(TOP)         (戻る)

吉之助の雑談43(令和5年1月〜6月)


〇令和5年6月歌舞伎座:「義経千本桜・川連法眼館」

今回(令和5年6月歌舞伎座)の松緑の源九郎狐ですが、身体が大きいし・最初のうちは動きが重ったるい感じがしてアレッ?と思いましたが、目が慣れてくると子狐の可愛らしさもそれなりに出ていて、悪くない源九郎狐であったと思います。狐の正体を現わしてクドキに入ると、元々踊りが身に付いている人ですから、情感がこもってグッと良くなる感じです。松緑の源九郎狐の重ったるい印象は、どうやら前半の本物の忠信の重い時代の印象が尾を引いてしまった気がしますねえ。本物の忠信をもっと軽めの感触に仕立てれば、「四の切」全体の印象を軽やかにすることが出来たであろうに、そこが今後改善すべきところかと思います。

歌舞伎には不思議な思い込みがあるようで、本物の忠信と偽忠信(源九郎狐)をしっかり演じ分けるのが役者の為所だと考える風があるようです。そうすると差異を際立たせるために本物の忠信をかつきり時代に重めに演じようと云うことになるのでしょうね。しかし、吉野までの道中ずっと同道していた静御前でさえ「そう云えば小袖の模様が違うてある」としか差異を気付かぬほどそっくりであるのに、本物と偽物と二人の忠信を「演じ分け」ようなんて、歌舞伎は面妖なことを考えるものです。こんなのは二人共同じように演じれば、それで良いのではないでしょうか。むしろ本物の忠信で軽めの感触を心掛けることは、時代物の役どころで重ったるく癖が強い感じに成り勝ちな松緑にとっては大事なことですし、そこが改善できれば演技の幅も出てくるだろうと思いますが。

ともあれ宙乗り付きでサービス満点の澤瀉屋型を見慣れちゃっているせいで・音羽屋型は地味に見えるところがあるけれども、「義経千本桜」のなかでの「四の切」のサイズは、このくらいのこじんまりしたサイズが本来のものだと思います。そう云うところを松緑の源九郎狐は垣間見せたと思いますが、この印象を確たるものにするためにさらなる軽やかさの工夫が必要になるでしょう。

時蔵の義経はやることは決して悪くありませんが、「女形っぽいナヨナヨした義経に見えないように」と云うことを意識するせいか、語調が少し強めの感じがしますね。(よく云えば凛としていると云うことだが。)「もののあはれ」に感応する義経にはもう少し柔らかな印象が欲しい。女形っぽく見えてはいけないかも知れないが、柔らかな印象とのバランスを取ってもらいたいと思います。魁春の静御前もしっとり落ち着いた色合いが持ち味の人だから印象はどちらかと云うと重めになりますから、今回(令和5年6月歌舞伎座)の「四の切」に若干重めの印象が付きまとうのは、主役三人のバランスに拠るところもありそうです。

(R5・6・19)


〇令和5年6月歌舞伎座:「義経千本桜・木の実〜鮓屋」・その3

このように「鮓屋」を読んで行くと、時代物によく見られる「捧げ物の構図」(他者が名もない庶民の犠牲を「そは然り」と受け取って許しを与えるパターン)に、権太一家の悲劇がスンナリ当てはまらないことに気が付くと思います。維盛は他者として機能しません。他者の許しを与えるのは、頼朝の名代である梶原景時です。権太一家の悲劇は、父・弥左衛門に平家の恩義があることで「平家物語」の世界とかろうじてつながってるだけなのです。「平家物語」の世界にしっかり関連付けて、「鮓屋」に「千本桜」三段目切の格(正しい位置付け)を与えることは、権太には出来ません。それが出来るのは維盛だけです。

維盛は、武家の頭領としての資質にまったく欠けた人物でした。それをするには神経が繊細過ぎて、余りにも心が綺麗に過ぎました。そんな維盛には、平家の御曹司として生きること自体が過酷に過ぎました。だからこれまでの維盛の人生は、自己を偽った「騙り」の人生でした。「鮓屋」でも、維盛は自らを騙って弥助として生きています(或いは生かされています)。もうこれ以上偽りの人生を続けることは出来ないと維盛に気付かせてくれたのが、権太の死でした。権太は自らの騙りの人生を悔いて死に、維盛は自らの騙りの人生を自覚して髻を切る。こうして「鮓屋」は「平家物語」の世界へ納まります。だから権太と維盛は、内なる世界(世話)と外なる世界(時代)とでパラレルな関係に置くことができると思います

ところが歌舞伎の維盛には、権太一家の犠牲を受け取って「ごっつあん」するのが維盛だ(つまり維盛が他者だ)と云う根本的な思い込みがあるようですねえ。これは丸本にない入れ事なのですが、弥左衛門にまずまず・・と言われると竹本が「たちまち変わる御装ひ」で弥助が維盛卿へと性根をガラリと切り替えて見せる、そこが役者の芸の見せ所だなんてされるものだから、面妖なことになります。今回(令和5年6月歌舞伎座)の錦之助の維盛そこを几帳面にやっていますが、途端に無表情にして動きを人形っぽく時代に変えたりするのは、これを大真面目にやればやるほど白々しく感じられる。これでは維盛の人物が薄っぺらに見えてしまいます。こんなところは落差をあまり付けずにサラリと流せばそれで宜しいのです。

しかし、錦之助の維盛は、総体では柔らか味もあって悪くない出来であったことは付け加えておきます。お里が寝入る前後に・じっと物思いに沈むところは、憂いが決まってよく出来ました。維盛役者にとってのホントの為所は、この場面です。維盛は「もののあはれ」に強く感応する人物なのです。もうひとつ、幕切れの維盛が下手戸外で一人立つようにしたのは、(これは仁左衛門型のコンセプトだと思いますが)良い終わり方でしたね。権太の死を峻厳に受け止めて維盛は独り高野へ向けて旅立つ(つまり「平家物語」の世界へ帰る)、これならば「鮓屋」はしっかり「千本桜」の三段目の幕切れになると思います。

歌六の弥左衛門は、頑固親父に仕立てるのが本来でしょうが、仁左衛門の愛嬌がある権太には、情味のある歌六の弥左衛門がよく似合いますね。壱太郎のお里もパッと華やかさのある町娘で「鮓屋」のドラマに適度なアクセントを付けて好演です。

(R5・6・17)


〇令和5年6月歌舞伎座:「義経千本桜・木の実〜鮓屋」・その2

「鮓屋」とは、「トンでもないドラ息子が・最後の最後に・たったひとつだけ良いことをして・親に褒められて死んでいった」と云う、それだけのドラマだという認識は、とても大事なことです。この時、父・弥左衛門の「エヽ聞こえぬぞよ権太郎。孫めに縄を掛ける時、血を吐く程の悲しさを、常に持つてはなぜくれぬか」という言葉が観客の心に深く突き刺さります。観客が権太のために泣くのは、権太一家が感じていた絶対的な孤独・深い哀しみが、そこに察せられるからです。これは「平家物語の世界」とか「義経記の世界」なんて予備知識をまったく知らなくたって、純粋に察せられることです。そんなものを知らなくたって、権太一家の悲劇は成立するのです。「出かした権太郎、よくやった」と父・弥左衛門が褒めて許してくれることを、権太一家は何かしなければなりませんでした。「鮓屋」では、たまたまそれが主筋・維盛一家を助けることであったのです。

ですから「鮓屋」に於いては、平家物語の世界・義経記の世界などという時代浄瑠璃の構造から無関係にしても、それだけで権太一家の悲劇は立つと云うことです。三代目菊五郎が創始した音羽屋型の権太は、今回の仁左衛門型のベースにあるものですが、「鮓屋」のドラマの本質を正確に見抜いています。あの時ホンのちょっとタイミングがずれて・もう少し早く弥左衛門が身替りの真相を知っていれば、ホントは権太は死ぬことはなかったのに・・ああカワイソウに・・というのが、観客が「鮓屋」を見て泣くホントの理由です。もちろん「鮓屋」は「義経千本桜」のなかの一幕ですから、最終的にはその枠組みのなかに取り込まれねばなりませんが、それより以前に、観客に権太一家の悲劇が実感されなければ、時代物の構図が正しく機能することはありません。

ですから権太の死が無駄死だとかいう前に、しっかり味わなければばならぬドラマが「鮓屋」にはあると云うことです。それがしっかり味わえていれば、無駄死だなんて考えは思い浮かばないのです。「歌舞伎素人講釈」でも、権太はどの時点で改心したのかなんて理屈を並べていますがね。もちろんそれは「鮓屋」を「千本桜」の構造に取り込むために大事なことですし、演じる側(役者)もそれなりの理屈を持たねばなりませんが、細かいところは実はどうでも良いのです。と言ったら語弊があるかも知れないが、権太の性根の裏打ちになる大まかな見通しが立つのならば、それで良いわけです。もう一度書きますが、「トンでもないドラ息子が・最後の最後に・たったひとつだけ良いことをして・親に褒められて死んでいった」と云う・このことさえ押さえられていれば、「鮓屋」の悲劇は立つのです。特に見取り狂言として「鮓屋」を上演する場合に、このことは大事なことです。このことを正しく見抜いた三代目菊五郎の感覚(センス)に、改めて感服しますね。このことは、同じく三代目菊五郎が創始した「六段目」の音羽屋型でも分かります。あの時ホンのちょっとタイミングがずれて・勘平が腹切る前に父・与市兵衛を殺したのでないことが判明していれば、ホントは勘平は死ぬことはなかったのに・・ああカワイソウに・・というのが、観客が勘平の死を見て泣くホントの理由です。この感動から「忠臣蔵」の悲劇の考察が出発します。

今回(令和5年6月歌舞伎座)の仁左衛門型のいがみの権太は、仁左衛門は愛嬌もある権太で、音羽屋型の江戸前の権太の線であるけれども、これも仁左衛門の柄によく似合っていたと思います。体調を考慮して段取りを変えたところもあったけれども、元気な権太を見せてくれて嬉しいことでした。(この稿つづく)

(R5・6・14)


〇令和5年6月歌舞伎座:「義経千本桜・木の実〜鮓屋」・その1

今月(令和5年6月)歌舞伎座の「鮓屋」は、東京では平成25年(2013)10月歌舞伎座以来の仁左衛門のいがみの権太です。普段から仁左衛門は観客に芝居を分かりやすく見せることに心を砕き、独自の工夫を加える努力を絶えず怠らないのは素晴らしいことです。なかでも「木の実〜鮓屋」は、そのような仁左衛門の行き方の成功例のひとつです。仁左衛門型のいがみの権太は、上方風味を加えたものとは云え・純然たる上方型ではなく、江戸の音羽屋型の粋な要素をベースにした折衷型と云うべきでしょうが、これがまた仁左衛門の柄によく似合っています。根っからの「いがみ」ではなく・どこか愛嬌を含んだ憎めないワル、だからモドリになった(善心に立ち返った)告白に観客が素直に感情移入できる、そう云う権太であると思います。

まあそうすると原作が持つ「木の実」での小金吾に対する権太の強請りの手強さ、「鮓屋」後半で父・弥左衛門が息子・権太を刺す激しい怒り(それは憎しみさえ含む激しいもの。それくらいでないと弥左衛門はとても息子を殺せないのです)と云うところからすると、権太のデッサンに多少の齟齬が生じるということはあると思います。しかし、それは仁左衛門型だけのことではなくて、そのベースになっている音羽屋型自体が持つ問題であろうと思います。仁左衛門型はそこを、例えば梶原一行が内侍と六代君(実は権太の妻子)を連れて去った後、権太が身替りの真相を明かそうと「親父っさん、親父っさん・・」と言い掛かるのを瞬間的にカッとなった弥左衛門が聞く暇もなく息子を刺す、つまりホンのちょっとタイミングがずれていれば悲劇は起こらなかった、それならば弥左衛門は話を聞き安堵して・息子を刺すことはなかったはずだと云えそうな段取りを工夫しています。こうすることで愛嬌を含んだ憎めない「いがみ」の権太の造形が効いて来ます。観客が「ああカワイソウに、ホントは権太は死ぬことはなかったのに・・」と感情移入して権太のために無理なく泣くための段取りを用意するのです。この辺は、もしかしたら音羽屋型より段取りが上手いかも知れませんねえ。前後しますが、首実検の場面で梶原に内侍と六代君の顔を見せよと要求される場面で、権太が松明の煙のせいで涙が出てかなわないという振りを見せるのも、音羽屋型にない上手い工夫です。「木の実」幕切れの権太一家の花道の引っ込みでほのぼのとした家族愛を見せたことが、ここでしっかり効いて来ます。結果として仁左衛門型の「鮓屋」は権太一家の悲劇を観客に正しい姿でスッキリ見せることに成功しました。

原作を検討すると、権太は妻子を身替わりにしておいて・鮓屋の総領息子として自分だけがその後を安穏に暮らすなんてことは決して出来ないはずですから、権太は自ら望んで父親に殺されに行ったも同然(それが権太ならではの自己決着の付け方なのです)と云うのが本来のところだと思います。しかし、「鮓屋」を見て観客が「ああカワイソウに、ホントは権太は死ぬことはなかったのに・・」と感じることは決して間違いではありません。むしろ権太一家の悲劇の理解の筋道として、それが正しい感じ取り方だと言うべきです。結局、「鮓屋」とは、トンでもないドラ息子が・最後の最後に・たったひとつだけ良いことをして・親に褒められて死んでいったと云う、それだけのドラマなのです。これが見取り狂言としての「鮓屋」の正しい理解であり、「義経千本桜」の理解はそこから始まると言わねばなりません。今回(令和5年6月歌舞伎座)の「木の実〜鮓屋」上演では、仁左衛門(権太)・吉弥(小仙)の夫婦が「権太一家の悲劇」をしっかり描き出しています。(この稿つづく)

(R5・6・11)


〇令和5年5月日本橋劇場:若獅子会公演・「国定忠治」・その3

新国劇の創始者・沢田正二郎は、最初は坪内逍遥が責任者であった文芸協会の第2期研究生として入所。大正元年(1912)文芸協会第3回公演で初舞台を踏みました。その後、紆余曲折あって大正6年(1919)に沢田が劇団を立ち上げた時に、逍遥が沢田に与えた名前が「新国劇」であったそうです。読めば分かる通り、旧国劇(歌舞伎)と一線を画する「新しい時代の演劇」を目指す」という理想を掲げたものです。歌舞伎を旧と見なす考え方は同時代の演劇運動に共通したもので、「新派」も旧派(歌舞伎)に対する「新」派、「新劇」も旧劇(歌舞伎)に対する「新」劇でありました。

しかし、土壌(素地)のないところから新しいものが生まれるはずがないわけで、新派も新国劇も新劇も、理念的には歌舞伎を拒否したところから発していますが、彼らのもっと深いところから発する・感性的な要素ではやはり歌舞伎から多くのものを得ているのです。彼らがそこから逃れることは決して出来ないのです。そうするとこれは皮肉なことなのですが、だんだん感触が或る様式味を帯びるようになって来ます。どことなく歌舞伎っぽくなっていくのです。誤解がないように付け加えますが、これは彼らが理念的に歌舞伎に「負けた」と云うことではなく、「日本人による・日本人のための演劇」であるからには、成熟し古典化していく流れのなかで・これが避けられない「道程」だったのでしょうねえ。新国劇の「国定忠治」赤城天神山の場を見ると、そのことを強く感じますね。

「赤城の山も今夜を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分のてめえ達と別れ別れになる首途(かどで)だ。」

行友季風の脚本は、もしかしたら台詞が七五に陥らないように注意深く書いているのかも知れません。巷間誤って流布していますが、「赤城の山も今宵限り」ではありません。正しくは「赤城の山も今夜を限り」です。この違いは結構大事なことなのです。ところが、「国定忠治」が人気作になるに連れて、台詞がだんだん「型」化して・何となくツラネっぽい感触を帯びてきます。昭和末期(昭和55年・1980)の辰巳柳太郎が演じる国定忠治のこの場の映像をちょっと見ましたが、台詞を聴くと、重いなあ・ちょっと重過ぎるなあ・・と感じました。すっかり伝統芸能の雰囲気になっちゃってますねえ。まあ吉之助の記憶では同じ時代の歌舞伎もちょっと重ったるかったのですが、同じような印象がします。基本リズムは二拍子なのだけれど、間合いの取り方で無意識に七と五に近い息に揃えようとするところが見えるようです。(これは現行の歌舞伎役者も新歌舞伎の台詞などに同様の傾向が見られますから、他人事ではありません。)そこに新国劇末期の状況が窺える気がしましたが、本来ここで考えるべき課題は、二拍子のリズムを基調にして・どこまで写実(リアル)の息に近づけるかと云うことだろうと思います。今回(令和5年5月日本橋劇場)公演での笠原章が演じる国定忠治は、この台詞を過度に重ったるくせず・様式とのバランスを取ってなかなか良い出来ではなかったでしょうか。

玉三郎の「日本橋」や「ふるあめりかに袖は濡らさじ」など見ると、新派や新劇の或る種の作品、江戸期や明治初期を背景とする作品群は、いずれ歌舞伎が引き受けなければ上演が出来ない時代が来ると云うことをついつい考えてしまいます。吉之助が今回「国定忠治」を見る気になったのも実はそう云うことで、歌舞伎で新国劇の演目をやらねばならぬ時代は来るかと云うことを考えるためでもありました。この場で結論を出すつもりはないけれども、歌舞伎が守っていかないと残っていきそうにない演劇遺産が膨大にあると云うことを、歌舞伎役者は認識してもらいたいと思いますね。忙しくてそれどころじゃないと言うかも知れませんけど、将来的に歌舞伎に期待される文化的役割は、実は相当大きいものがあると思います。

(R5・6・7)


〇令和5年5月日本橋劇場:若獅子会公演・「国定忠治」・その2

ところが新国劇の「国定忠治」赤城天神山の場を見ると、舞台の上にあるのは義理と人情の丁々発止のドラマで、全然センチメンタルな芝居ではないのですね。「赤城の山も今夜を限り・・」という忠治の名台詞は、精一杯男を張ったところを見せる場面です。それなのに、この場を歌にすると(成立年代の違いはここでは無視します)、「男心に男が惚れて・・」と云うセンチメンタルに胸がキュンと来る旋律になってしまうところが、吉之助にはとても興味深く思われます。

大衆は「国定忠治」のドラマをこのようにセンチメンタルに「オトコってのはツレえ生き物なんだよなあ」という風に受け止めたのです。舞台上に見えるのは、意地と虚勢を張った男のドラマです。弱気になりそうな場面ほど「俺はオトコだ」と虚勢へ走り、最後はチャンバラになる。舞台が描くものと観客が心情的に受け止めたものは、確かに深層水脈で繋がっているのですが、見掛け上かなりのギャプ(乖離)を呈するのです。これが戦乱の時代に突入していく20世紀前半の大衆心理(国のために戦場に赴かねばならなかった男たちのセツない気持ち)と当時の世間の新国劇人気との関係なのでしょうねえ。多分新国劇はその時代との関連があまりにも強いのです。しかし、時代が変わると、心情に共感することが難しくなって来ます。そうするとこれがアナクロニズム(時代錯誤)に映りかねない。ここに現代に於ける新国劇の立ち位置の難しさがありそうです。

まあこういう状況は歌舞伎でも(例えば身替り物や仇討ち物などでは)多かれ少なかれ起こりそうなことです。しかし、歌舞伎の場合は時代(江戸)が現代から程よく離れており「古典」(歴史的遺産)だと思って見てもらえているから助かっていると云うことです。新国劇や新派は、なまじっか時代が近いせいか却って立ち位置が難しそうです。(近年は新劇もそんな感じになりつつあるようです。)ところで映画評論家の佐藤忠男氏がこんなことを書いていますね。

『大衆芸能とは、決して単なる娯楽や暇つぶしではなかったのである。それは弱者が、ある道徳思想を面白い物語に結晶させて広く一般に流布させ、その物語の持つ道徳的規制力によって強者の勝手気ままな行動もあるていどコントロールするという、一種の思想的な戦いの場でもあったのである。(中略)歌謡曲をひとつ取ってみても、やくざ映画をひとつのぞいて見ても、日本の大衆芸能の重要な特色のひとつがメランコリーにあることはすぐわかるが、それは日本人が国民性としてメランコリックだからだろうか?おそらくそうではなく、日本の大衆芸能が(思想的な戦いの場だという)重い役割を伝統的に担ってきたからではなかろうか。(中略)その戦いの唯一の武器は、極力多数の人々にそれに耳を傾けさせるだけの面白さなのである。面白いという以上にはなんの強制力もない芸によって、強者もそれに束縛されないわけにはいかないような、道徳的なイメージを流布させること。大衆芸能の基本的な機能の、少なくともひとつはそれである。』(佐藤忠男:「長谷川伸論」〜芸能と情操における階級闘争、岩波現代文庫、論旨を明確にするために若干文章をアレンジしました。)

「大衆芸能とは一種の思想的な戦いの場でもあった」という佐藤氏の指摘はしっかり胸に納めておきたいと思います。大衆芸能は声高に思想を叫ぶことはしなかったけれど、「オトコってのはツレえ生き物なんだよなあ」というポーズで、さりげなくそれを示したと云うことなのです。(この稿つづく)

(R5・6・3)


〇令和5年5月日本橋劇場:若獅子会公演・「国定忠治」・その1

本稿は、日本橋劇場で行われた劇団新国劇の流れを汲む若獅子会・結成35周年記念公演・「国定忠治」の観劇随想です。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代には、劇団新国劇はまだ存続していましたが、当時の吉之助が見たのは歌舞伎ばかりで、残念ながら新国劇を見ずに終わりました。昭和62年(1987)に新国劇は解散し、その後残った中堅メンバーが集まって劇団若獅子を結成しました。現在は若獅子会として笠原章が新国劇の流れを継承しています。今回久しぶりに「国定忠治」がほぼ通しの形で上演されるとのことで、吉之助もこの機会を逃すと「国定忠治」を見ないまま終わりそうな気がしたので、今回の若獅子会の公演を見たというわけです。

ご存じの通り、「国定忠治」は「赤城の山も今夜を限り・・」の名台詞が人気を博した新国劇の代表的な演目のひとつで、この場面は或る種伝統芸みたいな「型もの」の雰囲気を残しています。日本民衆の精神史を考える材料としても、「国定忠治」は大事な演目のひとつです。行友季風脚本による「国定忠治」の初演は大正8年(1919)8月・京都新京極・明治座でのことで、この時主役の国定忠治を演じたのは沢田正二郎でした。迫力ある剣劇・いわゆるチャンバラが、大衆に熱狂的に受けたそうです。

ところで話がちょっと横道に逸れますが、昭和14年(1939)の東海林太郎のヒット歌謡曲に「名月赤城山」(作詞:矢島寵児、作曲:菊池博)と云う歌があるのをご存知だと思います。(東海林太郎の歌唱はこちら。)作品の成立経緯はよく分かりませんが、「赤城の山も今夜を限り・・」のセリフ入りのバージョンもあって、新国劇の「国定忠治」・赤城天神山の場からインスピレーションを間接的に受けたものであることは確かなようです。冒頭の歌詞は「男心に男が惚れて・・」と云うのですが、この最初のフレーズで一番大事な音符は何処でしょうか?東海林太郎の歌唱は、「唱歌調」とでも申しましょうか、当時の歌謡曲らしい折り目正しい歌唱でもちろんこれはこれで立派なものですが、もし吉之助が演歌としてこの曲を歌うならば、この音符が大事だなと思う箇所があります。

それは冒頭の「おとこごころ」の第2音、「オコ」で音がキュンと上がる、そこに胸にツンと何かが突き刺さる感覚が表現されなければならぬ、これが多分作曲者(菊池博)の核心であると思います。東海林太郎の歌唱ではそこがあまり強調されないまま平坦に流れている不満を若干覚えますねえ。有名曲なのでYoutubeで他の歌手の歌唱に当たってみると、大抵の歌手はオリジナルの東海林太郎に影響されてそこが十分表現出来ていません。しかし、ひとりだけ吉之助の考え通り見事に歌ってみせた歌手がいます。それが五木ひろしです。(Youtubeでお聞きください。こちら。)第2音はもちろん大事ですが、2音目で跳躍するため第1音で腹にグッと力を込めている、さすがの歌唱です。二字目起こしの基本通りですよ。

普通に考えると冒頭「オトコ」と出る場合、力強い音型を当てそうなものです。ところが作曲者はそこで「オコ」とキュンと上げます。何だか心がツンと締め付けられる感じがしないでしょうか。「オトコはツレえなあ」という感じです。ホントはこの音型は「オナ」の方が似合うくらいのものです。(「オンナ」で歌ってみてください。)そう云う女々しい音型を冒頭の「おとこごころ」にわざと当てている、この発想は並みのものではないと思いますねえ。つまりこの曲は、歌詞では男とか・意地とか・度胸とか云う文句が出て来るけれど、内面は女々しいくらいにセンチメンタルだと云うことなのです。このことは曲を聞けば分かることで、何だかしみじみした寂しさ・哀しさが全体に漂っています。そこに「名月赤城山」がヒットした隠れた要因があるわけです。(同じく忠治ものと云うべき「赤城の子守唄」も同様です。)大正〜昭和前期の大衆の心を捉えた新国劇・「国定忠治」人気の秘密を、そんなところから考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(R5・6・1)


