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吉之助の雑談39(令和3年1月〜6月)


〇令和3年4月歌舞伎座:「桜姫東文章」・その1

今月(令和3年4月)歌舞伎座は、玉三郎と仁左衛門(かつてのT&T)のコンビでの、久しぶりの「桜姫」(上の巻)上演ということで、大きな話題になっています。歌舞伎座の客足も、久しぶりによろしいようです。今回の「桜姫」は、昭和60年(1985)3月歌舞伎座以来の36年振りの上演ということです。(ただしその間に平成16年(2004)7月歌舞伎座での段治郎(現・二代目喜多村緑郎)との共演があったことも忘れられません。)

この半年の歌舞伎座は、新型コロナ感染対策ということで劇場収容人数を制限していますし、劇場内は出来る限りの対策を施しているとは言え・自宅と劇場との往復などを考えれば・或る程度のリスクは付きまとうわけで、そんなことから好きな芝居見物を目下控えていらっしゃる歌舞伎ファンは少なくないと思います。そんなこともあって、これは歌舞伎に限ったことではないと思いますが、現状の歌舞伎座の客足は厳しいのが正直なところだと思います。そんななかコロナ以後再開された歌舞伎座の舞台に9月以来玉三郎が断続的に立ち続けていることは、「歌舞伎が危機に瀕している時に自分が頑張らないと・・」という意識が玉三郎にもあるのだと思います。そこに、候補としては当然挙がるに違いないが・多分それは玉三郎の体力的な問題から無理だと諦めていた「桜姫」が出たということは、吉之助にも大きな驚きで、松竹はついにエースのカードを切ってきたなあと思いました。これを契機に歌舞伎座の客足が回復してもらいたいものですねえ。・・というところですが、このところ、全国のコロナ新規感染者がまた増え始めて心配なことです。気を引き締めて・油断することなくコロナと付き合って行かねばならないと思います。

ところで玉三郎の「桜姫」が、戦後昭和の歌舞伎のなかでどのような意味を持つかということは、サイトのなかで折に触れて論じて来ました。(とりあえずサイトの記事のなかでは昭和42年3月国立劇場で玉三郎が初めて白菊丸を演じた時の観劇随想をご参照いただきたい。)もちろん吉之助にとっても、玉三郎が演じる桜姫というのは特別な役です。以前吉之助は、玉三郎の三役として、桜姫(と云うよりも風鈴お姫としたいのだが)・雲の絶間姫(鳴神)・それとお軽(七段目)を挙げました。これら三役に共通する要素は、軽やかな「しゃべり」の芸ということです。玉三郎のそれは、もちろん伝統的な裏付けを持っているのですが、若い頃(もう四十数年前のことになりますが)の吉之助が玉三郎の桜姫に魅了されたのは、伝統的な女形芸のエグ味から解放された爽快感・軽やかさということでした。当時の吉之助はそこに女形の未来みたいなものを思い浮かべたものでした。あれから50年近い歳月が経ったわけです。

ただし五十年も時が経てば、世の中も変るし・歌舞伎も変わる、玉三郎も歳を取ったし・もちろん吉之助も同じだけ歳を取ったということで、普通ならば、「ゆく河の流れは絶えずして・しかももとの水にあらず」という理(ことわり)を思い出すことにもなるわけです。とは云え、歌右衛門70歳当時の舞台を思い起こせば、単純な比較をすることは慎まねばなりませんが、現在の玉三郎は、これはもう「奇蹟」という言葉を使わなければいけないほど、「美しい」。(これは孝夫も同様です。イヤ今は仁左衛門。)今回(令和3年4月歌舞伎座)の「桜姫」の舞台を見ながら、もちろんそっくりそのままであるはずがないけれど、そこに四十数年前の戦後昭和歌舞伎の最後の光芒を見る思いがして、吉之助にも感慨深いものがありました。若い歌舞伎ファンには、とっくりご堪能いただきたいと思います。劇場に行けない方も是非オンライン配信で舞台をご覧いただきたいです。(この稿つづく)

(R3・4・11)


〇六代目歌右衛門・没後20年

六代目歌右衛門の訃報をテレビで知ったのは、忘れもしない平成13年(2001)3月31日(土)のことでした。あの日の東京は満開の桜に雪が静かに降り注ぎ、その光景はまるで「積恋雪関扉」の舞台を見るようで、更に夜になると雪は止んで・夜空に月が出ると云う、雪月花が揃った・まことに不思議な日でありました。あの夜、空を見上げて「歌右衛門が死んだんだなあ・・」と呟いた歌舞伎ファンは、吉之助だけではなかったはずです。亡くなる前の数年舞台に立っていなかったこともあって、亡くなったことの悲しさよりも・吉之助が見た舞台の数々を懐かしく思い出す感謝の気分の方が強かったのです。直後に追悼記事として書いた「六代目歌右衛門の今日的意味」(さすがに筆に力がはいってますねえ)をお読みになれば吉之助にとって歌右衛門がどういう存在であったかはお察しいただけると思います。同じ年・2001年1月に本サイトを立ち上げたばかりだった吉之助にとって、「歌舞伎素人講釈」の・この20年はそのまま「歌右衛門以後の20年」であったわけです。

とは言え・この頃は歌右衛門のことを思い出すことも少なくなりましたが、本年(2021)2月歌舞伎座の魁春の「十種香」(八重垣姫)と3月歌舞伎座の玉三郎の「隅田川」斑女の前)が、歌右衛門のことを懐かしく思い出させてくれました。先日久しぶりに歌右衛門の「隅田川」の映像を取り出して見ました(観劇随想はそのうち書くことになると思います)。どちらが良いとか・悪いとかではないけれど、玉三郎の「隅田川」とはまったく別の踊りの心持ちがしますねえ。歌右衛門は、手がヒラヒラ・身体がヒナヒナ、とにかく振りの手数が多い。私が舞台に立った以上は役が持つ情念をとことん描き出さずに置くべきかとでも云うような濃密さ、まあそれに辟易なさる歌舞伎ファンは当時も少なからずいらっしゃいました。確かに見る側に緊張を強いるところがありましたねえ。正直申し上げると、吉之助も「また「隅田川」か・・」とチラと思ったことがありましたが、何年か振りで映像を見直して、「あの時バチ当たりなことを思いましてスミマセン・スミマセン」と謝りたい気分になりました。ホント些細な振りであっても・目を離すことが出来ないほど素晴らしい。幸い吉之助は歌右衛門の当たり役と云われる役どころのほとんどを生(なま)で見ることが出来ましたが、この機会に遺された映像の数々を見直して、歌右衛門の芸を偲びたいと思っています。

(R3・3・28)


〇令和3年3月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その2

「封建社会では主人の命令は絶対で、是であろうが・非であろうが、命令をその通りに実行することが家来の務めである」というのは、まあ理屈としては分からないことはありません。しかし、もしそうならば熊谷は最後まで毅然とした態度でいて欲しいと思います。もしそうならば熊谷は「俺はホントはそれをしたくなかった、辛かった・苦しかった」なんて泣き言を態度に出して欲しくありませんが、仁左衛門の熊谷はそういう感じがしますね。

それにしても仁左衛門の熊谷は、主人義経のことを気にし過ぎです。首実検の場で首桶を開けかけたところで・それを見た相模が騒ぐのを制止した時に一瞬義経の方を見遣り、「家内が粗相致しまして失礼しました・・」みたいに頭をチョコっと下げる、こういう演技はまったく余計だと思います。幕切れ・僧形になって去りかけたところで義経に「堅固で暮らせよ」と声を掛けられると、その場に泣き崩れて平伏するかと思うほどの過剰反応を見せたのにも、呆れました。出家を決めて暇を貰ったらば、もう主人でもない・家来でもない、普通に礼を返せばそれで済むことではないでしょうか。兎に角、仁左衛門の熊谷は、義経物の時代の構図から離れたところで、ドラマが熊谷個人の視点に終始します。だから自分で息子を殺しておいて「苦しい・悲しい」というところで自己本位に浸った印象が強くなるのです。

ところで十三年前・仁左衛門の「寺子屋」の松王を見た時にもやはり同じような印象がしましたから、仁左衛門は役者として・と云うより人間として「寺子屋」や「陣屋」のような封建悲劇は、自分にはこのようにしか出来ないという考えなのでしょうねえ。それはそれで仁左衛門の見識であると認めますが、もしそうであるならば「陣屋」後半・首実検以降の段取りを、再度練り直した方がよろしいかと思いますね。歌舞伎の時代物の封建悲劇とは、主人公が観客の同情を誘って泣かせるものではないと思います。優れた「陣屋」の幕切れは、時代を越えて「これが人生なのだ」と見る者の心のなかにキュンとワサビが利いた「共感」を起こさせるものです。

錦之助の義経は、前回より台詞が多少柔らかくなったところがあるかも知れませんが、昨年12月京都南座での観劇随想で「まったく武人の義経でデリカシーがない」と書いた通り、上から目線で「お前の息子を身替わりに殺せよ」と言葉には出さず制札で指示をほのめかす強圧的な義経で、よろしくありません。しかし、今回(令和3年3月歌舞伎座)の舞台を見て、錦之助の義経が仁左衛門の熊谷と照応したもの(つまり仁左衛門の指示)であることが、よく分かりました。この主人義経と家来熊谷との関係から、「平家物語」の主題である諸行無常の理(ことわり)が浮かび上がるはずがありません。無常の幕切れに向けて、歌六の弥陀六がとても良い段取りを付けてくれてるのにねえ。義経と熊谷で壊しちゃいましたね。

