じがあります。一方のジュリエットはその後も余裕があると言うか・若干冷静な感じがします。そこにふたりが引き裂かれている感じがよく出ています。ヌレエフはプロコフィエフの音楽をよく聴きこんでいるなあと感心するばかりです。今回バルコニー・シーン のいくつかの振り付けをビデオで比べて見ましたが、この冒頭部分はヌレエフの振り付けが抜きん出て素晴らしいと思います。ヌレエフ版と比べると・他の版はジュリエットがロミオと出合って・一緒に踊り出すまでの過程が平凡に感じられます。

ヌレエフ版で視覚的に感じられることは別稿「かぶき的心情と「・・und(と)」」でも触れた「・・und(と)」の関係です。男性の方は「私が・・私が・・」とばかり言って・自分のことばかりで・ひたすら死の方向へ突っ走ろうとするのですが、女性の方は「その愛はあなたと私と言う関係ではないのですか」と冷静に指摘します。女性にとっては愛は「私」でも「あなた」でもなく・ ふたりは「・・と(und)」で結び付けられねば意味がないのです。そこに男性と女性の意識の微妙なすれ違いが見えてきます。 このすれ違い関係は「ロメオとジュリエット」の結末に決定的に作用してきます。(この稿つづく)

(H19・5・14)


○機械的なリズム:その1

平成19年初春にNHK教育テレビで放送された「スーパー・バレエ・レッスン」のビデオをとても興味深く見ました。パリ・オペラ座バレエ団のエトワールであるマニュエル・ルグリが熱心に若手ダンサーを指導していて、そのバレエに賭ける情熱が伝わってきます。平成19年2月放送のレッスンはプロコフィエフ 作曲のバレエ「ロメオとジュリエット」第1幕フィナーレの有名なバルコニー・シーンでした。振り付けはパリ・オペラ座で使用されているルドルフ・ヌレエフによるものです。

興味深く感じたのは、レッスンは当然ピアノによる伴奏ですが・これによりプロコフィエフの音楽(1936年作曲)の骨格が明確に分かったことです。バルコニー・シーンはガラ・パフォーマンスで もよく取り上げられる有名な場面ですが、プロコフィエフの音楽がこういう引き裂かれた音階とリズムで出来ていることに改めて感じ入りました。オリジナルの管弦楽曲版であると・バルコニー・シーンはその色彩的な響きによってその前衛的な要素が隠されてしまうようで・もっとロマンチックで幻想的に聴こえるようです。若い恋人たちの逢瀬の場面だから当然ロマンチックだと聴く方が思って聴くせいもあるかも知れません。

シェークスピアの原作では第2幕第2場に当たる・このバレエ第1幕のバルコニー・シーンはジュリエットはロメオが自分の家(キャプレット家)と敵対するモンタギュー家の一員だと知った後の場で あり、芝居ではジュリエットが有名な台詞「ああ、ロメオ、どうしてあなたはロメオなの」を言う場面に当たります。ふたりは自分たちの恋が親たちからは祝福されないことを最初から薄々感づいており、逆に言えばそのことが返って彼らを燃え上がらせることになります。つまり、このバルコニー・シーンは最初から引き裂かれているのです。そうしたふたりの宿命が半音階と不協和音を通奏低音のように配したプロフィエフの音楽から明確に浮かび上がってきます。こういうことがピアノで演奏されると 、骨格として明確に見えて来るのです。これは白黒写真の方がカラー写真よりもコントラストが強烈に来ることによく似ています。

まず「バルコニー・シーン」のレッスンで面白かったのは、冒頭で庭に散歩に出てくるジュリエットの登場の箇所で・ルグリがジュリエット役の生徒に「君の歩き方は何だか機械的だ、もっと自然に歩いて」とアドバイスしていたことです。半音階と不協和音のゆっくりしたリズムで始まるプロコフィエフの音楽冒頭には確かに機械的に歪んだ雰囲気が聴こえます。それを感じ取って・生徒は身体で表現したのだと思います。 この音楽の感じ方は正しいのです。しかし、それを舞台のダンサーがそのままストレートに視覚的に表現してしまっては、ルグリの指摘するように・何と言いますか・野暮なので しょうね。ロメオのことを想いながらロマンチックな気分に浸るジュリエットをダンサーが自然に演じる方がその背後で鳴る機械的なリズムとの視覚的ギャップが出て・引き裂かれた印象がもっと強く出るというわけです。

それにしてもプロコフィエフの音楽は半音階の揺れるリズムが通奏低音に使われていて、それがとても興味深く感じられます。恋して踊るふたりの周囲の空間が明滅して歪みながら ・不気味に・ゆっくりと回転しているように感じられます。この機械的な基本リズムがとても重要です。その歪んだ揺れるリズムがロメオとジュリエットのふたりの祝福されない関係を暗示しているわけです。(この稿つづく)

(H19・5・10)


○パリ・オペラ座の「勧進帳」・その2

NHK-Hiヴィジョンで本年(2007年)3月の団十郎一行のパリ・オペラ座公演のドキュメンタリーを放送してくれましたので興味深く見ました。これを見ますとオペラ座での「勧進帳」の光度をかなり落とした・陰影のある照明は、オペラ座芸術監督のブリジット・ルフェーブル氏が「舞台が眩しいからもっと暗くして」と言ったのが原因であったようです。当初の舞台稽古でも照明は歌舞伎座の時より落とした感じでしたが、ルフェーブル氏のひと言で照明がさらに暗くされたようです。「まったく余計なことを言ってくれましたね」というのが吉之助の率直な感想です。ドキュメンタリー前半では渡仏前に背後の松羽目の模様に霧に霞んだ雰囲気を出したいというので・陰影を暈かした墨絵調の色合いを何度も入念にチェックする団十郎親子の姿が描かれていましたが、うんと暗く した照明のおかげで・その苦労が水の泡にされちゃいましたね。あの暗い照明ならば線の強い松羽目の方が生きたと思います。

「舞台が眩しい」ということですが、舞台の照明をあまり落とさなくても・逆に観客席の方を明るくしてしまうと言う対処法があり得たと思います。現在のオペラ・バレエ上演では客席を暗くするのが常識ですが、昔は歌舞伎と同じように・上演中でも観客席は照明を落とさず明るかったものなのです。オペラ上演中に観客席を暗くする のはワーグナーが自らの作品を専用に上演するための劇場をバイロイトに建設して上演を始めた時に行ったのが最初のことで、そんなに昔のことではなかったのです。何故かと言いますと、もともと貴族や新興ブルジョワの観劇の目的は舞台鑑賞より社交の方が優先であったからです。バルコニー席(日本で言えば桟敷席)が社交族の指定席で・彼らはそこから向かい側の席のお客の顔触れや衣装・ 装飾品の趣味をオペラグラスで互いに観察するのが何よりのお楽しみであったのです。当然客席は明るくなければなりませんでした。当時の劇場の雰囲気は江戸の歌舞伎とあまり大差なかったと思います。ワーグナーがバイロイト祝祭劇場で豪華なシャンデリアなどを排して・上演中に観客席の照明を消してしまったのは、「 観客は余計なことを考えずに・俺の作品を見ることだけに集中せよ」という意図であったわけです。パリ・オペラ座の開場は1875年(日本は明治8年)で・バイロイト祝祭劇場の開場は1876年のことですが、ワーグナーの革命的な試みがすぐにヨーロッパ全土に広まったわけではないので、詳細は判りませんが・パリ・オペラ座でもオペラ上演中に観客席が明るいままの時代がかなり長く続いたと思います。ルフェーブル氏がそんなことを知らないはずがないですが、その辺の感性ちょっと鈍かったのではないでしょうか。

