十代目三津五郎の髪結新三
平成25年8月歌舞伎座:「梅雨小袖昔八丈・髪結新三」
十代目坂東三津五郎(髪結新三)、三代目中村橋之助(八代目中村芝翫)(弥太五郎源七)
1)髪結新三の難しさ
歌舞伎というのはオリジナルな作品というのが意外と少なくて、歌舞伎や人形浄瑠璃の先行作があったり、読本・講談というネタがあったりすることが多いものです。そうすると主人公の性格なども、そのような先行作やらネタでの主人公の性格を踏まえている・あるいは引きずっていることが少なくありません。これは昔の作劇が趣向本位なところで書かれているせいです。現代戯曲の視点から見れば作劇術が拙いということになるかも知れませんが、昔の戯曲というのは大体そんなものでした。だから、古典戯曲の場合は、役の検討の時に周辺作をチェックして見ると、そこに思わぬ発見があったりします。逆に、役の性格が分離して一貫性に欠けるように見えて、今ひとつ解釈に困ることもあって、その場合も、周辺作とかその他の要素が影響していることが多々あるものです。
「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」は明治6年(1873)5月中村座で五代目菊五郎が初演したものということは、ご承知の通りです。吉之助もそういうことは分かっていますが、それでも時々、吉之助は髪結新三を見ながら四代目市川小団次のことを思い浮かべてしまいます。実はそういうことはあり得ないのです。小団次は明治維新前の慶応2年(1866)に亡くなっているのですから、小団次が髪結新三を演じることなどあり得ないのです。しかし、黙阿弥は髪結新三を書きながら、「この役は小団次に是非やらせたかったなあ・・」と思って書いたのじゃないかと思うのです。菊五郎の方も、そういうことを何となく感じていて、黙阿弥が自分にはめて書いてくれたと分かっていても、「ここの箇所は小団次ならこうやったかな」ということを考えたような気がするのです。黙阿弥にとっても、菊五郎にとっても、それくらい小団次というのは大きい存在であったのです。
しかし、小団次と菊五郎との関係は、芸脈としては小団次の生世話を菊五郎が引き継ぐという位置付けにはなりますが、そこに二人の芸質(仁)の違いが、その演じる役どころに微妙に出てくるということになると思います。小団次の役どころを見ると、菊五郎が引き継いだものと、引き継がなかったものがはっきりあるのです。例えば、菊五郎が「村井長庵(勧善懲悪覗機関)」をやろうとせず、そのくせ黙阿弥に「長庵のような悪人が演りたい」と頼んで按摩道玄(盲長屋梅加賀鳶)を書いてもらったということに現れます。大体、昔の役者はその役が自分にぴったりの仁ではないと判断すると演じるのを躊躇したもので、仁ということにはとても敏感なものでした。
そこで髪結新三という役を考えてみると、やはり役の性格が割れているという 印象を吉之助は持つわけです。ひとつは、江戸前の粋(意気)な新三というイメージで、これは確かに五代目菊五郎のイメージということになるでしょう。もうひとつは、上総無宿の入墨新三ということで、これは小団次のイメージということになるのではないか。このふたつがぴったり重なることは、なかなか難しいように思います。昭和後半の歌舞伎の新三役者で言えば、前者は二代目松緑、後者は十七代目勘三郎に代表されます。これはもちろんどちらも良かったのですが、そこに髪結新三の性格が割れているということを見ます。これは、多分、無理にひとつにしない方が良いのでしょう。やはり髪結新三は、白子屋から永代橋・富吉町・閻魔堂前までを性格を一貫して通すことはなかなか難しいことだと思います。その辺の詳しいことはここでは省きますが、それはやはり「梅雨小袖昔八丈」の成立過程から来ているように思われます。
吉之助が思うには、新三の性格に無理に一貫性を持たせようとすると、特に富吉町の扱いが難しくなると思います。新三と家主長兵衛のやり取りというのは、どんな場合でも、落語での大家と熊さん・八っあんの掛け合いみたいになるものです。つまり、軽妙で軽いお笑いタッチになります。大家と店子の馴れ合い構図みたいなものを感じてしまう。しかし、長兵衛の台詞をよく読めば、親分・弥太五郎源七にも屈しない新三がどうして年寄りの家主にかなわないのかがよく分かります。