最後に孝太郎の相模について付け加えます。声がよく通って・悪い出来ではないけれど、演技の色調が一色で、もっと変化が欲しいと思います。場面によって色調を変えること、例えば夫熊谷に藤の方が斬り掛かった時に云う「あなたは藤のお局様」の台詞は、奥に聞こえてはならぬ・夫にだけ聞こえれば良いのですから、ぐっと低く抑えた調子で言うこと。熊谷の物語を聞いて泣き崩れる藤の方を諫めて言う「イヤ申しお局様・・」以下の台詞は、相模が藤の方の気持ちを最も理解しており・しかも相手が元主人であるのですから、これも低く抑えた調子で言わなければなりません。夫の手前・心にもない言い難いことを言っているのです。それと首実検の後・相模が我が子の首を藤の方に見せて言うクドキの「申しこの首はな、私がお館で熊谷殿と馴初め懐胎(みもち)ながら東へ下り、産み落したはナ、コレ、この敦盛様・・」以下の台詞は、非常に歪んだ台詞です。相模は夫熊谷がなぜこの行為に及んだか・その理由が分かっており・頭では納得しているのです。しかし、母親としての感情がまだこれを納得していないのです。ですからここの台詞は単純に母親の悲しい感情を出せばそれで良いものではなく、この台詞を言うことで相模はホントの意味において夫熊谷と必死で寄り添おうとしているのです。今回の仁左衛門の熊谷だとサッサと自分だけ黒谷へ行っちゃいそうだから・その必要はなさそうですが、まあ本来はそう云うことだと思います。

(R3・3・24)


〇令和3年3月歌舞伎座:「一谷嫩軍記〜熊谷陣屋」・その1

仁左衛門の熊谷については、昨年(令和2年)12月京都南座での、ほぼ同じ顔触れの舞台を観劇随想で取り上げました。今回も感想として変わるところはありませんが、いくつかの事項をメモ書きしておきたいと思います。結果として、前回の観劇随想を補強することになるでしょうから、そちらも併せてお読みください。言えることは、仁左衛門の熊谷は、細部に色々工夫を凝らして・そこに見るべきものがないわけではないが、前回同様、息子を身替わりに殺した父親の悲しみに自己本位に浸っている印象で、この点に疑問があると云うことです。このため「陣屋」幕切れで「平家物語」の主題である諸行無常の理(ことわり)が浮かび上がって来ません。

これほどの名作、これほどの名型(今回の基本は九代目団十郎型)であれば、これをその通りに素直に演りさえすれば、それだけで諸行無常の理が自然と立ち上って、それなりの舞台に仕上がるものです。それがそうならないということは、どこかに何か問題があるのです。それは何かと云えば、細かいところで九代目団十郎型をあちこちイジリ過ぎるために、作品を貫く骨太い時代物の構図が見失われていると云うことに他なりません。前回観劇随想でも触れた通り、そこが九代目団十郎型の弱点と云うか、熊谷の人物像を細やかに(或る意味ではセンチメンタルに)描こうとするあまり・かえって役者が陥りやすい落とし穴なのですが、残念ながら仁左衛門の熊谷はそういう面が特に強いように思われます。

この点はしばしば誤解されていると思いますが、幕外での憂い三重での引っ込みは・確かに九代目団十郎型の肝になる箇所に違いないですが、この引っ込みが引き立つのも、幕が閉まる直前にある、「花を惜めど花よりも、惜む子を捨て武士を捨て、すみ所さへ定めなき有為転変の世の中じゃなあ」と云う、義経を頂点とする全員の六重唱の割り台詞で、諸行無常の理をしっかり決められればこそなのです。ここが「陣屋」の真のフィナーレなのであり、幕外での熊谷の引っ込みは、云わば付け足し・エピローグであるべきです。本来は初代吉右衛門の映画くらいアッサリ済ませれば・それで良いところだと思います。しかし昨今はここが見せ場だと言わんばかりに・ますます「たっぷりと」引っ込む傾向にあります。これも困ったことではあります。

仁左衛門の熊谷の問題のひとつは、女房相模に対して威丈高に出て・夫婦で悲しみを共有しようという気持ちがあまり見えないことです。熊谷が首を抱いて相模に手渡しする工夫はなかなか良いですが、これもどちらかと云えば表現が自分の気持ちの方に向かっているようです。しかし、それよりもっと問題があると感じるのは、主人義経との関係の取り方です。伝統芸能のなかでの義経物の位置付けが正しく取れていないから、前述の「有為転変の世の中じゃなあ」の六重唱が決まらないのです。(この稿つづく)

(R3・3・22)


〇令和3年3月歌舞伎座:「雪暮夜入谷畦道〜直侍」

菊五郎の直次郎は平成29年(2017)11月歌舞伎座以来、約4年ぶりということです。前回とほぼ同じ顔触れですが、芝居は生(なま)ものですから、同じ顔触れであっても年齢・体調その他の条件に拠って舞台の感触が微妙に変わるものです。前回の舞台については当意即妙の世話物の味わいと云うことを書いた記憶があります。これと比べると、今回は古典味が増した感じで、その分いくらか世話がアッサリ風味に変化したかも知れませんねえ。だからと言って悪いわけではなく、もちろん今回も出来としては安定したものを見せていますが、その違いはホンのちょっとしたところです。

例えば蕎麦屋外での直次郎と丑松とのやり取りで云えば、初めは何げない会話であったものが、「互いにつもる身の悪事に」・「氷柱(つらら)のような槍にかかるか」辺りから様式の方へ調子が変化して行ってテンポが畳み掛ける感じに多少早くなって行き)、直次郎の「見えぬ吹雪が」を(ここがクライマックスという感じで)時代に大きく張って・「天の助けだ」で一転世話に流す、その息と色調の変化が黙阿弥の世話物の面白さだと思います。今回の菊五郎の直次郎は、前回と比べると、ここを丑松に対して淡々と受ける感じで色調・テンポをあまり変化させなかったので、それで世話味が後退した印象になったようです。このような菊五郎の印象の変化は今回全体的にあったもので、このため直次郎と三千歳の色模様も、錦絵の古典的な構図にしっとり納まった感じに仕上がったと思いますが、まあこれはこれとして良いものです。

別稿令和2年12月国立劇場の「河内山」の観劇随想のなかで、明治14年(1881)初演の「天衣紛上野初花」は、当時すでに実体として存在しなかった「江戸」への郷愁を描いた作であり「黙阿弥のリアルさへの追求が若干遠のいている」と書きました。「直侍」自体は世話の感覚が強い題材ですが、そう云う意味においても、大口寮での直次郎と三千歳の色模様での、余所事浄瑠璃の扱いは、なかなか難しいことになるでしょう。清元が醸し出す情緒に身を任せれば踊りの感覚となって、リアルさからは遠くなってしまいます。しかし、そのような絵模様の感覚が多少はないと・この時代の黙阿弥の「天衣紛」の風にならないと云うのも事実かも知れませんねえ。吉之助としてはもう少しリアルの方へ引き戻した方が良いと考えますが、リアルさへの希求と様式との折り合いをどう付けるべきか、菊五郎と時蔵の舞台を見ながら、そんなことなど考えさせられました。

(R3・3・19)


〇令和3年3月歌舞伎座:「隅田川」

玉三郎の「隅田川」は平成17年(2005)6月京都南座が最初のことですが、この時は下座がいつもの清元ではなくて、杵屋勝国作曲の新作長唄による上演でした。当時は「隅田川」と云えば六代目歌右衛門の演し物というイメージがまだ世間に強いものがありました。それで菊五郎家が「助六」を出す時に団十郎家を慮って下座を河東節から清元に変え・外題を「助六曲輪菊」にするのと同じような申し訳をしたものでしょうか。今回(令和3年)3月歌舞伎座は、本興行としては東京で初めての「隅田川」になりますが、下座は清元となっています。今回の演目に「隅田川」が選ばれた背景には、そのことは何も触れられてないようですが、多分、今年(2021)3月が、2001年3月31日に亡くなった歌右衛門の没後20年に当たることがあるだろうと思います。歌右衛門と「隅田川」との繋がりはそれほどまでに強いものがあるし、歌右衛門の後を継いで平成の歌舞伎の女形の頂点に立った玉三郎にとっても歌舞伎座で清元の「隅田川」を踊ることは格別の感慨があるでしょう。

玉三郎の斑女の前は、狂女と云うよりも・まだどこかに正気が残っている感じがします。理性的な印象であるせいか、舞踊というよりも・芝居の趣きが強いのも前回と同じですが、今回は下座に語りもの浄瑠璃のなかでも情緒性が濃い清元を使用していることが、曲が進むにつれてジワジワと効果を発揮してくるようです。特に後半・舟に乗って隅田川東岸の梅若塚に辿り着いた辺りからは、動きを抑制した玉三郎の所作に、清元がそっとニュアンスを添えるかの如くの相乗効果を見せて、斑女の前の哀しみが静かに伝わってくるのをとても興味深く思いました。玉三郎の斑女の前は、歌右衛門の印象とはまったく異なります。歌右衛門は指先一本の動きまでもこの情念を描き尽くさずには置くべきかと云う濃密さがありました。玉三郎の場合はそこが淡いと云うか、すくっても手のなかですぐ溶けてしまう雪のような淡い儚さ、子供を亡くした母親の哀しみもやがて幻影のように消えてしまう儚さなのです。そこが戦後昭和の歌右衛門と、平成・令和の玉三郎の芸風の違いでもあるわけで、どちらの「隅田川」も記憶のなかに残しておきたいと思いますねえ。