ドキュメンタリーでは団十郎と日替わりで弁慶を演じる海老蔵が、花道中央から・架設花道で客席に飛び降り・中央通路を通って飛び六法で駆け入る姿が放映されました。弁慶が客席を駆けている最中でも・一階席に横を向いて弁慶の方を見たり・後ろを振り返ってみたりしている観客がほとんど居らず・しっかり正面向いたままの観客ばかりであったのも、お澄ましのフランス人らしい反応であったなあと思います。他の国ならば反応はちょっと違ったのではないでしょうか。記者会見で海老蔵は「舞台と客席の距離」があったことを言っていたようですが、客席 のなかに飛び込んで・それをぶち壊したくなった海老蔵の気持ちは分かるような気がします。舞台と観客席の間にオケ・ピットがあって距離があったということもありますが、しかし、観客席が明るければ状況はかなり変わったと思います。変則ではありますが、幕外になった後に観客席の照明をつけて・カーテンコールの雰囲気にしてしまった後に飛び六法という手もあったかなと思いますね。

それはともかく・花道中央でツケ打って海老蔵の弁慶が前方を見込む時、今回は架設花道が傾斜していますから・弁慶は下向きに暗闇を見込む形になります。暗い観客席のなかに突っ込んでい かねばならない弁慶の姿には胸を衝かれました。「勧進帳」の幕切れはたとえ義経・弁慶一行の行く手が奥州平泉の死であるとしても・祝福された明るいものでなければなりません。暗闇のなかに突っ込んでいく弁慶は「勧進帳」の幕切れにふさわしくない。明るい賑やかな観客席のなかで海老蔵の飛び六法を踏ませてやりたかったものです。

(H19・5・6)


○GHQ報告書・戦後歌舞伎の出発点・その4

『検閲の伝統が日本人の心にしっかりと根を下ろしているので、彼らが疑うことなく連合国軍の検閲制を受け容れてしまうことに、幾分、失望させられている。日本人は、戦時中軍国主義者が利用した封建思想を映した劇が上演されないように気をつけるという責任を感じていない。』

報告書は江戸時代から・戦時中までの政治権力による演劇検閲の歴史を振り返り、日本の演劇人の「検閲慣れ」にいささかあきれ気味です。お上から直せと言われれば・ハイハイと脚本を素直に直すけれども、 たいして反発もしないし・何のために直さねばならないのか・ということを考えてもいないようである。結局、日本人は根本的に反省もしてないし・「自分たちはこんな演劇を作りたい」という理念を持っていないように見えると 言うのです。だから、いつまで経っても同じことをする。「松竹の関係者とは毎日連絡があり・我々の検閲の方針について承知しているはずなのに、松竹が提出してくる脚本には禁止しなければならないものが時々ある」と報告書が書いているのにはちょっと笑えます。この辺は異文化コミュニケーションの話題にもなりそうですなあ。

『日本の演劇の自衛本能はいまだに機能している。外国の流儀や習慣を真似するわずかな期間だけ・演劇に新しい思想が存在していたが、その時でさえ・これらの思想が本質的に日本的になるように変えてしまったと日本人は自慢していた。』

報告者のあきれ顔が見えるようです。この際だから戦時中に禁止されて・やりたくて出来なかったものを復活して・新しい時代の歌舞伎を開拓してみようというようなこと を考えた日本人はいなかったのですかねえ。具体的なことは調べていないので分かりませんが、歌舞伎の脚本 (特に世話物)には戦時中の検閲で部分的に台詞などが削除修正されたのが・そのままになって現在も上演されているものが少なからずあるそうです。 そういうところは是非修正してもらいたいものです。

『松竹は保守反動的な会社である。歌舞伎の救世主のように装うことで・この芸術形式を守っているという評判を得たが、松竹は戦時中から歌舞伎で損失を出したことがない。興行で失敗した時は安っぽいありきたりのエンタテイメントを大量に上演し、その損失を埋め合わせる。』

松竹のこの体質もあまり変わっておらぬようです。報告者もよく見てますね。 いずれにせよ現代の歌舞伎の現状(舞台だけでなく・劇評・研究畑も含めて)を振り返ってみると、この報告書が伝えるところの・戦後歌舞伎の出発点の時点から本質的に様相はあまり変わっておらぬのではないか・という感慨を吉之助は持つのですが、如何なものでしょうか。

 (H19・4・19)


○GHQ報告書・戦後歌舞伎の出発点・その3

『歌舞伎における言葉や習慣は、(昭和20年代の)現実からかけ離れているので、現在の平均的な日本人と歌舞伎の舞台に描かれていること歴史的な場面が心理的に結びつくかどうかは疑問である。(中略)彼らは「手早く文化的なものを」という精神で見に行っているが、実際には劇を見世物以上に深くは理解していない。しかし、それゆえに危険である。(中略)歌舞伎から昔の封建時代の栄光のぼんやりした感覚以上のものを受け取ることのできない今日の観客にとっては危険性が倍加している。それゆえ検閲が必要である。』

そして報告書はその検閲の成果として、次のような例を挙げています。

長い上演禁止の末に上演許可された「熊谷陣屋」の舞台を見て、『ある批評家は、子供の頃から「熊谷陣屋」を見てきたが、これほどまでに「熊谷陣屋」の戦争放棄ということの衝撃がまともに自分を襲ったこともなかったし、戦争がもたらす悲劇と不条理な犠牲を深く感じることもなかったと書いている。この劇は二股物、あるいは引き裂かれる忠義の劇(under two flags)に属する。』

上演された「奥州安達原・三段目」について『ある劇評家は、裏切者貞任は日本のように三つの負け方をしている点に今日現代の意味深々たるものを持っていると指摘した。すなわち、彼は捕われて負けた・敵将自らの手によって自由にされたという敵将の仁慈の偉大さに征服された・武士として鍛えられたにも関わらずそれ以上にわが子を愛したから負けた。今の観客が大体これくらい深く考えてくれたら歌舞伎のもたらすものは確かに有益なものとなろう。』

まあ、そういう見方もあるかも知れませんねえ。なるほどこれが戦後民主主義思想の洗礼を受けた歌舞伎の見方なのだろうなあと言うことは分かります。報告書は自らの検閲の成果を次のように書いています。

『検閲側は、昔の英雄は常に忠義を尽くすという概念を打破するため、二股者の劇を市場に多く出している。これらの劇から受ける印象は、行動を決定するのはヒューマニティという高尚な理由であり、 これこそ以前の日本では見ることのできなかった視点である。』

なるほどキーワードは「ヒューマニティ」というわけです。現在の劇評などでよく見られる「ホームドラマ」とか「家庭悲劇」などという言葉も、1947年にGHQ報告書において提出された歌舞伎の見方のまさに延長線上にあるものです。60年経っても歌舞伎研究や劇評はその影響から脱していないことがよく分かります。(この稿つづく)

(H19・4・12)


○GHQ報告書・戦後歌舞伎の出発点・その2

『検閲部が審査した脚本の大半は、行方不明の子供との再会、間違われた出目、内輪もめ、主人への忠義と言った・幼稚で取るに足らないものである。偉大な悲劇も喜劇もない。文学的価値のある劇は存在しない。』

ここで言う演劇脚本は歌舞伎だけを指していませんが、歌舞伎がそのなかの中核にあることは間違いありません。それらはほとんど歌舞伎から生まれたものですから、こ の文章は歌舞伎のことを言っていると考えて良いと思います。ふーん、「幼稚で採るに足らない内容」ねえ・・・日本人としてはちょっと物申したい気分になりますが、さらに報告書は次のように述べています。

『現代劇であれ時代劇であれ、禁止されたほとんどの劇は主人公の行動を恩義(obligation)の感覚で縛るという封建的概念に基盤を置いている。(中略) 恩義と感謝の感覚はこのこと自体は有害ではなく、キリスト教徒にもある程度そう思える。しかし検討してみると、それには究極的あるいは絶対的な善と悪、正と邪、正義と不正義の概念が含まれていないことが分かる。』

娘は両親に恩義を感じているので、貧しさのために売春婦に売られても彼女は異議を唱えることができない。使用人は主人の経済的破綻を助けるため、窃盗やそれ以上の悪事を行なう。 ・・・『しかし、それらは仕方のないことなのだ。売春、窃盗、殺人、それらが悪いことであるか、また恩義を感じている人が善人か悪人かについて疑念をはさむことは決してない。問題はただ恩返しということのみである。』

