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第二次南北ブームの「絵本合法衢」

昭和55年4月国立小劇場:「絵本合法衢」

六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(左枝大学之助・立場の太平次二役)、九代目沢村宗十郎(うんざりお松・道具屋与兵衛二役)、四代目市川左団次(合法実は高橋弥十郎)、六代目沢村田之助(弥十郎妻皐月)、二代目中村又五郎(多賀俊行)他、観世栄夫演出


1)第二次南北ブームの「絵本合法衢」

本稿で紹介するのは、昭和55年(1980)4月国立小劇場での「絵本合法衢」の舞台映像です。「絵本合法衢」は四代目鶴屋南北の名作とされますが、実は明治以降の上演は数えるほどしかありません。明治20年5月春木座での七代目団蔵による上演、次が大正15年(1926)10月帝国劇場での二代目左団次・六代目梅幸による上演になります。これが大正期の、いわゆる第1次南北ブームの時の復活上演ですが、この時は四条河原の場からの上演であったようです。戦前の上演はこの二回だけです。戦後の復活上演は、昭和46年(1965)9月芸術座での八代目幸四郎・二代目芝鶴による東宝歌舞伎での上演、次に昭和53年(1976)12月新橋演舞場での四代目梅之助・五代目国太郎の前進座公演、そして今回の昭和55年(1980)4月国立小劇場での上演が三回目のことになります。いわゆる戦後昭和の、第2次南北ブームがいつから始まりいつまでで終わるかは議論があるところかも知れませんが、一応これら3回の上演は戦後の四代目南北再評価の流れのうえにあるものと考えて宜しいと思います。

吉之助は幸いこの昭和55年4月国立小劇場での上演を生(なま)で見ました。だから第2次南北ブームの最後の方にどうやら間に合った観客のひとりと自認しています。これ以前に吉之助が見た南北物と云えば、「東海道四谷怪談」・「桜姫東文章」・「盟三五大切」くらいのもので数は多くないですが、特に「絵本合法衢」の舞台はその社会的視点に興奮して見た思い出があります。あれからほぼ40年の歳月が経過しました。久し振りに映像で見直すと、「あああの時はこうだった」と当時の興奮を鮮やかに思い出す場面と、「あれこんな場面があったっけ」とあやふやな記憶を修正せねばならないところがありましたが、それらも含めて40年の歳月を感じて興味深いことではありました。それにしてもこの40年で歌舞伎での南北物の理解は、この時点から大して進歩しておらぬなあということをつくづく思いますねえ。

「南北物は脚本を読むと、これを舞台で見たらどんなに面白いだろうと期待してしまうが、実際に歌舞伎で見ると何だこんなものかとガッカリする」とよく云われるそうです。現在の歌舞伎の技法ではどうも上手く表現できない異質な要素を南北物が持っていると云うことです。この40年間でこのことが改めて明らかになりました。それは現在の歌舞伎が、化政期の歌舞伎から大きく変容してしまったということか(敢えて云うならば ビビッドな写実からダルい様式の方へ歌舞伎が堕落してしまったのか)、それとも四百年の歌舞伎の歴史のなかで化政期の生世話の歌舞伎がそれほど特異な現象であったのか、そこのところはもうちょっと時間を掛けて考えなければならないことです。

今回(昭和55年4月国立小劇場)上演の注目は、当時の若手・六代目染五郎 (現・二代目白鸚)が演じる大学之助・太平次二役でした。染五郎にとっては、実悪の名人・五代目幸四郎が初演した、いわば高麗屋にとっても家の芸とも云える役です。五代目幸四郎は南北物の生世話に欠かせない名優でした。ただしこれ以後・現在までの状況を見ると、染五郎はさほど南北物を取り上げていません。南北とご縁が深かったとは云えないと思います。こういうことは松竹の興行事情とかいろんな要素が絡むので一概なことは言えませんが、染五郎は実悪に向きの芸風だと思うので、染五郎が南北物の五代目幸四郎の役どころをもっと掘り下げてくれなかったことは、ちょっと残念だったなあと個人的には思っています。

その他、九代目宗十郎が代表的な悪婆役であるうんざりお松を演じること、当時気鋭の演出家であった観世栄夫が演出を手がけることも、当時の注目でありました。(この稿つづく)

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2) 化政期の文化史的位置付け

幕末の歌舞伎が如何に残酷血みどろであったかは、現在の我々に想像が付かないほどのものであったようです。大正12年に坪内逍遥が次のように書いています。

『今はその筋の干渉と見物人の神経過敏をはばかって、場末の小劇場でさえも、旧劇(歌舞伎)を旧型のままに演ずることは絶無なのだが、明治10年前までの我が国の「血の悲劇」の演じ方は、実に比類のないものであった。権八の立腹や、天下茶屋や亀山仇討の返り討ちや、権三・権八の磔刑や、宗五郎一族の刑死や、与三郎の斬られや、小平次や正直清兵衛の殺しを今の神経の細い若い人たちに見せたら何と云うだろう!』(坪内逍遥:東西の扇情的悲劇・大正12年)

