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真女形の獅子の精〜七代目梅幸の「鏡獅子」

昭和47年3月国立劇場:「春興鏡獅子」

七代目尾上梅幸(お小姓弥生、後に獅子の精)


本稿で紹介するのは、七代目梅幸・当時56歳の昭和47年(1972)3月国立劇場での「鏡獅子」の映像です。幸い吉之助は昭和55年11月歌舞伎座での、梅幸最後の「鏡獅子」を生(なま)で見ることが出来ました。昭和47年の映像では、体力的・技芸的にピークの梅幸の踊りが期待されます。

果たして期待通りの踊りを見せてくれました。特に前シテのお小姓弥生の踊りが、時の経つのを忘れるほどの愉しさです。養父・六代目菊五郎の「かつきりと折り目正しい」踊りの印象そのままに、これは真女形の強みですが、恐らく菊五郎よりふっくらとして柔らかく、そしてほんのり赤味を帯びた色気を感じさせます。梅幸のお小姓弥生の濃厚な味わいは、先行作である江戸期の女形舞踊としての獅子物である「枕獅子」或いは「英執着獅子」の味わいを想起させてくれます。この前シテだけで十分満足してしまう愉しさです。

「鏡獅子」は、明治26年に九代目団十郎が、長女実子(二代目翠扇)が「枕獅子」を稽古するのを見て、インスピーションを得て創作したものでした。「枕獅子」の前シテは 太夫(遊女)で、後シテは獅子の扮装をして優雅に踊るものです。ここから団十郎が考えたことは、可愛い女のお小姓に獅子の精の霊が憑依して勇壮な獅子に変わってしまうという筋に変えてみたらどうだろう、ずっと変化が出るし、立役の俺(団十郎)が踊るのにもピッタリじゃないかと云うことだったと思います。本来獅子の性に性別はありませんが、団十郎は獅子のなかの男性的なイメージを発想の取っ掛かりにしたのです。

つまり団十郎の「鏡獅子」では、可愛い女の子から男性的な獅子への変化の落差が強く意識されており、このため「獅子の精の霊が憑依して変身を誘う」という風に、強い論理性・連関性が仕組まれているのです。団十郎の「鏡獅子」はそういうものなのですが、しかし、ここでちょっと心に留めておきたいことは、歌舞伎の女形舞踊の獅子物の系譜ということを考えれば、団十郎の発想は獅子=ライオンの男性的なイメージが入り込んで、発想がちょっとイレギュラーだと云うことです。これは良くも悪くも明治以降の発想だと思われます。

伝統の女形舞踊の獅子の狂いには勇壮なイメージはなく、それは優雅でたおやかで、まことに頼りないものです。最近は「鏡獅子」に押されて滅多に上演がされませんが、「枕獅子」や「英執着獅子」の後シテを見れば 、このことがよく分かります。だから 昨今「鏡獅子」を以て女形舞踊としての獅子物のイメージを図られる風潮は、ちょっと困った事態だなと思うのです。おかげでブンブン勢いよく毛を振り回せばいいんだと云わんばかりの獅子の精が横行しています。立役が踊る「鏡獅子」であると、どうしても後シテの方に重点が掛ります。しかし、本来の女形舞踊としての獅子物ではむしろその逆で、前シテの方が大事ではなかったでしょうか。

そこで今回(昭和47年3月国立劇場)の梅幸の「鏡獅子」の後シテを見ると、獅子の精はホントにこれが梅幸さんなのかと驚くほどシャープな動きでよく頑張ってはいますが、立役が踊る後シテと比べると、やはりダイナミックな力感・勇壮さにおいて引けを取るのは、これは致し方がないことです。その代わり梅幸の獅子の精にはぼんじゃりとした可愛さがあって、これは立役が踊る勇壮な獅子からは決して感じないものです。そんなことから、ここでは団十郎が意図したところの、前シテと後シテとの連関性が必然的に弱くなって来る気がします。可愛いお小姓に獅子の精の霊が憑依して勇壮な獅子に変えられてしまうという論理が弱くなって来るのです。そこからいつもの立役が踊る「鏡獅子」とは一味違う様相が立ち上がります。