民主主義の教義のひとつは、個人は自分の行動を自分で決定する権利があり・その行動の結果に責任を持つということである・・・『しかし、日本人はこのような行動の選択の自由など思いつきもしないし、自分の意思に関わらず・いったん恩義を受けてしまえば、恩返しするか自決するしか方法がない。(中略)佐倉宗五郎は地域の利益のために自己犠牲を厭わない賞賛すべき男であるが、彼は掟を破ったが故に罰せられても仕方ないということになる。』

これについても吉之助としては物申したい気分ですが、しかし、これは彼らが言いたいことも何となく分からないでもありません。現代日本の若者が歌舞伎を見ても多分同じようなことを感じるだろうと思えるからです。それにしても・1947年にアメリカ人が提出したこの見方に対して、60年経って我々は(歌舞伎役者も・研究者も・劇評家も)彼らを納得させるだけの 独自の理論を構築できたであろうか、そんなことをふと考えてしまいます。(この稿つづく)

(H19・4・7)


○GHQ報告書・戦後歌舞伎の出発点・その1

歌舞伎学会誌「歌舞伎・研究と批評」最新号(第38号)に浜野保樹氏による「GHQ機密報告書:検閲と日本演劇の現状」という研究が出ています。これは1947年 (昭和22年)に提出されたGHQ(占領軍総司令部)の内部報告書の全訳です。機密報告書というと・何だか物凄い陰謀か裏話でも出ていそう に思いますが、そんなことはありません。しかし、あまり 知られることがなかった終戦直後の歌舞伎の実態が・検閲する米軍側からの立場で綴られている点で非常に興味深いものがあります。なるほどここから戦後の歌舞伎が始まったのだということがよく分かります。

この報告書には筆者が明記されていませんが、主筆は民間諜報局・検閲部(CCD)の演劇部門の責任者で・後にハワイ大学で演劇を教えるアール・アーンスト、 歌舞伎の部分は・その部下のフォービアン・バワーズが書いたと推測されます。バワーズについては、皇国・忠孝思想を煽る危険性があるとして歌舞伎の主要演目 (特に時代物)がほとんど上演禁止になったのを少しづつ解禁にする努力をしてくれたということで「戦後歌舞伎の恩人」としてよく知られています。このことは岡本嗣郎著「歌舞伎を救ったアメリカ人」(集英社文庫)に詳しく記されています。 (なお、同書でバワーズがマッカーサーの副官であったとあるのは間違いであるそうです。)

さて、この報告書ですが・目的が検閲部の職務成果報告ですから、ここからアーンストあるいはバワーズがどのくらい歌舞伎を理解しているかを直接判断することはできません。しかし、報告書を読むと 彼らがはっきりした目的意識を以って検閲の仕事に取り組んでいることが明瞭に分かります。つまり、日本での民主化を阻害する要素を徹底して取り除くということです。言い方を変え ると、民主主義的な立場から見て日本人の意識は遅れており・芝居を通じて人民に民主思想を啓蒙しなければならないということです。報告書はそのような視点で書かれています。(この稿つづく)

(H19・4・2)


○パリ・オペラ座の「勧進帳」

本稿は別稿「舞台の明るさ・舞台の暗さ」の番外編です。NHK-Hiヴィジョンで団十郎・海老蔵一行がパリ・オペラ座(ガルニエ宮)で3月23日に行った歌舞伎公演の模様を放送してくれました。団十郎のフランス語による口上もなかなか見事でしたし、「勧進帳」は花道を設置せず・セリ出した舞台の前方部分を花道に見立てて・弁慶が幕外で右手から左手へ飛び六法を見せるなど日本では見れない演出もありましたが、評判も上々のようで・良かったと思います。

パリ公演での「勧進帳」の舞台照明ですが、現地の観客には日本での歌舞伎の照明は眩し過ぎるだろうとの配慮から・今回は光度を落とした照明がされたそうです。舞台奥のお囃子さんたちは光が当たらず薄暗い感じに見えました。また光の当て方も日本でのやり方とは違っていたようで、日本の歌舞伎の舞台ではほとんど見られない役者の影がはっきりと濃く浮き出ていました。結果として舞台に奥行きと立体感が出た印象になったと思います。今回の中継録画を見て・いつもと違う感じに違和感を持った方も多かったと思いますが、逆にこうした暗めで立体感のある歌舞伎の舞台も悪くないと感じた人も少なからずいたかなと思ってテレビを見ておりました。まあ、目は疲れませんし・落ち着いた感じにはなりますね。ちょっと昔の歌舞伎の 照明も・こんな感じの時代があったかも知れません。

ところで、吉之助が「舞台の明るさ・舞台の暗さ」で書きましたことは、明るい舞台が好き・とか嫌いとか言う感覚(あるいは好み)の議論ではありません。歌舞伎の本質として「平面的 (立体性がない)」という要素があり、影を消してしまう明るい照明はその「平面的」という印象を実現するものだということです。ちょうどメルマガ201号で歌舞伎の照明についての考察をお届けしたところでしたので、このことを考えるには今回のテレビ中継は良い材料だなと思いました。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、南仏プロヴァンスの地に住んで・「僕は日本にいるような気がする」と弟テオ宛ての手紙に日本への憧れを記しました。ゴッホは浮世絵をとても愛し、これを模写・あるいは材料にした作品をいくつも残しています。しかし、陽光燦燦と差し込み・コントラストが強烈に映る明るいプロヴァンスの地と・ちょっと靄がかかったような日本の風景の印象はおよそかけ離れているのに、どうしてゴッホは「日本にいるような気がする」と言うような想像をしたのだろうと思いませんか。そのゴッホの想像はもちろん浮世絵から来ているのです。恐らくそこに歌舞伎を考える・そして十九世紀末西欧のジャポニズムを考える共通のヒントがあるのです。

明るい影のない「勧進帳」の舞台を見せたら、ゴッホは「この舞台には僕の憧れた日本がある」と感激したに違いありません。パリの観客に日本と同じ明るい照明の「勧進帳」を見てもらって、感想聞きたかったものだとちょっと残念に思いますね。「ウキヨエみたい!」と感激してくれたのじゃないかな。

(H19・3・28)


○舞台の明るさ・舞台の暗さ・その7

浮世絵がなぜ影を描かず・立体性を持たないのかは、江戸の民衆が置かれた精神状況と密接に関連しているということは別稿「試論・歌舞伎の舞台はなぜ平面的か」において触れました。そこに閉塞した社会環境のなかで・個性の発露を妨げられたところから生じる江戸の民衆の歪んだ状況が察せられます。そのような状況で真(まこと)を描こうとするならば・必然的に世界は歪むのです。結果として浮世絵も・歌舞伎の舞台も立体性を持たないものとなっていったわけです。

歌舞伎の真(まこと)とは、まさしく影のない・立体感を消した舞台の印象なのでした。江戸時代においては技術の進歩がまだ 不十分でしたから、それを視覚的に舞台に実現することは不可能なことであったのです。しかし、電気照明によりそういうことが次第に可能になっ ていった時、歌舞伎が自らの真を視覚的に現実のものとしようと望んだのは当然のことではないでしょうか。 現代の我々は江戸時代の観客が真に見たかった・明るい・影のない舞台を目にしているのです。その最終的な実現が現代の私たちが歌舞伎座の舞台で目にするところの舞台照明だということです。 歌舞伎の明るい舞台を見る時に・それがまさに浮世絵で見たような光景だと感じるならば、我々はそこにデジャ・ブゥ(いつかどこかで見たような)の江戸の記憶を見ているのです。

(H19・3・26)


○舞台の明るさ・舞台の暗さ:その6

薄暗くて・影があって・観客にはぼんやりとしか見えていなかったと想像される江戸時代の歌舞伎の舞台を、当時の絵師たちはなぜその通りに描かなかったのでしょうか。 どうして影を描かず・立体感なく・あれほどに美しく・かつ印象的に芝居絵を描くことができたのでしょう。しかし、歌舞伎の舞台照明の完成期である現代において観客である私たちがその舞台を「まるで浮世絵みたい」と感じたのだとしたら、間違いなく江戸の絵師たちは真(まこと)を描いていたのです。絵師たちにとっての真(まこと)を考えるためには、光に対する目の関係を考えなくてはなりません。ジャック・ラカンは次のように言っています。