ここで吉之助が問題にしたいのは、残酷血みどろと云うシチュエーションのことではなくて、そのような場面を生み出す「悪」或は「悪人」のことです。幕末には芝居だけではなく、読本・黄表紙 や錦絵においても悪人が跋扈し・残酷なシーンが溢れていました。だから「江戸の悪の美学・残酷の美学」なんて言葉が現在でもよく使われます。そういう標題の展覧会などもよく開催されています。それでは当時の江戸の民衆と云うのは、悪人に体制転覆的な妖しい魅力を感じ、残酷血みどろなシーンにサディスティックな悦びを感じる、そういう感性の人たちだったのかね?そのようなイメージを植え付けかねない危険性があると吉之助には思えるのです。これはちょっと考え直さなければならないところがあると思います。

そこでとりあえず南北もののことですが、「絵本合法衢」が初演されたのは、文化7年(1810)5月江戸中村座のことでした。明治維新は慶応3年(1868)ですから、まだ60年ほど先の話です。ですから化政期の南北ものには残酷シーンが多いとよく云われるけれども、実はそう云うのは歌舞伎ではまだ初っ端の段階なのであって、つまり可愛いものなのです。それが段々エスカレートして行って、逍遥の証言にあるような残酷血みどろシーン満載の幕末歌舞伎に発展していくのには、まだまだかなりの歳月(恐らくは30〜40年くらい)があるのです。

ところが逍遥の証言にある通り、そのような残酷血みどろシーン満載の歌舞伎は、明治末期にはほとんど払拭されていました。一方、この間、化政期からみれば 明治末までほぼ100年の歳月が経過していますが、歌舞伎の南北もので切れ目なく上演されたのは、「四谷怪談」とか「馬盥の光秀」くらいのもので、明治期には南北もの上演がほぼ絶えていました。いくつかの南北ものが復活上演されて南北への関心が高まって来たのは、大正期の二代目左団次によるいわゆる第1次南北ブームのことでした。大正当時の観客は残酷血みどろシーン満載の幕末歌舞伎を全然知らないので、南北もの程度の残酷さでも初めて見てビックリしてしまったと云うわけです。

実は歌舞伎だけでなくて同じようなことが江戸文学・或は江戸美術にも起きていると思いますが、「幕末」という漠然と大雑把な括りをすることで、その周辺の数十年の事象がひと括りで取り込まれて、一様な見方をされてしまう傾向があるように思われます。例えば上記の逍遥の文章を読んだ時に、逍遥にそういうつもりは全然ないのだけれど、読んでいる我々の方は「ああそう云えば南北の芝居なんかが確かにそうだねえ」と云う思考回路になってしまう。そのような具合で南北は随分と誤解されているのではないでしょうかね。

そう云うわけでまず化政期(文化文政年間、1804〜1830)の文化史的な位置付けを明確にしておく必要があります。それ以前の天明寛政の、江戸という特殊な都市空間に花開いた高度な町人文化を引き継ぎ、当時の江戸町民の健康的な感性(センス)を以て、さらに個性的かつ自由な展開を見せた時代こそ、化政期であったと考えたいと思います。時代が閉塞感を呈し始めて、町人階級の創造意欲が上から頭を抑え付けられて曲がりくねった展開を見せ始める天保期(1831〜45)以降とは様相がかなり異なると、ここでは考えておきます。以上の時代認識を以て化政期の南北ものの「悪」或は「悪人」を考えて行きたいと思います。(この稿つづく)

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3)化政期という時代

以下は吉之助が漠然と考えている推論で、まだ完全に出来上がったわけではないですが、参考までに記しておくことにします。国文学者・松田修は論考「幕末のアンドロギニュスたち」のなかで、幕末の読本・黄表紙などに頻繁に登場する強請り騙りをしたり、一揆・打毀しに活躍したりする美少年の悪人たちを取り上げて、彼らが幕末の江戸庶民の想像力が、例えば歌舞伎の弁天小僧(初演は文久二年・1863・江戸中村座)のようなアンドロギニュス、すなわち両性具有者に結実して行くことを指摘しました。この認識から遡って、松田は化政期の曲亭馬琴の読み直しを図ろうとしました。松田は「南総里見八犬伝」(文化12年〜天保13年)に登場する犬塚信乃(しの)や犬坂毛野(けの)・犬江親兵衛などの美少年たちは、単にお家騒動における勇者たちと云うのではなく、日本の伝統的な神(カミ)、若年・受苦・流浪・霊異という四条件を満たした小さ神(ちいさがみ)であると解釈しました。この指摘はとても興味深いものですが、この論考のなかで松田は注目すべきことを指摘しています。