(R3・3・12)


〇令和2年12月国立劇場:「天衣紛上野初花〜河内山」・その3

以下は今回(令和2年12月国立劇場)の「河内山」の舞台と直接的に関係ないものとお読みください。「天衣紛上野初花」は明治14年(1881)3月新富座での初演。この芝居が企画されたのは、同じ月・3月1日から上野で第2回・内国勧業博覧会が開催されたので、全国から上京する人々を当て込んだからでした。江戸が東京と改称されたのは慶応4年(1868)7月のこと、さらに同年9月に元号が明治と改められました。散髪脱刀令の発布は、明治4年(1871)8月のこと。つまり明治14年の「天衣紛」初演当時は明治となって十数年しか経っておらず、江戸時代に生まれた人が大半で、新しい東京はまだまだ古い江戸の風俗を濃厚に残していたはずですが、すでに実体として「江戸」はなく、チョンマゲ帯刀の侍も消えていたのです。つまり「江戸」を精神的な支柱としていた歌舞伎はその支柱を失い、既に現代劇ではなくなり始めていたと云うことです。観客も舞台に古き良き「江戸」の記憶を見るために芝居に行くようになり始めていました。

このような世相が、当時の黙阿弥の感性に作用しなかったはずがありません。吉之助が「河内山」を見ながら感じることは、黙阿弥のなかでも「江戸」のリアリティが遠のき始めているのだなあ・・ということです。付け加えますが、作の出来が悪いとか・作劇力が後退しているとか云いたいのではありません。黙阿弥のなかでも生々しい「江戸」の記憶が別の様相に変化し始めていたのです。それが証拠に、明治18年2月(1885)千歳座初演の「水天宮利生深川」(いわゆる「筆売幸兵衛」)は、リアルな感覚をそれなりに持っています。何故ならばこれは散切り物であり、現代劇たらんとして黙阿弥が当時の生々しいリアルな生活感覚を取り込もうと必死に格闘しているからです。一方、「天衣紛」は、そのような黙阿弥の必死さが何となく欠けています。昔の思い出を綺麗な錦絵として描こうとしているようで、作劇の上手さは際立つが、リアルさへの追求は遠のいています。

そういう意味において、これは決して嫌味で云うのではなく、今回(令和2年12月国立劇場)の「河内山」の舞台は、作品の在り様のまったくその通りを見せてくれました。だから吉之助は今回の舞台を愉しませてもらいましたし・その出来に不満は全然ありませんが、まさにそれゆえに、明治以降の黙阿弥ものにリアルな感覚を吹き込む必要があると云うことをチラッと思ってしまうことになります。そのような課題を感じてしまうのは、他には「髪結新三」(明治6年初演)、「魚屋宗五郎」(明治16年初演)、「加賀鳶」(明治19年初演)辺りですかね。

このような余計なことを吉之助が考えるのは、このところ「蔦紅葉宇都谷峠」とか「八幡祭小望月賑」とか、若き黙阿弥と四代目小団次との提携作品から黙阿弥における「写実(リアル)」の意味を考えることが多いからでしょう。「もしも慶応2年(1866)2月に小団次が憤死することなく・明治の世まで生きて、黙阿弥との提携関係が長く続いたとしたら、明治の歌舞伎はどんな様相になっていただろう」と考えてみることは、決して無駄なことではないと思います。「河内山」のドラマに「あの江戸の昔に帰りたい」という歌舞伎の熱い思いを込めることが出来れば・・と思います。本稿ではこの問題にこれ以上深入りはしませんが、黙阿弥の様式である・時代と世話の揺り返しを工夫して、前回の二代目白鸚の河内山のように、予定調和の感覚がある河内山の長台詞に、リアルな感触をどうにかして吹き込めないかと実験してみることは、これは時として必要なことであるなあと思います。

(R3・3・8)


〇令和2年12月国立劇場:「天衣紛上野初花〜河内山」・その2

今回(令和2年12月国立劇場)の「河内山」は、質見世・松江邸広間・書院・玄関先の四場構成なので、その分芝居が濃くなる気がしますねえ。質見世を省いた構成であると、玄関先での河内山の見顕わしがクライマックスになると思います。一方、質見世が付くと河内山が松江邸へ乗り込む経緯がよく分かるということもありますが、芝居の間尺のバランスが、質見世(序)・松江邸広間〜書院(破)・玄関先(急)となって、序破急の感覚にぴったりはまるようです。これだと、僧道海(実は河内山)と松江公との・一対一の対決が、「河内山」のドラマのクライマックスに位置付けられるでしょう。だからここで松江公に、主役の河内山に拮抗する重さの役者を配役できれば、ドラマはぐっと濃いものになります。今回の梅玉の松江公が、まさにそうです。

松江公は演っていてあまり気分の良い役ではないと思いますが、梅玉は塩治判官も勤める役者ですから殿様の風格に不足があろうはずがなし、松江公は性格短慮なところも判官に似ているかも知れませんが、その梅玉の松江公と対決するとなれば、河内山もイジメがいがあるでしょう。実を云うと吉之助は書院は面白いと思ったことがあまりないのですが、今回の梅玉と白鸚との対決は双方に気合いが入って、これまでになく見応えのあるものになりました。松江公が抗弁の仕様もなく・如何にも不服そうに・しかしグッと怒りを抑えて僧道海と対座している様を見て、観客は溜飲を下げたことでしょう。これならば後に繋がる玄関先での河内山の見顕わしがますます痛快になるというものです。(この稿つづく)

(R3・3・6)


〇令和2年12月国立劇場:「天衣紛上野初花〜河内山」・その1

本稿は令和2年12月国立劇場での、二代目白鸚による「河内山」の観劇随想です。白鸚は河内山を同じ令和2年1月歌舞伎座でも演じたばかり(ただしこの時は質見世が出ませんでした)なので「またか」と云う感じはありましたが、コロナ規制が続くなか歌舞伎座も国立劇場も演目建てのご苦労が察せられます。しかし、舞台を見ると場割り・共演者など諸条件が違うこともあってか、舞台の印象がだいぶ異なっているので、メモ風に記しておいた方が良いかなと思いました。

今回(令和2年12月国立劇場)の舞台の方が、全体的に端正で古典的にまとまった印象がしますねえ。前回よりも格段に良くなったのは、白鸚の河内山の、松江邸玄関先での、「悪に強きは善にもと・・・」と云う長台詞です。前回の白鸚の、この箇所の台詞廻しは、世話と時代のうねりが強くて、台詞が大きく伸びたり縮んだりする、まことに変った台詞廻しでした。どういう理由でこうなるのかなあと頭を捻りましたが、今回は七五のリズムの揺り返しがリズミカルに・流れが良くなりました。これは白鸚が台詞廻しを変えたと云うよりも・「元に戻した」ということだと思いますが、これで端正な印象が強くなりました。「端正」というと強請り騙りの河内山に似合わないような表現かも知れませんが、要するに錦絵の古典的な構図のなかに河内山の絵姿が納まったとすれば、こんな感じになるだろうと云うことです。それが明治14年(1881)初演の本作の感触にも沿うと思います。ちょっとアッサリ気味に感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、お手本のような台詞廻しです。ともあれ河内山の・この長台詞の大事なところは、様式感覚を崩さずに・どこまでリアルに迫れるかと云うことだと思います。白鸚の河内山には、どことなくニヒルな味わいがあるのが興味深い。

ところで吉之助は黙阿弥の七五調のリズムは「七が早めで五が遅めで緩急を小さく繰り返す」とつねづね申し上げています。(別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」を参照ください。)七と五のリズムの揺れを、時代と世話の小さな揺り返しであると考えれば、吉之助が台詞をしゃべるとすれば、七を時代の感触にして・五の世話のなかに写実の情感を込めたいと思いますが、逆に七を世話のバラガキの感触に取る考え方もありだろうと思います。どちらを取るかは、台詞の内容にも拠ります。恐らく前回の白鸚は、この長台詞にどこまでリアルに迫れるか実験してみたかったのかも知れませんねえ。しかし、世話と時代のうねりを強くするならば、予定調和の感覚が強い長台詞の箇所ではなくて、むしろそれ以外の場面だろうと思います。今回は、その設計が上手く行っていたのではないでしょうか。(この稿つづく)

(R3・3・3)


〇令和3年2月歌舞伎座:「本朝廿四孝・十種香」・その4

魁春の八重垣姫が良いのは、父・六代目歌右衛門に教えられた「型」の力を信じて、無心に演じて、何も引かず・何も足さない、だから「型」が持っている意図(イメージ)がそのまま素直に現れると云うことです。成駒屋の八重垣姫の「型」が持つ役の風格が、そのまま役の性根(気持ち)となって現れます。脳裏に残っている歌右衛門の舞台のイメージまでもが蘇って来るようです。何でもないことのように見えますが、実はこれが一番難しいことです。これが芸の年輪と云うものですね。引き合いに出すと魁春に失礼に聞こえるかも知れませんが・その意図はご理解いただけると思いますが、同じ月(3月)歌舞伎座・第3部の「連獅子」の勘太郎や「安達三」の長三郎も、お父さん(勘九郎)の云うことを信じて・言われたことをその通りに無心に勤めているので、そこから役(子獅子・お君)が持つ在るべきイメージが素直に立ち上がります。これは「初心」というものが起こす奇蹟ですが、同じ気持ちを歳を取っても保ち続けて行くことは、まことに難しいものです。だから世阿弥も「初心忘するべからず」と戒めの言葉を残しています。中村屋兄弟もこれから山あり谷ありでしょうけれども、頑張って欲しいものですね。