『物を見る私という存在は、ただ単に遠近法が把握される実測的な点に見出される点状の存在ではありません。恐らく私の目の底には絵が描かれているのでしょう。絵は確かに私の目のなかにあります。しかし、私はと言えば、その絵のなかに居ます。光であるものが私を視ています。そしてこの光のおかげで私の目の底には何かが描かれます。それは印象であり、私から離れてあらかじめ据えられるのではない表面の輝きなのです。』(ジャック・ラカン:1964年3月4日のセミニエール、「線と光」・精神分析の四基本概念・岩波書店)

ラカンは、網膜をある種のスクリーンという風に考えています。我々(主体)は網膜に映るものを絵として視る(それをラカンは眼差しと呼んでいます)のであって、決して対象そのものを直接的に見ているのではないということです。これがラカン言うところの「あなたが見るものは決してあなたが見たいものではない」というテーゼです。つまり、江戸の絵師たちは歌舞伎の舞台に薄暗くて・影があって・ぼんやりとしたものを見ていたわけではないのです。絵師たちは彼らは心のなかに映った舞台 のなかにある種の明確さを見て、その印象を芝居絵にしているのです。だからラカンはさらに次のように言っています。

『画家は絵の前に立つべき人に「視たいのですね。よろしいそれならこれを視なさい」と要約できるような何ものかを与えているのです。確かに画家は目の糧として何ものかをもたらしますが、画家は絵の前にいる人にその眼差しを放棄するように、武器を棄てるというような意味で放棄するように、即すのです。これが絵画の鎮静的、アポロン的な効果です。何ものかが眼差しに対してよりも、むしろ目に対して与えられているのです。』(同掲書)

江戸の浮世絵師はそれを見る者に対して「視たいのですね。よろしいそれならこれを視なさい」と言うものを描いているのです。ラカン流に言えば浮世絵のなかに江戸の観客がまさに見たかったものが・すなわち歌舞伎の真(まこと)があったのです。(この稿つづく)

(H19・3・21)


○舞台の明るさ・舞台の暗さ:その5

昔の舞台は良かった・先代誰それは良かったという爺さんはいつの時代にも沢山いるものです。しかし、不思議なことに・昔の舞台は暗くて影があって良かった・今の舞台は明るくてイカンなどと言 った爺さんはあまり居らぬようです。 先に紹介しました鳥居清忠氏はそうした数少ない爺さんですが、もっともこれもつい最近の舞台についてのご発言です。確かに近年の舞台はちょっと眩しいくらいの明るさです。しかし、大半の人は舞台が明るくなって良くなったと感じていたようです。明治大正期に昔の江戸のような薄暗い照明に返れなどと言う観客は ほとんどいなかったようです。このことは大事なことだと思います。

役者から舞台が明るすぎて困るという声も出なかったようです。明るいと皺が目立って・粗が見えてしまうと・明るい照明を嫌がった役者はいなかったのですかねえ。しかし、結果として女形でも比較的キレイな容姿の役者が増えてきたのにはやはり照明の影響があったかも知れません。吉之助が昔見たテレビのドキュメンタリーで は、玉三郎が何度も何度も・神経質なほどに舞台の照明を入念にチェックする姿を捉えていました。これは当然なことで、役者というものは自分が観客からどう見えているかを常に意識して・立ち位置さえも気にするものなのです。初期の電気照明であっても、役者が照明に無頓着だったとは到底思えません。九代目団十郎にしても、舞台は明るいのが良い・そういうことは「進歩」だと思っていたと思います。 「文明開化」・つまり進歩というのは明治の大事なキーワードですが、九代目団十郎にとって電気照明は新しい歌舞伎のひとつの象徴に思えたでしょう。明治の役者たちは明るい照明に異議は申し立てなかった。このこと も非常に大事なことです。

歌舞伎の照明はただ何も考えず・ただ明るくすることだけしているうちに・いつの間にやら影まで消してしまったなどと考えていては、歌舞伎美学の本質を掴むことは決してできないのです。「立体性がない」ということこそ歌舞伎の本質なのですから。電気照明によって歌舞伎は影を消し・その美学の完成を目指したと考えられます。華麗で伝統的な古典歌舞伎のイメージというのは、電気照明によって作られたイメージではないのです。 これはむしろその逆です。電気照明によって歌舞伎はその本質を明らかにしたのです。 (この稿つづく)

(H19・3・17)


○舞台の明るさ・舞台の暗さ:その4

現代の歌舞伎の影のない舞台を見て「まるで浮世絵を見るような美しさ」を感じ・そこに古き時代の江戸の夢を想うと思いますが、実は江戸の時代の歌舞伎の舞台はそうしたものではなくて、ずっと薄暗くて・影があって・観客にぼんやりと見えていたものであったと想像されます。

現代人は歌舞伎の舞台を見て「浮世絵みたい」と感激しますが、その浮世絵に描かれている歌舞伎の役者絵・芝居絵には影が描かれたものはほとんどありません。つまり、立体感のない舞台が浮世絵に描かれています。そもそも浮世絵自体に立体感のあるものがないのです。正確に言えば西洋の立体画法を取り入れたごく一部の絵において・影を描いたものはありますが、それは浮世絵の主流ではないのです。浮世絵のなかでは立体画法はご趣向のようなものです。

それでは(いよいよここからが本題でありますが)浮世絵に見られるような均一に明るい舞台が実際はあり得なかった(これは厳然たる事実です) とするならば、それは江戸の浮世絵師たちが芝居絵に嘘を描いていたということなのでしょうか。 まずそのことを考えなければなりません。しかし、先に結論を書いてしまいますが・浮世絵師が嘘を書くなんてことはあり得ないのです。実際にあり得ない夢の舞台を絵師たちが描いたというのも当たりません。彼らは真(まこと)を描こうと努めるものですから、絵師たちに歌舞伎の舞台がそう見えていたとしか言いようが ありません。

逆に言えば・浮世絵に描かれた歌舞伎の舞台が真であるならば、次のようなことが言えます。「立体性がない」ということが歌舞伎の本質である・つまり歌舞伎の真であるということです。電気照明の技術によって・歌舞伎は影を消し・舞台面から立体感を消し去り、それによって浮世絵に描かれた舞台面を実現することが出来たと言うことです。 (別稿「立体性のない演劇」をご参照ください。)

歌舞伎の照明は何もしていないように見えるかも知れませんが、照明はうまくやらないとどこかに変な影が出来てしまうもので、きれいに影を消す照明は実はなかなか技術の要ることなのです。歌舞伎の照明がただ何も考えずに・ただ明るくすることだけしているうちに・いつの間にやら影まで消してしまったということではないわけです。影を消すという行為に何かしら歌舞伎の本質を考えるヒントがあるのです。 (この稿つづく)

(H19・3・12)


○舞台の明るさ・舞台の暗さ:その3

明治22年に歌舞伎座で電気が点灯した時、観客は自分の席の畳が見えると言ってその明るさにどよめきが起こったそうです。また、女性客は自分の着物の色柄や素材の良し悪しまでわかってしまう と言うので、かえってその明るさを嫌がったそうです。しかし、その明るさにしても・それまでの照明の暗さと比べれば明るかったという程度の明るさです。この時の歌舞伎座でも・後の大正の二長町市村座にしても・今の歌舞伎座の照明とは比べ物にならない光度です。まあ、半分かせいぜい三分の一程度の明るさであっただろうと言われています。まして、江戸時代の自然光・蝋燭の光での芝居などは想像もつきません。それはかなりの暗さ だったろうと思われます。