ところで先ほど前半の梅幸の前シテ・お小姓弥生の踊りについて、時の経つのを忘れる愉しさ・前シテを見ただけで十分満足してしまう愉しさと書きました。梅幸の「鏡獅子」を見て改めて気が付いたことは、「鏡獅子」で強調されている前シテと後シテの連関性・論理性というものは、実はさほど大事なことではないんだと云うことです。前シテと後シテの連関性が弱くなると、「鏡獅子」は本来の女形舞踊の獅子物の感触を呈し始めるのです。梅幸の「鏡獅子」を見ると、そのことがつくづく分かります。ここで吉之助は円地文子が六代目菊五郎の「娘道成寺」について書いた文章を思い出します。(なぜ「娘道成寺」なのか、その理由は後で分かります。)

『あの『道成寺』の舞台をつくり出した江戸時代の劇場と観客の雰囲気は、桜の花のいっぱい咲いた中にやたらに美しい娘姿を踊らせて恍惚としていたので、日高川を泳ぎ渡って、鐘の中の男を焼き殺してしまう女の凄まじい執念などはどうでも良かったのである。そういう理屈のない世界の馬鹿々々しい美しさ、気味の悪い美しさを菊五郎の白拍子はふんだんに持っていた。』(円地文子「京鹿子娘道成寺」)

梅幸が踊る昭和46年の「娘道成寺」の観劇随想は義父・六代目菊五郎との芸の関連で書いたものでした。まったく同じようなことを、今回の梅幸の「鏡獅子」を見ても感じるのです。可愛いお小姓の踊りがまことに面白く、謡曲「石橋」の世界ということは、どうでも良いことのように思われるのです。つまり何と云うかな、はっきり云えば、団十郎の発想の底の浅いところが、梅幸の踊りによって図らずも暴露されちゃったということなのだな。

女形舞踊の「道成寺」物と「獅子」物は、今ではまったく別系統に思われていますが、実は起源を同じくしたものです。初期の「道成寺」物、例えば初代菊之丞が踊った「百千鳥道成寺」には後シテで獅子の狂いを見せる趣向がありました。後に成立した「執着獅子」の詞章の大部分は、ここから取られました。それは「時しも今は牡丹の花の咲くや乱れて、散るわ散りくるわ。散りかかるようでいとしうて寝られぬ。花見て戻ろ花見て戻ろ」などの文句で、これはほぼ同じ詞章が「鏡獅子」にも引き継がれています。

或いは上の錦絵をご覧ください。これは初代富十郎が「道成寺」を踊った時のものです。桜の花が咲く光景に鐘が描かれていて・これが「道成寺」であることは明らかですが、しかし、富十郎が手に持っているのは牡丹の花で、扮装は何やら「執着獅子」の後シテの獅子の精を思わせ、実に優雅なのです。初期の「道成寺」物には、こんなものがあったのです。(別稿「獅子物舞踊のはじまり」を参照ください。)

初期の道成寺物では、清姫の身を焼かれる狂おしい恋心のイメージが、獅子の狂いのイメージに重ねられていたと云うことです。女形舞踊の獅子物は、謡曲「石橋」の枠組みを借りて、道成寺物の後シテの趣向が分派して生まれたものでした。だから前シテと後シテの連関性は、獅子物ではもともとそれほど強いものではなかったのです。恐らく道成寺物よりも連関性がさらに弱いと考えられます。梅幸の踊りは、自ら意図するでもなく、そのような女形舞踊の獅子物の本質に立ち戻ったように感じます。それは結局、梅幸が伝統に自然体で相対したところから、自然に手に入ったものなのですね。

(R1・5・17)



 

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