ところで今回(令和3年2月歌舞伎座)の「十種香」では、孝太郎の濡衣・門之助の勝頼ともバランス良い出来です。孝太郎の濡衣は折り目正しく、八重垣姫の控え目な陽に対して、濡衣は凛とした感じの陰ということになるでしょうか。七代目芝翫以来の濡衣と言っても、褒めすぎではない気がしますねえ。

門之助の勝頼は登場して三段に掛かって憂いの形を決めるところは、ホントに美しい絵になって感心しました。ただ門之助は普段は女形を勤めることの方が多い方ですから、声質が八重垣姫と濡衣に似るために、「十種香」が三角形の声質構図になって来ない感じです。ここでの勝頼は、もう少し声の調子を低めに下げた方がよろしいようです。それと八重垣姫に対して「ヤア聞き分けなく戯れ事・・そこ退き給え」という台詞の語調が強過ぎて、品格が欠ける感じですねえ。確かに義太夫には「わざと声荒らげ」とありますけれど、そこをその通りにやるのではなく、柔らかく凛と拒否してみせるから色気が出るのです。それで逡巡している八重垣姫が完落ちするのではないのでしょうか。七代目梅幸の勝頼の映像をご覧あれ。

それにしても「十種香」をこのようにしっとり落ち着いた気分で愉しめたことは近頃珍しく、嬉しいことでありました。

(R3・2・28)


〇令和3年2月歌舞伎座:「本朝廿四孝・十種香」・その3

ということは八重垣姫という役は、性根より格が大事だということです。今回(令和3年2月歌舞伎座)の魁春が演じる八重垣姫を見ると、このことを痛感させられます。八重垣姫は、心理を読み解くための取っ掛かりがホントに少ない役だと思います。別稿「二代目魁春の時姫」において、「「親に付くか、夫に付くか、落ち付く道はたった二つ、ササ返答いかに、思案いかに」と迫られた時・魁春の時姫はパアッと輝く」と書きましたが、八重垣姫の場合は、この点がさらに難しい。八重垣姫も「諏訪法性の御兜を盗むか否か」と選択を迫られますが、八重垣姫は時姫のように「御兜盗んでみしょう」と高らかに宣言することはしません。八重垣姫は、

「・・連添ふ私になに遠慮。つひかう/\とお身の上、明かして得心さしてたべ。それも叶はぬ事ならば、いつそ殺して/\」

と言います。「真(まこと)の勝頼さまが頼むならば妻の私がそれを嫌なんて言うはずないじゃない、だから貴方はお身の上を正直に明かして」と八重垣姫は切々と訴えるのです。だから返答は婉曲にOKです。けれども、八重垣姫のアイデンティティーが立って感情にスイッチが入いるきっかけが、これだととても弱い感じです。だから八重垣姫が難しいことになります。しかし、それでも魁春の八重垣姫を見ると、「ソレ、そこにござる簑作様が御推量に違はず、あれが誠の勝頼様」と濡衣に押しやられると、ここで八重垣姫の全身がパアッと輝く感じがします。まったく八重垣姫は、こうでなければなりません。そうなるためには、そこに至るまでの長い過程をぐっと抑えなければなりませんが、魁春がここまでそれをきっちり出来ているから・そうなるわけです。「魁春の八重垣姫はきっと素晴らしいだろう」と7年前に書きましたが、期待通りの八重垣姫でありましたね。

それにしても近松半二は意地悪ですねえ。八重垣姫と勝頼がひしと抱きあった直後に「簑作はいづれにをる」という父・謙信の声が聞こえて、色模様はたちまち中断されてしまいます。つくづく思うには、八重垣姫のドラマとして見た場合、「十種香」だけであると、観客にドラマが理解しにくい、カタルシスがなかなか得られないと云うことです。「十種香」に奥庭の場(狐火)を必ず付けて、ドラマに完結性を持たせないと、これからの世の中「十種香」を残していくことは難しいだろうと云う気がしますがねえ。しかし、まあそれは今回の魁春には関係がないことです。魁春の八重垣姫には、今どき貴重な古き良き女形の感触がします。(この稿つづく)

(R3・2・25)


〇令和3年2月歌舞伎座:「本朝廿四孝・十種香」・その2

上記のことは「廿四孝」全体の解釈に大きく係わる問題ですが、「十種香」の八重垣姫を演じるための性根の把握ということに限るならば、これを盲目的に突っ走る深窓の乙女の恋愛感情であるとしても、(吉之助が云うように)超自我が命じるところの高次元の要求であるとしても、そのどちらでも、その型が表現するところに大して相違が出るものではなかろうと思います。どちらも、理性では制御できないレベルに於いて・八重垣姫を内面から衝き動かす深層的な感情であるからです。

五代目歌右衛門は芸談のなかで、「(八重垣姫は)三姫のなかでは割合に心が要らないだけに楽な方でしょう」と語っています。しかし、一方で「八重垣姫と云う役は、姫らしい品位と高度な色気を見せることが大切で、決して蓮っ葉な真似をしてはいけない、昔から三姫のひとつとまで云われるものだけに、生やさしいものではなく、よほど心して演ずるべきである」とも語っています。この言を解するに、八重垣姫は蓑作(勝頼)に対する一途な気持ちを大切に演じれば良いわけなので・心理の細かなところにこだわる必要はないが、型が表現するところの姫らしい品位と色気を、素直にその通り大きく捉えて表現することが出来るならば、自然と八重垣姫になるものである、しかし、その・たったそれだけのことがどれほど難しいであることかと、五代目歌右衛門は言いたいのであると吉之助は考えます。

例えば八重垣姫が右袂をもって「の」の字を書くようにする、これは身体を品よく色気を以て動かす姫の技術ですが、そこに女形が一生を掛けても足らないほどの奥の深さがあるのです。話しが変るみたいですが、芝居の世界では、戦国時代の大名のお姫様に自由意志はないことになっています。政治の取り引きの材料として他家に嫁いで、実家の安泰を保つのが大名の娘の役割です。だから八重垣姫は、自由に身体を動かることが出来ません。がんじがらめにする状況の重さに耐えつつ、八重垣姫は内面から衝き動かされる感情によって、不自由ながらも・どうにかこうにか・やっと身体を動かすことが出来るわけです。それが姫役の「の」の字を書く動きに込められているものです。ですから八重垣姫は心ということならば・さほど深さを持たない役かも知れませんが、「型」の表現がそのまま八重垣姫の性根に直結してくる、そこが八重垣姫という役の難しさです。ですから「型」が持つ力を信じて、「型」が表現するものをその通りに素直に出すならば、役のあるべきものはその通りに描かれる、それで八重垣姫になると云うことなのです。(この稿つづく)

(R3・2・23)


〇令和3年2月歌舞伎座:「本朝廿四孝・十種香」・その1

「廿四孝」の八重垣姫は歌舞伎の三姫のひとり、逢いたい見たい助けたいの恋心が募り募って、家宝の兜を盗むわ・親が討つ手を差し向けた勝頼に危急を知らせようと狐に変身して氷の湖を渡るわで、深窓の乙女の一途な恋心は燃え上がったら止まるところを知らない。そこがロマンティックの極みであるわけですが、逆から見れば自分の感情に突っ走った親不孝娘の典型で、「廿四孝」の本筋からは最も遠いと思われているようですねえ。歌舞伎の解説本は大抵その線で書かれています。「浄瑠璃素人講釈」は吉之助が義太夫狂言を考える時に必ず参照する本ですが、杉山其日庵でさえも「「廿四孝」の外題は三段目で御仕舞い」と書いています。と云うことは、つまり四段目(十種香・狐火)は、反・廿四孝の親不孝の物語だと云うことかね?しかし、儒学者の家に生まれて倫理道徳にあれほど敏感な近松半二ほどの人がそんなことを書くわけがないだろうと吉之助は思うわけで、そこで四段目を分析したのが、別稿「超自我の奇蹟」です。この論考はワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」との関連で書かれています。まあ読んでみてください。

大事なポイントは、武田勝頼と八重垣姫は親が取り決めた許婚であったということです。姫は勝頼の妻となるべくして生まれ、ずっと「私はこの方を夫として尽くす」と思って育ってきた女性です。つまり夫となるべき人に尽くすことが、姫のアイデンティティなのです。ところがその夫となるべき人(勝頼)が「家宝の兜を盗んで来い」と云う。姫は悩み苦しみますが、最終的にこれを受けます。このことは親不孝でしょうか?もしかしたら、そうではないかも知れませんよ。姫は自分のアイデンティティから発する超自我の指し示すところに従って動いています。姫はいつでもこう主張できるはずです。「この御方(勝頼)が私の夫であると・この御方に尽くせと・この御方の言うことに従いなさいと決めたのは、お父様(長尾謙信)よ。これが私の使命なのよ。だから私はお父様の言い付けに忠実に従っているの」と云うことです。そう考えると「廿四孝」・四段目は忠孝の物語となるのです。

このような視点で四段目を読むならば、八重垣姫の直感が、ことごとく正しかったことが分かります。まず「十種香」冒頭を見ると、夫となるべき勝頼は切腹したことになっていて、姫はその絵姿を前にして悲しみに暮れています。ところが花作り蓑作を見れば、姿が絵とそっくりです。「似はせでやつぱり本々の、勝頼様ぢやないかいの」と姫は一間を飛び出しますが、姫の直感が正しかったことが後に判明します。切腹したのは偽勝頼で、蓑作こそが本物の勝頼でした。

