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吉之助の雑談39(令和3年1月〜6月)


語り継ぎ・弔う者たち

今月(1月)17日に新橋演舞場・「海老蔵歌舞伎」千秋楽のオンラインによる生(なま)配信が行なわれました。その時の特典映像・幕間インタビューで勸玄くんが、出演の「橋弁慶」(牛若丸:勸玄、弁慶:海老蔵)の注目ポイントを尋ねられて、ちょっとはにかみながら、「(五条橋で)弁慶と牛若丸が出合わないと(その後の話の)続きがないので(大事に演じたい)・・・」という趣旨のことを答えたのでホウと感心して聞きました。

「橋弁慶」(五条橋での弁慶と牛若丸の出合い)というのは、その後の、源平合戦の華々しい時代を経て、やがて平泉衣川の哀しい最後に至るまでの、弁慶が義経と苦楽を共にする長い物語りの発端のエピソードに過ぎないわけですが、実は、それで芝居が終わりなのではない。舞台にその後に連なる長い物語りの糸が見えていなければならないということです。「橋弁慶」は「義経記」の世界のなかのピース(断片)ですが、同時にピースのなかに「世界」が包含されているということです。これは伝統芸能の大事な考え方です。

別稿「熊谷陣屋の時代物の構造」のなかで、「平家物語」の世界との関連を書きました。巷の歌舞伎本を見ると「熊谷陣屋」は「主筋への忠義により我が子を身替わりに供した熊谷直実の悲劇」という解説がもっぱらですけれど、「世界」との関連を踏まえれば、正しくは「熊谷陣屋」とは、「日本一の豪の者と呼ばれたほどの熊谷が、平敦盛を討ったことでその後出家し蓮生法師となったのは如何なる経緯なのか」、その謎を解き明かすものです。源平合戦で命を散らした者たちを弔うと同時に、更にその後の、平泉衣川に散る義経の儚い運命、鎌倉幕府三代将軍で滅びる源氏本流の行く末までも遠く見据えています。「熊谷陣屋」とは、それら長い物語のピースであり、同時に「世界」をも包含しています。そのような諸行無常の物語を語り継ぐ者たちによって「平家物語」も「義経記」も作られたのであり、熊谷もまた、蓮生法師として、そのような語り継ぎ・弔う者たちのひとりに加えられたのです。そういうことが「熊谷陣屋」に見えなければなりません。幕切れで熊谷が自己本位に父親の悲しみに浸るだけでは、伝統芸能としては十分ではないと云うことですね。

正月興行に「橋弁慶」を出すにあたり、そのようなことを日頃海老蔵が勸玄くんにしっかり教えていることが分かって、大変結構なことだと思いました。

(R2・1・24)


〇令和2年12月京都南座:「傾城反魂香」〜吃又・その2

手水鉢を斬ったら発声障害が治ると云う発想は、芝居の突飛な趣向として「吃又」改作のなかに取り込まれたわけではないと思います。江戸の民衆が「発声障害は神経の伝達回路に何か問題があって起こるらしい」としたことは、これは当時なりの科学的思考と考えるべきです。そこにそれなりの理屈があるのです。師・将監が又平は未だ画において功績なしとした理由と、又平の発声障害とが重ねられています。又平は絵描きとしての技量は確かに備えていたでしょう。しかし、何らかの問題があって・又平は内にあるイメージを自由に表現することが叶わなかったのです。そこに又平の内なる問題があったのです。又平がすべてを捨てて虚心に筆を取った時、又平は画の極意の何かを掴んだということです。この時、画の石抜けの奇跡が起きます。