〇令和5年5月歌舞伎座:「寿曽我対面」

令和5年5月歌舞伎座の「対面」についてメモ風に記すことにします。「対面」は元禄歌舞伎の雰囲気を伝える貴重な演目ですが、物語性が乏しい儀式的演目だと思われている節があり・それはそれでひとつの見方ではありますが、「対面」は来る5月(旧暦)の富士の裾野での仇討ちへ向けて「物語の結末」を見通すものでなければならないのです。「対面」は仇討ちの相手を目前にして一旦思いどまって帰る(つまり仇討ちのやり直し)のではありません。完全に相手を照準(ターゲット)に収めた、この次は「必ず討つ」・この次は決して逃すことはない(相手の側から見ればこの次は「見事に討たれる」)と云う結末を見通したドラマなのです。だから予祝性がそこにあるわけです。だから「対面」が目出度い初春狂言になるのです。これこそ「対面」という芝居が持つ物語性なのではありませんか。ところが近年の歌舞伎の「対面」は儀式性を重視するあまり、物語性が忘れられることが多くなって、芝居がますます形骸化する傾向にあります。もう一度「対面」の物語性を思い出して欲しいと思います。

梅玉の工藤は見た目では控え目な印象がしますが、梅玉の工藤の良いところは、この次は「見事に討たれてみせる」という覚悟・懐の大きさを確かに押さえていることです。これが工藤の大きさに通じ、「物語の結末」(富士での討たれ)が見える良い工藤に仕上がりました。さすがベテランの芸と云うべきです。良いと云えば、巳之助の朝比奈は形式的な動きのなかに感じる明るい滑稽味が予祝性にも通じて、これも良い出来でありました。

曽我十郎(右近)・五郎(松也)の兄弟は、いい容姿を持っているのだから、もっと若さで暴れて欲しいと思いますね。松也の五郎は身体が絞れていないようで、動きにキレが乏しい印象がします。「今日は如何なる吉日にて」でグッと腰を落とす(と云うか「腰を入れる」)のは、膝を直角に曲げるくらいに腰を落とさねばなりません。これはスクワットみたいなもので・この形を取るのは苦しいけれど、それでないと詰め寄りが力がみなぎった荒事に見えないのです。右近の十郎は優美ですが、絵面に収まってしまってあまり強い印象に残りません。

五郎が左手を前に差出し・右手を構えて・相手につかみかかる形を取りますが、これは狙いを定めて力一杯弓を引いて・弓身が最大にしなった状態のまま動きを止めた形です。この形は絵面的に静止して見えますが、実はこれが最大に力がみなぎった動的な状態です。兄は弟を抑える役回りですが、今にも暴れ出しかねない弟を抑える為には、兄も全身に力を込めて弟を押し返さないとどうにもならないはずです。(まあそういう感じに出来ている兄弟を滅多に見ませんが、まあ「心持ち」とすればそうあらねばならないと云うことですね。)兄弟は、「対面」の舞台に動的な切り込みを入れて、物語性・ドラマ性を吹き込む役です。兄弟の角々の決まりはそのような動的なうねりを示すもので、それらが連なって幕切れの全員の絵面の決まりから「物語の結末」に向けて最高に動的なシーンが浮かび上がるのですから、そこにドラマを感じさせて欲しいと思いますね。

(R5・5・30)


〇令和5年5月歌舞伎座:「髪結新三」・その6

今回(令和5年5月歌舞伎座)の菊之助の新三は「永代橋」の出来が良いと書きました。声が低調子にセットされているから芝居の据わりも良いし、台詞に勢い(テンポ)があるのも悪くありません。忠七を足蹴にして「これよく聞けよ・・」で始まる新三の長台詞も七五のリズムがきっちり取れていて、なかなか筋目が良い。

だからそれだけを取ってみれば、技巧面では文句をつけようがない出来なのですが、菊之助には更なる高みを目指してもらいたいので・敢えて不満を記すならば、教科書的に正しくワルしちゃっているように見えるところが、菊之助への不満になって来るでしょうね。つまり新三が本質的なワルに成り切れていないと云うことなのです。これは菊之助の真面目な芸風から来るものでしょう。「結局それは仁(ニン)の問題なんだよ」と言う人が出て来そうです。しかし、仁の話が出れば議論はそれで終わりです。だから吉之助は別のことを申し上げたいですね。「人物の肚をざっくりと大掴みに捉える」ことが出来れば、それは十分解決できると云うことです。人の良さそうなお兄ちゃんが実は相当なワルで、突然切れると不良のアンちゃんに豹変すると云う「二面性」をきっちり描き分けようとするから、新三の肚が薄っぺらに見えて来るのです。それはいわばコインの裏表みたいなものなのですから、これを「混然一体」のものと捉えれば良いのです。「一体であるけれど乖離している」のです。そのような状態を新三でどう表現するか、菊之助にはそのことを考えてもらいたいのです。

例えば「永代橋」での新三の長台詞での菊之助は、七五のリズムを基調に取って「相合傘の五分と五分」・「覚えはねえと白張りの」を時代に張るところもキチンと出来ています。筋目が正しい七五調です。初役の段階であればこれで十分過ぎるくらいの出来であるし・それが出来なければ次の段階がないわけだが、「キチンと時代に張った」感じであると、まだ新三が「正しくワルした」印象に留まるわけなのです。だから、どこかで七五調の様式の破綻を来たさねばなりません。「芝居がクサくなる」と思って一瞬躊躇するかもしれませんが、それくらいに「クサく」、世話と時代の緩急を思い切り付ける。そこまで行かないと、菊之助の「正しくワルした」印象は払拭されないでしょう。或る意味でそれは理知的な音羽屋の芸を乗り越えることでもあると思いますが、挑戦してみる価値はあると思いますね。

菊之助は義太夫狂言については岳父・二代目吉右衛門の当たり役に挑戦して・それなりの成果を挙げていますが、別稿「菊之助初役の盛綱」で指摘した通り、それは音羽屋の芸にはなくて・播磨屋の芸のなかにある、ストイックな形で出てくる・或る種の「クサさ」を吸収することであろうと思います。だから播磨屋系の義太夫狂言であろうと、音羽屋系の生世話物であろうと、これからの菊之助が役者として取り組む課題は同じだと云うことになると思います。そう考えれば事はシンプルだと思いますね。

(R5・5・26)


〇令和5年5月歌舞伎座:「髪結新三」・その5

一見すると人の良さそうなお兄ちゃんが実は相当なワルで、突然切れると不良のアンちゃんに豹変すると云う「二面性」は、もしかしたら現代的な人間理解かも知れませんが、今回(令和5年5月歌舞伎座)再演の菊之助の新三がわずかに声色を変えて・仕分けたところを見ると、そこに「「髪結新三」をもっと分かりやすい芝居にしたい」という菊之助の気持ちを強く感じる気がしますね。今回(令和5年5月歌舞伎座)の舞台での、序幕「白木屋店先」での新三の花道登場の復活も恐らくは同様のことで、芝居冒頭数分に作者黙阿弥の弟子なる人物が登場して作品背景を観客に説明するコーナーを作ったのも、多分そう云う気持ちなのです。どれも「お客様にこの芝居をより深く愉しんでいただきたい」と思う菊之助の気持ちから来たものだろうと思います。

まあこれらの工夫については賛否両論があることと思います。しかし、吉之助が思うには、「二面性」の差異を強調することよりも、「登場人物の描線を太く一貫性を以て捉える」ことの方が、芝居ではずっと大事なことだと思います。舞台の上の登場人物(新三だけのことを言っているのではない)がしっかり描けているならば、今回の場合も新三の花道登場だけでなく、お熊を駕籠で連れ出す「材木町河岸」の場の復活も次いでにお勧めしたいくらいのものです。(その方がもっと筋が分かりやすくなるのじゃないの?なぜそこまでしなかった?)逆に作品説明コーナーの方は、登場人物がしっかり描けているならば、特に要らないと云うことになるでしょうね。「必要なことはすべて芝居のなかで説明がなされている」と自信を以て言えることが、舞台制作者としての矜持(きょうじ)であろうと思います。菊之助にそれがないと決して思いませんが、菊之助は観客に優し過ぎるのではないでしょうか。作曲家リヒャルト・シュトラウスは、作曲だけでなく・指揮もよくやりました。どちらかと云えば動きが少ない省エネ指揮法でしたけど、よくこう言っていたそうです。「汗をかかなきゃならないのは、私ではない。聴衆の方だよ。」 その通り、観客を甘やかしちゃイカンと思いますねえ。

話を戻しますが、「登場人物の描線をざっくりと大掴みに一貫性を以て捉える」ことが芝居では大事だということは、それが出来ていなければ、いくら人物の二面性を強調したところで薄っぺらに見えるだけだと云うことなのです。新三の場合ならば、それは身分差や経済格差に対する強烈な僻(ひが)みから来るものです。権威なんぞを振り回されたらば、例え相手が乗物町の親分であろうが頑として言うことを聞かないのです。序幕ではそれが愛想の良さそうな感じに見えていますが、実はそれは新三のどうしようもない卑屈さであったと云うことです。説明すればそう云うことなのですが、それを理屈ではなく・感性で「ざっくりと大掴みに」捉える、そうするとわざわざ解説を加えなくとも観客にはフィーリングでそれが分かる。芝居ってものは、そう云うものではないでしょうか。アッ江戸の昔はそんな感じだったんだ・・でもあっちこっちで利権と癒着と忖度を繰り返してる現代人よりも新三の生き方の方が正直でカッコ良くないかい(最後は殺されちゃうけどね)・・と観客が気が付くべきなのです。今回再演の・菊之助の新三は悪くないものですが、そう考えると、もしかしたらちょっと頭脳プレイの方に傾いてやしないかと、吉之助には思われるのですがね。もっと太い肚で新三を演じてくれれば良かったのになあと思います。(この稿つづく)

(R5・5・25)


〇令和5年5月歌舞伎座:「髪結新三」・その4

人はそれぞれ固有の声質を持つものです。しかし、役者はいろんな役(人格)を演じる必要がありますから、役が持つイメージと声質が合わないのであれば、そこはトーンを微妙に変えてみるなり工夫をせねばなりません。これは「声色(こわいろ)を使う」のとは違います。原則的にはその役を演じるための声質を一旦定めたのであれば、それを芝居の途中でフワフワ動かすことはせぬものです。それをすれば、役の性格が割れて見えてしまうことになります。それは別の役・別の人格だと云うことになるのです。

そんなことは芝居では当たり前のことだと思うのですが、声色を変えるのが上手い役者だと勘違いしているかのような役者が時折居ますね。本サイトを長年御覧の方は、吉之助が「声色を変える」ことに神経質なことにお気付きかも知れません。吉之助は普段音楽を聞きますから、テノールが本来歌うべき旋律をバリトンが歌うならば、同じ旋律でもそれが同じ意味を持つ旋律とは受け取れないのです。そんなことは当たり前だと思うのですが、歌舞伎では時折そう云う役者を見掛けます。名前を挙げることはしません。しかし、今回(令和5年5月歌舞伎座)の菊之助の新三は、その役者ほどひどくはないですが、若干「声色を変える」気配が見えますねえ。五年前の国立劇場での初役の時には、こんなことはなかったと思うのです。多分、これが今回の菊之助の工夫なのかも知れませんねえ。これは困ったことです。今回は「永代橋」での新三の調子が低めになっていて、その前後、「白木屋内」と「富吉町新三内」での調子がそれよりも若干高めに置かれたように感じます。結果として見ると、今回の菊之助の新三は「永代橋」の出来が良く、「富吉町」の出来が思わしくありません。それは共演者とか・他の要素もあるでしょうが、新三だけに限定すれば、それは菊之助の台詞の調子の置き方に起因しています。つまり「役の性根が一貫していない」ように見えると云うことです。ここは「永代橋」での新三の低調子で全体を統一してもらいたいと思います。

まず申し上げると、音羽屋系の世話物はみな低調子の台詞が基調となるように出来ているのです。これは直侍も魚屋宗五郎も新三でも、どれもそうです。もちろん十人の役者が新三を演れば十通りの新三が出来るわけですが、新三は低調子である方が芝居の据わりが良くなることは、芝居を数見れば分かることです。どうして?って改まって問われると困るけれど、そう云うものなのです。多分それは代々の音羽屋が低調子であったからです。三代目菊五郎が得意にした勘平だって・権太だって低調子の役なのです。だから声質が高めの役者は、自分の声質のなかで台詞の調子を低めに置いて役の仁(ニン)の微妙なズレを調整したものでした。十五代目羽左衛門の古い録音をお聴きになれば、そこの工夫がお分かりになるはずです。

菊之助も本来の声質がやや高めの役者だと思います。これはもちろん低調子にした方が世話物に「向き」に違いないが、声質が高めなら高めなりにセットして自分なりの役作りをしていけば、最初の内はそれでも宜しいです。だから吉之助は過去の菊之助の新三でも宗五郎でも改まって指摘をしませんでした(現段階では作品の理解とか・もっと大事なことが他にあるからです)が、役の回数を重ねていけば・さらに役の完成度を上げていくために、世話物で菊之助がいずれ直面する課題は、台詞の調子の置き方だと思います。(まあ役者が歳取ってくると、自然に声の調子が下がって来るので、こなれた感じに落ち着くことが多いですがね。)世話物のアンサンブルのことを考えれば、音羽屋系の世話物は低調子の方が据わりが良いことは明らかなのです。(この稿つづく)

(R5・5・24)


〇令和5年5月歌舞伎座:「髪結新三」・その3

しかし、昨今の「髪結新三」の舞台を見ると、同じ六代目菊五郎型であるけれど、「新三の性根を大掴みに一貫性を以て捉える」よりも、「店先」から「永代橋」で新三の変わり目、その切り分けを鮮やかに見せる方に重きを置いたかに見えることが少なくありません。これは六代目菊五郎の論理(ロジック)のなかにある「背理」(パラドックス)に見えるかも知れませんが、多分六代目菊五郎はそう思わなかったでしょうね。これを黙阿弥の原作のなかの「構造」だと捉えたと思います。つまりそれを新三の性格の「二面性」ではなく、いわばコインの裏表のようなもので、これを「混然一体」のものであると捉えたのです。だから新三の性根はざっくり大掴みに一貫性を以て捉える必要があるのです。これは歌舞伎の「モドリ」の論理、例えばいがみの権太であっても、同じことが言えると思います。これが歌舞伎の伝来の演技法なのです。このように考えれば、「店先」での新三の花道の出を、役者として「損」なのは明らかなのに、これを枝葉だとして省いた六代目菊五郎の論理は理解が出来ると思います。

つまり「新三の性根を大掴みに一貫性を以て捉える」ことこそ大事なのです。新三の性格を、愛想が良い善人の髪結と・僻み(コンプレックス)の塊りみたいな小悪党と云う、乖離した「二面性」で捉えることは、これはもしかしたら現代的な人間理解なのかも知れませんねえ。それで「髪結新三」の新しい解釈が生まれるかも知れませんが、しかし、新三の性格の切り分けを鮮やかに決めようとすればするほど、黙阿弥の原作のなかにある・作者がここは隠して欲しいと思っている原作の弱みが露呈することになるのです。だからそこは控え目にした方が宜しいのです。

それならば、「新三の性根を大掴みに一貫性を以て捉える」ことと、「店先」から「永代橋」で新三の変わり目、その仕分けを鮮やかに見せること、「背理」したように見える・このふたつの要素に折り合いをつけるには、どうしたら良いのでしょうか?歌舞伎の演技法では、それは新三で声色(こわいろ)で仕分けないことです。「店先」で新三の声を高調子に、「永代橋」で低調子に変えるようなことをしない。声色を変えると、役が割れて見えてしまいます。それは別の役・別の人格だと云うことになってしまうのです。役が割れて見えないように、声色を変えることはしない。仕分けをするならば、口調において仕分ける。これが大事なことになります。(この稿つづく)

(R5・5・22)


〇令和5年5月歌舞伎座:「髪結新三」・その2

髪結新三の登場が舞台下手からが良いか・花道から出た方が良いかなんて云うことは、ホントはどちらだって良いことなのです。役の陰影が少々変わるくらいのことで、新三の解釈がこれで大きく変わるほどのものでもないからです。しかし、「新三の性根を大掴みに捉え・ドラマを骨太く・出来るだけ単純に仕立てたい」と云うことであれば、六代目菊五郎が花道の出をカットしたのは理解出来る気がします。

別稿「十代目三津五郎の髪結新三」でも触れましたが、髪結新三という役には、二通りのイメージが現れるからです。ひとつは江戸前の粋(意気)な新三で、これは確かに初演の五代目菊五郎のイメージです。もうひとつは上総無宿の入墨新三と云うことで、これは四代目小団次のイメージではないでしょうか。このふたつのイメージを重ね合わせることは、なかなか難しい。だから髪結新三は性格を一貫して通すことが難しいことになります。六代目菊五郎は、そこを深く考えたと思います。(ちなみに六代目菊五郎はスッキリとした江戸前の風姿と云う点では先代に引けを取ります。)

新三のイメージが、何故ふたつに割れるか。多分それは本作の成立過程から来ます。本作初演は明治6年(1873)5月東京中村座のことでした。四代目小団次は明治維新前の慶応2年(1866)に既に亡くなっています。だから新三を小団次が演ることはあり得ませんが、恐らく黙阿弥は本作を書きながら「この役を死んだ小団次に演らせたかったなあ」と強く感じていたはずです。「髪結新三」とは、小団次という心の支えを失った黙阿弥の、精神的に最も辛かった時期の作品でした。黙阿弥が小団次との提携期(それは「江戸」という歌舞伎の故郷と重なっていました)を終えて・と云うよりも「終わらせされて」、新しい時代(小団次がいない時代・「明治」という時代)へ移行しつつあった過渡期の作品です。だから新三のイメージがふたつに割れるのです。(別稿「「黙阿弥オペラ」観劇随想」をご参照ください。)

つまり六代目菊五郎が考えたことは、新三のイメージに一貫性を持たせるように、「新三の性根をざっくりと大掴みに捉える」。そのためにドラマの枝葉を刈り込んで、「単純に骨太く仕立てる」。それが「材木町河岸」の場のカットであり、さらに「店先」での新三の花道カットなのです。こうして「店先」から「永代橋」で新三の変わり目・落差を鮮やかに見せる、さらに続く「富吉町新三内」へ如何に具合よく繋げる、芝居の流れをシンプルに仕立てると云うことですね。(この稿つづく)

(R5・5・21)


〇令和5年5月歌舞伎座:「髪結新三」・その1

菊之助の髪結新三は、平成30年(2018)3月国立劇場の時が初役で、今回が二回目であると思います。初役の時は「菊之助が新三をやるとは」という驚きをよそに筋目の良いところを見せて感心しました。あれから5年経ち、菊之助もいろんな大役を経験して大いに役者振りを上げて来ました。今回は「満を持して」の歌舞伎座での新三だと思います。当然こちらの期待値も高くならざるを得ません。

今回(令和5年5月歌舞伎座)再演の新三は、序幕「白木屋店先」での登場を花道から出るのが珍しいやり方です。いつものやり方だと(当代菊五郎もそうですが)ここは、新三が舞台下手から登場すると内でお熊が忠七にすがって泣いているので「どんな話か聞いてやろう」と言って(無言のままのやり方もあります)戸口で二人の話を立ち聞きすると云う段取りです。これは六代目菊五郎が恐らく昭和初めの壮年期に工夫した型だそうです。これ以前の新三は花道から登場したもので、これが元々原作の段取りなのです。

黙阿弥全集を参照すると、なるほど新三は花道七三で立ち止まり・先の帳場で手間取った事情をひとくさりボヤいて、門口に来て内の二人を見て、「誰も見世に居ねえと思って、暮れぬうちから痴話(ちわ)っているとは、気を揉むように出来て居る、何をいふか聞いてやろう」と言って立ち聞きをすると云う段取りです。確かに新三は花道から出た方が、主人公らしくて見映えがします。七三での新三の台詞で、商売で客の面前では愛想も振りまくが・独りで居る時は悪口を言う(つまり裏表がある人間らしい)、店先での独り言で新三の肚に一物ありそうな・・と云うところを見せる。だから白木屋内で新三が忠七に親切ごかしに駆け落ちを勧めるのも、「新三に何か魂胆がある」と観客もこれを察することが出来そうです。そこで今回再演に当たり、菊之助は黙阿弥の原作に立ち返って工夫を試みたのでしょう。

何でも原作が良いわけではないですが、こうして原作に当たってみる姿勢は、大事なことです。そもそも吉之助も日頃「原典主義」を標榜する立場ですから、今回の菊之助の見直しは大いに評価したいところですが、ここでちょっと立ち止まって、何故六代目菊五郎が新三の花道の出をカットしたか考えてみたいのです。花道から出た方が、役者の気持ちが良いのは明らかです。しかも新三が舞台下手から出ると、その前に忠七がやはり舞台下手から登場するのと突きます。役者として「損」なのは明らかなのに、六代目菊五郎が「敢えて」花道の出をカットしたのには、何か六代目菊五郎なりの意図があるはずです。

まず自然主義演劇の立場から考えれば、白木屋は新材木町で多くの使用人を抱える大店(おおだな)であり、いわば地域社会の成功者です。店を持たない通いの髪結は地域の柵(しがらみ)に縛られない自由人とも云えますが、新三の場合は入れ墨のある無宿人ですから、そういう意味で新材木町の往来を堂々歩ける柄ではないわけです。したがって芝居のなかの新三はチョロッと下手から登場するくらいが相応の人物だ、それが写実(リアル)なんだという考え方もあると思います。しかし、江戸風俗を熟知した生世話の神様・黙阿弥がわざわざ新三が花道から登場する段取りを書いたのだから、それが六代目菊五郎の花道カットの理由ではなかろうと思います。

役者として損を承知で、六代目菊五郎が考えたことは、序幕「白木屋店先」では愛想良い善人振りを見せておいて、次の「永代橋川端」では一転ガラリ変わって悪党の本性を見せる、この変わり目・落差を鮮やかに見せたい。さらに続く「富吉町新三内」へどう具合よく繋げるか。このため段取りをシンプルに仕立てたいと云うことでしょう。多分その過程で「材木町河岸」(新三がお熊を連れ出す場面)が落とされ、さらに「店先」での新三の花道の出も落とされたのです。つまり細かい写実の綾にこだわるよりも、新三の性根を大掴みに捉え・ドラマを骨太く・出来るだけ単純に仕立てたいと云う意図であったと思います。そこが六代目菊五郎と云う役者の凄いところだと思うのです。(この稿つづく)

(R5・5・17)


〇令和5年5月歌舞伎座:「若き日の信長」・その5

そこで今回(令和5年5月歌舞伎座)の「若き日の信長」ですが、舞台に目前に迫る危機(今川義元の大軍が押し寄せそうとしている)への切迫感が冒頭から不足しているようです。それはタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てる二拍子の様式感覚で表出されなければならぬものです。主役だけでなく・役者全員でそれを造らないと、新歌舞伎の様式のエッジが立ちません。本稿冒頭に記した通り、歌舞伎役者は様式感覚にもっと鋭敏であって欲しいと思います。

まず梅玉の平手中務は達観している感じで・そこに梅玉らしい味わいがします(同月・昼の部の「対面」の工藤祐経ではそれがなかなか良い味になっています)が、死んで信長のなかで御霊と化するための・或る種の頑迷さが欲しいところです。必要なものは信長に対する慈愛ではなく、頑固なほどの厳しさです。信長との対立構図が明確にならなければ、ドラマが動きません。ここはもっと二拍子で押してもらいたいのです。梅玉の中務は、そこに再考の余地があると思います。

さて団十郎の織田信長ですが、様々な葛藤が渦巻いて・なかなか明確な形を取ることがなかったものが(つまり信長は自分がどうしたら良いか・まだ掴めず苛立っていたのです)、絶体絶命の状況に追い込まれたところから、それが突然或る明確な方向性を持つことになる、そのような信長の姿と、歌舞伎での団十郎の現在の立ち位置とを重ね合わせて、観客はこの芝居を見ることになるわけですが、出来としては良いところと・まだまだと思うところが相半ばしますねえ。役の性根としては正しいところを掴んでいると思います。しかし、これを様式として体現出来ていないようです。