『たしかに馬琴は(その作品のなかで)勧善懲悪を唱導した。しかし、その悪とは、体制の悪であった。したがって善とは、体制そのものを揺さぶる行為でさえあった。』(松田修・「幕末のアンドロギニュスたち」)

ちなみに「体制」という用語は最近はほとんど使われませんが、これは1960年代の学生運動が盛んな頃に流行った用語で、政治権力・社会構造・或は社会の枠組みのことを意味しました。例えば体制打破というと、世直し・社会改革みたいなものを指します。ここでは松田が1960年代の読み方として「馬琴が体制は悪であるとイメージした」と規定した点をまず押さえておきたいと思います。

それにしても、この松田の論理(ロジック)であると、江戸の民衆の世直し願望→救世主待望→美少年的英雄の登場という構図になって、弁天小僧が世直しの英雄にされてしまいそうです。そういう要素が全然ないこともないと思いますが、しかし、実際はそれほど単純なものではありません。馬琴も、そして黙阿弥も、厳正なモラリストであったのですから。黙阿弥が浜松屋の強請り騙りを善の行為(世直し行為)だとしたわけではないのです。弁天小僧の行為は悪事としてきっちり裁かれなければならない、それで黙阿弥の因果劇が成立するのです。馬琴の勧善懲悪も、同様に考えねばなりません。ここは論理にもうひと捻(ひね)り加える必要がありそうです。

そこで「八犬伝」と並行して書かれた「近世説美少年録」(文政12年〜13年)を見ると、時代設定は応仁の乱の時代ですが、この時代には「美童・龍陽のもの、歯を染め紅粉(おしろい)を施して、女子に彷彿たるも多かり、ここをもて、その年二十四・五までも額髪(ひたいがみ)を剃らずしてなお少年の面色(おももち)すなる」という美少年の悪人たちが多かったとされており、「女子の丈夫に化し、丈夫の女子に化し(中略)これらみな陰陽攪乱の気の致すところ、多くは滅亡の兆しのあらわるるところなり」と書かれています。

ちなみに室町期の応仁の乱の時代は、単に戦乱の世であったというだけでなく、人心が荒廃した亡国の時代だというのが、江戸期の人々の歴史認識でした。なぜ亡国の時代であったかと云えば、それは体制が腐敗していたから、為政者が堕落していたからです。体制の悪が人心の荒廃した世相を生み出し、堕落した世相が生み出した仇花こそ馬琴の美少年なのです。だから馬琴の考え方であると、正しい世の中であるならば、美少年の悪人は生まれないことになります。この感覚は黙阿弥にもあるものです。

美少年と悪人を重ねて論じていますが、結局、馬琴においても黙阿弥においても、小説や芝居に登場する美少年や悪人は、体制の腐敗・世の腐敗(明確に区別するためには「体制の巨悪」と言った方が良いかも知れません)から派生する「現象」に過ぎないということです。「現象」がやっている行為は悪いことですが、現象それ自体が悪なのではありません。彼らが悪いのは、体制のせい・世の中が悪いせいです。

ここまででは、まだ化政期の位置付けが明確になっていません。そこでもうひとつの視点を加えることにします。本居宣長は「古事記伝」(執筆は明和元年・1764〜寛政10年・1798)のなかで、この世の悪の根源をヨミノクニのケガレから出た禍津日神(まがつひのかみ)がもたらすものだと考え、人は死ねば善人・悪人を問わず、すべて同じ黄泉の国に行くと説きました。一方、宣長の国学を引き継いだ平田篤胤は、文化9年(1812)に「霊能真柱(たまのみはしら」を著し、師の説を修正して、幽世(かくりょ)の支配者・幽世大神(かくりょのおおかみ)を人間の霊魂の審判神として、そこで生前の善悪が裁かれるとしました。幽世大神というのは、仏教の閻魔大王によく似た感じですねえ。この辺の国学の理論変遷は難しくて吉之助にもとても十分な理解が付きませんが、本稿では、宣長は「死んだら善人も悪人もない」とした、篤胤は「死後に幽世大神によって悪人は厳正に裁かれる」と変えたと云う点だけ押えていれば十分です。

ここで化政期に篤胤が宣長のヨミノクニ説に修正を加えなければならなかったのは何故かと云うことが問題になります。ここには化政期に生きる江戸民衆の気分が深く係わって来ると、国文学者・高田衛は書いています。