「十種香」幕切れでは、父・謙信が「諏訪法性の兜を盗み出ださんうぬらが巧み、物陰にて聞いたる故、勝頼に使者を言ひ付け、帰りを待つて討ち取らさんと・・・」と思いがけないことを言います。次の「狐火」の場では、姫は夫に危急を知らせようと悩むなか、神狐が憑依して姫は狐に身を変えて・氷の張った諏訪湖を渡ります。これは八重垣姫が父の意志に反抗し・自分の恋心を優先しているように見えますが、「廿四孝」・四段目結末を見れば、ここでも姫の直感が正しかったことが分かります。何と長尾家と武田家の長年の確執は、表向きのことであったのです。謙信には勝頼を殺すつもりなど最初からなかったのです。実は足利将軍家に難事が起こった時、両家は互いに協力して犯人探索に掛かることになった。世間にそのことを隠すために、表向き両家が不和にあるように見せていただけだったのです。ですから四段目結末ですべてが解決した時、勝頼と姫との間を阻むものは何もありません。二人はめでたく結婚することになります。もはや本家の文楽でもやらない場面ですが、丸本の四段目末尾詞章に「家の誉と法性の、今ぞ兜を甲州へ、戻す両家の確執も、納まる婚礼三々九度・・」とあります。

つまり親の意志に背いて八重垣姫は恋愛感情に盲目的に突っ走るように見えたけれども、結果的に、その行動は父・謙信の真意にことごとく沿うており(つまり忠孝の倫理に沿うたことであり)、それが両家の不和・延いては足利将軍家の難事解決にまでつながることになります。こうして四段目は忠孝の物語となって「廿四孝」の本筋に見事に沿うことになるのです。(この稿つづく)

(R3・2・22)


〇令和3年2月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その2

つまり安達三は、「敷妙使者」・「矢の根」を省いて切の「袖萩祭文」だけを演る場合(これが現行歌舞伎の通例です)、バランス上・世話物悲劇の様相を一層濃くするということです。このことを念頭に置いたうえで、今回(令和3年2月歌舞伎座)の舞台を見て行きますが、タイトルロールとも云うべき袖萩の役割がとても大事になってきます。七之助初役の袖萩は美しいですが、これはニンという話になるかも知れませんが、涼しい美しさです。哀れさを一生懸命表現しようとしていることは分かるのですが、綺麗綺麗に流れる印象がしますね。袖萩の哀しみは、沈滞していかねばなりません。そうでないと詞章にある「泣きつぶしたる目なし鳥」ということにならないのです。恐らく型がまだ十分消化できていないのでしょう。三味線がちょっと自信無げなのも気になります。

袖萩の哀しみに政治的要素はありません。ただ夫恋し・子供たち愛(いと)し・そして両親に対しては申し訳ないの気持ちが渦巻いているだけなのです。袖萩の哀しみの表現は、思い切って下世話にやって良いくらいです。(安達三が小芝居・地芝居などで人気演目であるのは、それゆえでしょう。)妻(袖萩)の哀しみを、中央政権に対する辺境の哀しさという政治的構図に重ねて意味付けていくのは、それは後半の夫(貞任)に任せる仕事です。安達三幕切れには・自害してその場にいない袖萩の哀しみが舞台全体を覆うような印象で終えねばなりません。だからこの場全体の通称を「袖萩祭文」と云うのです。幕切れの詞章をご覧ください。

「振り返り、見やる目元に一時雨(ひとしぐれ)、ぱっと枯葉のちりぢり嵐心弱れど、兄弟がまた、取り直す勇み声、よるべ、涙に立ち兼ねて・・」

と、いかにも時代物らしい勇壮な舞台面とまったく裏腹です。哀しみが募るほど・それを振り払うために勇ましくせねばならない、しかし、勇ましくすればするほど・哀しみが余計に募ると云うことなのです。つまり「安達三」の幕切れにおいては舞台面とドラマの実質が引き裂かれており、ここでは時代物らしい構図が破綻しています。

そこで勘九郎の貞任を見てみると、桂中納言の成りで登場し・花道七三へ行って「何奴の仕業なるや」まではなかなか良いです。公家の中納言と武士の貞任の落差をあまり付けない行き方で、ここは十七代目のやり方をよく学んでいると思います。しかし、貞任の正体を見顕わしてからは、やはり大時代にスケール大きく締めようと力が入り過ぎている感じです。そこに祖父・父とも異なる勘九郎の時代物役者のニンがあると云えば・そう云うことですが、貞任は自害した袖萩の哀しみを引き継ぐ形で芝居をせねばならないわけですから、貞任が勇壮一辺倒になるのはマズいのです。これは勘九郎に限ったことではありませんが、大歌舞伎では貞任と袖萩を分けてやると、二人で分けるのが作品本来の形であるのですが、安達三はどうしても前半と後半の連関性が取りにくくなります。今回もまたそのような印象です。そこが安達三の難しいところですね。

恐らく貞任と袖萩を二人で分けて・なおかつ前半と後半の連関性が崩れないようにするために大切なポイントは、貞任の子役(お君)の扱いであろうと思います。お君に対する情を濃厚に、貞任の気持ちの揺れを思いっきり世話に出すことです。ここをやり過ぎると貞任のスケール感が損なわれると遠慮することはありません。貞任は人情味溢れる男なのです。しかし、この点では今回上演には断然有利な状況がありました。お君を勘九郎の次男・長三郎が勤めたことです。観客が自然と親子関係を意識するから、それで貞任がずいぶん得しました。長三郎は神妙に勤めてなかなか頑張りました。歌舞伎座同月の「連獅子」の子獅子を勤めた長男・勘太郎も同様ですが、「教えも教え、覚えも覚えし・・」で、先々代・先代も喜んでいることでしょう。まあ今回は長三郎のお君のおかげということにしておきましょうか。

(R3・2・20)


〇令和3年2月歌舞伎座:「奥州安達原〜袖萩祭文」・その1

十七代目勘三郎の当たり役は数多いので・吉之助がベスト20を選ぶとすると「袖萩祭文」を入れるかどうか微妙な気もしますけど、今回(令和3年2月歌舞伎座)の十七代目の三十三回忌追善狂言として「袖萩祭文」をやると聞いた時には、なるほど良い選択をしたものだなあと感心しました。息子の十八代目は「袖萩祭文」を残念ながら一度もやりませんでした(本人はやる気があったらしいです)が、袖萩は哀れが利いて良かったろうと思いますけど、貞任はちょっと小粒になったかなとも想像します。これはニンの問題だから仕方ないことだけれども、十七代目は袖萩も貞任もどちらも良かったのです。十七代目は、ホントに何の役でも上手い役者でした。現・勘九郎は平成22年(2010)1月浅草公会堂で袖萩と貞任二役で「袖萩祭文」を一度経験していますが・今回は貞任一役のみを勤めて、七之助が袖萩を勤めます。これに長三郎のお君が加わって中村屋一家で芸域の広かった十七代目を偲ぶのにぴったりの演し物になったと思います。

ところで先月(1月)歌舞伎座の「七段目」の観劇随想で芝居の間尺のバランスについて触れました。芝居の間尺が変れば、観客から見えるドラマの様相も微妙に変わって来ます。役の重さが変わりますから、役者はそれに応じて演技を微妙に変えて行く必要があります。「環宮明御殿」(通称:安達三)は、現行歌舞伎のやり方では、「敷妙使者」・「矢の根」と呼ばれる端場がカットされて(時間的にはそう長い場面ではありません)、切の「袖萩祭文」だけをやることが多く、今回上演でもそうです。そのことの是非はさておき、安達三が「袖萩祭文」だけの上演になることによるバランスの変化とは、安達三の背景にある京都朝廷の中央政権と地方豪族・安倍氏という政治的な対立構図が後ろに遠のいて、親の意志に背いて自由恋愛した相手が・実は京都から謀反人とされてしまった安倍貞任であったということで袖萩が転落し盲目の乞食にまで身を堕とさねばならなかったと云う世話物悲劇の様相を一層濃くすると云うことであろうと思います。

つまり袖萩のウェイトが重くなって、貞任のウェイトが相対的に軽くなるということです。これは貞任役者にとっては大きな問題で、桂中納言は登場してすぐ貞任に変身することになるので、見顕わしの効果が際立たないことになります袖萩自害の以前と以後で芝居の感触が大きく変わることも、芝居の一貫性を保つという点でなかなか難しい。貞任役者が袖萩を兼ねることをいつ誰が始めたか調べが付きませんでしたが(多分小芝居から来たものかと思いますが)、恐らくこのことは切場の「袖萩祭文」だけをやる事から来る貞任役者の失地回復のための苦肉の要請であったに違いありません。もちろん時代物の立役が女形も兼ねることが出来る技量を持つことが前提ですが。