畳み掛ける・急き立てる二拍子は、イメージとしてはハイテンション(気持ちが高揚している)であって、普通は台詞が高調子で出るものです。当然、先代(十二代目)団十郎の信長の台詞も高調子でした。そこを当代団十郎は低調子で出ますね。しかし、これは恐らく自然体で通したいと考えた結果であろうとお察しをします。低調子ならば団十郎も喉にそれほど負担は掛かりません。低調子の台詞はモヤモヤとした感情を胸のうちに抱える信長の得体の知れぬ大きさを表しているようでもあり、これは当代団十郎の大きさとも重なって来るようです。だからこれもひとつの方策であると認めますが、同時に信長はその形に成らぬモヤモヤを一刻も早く吐き出したいとジリジリしているのです。モヤモヤだけで終わったのでは困る。そのための畳み掛ける・急き立てる二拍子なのですから、そこを様式として掴んでもらいたいと思いますね。

周知の通り、団十郎の台詞の改善は、喫緊の課題です。昨年の団十郎襲名興行では「改善の兆しが見えた」と吉之助も喜びましたが、今回(令和5年5月歌舞伎座)の信長を見る限り、残念ながら、だいぶ元の状態に戻ってしまったようですねえ。自然体でしゃべっているから台詞のいつもの癖が露わになっています。幕切れの台詞「おお、中務の爺の倅たちか。信長が門出に舞う。見ておれよ」は高く張り上げたつもりだろうが、声が出ていませんね。もう一度記しますが、台詞のテンポが遅くても良い、速度をあまり変えず、言葉を噛みしめるようにリズムをしっかり踏んで、「しゃべりの芸の原点に帰る」、これが団十郎の台詞の改善のための要点です。新歌舞伎の、タンタンタン・・と刻む二拍子のリズムは、実は元禄歌舞伎の荒事のリズムにも共通するものだと云うことに気が付いて欲しいですねえ。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)台詞を低調子で出るのはそれでも構いませんが、二拍子のリズムをしっかり踏んで発声をしてもらいたいと思います。

児太郎の弥生は、何だか印象が暗いですねえ。この芝居の紅一点なのだから・もっと凛とした目立つ存在であって欲しいと思います。弥生はなぜ信長を慕うのでしょうか。弥生は人質に取られた身ですが、或る意味に於いて信長も牢獄に囚われた身であり・そこから飛び出そうと懸命にあがいている、弥生はこのことを理解し、自分も一緒に大きく羽ばたきたいと願っています。弥生は「新しい時代の女性・新歌舞伎の女性」なのです。そこが分かれば、児太郎の弥生も変わってくるのではないでしょうか。

(R5・5・14)


〇令和5年5月歌舞伎座:「若き日の信長」・その4

御霊(ごりょう)信仰とは、不幸な死に方をした人が祟りや災いをもたらさないように、これを祀り・なだめる信仰のことを言います。例えば菅丞相は朝廷に恨みを含んで亡くなりましたが、御霊(みたま)を丁重に祀りなだめれば、御霊は却って朝廷を守護してくれるのです。京都の北野天満宮がそれです。傅役である平手中務は恨みではなく・諫言で自刃したわけですから・丞相とは事情が多少異なりますが、いずれにせよ「性根を正してもらいたい」という中務の願いは信長にとって受け入れ難いことですから、信長と中務は対立構図です。しかし、死することによって、中務の御霊は信長のなかで自分を守護する存在へと転化することになります。これは菅丞相の御霊が朝廷を守護し給う存在に変わっていく過程(プロセス)に似ます。或いは息子が精神的な「父殺し」をしてその罪を受け入れていく過程にも似ます。信長にとっての中務は、実の父親である織田信秀以上に「父なる存在」であったでしょう。別稿「ハムレット」論考でも触れた通り、既成の概念をぶち壊す行動は、まずは「父殺しの罪を引き受ける」(自己認識する)ところから始まります。

作者・大佛次郎は芝居のなかで信長の・この「父殺し」の精神的過程を非常に重く見ています。脚本からその部分を引きます。清州城中で信長はひとり酒を飲んでいます。

信長:「中務の爺。(向いあっている心持なのである)・・・爺、酒を飲め。」
縁の秀吉(藤吉郎)が、怪しんで、首を曲げて、信長を見る。日没となり、光は薄くなっている。遠い稲妻が、二人に映る。信長は自分の心の影を追うだけで一向に無関心なのである。彼は、しきりと孤独なのだ。同時に自分が反抗して来た平手中務をなつかしんだのである。膳の上から、肴をとって、また言う。
信長:「爺、肴じゃ、・・・これを食え。」

秀吉はその様子を覗き見る。また稲光り。信長は孤独に酒を飲む、かと思うと、無意識の動作のように、置いてあった小鼓を手に弄び、また、畳に置く、すべて孤独な若者の表情なのである。また、稲光り。

脚本の・この部分ですが、芝居のト書きにしては余りに小説的に詳し過ぎることに気が付くと思います。このことが大事なのです。ここは作者にとって特に大事な場面である。だから役者・演出者に解釈のブレが生じないように、丁寧過ぎるほどの「解説」を入れているわけです。この場面の稲光りは、信長の心のなかに映る御霊神の荒れの如くです。信長は御霊神(中務)の荒れを受け止め、荒ぶる魂を鎮撫しながら精神的な「父殺し」の罪を自らに引き受けて行きます。

昨年10月御園座の玉三郎観劇の帰りに、桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)に寄って来ました。記念碑には「近世の曙」と銘が記されていました。桶狭間合戦は様々な歴史的評価が出来ると思いますが、ひとつの見方として、この戦いによって「中世の長い夜が終わり・新しい時代の夜明けが始まる」と解釈できます。今川義元も・そして平手中務も、信長の脚に絡みついた中世の因習・或いは柵(しがらみ)の何かを象徴しています。信長は自分がそこ(中世)から発したことを分かっていますが、信長にとってそれは「父殺し」されねばならぬものです。(この稿つづく)

*桶狭間古戦場公園(名古屋市緑区)。右が今川義元像。左が織田信長像。
中央の碑に「近世の曙」と銘が記されています。
2022年10月4日、吉之助の撮影です。

(R5・5・13)


〇令和5年5月歌舞伎座:「若き日の信長」・その3

新歌舞伎様式の台詞は同じ二拍子と云えども、そのリズムの背後に潜む心情の様相は色々です。単純な二拍子だからこそ、いろんなタイプの心情をそこに込めることが出来ます。そこに共通するものは、我が胸のうちに渦巻くものをこのままに置けぬ・我が心情は吐き出されねばならぬと云うことです。

大佛次郎の新歌舞伎「若き日の信長」は昭和27年(1952)10月歌舞伎座での初演。信長を勤めたのは、九代目海老蔵(後の十一代目団十郎)でした。信長の傅役(もりやく)であった平手中務(政秀)は茶道や和歌にも通じた文化人であったそうです。史実の中務が自刃した理由については、諸説あるようです。「若き日の信長」においては、信長の日々の奇行を憂い自らの死によってこれを諫めようとしたと云う説に拠っています。傅役として中務は、信長のことを心底思うていたことでしょう。信長もその愛を深く感じていました。しかし、中務の考え方は戦国の世には既に時代遅れのものでした。過去の常識に固執していたら、この厳しい弱肉強食の戦乱の世に生き残っていくことは出来ないのです。信長からすると、中務は旧弊みたいなものです。その中務が諫言の自刃をしてしまいました。信長としては爺に感謝しつつも、自らの信じる道を進まねばなりません。しかし、今の信長には熱い思いはあるけれども、それはモヤモヤとして・明確な形を成してはいません。これでは軽々に動くことは出来ません。家来たちが自分を信じて付いて来てくれるかという不安もまだあります。それが今川義元の軍が領内に攻め込み、食うか食われるかと云う絶体絶命の状況に追い込まれた時に、突然明確な形を成すのです。この状況で初めて信長の腹がしっかと決まります。これが「若き日の信長」のドラマです。

『世間は動いている。田舎の狭い土地にこもって、隣近所と相せめいでいる間に、外の世界は、一体どう変わって行くのか?ここでは、生き延びて行くだけの工夫で、精一杯だ、爺のように、いつまでも昔の物尺(ものさし)で物を計っていては、動きが取れぬ。食うか食われるかじゃ。獣類か、無道の賊の世界だ。おれはくやしい故、この乱世にも生き残りたい。そうせねばならぬ。おれを、野武士のようじゃと言うが、野武士なら野武士でよい。おのれひとりの道を開いて歩こう。』

このような信長の心情を、戦争で国土が焦土と化し・敗戦のどん底に叩き込まれた日本人に向けてのメッセージとして大佛次郎が書いたことは、もちろん大事なことです。しかし、それをあまりに強く見過ぎると、作品がそれが成立した時代から解き放たれないことになります。名作は常に新たな読み方を許容するものです。この令和の混迷した時代に我々がこのドラマを読むならば、何をすれば良いか自分の進むべき道が一向に見えて来ず・ジリジリと歯痒い思いだけが胸に渦巻くこともあるだろう、そのような場合には、あえて死中に活を求める状況に自分を追い込む、時にはそう云うことも必要なのだと云う風に読めば宜しいかと思いますね。そのような信長の熱い思いを二拍子の急き立てるリズムに託すと云うことです。(この稿つづく)

(R5・5・11)


〇令和5年5月歌舞伎座:「若き日の信長」・その2

芝居は主役だけで成立するものではありません。隅から隅まで出演者全員が同じ様式感覚で統一されていなければなりません。しかし、実際にはそうなっていないことが多い。(これは新歌舞伎だけに限ったことではありません。)どうやら役者それぞれ思っているところの「らしさ」の感覚が微妙に異なるようなのです。これは困ったことです。伝統芸能である歌舞伎は、様式感覚にもっと敏感であって欲しいものです。

例えば先日(3月)歌舞伎座の「髑髏尼」ですけど、初演以来4回しか上演されていないものですから「型」などないようなものですが、作品(初稿)発表が大正2年(1913)であることを考慮に入れて欲しいと思います。台詞はタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てる二拍子の新歌舞伎様式を基調にせねばならぬものなのは明らかです。そのリズムは作品成立時の戦乱の時代(第1次世界大戦は1914〜18年のこと)への不安と心理的に深く関連するものです。ここに滅びへの予感・不安がはっきりと現れます。このことはあまり強固にこじ付けるべきではないかも知れませんが、作者(吉井勇)がどうして中世の「髑髏尼」説話に惹きつけられたかを考える時にとても大事なことです。そこから逆算して、先行きが見えない令和のこの混迷した時代に「髑髏尼」を再演する意義を見出して行かねばならぬと思います。玉三郎は良いところに目を着けたと思いましたけれども、出来上がった舞台はそのような感じに出来上がっていたでしょうか?そこにちょっと疑問が残りますね。

或いは同じく先日(3月)歌舞伎座の「花の御所始末」ですが、新歌舞伎として最後の時期の作品と見るべきで・初演は昭和49年(1974)6月帝国劇場で・しかも女優を交えたものでしたけれど、作者(宇野信夫)が新歌舞伎様式で骨太い歴史劇に仕立てたかったことは明らかです。本作が歌舞伎座で歌舞伎として上演されることは作者として望外の喜びだと思いますが、台詞の急き立てる二拍子の様式感覚のなかに、作品成立時の作者の思いをどう重ねるかと云うことが大事だと思います。同じ時代に北条秀司が書いた「大老」や「建礼門院」には、登場人物よりもむしろ背景にある歴史の律そのものがこの芝居の真の主人公だと感じる長尺の歴史劇を書きたいと云う作者の思い(歌舞伎への思い)がありました。それと同じような思いのを、宇野の本作からも感じるのです。つまり、「それが表現出来るとすれば歌舞伎役者しかいないのだが・このような骨太い本格の歴史劇を作れなくなるのも・そう遠いことではないかも知れぬ」と云う作者の悲しい予感です。(あの頃は吉之助でさえ20世紀の終わりには歌舞伎はもはや消えているだろうと思っていましたから。)先日の幸四郎の「花の御所始末」の舞台を見ていると、外見はそれなりのエンタテイメントに仕上がっているけれども、それだけで終わっている印象ですねえ。主人公(足利義教)のあがきが、「歌舞伎がこのまま朽ちてなるものか」と云う歯軋りと云うか・熱い血のたぎりともっと重なって欲しいと思うのです。そのような気持ちを表現するための「新歌舞伎様式」であると思います。(この稿つづく)

(R5・5・7)


〇令和5年5月歌舞伎座:「若き日の信長」・その1

本稿は令和5年5月歌舞伎座の団十郎主演による「若き日の信長」の観劇随想ですが、前置きとして、まず「新歌舞伎の様式とは」と云うことを考えたいと思います。一般に新歌舞伎とは、明治以後に、座付狂言作者ではなく、外部の作家によって書き下された新作歌舞伎作品のことを指します。しかし、様式の観点から議論するのであれば、狭義には二代目左団次(明治13年〜昭和15年)によって初演された作品群(左団次劇)のことを言います。さらにこれを中心に同時代の周辺作品をも包含して、これらを「新歌舞伎」だと考えれば宜かろうと思います。ですから例えば六代目菊五郎が初演した長谷川伸ものは、左団次が初演した真山青果ものとは色合いが微妙に異なりますが、同じ時代の空気を取り込んだところで、それらは或る共通した様式感覚(新歌舞伎様式)を持つのです。それは、心持ち早めの二拍子でタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てるリズム感覚です。つまり20世紀初頭のノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)の感覚です。(これについては別稿「左団次劇の様式」で詳しく論じました。)

そうなると戦後の新歌舞伎の様式をどう捉えたら良いかと云うのが、次の問題になって来ます。二代目左団次が昭和15年に亡くなり、六代目菊五郎が昭和24年に亡くなりました。その薫陶を受けた後輩たちが、いわゆる「新歌舞伎様式」を引き続き守って来ました。例えば左団次劇団の副将格であった二代目猿之助(初代猿翁・〜昭和38年)・三代目寿海(〜昭和46年)、或いは菊五郎劇団の二代目松緑(〜平成元年)・七代目梅幸(〜平成7年)といった役者たちでした。その時代を知っている役者たちが存命でしたから、吉之助が本格的に歌舞伎を見始めた昭和50年代は、新歌舞伎様式がまだまだしっかり残っていました。したがって戦後の新歌舞伎群、例えば北条秀司・宇野信夫や大佛次郎・村上元三などと云った面々の・これらの作品についても、いわゆる新歌舞伎様式、つまりタンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てるリズム感覚で読み解けると云うことです。

ところが、吉之助が長年歌舞伎を見続けてきた印象では、例えば真山青果の「元禄忠臣蔵」を例に取れば、タンタンタン・・と畳み掛ける、急き立てる二拍子の感覚は、平成に入ると急速に薄れて行きました。平成以後の青果ものは、言葉の粒が立たない・平板な印象で、語尾を伸ばした台詞回しへと変化して現在に至ります。このことは残された舞台映像を時系列で比較すれば検証が出来ますから、もし機会があれば比べてみて下さい。これは恐らく平成と云う時代の保守化傾向と無関係でないものです。或る意味で、これは新歌舞伎が古典化して「歌舞伎らしく」なっていく過程(プロセス)とみなすことも出来ます。しかし、様式のエッジは際立たないことになる。平成は、歌舞伎が伝統芸能・世界文化遺産として尊敬されて、古典を上演してさえいれば、何もしなくても、歌舞伎座はいつも満員という時代が長く続きました。思えば歌舞伎にとって平成は幸せな時代でした。だから新作歌舞伎が出ることがほとんどなかったのです。しかし、令和の時代に入ると、俄かに動きが慌ただしくなって来たようですね。(これについては別稿「昨今の新作歌舞伎の動きについて考える」をご参照ください。)

但し書きを付けますが、吉之助は老人の繰り言で「昔の歌舞伎は良かった、今の歌舞伎は・・・」と言いたいわけではないのです。伝統芸能である歌舞伎は、元禄歌舞伎ならば元禄歌舞伎の、南北ならば南北の、黙阿弥ならば黙阿弥の、新歌舞伎ならば新歌舞伎の、正しい様式において演じられなければなりません。何でもかんでも一様の、いわゆる「歌舞伎らしい」感覚で処理されてそれで良いのか?と言いたいのです。新歌舞伎様式については、たかだか50年くらい前にはそれが残っていたわけですから、江戸に精神的な源を発し・伝統を継承する立場を自他ともに認めるはずの歌舞伎役者ならば、新歌舞伎くらいしっかりやって欲しいものだなあと思うのです。(この稿つづく)

(R5・5・5)


〇令和5年3月世田谷パブリックシアター:「ハムレット」・その2

そのようなハムレットの精神的な不安を、劇中劇の「ネズミ捕り」の場面に見ることが出来ます。

『(劇中劇の)役者たちが台詞を発し始める前にプロローグの形で、舞台で無言劇が演じられるとき、この場面はそれほど王(クローディアス)を刺激しているようには見えません。この場面では、王の犯罪と見なされる仕草が王の目前で無言劇によって演じられるのですが。逆に、むしろ奇妙なことがあります。それはルシアーナスという名の人物がこの場面に登場し、王だけでなく王妃に対しても罪を犯す時、むしろハムレットの方が、感情の真の爆発、興奮の発作に捉えられているということです。(中略)ハムレットがこの場面で表現していること、それは結局、彼自身が件の罪を犯しているということです。自身の欲望に火を付けることができず、父の亡霊、つまりゴーストの望みを成し遂げることができない。この人物は、何かに実体を与えようとしているのです。何か、つまり、彼の鏡像を通る何か、復讐を完遂するのではなく、復讐すべき罪をまずは引き受けるという状況のなかに描かれる像を通る何かに、実体を与えようとしているのです。』(ジャック・ラカン:1963年のセミネール・「不安」〜「宇宙から不気味なものへ」・岩波書店)

本稿では「ハムレット」の解釈に踏み込むことはしませんが、ラカンがここでハムレットが「復讐を完遂するのではなく、復讐すべき罪をまずは引き受ける」(自己認識する)としていることを、心に留めておきたいと思います。伝統芸能において、先人の「型」を受け継ぎ・これを咀嚼して・自分の「型」として乗り越えるために、役者はどこかで精神的な「父殺し」を果たさなければならぬのです。伝統の継承は、まずは「その任務を引き受ける」ところから始まるということですかね。これは狂言でも・歌舞伎でも、同じことだと思います。

そう云うものが、ハムレット(裕基)がクローディアス(萬斎)と対決する時、例えば剣を突き付ける時とか・毒酒の盃を飲ませる時に、オーバーラップして来るのです。これは見る側(観客)は自然とそう見ることになるし、演じている当人にとっても・或いはそうであったかも知れませんね。演出を担当した萬斎は息子を主演に起用した時、当然それを意識したでしょう。その目論見は成功したと思います。

野村裕基が演じるハムレットですが、狂言で発声の訓練を積んでいるので・さすがに声はしっかり出ているし、台詞に関してはまだ余裕がない感じが多少しましたけれど(欲を言えばもう少しナイーヴさが欲しいところ)、この辺は経験を積めば改善されるでしょう。裕基のハムレットは、復讐という任務に向けてがむしゃらに突っ走る若者の熱さがよく出ていました。「ハムレット」というのは結構ハードな挑戦ですが、「父殺し」は兎も角、伝統を受け継ぐ確固たる覚悟を見せてくれて、吉之助としては予想以上に面白く見ました。イヤ大したものです。と云うか、伝統芸能の家に生まれると云うのはホントに大変なことであるなあと思いますねえ。

(R5・4・28)


〇令和5年3月世田谷パブリックシアター:「ハムレット」・その1

フト思い立って令和5年3月世田谷パブリックシアターの「ハムレット」を見に行くことにしたのは、野村萬斎の長男・野村裕基(23歳)が主演ハムレットを勤めると聞いたからです。萬斎がハムレットを主演した平成15年(2003年)の公演(世田谷パブリックシアター、ジョナサン・ケント演出)は、当時の吉之助は仕事が忙しかったために見ていません。吉之助は野村裕基の舞台を狂言も含めて生(なま)でまだ見たことがなかったのですが、伝統芸能の家に生まれた若者が、狂言についてはもちろんのことですが、云わばジャンル外の翻訳劇の分野においても・父(萬斎)の生き方を継承して行こうと云うのは生半可な覚悟で出来ることではないので、その挑戦を見てみたいと思いました。

  

今回は野村萬斎が演出を行い、舞台では亡霊(ハムレットの父)とクローディアス(ハムレットの伯父)に2役を勤めます。云うまでもなくクローディアスはハムレットの父である先王を殺して王位に就き、ハムレットの母と結婚した男(つまり現在はハムレットの義理の父親である)と云う男です。当たり前のことかも知れませんが、萬斎と裕基は実の親子として姿と云うか雰囲気がどこか似ています。だから、このことが、ハムレットと父、そしてハムレットと伯父の関係に於いても、或る種のリアリティを醸し出しているようです。つまり「ハムレット」のなかに潜む「父殺し」の主題が表面に顕われるとでも言いましょうかね。多分そんなところが吉之助の興味を引いたのでしょう。

ジークムント・フロイトは「夢判断」(1900年)のなかで「ハムレット」について触れ、主人公に与えられた復讐という任務をハムレットが一寸伸ばしにする件を考察しています。その理由についてはいろんな考察が言われていて、例えばハムレットは元々考え過ぎで・病的に優柔不断な性格なのだとします。しかし、ハムレットは決して行動出来ない人間ではなく、壁掛けのうしろで何者かが立ち聞きしているのに気付くと・カッとして衝動的にその男(ポローニアス)を刺し殺したりします。ただ伯父への復讐についてのみハムレットはグズグズしているのです。

『ハムレットは何事でもしようとすればできるのだが、ただ伯父を殺すことだけはやりおおせない。この伯父は、ハムレットの幼児時代の抑圧された願望を実現しているのである。ハムレットを駆り立て復讐を行わしむべき嫌悪感は、そんな次第でハムレットの気持ちのなかで自己非難、良心の呵責にとって代わられて、彼に向かって「お前自身は、お前が殺そうとしているあの伯父よりも、より良い人間ではないのだ」と語っているのである。』(ジークムント・フロイト:「夢判断」〜「夢の材料と夢の源泉」・人文書房)

まあ何でも伝統芸能に結びつけるわけではありませんが、先代の芸を受け継ぎ・如何にして先代を乗り越えるかと云う課題に於いては、これもどこかハムレットの「父殺し」に似たところがないわけではなかろうと思います。(この稿つづく)

(R5・4・26)


〇令和5年3月歌舞伎座:「仮名手本忠臣蔵〜十段目」

本稿は令和5年3月歌舞伎座での、芝翫の天河屋義平による「仮名手本忠臣蔵〜十段目(天河屋)」の観劇随想です。ご存知の通り「十段目」の上演は珍しく、戦後の上演はこれまで5回ありますが、すべて通し狂言のなかの一幕です。今回のように「十段目」が単独で出るのは、もしかしたら初めてのことかも知れません。歌舞伎でも「十段目」は、天保頃まではよく掛かったものだそうです。しかし、幕末近く安政頃になってくると、「十段目」の上演が次第に減って行きます。理由ははっきりしませんが、一説には、これには幕末の社会情勢が影響していて、尊王だ攘夷だと騒いでいるご時勢では、徒党を組むとか・江戸への武器持ち込みなんて芝居が憚(はばか)られたからだそうです。真相はそんなところだと思いますが、歌舞伎の「十段目」では町人の義平が主役のようで、由良助は「畳に頭を擦りつけて」義平に平伏すると云うことで・由良助の人物が小さく見えるために、明治の世になっても復権と行かなかったのだろうと思います。

まあそれは兎も角、「忠臣蔵」には11のエピソードがあるとは云いますが、11のお団子がみな等分の大きさをしているわけではなく、全十一段のなかで団子がそれぞれ相応の重さを持つものなのです。「忠臣蔵」を浄瑠璃定式の五段構成に配置し直すと、天河屋は五段目切場に当たります。ちなみに二段目切場が判官切腹、三段目切場が勘平切腹、四段目切場が山科閑居になります。他の時代浄瑠璃で五段目がほぼ廃絶の現状からも分かる通り、五段目の扱いは大抵そんな程度のもので、つまりドラマ的に内容が薄いものが多い。時代浄瑠璃の芯は、もちろん二・三・四段目です。芝居はその段の格式において行わなければならぬものです。つまり天河屋の場が、二段目(例えば「千本桜」の渡海屋)の感覚で処理されてはならないと云うことです。時代浄瑠璃の五段目の格(それ相応の重さと云うよりも・敢えて軽さと云った方が良いでしょう)で処理されねばなりません。