『宣長は、人は死ねば善人・悪人を問わず、すべて同じヨミノクニへ行くだけだと説いた。化政期という、一見はなやかな都市江戸の繁栄の時代、山東京伝は(「桜姫曙草紙」の)物語を室町時代に仮構しながら怪異とケガレの幻想テーマを押し出して、人の世の加害被害の凄惨さ、差別の不条理さを書いたのだが、それ(篤胤が行ったヨミノクニ説修正)は一面では、善悪強弱さまざまな人たちがただ「死」においてすべて平等であってたまるものか、やはり人生のどこか(死後の世界を含む)で決着がつくのでなければ神も仏もあるものかという江戸の人々の素朴な救済待望の心理に対応するものと考えられる。不思議なことにかれらは同時に物語のなかに、華麗なる悪と美のパノラマをも求めたのだけれども。』(高田衛:「江戸幻想文学 誌」)

大事なことは、化政期の華やかな町民文化のなかで、 「人生のどこかで善悪の裁きがつくのでなければ神も仏もあるものか」という気分が生まれたと云うことです。それは江戸町人の意識が高まって来たということを示しています。このような時代の気分を篤胤でさえ無視できなかったのです。ここではまだ漠然と意識されているだけですが、ここから体制悪・社会悪という考え方が次第に形成されていきます。これが化政期という時代であったのです。そのような時代のなかで、曲亭馬琴も山東京伝も、そして鶴屋南北も、作品を書いていたことを忘れてはなりません。(この稿つづく)

(H31・4・ 28)

*以上の吉之助の推論は、高田衛先生の「新編 江戸幻想文学誌 (ちくま学芸文庫)からの示唆が大きいものです。


4)人間悪・社会悪の創造

化政期に至って「人生のどこかで善悪の裁きがつくのでなければ神も仏もあるものか」という気分が江戸の民衆のなかに湧いてきたということは、とても大事なことであると思います。折口信夫は「人間悪の創造」という論考のなかでこんなことを書いています。

『神だって人を憎む。むしろ神なるが故に憎むと言って良い。人間の怒りや恨みが、必ずしも人間の過誤からばかり出ているとは限らない。恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。日本でも旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。(中略)人間の処置はここまでで・これから先は我々法に関わる者の領分ではないと言ふ限界を、はっきり見つめて、それははっきりと物を言っているのである。すなわち法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

この世においては禍福が必ずしも合理的にもたらされるものではなく、誠実に生きる人が必ずしも幸福になるわけではありません。逆にひどい災厄を蒙る場合さえあります。そういう時に「おかしいじゃないか、真面目に誠実に信心深く生きている私が、こんな仕打ちを受ける理由はない、私が何か悪いことをしたと云うのですか」と神に抗議したい気持ちになると思います。そういう時に法が(或は社会の機構・ルールが)介入してくることがありますが、大抵の場合、被害者の気持ちを十分に救いあげることが出来ません。正しい者は救われなければいけないはずだ。悪い奴らには罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか。そのような憤る気分を「大岡裁き」みたいなものがちょっとだけ和らげてくれると折口は云うのです。世の中捨てたものじゃないなと云う気持ちにちょっとだけなるのです。

江戸の芝居や小説に勧善懲悪ものが流行るのは、結局、そういうことなのです。悪いことをした奴は、その理由はどうあれ、しっかり裁きを受けてもらわないと始まらないと云うことです。しかし、江戸の庶民はお上が神の如く公正に裁くなんてことが決してないことも分かっているのです。悪いことは悪いとしつつ、お上の裁きは情けを以て公正に行っていただきたい。例えば青砥左衛門藤綱、あるいは大岡越前守・遠山金四郎のように。今が正しい世の中であるならば、公正な裁きがきっとなされるはずだ。それがなされないのであれば、今の世の中が間違っている。化政期の江戸の庶民がそう考えた背景は、制度が固まって庶民の経済力も増して、世の中への意識が次第に高まって来たからです。さらに「人間悪の創造」のなかで折口はコナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」を挙げて、こんなことも書いています。

『この神の如き素人探偵(ホームズ)の持った特異性は、いつも固定していない。人間の生き身が常に変化しているように、ホームズは、生きて移っている。しかも彼らの特異性が世間に働きかけて、犯罪を吸い寄せ、罪悪を具象して来る。そうしてあたかも神自身のように、犯罪を創造していく。彼の口は、皮肉で、不逞な物言いをするに繫らず、犯蹟を創作する彼の心は、極めて美しい。ホームズを罪悪の神のように言ったように聞こえれば、私の言い方が拙いので、世の中の罪が彼の気品に触れると、自ら凝集して、固成しないではいられなくなる。そして次々に犯罪を発見し、またそれ自身真に、その罪悪と別れて行く。(中略)だから、ホームズの物語は、ドイルの行なう鎮魂術であったと言ってもよい。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

神の如き名探偵は、この世のあらゆる犯罪を見抜き、そのトリックを暴きます。動機はどうあれ、悪いことをした奴には、きっちり裁きを受けさせるのが、探偵の仕事です。しかし、事件も回数を重ねると段々トリックは巧妙化したり、或いは趣向がエスカレートして怪奇的になったり或いは残虐さを増して行きます。事件がミステリアスで難事件であるほど探偵にとっては仕事の遣り甲斐があるからです。まるで犯人が犯罪を楽しんで、名探偵に対して「どうだ、このトリックが解けるか」と戦いを挑むかの如く見えて来ます。