電気照明の登場によって歌舞伎の演出が相当変わっただろうことは・これは想像ができます。例えば「籠釣瓶・吉原仲ノ町」あるいは「藤娘」で暗闇で幕を開けて・柝のきっかけでスイッチを入れてバッとした華やかさを見せる照明 (いつもここで観客はワアッとどよめくものです)などは、何となく昔からの演出みたいな感じで見てますが・明らかに電気照明でなければあり得ないものです。

そして、何よりも大事なことは・あの影を消してしまう照明です。影を消す照明は歌舞伎の基本照明だと思われていますが、考えてみれば自然光・蝋燭照明ならば影を消すことは不可能なことです。ということは今更当然のことですが、江戸の観客は影のある暗い舞台を見ていた わけです。これは江戸時代のことだけではなくて・初期の電気照明でも同じことであって、 二長町市村座時代の舞台も影があったようです。舞台美術家の鳥居清忠氏が次のようなことを言っています。

『それに今は照明に妙な観念が入ってきた。劇場は出来るだけ明るくなければいけないという考えです。客席を明るくする・舞台が暗く感じる・そこで舞台も光力を増す・影が出ないんです。新劇には影があるが、歌舞伎にはそれがない。影のない立体なんかあるはずがないと僕はよく言うんです。(中略) 二長町市村座で見た頃には、上に吊るすボーダーが大臣の前に一本、それに一文字の後に一本と、二本しかない。それにフットライト。影が出るわけです。屋体のなかは、前欄間の裏に板づけをつる、天井の真上に照明がない、奥へ行くほど暗くなる。いい道具が出来ますよ。歌舞伎ではよく黒幕を使いますが、今のように明るくちゃあ、皺が見えてしまう。第一、黒が鼠色になって深みがありません。せめてアンバーをかけて樺色を混ぜて・なるべく照明をしていますよと言うのを見せないようにしなければね。』(鳥居清忠・新歌舞伎の舞台装置・季刊「歌舞伎」・第28号 ・昭和50年)

このように我々がこれが古典歌舞伎の基本照明だと思っているところの・あの影を消す照明というのは、電気照明技術がかなり進歩した・ごく最近に完成したものらしいことが分かるわけです。 (この稿つづく)

(H19・3・8)


○雑誌「演劇界」休刊・2

朝日新聞社のPR誌「一冊の本」の今月号(3月号)で・作家の橋本治氏が「あまり考えたくないこと」と題するエッセイで・歌舞伎のことに触れており、今回の「演劇界」の休刊を「やはり来るべきものが来た」という感じで受け止めたと 言うことと・最近の歌舞伎を見ると「自分の知っていた歌舞伎とはこういうものだったのだろうか」という微妙な違和感を感じてしまうと言うことを書いておられます。橋本氏が書いている「自分の知っていた歌舞伎」と言うのは、その年齢からして・昭和40年代の歌舞伎のことでしょう。橋本氏は三代目左団次がお好きだったと読んだことがあります。

じつは吉之助は橋本氏の良い読者ではないもので、ちょっとその文体の波長が吉之助に合いませんので・何回か読み直さないと文意がつかめないことがよくあります。橋本氏が若かりし時に歌舞伎に熱中し、そこに「すごいものを実際に見た」という体験を何度もしたそうです。そうした経験が自分のなかに大きな影響を与えているということも書いています。そのことはほぼ10年遅れで歌舞伎を見始めた吉之助にとっても同様ですから、よく分かります。しかし、その時代の歌舞伎と最近の歌舞伎はちょっと違う・・という違和感が、「来るべきものが来た」という「演劇界」休刊とどうつながるのかが今回の文章でもよく分かりません。まあ、タイトルも「あまり考えたくないこと」だから、そこまで深くは考えてないと言うことかな。しかし、橋本氏のなかで最近の歌舞伎への違和感と・「演劇界」の休刊への感慨とがどこか底流でつながっているらしいということは・その文章から感じられます。

ころで、意外だなと感じたのは橋本氏が「自分の知っていた歌舞伎」が基準になっていて・それと比較して最近の歌舞伎が・・・と感じているらしいことです。多分これが「桃尻語訳」とか・時代に生きる自分の感性を大事にする橋本氏のスタイルなのかも知れません。

吉之助の場合も同様に昭和50年代の歌舞伎を一生懸命見ましたが、吉之助がその時にいつも考えていたことは「いま自分が見ている歌舞伎がこれだけ素晴らしい・ならばその昔の歌舞伎はどれほど素晴らしかったことだろう」と言うことです。六代目歌右衛門や十七代目勘三郎らを見ながら、彼らを通して・六代目菊五郎を思い・五代目歌右衛門を思い、はたまたはるか昔の三代目菊五郎を思い・初代富十郎を思うということです。ラカン流に言えば「私が今見ているものは私が本当に見たいものではない」ということです。そう考えれば、昭和50年代の歌舞伎と平成19年の歌舞伎の違いなんて・ その程度の差はたとえそれがあったとしても・どうでも良ろしいことになるわけです。吉之助の基準は「見たことのない昔の歌舞伎」ですから。吉之助の場合はそういう見方なのです。

まあ、そう考えると橋本氏は「演劇界」の休刊を歌舞伎の内的な変化に関連付けて考えておられるようですが、それはご自身の内的な変化であるとも考えられると思いますが・そういうことではありませんでしょうかね。なんだか橋本氏のなかで変わりつつあるものが何かあるように感じられますけれども。 吉之助自身は「演劇界」休刊については・批評という行為を評判記的なスタイルで行う時代はもう終わったと考えていますので、「演劇界」休刊は醒めて受け止めています。

(H19・3・3)


○舞台の明るさ・舞台の暗さ:その2

平成14年に国立科学博物館が「江戸のモノ作り」研究プロジェクトの一環として、自然の光や蝋燭の光で江戸時代の歌舞伎の舞台を再現して、その舞台効果を科学的に解明しようと言う調査が行われました。岐阜県福岡町の常盤座で行われた調査によれば、100匁(375グラム)の和蝋燭25本での明るさは15ルクス程度で、役者の顔や衣装の色がはっきり見えたのは、観客のアンケートの半分くらいに留まったそうです。 昔の舞台はかなり暗かったことが改めて分かります。自然光の場合は舞台の方が客席より暗くなってしまうのも、小屋の構造を考えてみればこれは当然です。

このような薄暗い舞台であれば役者の多少のお化粧の粗・あるいは顔の皺はあまり目立たなかったであろうし、 衣装の色合いも正確に把握できないことになります。原色に近い色彩をとらないと衣装は引き立たなかったでしょう。 歌舞伎の衣装が原色に近い派手さなのは、そこのことが一因しているとも考えられます。蝋燭の光で見るお芝居は幻想的な雰囲気を見せたことでしょう。

金比羅歌舞伎(香川県・金丸座)では和蝋燭を模した・黄色味掛かった電気照明を使用していました。昨年(平成18年)に吉之助が見た時には「六段目」の勘平の浅葱の御紋服が黄緑色っぽく見えた辺りは興味深かったですが、まあ、全体としてちょっと暗め な感じではあるけれど・現代の劇場の照明とそう変わる印象ではありませんでした。暗転で扉をバタバタ閉めるのも・確かに昔はそのようにしたわけですが、ここでは扉の開閉はまあ演出か雰囲気作りみたいなものというのが正直なところです。しかし、金比羅歌舞伎でホントに江戸時代のような蝋燭照明をして しまったら、「薄暗くて舞台が良く見えない」とお客さんからクレーム続出になることでしょう。逆に言えば、それくらい現代は我々は舞台の明るさに慣らされてしまって・それが当然のことになってい るのです。江戸の昔の歌舞伎の舞台もこんなものだったと知らず・思い込んでいるところがあります。しかし、江戸時代の歌舞伎はそんなものじゃなかったわけですね。 (この稿つづく)

(H19・3・1)