今回(令和5年3月歌舞伎座)上演の「十段目」を見た印象では、役者の皆さんあまりそう云うことをお考えではないようですねえ。「忠臣蔵」は時代浄瑠璃だから、どの場面でも等しく時代っぽく重々しく演れば良い、「十段目」も時代物だと云うような思い込みがあるようです。特に芝翫の天河屋義平ですが、まるで「千本桜」の渡海屋銀平の感覚でやっているのが見え見えです。銀平(実は知盛)をやるのであれば、まあこれで宜しいとしましょう。そう云うことならば芝翫の押し出しの大きさが生きます。ここで「天河屋義平は男でごーざーるー」と啖呵切ると「どうだいカッコいいだろ」と、そんなところですかねえ。しかし、これではまるで二段目の感覚です。全然五段目の格になっていない。五段目ならば五段目なりの、軽さ・小ささと云うものが表出されねばなりません。そろそろ芝翫はそのような違いを仕分けられるようになってもらいたいものですが、芝翫ももう57歳なのですね。

吉之助が思うには、そもそも現行歌舞伎での(知盛の正体を見顕わす以前の)渡海屋銀平も、時代っぽくて重過ぎると感じます。ここは廻船問屋・つまり世話場なのですから、もっと演技の軽さと云うか・世話の感覚を表出すべきなのです。平穏であるべき町人の世界に突然時代の論理(源平合戦の世界)が襲い掛かるから事件(サプライズ)なのです。そこに世話と時代の押し引きが生まれます。そうでないと知盛の正体(時代の様式)を見顕わした時のサプライズが効いて来ません。二段目の銀平でさえ、こう云う誤解が起きます。ましてや五段目で・しかも見顕わしをしない天河屋義平ならば、何をか言わんやです。芝翫はそこをいつもの「らしさ」で一本調子に押しています。

それにしても義平役者は主役然としていないで、由良助を立てることを考えて欲しいと思いますね。現行歌舞伎での「十段目」の幕切れは義平一家が上段中央に立ち・由良助は平舞台に立って絵面で決まるのが通例のようですが、これはどう考えても変です。「寺子屋」幕切れで、菅秀才を差し置いて松王夫婦が上段中央に立ったらどうなるか想像してみれば良いです。芝居のなかで誰が格上なのかを考えないから、こういうおかしなことが平気で起きます。(文楽の「十段目」幕切れでは、由良助が上段に立ちます。)そこらを直せば「十段目」はまだ復権の可能性はあると思いますがね。単独ではなくても、通し上演で「十段目」をしっかり残してもらいたいものです。

孝太郎のお園は、芝翫の義平に合わせたのかも知れないが、武家女房の雰囲気で世話女房になっていない感じがします。もっと世話に「紙治」のおさんみたいな・しっとりした感じであっても良いと思います。幸四郎の由良助は決して悪くはないけれど、やはり重さと云うか・貫禄に不足するようです。「十段目」の主役は確かに義平ではあろうが、すべて事を「上から目線」で仕切ってみせる、そこに討ち入りに向けての由良助の意志の強さが出るものだろうと思います。

(R5・4・21)


〇令和5年4月明治座:「絵本合法衢」・その4

うんざりお松と云う役は悪婆のカテゴリーに入りそうに思いますが、このことは慎重に考えてみた方が良いようです。稀代の悪婆役者と言えば五代目半四郎ですが、半四郎が「於染久松色読販」(文化10年・1813・3月・森田座)で・代表的な悪婆役である土手のお六で評判を取ったのは、半四郎が37歳の時のことでした。これは「絵本合法衢」初演(文化7年・1810・5月・市村座)から3年後のことになります。一方、「絵本合法衢」初演でうんざりお松を勤めたのは、半四郎ではありません。この時半四郎が演じたのは、前章で触れた通り、お米と皐月でした。初演でうんざりお松を勤めたのは、当時二代目松助を襲名したばかりの・後の三代目菊五郎(当時26歳)でした。(評判記によれば松助のうんざりお松はなかなか好評だったようです。)この経緯からすると、文化7年時点では、悪婆の概念はまだ確立しておらず、世間に悪婆=半四郎のイメージはまだなかったのです。この構図が出来上がるのは、文化10年以後のことかと思われます。とすれば多分うんざりお松は、悪婆という役柄が成立する以前の前段階(プロトタイプ)と見るべきなのでしょうね。

しかし、うんざりお松を見ると、後に南北・半四郎が確立することになる悪婆という役柄が、かなり出来上がっていたことが察せられます。「元は近江の百姓の娘だが、あまっ子の時分から田植えだの何のと土ほぜりが嫌えでね」、それで村を飛び出して・男をとっかえひっかえ・亭主を16人持ったと云うのだから、まあ自立心があると云うか、気儘に生きてきた女なのです。「うんざり」の異名からは、愛嬌も媚態もあるが・そのくせ男に対して拗(す)ねた態度を見せて・決して軽くなびくわけでもない、そんな雰囲気が見えます。これは悪婆の必要条件を満たしているわけですが、うんざりお松の場合には、「こんなはしたないことはホントはしたくないんですよ、でもお主のためだから、仕方ないのヨ」と「女形本来の性質である善人に立ち返る」という大義が性根としてないから、主役級のキャラ(悪婆)として立つまでには至っていないと云うことかと思います。

つまり、うんざりお松は半四郎の悪婆とはちょっと違うと云うことなのですが、それじゃあ具体的にどこが違うかと云うとフィーリングみたいな漠たる話になりそうです。ともあれ、うんざりお松ではやはり愛嬌が重要な要素になるでしょう。今回(令和5年4月明治座)の孝太郎初役のうんざりお松ですが、孝太郎に十分な技芸があることを認めた上で書くのだが、吉之助が見たのが初日(8日)のせいもあったと思いますが、まだ余裕がなさそうな印象でしたね。「こんなはしたないことしてよいのかしら」みたいな遠慮(と云うかためらい)を感じるところがあったようです。ここは思い切って愛嬌を前面に押し出すことで・女形があられもないことをする申し訳を付ける・そんな感じで、うんざりお松には大義はないのだけれど、出来るだけ悪婆の領域に迫ることが必要だと思いますね。まあ回数重ねることで良いものになるだろうと思います。

(R5・4・15)


〇令和5年4月明治座:「絵本合法衢」・その3

今回(令和5年4月明治座)の「絵本合法衢」では、幸四郎が初役で大学之助・太平次2役を勤めます。ここ数年の幸四郎は優男系で線が細い印象を持つことが多かったので、今回の悪役2役はどんなものかと・見る前はちょっと心配しましたが、大学之助については意外と太い造りでした。ちょっと重きに過ぎる印象はしましたが、これは大学之助をスケールが大きい時代物の悪人を意識した役作りとすれば、それなりに納得出来るものではありました。一方、太平次については、時代の大学之助に対し・世話の太平次、両者の対照をきっちり付けようと云うことで、キャラクター的に軽い感触にしてしまったようです。現在の幸四郎の芸風だと、どうしてもコミカルな味が勝ってしまいます。これだと生世話の実悪という印象にはならないのだなあ。そこにちょっと不満が残ります。もっと演技を図太くお願いしたいのです

前章で太平次は「世話場の大学之助」と書きました。「絵本合法衢」と云う芝居を、時代の大学之助と・世話の太平次、二人の別箇の悪人が並び立つと云う構図で捉えるのではなく、大学之助という一貫した人格が時代と世話に姿を変えて・二つの方向から高橋家の係累を嬲り抜くと云う構図で理解せねばならないと思います。このため作者南北は「大学之助と太平次は容貌がそっくりだ」と云う設定で五代目幸四郎に嵌めて書いたのですこのことは、南北が生きた文化文政期に変化舞踊が流行したということを思い出せば分かります。「変化」の趣向の本質とは、ひとつの人格が様々な姿に変化する、見た目は変われども・それがひとつの人格であることは変わらないと云うことです。このことは「そこに見えるものはひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。(別稿「兼ねることには意味がある」を参照ください。)つまり五代目幸四郎の生世話の実悪の芸とは何かを考えることが役作りの大事なポイントです。

ちなみに「絵本合法衢」には兼ねる役が他にもあります。今回上演ではそういう配役になっていません(別にそのことを批判しているわけではありません)が、初演配役を見れば、倉狩峠の場で太平次に惨殺される孫七(三代目三津五郎)・お米(五代目半四郎)の夫婦が、大詰・合法庵室では合法(三代目三津五郎)・皐月(五代目半四郎)の夫婦として再生し・大学之助を討つように仕組まれています。このことの意味は改めて説明するまでもないと思います。初演配役を見れば、作者南北の意図が読めて来るのです。

大学之助・太平次を「仕分けよう」などと難しいことを考えるから、ややこしくなるのです。実悪という印象で図太く一貫したものを見せれば、それで良いのです。またまた幸四郎(この場合は十代目のこと)が出てきたわいとなって全然構わないのです。そうすれば役作りが随分楽になると思うのですがねえ。そうすると、太平次は生世話の実悪の風を強く、もう少し声を低調子にして・もう少し演技の線を太くすれば良い。一方、大学之助の方は、あそこまで演技を重めに時代に仕立てる必要はなさそうです。もう少し軽みを持たせて良いのでないか。幸四郎の芸風のなかで二つの役の一貫したバランスを見出せばよろしいと云うことになると思いますね。(この稿つづく)

(R5・4・13)


〇令和5年4月明治座:「絵本合法衢」・その2

今回もそうですが、戦後昭和に入ってからの絵本合法衢」上演で、「立場の太平次」と通称(副題)が付く場合があります。どうして通称が付くかと云うと、これには歴史的な経緯があるようです。恐らく大正15年(1926)10月帝国劇場での・二代目左団次による復活上演・この時の上演外題は「敵討合邦辻」と云いましたが、この時の上演が立場の太平次の場面を中心にした復活脚本であったからです。そのせいで「絵本合法衢」のメインは立場の太平次だと云うイメージが付いたと思います。この次の上演が昭和40年(1965)10月芸術座で八代目幸四郎(初代白鸚)による復活になりますが、この時に初めて「立場の太平次」と通称が付されました。以後、吉之助が見た昭和55年(1980)4月国立小劇場にも「立場の太平次」の通称が付いていました。

「絵本合法衢」を眺めると、大学之助の殺しは御家騒動の枠組みのなかで起こることなのでさほどの新味はない、太平次の殺しの方が派手で目立って面白いと云うことなのかも知れません。芝居をエンタテイメントで楽しむ分には、太平次をメインに見立てて何の不都合もないと思います。しかし、「絵本合法衢」と云う作品を考えるためには、ここはやはり大学之助をメインに据えて考えなければなりません。大事なことは、「絵本合法衢」は返り討ち物だと云うことです。(別稿「返り討物の論理」をご参照ください。)芝居では、大学之助を敵として追う高橋家の係累を、大学之助が次々と返り討ちにします。太平次は大学之助の意を受けて殺しをするに過ぎないのですから、あくまで大学之助がメインなのです。仲間が討たれれば、次の仲間がまたこれを追う、そして最後に大学之助を討って宿願を果たす、これが返り討ち物の骨格です。

しかし、敵を追う正義の側の高橋方の決定的な弱みは、みんなバラバラに敵を追っており、力を結集していないことです。そこを大学方に切り崩されます。例えば大詰・合邦庵室では合法(高橋弥十郎)と道具屋与兵衛が出合います。実は二人は幼い時に別れた兄弟なのですが、互いに素性を知りません。そうこうしているうちに、大学方の刃が与兵衛に迫ります。互いが兄弟であると分かった時には、時すでに遅く、もう弟の命は尽きようとしていました。このように芝居のなかで、高橋方は兄弟縁者が力を合わせることなく・バラバラで、次々に返り討ちされて行きます。あとで芝居を思い返してみれば、ああここで高橋方が殺された・・あれも高橋方・・これも高橋方・・またもや高橋方が・・と云う感じに芝居が書かれているのです。

ところが芝居を見ると人物関係が分かり難い。芝居が終わった後から見れば、この箇所で人物関係が分かるとか言われそうですが、まあ脚本を見れば十分と言わないまでも確かにヒントは出ているのです。しかし、そう親切には書かれておらぬので、芝居を見ながら人物関係を繋ぎ合わせろと云われても、それはなかなか難しいことです。

例えば太平次がうんざりお松を殺しますが、芝居をちょっと見ただけではどうしてお松が殺されなきゃならぬのか、俄かに理解し難いと思います。太平次は理由を何も語りません。吉之助も初見の時は随分考えたものでした。お松が用済みになったから殺すのか、ベタベタされると煩わしいから殺すのか、いずれにせよ大学之助の敵討ちの本筋に関係ない殺しに見えると思います。しかし、実は本筋と関係があるのです。お松がうっかり落とした臍の緒書きを居合わせた百姓佐五兵衛が拾い上げて、「お前(お松)は俺の女房おわたの妹じゃないか」と看破します。佐五兵衛は、道具屋与兵衛の女房お亀の父親です。この会話を外で立ち聞きしていた太平次が、お松本人は状況をよく理解していないようだが・どうやらお松は高橋方の遠縁に当たるらしい、ここは寝返ったりしないうちにお松を始末しておいた方が良いと考えたからに違いありません。さらに芝居を見直していくと、(この件は太平次は知らないはずですが)序幕・鷹狩りの場で大学之助に惨殺された幼い里松が佐五兵衛の子であるから・つまりお松は里松の叔母に当たるので、お松は大学之助に敵意を抱く立場になり得るわけです。お松が殺されねばならぬ理由はこれでさらに強化されます。芝居のなかの返り討ちで・・あれも高橋方・・これも高橋方・・となるなかに、実はうんざりお松も含まれることになるのです。つまり太平次は「世話場の大学之助」と云うことになるのです。南北はそのように芝居を構成しているわけです。

そう云うことが、芝居を見終わった後で「何だかよく分かんないなあ」とブツブツ呟きながら、筋書・脚本をパラパラめくっていると、そう云う構造が次第に見えてくることになります。そこを補綴・演出の作業で、十全に行かないにしても、出来るだけ芝居を見ただけで観客に分かるように工夫してくれると、有難いのですがねえ。そのためには登場人物紹介の場になる序幕を急ぎ足に仕立てず・観客にたっぷりと見せておく必要があると思います。(この稿つづく)

(R5・4・11)


〇令和5年4月明治座:「絵本合法衢」・その1

本稿は、令和5年4月明治座での、通し狂言「絵本合法衢」の観劇随想です。幸四郎が左枝大学之助・立場の太平次2役を初役で勤めるのが話題です。吉之助が「絵本合法衢」を初めて見たのが昭和55年(1980)4月国立小劇場でのことで、この時に大学之助・太平次を勤めたのが六代目染五郎(二代目白鸚、当時37歳)でした。巡り巡って息子の幸四郎(50歳)が同じ役を演じるのだから、感慨深いと云うか、吉之助も随分長く芝居を見て来たものです。ただ幸四郎はこれらの役をもう少し早く演じていても良かったのじゃないのかと思いますね。このところの幸四郎は優男系に傾斜気味のようですが、大学之助・太平次は高麗屋にとって大事な役だと思います。

今回の明治座公演に先立つ取材会で、幸四郎が「去年くらいから、南北の全作品を洗い直して上演したいと思うようになりました」と語ったそうです。そのうちの少しでも多く実現してくれれば良いと思います。先日(2月14日)のことでしたが、幸四郎が参画している「伝承ホール寺子屋」という渋谷区地域密着型伝統芸能プロジェクトで、幸四郎・歌之助他による、珍しい「歌舞伎リーディング」の試みが行われました。そこで歌舞伎研究家の古井戸秀夫先生が復刻した四代目南北の珍しい狂言「春商恋山崎」(はるあきないこいのやまざき・文化5年1月江戸中村座初演・全集未収録)の一部が取り上げられたのです。吉之助も題名しか知らない作品でしたが、これは「引窓」で有名な「双蝶々曲輪日記」の書替狂言で、引窓与兵衛が盗み騙りを働くというものです。南北らしいひっくり返しの趣向です。これを幸四郎・歌之助が、鳴り物付きで・最初のうちは台本片手で台詞をしゃべって演じました。もちろん化粧なしの素の衣装での演技です。興が乗って来ると、そのうち台本を置いて所作付きになって立廻りも見せました。立ち稽古を見学しているみたいで、とても興味深く見ました。幸四郎はもちろんのことですが、歌之助も頑張って感心しました。劇場での上演が無理であるならば・こんな感じで「リーディング」でもしてくれれば、経費もさほど掛かるわけではないだろうし、有料企画で公開すれば・これを見たい歌舞伎ファンは少なからずいると思いますけどねえ。兎に角今の若手は古典の経験が少な過ぎですから、このような「リーディング」の形式ででも、古典の場数を多く踏んで欲しいと思います。

そこで「リーディング」で幸四郎が演じた盗賊引窓与兵衛のことですが、これは初演では実悪の名人と云われて・南北物に欠かせない名優五代目幸四郎が演じた役でした。昼は万引き、夜は強盗と云う二つの顔を持つ男。ちょっと間の抜けたコミカルな面があるかと思えば、ギラっと凄みを見せるところもあると云う具合で、なるほど五代目幸四郎向きのキャラクターだなと思いましたが、幸四郎も手探りで演じていたと思うし・吉之助も初めて見る(聞く)役なのでやはり手探りでしたが、吉之助のイメージからすると・これは南北の生世話物なのですから・引窓与兵衛はもう少し実事に近い感じにお願いしたいなあと思いました。現在の幸四郎の芸風であると、コミカルな味が勝つと言うか、そこがキャラクター的に軽い感触になってしまうようです。お人好しの・ちょいワルに見えてしまうのが、ちょっと不満に感じるのです。今回(令和5年4月明治座)「絵本合法衢」の立場の太平次を見ていて、そんなことなど思い出しました。(この稿つづく)

(R5・4・10)


〇令和5年4月歌舞伎座:「与話情浮名横櫛」・その3

このように考えると、与三郎もお富も、決して恋の喜びにどっぷり浸っているわけではなく、それは背後に破滅が予感されているなかでの恋なのです。背後に迫った危険をも顧みず・今この恋にのめり込みたいという気持ちがふたりを一層熱くします。前章で「ヒリヒリした感覚」と書いたのは、そこのところです。フロイト流に云えば、そこに破滅への欲動が潜んでいるのです。これが幕末期の鬱屈した気分から来るものであることは明らかです。

仁左衛門(与三郎)・玉三郎(お富)のコンビがそこのところを描いていないかと云うと、決してそんなことはありません。今回は、源氏店の前に木更津海岸と赤間別荘の二場を付けたことでも、その意図は明らかです。しかし、この黄金コンビが演じると、優美さ・甘さの印象が先に立ってしまうのは仕方がないところで、与三郎とお富の数奇な運命のラブ・ストーリーの味付けに見えて来ます。歌舞伎は役者の味でするものだと云うけれど、もちろんそれはそれで事実に違いありませんが、それならば源氏店の見取りだけで十分じゃないかなと云う気がして来るのです。これはそれだけ源氏店の与三郎とお富の再会の場面「役者の味でする芝居」として良く出来ていると云うことなのです。これは当時の若き日の黙阿弥が如皐に嫉妬して「自分にはこんな台詞は書けない」と死にたくなった気持ちが分かるくらいに良く出来ています。極端に云えば、源氏店前半の・藤八の件を除いて出しても・ドラマが立つほど良く出来ています。そうすると先立つ二場があってもなくても・別にどっちでも良いような感じに見えてくるのですね。そう云う感じに思えて来るのは、皮肉なことですが、仁左衛門と玉三郎のコンビが「役者の味でする芝居」の感触にどんぴしゃりに嵌まっているからです。

何だか褒めているのか・貶しているのかと思われそうですが、「役者の味でする芝居」と云うことならば、今回(令和5年4月歌舞伎座)の仁左衛門の与三郎は、なかなか興味深いものです。仁左衛門の与三郎は、与三郎の横影に差す暗い翳のようなものをあまり感じさせないようです。むしろポジティブな感触に思われるのです。このことは仁左衛門が当代随一の伊左衛門役者・上方和事の名手であることから類推すれば、スンナリ理解が出来るかも知れません。上方和事の「やつし」の本質は「今の私は本当の私ではない。今私がしていることは、私が本当にしたいことではない」という気分にあるわけです。これは決してぴったりは来ないのだが、与三郎の「ヒリヒリした感覚」にどこか重なるところがあるのかも知れませんね。仁左衛門の与三郎の役作りは、多分そこら辺を取っ掛かりにしているのでしょう。しかし仁左衛門の与三郎だと優美さが勝ってしまうのは仕方ないところで、だから上方和事の味がする与三郎であると言いたいのです。またこの行き方が長年繰り返して演じられて・段取りが洗練され尽くした「源氏店」の古典的な感触に妙に似合うのですねえ。仁左衛門の与三郎は、与三郎という役のひとつの典型であるとすることに吉之助は異存ありません。そう云う与三郎もありだと思います。

ただし仁左衛門の与三郎は、他の役者に容易に真似が出来るものでなく、仁左衛門だけのものと云う気がします。むしろこれから与三郎を演じる若手役者には、与三郎のなかに潜むヒリヒリした感覚・破滅への欲動をもっと強く意識してもらいたいですね。そうすれば、与三郎が甘い美男役者だけの役でなくなる可能性も出てくると思いますけどねえ。

(R5・4・7)


〇令和5年4月歌舞伎座:「与話情浮名横櫛」・その2

序幕・木更津海岸の場を見ると、与三郎は確かに大店(伊豆屋)の若旦那には違いありませんが、鳶頭金五郎に拠ると、与三郎の遊び好きにはどうやら深い理由がありそうです。実は与三郎は養子で、与三郎が養子に入った後・主人与左衛門に実子与五郎が生まれたのに・養父が義理を立てて与五郎を別家としたことから、養父の気持ちを案じた与三郎が俄かの放埓・現在は親類にお預けの身であることが、金五郎の口から語られます。このことからすると、与三郎は別に楽しくって遊蕩三昧していたのではないことが察せられます。しかし、そんな与三郎が木更津で飛ぶ鳥を落とす勢いの赤間の親分の妾に本気の恋をしてしまう、普通ならば親分の妾に手を出すなんて危なくって出来ないことなのだが、本気の恋だから与三郎はどうにも気持ちを抑えきれません。その背後にどこか捨て鉢な与三郎の精神状況があると云うことなのです。

「ファム・ファタール」(宿命の女)と云う言葉があります。例えばカルメンとかマノンのような女のことを指します。とても浪漫的な・19世紀的な感性の産物です。(これが幕末期の江戸の感性と時期が照応することは、実に不思議なことではありませんか?)一般によく誤解されるのは、ファム・ファタールが性的魅力で男をたらしこみ堕落・破滅へと導く悪女・妖女だという見方です。これが正しくないのは、彼女に魅惑された男の側からの視点が欠如しているからです。ファム・ファタールの正しい定義は、男から見て「この女と一緒ならば、例え地獄に落ちようとも、俺は構わない」とまで思わせる魅惑的な女と云うことです。そして男はその予感通り破滅するのですが、それでも彼は彼女を恨むことはない。それがファム・ファタールなのです。歌舞伎にも、「籠釣瓶」の八つ橋とか、そう云う女がいると思います。「与話情」のお富も、与三郎にとってそう云う女だったのでしょうね。

一方、お富にとっても、与三郎は「宿命の男」です。親分の妾であるお富にとっても、これは命を賭けた危険な恋なのです。現行歌舞伎で見るお富は終始受動的な印象で、与三郎に恋を仕掛けられたらなびき・多左衛門に囲われれば床の間の生け花みたいにそこに居るみたいな感じに見えますが、多分お富も内心に鬱々したものを抱えながら生きており、その沈滞した気分が与三郎に出会って一気に弾けたということなのです。如皐の原作を見ると、源氏店で与三郎が例の有名な啖呵を切った後、お富が「エエ静かにおしな。マア私の云うこともとっくり聞いたその上で、どうなとしたが良いわいなあ」と言い返しているのでちょっと驚きます。この後長台詞があって・お富が「そりゃ聞こえぬ、胴慾じゃわいなあ」と泣くところは現行と変わりないのですが、「エエ静かにおしな」と言い返すところにお富の気持ちの強さが感じられて、この台詞があるのと・ないのとでは、随分お富の印象が異なるのではないでしょうかね。与三郎は三年越しの恨みつらみを云うけれど、それを云うなら私だってずっと同じ気持ちだったんだから・・と云うのが、お富が言いたいことです。

現行歌舞伎の「与話情」の舞台からでも、察するならば、そのような「ヒリヒリした感覚」が全然見えないわけでもないのですが、長年繰り返して演じられて・段取りが洗練され過ぎたせいか、そこのところが見え難い。だから今回(令和5年4月歌舞伎座)のように、与三郎が「生涯お前を離さねえよ」と言ってお富を抱き締めるハッピーエンドは、確かにこれはこれで落ちは付きます。しかし、「これは何だかちょっと違うんじゃないの」という気分にはなりますねえ。事実如皐の原作を見ると、与三郎とお富の運命はまだこれからも波乱万丈なのですから。脚本に手を入れたい気がするでしょうが、あの宇野信夫も補綴に手を焼いたことだし、そこはあまりいじらない方が良いのかも知れません。(この稿つづく)