南北物の残虐性は、折口のホームズでの言い方を裏返しに考えて見れば良いのです。五代目幸四郎という特異なキャラクターを得て、世間の邪悪なものが集まり、犯罪を吸い寄せていく。あたかも高麗屋が神の如く、犯罪を創生して行く。この世の邪悪なもの・不正なもの・醜いもの、人間悪・社会悪が眼前に現れ、そして最後に討たれて滅びて行く。この時、世の中のあるべき方向(正義)が指し示される。その為に幸四郎の悪があるのです。その為にならば、その所業は残酷・無残なほど面白い。南北物の感性は健康的です。どこかマンガチックであると言っても良いです。これは南北が行なう鎮魂術なのです。(この稿つづく)

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5) 南北の社会的視点

どうやら現代における南北物上演の問題は、幕末から明治初期の芝居(当時の芝居とはもちろん歌舞伎のことですが、場末の芝居小屋も含む)の残虐血みどろイメージから逃れることが出来ず、すべてを悪の美学・残酷の美学で片付けてしまっていることにありそうです。それが化政期の町民文化の高まりから生まれた社会意識の目覚めであったことを忘れているのです。

「慎ましく正直に生きている者が報われる世の中で在って欲しいものだ、ところが現実を見れば決してそうではない」というところに民衆が気が付いたところから、或る疑念が生じます。その疑念は直ちに明確な形を成すわけではないのです。当時は封建社会・身分社会ですが、だからと云って、直ちに社会制度批判に向かうわけではありません。正しい者が正当に報われないのは、たぶん世を司っているお上のなかに悪い連中がいるのであろう、世が乱れればその兆候は風俗の乱れ・悪人跋扈となって現れる、町人の社会意識の目覚めは、まだこの時代においては、そのような形で読み本・黄表紙や錦絵・芝居のなかに現れるより他なかったのです。勧善懲悪の図式も、お上への方便でそうなったわけではなく、それは「人生のどこかで善悪の裁きがつくのでなければ神も仏もあるものか」という民衆の意識がそうさせるのです。

だから南北は社会批判の意識で芝居を書いたわけではありませんが、大正期の第一次・戦後昭和の第二次南北ブームにおいて、当時流行であったマルクスの唯物史観(階級闘争理論)で南北物が解釈されたということは、これはやはり一理あったと云うべきです。

歌舞伎役者の演技の引き出しは、遡ってもせいぜい幕末くらいまでしか辿れません。今の歌舞伎役者は黙阿弥はできるが、南北はどうしても表現できないところが出ます。それは南北の上演史が幕末で途切れてしまったからです。ならば大正期か昭和初めの新作物・つまり新歌舞伎の要領で・つまり当時の社会的視点を加えて新しい感覚で処理した方が、南北の場合は却って上手くいくのです。第一次南北ブームで、二代目左団次が小山内薫や池田大伍らのアドバイスを得て試みたことは、そういうことでした。

『歌舞伎というのは「読むもの」ではないと云われますよね、それは重々承知のうえでなお言いたいのは、南北はこちらが想像力を発揮して読めば舞台を見るよりはるかに面白いということが、現状ではあるのではないか。(中略)だから僕は「南北は大いにお読みなさい」と、今は言っているんですよ。(中略)南北は、歌舞伎としても論じなくてはいけないけれども、歌舞伎という枠をいっぺんはずして、相当大胆に演劇としての可能性という面で評価し直してみるということも、大変だけれども、やってみる必要がありますね。』(広末保:郡司正勝との対談「近松と南北の意味するもの」・1971年9月)

遊行の思想と現代―対談集 (広末保著作集)

そこで昭和55年(1980)4月国立小劇場での「絵本合法衢」の舞台映像を久し振りに見直して改めて思うことは、この舞台が南北上演として万全と云うわけではないのだけれども、まだしも尖ったところがあったと云うことです。1970年前後の学生運動の余韻が、当時はまだ多少は残っていたからです。当時は南北は怨念の作家と云われたものでした。南北を社会的視点で読まなければ済まない空気がまだあったのです。しかし、あれから約40年と云う歳月が経過したわけですが、歌舞伎の南北上演は退歩したと云うか、尖ったところがなくなって、ホント生ぬるい平板なものになってしまいました。これは社会の保守化傾向を反映しているのでしょうかねえ。現在の南北上演は、南北は黙阿弥よりも以前の狂言作者なのだから、如何にも古い時代の歌舞伎らしく、それらしくやろうとして、ますます変なことになっています。結局、南北は「読む歌舞伎」なのでありましょうか。(別稿「南北の社会的視点」をご参照ください。)(この稿つづく)