貞任役者が袖萩を兼ねることは、本来演劇的には意味がないことなのですが、同じ役者がふたつの別箇の人格を兼ねることで、もしかしたら、芝居のなかに或る種のシーニュ(表徴)を生み出すことになったかも知れません。盲目の乞食にまで身を落とした袖萩が非人の門付き芸である「歌祭文」を謡って両親に許しを乞う場面は、観客の涙を誘います。そのようなお涙頂戴の下世話なほど情緒的なシーンが、中央政権から虐げられた地方豪族・安倍氏の悲しみと、理屈ではなく情緒において二重写しになっていきます。袖萩の悲しい運命が、貞任の(と云うよりも安倍一族の)未来を先取りすることになるのです。貞任はここから自分の運命を悟ると同時に、妻である袖萩にこのような酷い運命を背負わせたのは、この自分だということも、貞任は感じたことでしょう。これで安達三は、時代物の三段目(哀傷)に相応しい風になるようです。これが安達三で貞任役者が袖萩を兼ねることの、恐らく計算づくでは決して生まれない・予期せぬ演劇的効果ではなかったかと思います。十七代目のような腕の立つ役者が演じる袖萩・貞任二役を見れば、そのような事が分かると思います。

今回(令和3年2月歌舞伎座)の上演では、勘九郎が貞任・七之助が袖萩と役を分けていますが(これが作品本来の形であるわけなのだけれど)、バランス的に処理がなかなか難しい安達三をどう見せてくれるかと云う点が、興味あるところです。(この稿つづく)

(R3・2・16)


〇令和3年2月歌舞伎座:「連獅子」・その2

「連獅子」はいろんな組み合わせで演じられますが、試練のため親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とすと云う・いわば教育論的な筋立てであるので、やはり実の親子で演じるのが観客も一層感情移入が出来るということがあると思います。吉之助の世代であれば、目に浮かぶのは十七代目勘三郎の親獅子と十八代目の子獅子という親子による舞台ということに当然なります。十七代目は芸に関して息子にとても厳しかったし、十八代目もこれに必死で付いて行って、ストイックな印象が強い・渋めの舞台に仕上がっていました。先代が生きていた頃の十八代目の芸には、とにかく神妙に勤めなきゃという生真面目さが強くて、若干暗めの印象さえしたものです。それがまた「連獅子」に妙なリアリティを与えていたと思います。

こうして「連獅子」は中村屋の象徴的な演目となって行くわけですが、時代が下って十八代目が親獅子となり息子たちと踊るようになると、「連獅子」は次第にアクロバチックと云うかより華やかな色合いへと変化したようです。これは悪くなったと言っているのではないので、誤解のないようにお願いします。十八代目も芸に対しては真面目であったけれど、良い意味において十八代目の芸は、先代の重し(プレッシャー)がなくなったことで明るくなりました。そこが「連獅子」の色合いの変化に影響していました。ただし、後シテの獅子の毛の振りがやたら激しくて、「息子たちよ、俺に付いて来れるか」みたいな感じで、観客の興奮を煽るようなところは感心しませんでしたが、そんなところに十八代目の血のなかのディオニソス的な要素が現れていたのでしょう。十八代目が親獅子となって親子三人で踊る「連獅子」は華やかなもので、平成歌舞伎の呼び物であったと思います。

そして今回(令和3年2月歌舞伎座)の「連獅子」では現・勘九郎が親獅子となって長男勘太郎の子獅子で初共演と云うのですから、吉之助も随分長く芝居を見て来たものだなあと思います。しかし、先々代はこうだった・・先代はああだった・・あそこがちょっと異なるね・・それもいいねえ・・などとブツブツ言いながら舞台を見るために、ここまで歌舞伎を見続けて来たのだから、吉之助の見物のお愉しみはこれからです。

今回の「連獅子」では、十七代目と十八代目の親子共演で記憶していたストイックな印象がまた戻って来た感じがして、懐かしい気分にさせられました。ここに勘九郎の芸の真面目な在り方が反映しています。若干渋くなったかも知れないが、そこが父親とは違う勘九郎の個性なのですから、この点は大事にしてもらいたいと思います。やるべきところをきっちり押さえて、それでいて過度に堅苦しい感じがしない。毛の振り具合も激し過ぎず適切なところに納めて、良い感触の「連獅子」に仕上がったと思います。勘太郎も一生懸命ひたむきに踊って好感が持てるものでした。世代が変れば・時代も変わるし、時代に連れて親子関係は微妙に変化して行くものであろうが、中村屋の芸はこれからも続いていく、なるほどこれは中村屋代々の「連獅子」であるなあと納得できる舞台でありました。

(R3・2・8)


〇令和3年2月歌舞伎座:「連獅子」・その1

創成期の歌舞伎の所作事は、女形の専門分野でした。道成寺物と並んで女形舞踊の重要な系譜である獅子物は、謡曲「石橋」の獅子の優雅なイメージを取り込んだものです。「枕獅子」(寛保2年・1742)を見ると後シテの獅子はたおやかで優美で女性的な毛の振りで、そこがまさに女形の獅子の狂いです。(これについては別稿「獅子物舞踊の始まり」をご覧ください。)ところが江戸後期に立役が舞踊の分野に進出するようになると、次第に獅子を勇壮なイメージで捉える方向へ変化して行きます。幕末の「連獅子」(文久元年・1861・黙阿弥作)では、親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とす件を描いています。後シテの力強い毛の振りを見れば、これは明らかに男性の獅子の狂いです。文殊菩薩の使いである獅子は想像上の動物ですから・性別はないのですが、それぞれ別視点から獅子の女性的なイメージ(優美さ)・男性的なイメージ(勇壮さ)を汲み取っているわけです。したがってこれらの獅子物舞踊を一括りに石橋物と呼ぶことはもちろん出来ますが、同じく「石橋」由来ではあっても、「連獅子」は女形の獅子物舞踊とは発想を全然異にするものだと思います。

歌舞伎舞踊の連獅子の発想がどこから来るのかと云えば、謡曲「石橋」にも小書きで獅子を二頭(あるいは三頭)連なって出る連獅子の趣向があって、演じ手が親子で演じることがしばしばあるからです。本来の後シテは赤い獅子ですが、小書きで数が増える場合には、シテが白い獅子・ツレが赤い獅子になります。これは白を翁・赤を童子に見立てたもので、これを親子であるとはしていません。また謡曲「石橋」の歌詞を見ると、親獅子が子獅子を千尋の谷に突き落とすという件は見当たりません。歌舞伎舞踊の「連獅子」の眼目となるところの、親が子に試練を与えると云う件は別の流れから来るもので、これは「太平記」から引いているようです。

『獅子は子を産んで三日を経る時、万尋の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の幾分あれば、教へざる中より身を翻して死することを得ずと云へり』(「太平記・16」)

高いところから投げ落としても生来の性質により身を翻して立つということであって、別に試練ということでもなさそうですが、「太平記」ではこれを母獅子としているところが興味深いところです。「連獅子」の古いやり方では、母獅子の狂いを見せる趣向もあったそうです。これは女形の獅子物の系譜を考えるならば、確かにそう云うものがまず出て来なければならないと思います。やがてそれが父獅子と子獅子の関係へと移っていく。そのような長い変遷の過程を経て、黙阿弥の松羽目の現行「連獅子」が成っていくということですね。(この稿つづく)

(R3・2・7)


〇令和3年1月歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑〜車引」

令和3年1月歌舞伎座の「車引」は、三つ子の兄弟を高麗屋三代、白鸚(松王)・幸四郎(梅王)・染五郎(桜丸)が演じるというところが話題です。当然のことかも知れませんが、出来は歳が行った順に良い。白鸚の松王は、慶事に張り切って気力充実、見た目の押し出しの立派さ・動きの力感・台詞の息の良さ・どれを取っても云うことなく、吉之助がこれまで見た「車引」の松王(映像含む)のなかでも特一級と云って差し支えないものです。

幸四郎の梅王も、見る前はちょっと線が細くはないかと危惧したけれど、思ったよりも野太いところを見せてくれました。このところ優男の役どころばかり演じて・ご本人は自身の将来についてどう考えているのかなあと思ってましたが、吉之助としてはやはり「幸四郎」ならばこういう太い役どころをしっかりモノにして欲しいのです。まだちょっと不安定な感じは多少ありますが、まあ現時点で梅王がこれくらい出来れば先行きは見えるというところで、とりあえず安心しました。

染五郎の桜丸は、ちょうど変声期の難しい時期にあるので・仕方ないところがありますが、神妙に演じていると云うよりも・ちょっと元気がないように見えて、全体的に硬い印象に感じます。TVインタビューで染五郎を見ると伏し目がちで、多分内気でよく考え込むタイプなのかなと思いました。しかし、考え込むことは決して悪いことではありません。台詞が棒気味に聞こえるのは、言葉ひとつひとつを丁寧に云おうとしているつもりなのだろうが、言葉は音ひとつでは言葉の体を成さないのです。言葉はふたつ以上繋がった時に・そのふたつの繋がった音の息の上げ・下げの微妙な関係性によって、初めて言葉としての意味を成すのです。最初から台詞を節を附けて発声しようとしないで、まずゆっくりと・できるだけゆっくりと台本をしゃべってみて息の繋がり具合(関係性)をじっくり確認してみることです。染五郎クンはそこの訓練がまだ十分ではないようです。言葉を息に乗せるがコツが分れば、台詞は自然に流れて行くものです。

「車引」は菅原・三段目の端場ですが、梅王・桜丸が吉田神社参拝に向かう時平の牛車を阻止しようとするのを松王が応酬して三兄弟が睨み合うという筋で、筋自体は大したことないのものです。この場が忘れられることなく・見せ場としてしっかり位置付けられて残ったのは、やはり歌舞伎の様式化(荒事化)のおかげだろうと思います。菅原を「加茂堤」から通した場合、時平の重圧の凄まじさを観客に感得させる場面は、この「車引」しかないわけです。時平の威勢がどれほどのものか・これに反抗することがどれほど大変なことか、そこがはっきりと知れることで、その後の「賀の祝」での桜丸の別れ、「寺子屋」での松王の別れの重さ・辛さが浮き彫りになってくるはずです。ですから「車引」と云うと、どうしても三つ子の兄弟に注目が行くのはこれは当然のことですが、実はそれ以上に、「車引」は時平の芝居なのかも知れませんねえ。弥十郎の時平は大きな身体が押し出しによく利いて、これからの時平役者として大事な役者になってくれると思います。