(R5・4・5)


〇令和5年4月歌舞伎座:「与話情浮名横櫛」・その1

与三郎役者と云うと、吉之助も現役ではやはり仁左衛門の名前がまず最初に思い浮かびます。そう言えば仁左衛門の与三郎を久しく見てないなあと思って調べてみると、東京・歌舞伎座での上演は、平成17年(2005)4月歌舞伎座(十八代目勘三郎襲名興行)以来のことなので、何と18年ぶりとのことでした。つまり玉三郎のお富との共演も18年ぶりです。

今回(令和5年4月歌舞伎座)の舞台にも感じることですが、仁左衛門の与三郎の良いところは、柔らかく色気のある身のこなしに、大店の若旦那としての育ちの良さ・人柄の良さがごく自然に立ち現れることです。例えば序幕・木更津海岸でのお富との出会い、ふと顔を見て立ち止まり・慌てて目を逸らすが・見ずにはいられない・そして内心の動悸を抑えつつ平静を装って会釈する、この辺りの呼吸は玉三郎のお富の上手さも相乗して、言葉は使わずとも、仕草だけでドラマを語る面白さです。源氏店で蝙蝠安に「生(なま)言うねえ」と怒鳴られて「そんなに言わなくってもいいじゃあないか」と言う若旦那らしい・甘えた口振りは、時とするとそこまでのお富に対する恨みつらみの口調からすると・わざとらしい変化に聞こえるきらいがあるものです。しかし、仁左衛門だとその変化がまったく違和感なく・ホントに自然に感じられるのは、与三郎の性根のなかの・大店の若旦那としての育ちの良さ、そこがしっかり保持されているからです。木更津海岸で若旦那としての与三郎を観客にしっかり見せていることも寄与していると思います。

ここに与三郎という役のひとつのタイプが示されていますが、仁左衛門の与三郎の上手さに感嘆しつつも・吉之助がやや不満を覚えるところは、与三郎の横影に差す暗い翳のようなものをあまり感じないことです。与三郎を初演した八代目団十郎は、美男役者として人気絶頂で・御曹司としての育ちの良さは他人が羨むほどでしたが、30歳の若さで謎の自死を遂げることになります。悩みか苦しみか、そのような暗い感情を肚のどこかに隠し持っていたのでしょう。そこがまたファンから見れば堪らない魅力となるわけです。だから八代目団十郎が演じる与三郎は、どこかに暗さを湛えていたと想像します。そのような与三郎の暗さは、後述しますが、脚本からも伺えるところです。一方、仁左衛門の与三郎は、何となく底が明るい印象がしますねえ。まあそう云う与三郎は、今回の幕切れのように、多左衛門がお富の実の兄だと判明して・与三郎が「生涯お前を離さねえよ」と言ってお富を抱き締めるハッピーエンドの落ちにはとても似合ます。(注:多左衛門が木戸を閉めたところで柝の頭となるのが普通のやり方です。)しかし、何となく芝居が上方の「廓文章」の伊左衛門を、江戸へ裏返したみたいにも感じますね。つまり上方和事の風味がする与三郎なのですが、そこに上方役者たる仁左衛門独自の工夫があると見るべきでしょうね。(この稿つづく)

(R5・4・4)


〇ぺルティレの「朝の歌」・続き

歌舞伎のサイトにイタリア・オペラの話が入ると引く方は少なくないと思いますが、吉之助の頭のなかでヴェルディの音楽がまだ鳴っていて・なかなか歌舞伎脳に戻らないので、もう少しリッカルド・ムーティの「イタリア・オペラ・アカデミー」の話を続けます。ムーティは

「イタリア語はレガートな言語なのです、常にレガートを意識するように」

と何度も言っていました。ぺルティレの歌唱を聴くと、イタリア語のレガートを生かすコツは、母音の使い方にあると、つくづく思いますねえ。例えば「朝の歌」の最初の一節は、

L'aurora di bianco vestita   白い衣装をまとった暁

ですが、ぺルティレは、Aurora(アウロラ、夜明けの光・暁)diディ、〜の)を大きく一括りにして膨らませる感じで歌っています。〜ロラディで三段上がりに声が段々高く上がって行くイメージですかね。vestita(ヴェスティタ、衣装を着た)の歌い方も特徴的です。〜ティ-タァと感動の溜息を漏らすように柔らかく丸めて歌っています。これらは他の歌手の歌唱にあまり見られない工夫です。おかげで言葉のニュアンスがふっくらと丸く立ち上がる感触に聴こえるのです。まさにムーティが望む「レガート」な言葉遣いです。これは義太夫節で云うならば、まさに「三段起こし」と「産み字運び」の技法だなあと思うのです。ムーティは、

「音楽的・楽譜的に正しいだけでなく、演劇的にも正しく歌ってください。これは演劇なのですから。そのために歌詞が求めているカラーをはっきり出してください。」

とも言っていました。これは前回(2年前)ムーティが言っていたことですが、

「Glorious(グローリアス)」には、「栄光の」と云う意味と・「美しい」と云う意味がある。一体どちらなんですか?「栄光で美しい」じゃないですよ。どちらなのかカラーで示して下さい。」

と云うことです。ぺルティレの歌唱はカラーが明確に聴こえて、音楽的かつ演劇的にも正しいと感じるのです。コツは母音の使い方ですねえ。こういうことは言語学的に母音の数が少ない(と思われている)日本語では事情が異なると仰る方が居そうですが、例えば武智鉄二はこんなことを言っていますね。

「五十音表を見ますと、ヱやンの字までいれて51字しかないわけですから、日本語は51の言葉の組み合わせだと思われているかも知れないが、実際に用いられる言葉はそうではないのです。子音の方はほとんど動きませんけど、母音の方は非常に動くのです。(中略)母音を五つの感情、「アハハ」と笑い、「イヒヒ」と笑う、「ウフフ」「エへへ」「オホホ」がそれぞれ微妙な感情(愉悦とか猜疑とか陰険とか軽蔑とか抑制とか)の差異のなかでとらえ、それを本来の5音、アイウエオと掛け合わせたら、5X5=25,つまり25種類くらいの母音を、日本語は実際には持っているということです。実際にはもっと無限に変化するでしょうけど、基本的には抑制、悲劇的な時にはウの型になるし、喜ぶ時はア、驚く時はオという風に、母音の使い方は感情と結びついて、さまざまに変化するのです。(中略)音遣いと云うことを義太夫などでも申しますが、これはいろいろな要素があると思いますが、そのひとつに、やはり風情の変化に伴う母音の変化も含まれていると思います。」(武智鉄二:日本語における「母音と子音」の問題、昭和54年4月、定本「武智歌舞伎」第5巻)

つまり義太夫では、25の母音の使い方で感情のカラーを出すということです。イタリア・オペラの世界では「音遣い」という概念はないと思いますが、イタリア語の特性下においてぺルティレは「音遣い」と同じことをやっていることに気が付いて、吉之助なんぞはそのことに思わず感動してしまうのです。そしてオペラと歌舞伎に何の違いもないと改めて思うのです。歌舞伎の台詞でも、このこと大事だと思いますよ。カラーをはっきり出すことが大事、そのコツは母音の使い方にあり、ですね。

(R5・4・2)


ペルティレの「朝の歌」

例によってオペラの話から入りますが、そのうち歌舞伎の話に絡んでいくと思います。現在・2023年度の東京春音楽祭の「イタリア・オペラ・アカデミー」の最中で、吉之助も聴講の機会を得ました。昨日(25日)で1週間ほどのリハーサルが終わり、明後日28日が本番となります。イタリアの名指揮者リッカルド・ムーティが若い音楽家たちにヴェルディの歌劇「仮面舞踏会」を伝授するという・またとない機会です。

歌舞伎のサイトを持っているせいもありますが、吉之助は音楽を聴きながら「ここは歌舞伎で云うならば・・」と考えたりすることが多く、オペラ(特にイタリア・オペラ)に関しては、これと歌舞伎を区別して考えたことはまったくないのです。洋の東西を問わず、真理はひとつと考えています。今回も示唆を受けたことはいろいろあるのですが、先日21日のソリストとのピアノ・リハーサルでムーティが、

「アウレリアーノ・ペルティレの録音を聴いたことがありますか?トスカニーニが最も信頼したテノールです。素晴らしいテノールですよ」

と言っていたので、本稿ではペルティレの録音をひとつ紹介したいと思います。吉之助はペルティレを知らないではなかったが、今回ムーティに言われて・改めてその録音を聴き直してみましたが、なるほどトスカニーニが・そしてムーティがペルティレを評価する理由がよく分かりました。これでムーティがヴェルディのオペラ演奏のなかで何を理想としているか感覚的に理解出来た気がしました。

音楽でも歌舞伎でも、「パフォーマンス芸術は生(なま)が絶対で、ビデオや録音では生(なま)の息を伝えることは出来ない」ということを言う方は少なくないと思います。しかし、それは息に乗せてビデオを見ようとしない(息に乗せて録音を聞こうとしない)から分からないのです。分かる人から言わせれば、例え映像なしの・アコースティック録音であっても、伝えるべきものは確実に伝わるのです。実際優れた音楽家は、他の人の古い録音を実によく聴くものです。「聴いた」と公言しないだけのことです。もちろんなかにはお手本として良くない演奏もあるわけで、ピアノ・リハーサルでもムーティが歌手の間違いを指摘して「どのテノールの録音を聞いた?」と掴みかかるおふざけをしていたけれども・言っていることは真剣で、いろんななかから「この表現は正しい・これは正しくない」(注:好き・嫌いではない)を判断出来るレベルにならないと、どんな分野でも一流にはなれないです。歌舞伎でも、昔の名優の映像・録音があれば、金払ってでも絶対見る(聞く)べきだと申し上げておきます。

そこでアウレリアーノ・ペルティレ(Aureliano Pertile)のことですが、ペルティレは1920年代から30年代・トスカニーニのミラノ・スカラ座音楽監督時代に重用された名テノールでした。遺された録音は決して多いと云えませんが、どの録音からもペルティレの名歌手たる理由が納得出来ます。そのなかから、本稿では、レオンカヴァルロの「朝の歌」を紹介したいと思います。「朝の歌」は超有名曲ですから、Youtubeでもいろんな有名歌手の歌唱を聴くことが出来ますから、是非聴き比べて下さい。伸びやかな声で・輝かしく・闊達に・心地よく歌う歌唱はいくらでもあります。しかし、ペルティレほど、気品を持った・そこはかとない香気を感じさせる・落着きのある歌唱は他にないのではないでしょうかね。しっかり足取りが取れて、テンポが揺れることがない端正な歌唱です。これが100年前の録音とは信じられないほど・古びない歌唱です。

レオンカヴァルロ:「朝の歌」
歌唱:アウレリアーノ・ペルティレ (1928年録音)

この歌唱の気品の高さはどこから出てくるのかを考えると、それは「曲が求めるイタリア語として正しい発声をしているからだ」と云う結論に落ち着くのです。テンポが揺れないから気品が出るのではないです。それは結果に過ぎません。イタリア語の発声として正しいから(つまり発声に無理なところがまったくないから)テンポを揺らす必要がない、無理するところがないからゆったりと息が取れる、ゆったりと息が取れるから喉に負担がかからない、だから無理なく朗々たる声が出ると云うことです。何とも言えない気品は、そこから立ち昇るものです。まったく歌唱のお手本のような録音ですね。この録音だけだとペルティレはリリック(抒情)系の歌手かと思われるかも知れませんが、他の録音をお探しになれば分かりますが、ペルティレはオテロのようなドラマティック系の役柄の激した場面でもまったく音が割れることなく・歌唱が揺れるところがありません。まったく畏れ入った大テノールです。

このペルティレの録音から、ムーティがヴェルディ演奏に何を求めているか(まあホントはヴェルディだけのことではないが、ムーティにとって特にヴェルディなのです)、はっきり見えてきます。それはヴェルディの音楽が持つ「気品」のことです。リハーサルでも、ムーティは

「イタリア語はレガートな言語なのです、常にレガートを意識するように」

「フォルティシモでも常に音楽的でなければなりません、バーンとピストルを鳴らすようなことをしてはいけない」

「オーケストラと一緒に歌ってください、室内楽のように」

としきりに言っていました。もちろんイタリア語と日本語はまったく違う言語ですけれど、音曲や台詞において、「テキストが求める言語として正しい発声をしているか否か」と云うことになれば、オペラと歌舞伎に何の違いもないと思います。

(R5・3・26)


〇令和5年3月京都南座:「五・六段目」(Aプロ)・その4

壱太郎は現在は女形の役どころが多いようですが、いずれ立役での活躍も増えていくと思います。上方型の勘平はそのための大事な布石ですが、堅実な芸を見せて・とても良い出来でありましたね。「30になるやならず」の年頃に相応の等身大の勘平で、このことが「六段目」のドラマに確かなリアリティを与えています。女形芸の裏打ちがあるから、手堅いなかにも・そこはかとない儚さを感じさせます。

上方型の勘平が観客に背を向けて腹に刀を突き立てるのは、菊五郎型と比べて地味に映るのは仕方がないです(腹切りのタイミングも菊五郎型とは異なります)が、これも上方型の全体の流れを改めて見渡せば、ドラマのなかで腹切りを突出させない(腹切りをサプライズにしない)ところに上方型の意図があると思います。これは、勘平はどんな形であれ・いずれ死なねばならぬ身であった・由良助としては失態を犯した勘平を許すわけに行かなかったと云うことなのです。その非情さを人一倍感じているのが(この場に登場しない)由良助です。勘平の処遇は、「九段目」での加古川本蔵の処遇と並んで、由良助が最も苦慮した案件であったと云うことです。「仮名手本忠臣蔵」を五段構成で読んだ場合、勘平が三段目の悲劇を担い・本蔵が四段目の悲劇を担うわけです。歌舞伎の上方型は文楽の段取りとは若干異なってはいるけれど・そこの骨格をある程度残しているので、勘平の死は観客に厳粛な印象を与えるだろうと思います。(別稿「勘平は死なねばならない」もご参照ください。)

上方型の「六段目」は勘平はもちろん大事ですが、周囲の人物が勘平を包み込むように全体で動いていくドラマなのです。だから芝居のアンサンブルが重要になるわけですが、今回(令和5年3月京都南座)の「六段目」はそこのところもよく出来ていました。そのなかで特におかやのウェイトが重いことは云うまでもないですが、千次郎のおかやはよく頑張りました。敢闘賞ものでありましたね。

(R5・3・23)


〇令和5年3月京都南座:「五・六段目」(Aプロ)・その3

本来「六段目」の上方型をベースに江戸・菊五郎型が出来たわけですが、上方型を滅多に見られない現在にあっては、上方型は菊五郎型の批判型としての意味を持つことになるでしょう。批判型とは、今まで「古典」として当たり前と感じていた菊五郎型のクリエイティブな力を再確認するための大事な指標になると云うことです。(同じ意味において「熊谷陣屋」の団十郎型に対する芝翫型も、批判型です。別稿「型とは何か」をご参照ください。)

菊五郎型のポイントは、主役のオレ(三代目菊五郎)の姿をカッコ良く・かつ効果的に決めて見せることです。「六段目」はもちろん勘平のドラマですが、勘平の気持ちで上方型を読み込んで・これをさらに勘平にフォーカスして磨き上げたのが菊五郎型です。だから菊五郎型で見ると、「もうちょっと真相が分かるのが早かったら・勘平は死ななくて済んで・仇討ちに参加できたのに・可哀そうに・・」と誰でもそう思うと思います。菊五郎型は観客にそう感じさせるように出来ているのです。

一方、上方型の「六段目」は、菊五郎型を慣れた目からは、菊五郎型よりもカメラをずっと後ろに引いて、周囲の人物を含めたドラマ全体を俯瞰した感じがします。人物はそれぞれ自らの意思を以て動いているが・相互に影響し合い、その関係性のなかで勘平は「誤解」に追い込まれ・自らも「誤解」をして・「悲劇」が起こることになります。そのなかで特に老母おかやが重要な役割を持つのは言うまでもないですが、おかやが誤解したからこうなったのではなく、そもそも誤解の原因が勘平にあるのです。すなわち勘平は主人判官の大事(三段目の刃傷)に居合わせなかった失態を犯し・死んでお詫びをせねばならないところを・ここ山崎の里で名誉回復の機会を待っている身です。(お軽を含む)舅与市兵衛一家も勘平の名誉回復を願っています。そんななか一刻も早く資金を用立て・由良助様に仇討ちの仲間に入ることを認めてもらわねばと云う焦(あせ)りが、勘平を悲劇に追い込むのです。菊五郎型は別に大事の台詞を切り捨てたわけでもないのですが、勘平にフォーカスし過ぎたせいか・つまり観客を勘平に過度に感情移入させてしまうせいか、何となくそのところを見えにくくしているようです。だから、今回のように直近で両者を並べて見ると、上方型の方が視界が開けた印象がしますね。そこが上方型の「新しさ」だと思います。

菊五郎型と上方型との相違は挙げたら切りないですが、特に印象的なのは、紋服の扱いだと思いますね。菊五郎型では、一文字屋お才とのやり取りで・財布の縞柄を見とがめた時、浅黄の紋服と大小をお軽に持って来させて着替えます。上方型では、二人侍が来た時・勘平は慌てて仏壇下の押し入れから紋服と大小を取り出しますが、おかやに紋服をひったくられて着替えられない。真相が明らかになった後・勘平が落ち入る時に、おかやが勘平の背中に紋服を掛けてやると云う段取りになっています。結局、勘平は「塩治家に奉公する武士としての私」というアイデンティティにこだわり続け・そのために命を落すわけです。紋服の扱いがそのことを象徴しています。(この稿つづく)

(R5・3・20)


〇令和5年3月京都南座:「五・六段目」(Aプロ)・その2

上方型の「六段目」が近代の自然主義演劇のように「新しく」感じられると云うのは、普段は菊五郎型ばかり目にしており・たまにしか見ないから新鮮に映るということも確かにあろうけれど、そこから上方歌舞伎と江戸歌舞伎の芸の在り方を考えることも出来ると思います。

別稿「上方芸の伝承と四代目藤十郎の芸」で触れましたが、上方の芸の伝承の根本は、「芸は教えるもんやおまへん、自分で工夫しなはれ」ということなのです。しかし、「自分で考えて・自分の解釈で演じなさい・それは誰から教えてもらうものでもない」という考え方は西欧演劇ならば至極当然の考え方なのです。だから上方の芸の伝承は西欧のそれに近い、と云うよりも、洋の東西・時代を越えた普遍的な考え方であると吉之助には思えるのです。ですから先人の工夫を「型」として受け継ごうとする江戸歌舞伎の芸よりも、上方芸の方が本来創造的で・活力に富むということになる(はずである)。折口信夫が「大阪人の野性味」と云うことを言っていますが、それです。

『三代住めば江戸っ子だ、という東京、家元制度の今尚厳重に行われている東京、趣味の洗練を誇る、すい(粋)の東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、固定した家は、同時に滅亡して、新来の田舎者が、新しく家を興す為に、恒に新興の気分を持っている大阪、その為に、野性を帯びた都会生活、洗練せられざる趣味を持ち続けている大阪とを較べて見れば、非常に口幅ったい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、都会文芸を作り上げる可能性を多く持っているかも知れません。西鶴や近松の作物に出て来る遊治郎の上にも、この野性は見られるので、漫然と上方を粋な地だという風に考えている文学者たちは、元禄二文人を正しゅう理解しているものとは言われません。その後段々出てきた両都の文人を比べても、この差別は著しいのです。このところに目を付けない江戸期文学史などは、幾ら出てもだめなのです。江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ(野暮)過ぎるようです。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

ですから、上方型の「六段目」が近代の自然主義演劇のように「新しく」感じられると云うことは、まさにそのような上方歌舞伎の芸の在り方を真っ直ぐに見せていると云うことなのです。そのようなことを教えてくれる上方歌舞伎の好例は、「六段目」以外にないわけでもないですが、まあそう多くはありません。従って、上方型の勘平はこうやって・江戸型ではああやって、ここが違う・あそこが違うという見方は、まあそれは知識として役に立つことではありますが、実は大したことではない。もっと学ぶべきことが他にあるのです。直近で両者を並べて見る得難い機会ですから、「上方歌舞伎の芸とは何か」と云うことも考えてみると面白いと思いますね。

「江戸歌舞伎の芸は創造的でない」と聞こえたかも知れないので・付け加えますが、これは江戸歌舞伎の芸の在り方が「伝承・様式」に重きを置いていると云うことです。それが証拠に現代では、江戸歌舞伎は生き残り・上方歌舞伎は消滅の危機に瀕しています。歌舞伎は過去に発し・過去から高められる芸能なのですから、「伝承と創造」・この二つの要素がバランス良く立つことで、これからも歌舞伎は続いて行くということになるでしょうね。(この稿つづく)

(R5・3・16)


〇令和5年3月京都南座:「五・六段目」(Aプロ)・その1

令和5年3月京都南座の花形歌舞伎は、「仮名手本忠臣蔵〜五・六段目」の勘平を、Aプロでは壱太郎(32歳)が上方型で、Bプロでは右近(30歳)が江戸・菊五郎型で、競演すると云う趣向が面白そうなので、京都まで行ってきました。勘平さんは「30になるやならず」のお歳頃ですから、役と役者がちょうど旬が似合うことでも期待されます。本稿では、Aプロの壱太郎の上方型の勘平を取り上げます。壱太郎が勘平を勤めるのは、今回が初めてであるようです。

現行歌舞伎で「六段目」を見る時・それは大抵江戸・菊五郎型であって、上方型の勘平を見る機会はほとんどないわけです。吉之助も両者の違いを知識として承知はしていますが、こうやって直近で並べて見比べてみると、まことに興味深いものがあります。どちらが良いかとか好きかとかは置いて、上方型の場合・現地(京都山崎)がすぐそこですし、地理風俗・生活感覚がリアルなものになるのは、これは当然のことです。そこのところは吉之助としては改めて感じ入るほどのことはないのです。

直近で両者を並べて見て吉之助が感じ入るのは、むしろ菊五郎型の方が様式的で・古い感覚に見えて来るほど、上方型が新しいと感じることです。つまり「型臭さ」をあまり感じないと云うことです。ここから近代の自然主義演劇へは、距離はそれほど遠くないと思うのです。(菊五郎型の様式性については、逆の観点から同月Bプロの観劇随想のなかでちょっと触れました。) そう感じるほど六段目の上方型は、勘平以外の役者の何気ない台詞・動きまでも、細かく自然に造られています。これも元を正せば、人形浄瑠璃(丸本)の「六段目」のテキストが良く出来ているからに違いありませんが、歌舞伎の上方型は原作の良さを素直に生かしています。

それにしても、近松物の「封印切」や「河庄」など、現行上演ではちょっと感触が様式的な方向へ後退しているように感じますが、同じような演出コンセプトで自然主義演劇的に処理してみたら、もっとドラマが活き活きして来るのではないでしょうかねえ。(そのためにはテキストを若干手直しする必要があるかも知れません。)そのようなことを考えさせるヒントが、この「六段目」の上方型にはあると云うことです。(この稿つづく)

(R5・3・15)


〇令和5年3月京都南座:「五・六段目」(Bプロ)・その2

今回(令和5年3月京都南座)の「五・六段目」(Bプロ)の右近の勘平ですが、まず風貌が艶やかであることが、大きな魅力です。そこに過酷な運命のいたずらで散っていく若者の花の儚さを感じます。これは持って生まれたもので・役者本人が意識して表出できるものでもないので、右近が恵まれたところです。菊五郎型は正面を意識して・いい形をしっかり取るわけですが、そう云うところも手堅く見せて一定の成果を挙げて良い勘平です。そこのところを認めたうえで、さらに上のレベルの勘平を目指すためにどうすれば良いかを考えてみます。

前章で「形としてカッコ良く決めることはもちろん大事だが、そこへ向けて決めて行く過程(プロセス)も同じくらい大事だ」と書きました。形をカッコ良く決めるということは・踊りの振りみたいなもので、まあ「様式」みたいなものであると考えて宜しいでしょう。良い形を決めるために・その前の過程があるわけですが、菊五郎型の場合には・そこは共演者の動きも含めて・その形に至るまでの入念な計算がされているのです。そうすると・そこに至るまでの過程もまた「様式」であると考えて良いわけですね。今回はAプロで上方型の勘平を並べて見たおかげで、いつもより三代目菊五郎の演出意図(敢えて演出と呼ぶことにする)がはっきり見えた気がしました。その良い形を作るために・どのような線を描きながら・その形にまで至るか、そこに息を詰めた緊張が続くわけです。それが踊りの振りのような様式感覚に通じるだろうと理解します。