当時、浮世絵の始祖は岩佐又兵衛(実在の絵師、天正6年・1578〜慶安3年・1650)であると信じられていました。江戸の民衆は、又平=又兵衛の発想で、「吃又」の浮世又平のモデルが岩佐又兵衛であると考えたようです。又平は生活費を稼ぐために大津絵描きのアルバイトをしていました。旅人の土産物として売られていた民衆絵に過ぎなかった大津絵が、又平が土佐の苗字を戴いたことで「昇格」することになりました。「吃又」は、我ら庶民の絵師・又平の目出度い出世物語であるとされたのです。これは確かに近松門左衛門の丸本とは確かに趣きが多少異なるものかも知れません(六代目菊五郎が「吃又」の原作回帰を志向してシリアスに仕立てたのはそのような理由からです)が、「吃又」が特に上方を中心に人気作になるにつれて、次第に丸本を離れ、又平が滑稽化していく背景には、又平に対する大坂町人の強い共感・親しみがあるのです。現在の「吃又」は菊五郎型がもっぱらになっていますが、在来の上方型も、江戸期の庶民の真実を見せるものとして大事にしたいと思います。

 今回(令和2年12月京都南座)での鴈治郎は、又平の滑稽味をあざとくなく、過剰な味付けにせず、いい塩梅に見せてくれたのではないでしょうか。昔の「吃又」では、師匠への土産に持参したウナギが逃げたと云って・あちらこちらを探して慌ててみたり、いろいろ滑稽な入れ事がされたそうです。そういうのが昔の大坂では受けたわけです。しかし、今はそこまではねえ・・・東京人である六代目菊五郎がそういう大坂の笑いの・こってりしつこいところを嫌ったであろうことは吉之助にも理解ができます。吉之助が思うには、菊五郎型で演るならば又平はシリアスに徹した方が良いだろうと思います。なまじっか滑稽味を加えようとするとどうしても中途半端になってしまいます。菊五郎型はそこが難しい。

ですから「頑張れ、それ行け、又平」という大坂町人の気持ちを「吃又」に込めるならば、又平は自然と滑稽化してしまうことになるのでしょう。そうすると在来の上方型はやはり捨てがたい。鴈治郎の又平は、ニンを生かして、真面目ななかに・どこかとぼけた味があるというところを上手くみせてくれたと思います。扇雀のおとくも出過ぎず、鴈治郎の又平のサポートに徹して、情のある良い出来に仕上がりました。

(R2・1・18)


〇令和2年12月京都南座:「傾城反魂香」〜吃又・その1

本稿で紹介するのは、令和2年12月京都南座での映像で、NHK放送では後半22分(又平夫婦が自害を決意する場面以降)のダイジェストでしたが、近頃珍しい上方式の「吃又」であるので取り上げておきたいと思います。現在での「吃又」は原作(丸本)に回帰した六代目菊五郎の演出で行なわれることがほとんどで、吉之助が見た平成27年2月大阪松竹座での・四代目鴈治郎襲名での「吃又」も菊五郎型でありました。この時に「せっかく初代鴈治郎が得意にした「吃又」を襲名でやるならば滑稽味を強調した在来型でやってみたらどうかな」と書いた記憶があります。鴈治郎が従来型で「吃又」を演るのは今回(令和2年12月京都南座)が初めてでないかも知れませんが、吉之助は初めて見ました。襲名以降の鴈治郎は、だいぶ余裕が出てきたようで、その丸く福々しいお顔で独自の位置を主張できるようになって来て、いくつか印象深い役を挙げることが出来ます。今回も、ニンを生かしてなかなか面白い「吃又」に仕上がったと思います。

菊五郎型と在来型の一番大きい違いは、在来型では最後の場面で師・将監が刀で又平が自画像を描いた手水鉢を真っ二つに斬ると又平の発声障害が完治してしまうと云う点です。(近松の原作≒ほぼ菊五郎型であると、節が付いた台詞ならば吃らないということでめでたく大頭舞で舞い納めますが、発声障害が治るわけではありません。)将監が「石切梶原」みたいなことをするのには、独自の理屈があるようで、文楽床本を見るとこれは