○舞台の明るさ・舞台の暗さ:その1

「昔の人々にとって喜びと悲しみ・光と闇のへだたりは今よりずっと大きかった」とヨハン・ホイジンガはその著書「中世の秋」の冒頭で書いています。

『世界がまだ若く、5世紀ほども前の頃には、人生の出来事は今よりももっとくっきりとした形を見せていた。悲しみと喜びの間の、幸と不幸の間のへだたりは、私達の場合よりも大きかったようだ。すべて、人の体験には、喜び悲しむ子供の心に今なおうかがえる、あの直接性・絶対性がまだ失われていなかった。(中略)夏と冬との対照は、私達の経験からはとても考えられないほど強烈だったが、光と闇、静けさと騒がしさとの対照も、またそうだったのである。現在、都市に住む人々は真の暗闇・真の静寂を知らない。ただひとつまたたく灯、遠い一瞬の叫び声がどんなものかを知らない。』(ホンジンガ:「中世の秋」)

現代の生活と昔の生活のどこが違うかと言うのはいろいろあるでしょうが、大きな違いのひとつは夜の明るさです。あるいは夜の暗さと言った方が良いかも知れません。談話によれば三津五郎さんが江戸時代を再現してローソクだけで宴会をしてみようと言う試みをしたことがあるそうです。

『日本舞台で芸者さんがお酌をするときに肩を落として畳すれすれの位置で酒を注ぐ動作があるんですが、芸者さんがシナを作るための振りだと思ってたんです。ところが天井の灯かりがなかった頃は盃が見える位置まで顔を下げないとよく見えない。それで必然的な動作だったんだと納得しました。あと、部屋が暗いから食事をしていてもお椀のなかが見え づらいんです。「椎茸の香りがする」とか言いながら、食べてみてようやく料理が分かる。』(坂東三津五郎:インタビュー「歌舞伎を通じて江戸を生きる」・雑誌「ゴールデン・ミニッツ」・2006・11・26号)

試しに和室の蛍光灯を消してパイロット・ランプだけにして見て、まあ、こんな程度の明るさ(暗さ)だったのかななどと想像してみます。なかなか不自由なものですね。 (この稿つづく)

(H19・2・17)


○劇評の今後

ところで本サイトの「歌舞伎舞台の記憶」において・吉之助は舞台批評をしていますが、吉之助はこれを 「観劇随想」としており、劇評と違う位置付けに置いています。お読みになればお分かりの通り、観劇随想においては現実の舞台は話のきっかけ(材料)に過ぎませんので ・本論は舞台のことではないからです。作品解釈や伝統論考にヒントを与えてくれる舞台ならそれは材料になりますけれど・そうでない舞台なら論じる材料にならないということになります。 だから過去の舞台ビデオも材料にしています。

日本の劇評は伝統として江戸時代の評判記の系譜を持っていますから、そこに記録という意味が多少でも残っています。劇評では、一応、どんなものでも等分に取り上げ・極端な偏りはないように心掛けるべきものです。それに新聞雑誌の劇評の場合は分量(スペース)の制限もありますから・あまり評者を全面に出す書き方をしないものです。評者が自分を出し過ぎますと・その対象を褒めても貶しても劇評では言葉を尽くせないことになります。だから言葉足らずの表現は当然誤解も生むことになりやすいのです。しかし、あまり自分を出さない劇評も読み物としては生ぬるくてつまらないもので、そこが劇評の難しいところです。

だから批評対象との距離を適度に保ちつつ・記録者としてのスタンスを維持するのが劇評の役目なのでして、シャーロック・ホームズに対するワトスンのような姿勢が求められます。感想と 劇評の境目はあるようでないようなものです。劇評など読むと筆の立つ人なら「あの程度 のことなら私でも書ける」と思うこと も多いかと思いますが、まあ、書いてみて御覧なさい。戸板康二氏のような劇評を書くのは難しいものですよ。そこがお分かりならば劇評書けるなどとは簡単に言えません。

一方、江戸時代の文献と違って・記録媒体の豊富な現代の場合は評判記(記録)としての劇評の意味合いは変化せざるを得ないと思います。元禄の名優・初代団十郎や初代藤十郎の芸を考えるには それがどのくらい信頼が置けるかを別にして評判記を読むしか手はないのですが、これからの若い人が六代目歌右衛門の芸を知ろうとするならば劇評読むよりビデオを先に見るでしょうし、吉之助はそれで良いと思っています。だから、記録としての劇評は価値が下がっており、現代の読者にはあまり求められていないと思います。

最近の劇評を読むと、劇評のスタンスを崩して自分が出過ぎで・読み物の方向に寄っているものが多いようです。と言って批評の厳しさを自らに課すわけでもなく、スタンスが甘いと感じられるものが多い。結果として劇評よりご感想に近くなっているというのは、まあ、それは事実でしょう。一方、劇評を読む方の側も感想と批評の区別がつかない人がじつに多い。批評家と言うのは「素人よりちょっと芝居を多く知ってるおじさん」というわけじゃないのです。批評家とは何が正しいかが見える人のことを言います。もちろん人によって正しい と思うことは微妙に違いますが、そこにどこまで責任を持てるかということですね。つまり、昨今の劇評の質の低下は劇評家と読者双方に問題があるわけです。

吉之助が「観劇随想」というスタンスを取るのは、批評者としての主体を全面に出し・「中立公正」というお題目など最初から掲げないということです。批評家としてのスタンスに関しては吉之助は真摯に考えているつもりです。この点については別稿「批評について考える」をご覧ください。そういうわけで・吉之助は劇評はしないという方針を変えることはこれからもないと思います。

劇評誌としての「演劇界」休刊は、従来の劇評の在り方が行き詰まりに来たという風に吉之助は捉えています。リニューアルされる予定の新「演劇界」の劇評がエンタテイメント系のご感想に行くのか・あるいは新しい劇評のあり方を提供する場になるか、興味深く見ていきたいと思います。

(H19・2・10)


○雑誌「演劇界」休刊

歌舞伎の専門誌「演劇界」が平成19年5月号で休刊し、3ヶ月ほど間を置いて・リニューアル創刊をするとのことです。同時に発行元も演劇出版社から小学館に変わるそうです。詳しい事情は知りませんけれど、これも雑誌の休刊創刊が相次ぐ・昨今の出版不況のひとつの現象なのかと思われます。それにしても・吉之助が歌舞伎を見始めた頃の歌舞伎座三階席ガラガラの昭和50年代前半のどん底時代も切り抜けて来た雑誌「演劇界」が、一見歌舞伎ブームと見えるこの時期に休刊というのは皮肉な感じで・考えられさせられることではあります。

まあ、それだけ読者のニーズ・関心が捉えにくい世の中になっているということなのでしょう。どんな雑誌も読者層のイメージを絞って・編集方針を明確にしないと・存続は 大変な時代になっているようです。ということは部数は期待しにくい時代ということかなとも思います。ここ数年の「演劇界」を見ますと、どうもその辺が厳しかったようです。ひとつには劇評というものの在り方がなかなか難しい時期に来ていると思いました。

2年前でしたか・「演劇界」に「劇評を考える」という座談会が掲載されました。この座談会ですが、ある人気役者が(どんな劇評だったかは読んでないので知りませんが)劇評で貶されたことを怒って・写真掲載や取材の拒否を続けたそうで、これに困った編集部の全面謝罪という異様な座談会記事でした。その役者の代理と思しき方々が「劇評と言わないで感想文と呼べばいい」とか・ 「(批判記事を読むと)あなたは鶴屋南北に会ったことがあるのかと聞きたくなる」とか言いたい放題でありました。これじゃあ「演劇界」の存在意義の自己否定だなあと思いましたが、結局 、こういうことになっちゃったわけです。

感想文ねえ・・・最近は劇評の質が確かに落ちていますが、批評には批評の役目があるはずなのです。 批評という行為に対して・批評する側にも問題はありますが、批評される側も・批評を読む側もその許容性が低くなっているようです。「あなたは鶴屋南北に会ったことがあるのか」 とは、それを言っちゃったらもう終わりですなあ。つまるところは劇評の質の低下は役者・演出家や観客のレベルの問題に帰せられると言うことです。

(H19・2・4)


○「桜の樹の下には」

『桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。』(梶井基次郎:「桜の樹の下には」・昭和3年)