印象論的な言い方になりますが、右近の勘平は勘所はしっかり決めて宜しいのですが、そこに至るまでの過程において・様式感覚が失せる場面があるように思われるのです。どうやらそれは右近が写実の方向に意識を向けることで起きている気がするのです。もともと右近は生(なま)な表現意欲が勝ち過ぎるところがあって、それはもちろん良いこともあるわけだし・そこが右近の大きな魅力なのだが、今回の「六段目」では写実の場面が上手く嚙み合っていない感じがします。ここは全体的にもう少し様式的な流れを意識をした方が良いかと思いますね。もちろん「六段目」は世話場であるし・菊五郎型では写実は大事なことですから、普通だと吉之助も「写実に・もっと写実に」と書くところですが、右近の勘平に対しては「様式に・もっとたっぷり様式に」とアドバイスしたい気がしますね。恐らく少々時代の感触になるかも知れませんが、むしろその方が右近の勘平にとっては良い結果を生むのではないかと思いました。

例えば勘平が一文字屋お才に「左様なればその縞と同じ縞の財布を・・」と言う時と・この後に「軽、茶をひとつくりゃれ」と言う時の台詞は、色合いがはっきり異なるのです。ここは低調子に変えても良いし・言い方が重く改まるでも良いし・やり方はいろいろありますが、兎に角ここでググッと台詞の色合いがシリアスな方向に変わる、これでドラマが全然違う局面へ入っていく、ここから勘平は悲劇へと転げ落ちていく、そのことが観客に明確に示されねばならぬのです。もしかしたら若い人はそういう風にガラッと色合いを変える技巧を「わざとらしい・様式臭い」と感じるかも知れませんが、菊五郎型はここでそういう感覚を求めているのです。自分をかっこ良く見せるためだけに菊五郎型があるのではないのです。清元と役者の二刀流を目指す右近ならば、音曲の流れを聞くようにそう云うことを分かって欲しいと思います。

まあそんなことなど感じたのは、前座・解説コーナー「忠臣蔵のいろは」(Aプロ)での右近を先に見ていたからかも知れません。親しみやすさを出したい意図だと思いますが、右近は観客に素顔で対そうとする印象でありましたねえ。花形役者の登場で客席は沸いておりましたけど、肝心の解説の方は(台本があるはずだが)言葉が急いた印象で・言い直しもあったりして、あまり良い出来とは言えませんでした。そこは芝居でなくても・お客の前では「演じる」意識がなければならないでしょう。素顔で対するように「演技」をしてもらいたいわけです。もちろん本番の芝居での「五・六段目」の右近にそんな態度が見えたわけではないのですが、ちょっと似たような印象を持ったのは、右近は勘平でも生な表現で様式に刺さり込もうとする、そう云うことがしたいのだろうなあと言うことです。その気持ちは痛いほどよく分かるけれども、今は「もっとたっぷり様式に、様式的に写実しなさい」と申し上げたいところです。

しかし、良いところがたくさん見えた勘平でしたよ。二人侍の登場で・刀身で姿を映して髪を直した後・ばっと立ち上がる時の息にはハッとさせられました。「これはこれは見苦しきあばら家へ・・」の台詞を高調子に張り上げて得意顔の役者が少なくありませんが、右近は低調子に抑えて言っていました。ここは低調子で言うのが正しいのです。はるばる京都まで出掛けた甲斐がありました。

(R5・3・12)


〇令和5年3月京都南座:「五・六段目」(Bプロ)・その1

令和5年3月京都南座の花形歌舞伎は、「仮名手本忠臣蔵〜五・六段目」の勘平を、Aプロでは壱太郎(32歳)が上方型で、Bプロでは右近(30歳)が江戸・菊五郎型で、競演すると云う趣向が面白そうなので、京都まで行ってきました。勘平さんは「30になるやならず」のお歳頃ですから、役と役者がちょうど旬が似合うことでも期待されます。本稿では、Bプロの右近の菊五郎型の勘平を取り上げます。右近の勘平は、平成28年(2016)8月の自主公演「研の会」が最初で、本興行ではこれが初めてのことであるそうです。

「六段目」の上方型と江戸・菊五郎型のどちらが良いかとか好きかとかは置いて、こうして直近で見比べてみると、改めて菊五郎型の演出意図がはっきり見えて来ます。ここには三代目菊五郎が演じる主役勘平をカッコ良く・かつキレイに、儚く散っていくところを見せるために、舞台に登場するすべての役者の動きまでもコントロールしようと云う意図が見えます。普通に「型」と云えば、それは役者個人レベルの工夫であって、他の役者にこれに付き合えと必ずしも強制は出来ないわけです。しかし、「六段目」の菊五郎型は、他の役者に全面協力をお願いせねば成立しないものです。ここに見えるものは、もう従来の「型」の概念を逸脱しており、これははっきり「演出」と呼ばねばならぬ次元のものです。三代目菊五郎が圧倒的な権限を持った座頭役者・誰もが抗弁できない人気役者であったからこそ、それが出来たということなのですね。当時の概念としてこれを菊五郎「型」と呼び・現在の我々はそれを当たり前のスタンダードな「型」として見ていますが、今回・直近で原型と云うべき上方型とを見比べた時、菊五郎型が持つ革命性を改めて痛感せざるを得ません。ちなみにこのレベルにまで作り直しが出来た成功例は、歌舞伎のなかでも多いわけではありません。それは同じく菊五郎型の「鮓屋」とか・明治になってからですが九代目団十郎型の「熊谷陣屋」とか、ホントに少ないのです。

感じ入るのは、主役のオレ(三代目菊五郎)の姿をカッコ良く・かつ効果的に決めて見せることがもちろん菊五郎型の最終目標ですが、そのために台本を全面的に手直しして・そこへ向けた段取りを(共演者も含めて)綿密に定めていることです。例えば勘平が観客の方を向いて刀を腹に突き立てたり・或いは「色にふけったばっかりに」で頬にべったり血糊を付けるのは、鮮烈な印象を与えます。そこは上方型が地味に見えかねないほど有利な点ですが、そう云うところばかりに工夫があるわけではない。形としてカッコ良く決めることはもちろん大事だが、そこへ向けて決めて行く過程(プロセス)も同じくらい大事なのだろうと思うのです。言い換えれば、過程がしっかり出来なければ、肝心の決めるところが引き立たないことになるわけです。(この稿つづく)

(R5・3・10)


〇令和5年3月歌舞伎座:「廓文章」

「廓文章」が芝居か舞踊かと云うのは難しい問題です。もともと近松の「夕霧阿波鳴渡」の上の巻からの改作であるので、芝居味の勝った舞踊劇というべきでしょうかね。舞踊という観点からすると、伊左衛門の和事芸のはんなりした柔らかい身のこなし(所作)が、どこか踊りの振りに通じる様式的な感覚が大事になると思います。そのせいか伊左衛門と云うと風情本位の役に見られることが少なくないようです。

しかし、伊左衛門は、同じく和事であっても治兵衛や忠兵衛とはちょっと違うところがある役です。それは伊左衛門が(勘当の身ではあるが)大店の若旦那であることです。一見なよなよしているようだけれども、どこかにピンとしたところがないと伊左衛門にならないのです。そこが伊左衛門のシリアスさ(実の要素)です。これが(反舞踊的な)芝居の要素に通じると思います。ですから「廓文章」は舞踊と芝居の要素の微妙なバランスの上に立っているのです。

「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」というのが、伊左衛門の性根を表す大事な台詞です。勘当の身であるから現実はどうにもならないわけですが、「そんなもん何とでもなるわい」と伊左衛門は心底思っています。そこが伊左衛門の人物の大きさです。それがあるから喜左衛門夫婦も誠意を以て伊左衛門に対するのです。本来ならば商売なのですから喜左衛門夫婦は、金のない伊左衛門に冷たく接しても良いはずです。そうならないところが、すなわち伊左衛門の人徳です。そのようなポジティヴ思考の伊左衛門であるからこそ、目出度く幸運の結末を引き寄せたということでしょう。他愛ない芝居のようだけれど、この芝居が教えるところはそう云うことかも知れませんねえ。ポジティヴ思考は大事なのです。

今回(令和5年3月歌舞伎座)の愛之助の伊左衛門ですが、花道に登場した最初の内はちょっと渋いかな・もう少し身体に色気が欲しいかなと思ったのは事実ですけど、後へ行けば行くほど尻上がりに面白くなる伊左衛門ですねえ。ともすれば舞踊の方へ(つまり風情の方へ)傾きがちな「廓文章」を、シリアスな芝居の感触へと引き戻した印象がします。伊左衛門の台詞ひとつひとつが、真実味を以て発せられていることが、よく分かります。「(夕霧に)逢わずにいっそ帰りましょ」も真実、「さりながら喜左衛門夫婦の心遣い」と言うのもどちらも真実です。多くの場合伊左衛門は、本音は夕霧にいたいのを喜左衛門夫婦のことを口実にするかの如く聞こえます。そうではなくて、「夕霧に逢いたいけれど憎らしさが募る、逢いたくないけど愛しさが募る」、二つの気持ちに揺れるところに伊左衛門があるのです。喜左衛門夫婦への感謝の気持ちは真実です。愛之助は、そのような伊左衛門の真実を適格に表現して見せました。付け加えれば、これは真実味のあるサポートを見せた鴈治郎と吉弥の喜左衛門夫婦の功績でもあります。

玉三郎の夕霧は変わることなく眼福ものの美しさです。愛之助の伊左衛門の実のおかげで、夕霧の美しさが一層引き立って見えました。上出来の「廓文章」でありましたね。

(R5・3・8)


〇「黙阿弥オペラ」・余談

別稿「黙阿弥オペラ」観劇随想に於いて、明治12年(1879)9月・東京新富座で初演された「漂流奇譚西洋劇」(ひょうりゅうきだんせいようかぶき)のことに触れました。歌舞伎に劇中劇として西洋劇ならぬオペラを挿入する奇天烈な発想が黙阿弥(当時は河竹新七)のものだとは到底思えません。多分これは福地桜痴か演劇改良運動の誰かの差し金でしょうねえ。黙阿弥は桜痴に勧められて同年2月新富座初演の散切物「人間万事金世中」を書いてもいます。これは英国の劇作家リットンの喜劇「金(マネー)」を翻案したもので、関係資料を提供したのが桜痴でした。黙阿弥の翻案はさすがに上手いものだと感心します。しかし、これもよく考えてみれば、黙阿弥が喜んでやった仕事とは思えません。

河竹登志夫先生は、論文「「漂流奇譚西洋劇」考〜歌舞伎近代史の転換点」(日本演劇学会紀要・37巻・平成11年・1999)のなかで、もし「漂流奇譚」が成功を納めていたとすれば、更にこんな翻案物が出来ただろうと推測していらっしゃいます。それはシェークスピアの「ハムレット」の翻案物です。九代目団十郎が桜痴から「ハムレット」の筋を聞いて・是非やりたいとその気になったが、桜痴にそれをする時間がないので、話が黙阿弥に回ったそうです。黙阿弥はセリフも入ったかなり詳しい筋書的なメモを残しており、ハムレットは里見義豊と役名も決めていたようです。しかし、「漂流奇譚」が大コケして新富座座元・守田勘弥の西洋熱が冷めてしまったため、「ハムレット」の翻案物の企画が音沙汰なしになってしまったようなのです。

調べてみると、文明開化の明治のこの時期には、歌舞伎でこんなことをやったのかと驚くようなことが、実際いろんな場面で行われています。例えば、これは黙阿弥の死後のことなので・「黙阿弥オペラ」からは離れますが、明治29年(1896)1月歌舞伎座・「京鹿子娘道成寺」は九代目団十郎の白拍子花子で、長唄はいつものものでしたが、「恋の手習い」にバイオリンで・「山尽くし」にピアノで、ユニゾンを加えるという和洋合奏のスタイルで大いに話題を集めたそうです。ユニゾンとは、長唄の三味線と同じ音を付けただけで、西洋音楽らしく和声を加えたものではなかったと云うことです。それにしても、これがなかなか好評であったようで、歌舞伎新報の劇評では、

「歌舞伎座の所作道成寺の鳴物中に音楽倶楽部員の西洋楽を加えたり。合いの手の最も細密なる妙所にいたる毎に観客は一斉にこれを賞す。同部員の得意想うべし。音楽倶楽部万歳万歳。」

と書かれています。九代目団十郎がやったということでこれが後世の規範として残らなくて幸いであったと云うのが本音ではあるけれど、ここで我々が知っておかねばならぬことは、九代目団十郎は伊達や酔狂でこう云う実験をしたわけではなく、「真剣」そのものであったということです。このような試行錯誤を散々やってきた果てに、明治30年(1897)前後から始まる九代目団十郎の歌舞伎の古典化の動きがあると理解する必要があります。まあそれにしてもこういう渦中で狂言作者の筆頭として批判の矢面に立たされた黙阿弥は「苦しうござんしたろうねえ」と改めて思うところです。

九代目団十郎の「道成寺」の話は、奥中康人著「和洋折衷音楽史」(春秋社)のなかで詳しく書かれています。

(R5・3・4)


〇令和5年2月池袋あうるすぽっと:木ノ下歌舞伎・「桜姫東文章」・補足

木ノ下歌舞伎の現代劇版「桜姫」については、別稿「円環感覚の喪失」にて論旨は尽くされていますが、雑談的に補足をすることにします。吉之助が見た初日から間もない5日の上演では、観劇随想に記した通りの・寸切れの幕切れでした。或る方に教えていただきましたが、千秋楽近くの幕切れは、これとは若干やり方が違っていたそうです。都鳥の一巻を持った桜姫に葛飾のお十が近づいて行き一巻を受け取り、お十が一巻をポンと後ろへ投げ捨てたそうです。「ハレルヤ」の掛け声は別の脇にいる役者さんが発したそうです。

まあ演出の岡田利規氏も、幕切れに悩んで・いろいろ試行錯誤しているのだなあと云うことは分かりました。ただし相変わらずちっちゃいところにお悩みだなとは思いますねえ。封建社会・身分社会の不条理とか理不尽とか云う視点は、それを思い付いた時には如何にも現代的な・かつ普遍的な切り口であるかのように思うだろうけれど、それは実はホントにっちゃいことなのです。そんなところにこだわっている限り、打開策は見つからないでしょう。そう云うことを芝居で言いたいならば、別に材料が「桜姫」である必要はないはずです。仇討ち物だか身替り物でやれば、もっと批判視点が明確に出来ます。しかし、それさえちっちゃいことなのですがね。「忠臣蔵」に封建批判がないわけではないでしょうが、それを越えたところで「それでも俺はやらねばならない」と云うところに人間ドラマがあるのです。芝居中の登場人物に対し、ポジティブなものであれ・ネガティブなものであれ、共感が得られなければ古典の再解釈は出来ぬものです。

芝居中の人物は生きているのです。桜姫はもちろんですが、葛飾のお十も、残月・長浦も、悪五郎でさえも生きているのです。もし葛飾のお十が都鳥の一巻を投げ捨てたとしたら、これでお十は彼女がこれまで生きてきたことのすべてを否定したことになるのです。桜姫のためと云うか・お家存続のために命を掛けてきた人すべてを否定したことになるのです。そんなことがあり得ますか?詰まらないことかも知れないけれど、そんな詰まらぬものにこだわりながら、この不条理で理不尽な世の中に人は生きているのであって、そのなかで桜姫もお十も両方が「立つ」結末をお考えいただきたいものですねえ。「勝手にすればいいさ、ハレルヤ」では何も生まれません。それは古典から何も受け取っていないということです。まあ見解の相違ということですがね。

別稿「円環感覚の喪失」で詳しく触れましたが、三囲の場で登場する小雛の和歌は、片方に主筋(桜姫)のために身替りとなって死んだ哀しい娘(小雛)がおり、もう片方にそんなことはお構いなく・道ならぬ恋に身を持ち崩す(つまり御家存続のために奔走する家来達の気持ちも考えず自分勝手に振る舞う)お姫様がいると云うことで、桜姫が批判されていると考えることは(こじつければ)出来ないことはないかも知れません。しかし、前場の郡司兵衛内の場を読むと、小雛の許婚・半兵衛が和歌を「不義の証拠だ」と決めつけるのはまったく無理繰りの解釈ですが、和歌のなかにそう云う気分(恋の気分)がないわけではないのです。桜姫の惨めな状況を傍に置いて、小雛は自分には半兵衛という許婚がいることの幸せを感じています。だから桜姫はこれに感応して「まさしく恋歌」と呟くのであって、半兵衛もまさにそこを捉えて・小雛を桜姫の身替りにするための口実に無理矢理しているわけです。つまり半兵衛は分かっているのです。と云うことは、三囲の場でこれがリフレインされる時、小雛の和歌は示導動機(ライトモティーフ)としてどのような暗喩を持つでしょうか。

郡司兵衛内の場は文化14年の初演以来上演されていませんが、一見すると本筋と関係なさそうなドラマに見えるこの場を、桜姫の本筋に繋ぎ止めるために、桜姫の涙が必要であったのです。そうでなければ、この場は本筋から切れてしまうでしょう。桜姫の涙がそのまま小雛のための供養になるのです。同時にそれは三囲で傘で雨をしのぎながら焚火して・わずかな暖を取る清玄の心象風景とも重なってきます。清玄の心のなかは桜姫のことで一杯です。桜姫のためならば・・雨も風もいとわめ。これを言いたいためだけに南北は小雛の和歌を三囲の場に登場させているのです。それで十分ではないでしょうか。そこに自分勝手に振る舞う桜姫への皮肉などが入り込む余地はありませんね。そう云うことは、ちっちゃいことなんです。まあこれも見解の相違ということですがね。

(R5・3・1)


〇令和5年2月歌舞伎座:「三人吉三巴白浪」

毎度言いたくないのですが、今回(令和5年2月歌舞伎座)は、さすがに「通し狂言」とは銘打っていませんが、いつもの定形とされる通し上演の形からすると土左衛門伝吉内と報恩寺前伝吉殺しの二場が省かれた端折り上演です。「コロナだから・三部制だから仕方がない」と言い訳しつつ、歌舞伎の総本山であるべき歌舞伎座で、こんな中途半端なことを続けていると、芝居の味わいはますます薄くなり、将来的に観客を遠ざけることにしかならないのではないでしょうか。「三人吉三」は二部制のために取っておくと云う見識が必要だと思いますね。三部制だから時間に限りがあると云うなら、他にやるべき狂言はいくらでもあるでしょう。今回の端折り上演でも、和尚吉三が吉祥院で伝吉因果物語のあらましを台詞で語りはしますが、観客に伝わることは知れています。これで筋が通せるわけではありません。

結局、伝吉の悪事の因果に絡め取られたのはおとせと十三郎だけではなく、三人の吉三郎も伝吉因果物語の一端をそれぞれ背負わされていたわけです。そして終には三人共に因果の糸に絡め取られて散っていく。これが「三人吉三」のドラマです。それは大川端でお嬢吉三がおとせから百両奪ったところから始まったかの如く芝居では見えますが、実は伝吉因果物語はずっと以前から仕組まれていたことでした。一旦止まっていたシステムがお嬢吉三の盗みをきっかけに再始動したと云うことです。因果の恐ろしさを心底実感する者は、土左衛門伝吉しかいません。伝吉は善心に立ち返り「もう禊(みそぎ)は済んだ」と思っていたはずです。しかし、そうではなかったのです。だから伝吉が登場しない「三人吉三」通しは意味がないと云うべきです。

まあ現代人がこのような因果の様相を好んで見たいかと云うと、そこはどうかとは思います。犬の報いと言っても、現代人にはおぞましいだけです。そこをサラリと流してしまいたい気持ちは、吉之助にもよく分かります。しかし、「三人吉三」の底に流れる・救いようのない暗さは、多分直視せねばならぬものです。それがなければ幕末の・黙阿弥物にならないと思います。ともあれ今回(令和5年2月歌舞伎座)の「三人吉三」は、総体的には悪くない出来に仕上がりました。それだけにいつもの定形の通し上演でなかったことは、惜しいことでした。

前回歌舞伎座での「三人吉三」通し上演平成元年10月)と愛之助のお坊吉三・松緑の和尚吉三と配役が同じですが、両人とも芸の進捗を見せてくれました。愛之助は1月歌舞伎座の弁天小僧も悪くなかった(若干威勢が良過ぎたところはあった)が、お坊吉三は柄・雰囲気共にさらにしっくり来る感じで、黙阿弥物の人物になりました。お坊らしいおっとりとしたところに、どこかほの暗い陰が差すという印象でしょうか。七五調の台詞もよく出来て、近頃上出来のお坊吉三であると思います。松緑の和尚吉三は、若干二拍子気味のところはあるが、台詞の癖が少し落ち着いて来た感じです。良かったのはお坊・お嬢に対して・和尚がしっかり兄貴分に見えたことです。壱太郎のおとせは、1月歌舞伎座の求女に続いて上出来。2月続きで同じような役なのは気の毒でしたが、壱太郎が登場すると、ぐっと芝居の味わいが濃くなる気がしますねえ。

七之助のお嬢吉三も悪くありません。スカッと割り切れた健康的な印象で、例えは悪いが「風の谷のナウシカ」のクシャナのような感じです。初めて大川端を見た観客には受け入れやすいかも知れませんね。良かれ悪しかれ、こう云うお嬢吉三がこれからの歌舞伎の主流になって行きそうな気もします。しかし、まあ吉之助の好みからすると、ちょっと色気が薄い感じです。1月歌舞伎座の強請場のおさよ同様、もう少ししっとりと内輪なところを望みたい気がします。

(R5・2・22)


〇令和5年1月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」・その2

勘九郎の南郷力丸はかつきり勤めて悪くない出来ですが、ちょっと台詞を張り気味の感じがしますねえ。張り気味であると、印象が時代っぽくなります。芝翫の玉島逸当(武士を装う日本駄右衛門)は、張り気味の印象がさらに強い。芝翫は「押し」が効く容姿を持っているのが有利なことですが、「らしさ」に頼るところは相変わらずで、「楼門」の石川五右衛門みたいな大時代に近い感触です。もう少し声を低く抑えめにした方が世話に聞こえると思います。

武士を装っているのだから時代で良いのではないかと仰るかも知れませんが、世話物のなかの武士なのですから、当然時代物の武士の感触とは自ずと違ってくるものです。武士の役に世話の様式はあるのか?もちろんあります。五代目菊五郎の芸談に「堀越(九代目団十郎)の逸当は「この場で乳房を改め見ようか、さあさあさあ」を世話でやって・これが良かった」と書いてあります。団十郎がここを世話でどのようにやったか想像して欲しいと思います。団十郎はここを何故世話で行ったのでしょうか?それは、この直後に図星を指された弁天が顔を上げてワナワナ・・とするシーンを時代の感触にして引き立てるためです。今の逸当役者は、誰もそんなことしませんけどね。世話と時代の生け殺しこそ大事なのです。様式は肚から出るものでなくてなりません。「武士の役だから時代っぽくすればそれで良い」みたいな思い込みが一様にあるのじゃないですかね。

それでも今回(令和5年1月歌舞伎座)の「浜松屋」は、テンポ早めに生き生きした感覚を追及しようと云う意識があって、総体的にまあまあの出来であったと思います。他方、様式性が強い「稲瀬川勢揃い」の方は、問題がありそうです。今回の勢揃いは台詞がテンポ早めなのはそれは良いとしても、互いに張り合う気分でやっている感じです。五人共みんな台詞の勢いが付き過ぎで、まくし立てる印象になっています。(愛之助も勘九郎も浜松屋よりテンポが早くなっています。)確かにこの場面には「俺が俺が・・」という気分はあると思います。しかし、それが五人揃った時に大きな様式の流れに(大川の滔々たる流れに)見えてくるように設計をしていただきたいですねえ。黙阿弥がどうしてこの場を大川堤に設定したか考えて欲しいと思います。ここにそのような様式の流れ・揺らぎらしきものは見えて来ません。各々「俺が俺が・・」が強過ぎではないでしょうか。

その結果、台詞の勢いは付いているけれど、みな早めの二拍子のダラダラ調の言い回しになってしまいました。「様式性」と云うと何だか時代っぽい感覚に受け取ってしまい勝ちだけれども、全体的にもう少し遅くゆったりとしたテンポで台詞を回して、七五のリズムの揺れを愉しむ余裕、そう云うことで、世話の様式が立つと思います。それと台詞以前のことですが、前の人の流れを受け取って・その流れの上で自分の台詞を言うことを心掛けて欲しいなと思いますね。

(R5・2・17)


〇令和5年1月歌舞伎座:「弁天娘女男白浪」・その1

いつぞや伝言ゲームの原理を引いて、何十年に一度なんて云う珍しい狂言の方が崩れが少ない、上演頻度が高い狂言ほど気を付けなければならないと云うことを書きました。そう云うわけで型の崩れが大いに危惧される人気狂言の筆頭は、「勧進帳」と「弁天小僧」と云うことになります。まあみんな似たようなことをやっていますが、受ける印象が微妙にバラバラ。その違いは役者の味から来るということになって・これで良しということになっています。確かにみんなそれぞれ自分の思うところを真摯に努めていると思います。しかし、そこから本来の、と云うか・共通項としての、理想の「勧進帳」や「弁天小僧」をイメージすることは、なかなか難しい。