「ホホウ疑はしくばいひ聞かさん。そのむかし都誓願寺の御仏は賢聞子(けんもんし)芥子国といひし人。親子名乗りのその印。片形作り合せし御仏なりしに、しかるにこの仏体、朝暮両眼より御涙しきりなりしに、時の名医これを考へ、五臓を作り込んだる仏体なれば、正しく肝の臓の損じならんと、二つに分けてこれを直せば、たちまち涙止りしこと、いまの世までも割符の弥陀とナ、コリャ隠れなし。この理をもって又平が魂込めしこの絵姿、絵は吃らねど吃るは舌。舌はもとより心の臓。その心の臓調はざるゆゑ口吃る。いま石面の又平を二つに切破るこの将監。絵師の手のうち、なか/\思ひよらねどもコレ、この刀は主人より給はる名作。その名作の奇特をもって心の臓を断切ったれば、吃ることはよもあらじ」(文楽床本)

と云うのです。つまり発声障害は神経の伝達回路に何か問題があるからだ、そこに衝撃を与えて神経の流れを正せば、発声障害が治るということでありましょうかね。(この稿つづく)

(R2・1・12)


〇令和2年12月歌舞伎座:「傾城反魂香」〜吃又・その2

勘九郎は、もしかしたら十七代目よりも十八代目よりも、真面目で一途なところが六代目菊五郎型の又平のニンに似合う気がするので大いに期待をして見ましたが、前半がずいぶんアッサリした印象で物足りないですねえ。師匠に「土佐の苗字を継ぎたい」と訴える場面・「斬らっしゃいませ」と師匠に迫る場面の、勘九郎の演技はそれなりに出来てはいますが、勘九郎の又平は、根クラな感じがあまりしません。サラッとした感触で、(明るいと云うほどではないが)暗い粘着質的な要素が足りません。まあそれが勘九郎のニンなのだろうが、そこはもう少し工夫をしてもらいたい。

又平夫婦は将監宅へ向かう道すがら百姓たちの噂話を聞いて弟弟子の修理之助が土佐の苗字を許されたことを知って衝撃を受けたに違いありません。当然花道からの登場は、沈痛で思い詰めた面持ちにならざるを得ないはずです。又平は発声障害さえなければ普通の好青年だというのでは性根違いで、これでは「弟弟子に苗字をくれたならば、兄弟子の俺にもくれても良いだろ」という駄々っ子の言い分にしかならない。そういう了見であるならば、将監でなくてもますます土佐の苗字をやるわけに行きません。

例え筆の実力があったとしても・イメージを素直に伸びやかに表現できないとか、これまでの又平の画に、何か問題があったに違いありません。画のなかでの自己表現がまだ自在の域に達していなかったのです。(又平の発声障害は何かしらそういうものを表徴するものと近松は考えているようです。)「才能があるのに俺は不当に扱われている」という日常的な憤懣とか、又平はどこかに粘着質的な鬱屈したものを内面に抱えています。ところが、前半の又平夫婦はそう云うことをみんな発声障害のせいにしているようですねえ。師匠に疎まれているのは、発声障害ゆえだと思い込んでいるようです。実は、これがいけないのです。これこそ又平の芸術家としての成長を阻んでいる真の原因です。またこれが「こいつ師匠を困らせおるわい」と将監を嘆息させるものであるのです。又平夫婦がすべてを捨てて、「これ生涯の名残の絵姿は苔に朽つるとも、名は石魂に止まれ」と虚心に筆を取った時、又平は画の極意の何かを掴む、この時望みは成就するというのが、「吃又」のドラマです。六代目菊五郎型の「吃又」は、そう云う解釈であると思います。(別稿「浮世又平の過剰性について」をご覧ください。)

画功を将監に認めてもらって苗字を戴いてからの、後半の勘九郎の又平は、持ち前の愛嬌が生きています。そう云うところでは、中村屋の「吃又」の幕切れらしくなったかなと思います。