梶井基次郎のこの文章は桜のことを語るときによく引き合いに出されます。 このように満開の桜の花が時に不気味さを感じさせるのは、開花がまさに生命たる植物活動の頂点であるにもかかわらず・その見た目の佇(たたず)まいがあまりに静的そのものであると言う・その感覚のギャップにあります。つまり、凍結した時間のなかに死が隣り合わせにあることが意識されているからに他なりません。鎮花祭のお囃子で「やすらへ。花や、やすらへ。花や」(そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。)と歌い掛けるというのも、散るのを惜しんでいると言うよりは・花が動き始めることを 内心恐れているわけです。一旦動き出したら花は確実に散り始めることを知っているからです。

舞踊の形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返しとは、生と死の繰り返し・再生のリズムであると書きました。このような生と死のサイクルは日常生活のなかにも見られます。例えば睡眠と覚醒のリズムがそうですし、呼吸のリズムもまたそうです。息を吸う時には人間の意識は覚醒の方へ引っ張られ、息を吐く時には睡眠の方へ引かれます。 睡眠とはある意味において擬似的な死なのです。つまり、人間は呼吸のサイクルのなかで小さな生と死のサイクルを体験していることになるのだとシュタイナーは言っています。

従って、振りにおいては・その形を決めようとする方向に向かう時、つまり、右手を横に振って決まるという振りならば・右手を差し出してまさに形を決めようとするまでの過程の動作が非常に重要になります。それは呼吸で言うならば息を吸う動作になります。つまり、振りを決めようとする時は踊り手の意識は覚醒に向かうのです。決めた形を抜け出る時はその逆になるわけです。

このことが分かれば、舞踊の振りには生と死(エロス・タナトス)のリズムがあることが理解できるでしょう。桜の花の場合とは違って・舞踊の振りの決めは凍結した静止の時間を持ちません。その振りの形は決まると同時に・一瞬のうちに崩され て・次の振りに流れていくのです。だからこそ、「そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。」という気持ちも一層強くなるのだろうと思います。

(H19・1・26)


○「やすらへ、花や」

芝居とか舞踊あるいは音楽などの時間芸術(再現芸術)は、その芸がつねに時間というものに縛られており、その場に現れた瞬間に・すぐ消えていくという宿命にさらされています。その芸は観客の脳裏にイメージと して残るだけです。最近はビデオなどという便利なものが出来て・その在り方も微妙に変わってきていますが、この宿命は変わることはないでしょう。

ところで、世阿弥が「花伝書」で「花」ということを言っています 。世阿弥の「花」は独特な理念で・これだけで日本文化を論じる一冊本になってしまいますが、とりあえずここで舞台での芸の「花」のことをちょっと考えてみます。一般的に芸の「花」と言うと・華やかで輝かしい生命の頂点のようなイメージがあるかと思います。「華」の字で書かれることもあるくらいです。しかし、花と言うのは咲いたらいずれは萎(しぼ)んでしまうものです。だから「花」と言う時には、そこに儚(はかなさ)・移ろいもイメージされているということです。つまり、「花」と隣り合わせにつねに死があるのです。ともあれ現代において舞台の「花」・芸の「花」ということを言う時には、儚さよりは華やかさの方をイメージして使われることが多いようです ね。

しかし、芸の「花」を考える時にはむしろ「儚さ」の方を強く意識した方が良いのです。折口信夫は 「花物語」(昭和9年)において、散る花が惜しいというのは・いわば習慣であって・我々は文学を通じて・そうした鑑賞法を学んだのであると言っています。 つまり、散る花を惜しむという感覚は・我々が習慣として知らぬうちに教わって定着したもので、もともとはそうではなかったと言うのです。その昔は花(つまり桜のことですが)は鑑賞するものではなく・人々の生活にとって大事なものでした。花はもともと 田植えの前兆を知らせるものでした。人々は花の咲き方・散り方で、その一年の生活を占ったのです。平安時代には鎮花祭(はなしずめ)をやすらひ祭とも言いました。その時に歌うお囃子の文句に「やすらへ。花や、やすらへ。花や」と言った のです。「やすらう」は躊躇するの意味で、休息することを「やすらう」と言うのは・その転化であるそうです。つまり、このお囃子は「そのままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」と呼びかけたものなのです。

だから芸の「花」を考える時にも、「そのままでをれ」・「じっとして居よ」という気持ちがどこかに必要なのです。それは逆に言えば、そう言う気持ちは・芸というものは移ろうものであり・儚ないものであり、やがて消え去るものだという宿命から逃れることはできないという諦観から来るものです。ゲーテの「ファウスト」の有名な台詞 ・「時よ、止まれ、君は美しい」も、まったく同じ発想から生まれています。

舞踊の振りにも「そのままでをれ」・「じっとして居よ」という気持ちがあるのです。振りの形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めると言う繰り返しとは、生と死の繰り返し・再生のリズムにほかならないということを申し上げました。 踊りの振りの形は一瞬に崩されて・それは次の動きに移っていって・消え去ってしまう儚いものではありますが、その形は出来る限り・許容できる限界まで「そのままで居」らなければな りません。そのままであって欲しいと思う観客の期待に可能な限り応えなくてはならないということです。だから、その振りの形を観客に強く意識させねばなりません。それは観客に死を意識させることであり、それ こそが舞踊の本義であるのです。踊りの振りにおいて「形を決める」ということは、そういう意味があるわけです。

しかし、ここは大事な点なのでご注意いただきたいですが、「振りの形を決める」ということは「踊りの動きを瞬間的に止める」ということではないということです。その形は振りの終わりであると同時に・次の振りの始まりでもあるからです。 踊りの流れは止めてはなりません。それでは移ろいの表情がなくなってしまいます。大事なことは、動きの流れの中で・その形をどう観客に印象つけるかということです。

蛇足ながら・このことに関連して・歌舞伎の見得のことにも触れておきます。踊りの振りにおいては「形を決める」ということが常にその移ろい・儚さの本質を意識することであるわけですが、それならばツケを打ってバッタンで動作をはっきり止めて決めてみせてしまう歌舞伎の見得はまさに野暮の典型ということになるでしょうね。 移ろいへの意識がほんのりとあるから風情があるのであって、そうでなければ・それは京のお公家さんから「あら、いやですねえ」と言われそうな野暮ということになるのです。だから、そうした嫌がられる・野暮なことをわざとしてみせることが「傾き(かぶき)」に通じているということです。 だから、日本舞踊でも三味線のチントンシャンではっきり決まることも、ある意味ではじつは野暮なことなのです。そういう感覚が分かると・日本舞踊もちょっと違う視点で見えてくるかも知れませんね。 (この稿つづく)

(H19・1・23)


○舞踊の本質

舞踊の本質のコア・イメージは形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返し(リズム)と・その流れであるということ、このことをもう少し考えてみたいと思います。

本年(平成19年)1月2日の歌舞伎座の初芝居での勘三郎の「春興鏡獅子」の舞台はテレビ中継もされましたから・ご覧になった方も多いと思います。吉之助の感想としては以前書きました平成14年1月の舞台随想と あまり大差ないので、新たに付け加えることはありません。勘三郎の「鏡獅子」は今日見られる歌舞伎を代表する水準の舞台として間違いないですが、芸にはまだまだ上があるということは知っておく必要はあるでしょう。六代目菊五郎の遺された「鏡獅子」の映画(昭和10年製作)と比べれば・それは歴然としてきます。その差は実に些細なことですが・同時に決定的な差でもあります。

勘三郎の踊りでは形が印象に強く残らない感じです。これは恐らくコンマ一秒以下の瞬間の形を溜めきれていないことの差です。これが勘三郎の踊りが勢いはあっても・粗いという印象に させています。特に後シテの動きでそれが目立ちます。(注釈つけますが・これは勘三郎の踊りが駄目と言っているのではなく・六代目菊五郎と比較した高レベルの比較ですので・誤解をしないでください。)しかし、踊りが流れではなく・形の決めだということが分かってくれば、勘三郎の踊りもまだまだ変わってくると思います。舞踊とは形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返し(リズム)であると単純に考えてみたいと思います。このコア・イメージにバレエや日本舞踊の違いはないのです。