まあそんなことを考えながらいつも舞台を見るわけですが、今回(令和5年1月歌舞伎座)の「弁天娘女男白浪」の舞台は、よく言えば、テンポ早めに生き生きした感覚を追及していると云えそうです。逆に云えば、ちょっと急いた印象で落ち着きに欠けるところがあります。そこの塩梅が難しいわけですが、総体としてはもう少し様式感覚を求めたい気がします。と云うか、これは別にこの舞台に限ったことではないのだが、「様式と写実」、「時代と世話」とかいう時の、目指すところの具体的な表現の基準が各々ちょっとずつズレているように思われる。だから落ち着かない感じになるのだろうと思います。

愛之助の弁天小僧ですが、娘でいる時がとても良いですね。加えて愛之助は立役ですから、男を見顕すサプライズ(落差)が大きく出来ています。見顕しのツラネも七五のリズムがなかなか良い。そこは良い点ですが、騙りの性根を見顕してからがいささか威勢が良過ぎるように感じます。そこは立役がやる弁天ですから・こうなるのも道理ではあるが、男があまり出過ぎてしまうと悪写実になってしまうのです。目の前に居るのは確かに男に違いないが・それでもやっぱりコイツは娘なのじゃなかろうかと番頭が思わずまじまじとその顔を見てしまうような妖しい感覚が欲しい。つまりどこかに娘の感覚が残っているのです。そこの塩梅が難しいわけですが、腕が立つ人だから愛之助にそれが表現出来ないはずはないと思いますが、本人のどこかに「見顕してしまえばオレは完全に男さ」という割り切った考えがあるのではないかな。そういうことならば、愛之助の弁天は確かに気風良く出来てはいます。しかし、それでは幕末歌舞伎の爛熟した「様式」を思い出させてはくれません。あり得ないものがそこにデンと居座っていると云う湿ったグロテスクさが欲しいのです。それを軽い調子でサラリと「いなさ」なければなりません。そこが黙阿弥の世話物の写実感覚なのであって、つまりどこかに様式感覚が混じると云うことです。愛之助の弁天はサッパリした感触ですね。恐らく愛之助は写実の軽さを出そうとして、思わず男を強めに出してしまっているのです。けれどもそれでは悪写実になってしまうのです。(この稿つづく)

(R5・2・16)


〇令和5年2月歌舞伎座:「霊験亀山鉾」・その3

今回(令和5年2月歌舞伎座)の「霊験亀山鉾」脚本は、ほぼ前回平成29年(2017)10月国立劇場上演本(奈河彰輔補綴)に拠っており・これを今井豊茂が10分程度刈り込んだ(補綴した)ものであるようです。(吉之助が見たのは2日目でしたが・終演が9時を超えてしまったせいか、その後・さらに大幅なカットが施されたようです。)舞台を見た印象では一応の筋は通っており、なかなか上手く補綴したものだと感心しますが、やはり4幕9場の展開はめまぐるしい。芝居をじっくり味わう場面がないのは致し方ないところです。表面的な筋を追いかけるだけになってしまうので、原作では南北も悪人に仇討ちをする追っ手の善人側の苦難・悲惨もそれなりに描いてはいるのだが、実際の上演であると「返り討ち物」としては「型通り」の印象を免れない。どうせ本作を通し上演するのならば・二部制の時にじっくり取り上げれば良いものを・・と思いますけれど、今回は水右衛門と八郎兵衛・二人の悪役を「仁左衛門一世一代にて相勤め申し候」というのが眼目なので、言うだけ野暮かもね。

そこで仁左衛門の水右衛門ですが、スケールの大きい悪人を描こうとしているのは良く分かりますが、仁左衛門だと本質的にクール(冷酷・極悪)に徹し切れない印象がしますねえ。やはり仁左衛門には正義の味方の方が似合うと思います。そのせいかは知らないが、仁左衛門はインタビューで「悪と決めつけましても、水右衛門は陰、八郎兵衛は陽。その色の使い分けですよね」と語っていますが、吉之助は逆の方が宜しいと思いますけどねえ。つまり水右衛門の方が陽です。カラッと割り切って、モラルに対する後ろめたさなどさらさら無い、陽性の悪です。ケラケラ笑いながら楽しそうに人を殺してもらいたいのです。その方が五代目幸四郎の実悪らしいと思います。一方、八郎兵衛の殺しの方は、おつまに振られた腹いせという背景があるから単純なものだと思います。まっ見解の相違ということで。

前回国立上演の時は「仕勝手で崩れていない印象で・なかなかテンポが良い」と書いた記憶がありますが、戦後では本作の初めての歌舞伎座上演となる今回は、(全体としての印象としてはそう変わらないけれど)やっぱり歌舞伎座でやるとこうなってしまうかな?と云う感じが、良い意味でも・悪い意味でも、ちょっとしますね。ちょっとの違いだが、歌舞伎らしくなっているようです。正確に云えば、「歌舞伎座らしく」です。その印象が脚本補綴から来るか・配役の違いから来るか・それとも他の要素かは一概に言い難いですが、例えば第三幕・播州明石機屋の場が短い場面だけれど・それなりの重さを持った場面として見れたのは、東蔵の貞林尼と孝太郎のお松の好演に拠るところが大きいと思います。これが「らしさ」が良い方へ出たところです。

これも「らしさ」のひとつだが・再考を願いたいのは、芝翫の源之丞です。返り討ちされる哀れを出したい意図だと思いますが、声を細く高めにして色男に仕立て過ぎで、演技が嘘っぽい。返り討ちされることの悲運を「実」として表出してもらいたいのです。「返り討ち物」とは、殺された者の怨念を以て近親者が敵を追う、その彼が返り討ちされたら、その者の怨念を引き受けて・その近親者がさらなる怨念を以て敵を追う、そのような「怨念の連鎖」のドラマなのです。討っ手の怨念の「実」が描かれなければ「返り討ち物」は成立しない、そのように心得てもらいたいですね。

(R5・2・12)


〇令和5年2月歌舞伎座:「霊験亀山鉾」・その2

「霊験亀山鉾」では藤田水右衛門と隠亡の八郎兵衛は容貌が瓜二つという設定です。同じ南北作の「絵本合法衢」でも、左枝大学之助と立場の太平次の容貌がそっくりですが、これらは「舞台に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という歌舞伎の哲学から来ます。どちらの役も、稀代の実悪役者・五代目幸四郎が纏う仮の姿なのです。大学之助は時代から・太平次は世話から、それぞれ別の角度で以て同じ人間(幸四郎)が悪さをしているということです。だから「またあいつ(幸四郎)が出て来たわい」となって構わないのです。このことは池田大伍が看破しています。

『大学之助と立場の太平次、これは作者の働きから、両人の顔が似ているという点でひとつ役者にさせて、実は大学之助でも良いのである。しかし大学だと万事が固くなって、生世話の味にならぬ。ところで、大学、太平次に分けて、前に武家屋敷で殺させ今度は山中の一つ家で殺させる。こういうことは内外共の脚本で珍しくないことである。固くなりそうな場面を世話で見せる行き方である。シェークスピアの「ヘンリー四世」のなかでファルスタッフがヘンリー四世の真似をして皇太子ハリーを叱る。これは金襖で見せるのを世話に砕いたものである。』(池田大伍:「私の南北観」・昭和2年)

「霊験亀山鉾」の水右衛門と八郎兵衛も、これと同じことです。しかし、現行歌舞伎では、水右衛門は時代の悪・八郎兵衛は世話の悪とはっきり区別して二役を演じ分ける考え方ですから、二役の同一性を意識しようとしません。こう云うところで近代自然演劇の観念が邪魔をします。

もうひとつ申し上げたいことがあります。今回(令和5年2月歌舞伎座)上演に関連したいくつかのマスコミの記事で、悪役・水右衛門のことを「色悪」と記したものが散見されます。色悪というのは、悪事を働く冷血で美しい二枚目の役どころを指します。見た目が良く・表面的には善人であるが、実は悪人というものです。代表的なのは七代目団十郎が初演した「四谷怪談」の民谷伊右衛門ですが、これは長い歳月を掛けて歌舞伎の工夫が加えられて今の「色悪」のイメージが出来上がってきたのです。(七代目団十郎の大先輩に当たる)五代目幸四郎が創始した悪役群(もちろん水右衛門も含む)は、これを「実悪」と云うのです。五代目幸四郎は登場すると子供が泣き出したと云う話があるくらいの、凄みの利いた容貌でした。それがいつ頃からか実悪と色悪のキャラクターが混同されているようですね。

五代目幸四郎の藤田水右衛門。これが実悪。

例えば今月(2月)歌舞伎座チラシは「色悪」とは記していないけれども、「水右衛門の徹底した冷血漢ぶりが最大の見どころで、色気も備えた業悪非道さは不思議な魅力を放ち、美しい悪の華を咲かせます」と書かれています。これも明らかに「色悪」のイメージですね。確かにいい男の仁左衛門が水右衛門を演じれば、そんなイメージになってしまうことは分かります。それはもちろん悪いことではありません。いい男ならいい男なりの「実悪」のイメージを追えば良いわけです。仁左衛門は彼なりに線の太い「実悪」を演じようとしていると思います。まあそれでもいい男ぶりは隠せないわけであるが。ですから・これは仁左衛門のせいではないのだけれど、水右衛門にせよ大学之助にせよ、過去50年くらいに限れば、これらの役の世間のイメージが仁左衛門で出来上がっちゃってるらしい(つまり他の役者があまり演じていない)ところに、実悪と色悪が混同される、現行歌舞伎の微妙な問題がありそうな気もするわけです。そう云うわけで、そろそろ本格の「実悪」役者よ出でよと言いたいところですね。(この稿つづく)

(R5・2・8)


〇令和5年2月歌舞伎座:「霊験亀山鉾」・その1

先日ちょっと調べ物をしていたら、日本文学研究家であるエドワード・サイデンステッカー氏の対談記事がたまたま目に留まりました。(昭和52年6月国立劇場筋書) それに拠ればサイデンステッカー氏がSF作家・小松左京氏と会った時、小松氏が「江戸時代は明るくハッピーな時代だった」と言ったと云うのです。サイデンステッカー氏は納得が行かなかったようで、「南北や黙阿弥を読むと、江戸時代は暗く不幸な時代であったとしか思えない」と力説していました。これを読んでちょっと残念に思いました。例え同意が出来ないにしても、小松氏ほどに時代に対する感性が鋭い人物(そうでなければ・あのようなSF大作が次々書けるはずがありません)がそのように仰ったのならば・その言は一応聞いて置こうと、その言葉の意味をじっくり考えてみる態度が必要なのです。小松氏が良いヒントを提供してくれているのにねえ。

誤解がないように付け加えれば、サイデンステッカー氏が南北や黙阿弥の芝居を暗く不幸であると読むのは決して間違いではありません。現代の感性で読めば、そう感じるのは当然なのです。けれどもこれだけだと見方が一面的になってしまいます。蛍光灯の照明が当たり前の生活をしている現代人には「暗く見える」けれども、その同じ明度が、行灯の照明が当たり前の江戸庶民には「十分な明るさ」であったのです。そこを考えないと。大事なことは、南北や黙阿弥の芝居から、「暗さ」(これは現代人からの視点として欠かせないこと)と「明るさ」を同時に感じ取ること(それは過去からの視点を受け入れること)です。これがダブルシンキング(二重思考)ということで、相反するふたつの要素の矛盾を承知しつつ・なおかつ両者のバランスを取った見方、古典の鑑賞にはこの考え方が欠かせません。

そこで今回(令和5年2月歌舞伎座)上演の「霊験亀山鉾」のことですが、本作は平成29年(2017)10月国立劇場以来・約6年ぶりの上演ですが、長年上演されて手垢にまみれた感のある「四谷怪談」と違って、これまでほとんど上演がされなかったため作品のイメージが未だ固まっていない。いわば新作同然なわけです。数少ない上演のひとつひとつが南北再評価のために大事になります。そこを考えると昨今のように、南北劇の「悪の美学」・「殺しの美学」が喧伝される状況はあまり好ましいものではないと思っています。「悪の美学」ってのは、どちらかと云えば、南北を明るい方のイメージで読もうとしていると云うことでしょうかねえ?そうなのかは知れませんが、むしろ南北劇の暗いところ(と現代人には見えるが・江戸人にとっては明るいところ)を努めて見ないようにしている(或いは目を逸らしている)ようにも思われますね。

まあそれだけ「霊験亀山鉾」のなかで描かれる人間模様が、我々現代人の生活感覚とかけ離れていると云うことです。それを全面受け入れるというわけには行きませんが、本作に見られる(返り討ちされる側の)絶対的な忠義と自己犠牲の暗さ・或いは重さを明るい光を当てて直視しないと、本作のドラマは薄っぺらに見えてしまうと思います。だからことさら「悪の美学」を喧伝せねばならぬことになります。(この稿つづく)

(R5・2・6)


〇令和4年12月京都南座:「恋飛脚大和往来〜封印切」

ご存知の通り上方の和事は江戸の荒事と対照される歌舞伎の様式ですが、現在の和事はどちらかと云えば、「柔い・ナヨナヨした」つっころばしの感覚で理解されています。こうなったことについては・それなりの理由があるわけですが、何だか脆弱な芸のように思われて、これだと現代に和事芸が生き残るのはちょっと苦しいなあと思います。和事芸の背後にある熱い・シリアスな要素がなかなか感知されなくなっているのです。「文芸作家」としての近松門左衛門の評価は今も健在だと思いますが、近松の世話物の上演頻度は、近年ますます落ちています。ですから現代大阪の観客に支持されるためにも、これからの上方和事はもうちょっとシリアスな熱い方向に向かわねばならぬと思います。和事の芸とは「やつし」の芸、それは滑稽な要素とシリアスな要素が背中合わせに交互に出てくるものです。(別稿「和事芸の多面性」を参照ください。)

「封印切」の忠兵衛を鴈治郎で見るのは、吉之助にとって大阪松竹座での襲名興行(平成27年・2015・1月)以来のことです。このところの鴈治郎は、その福々しい体型とちょっと丸みを帯びた柔らかい印象で、なかなか重宝な役者になって来ました。吉之助もいくつかの好演を挙げることが出来ます。そんなわけで、今回(令和4年12月京都南座)の・久しぶりの忠兵衛を期待して見ましたが、思いがけず真摯で熱い印象がしたので、吉之助もちょっと驚きました。八右衛門との口論・そこから封印切を経て・梅川を伴い井筒屋を立ち去るまで、満座で罵倒された忠兵衛が体面から封印を切って小判をばらまく心情とその後の罪への怯えを、シリアス・タッチで描いて、基本線において納得できる忠兵衛でした。今後の上方歌舞伎はこの方向でなければならぬと吉之助も同意しますが、強いて言うならば、その真摯さがやや生(なま)に出過ぎていたかも知れませんねえ。忠兵衛の・その真摯な熱いところを、鴈治郎の持ち前である・柔らかさのオブラートで包み込むことが出来れば、良い忠兵衛になると思います。そこの加減が難しいことになるわけですが。

思えば「封印切」は玩辞楼十二曲(初代鴈治郎が選んだ成駒屋のお家芸)であるからして・真摯になるのはこれは当然のことですが、歌舞伎役者にとって「家の芸」の重圧は格別なものであるなあと改めて感じました。或る意味において必要なのは、心の余裕というか・芸の遊びかも知れませんねえ。しかし、鴈治郎の忠兵衛はいいところまで来ていると思います。

(R5・1・26)


〇令和5年1月歌舞伎座:「人間万事金世中」

黙阿弥の散切物「人間万事金世中」は、上演頻度はそう高くありません。歌舞伎座では平成15年(2003)4月以来の上演で、松竹版では今回の通り、二幕四場が定型となっているようです。内訳は、序幕が横浜境町辺見店先・辺見家奥座敷での遺言状開き、二幕目が横浜音町恵府林店先・波止場脇海岸です。しかし、本作を前進座が平成30年(2018)5月国立劇場で上演した時は、二幕八場での上演でした。前進座版と比較してみると、松竹版でカットされているのは、序幕では林之助の乳母おしずの借家、二幕目では境町辺見店先の前後2場と恵府林宅婚礼の場です。上演時間は今回の松竹版が1時間25分ですが、前進座版の三分の二くらいの分量でしょうか。

松竹版では、カットされた箇所の件も取り入れて上手に筋を補ってはいます。(辺見店先での)勢左衛門・おらん夫婦が金を巡って言い争い・5圓札が宙を舞う騒動、(大詰・恵府林宅での)すべての絡繰りが明らかになっての大団円も、すべて波止場脇海岸の場で済ませてしまうと云う効率の良さです。そんな不自然さも生(なま)の舞台を見ていると・何だかそんなものかなと思って見てしまいますが、芝居は見掛けの筋が通っておればそれで良いわけではなく、一見無駄と思えるようなところにも作者の苦労があるわけで、そう云うところが省かれてしまった簡略版を見て、「何だ、黙阿弥なんてこんな程度のものか」なんて思われてしまうのも情けないことです。

吉之助が思うには、本作「人間万事金世中」は英国の劇作家リットンの芝居「マネー」の翻案ではありますが、いつもの黙阿弥ならばついつい湿っぽく粘った因果応報の筋立てに傾いてしまうところを、サラッと軽めの喜劇に仕立てたところに、むしろ黙阿弥の劇作家としての技巧の卓越を見たいものです。そこに本作初演当時(明治12年・1879)の、文明開化の時代の民衆の、パッと解放された気分を感じます。それは一時だけの表面的なものなんですけどね。しかし、世が世であれば黙阿弥は上質の喜劇をどんどん生み出したかも知れないと云うことを思いますねえ。結局、明治という時代が、或いは明治期の歌舞伎が、黙阿弥にそうさせなかったと云うことです。黙阿弥の苦しみはまだまだ続きます。

例えば本作が黙阿弥にしては台詞がいつもほど様式的な七五のリズムに粘らない、或いは芝居が下座音楽にあまり頼らないなどの印象があり、吉之助は黙阿弥にこの方向を歩ませてやりたかった気がしますねえ。もしかしたらそこから歌舞伎の、新演劇への新しい展開があったような気がするのです。結局、歌舞伎は江戸時代から離れることが出来なかったわけですが、本作初演の時点であると、まだ新演劇への可能性は十分あったわけです。そう云うことをちょっと考えてみても良いかと思うのです。

今回(令和5年1月歌舞伎座)の、弥十郎(勢左衛門)・錦之助(林之助)以下の面々はみな、この点・いつもと感触が異なる黙阿弥物に、新作と同じ新鮮な感覚で取り組んでいたようで、芝居はテンポも良く、それなりに愉しめて良かったのではないでしょうか。ただ今回上演の松竹版は「強欲勢左衛門始末」という副題通り、脚本が勢左衛門一家の強欲と滑稽さを強調する方向でアレンジがされていたようですが、黙阿弥の真意は、「義理人情を重んじ・真面目に慎ましく暮らす者には必ず良いことがあるだろう」というところにあるのですから、そこのところは押さえておきたいと思います。

(R5・1・20)


〇令和5年1月歌舞伎座:「十六夜清心」・その6

安政初演時に七代目団蔵が杢助を演じたことは先に触れました。五代目歌右衛門が十六夜を初めて勤めた時(明治27年2月春木座)、団蔵が歌右衛門に厳しく注意したことは、「十六夜清心」の強請場は、黙阿弥が「源氏店」の切られ与三郎と蝙蝠安の心で書いたのだから、十六夜が鉄火になって強請ってはいけないと云うことであったそうです。この話を聞いた或る人が六代目梅幸に伝えたところ、梅幸は「なるほど、そう云われれば、どうも強請りに行っての女の台詞が行き届かない気がするし、時にはもっと言いたいことがあるように思っていました」と語ったそうです。梅幸がおさよの台詞のどういうところが言い足りないと感じたのか分かりませんが、役を演じてみて多少遠慮がある感じを受けたのでしょう。

この逸話が示唆するところは大きいと思います。黙阿弥が本作初演で八代目半四郎(当時は三代目粂三郎)を坊主頭の強請おさよに当て込んだのは、半四郎の容姿が美しいのに・芸風がおとなしいので人気がパッとしなかったのを、何とか趣向を変えて売り出そうという意図からでした。悪婆は五代目半四郎(杜若半四郎)が得意とした役どころで・大和屋の御家芸みたいなものです。しかし、凄みがない八代目にいきなり祖父(五代目)のような悪婆が演じられるはずもない。そこを黙阿弥が手加減して・おさよの強請場を書いたに違いないのです。その事情は、翌年・万延元年(1860)市村座で初演された「三人吉三廓初買」・大川端で、半四郎が演じたお嬢吉三の台詞を見れば察せられます。それは、

「問われて名乗るもおこがましいが、親の老舗と勧められ、去年の春から坊主だの、ヤレ悪婆のと姿を変え、憎まれ役もしてみたけれど、利かぬ辛子と悪党の、凄みのないのは馬鹿げたものさ。そこで今度は新しく、八百屋お七と名を取って、振袖姿で稼ぐゆえ、お嬢吉三と名に呼ばれ、世間の狭い食い詰め者さ。」(三人吉三・大川端でのお嬢吉三の台詞)

この台詞でも分かる通り、「十六夜清心」初演時の半四郎の評判は、百本杭の十六夜の美しさが大層な評判だったものの、強請場のおさよの方はどうやらパッとしなかったようです。そんなところで分かることは、おさよは杜若半四郎(五代目)のような本格の悪婆になってはいけないと云うことです。そこで「黙阿弥が切られ与三郎と蝙蝠安の心で強請り場を書いた」と云うことがヒントになって来ます。もちろんおさよが与三郎で、鬼薊の清吉が蝙蝠安になります。このことは白蓮本宅の場で花道をやってくる二人の姿を見れば、それと分かるはずです。与三郎の性根が若旦那で・根っからの強請ではなく・蝙蝠安にそそのかされて源氏店に来るのと同じように、おさよが慣れない強請をやるのを清吉が後ろで煽り立てる感じでやる、そこが名人・小団次が演じる清吉の仕どころになるのです。しかし、清吉も元々が善人ですから、とことんワルに成り切れません。だから与三郎的要素が清吉の方にもあるわけなのです。そこが強請り場の後半・白蓮の素性が知れてから清吉が態度を一変させる伏線になっています。

そう云うわけで、清心-清吉を「いい男」系統で処理するのが間違いだと云うことではないですが、「いい男」なら「いい男」なりに、性格の一貫性を以て・人生を懸命に生きようとした男のシリアスさを描いて欲しいと思います。安直な声色の使い分けのせいで、幸四郎の清心-清吉の人物が割れて見えることは先に指摘しました。鬼薊の清吉は(幸四郎の地声に近い)低調子で処理しているので演ることは決して悪くありません。幸四郎は自分の声質にあった低調子の方で役を一貫させた方が良かったのにと思いますが、清吉はもっと肚を据えて描線を太く作れば如何でしょうかね。ちょっとコミカルな面が前面に出過ぎたようです。滑稽さはシリアスな要素と裏腹に出るものと考えて欲しいと思います。

七之助の十六夜は美しいですが・怜悧な美しさで、まあこれは七之助の芸質かも知れないが、もう少ししっとりと温かい情が欲しいところではあります。おさよの出来も悪くはないですが、悪婆の方に寄った印象がします。これも十六夜との性格の一貫性を考えれば、ちょっと割り切りが良過ぎた感があるようです。梅玉の白蓮は最初はもう少し図太いところが欲しい気がしましたが、芝居が進むにつれてしっくり来るので感心しました。良い意味に於いて役を自分の個性の方に引き寄せて演じたところが、熟練の芸ということですね。

(R5・1・18)


〇令和5年1月歌舞伎座:「十六夜清心」・その5

自害しようとした清心が「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」と言い捨て泥棒に鞍替えしてしまう。これを見た観客が、「なるほど・その気持ちはもっともだ、俺にも分かる」と感じるならば、成功だと思います。ここで清心が思い描く「泥棒」とは、何ものにも束縛されない「自由人」と云うに近い響きです。もっとも観客が「その気持ちは分かる」と感じたとしても、もちろん彼は常識人ですから泥棒がいけないことは良く分かっています。彼は決してそんな真似はしませんが、舞台上の清心に彼の浪漫を委ねてみるくらいは出来るでしょう。そして明日からはそのことも忘れて、また毎日地道に働くことでしょう。まあ小団次-黙阿弥が考えたことも、そんなところだったと思います。芝居では結局清心は破滅して、筋は落ち着くべきところに落ち着きます