『・・・入れ墨というものを手前は何と心得てる。人交じりのできねえ証だ。たとい手前に墨があろうが知らねえつもりで店(たな)を貸すのだ。表向き聞いた日には一日でも店は貸せねえ。・・・・おれが太えのを今知ったか。こういう時にたんまりと金を取ろうばっかりに、入れ墨者を合点で、店を貸しておく家主(いえぬし)だ。』
「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」と言われる裏長屋の生活も、裏返せば、親方・子方という隷属関係によって常に監視される厳しい権力構造があったということです。(別稿「かぶき者たちの心象風景」をご参照ください。)せっかく取った三十両の半分持っていかれるということは、新三も「仕方ねえなあ・・」とヘラヘラ笑って取られたわけではないし、長兵衛は有無を言わさず搾取するのです。そのような厳しい現実が、歌舞伎の「髪結新三」の舞台からは分からない。まあそれでエンタテイメントになるのかということは、別のこと。しかし、これは、多分、五代目菊五郎の初演の時から今と同じ感触だったのだろうと思います。そこに菊五郎の仁が生きているということです。「髪結新三」は明治6年の初演なのですから、これはもはや江戸時代の歌舞伎ではないのです。
しかし、もし幕末の、明治維新前の東京ではない江戸で、本作を小団次の新三で初演したと、あり得ないことを想像してみれば、この富吉町の場面は、どうなったことでしょうかね。そういうことを想像してみることは、決して意味のないことではないと思います。(H25・8・16)
2)三津五郎の髪結新三
今月(平成25年8月)歌舞伎座での、三津五郎の「髪結新三」について触れます。三津五郎は、総じて江戸前のサッパリした髪結新三で通しています。これはこれでひとつの行き方だと思います。ただし、三津五郎の仁としてどこか品行方正な新三に見えてしまうということがあり、陰のある根っからのワルに見えないところが損ではある。その取りこぼしたところは少なくないのですが、江戸前の新三と上総無宿の新三を無理にひとつにしようとした感じでもなく、三津五郎は自分の仁において巧く新三を再構築できています。富吉町での新三を愛嬌のある気の良い男伊達という風に捉えるならば、その線で筋を通した形になっているので、新三の性格がそう割れた印象にならずに見ていられます。
先年亡くなった(十八代目)勘三郎であると脂ぎった体臭を感じさせるところがあって、こちらの方が新三の仁としては近いものでした。しかし、その一方で勘三郎の新三は、白子屋と永代橋・富吉町・閻魔堂前と通した時に、新三の性格が割れている感じがしました。永代橋での印象がやや暗くなって、富吉町の新三との間に性格の乖離が生じていました。これは必ずしも勘三郎のやり方が悪いということではなく、作品の新三の性格乖離をそのまま反映しているということです。だから本来愛嬌が売りである勘三郎の仁が、永代橋では十分生きなかったということになる。髪結新三というのは、なかなか難しい役なのです。この柿葺落興行の「髪結新三」も、もし勘三郎が存命で元気であったならば、勘三郎の新三に三津五郎の弥太五郎源七の組み合わせが本来のところだと思います。三津五郎にもいろいろと思うところがあるでしょう。これは同世代である吉之助にとっても同様です。
三津五郎の新三の永代橋で忠七を蹴倒して言う長台詞の七五調は、写実でサッパリしてとても良い出来です。もっとたっぷり張り上げた方が芝居っ気があって良いとお感じの方がいるかと思いますが(逆に勘三郎はちょっと芝居っ気あり過ぎの感がありました)、台詞終わり付近の「覚えはねえと白張りの・・」をちょっと時代に膨らませて、「しらをきったる番傘で・・・べったり印をつけてやらあ」をサラッと世話に流す、これが生世話の正しい行き方なのです。お手本にしたい七五調です。だから「ざまあ見やがれ」と言い捨てて去っていく新三の後ろ姿が、嫌味にならずに、痛快に見える。だからスッキリ江戸前の新三に見える。これから三津五郎に生世話の役どころで良い舞台を期待したいものです。歌舞伎の生世話の将来は、この優に掛かっていると思いますね。(H25・8・18)