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6)アモラルな悪

今回(昭和55年4月国立小劇場)の舞台での見どころはふたつあります。ひとつは六代目染五郎が実悪の役どころ・左枝大学之助・立場の太平次二役を演じるということですが、もうひとつの注目は九代目宗十郎が悪婆のうんざりお松を演じたことでした。

まず宗十郎のうんざりお松について書きますが、宗十郎は芸達者でサービス精神を持った役者ですから、媚態も愛嬌もあってそのくせ拗(す)ねた態度で日常を退屈に過ごしている「うんざり」という雰囲気をよく出して、興味深いお松になっています。現代人は、「悪婆」という字面から濃厚な色気の中年熟女をツイ想像してしまい勝ちです。しかし、当時の悪婆は、二十代後半過ぎたくらいで当時の感覚としては適齢期をちょっと越したくらいの、男がたじろぐキッとした色気を持った姐御肌のいい女のことを指しました。初演のうんざりお松を演じたのは、松助時代の若き日の三代目菊五郎(当時26歳)でした。だから「うんざり」という語も、男に素直に従わない(男に対して拗ねた)、自分の意志で自由気ままに振舞うという語感を読むべきかも知れません。

そうすると宗十郎の造りだと、生活感があり過ぎ・かつ老け過ぎと云うことになるわけですが、しかし、現代の歌舞伎のセンスであると、やっぱり四十過ぎくらいに設定を置かないと「悪婆らしく」見えないわけです。それは現代の我々のセンスが幕末の退廃的な雰囲気にまみれた濃厚な年増の悪婆・例えば切られお富や妲己のお百などを一度経ているからです。その辺に現実と歌舞伎のリアル感覚のギャップが見えて来ます。しかし、どちらが正しいとか・正しくないと云うことではなく、ここは宗十郎の芸を見るべきなのでしょうねえ。事実、今回の舞台を見ても、宗十郎のお松が登場して初めて芝居が軽快に回り始めた感じがします。

それにしても「合法衢」のなかでのお松の役割は、芝居に華をちょっと添えるだけと云うか、大きな役割を背負うわけではなく、古井戸の場で太平次に殺されて、あっけなく消えてしまいます。しかも太平次がお松を殺す動機がよく分かりません。察するところ、お松がしつこく自分にすり寄って来るので煩わしくなったか、強請り場が終わってお松が用済みになったのか、いずれにせよ大した動機ではなさそうです。大した動機でなくても用済みになってしまえば、虫けらを捻りつぶす如く情け容赦なく、と云うより無感動・無表情に、人を殺してしまえるのが太平次と云う人間です。

何と云う極悪非道な人間か・・と思うでしょうが、裏返せば太平次にはモラルがない(アモラル)のです。「アモラル」と「インモラル」の違いについては、「野田版・桜の森の満開の下」の観劇随想のなかで触れました。「アモラル」とは、善とか悪という倫理基準がまるでないことを云います。これに対して「インモラル」にはまず善とか悪という倫理基準があって、これが悪い行為だと分かっていて彼は悪いことをするのです。倫理道徳に反しているということが、却って彼の悦びとなるのです。

太平次の場合、本人はこれが悪い行為だとまるで思っていませんから、パソコンの「Delate」キーを押すくらいに平気で人を殺せるわけです。だから太平次の悪は「アモラル」なもので、薄っぺらで深みがありません。芝居のなかでの太平次は悪人らしいことはしますが、その行為はマンガチックそのものです。ところが、これをインモラルな悪と読もうとすると間違えます。そこから悪の美学・殺しの美学という展開になってしまいます。実際には太平次は大学之助に付随する悪であって、大学之助がいなければ芝居のなかでまるで機能しない悪です 。

一方、大学之助の場合は、やっていることは太平次とさほど変わらぬ悪ですが、主家である多賀家乗っ取りという大陰謀を肚に持っています。この点で封建社会の倫理に明確に違反しているわけで、お上から見ても大学之助は弁護が出来ない悪人です。とすれば大学之助がインモラルに思えるかも知れませんが、しかし、これは狂言作者のお上への便法(勧善懲悪の定型図式)に過ぎないと云うことも、よく考えてみなければならないことです。庶民には小難しい表向きの政治の理屈などどうでもよい。それが正しいのか、公正に事が運ばれているかどうかが庶民には大事です。そうすると庶民の目からは、大学之助のインモラルな側面が消し飛んで、やっぱりアモラルな側面だけが残ることになるでしょう。