(R3・2・3)


〇令和3年1月新橋演舞場:「毛抜」

吉之助が初めて見た「毛抜」は十二代目団十郎(当時は十代目海老蔵)の粂寺弾正でありました。もう五十年近く前の話です。思い返せば随分長く歌舞伎を見て来たわけだな。団十郎は台詞に独特のクセ(難)があったのは事実ですが、まあ初めてのことだから・それはそんなものなのかと思って見ましたが、団十郎の歌舞伎十八番が良かった点は、元禄期頃の荒事の・のんびりとして大まかな雰囲気をよく捉えていたことだと思います。「おおどかな」と云っても良いですが、それです。ギラギラとはしていませんでした。芝居の細かいところでは他の役者にもいいものはあるのだけれど、細かいところはすっ飛んじゃって茫洋とした器の大きさを感じさせるところでは、やはり団十郎だなあと思うわけです。これは弁慶でも鳴神上人でもそうでした。理屈ではないところの存在感なのです。

ところで吉之助は時折こんなことを思うのですが、歌舞伎十八番というのはそのキャラクターのほとんどが御霊神であったり・何らかの怨念を纏っていたりするわけですが、この「毛抜」だけを単独で抜き出して見た場合、粂寺弾正は怨念を纏った人物とは言えないし、むしろカラッとして明るい人物であるわけです。どういう理由で七代目団十郎は「毛抜」を歌舞伎十八番に加えたのかなということを、ちょっと考えてみたりするのです。まあ二代目が初演した役(寛保2年・1742)ということで、18の数に合わせて入れただけなのかも知れず、磁石のトリックを見抜いた科学的推理=超人的な明晰な頭脳ということで・そこに荒事的資質との類似を見たと云うことかも知れませんが、「毛抜」の歌舞伎十八番たる所以は、この時代の芝居の・のんびりとして大まかな雰囲気にあるとして良かろうと思っています。要するに大事なのは、「童子の心」でしょうかね。

だから「毛抜」が歌舞伎十八番だ・荒事だというので、当代海老蔵が弾正の数々の見得をガーッと唸って・目を剥いて・しゃかりきに力をこめてやるのは、もちろんここが弾正の見せ場であるし、海老蔵の役者としての魅力がそこにあると言われれば・それはそうには違いないが、何となくこれが「毛抜」の雰囲気にそぐわない感じがしないか。見得をしゃかりきにやればやるほどやるほど、かえって弾正が小さく見える気がします。ですから海老蔵にとっての目力(めちから)は、両刃の剣なのです。細かいところにこだわらず、むしろそういうところを捨て去ることで(或いは「使い分けることで」と言った方が良いでしょうかね)、海老蔵は「団十郎」に相応しい大きさを獲得できるのではないかという気がしますがねえ。そうすれば海老蔵の弁慶も助六も大きく変わって来ると思います。現在の海老蔵は、いろんな意味で岐路に立っていると思います。

(R3・1・30)


語り継ぎ・弔う者たち

今月(1月)17日に新橋演舞場・「海老蔵歌舞伎」千秋楽のオンラインによる生(なま)配信が行なわれました。その時の特典映像・幕間インタビューで勸玄くんが、出演の「橋弁慶」(牛若丸:勸玄、弁慶:海老蔵)の注目ポイントを尋ねられて、ちょっとはにかみながら、「(五条橋で)弁慶と牛若丸が出合わないと(その後の話の)続きがないので(大事に演じたい)・・・」という趣旨のことを答えたのでホウと感心して聞きました。

「橋弁慶」(五条橋での弁慶と牛若丸の出合い)というのは、その後の、源平合戦の華々しい時代を経て、やがて平泉衣川の哀しい最後に至るまでの、弁慶が義経と苦楽を共にする長い物語りの発端のエピソードに過ぎないわけですが、実は、それで芝居が終わりなのではない。舞台にその後に連なる長い物語りの糸が見えていなければならないということです。「橋弁慶」は「義経記」の世界のなかのピース(断片)ですが、同時にピースのなかに「世界」が包含されているということです。これは伝統芸能の大事な考え方です。

別稿「熊谷陣屋の時代物の構造」のなかで、「平家物語」の世界との関連を書きました。巷の歌舞伎本を見ると「熊谷陣屋」は「主筋への忠義により我が子を身替わりに供した熊谷直実の悲劇」という解説がもっぱらですけれど、「世界」との関連を踏まえれば、正しくは「熊谷陣屋」とは、「日本一の豪の者と呼ばれたほどの熊谷が、平敦盛を討ったことでその後出家し蓮生法師となったのは如何なる経緯なのか」、その謎を解き明かすものです。源平合戦で命を散らした者たちを弔うと同時に、更にその後の、平泉衣川に散る義経の儚い運命、鎌倉幕府三代将軍で滅びる源氏本流の行く末までも遠く見据えています。「熊谷陣屋」とは、それら長い物語のピースであり、同時に「世界」をも包含しています。そのような諸行無常の物語を語り継ぐ者たちによって「平家物語」も「義経記」も作られたのであり、熊谷もまた、蓮生法師として、そのような語り継ぎ・弔う者たちのひとりに加えられたのです。そういうことが「熊谷陣屋」に見えなければなりません。幕切れで熊谷が自己本位に父親の悲しみに浸るだけでは、伝統芸能としては十分ではないと云うことですね。

正月興行に「橋弁慶」を出すにあたり、そのようなことを日頃海老蔵が勸玄くんにしっかり教えていることが分かって、大変結構なことだと思いました。

(R3・1・24)


〇令和2年12月京都南座:「傾城反魂香」〜吃又・その2

手水鉢を斬ったら発声障害が治ると云う発想は、芝居の突飛な趣向として「吃又」改作のなかに取り込まれたわけではないと思います。江戸の民衆が「発声障害は神経の伝達回路に何か問題があって起こるらしい」としたことは、これは当時なりの科学的思考と考えるべきです。そこにそれなりの理屈があるのです。師・将監が又平は未だ画において功績なしとした理由と、又平の発声障害とが重ねられています。又平は絵描きとしての技量は確かに備えていたでしょう。しかし、何らかの問題があって・又平は内にあるイメージを自由に表現することが叶わなかったのです。そこに又平の内なる問題があったのです。又平がすべてを捨てて虚心に筆を取った時、又平は画の極意の何かを掴んだということです。この時、画の石抜けの奇跡が起きます。

当時、浮世絵の始祖は岩佐又兵衛(実在の絵師、天正6年・1578〜慶安3年・1650)であると信じられていました。江戸の民衆は、又平=又兵衛の発想で、「吃又」の浮世又平のモデルが岩佐又兵衛であると考えたようです。又平は生活費を稼ぐために大津絵描きのアルバイトをしていました。旅人の土産物として売られていた民衆絵に過ぎなかった大津絵が、又平が土佐の苗字を戴いたことで「昇格」することになりました。「吃又」は、我ら庶民の絵師・又平の目出度い出世物語であるとされたのです。これは確かに近松門左衛門の丸本とは確かに趣きが多少異なるものかも知れません(六代目菊五郎が「吃又」の原作回帰を志向してシリアスに仕立てたのはそのような理由からです)が、「吃又」が特に上方を中心に人気作になるにつれて、次第に丸本を離れ、又平が滑稽化していく背景には、又平に対する大坂町人の強い共感・親しみがあるのです。現在の「吃又」は菊五郎型がもっぱらになっていますが、在来の上方型も、江戸期の庶民の真実を見せるものとして大事にしたいと思います。

 今回(令和2年12月京都南座)での鴈治郎は、又平の滑稽味をあざとくなく、過剰な味付けにせず、いい塩梅に見せてくれたのではないでしょうか。昔の「吃又」では、師匠への土産に持参したウナギが逃げたと云って・あちらこちらを探して慌ててみたり、いろいろ滑稽な入れ事がされたそうです。そういうのが昔の大坂では受けたわけです。しかし、今はそこまではねえ・・・東京人である六代目菊五郎がそういう大坂の笑いの・こってりしつこいところを嫌ったであろうことは吉之助にも理解ができます。吉之助が思うには、菊五郎型で演るならば又平はシリアスに徹した方が良いだろうと思います。なまじっか滑稽味を加えようとするとどうしても中途半端になってしまいます。菊五郎型はそこが難しい。

ですから「頑張れ、それ行け、又平」という大坂町人の気持ちを「吃又」に込めるならば、又平は自然と滑稽化してしまうことになるのでしょう。そうすると在来の上方型はやはり捨てがたい。鴈治郎の又平は、ニンを生かして、真面目ななかに・どこかとぼけた味があるというところを上手くみせてくれたと思います。扇雀のおとくも出過ぎず、鴈治郎の又平のサポートに徹して、情のある良い出来に仕上がりました。

(R3・1・18)