猿之助のおとくは、今回は、勘九郎の又平に対して出過ぎず・下がり過ぎず、とても良い出来でした。猿之助の世話女房は、「女殺油地獄」のお吉もそうですが、こってりした味わいがあってなかなかのものです。この方面でも貴重な役者になりそうです。前回(平成31年3月歌舞伎座)は、「今生の望みはアーーーーッ切れたぞや」と産み字を長く引き伸ばしていましたが、今回は「今生の望みは・・・」で息を詰めて「切れたぞや」と一気に言い切っています。悲壮感が伝わる良い台詞まわしになりました。「なぜ吃りには生まれしゃんしたぞいなア」も良い感じです。これならば又平がすべてを捨てて・ただ一心に筆に思いを込めようと云う気持ちになるでしょう。奇蹟はここから起こるのです。

(R2・1・9)


〇令和2年12月歌舞伎座:「傾城反魂香」〜吃又・その1

勘九郎の浮世又平はこれが三回目だそうですが、調べて見ると、父の十八代目勘三郎はおとくを四回演じており・これは吉之助も舞台を見た記憶がありますが、祖父・十七代目はおとくを一回演じただけで、二人とも又平を演じていないのです。これはちょっと意外の感じがしますねえ。「吃又」は、「野崎村」や「合邦」などと並んで、晩年の六代目菊五郎の丸本歌舞伎再検討の重要な演目のひとつですから、中村屋にとっても大事な演目になっておかしくないからです。そう云えば、「合邦」の玉手御前も中村屋には縁が薄いですが、これも意外です。しかも、十七代目にしても十八代目にしても、又平を演ったならば・ニンからしても決して悪くない出来だったろうにと思います。どうして二人は又平を演じなかったのか。こういうことには巡り合わせということもありますし、たまたま機会がなかっただけのことかも知れません。想像したってそれが正しいかどうかは分からぬことです。しかし、芸達者な二人が、どうせ「吃又」に出るならば・それならばおとくの方が面白い・演じ甲斐があると考えたということは、もしかしたらあったのかなとも思います。

菊五郎型の又平は、しんどい役であるからです。六代目菊五郎は在来型の「吃又」から滑稽味を抜いて原作(丸本)に立ち返って、種々の理由で世間からなかなか評価されない芸術家の苦悩という近代的な側面で読み直しました。幕切れの舞いで多少発散は出来ますが、菊五郎型の又平は気が塞いで滅入る役というイメージです。一方、「吃又」は長く「名筆傾城鑑」など改作で上演されて上方を中心に人気作となったもので、又平は滑稽味を加えて演じられて来ました。又平を滑稽に仕立てるのには、立派な理由があります。江戸期の民衆は副業で大津絵を書いていた浮世又平が後の浮世絵の始祖であると信じていたからです。(注:ただし原作の近松が又平を浮世絵の始祖としたわけではありません。浮世絵の隆盛は、近松の世よりもずっと後のことです。)浮世又平は当時は素朴な民衆絵に過ぎないとされていた大津絵を芸術の領域にまで引き上げた我ら庶民のヒーロー、つまり「吃又」とは絵師又平の目出度い出世物語であるとされたのです。(別稿「岩佐又兵衛と吃又」をご覧ください。)ですから又平に滑稽味を加えるのは、原作の・気が滅入る又平という役に軽みを与えようという意図に違いないですが、その背景には又平に対する大坂町人の強い共感・親しみがあるわけなのです。だから舞台で又平がいろいろ滑稽な失敗をして見せても、大坂町人は「又平がまたアホやっとるわい」と笑ったわけではなく、その笑いは自然と好意的な暖かいものになります。それが出世物語の目出度さと重なって来るのです。

どちらかと云えば十七代目も十八代目も、どうせ演るならば・在来型の又平で演りたかったのではないかなという気がします。しかし、又平をやるとすれば芸脈の柵(しがらみ)からも菊五郎型で演らないわけに行かないところが悩むところです。ここに理知的(アポロン的)な六代目菊五郎の芸に憧れつつも、感性・熱狂に任せたディオニソス的な要素へと自然と傾斜してしまう中村屋の芸風を重ねて見れば、「吃又」がこれまで中村屋とは縁遠かった理由が何となく分かるような気がします。ただし以上は吉之助の推測ではありますがね。(この稿つづく)

(R2・1・5)


 

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