折口信夫に拠れば、昔の江戸の庶民の感情は公憤(おおやけばら)と同じで、自分に関係のないことでも、ああいうことをしてもらっては困ると感じると、すぐに直情的に怒る。(昨今頻繁に見られるツイッターの炎上なども似たようなものです。)祭礼の若い衆が平素憎んでいる家へ神輿を担ぎ込んで暴れたりしたもので、それでも昔なら神事ということで済まされたものでした。これは道徳とか正義とかいう以前の、もっと原始的な感情の発露なのです。これをずっと延長して行けば、いつかは社会意識・道徳に至るということは云えます。しかし、まだその段階にまで民衆の意識が成熟していませんから、江戸の庶民の目に映る大学之助の悪も、アモラルな段階に留まります。

今回の「合法衢」序幕に見られる多賀御殿での殿様の御乱行も、悪臣をいぶり出すための計略だったというオチが付くとは云え、江戸の庶民の目にこれが手を叩いて喝采と云う 芝居であったか、少々疑わしいと思います。ここで下される多賀公の采配はお慈悲に過ぎないのであって・お慈悲を下されるかどうかの判断は殿様次第である、それは社会規範や道徳に則った公正な基準(正義)によって判断されたものでないことが、芝居のなかで露わになっています。本作の場合、たまたま多賀公が良い殿様だったから運が良かったというだけのことです。

多賀公がホントにバカ殿であったならば、弥十郎夫婦が仇討ちに出立することは叶わず正義は発動しなかったことになります。封建制度の政事(まつりごと)というのは、為政者の人格に頼らなければならないと云う、危ういところに立っているのです。(それでは現代の民主制度はどうなんだというところは、本稿では置きます。)このことを南北が明確に意識したかどうか分かりませんが、多分それはないでしょう。しかし、漠然としたまま明確な形を成していないけれども、南北は鋭いリアル感覚で何となく問題点を掴んでいるわけです。(前章で松田修が指摘したように)馬琴と同様、南北の悪も体制の悪なのですが、そのどちらもアモラルな悪であるのです。だからその悪は薄っぺらで深みがない。現代において南北を上演するならば、そこを取っ掛かりにせねばならないはずです。

今回の「合法衢」上演の眼目のひとつが久しく上演が絶えていた多賀御殿の場の復活であったわけですが、監修者がこの場を「バカ殿が実は賢君であった」と云う、大蔵卿のような、歌舞伎らしいドンデン返しの面白さがある場だと考えて、そこに復活の意義を見ているのであれば、ちょっとピントが外れていると云わざるを得ません。そこに解釈と「歌舞伎らしさ」とのジレンマが生じて来るわけです。(この稿つづく)

(R1・ 5・ 18)


7) 大学之助と太平次

別稿「兼ねることには意味がある」で触れましたが、異なる 複数の役をひとりの役者が演じるということは、劇におけるふたつの役の対称性・あるいは並列性を暗示しようとするものです。ひとつの芝居のなかで役者が役を兼ねる「必然」が、ドラマに備わっていなければなりません。文化7年5月江戸市村座での「合法衢」初演時に五代目幸四郎が二人の悪人、左枝大学之助・立場の太平次の二役を演じたわけですが、当然上記の約束を踏まえているのです。

作中で「太平次は大学之助様にそっくりだ」と周囲が噂する場面がありますが、このことが芝居の「必然」なのではありません。必然を裏付けるために二人をそっくりに仕立てたに過ぎないのです。歌舞伎の番付けに「役人替名」と云うのがあります。これは芝居のなかの登場人物名は役者が舞台上で仮に名乗っている名前であるという考え方から来たものです。「舞台に見える姿はひとつの人格がまとった仮の姿である」という哲学的観念にまで至るものです。

つまり大学之助も立場の太平次も、稀代の実悪役者・五代目幸四郎が纏う仮の姿に過ぎないのであって、大学之助が出ても立場の太平次が出ても、それは同じ人間が悪さをしているのです。このことは池田大伍が看破しています。

『大学之助と立場の太平次、これは作者の働きから、両人の顔が似ているという点でひとつ役者にさせて、実は大学之助でも良いのである。しかし大学だと万事が固くなって、生世話の味にならぬ。ところで、大学、太平次に分けて、前に武家屋敷で殺させ今度は山中の一つ家で殺させる。こういうことは内外共の脚本で珍しくないことである。固くなりそうな場面を世話で見せる行き方である。シェークスピアの「ヘンリー四世」のなかでファルスタッフがヘンリー四世の真似をして皇太子ハリーを叱る。これは金襖で見せるのを世話に砕いたものである。』(池田大伍:「私の南北観」・昭和2年)