〇令和2年12月京都南座:「傾城反魂香」〜吃又・その1

本稿で紹介するのは、令和2年12月京都南座での映像で、NHK放送では後半22分(又平夫婦が自害を決意する場面以降)のダイジェストでしたが、近頃珍しい上方式の「吃又」であるので取り上げておきたいと思います。現在での「吃又」は原作(丸本)に回帰した六代目菊五郎の演出で行なわれることがほとんどで、吉之助が見た平成27年2月大阪松竹座での・四代目鴈治郎襲名での「吃又」も菊五郎型でありました。この時に「せっかく初代鴈治郎が得意にした「吃又」を襲名でやるならば滑稽味を強調した在来型でやってみたらどうかな」と書いた記憶があります。鴈治郎が従来型で「吃又」を演るのは今回(令和2年12月京都南座)が初めてでないかも知れませんが、吉之助は初めて見ました。襲名以降の鴈治郎は、だいぶ余裕が出てきたようで、その丸く福々しいお顔で独自の位置を主張できるようになって来て、いくつか印象深い役を挙げることが出来ます。今回も、ニンを生かしてなかなか面白い「吃又」に仕上がったと思います。

菊五郎型と在来型の一番大きい違いは、在来型では最後の場面で師・将監が刀で又平が自画像を描いた手水鉢を真っ二つに斬ると又平の発声障害が完治してしまうと云う点です。(近松の原作≒ほぼ菊五郎型であると、節が付いた台詞ならば吃らないということでめでたく大頭舞で舞い納めますが、発声障害が治るわけではありません。)将監が「石切梶原」みたいなことをするのには、独自の理屈があるようで、文楽床本を見るとこれは

「ホホウ疑はしくばいひ聞かさん。そのむかし都誓願寺の御仏は賢聞子(けんもんし)芥子国といひし人。親子名乗りのその印。片形作り合せし御仏なりしに、しかるにこの仏体、朝暮両眼より御涙しきりなりしに、時の名医これを考へ、五臓を作り込んだる仏体なれば、正しく肝の臓の損じならんと、二つに分けてこれを直せば、たちまち涙止りしこと、いまの世までも割符の弥陀とナ、コリャ隠れなし。この理をもって又平が魂込めしこの絵姿、絵は吃らねど吃るは舌。舌はもとより心の臓。その心の臓調はざるゆゑ口吃る。いま石面の又平を二つに切破るこの将監。絵師の手のうち、なか/\思ひよらねどもコレ、この刀は主人より給はる名作。その名作の奇特をもって心の臓を断切ったれば、吃ることはよもあらじ」(文楽床本)

と云うのです。つまり発声障害は神経の伝達回路に何か問題があるからだ、そこに衝撃を与えて神経の流れを正せば、発声障害が治るということでありましょうかね。(この稿つづく)

(R3・1・12)


〇令和2年12月歌舞伎座:「傾城反魂香」〜吃又・その2

勘九郎は、もしかしたら十七代目よりも十八代目よりも、真面目で一途なところが六代目菊五郎型の又平のニンに似合う気がするので大いに期待をして見ましたが、前半がずいぶんアッサリした印象で物足りないですねえ。師匠に「土佐の苗字を継ぎたい」と訴える場面・「斬らっしゃいませ」と師匠に迫る場面の、勘九郎の演技はそれなりに出来てはいますが、勘九郎の又平は、根クラな感じがあまりしません。サラッとした感触で、(明るいと云うほどではないが)暗い粘着質的な要素が足りません。まあそれが勘九郎のニンなのだろうが、そこはもう少し工夫をしてもらいたい。

又平夫婦は将監宅へ向かう道すがら百姓たちの噂話を聞いて弟弟子の修理之助が土佐の苗字を許されたことを知って衝撃を受けたに違いありません。当然花道からの登場は、沈痛で思い詰めた面持ちにならざるを得ないはずです。又平は発声障害さえなければ普通の好青年だというのでは性根違いで、これでは「弟弟子に苗字をくれたならば、兄弟子の俺にもくれても良いだろ」という駄々っ子の言い分にしかならない。そういう了見であるならば、将監でなくてもますます土佐の苗字をやるわけに行きません。

例え筆の実力があったとしても・イメージを素直に伸びやかに表現できないとか、これまでの又平の画に、何か問題があったに違いありません。画のなかでの自己表現がまだ自在の域に達していなかったのです。(又平の発声障害は何かしらそういうものを表徴するものと近松は考えているようです。)「才能があるのに俺は不当に扱われている」という日常的な憤懣とか、又平はどこかに粘着質的な鬱屈したものを内面に抱えています。ところが、前半の又平夫婦はそう云うことをみんな発声障害のせいにしているようですねえ。師匠に疎まれているのは、発声障害ゆえだと思い込んでいるようです。実は、これがいけないのです。これこそ又平の芸術家としての成長を阻んでいる真の原因です。またこれが「こいつ師匠を困らせおるわい」と将監を嘆息させるものであるのです。又平夫婦がすべてを捨てて、「これ生涯の名残の絵姿は苔に朽つるとも、名は石魂に止まれ」と虚心に筆を取った時、又平は画の極意の何かを掴む、この時望みは成就するというのが、「吃又」のドラマです。六代目菊五郎型の「吃又」は、そう云う解釈であると思います。(別稿「浮世又平の過剰性について」をご覧ください。)

画功を将監に認めてもらって苗字を戴いてからの、後半の勘九郎の又平は、持ち前の愛嬌が生きています。そう云うところでは、中村屋の「吃又」の幕切れらしくなったかなと思います。

猿之助のおとくは、今回は、勘九郎の又平に対して出過ぎず・下がり過ぎず、とても良い出来でした。猿之助の世話女房は、「女殺油地獄」のお吉もそうですが、こってりした味わいがあってなかなかのものです。この方面でも貴重な役者になりそうです。前回(平成31年3月歌舞伎座)は、「今生の望みはアーーーーッ切れたぞや」と産み字を長く引き伸ばしていましたが、今回は「今生の望みは・・・」で息を詰めて「切れたぞや」と一気に言い切っています。悲壮感が伝わる良い台詞まわしになりました。「なぜ吃りには生まれしゃんしたぞいなア」も良い感じです。これならば又平がすべてを捨てて・ただ一心に筆に思いを込めようと云う気持ちになるでしょう。奇蹟はここから起こるのです。

(R3・1・9)


〇令和2年12月歌舞伎座:「傾城反魂香」〜吃又・その1

勘九郎の浮世又平はこれが三回目だそうですが、調べて見ると、父の十八代目勘三郎はおとくを四回演じており・これは吉之助も舞台を見た記憶がありますが、祖父・十七代目はおとくを一回演じただけで、二人とも又平を演じていないのです。これはちょっと意外の感じがしますねえ。「吃又」は、「野崎村」や「合邦」などと並んで、晩年の六代目菊五郎の丸本歌舞伎再検討の重要な演目のひとつですから、中村屋にとっても大事な演目になっておかしくないからです。そう云えば、「合邦」の玉手御前も中村屋には縁が薄いですが、これも意外です。しかも、十七代目にしても十八代目にしても、又平を演ったならば・ニンからしても決して悪くない出来だったろうにと思います。どうして二人は又平を演じなかったのか。こういうことには巡り合わせということもありますし、たまたま機会がなかっただけのことかも知れません。想像したってそれが正しいかどうかは分からぬことです。しかし、芸達者な二人が、どうせ「吃又」に出るならば・それならばおとくの方が面白い・演じ甲斐があると考えたということは、もしかしたらあったのかなとも思います。

菊五郎型の又平は、しんどい役であるからです。六代目菊五郎は在来型の「吃又」から滑稽味を抜いて原作(丸本)に立ち返って、種々の理由で世間からなかなか評価されない芸術家の苦悩という近代的な側面で読み直しました。幕切れの舞いで多少発散は出来ますが、菊五郎型の又平は気が塞いで滅入る役というイメージです。一方、「吃又」は長く「名筆傾城鑑」など改作で上演されて上方を中心に人気作となったもので、又平は滑稽味を加えて演じられて来ました。又平を滑稽に仕立てるのには、立派な理由があります。江戸期の民衆は副業で大津絵を書いていた浮世又平が後の浮世絵の始祖であると信じていたからです。(注:ただし原作の近松が又平を浮世絵の始祖としたわけではありません。浮世絵の隆盛は、近松の世よりもずっと後のことです。)浮世又平は当時は素朴な民衆絵に過ぎないとされていた大津絵を芸術の領域にまで引き上げた我ら庶民のヒーロー、つまり「吃又」とは絵師又平の目出度い出世物語であるとされたのです。(別稿「岩佐又兵衛と吃又」をご覧ください。)ですから又平に滑稽味を加えるのは、原作の・気が滅入る又平という役に軽みを与えようという意図に違いないですが、その背景には又平に対する大坂町人の強い共感・親しみがあるわけなのです。だから舞台で又平がいろいろ滑稽な失敗をして見せても、大坂町人は「又平がまたアホやっとるわい」と笑ったわけではなく、その笑いは自然と好意的な暖かいものになります。それが出世物語の目出度さと重なって来るのです。

どちらかと云えば十七代目も十八代目も、どうせ演るならば・在来型の又平で演りたかったのではないかなという気がします。しかし、又平をやるとすれば芸脈の柵(しがらみ)からも菊五郎型で演らないわけに行かないところが悩むところです。ここに理知的(アポロン的)な六代目菊五郎の芸に憧れつつも、感性・熱狂に任せたディオニソス的な要素へと自然と傾斜してしまう中村屋の芸風を重ねて見れば、「吃又」がこれまで中村屋とは縁遠かった理由が何となく分かるような気がします。ただし以上は吉之助の推測ではありますがね。(この稿つづく)

(R3・1・5)


 

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