明治以降の「十六夜清心」は、稲瀬川・三場での見取り上演がほぼ定形になりました。そして「いい男」系統の清心と遊女十六夜との情緒纏綿たる色模様に変容して行きます。そうなったことにはもちろんそれなりの背景があるわけです。しかし、大事なことは現行「十六夜清心」の舞台で、「いい男」ならば・「いい男」なりに、「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」と云う気付きへの「段取り」がしっかり取れているかどうかと云うことだと思います。観客が「もっともだ、その気持ちはよく分かる」と感じるかどうかと云うことです。吉之助がこれまで見た「十六夜清心」の舞台では、そこを十分納得させてくれた舞台はなかったように思います。清心と十六夜の色模様が美しい舞台は、いくらも思い出します。むしろそれ故にと云うべきか、色模様が情緒的に傾けば傾くほど、優男の・ひ弱い清心が「死ぬのが怖くて」・なし崩し的に泥棒に変わってしまうように見えてならなかったのです。これでは「変心」の必然が弱くなります。ただ坊主が泥棒に変わる・その落差のサプライズだけになってしまう。これでは観客は熱い浪漫を清心に委ねることは出来ません。

見取り上演のことはまあ置くとしても、今回(令和5年1月歌舞伎座)の「十六夜清心」の場合は、一応半通しの形になっています。泥棒に変身した後の清心・つまり鬼薊の清吉が出るのですから、見取り上演とは別の苦労が生じるはずです。前半の僧清心と・後半の強請りの清吉とに、何らかの一貫性を見出さなければなりません。歴代の清心役者と云われた人でも・半通しで出す場合には、そこの役作りにはとても苦労したものでした。

今回(令和5年1月歌舞伎座)の「十六夜清心」では幸四郎が、前半の清心の声を高調子に作り、後半の鬼薊の清吉の声を(幸四郎の地声に近い)低調子で処理して仕分けています。このような声色(こわいろ)による仕分けは、あまり感心しませんねえ。清心の人物が二つに割れて見えます。大事なことは、前半の僧清心のなかにも生に執着し過ぎる騙りの清吉の性格がある(それが「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」という形で顔を出す)と云うことであり、後半の清吉のなかにも心優しい僧清心の性格がある(だから清吉は根っからの悪党になり切れない)と云うことなのです。幸四郎はそこのところをあまり深く考えず、表面的に役を仕分けているやに見えます。だから前半の清心も、後半の清吉についても、どちらも肚が薄い印象が拭えません。幸四郎の前半の清心と後半の清吉と、どちらを取るかと云われれば、歌舞伎で「いい男」での「伝統」が固まっている前半の方が、見た目ではしっくり来ている感じはします。しかし、「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」への「段取り」は上手く取れていない。と云うか、これでは後半の騙りの清吉への橋渡しが十分に出来ないでしょう。だから前半と後半で人物が割れて見えることになる。まあそんな程度の芝居だと最初から割り切って見るならば、気にならないでしょうが。しかし、小団次-黙阿弥コンビが作ったのは、ホントに「そんな程度の」芝居でしょうか。吉之助はそうは思いませんがね。

前半の百本杭・川下の場では、壱太郎の求女がとても良い出来です。これは吉之助が見た求女のなかでも出色の出来だと褒めておきます。壱太郎が花道で渡り台詞をしゃべり始めると、そこに歌舞伎の世界が現出する心地がします。それは壱太郎が黙阿弥の七五調の揺れるリズムを正しくしゃべっているからです。言葉が正しく発せられることで・その意味で写実であり、台詞が心地良いリズムに乗ることで・その意味で様式的です。(別稿「黙阿弥の七五調の台詞術」をご参照ください。)これを聞けば、この渡り台詞では求女の高調子に対して、清心は低調子で受けることが期待されていることは直感で分かると思います。求女を基準軸に置いて、清心の低調子の台詞が揺れるように響く。そこで表現されるものは、清心の心の迷いです。「こりゃどうしたら、よかろうなあ」となるから・この渡り台詞では結論は出ないわけですが、それはすぐ後に清心が求女を殺して金を奪うことへの伏線になっており、さらに「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」と云う大転回への伏線にもなって来るのです。本人は、まだ気付いていないでしょうが、ここには鬼薊の清吉となる未来がもうチラチラ垣間見えています。幸四郎の高調子の清心を見ると・ひ弱い優男が死ねなくって悶えているようにしか見えませんけど、ここでもう心理転回が始まっているのです。しかもそれが写実ではなくて・様式で出てこなくてはなりません。幸四郎にはそこを感じ取ってもらいたいのですがねえ。(この稿つづく)

(R5・1・15)


〇令和5年1月歌舞伎座:「十六夜清心」・その4

「十六夜清心」が安政6年(1859)江戸市村座初演時に添削を余儀なくされた件については先に述べました。その理由は、前々年に処刑された江戸城の御金蔵破り・藤岡藤十郎の事件を大寺庄兵衛(白蓮)の件にあてこんだのをお上が問題視したからとされています。(藤十郎の事件は、後年・明治18年に黙阿弥が「四千両小判梅葉」として劇化。)これは表向きそう考えて良いと思いますが、後年のことを考えると、実は「十六夜清心」には、もっと問題になりそうな箇所が他にあったのです。しかし、その箇所が現行台本でも残っているわけだから、当時のお上にとって不快ではあったが・まだ許せる状況であったと云うことなのでしょうねえ。

この7年後、維新直前の慶応2年(1866)、世相は一層悪化して、お上の我慢はもう限界に達していました。それは同年2月守田座での「鋳掛け松」のことです。「近年、世話狂言、人情を穿ち過ぎ、風俗に拘わる事なれば、以来は万事濃くなく色気なども薄くするよう」とのお達しを受けて、「鋳掛け松」は上演中止に追い込まれました。小団次はお達しを聞いてガックリ来てしまい、翌日から面相がみるみる悪くなっていき、同年5月に亡くなってしまいました。黙阿弥は痛恨の気持ちを込めて、日記に「全く病根は右の申し渡しなり」と書いています。(別稿「小団次の西洋」を参照ください。)

一体お上は「鋳掛け松」のどこが気に入らなかったのでしょうか。しがない鋳掛け屋松五郎が、通りがかった鎌倉花水橋の橋の上から島屋文蔵と妾お咲の乗った涼み船での豪遊を眺めています。これを見ているうちに、松五郎はムラムラとしてきて、

「こう見たところが江戸ぢゃあねえ、上州あたりの商人体(しょうにんてい)だが、横浜(はま)ででも儲けた金か、切放れのいい遣いぶり、あれぢゃあ女も自由になる筈、鍋釜鋳掛をしていちゃあ、生涯出来ねえあの栄耀、ああ、あれも一生、これも一生・・・こいつァ宗旨を替えなきゃならねえ」

と言って、鋳掛け道具を川へ投げ込んでしまって「鋳掛け松」と仇名される盗賊になってしまうのです。それは幕府の崩壊を目前に控えた江戸町人が地道に働くことを放棄し、一時的な快楽にのめりこんでいく心情を描いていました。これがお上の癇に障ったのです。鋳掛け松の「あれも一生、これも一生」と云う台詞と、清心の「しかし、待てよ。・・一人殺すも千人殺すも・・」の台詞とを比べれば、一目瞭然です。これはまったく同じ心情を描いています。それはどちらも、「こんな世の中は嫌だ、こんな生活は嫌だ」と云う、世情に対する庶民の憤懣から来ています。ホンのちょっとしたきっかけで、これが「こんな世の中なんか変わってしまえ」と云うアナーキーな考えになってしまう・その寸前なのです。あからさまな体制批判はしていないようだけれども、為政者にとって、これは容認できない危険な心情でした。

だから「十六夜清心」・百本杭の場面も、もしこれが7年後・慶応2年の初演であったならば、間違いなく上演差し止めになった危険な要素を孕んでいるのです。まだ安政の世のことであったから助かったのです。「十六夜清心」では、このような危険な要素を情緒纏綿たる清元の旋律美によって表面上「いなしている」、或いは「カムフラージュ」しています。これが余所事浄瑠璃の技法の効果です。安政6年初演の舞台では、いかつい風貌の清心(小団次)と美しい遊女十六夜(半四郎)の釣り合いなカップルの、ちょっとギコチない色模様が、悲哀を含んだ可笑しみを感じさせたに違いありません。しかし裏に潜むものは極めてシリアスで危険なもので、それが或る瞬間にギラっと顔を出すのです。小団次演じる清心が小刀を構えて暫し沈黙して「しかし、待てよ・・」と呟く瞬間、観客の背筋をゾクゾクさせたに違いありません。(この稿つづく)

(R5・1・11)


〇令和5年1月歌舞伎座:「十六夜清心」・その3

以上はフォルム(様式)面からの分析ですが、「清心は太い低調子の台詞が望まれる」と云うことは心情面からも裏付けが出来ます。現行の百本杭での清心は、ここを細い高調子の台詞に持って行きますから、その印象がひ弱くなります。稲瀬川に飛び込もうとして怖気づいて身をすくませるとか、自害しようと小刀を構えるが切っ先が腹に当たって痛くて止めるなどの滑稽が、清心のひ弱い印象を助長します。現行の百本杭の舞台を見ると、結局清心が死ねなかったのは、どうやら「死ぬのが怖かったから」と云うことになりそうです。これでは、死のうとした清心がどうして「しかし、待てよ・・一人殺すも千人殺すも・・」と云う大転回をするのか、その劇的必然が吉之助にはどうもピンと来ません

「しかし、待てよ・・」と云う台詞は、どん底にまで落ち込んだ清心が最後の最後につかみ取った熱い結論でなければならないはずです。ところが台本を見ると、清心が死ねなかった理由を語る台詞がちゃんとあるではありませんか。例えばそれは、

「せめてあの世は迷わぬ観念なすにかしましい、三味線の音が耳に入り、邪魔になってならぬわい」

という台詞です。黙阿弥全集ではト書きに、「この時上手の揚幕へ丸物の屋形船を出し、内にて賑やかな騒ぎ唄する」と指定があります。現行舞台では屋形船は出ませんけど、マアそれはいいです。どこからか賑やかな騒ぎ唄が聞こえてくるらしいと分かれば良いのです。続く求女との渡り台詞のなかにも、屋形船が出てきます。渡り台詞から清心のパートのみを抜き出して繋げると、こうなります。

「ああ人の歎きも知りおらず、面白そうな遊山船、死のうと覚悟しながらも、耳に入って黄泉のさはり。(中略)人の盛衰貧富は、前生(せんしょう)からの約束にて、力づくにも及ばぬもの。(中略)あれあのように面白う芸者幇間(たいこ)を伴うて、騒いで暮らすも人の一生。(中略)その日の煙も立て兼ねて、襤褸(つづれ)をまとい門(かど)にたち、手のうち乞うも一生にて。又このように身を投げて、死のうというもこれも一生。(中略)死ぬに死なれぬ心の迷い。(中略)こりゃどうしたら、よかろうなあ。」

清心は、しつこいほど屋形船のドンちゃん騒ぎにこだわっています。これで明確に分かることは、清心が死ねなかったのは「死ぬのが怖かった」からではないと云うことです。清心は生への執着が強過ぎる、現世の愉しみへの未練が強過ぎるのです。清心は本気で死ぬことを考えたに違いありません。清心は十六夜がもう死んだ・自分も遅れを取ってはならぬと思っています。しかし、耳元から愉しそうな三味線の響き、賑やかな騒ぎ唄、人々の笑い声が離れない。それが清心を現世の方へ引き戻します。だからいくら死のうとしても清心は死ねなかったのです。このドン詰まり状態から、開き直った「気付き」が清心の心のなかに浮かび上がります。

「しかし、待てよ。今日十六夜が身を投げたも、又この若衆の金を取り殺したことを知ったのは、お月さまと俺ばかり。人間わずか五十年。首尾よくいって十年や二十年がせいきり。襤褸をまとう身の上でも金さえありゃあ出来る楽しみ。同じことならあのように騒いで暮らすが人の徳。一人殺すも千人殺すも、取られる首はたった一つ。とても悪事を仕出したからは、夜盗家尻切、人の物は我が物に栄耀栄華をするのが徳。こいつア滅多に死なれぬわい。」

「お月さまと俺ばかり」という台詞は、黙阿弥が四代目南北の「隅田川花御所染」(女清玄)で・忍ぶの惣太が主筋の梅若を誤って殺してしまい自害しようとするのをフト思いとどまる場面での台詞から取り入れたものでした。恐らくこれは天保3年(1832)江戸中村座でこの芝居が上演された時、芝居を見た黙阿弥が「このフレーズをいつかどこかで使ってやる」と思ってずっと寝かせていたネタでした。(別稿「隅田川花御所染」論考を参照のこと。)

これより後のことですが、黙阿弥は立作者となった後に、しばらく鳴かず飛ばずの低迷期がありました。ライバルの瀬川如皐に人気先行されて失意のうちに身投げしようと隅田川河畔をウロウロ彷徨ったことがあったそうです。吉之助にはこの時の黙阿弥の失意体験が、「十六夜清心」・百本杭の清心の心理に色濃く反映していると思えてなりません。それは多分月の明るい夜のことでした。浅草芝居町周辺は夜も賑やかです。身投げしようとしている黙阿弥の耳元に愉しそうな三味線の響き、賑やかな騒ぎ唄、人々の笑い声が聞こえてきます。振り払おうとしても逃れられず、しばし懊悩しながら河畔を行ったり来たりする黙阿弥の姿が浮かんできます。この時に「お月さまと俺ばかり」というフレーズが黙阿弥のなかに蘇ったのでしょう。黙阿弥は人を殺めたわけではありませんけどね。(「月」は安政7年(1860)の「三人吉三」のなかにも出てきます。云わずと知れた「月も朧に白魚の・・」の名台詞です。)

そう考えると余所事浄瑠璃は単なる音楽技法ではなく、それは黙阿弥の苦しい体験から生まれたものだと思えてなりません。しかもこの体験はトラウマのように黙阿弥の生涯に付いて回りました。だから「直侍」(明治7年・1874・初演)・「筆売幸兵衛」(明治18年・1885・初演)の余所事浄瑠璃も、決してお気楽に聞くことは出来ないのです。そこに官能的な清元の調べが使われているからこそ、主人公の内面の辛さがなおさら募る、そのような音楽的設計がされているのです。「いっそ死のうか・・イヤまだまだこの世に未練が・・」という心の揺らぎが、低調子(清心)と高調子(十六夜)の台詞の揺らぎにも照応して表われると云うことです。(別稿「黙阿弥のトラウマ」を参照ください。)(この稿つづく)

(R5・1・8)


〇令和5年1月歌舞伎座:「十六夜清心」・その2

誤解がないように付け加えると、「いい男」系統の清心が間違いだと云うのではありません。「いい男」の描かれ方によっては芝居の別の一面が現れることもある、そこは工夫次第でしょう。小団次の声域は想像するしかありませんが、演じた役どころの数々から推し量れば、やや太目の低調子の声だと思います。このことは序幕・百本杭での清心と十六夜とのやり取りを聞けば裏付けられます。情緒纏綿たる清元の調べから写実の会話を浮かび上がらせる為に、清心には太い低調子の台詞が望まれます。それは小団次の声域を前提に書かれているのです。つまりそこに低調子(清心)と高調子(十六夜)の揺らぎが設計されています。このことは舞台を見れば(聞けば)すぐ分かることです。

しかし、現行の百本杭での清心は、ここを細めの高調子の台詞で持っていくことが通例です。もちろん今回(令和5年1月歌舞伎座)の幸四郎の清心もそうです。まずこの場面を細めの高調子の声に持っていくことの良い点は、「いい男」の清心の優美さ・繊細さを際立たせることでしょう。十六夜は女形ですから、当然高調子です。舞台の上の美しいカップルの高調子の二重唱は、情緒たっぷりで・高音を駆使する清元の調べにも感覚的に合致すると言えるかも知れませんねえ。現行の百本杭の清心が次第に高調子へと移行していく背景には、清心が「いい男」だと云うところを強調したかった役者の思惑があったと思います。そのため全体的に芝居が様式の方へ傾いてしまいました。

逆にこの場面の清心を細めの高調子の声に持っていくことの悪い点を考えてみます。まず細めの高調子の台詞は、清心をひ弱さ・脆弱さの印象に傾けることになるでしょう。これが清心という役の肚を薄く見せてしまいます。さらに高音を駆使する清元の調べのなかに、清心の高調子の台詞が埋没してしまいます。情緒たっぷりの音曲はそれでなくても芝居を様式の方へ引っ張るのに、高調子ばかりの連なりになって、役者の舞台上の役者のやり取りが際立たない、だから役者の演技が写実に見えて来ないことになります。ここが大事なポイントです。

いわゆる小団次劇の特徴は、江戸歌舞伎の生世話の伝統に、ト書き浄瑠璃・余所事浄瑠璃・人形振り・割り台詞の多用、七五調の台詞などを加味したことです。これら音楽的な工夫がすべて役者の写実を際立たせるための技巧であることが分かれば、百本杭での清心もまた写実本位でなければならないでしょう。つまり清心は太い低調子の台詞回しが望ましいことは明らかなのです。(小団次劇の音楽的手法については、別稿「都鳥廓白浪」論考をご覧ください。小団次‐黙阿弥の最初の提携作です。)現行の百本杭の舞台で高調子の清心を見ると、吉之助の耳には、バリトンのために書かれたシリアス・タッチの曲をテノール歌手が明るく歌ってしまったような不自然さを感じてしまいます。

同様のことは、第3場・百本杭川下での、清心と求女との渡り台詞にも感じるところです。ここでも低調子(清心)と高調子(求女)の揺らぎが設計されています。求女の高調子の台詞に清心が応える時、これを高調子で受けたのでは渡り台詞にメリハリが付きません。そのせいで全体がダラダラ一本調子に聞こえてしまいます。ここでも小団次の清心の太い低調子の台詞が想定されているのです。

願わくばそのような小団次本来の意図に沿った上演を実験的にでも試みてくれれば面白いと思いますけど、それは兎も角として、清心を細めの高調子の台詞の「いい男」系統に持っていくのが歌舞伎の「伝統」のようですから、そこはやむを得ない。役者が自分の声域を変えることは出来ない(それでは声色遣いになってしまう)わけですから、そこは声の調子と台詞廻しの工夫で、出来るだけ写実への努力をしてもらいたいと思いますね。(この稿つづく)

(R5・1・6)


〇令和5年1月歌舞伎座:「十六夜清心」・その1

本稿は令和5年1月歌舞伎座での「十六夜清心」の観劇随想ですが、まだ松の内なので・吉之助も頭が上手く回りません。そこでウォーミングアップ代わりに、まず前置きとして書いておきたいことがあります。今回の「十六夜清心」は、久しぶりの通し狂言・三幕五場ということで期待の上演です。序幕として上演される稲瀬川の三場、「十六夜清心」はこの形で見取り上演となるのが通例です。今回のように・この後に白蓮妾宅・さらに白蓮本宅と続けて通し上演に仕立てるやり方は、十回に三回くらいの頻度でありましょうか。その通し上演も近年は滅多に演らないようで、今回は平成16年(2006)1月大阪松竹座以来の上演だそうです。ただし今回の通しの場割りでも、筋としてはブツ切れになってしまいます。本当は箱根地獄谷や名越無縁寺など・いくつかの場を補う必要があるでしょう。清心と十六夜の運命の変転の全貌がなかなか見えないのは、仕方がないところです。所化清心から鬼薊の清吉・遊女十六夜からおさよへの転落への興味は尽きないものがありますが、現行上演の主眼は序幕・百本杭の若く美しい男女の色模様の方へ置かれるようになって、幕末芝居の退廃的な雰囲気が薄いものになってしまいました。

「花街模様薊色縫」(さともようあざみのいろぬい、通称「十六夜清心」)は、安政6年(1859)江戸市村座での初演。清心が四代目小団次・十六夜が三代目粂三郎(後の八代目半四郎)・白蓮が三代目関三十郎という配役でした。初演は世間の評判もよく大入りを続けましたが、35日目に問題が起こりました。河竹新七(黙阿弥)がその前々年に処刑された江戸城の御金蔵破り・藤岡藤十郎の事件を大寺庄兵衛(白蓮)の件にあてこんだのがお上の検閲に引っ掛かって、このために添削を余儀なくされたのです。仕方なく清心の件のみを残して上演を続けましたが、この「十六夜清心」削除事件が小団次に与えた精神的苦痛は大きいものでした。これが後年・慶応2年(1866)初演の「鋳掛け松」がお上から「あまり人情に触れることなく」と注意され・上演中止に追い込まれて小団次が憤死したことの伏線になっています。(この件については別稿「小団次の西洋」を参照のこと。)

もうひとつ考えねばならぬことは、明治維新直前に小団次が亡くなった為、黙阿弥-小団次の提携作(「十六夜清心」も含む)上演の伝統が途絶えてしまったことです。残念ながら風貌・芸風その他の条件から、小団次の役どころをそのまま継ぐことが出来る役者がいなかったのです。これに維新後の大混乱が拍車をかけました。小団次はいかつい風貌の役者でした。(今回上演台本では削除になっていますが)「十六夜清心」原作のなかでも清心が

「この清心をさほどまで思うてくれるは嬉しいが、これが似合うと云うではなし、わしは形相(なり)さえ人並ならず、見る影もない所化あがり。今大磯で評判のこなたを連れて行かりょうぞ。他に男もないように、あの十六夜も物好きなと、いずれも様がお笑いなさる。世の譬えにも云う通り、釣り合わぬは不縁の因(もと)じゃ。」

と言っています。だから百本杭で描かれるものは、元々は不釣り合いなカップルの、ちょっとギコチない心中沙汰であったのです。これが現行の若く美しい男女の色模様に変わっていくのには、もちろん相応の歳月が必要であったことです。そうなって来たことの「必然」が、作品のどこかに何かあったかも知れません。それは清元の余所事浄瑠璃の魔力であったかも知れません。そう云うことも思いやらねばなりませんが、とりあえずここでは現行の百本杭の感触は小団次の初演とは異なると云うことのみ押さえておきたいと思います。

「続々歌舞妓年代記」にある逸話ですが、或る時・名興行師である田村成義が五代目菊五郎に、「この前、九蔵(後の七代目団蔵)の清心を見たが、ごくあっさりしたものだった。君のはちょっと長いように思うが」と何気なく言ったところ、菊五郎がムッとして、「九蔵は役者がいいから上手かったのでしょう。僕なんざア」云々と愚痴を言い始めて大いに閉口したそうです。菊五郎が一番気にしているところに田村が触れてしまったようですねえ。それは小団次の清心とは違うと云うことです。(「違う」というのは「間違っている」と云うことではありません。「小団次の清心とは違う」と云うことだけです。しかし、菊五郎は「お前のは間違っている」と言われたと受け取ったのですね。)安政の初演では小団次の清心に対し、若き五代目菊五郎が求女を勤め、若き七代目団蔵が下男杢助を勤めたのです。「あっさりした感触だった」という田村の証言を心に留めておいて欲しいと思います。どうやら団蔵の清心の方が小団次の感触に近かった印象を受けます。しかし、その後の清心の系譜は、五代目菊五郎から十五代目羽左衛門・十一代目団十郎・・・と「いい男」系統の方へ絞られていきます。(この稿つづく)

*台本は黙阿弥脚本集・第5巻(春陽堂・大正9年)に拠る。

(R5・1・5)


〇23年目の「歌舞伎素人講釈」

永いもので本サイト「歌舞伎素人講釈」も、23年目に入ります。再びコロナ状況がきな臭い雰囲気になってきました。またかとうんざり気分だが、侮(あなど)るわけに行きません。そんな状況下ではありますが、昨年(令和4年・2022)11月・12月と・歌舞伎座で二ヵ月続きの「十三代目団十郎襲名披露・八代目新之助初舞台」興行が、コロナで休演になることもなく、最後まで無事に行えることが出来てホッとしています。団十郎はもちろんですが、新之助くんも・ぼたんちゃんも一生懸命頑張りました。成田屋に幸あれと祈りたいですね。

もともと令和2年(2020)春に行われるはずであった襲名興行がコロナという不測の事態で延び延びになってしまったものですが、この実質3年近い歳月で歌舞伎が置かれた環境も激変してしまいました。吉右衛門さんが亡くなってしまいましたし(令和3年11月)、幹部連中に体力的な衰えが目立ち始めています。これから世代交代が一気に進むでしょうねえ。

そんなことではありますが、「歌舞伎素人講釈」もしっかり足元を見ながら、着実に歩みを進めてまいりたいと思います。ネタの方は無尽蔵にありますから、全然心配はしていません。しかし、最近は「あれも書かなきゃ・これも書かなきゃ」と思いながら結局書かないということが多い気がするから、歳取ったせいか・心の余裕がなくなっているのかもねえ。今回も「本朝廿四孝」論とSCOTの「サド侯爵夫人」観劇随想と、連載2本が年越しすることになってしまいました。まあ足元を固めて、書けるものから書いて行きます。今年もよろしくお願いいたします。

(R5・1・1)


 

 

(TOP)         (戻る)