しかし、池田大伍が昭和2年に既に指摘していても、歌舞伎で見る「合法衢」の二役は、大学之助は時代の悪、立場の太平次は世話の悪と云う風にはっきり様式を区別して二役を演じ分けるべしと云う固定観念に陥ってしまっています。二役の同一性が意識されていないのです。実は大学之助と太平次ふたりで一人なのです。二方向から寄ってたかって善人側を嬲る一つの悪だと考えた方が良い。時代だ世話だをいうところをはっきり区別せずに、「あいつ(幸四郎)がまた出て来たわい」という感じの方が、「合法衢」は面白くなるのです。それを無理に仕分けようとするから面妖(おかし)なことになります。(ですから「伊達の十役」のような早替わり芝居でも十役を演じ分けるのではなく、「飴のなかから猿之助(どの役でも同じ)」みたいな感覚で演じた方が良いのですが、近代自然演劇の観念がこういうところで邪魔をします。)

第2次南北ブームの当時には、マルクスの階級闘争理論の影響もあって世間には「体制=支配者=悪」のステレオ・タイプの構図がありました。だから演出の観世栄夫も、武家階級のお殿様筋の大学之助は時代の悪・それも巨悪・極悪というところに関心が向いています。序幕で花道スッポンから女中の生首を銜(くわ)えてせり上がる大学之助の登場は、その良い例です。

この谷崎潤一郎の「恐怖時代」風の発端シーンは、若い頃の・まだ歌舞伎を見始めたばかりの吉之助も、大いに痺れたものでした。如何にもデカダンスな・近代表現主義の所産です。残酷の美・悪の美学か・・・そんなものですかね。しかし、調べてみると、そもそも南北の原作にはそんなシーンがないのです。大学之助を究極の悪に仕立てようという意図が演出の観世栄夫に働いているのです。原作では序幕の出入りが多く筋が錯綜しているので、もちろん脚本の刈り込みは必要ですが、この辺が時代に縛られた演出の限界と云うべきでしょうか。映像を40年振りに見直せば、現在の吉之助にもこう云うことが分かって来ました。

「合法衢」はむしろこれを「返り討ち物」として見れば、敵を追う者たち(善人側)にとって彼らの行く手を阻む障害(状況)は、どんなものであっても自分たちを押し潰そうとする邪悪な意図を持つ存在に見えて来るのではないでしょうかね。(別稿「返り討ち物の論理」をご参照ください。)そういう目で見ると、第2次南北ブームからほぼ40年が経っているのだけれども、歌舞伎での南北物の理解は、この時点から大して進歩しておらぬなあとつくづく思うのです。

一方、演技面から見ると、40年の歳月の変化を痛切に感じますねえ。と云っても進歩したと云うことではありません。第2次南北ブームの当時、歌舞伎役者は南北の台詞が「字余り字足らず」で言い難くて大変苦労したものでした。だから台詞を七三で割るなんてことをせず、とにかく南北の台詞を正確に言おうと心掛けたもので、台詞の末尾を黙阿弥風に伸ばして転がしたりすることはなかったのです。(だからいつもの黙阿弥のタイミングで計っている大向うが掛け声の間を外すことがしばしばありました。)演技のタイミングも間延びすることがなく、(これはまあ十分と云えるものではないにせよ)比較的テンポ良く淡々と進みます。良い意味において、ちょっと新劇的な演技だとも云えそうですが、これが当時の吉之助には新鮮に見えたものです。兎にも角にも南北の様式を、黙阿弥とは違うものだと意識していたと思います。このことがこの昭和55年4月上演の「合法衢」映像からはっきり確認が出来ます。

一方、現在の歌舞伎では、南北と黙阿弥の区別がなくなって、南北の様式がほとんど見失われて、一様な歌舞伎様式があるが如くです。役者は南北の台詞を平気で黙阿弥風に処理しています。これは歌舞伎的に練れたということなのでしょうかね。(?)役者が慣れてしまって、「いつだって俺たちはこんなやり方でやって来た、これが歌舞伎らしいということだ」ということになってしまったのです。(別稿「いわゆる歌舞伎らしさについて」を参照ください。)これが40年の歳月で起こった変化です。

当時の染五郎は、歌舞伎以外での活躍がまだ多かったと思います。その分南北への拒絶反応が少なくて、南北に素直に取り組めていたかも知れません。南北の様式には、確かに新劇的なアプローチの方が近いかも知れません。染五郎には大学之助を時代に・太平次を世話に仕分けようという意図は特に感じませんが、これはその行き方で良いと思います。太平次よりは大学之助の方が染五郎の体質に合う気がするのは、当時の染五郎は顔が痩せ気味であったせいで、化粧をすると大学之助の方がニヒルで腺病質的な表情が生きたと云うことがあると思います。線がやや細い感じがあるけれども、この辺に古(いにしえ)の五代目幸四郎の実悪とはひと味違う・現代ならではの実悪としての染五郎の可能性があったかも知れません。染五郎の「先代萩」の仁木弾正を見ればこれは肯けると思いますが、その後の染五郎が高麗屋の家の芸・実悪の役どころを掘り下げる機会がさほど多くはなかったことはちょっと残念です。

(R1・ 5・ 28)



 

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