舞踊には「振り」というものがあります。ところで「振り」と言うものは動作でしょうか・あるいは形でしょうか。例えば「右手を横に伸ばして決まる」という振りがあったとして、右手を横に差し出していく動作が振りなのでしょうか。そうではありません。振りにおいては・右手を出し切って・指先を伸ばして決 める・その形をしっかり取ることが重要なのでして、 じつは動作はその過程に過ぎないとさえ言えます。その瞬間の形を観客にしっかりと印象つけて、その形から瞬間に抜け出る・そして次の振りに向かうという繰り返しが踊り であると考えてみたいと思います。このことは心理学的にも分析できます。ジャック・ラカンは次のように言っています。

『眼差しそれ自体が動きを終結させるだけでなく・凍結させます。眼差しが身振りを完成させます。しかし、大事なことは、それは終わりではなく・同時に始まりでもある ということです。舞踊では、つねに俳優が固定した姿勢のままとまる一連の停止した時間によって区切られています。運動のこの停止、この時間の中断は何でしょうか。邪視から眼差しを奪い、厄払いをするという意味で、それは魅惑する効果にほかなりません。邪視とは「魅惑・まじない」であり、それは文字通り生命を殺す効果を持つものです。主体が身振りを中断して止まる時、彼は死体と化しているのです。』(ジャック・ラカン:1964年3月11日のセミネール・「絵とは何か」・精神分析の四基本概念・岩波書店・なお引用にあたり文章の一部を吉之助が整理しました。)

ラカン用語の「眼差し」など気にせずに・ラカンが言わんとするところを感覚でイメージして見てください。つまり、舞踊の形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返しとは、生と死の繰り返し・再生のリズムにほかならないのです。 (この稿つづく)

(H19・1・15)


○バレエ・舞踊の楽しみ

NHK教育テレビの「スーパーバレエ・レッスン」を毎回面白く見ています。講師はパリ・オペラ座バレエ団のエトワールのマニュエル・ルグリです。バレエはもちろん日本舞踊とはずいぶん趣は異なります。日本舞踊にはバレエに見られるような反動をつけた跳躍がありませんし、遠心力をつけた回転・旋回といった動きも見られません。これらは騎馬民族の動きでして、農耕民族の生産的動きから生まれた伝統芸能である日本舞踊にはこうした動き がないわけです。(この辺は我が師である武智鉄二の「舞踊の芸」(東京書籍)が参考になります。)

しかし、日本舞踊もバレエも同じく舞踊に違いないのですから・その本質はもちろん同じなのです。もう二十年ほど前の話ですが・MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)でバレエ・ガラが行われて・世界の名だたるバレエ・ダンサーたちが得意のパ・ドゥ・ドゥを披露した時に・そのトリを玉三郎の「鷺娘」が勤めたことがありました。その時のテレビ放送を思い返すと、それまでのプログラムのバレエの華やかな舞台と玉三郎の日本舞踊がまったく違和感がなく感じられて、「ああ、これはまさしくジャパニーズ・バレエだな」と素直に感じたことを思い出します。言葉を使わなくても・洋の東西を問わず確実にイメージが伝わっていく肉体表現というものがあるのだということを思いました。

別稿で「コア・イメージで考える」ということを申し上げましたが、バレエの番組を見ていても・舞踊のコア・イメージさえ分かっていれば、 これが日本舞踊を考える材料にもなるわけです。まあ、何でも歌舞伎に結び付けようとして見ているわけではないですが、「おっ、これは使える」と思うヒントはしばしばあるものです。 だから、まず最初に日本舞踊はバレエと動きが違うんだなんてことはしばし忘れることにしましょう。そういうのは語法・文法の違いみたいなものにすぎませんので、日本語でもフランス語でも言語に変わりないのと同じことですね。

バレエもクラシックとモダンでは動きは若干違いますが、クラシック・バレエは特に日本舞踊(歌舞伎舞踊)との類似を感じます。バレエは飛んだり・跳ねたり・随分と日本舞踊と違う動きがありますが、大事なことは・流れのなかで形をピシッと決めるということです。その決まった形は次の動きに移ってしまうので・すぐ に崩されるわけですが、しかし、上手な人がやるとその決まった形が印象に強く残るのです。その決まった形というのは常に安定した形です。基本的には身体の軸がぶれない・肩の線がぶれない形です。だから常に安定した形で・そういう点は日本舞踊と何ら変わることはないのです。それが分かってくれば、回転している時でも・旋回している時でもバレエ・ダンサーは常に一定の軸を意識していることがはっきり見えてきます。

つまり、舞踊の本質のコア・イメージは形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返し(リズム)と・その流れだと言うことです。そのことが分かれば、バレエも日本舞踊も同じように楽しむことができます。「スーパーバレエ・レッスン」、是非ご覧ください。(この稿つづく)

(H19・1・8)


○コア・イメージで考える

NHK教育テレビの「新感覚・キーワードで英会話」がなかなか面白くて、吉之助が中学生の頃にこういう番組があれば良かったのになあと思いました。英語教育も昔とは違って・ だいぶ進歩していますね。この番組は「英語を日本語にいちいち訳さないで、コア・イメージで一気に感じてしまおう」と言うのがコンセプトです。

第1回は「take」がテーマでありました。Takeというと、普通は日本語では「何かを取る」というイメージかと思います。「何かを取る」であると、Let's take a picture.(写真を撮りましょう。)とかTake me to the ball game.(野球に連れてって。)、I take a train to work.(仕事に行くのに電車に乗る)くらいは何とか感覚で理解できますが、I can't take it anymore.(もう我慢できない)はちょっとイメージが出来ません。It takes three hours to get there. (そこに着くのに3時間掛かる)とか、I take a walk. (散歩する)も、時間や歩くをどうしてtakeするのかは「何かを取る」でイメージするとよく分かりません。

これは指導の田中茂範先生に拠ると・takeとは「何かを自分のところに取り込む」というのがイメージなのだそうです。そうするとtake an apple はリンゴを移動させて自分のところへ持ってくるという意味です。take a pictureは、風景をカメラで取り込んで自分のものにするというイメージです。Take me to the ball gameは、私の手を取って(取り込んで)野球場へ持っていくという意味です。take a walkは、歩くという行為を自分のなかに取り込む・つまり経験する=散歩するということになります。takes three hours to get thereとは、「そこに行くto get there」ために3時間を取り込む必要がある=時間が掛かるということです。一番理解に苦しむI can't take it anymoreは、そのような事柄・あるいは状況をこれ以上自分は取り込むことができない=我慢が出来ないというイメージなのです。

なるほど、Takeとは「何かを自分のところに取り込む」というのがその共通したコア・イメージなのですね。なるほど・そう考えてみると、I can't take it anymoreは日本語でも「私はもうもちません」という表現があるわけです。takes three hours to get thereでも「三時間を要す」という言い方もできるわけです。つまり、何のことはない。語法が違うだけで・そういう発想自体は日本語でもあるわけです。

ですから、takeという単語を日本語に当てはめてピッタリくるものがないと考えるのではなく、takeのコア・イメージを考えてみれば・そこから英語でも日本語でも共通した概念 (イメージ)を見出すことができるということです。これは「英会話をやるなら英語で・外国人の発想で考えよう」というのとはちょっと違った教え方でして・非常に新鮮でありました。

ところで吉之助は「歌舞伎素人講釈」において西洋文化・特にオペラと歌舞伎との比較を意識的に続けてきました。これは吉之助が日本文化や歌舞伎を汎人類的・普遍的な価値のなかに位置づけたいと考えるからです。この国際化の波に否応なく 翻弄されている時代に、日本文化や歌舞伎の特殊性・特異性などに吉之助はあまり興味ありません。しかし、この田中茂範先生の教授法は吉之助にあるヒントを与えてくれました。これからは歌舞伎もコア・イメージで考えたい・そう思いますね。

(H19・1・1)


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