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野村裕基初役の「ハムレット」

令和5年3月世田谷パブリックシアター:「ハムレット」

野村裕基(ハムレット)、野村萬斎(先王の亡霊、クローディアス)、若村麻由美(ガートルード)、村田雄浩(ポローニアス)、岡本圭人(レアーティ−ズ)、藤間爽子(オフィーリア)、采沢靖起(ホレイシオ)、河原崎国太郎(座長)他


1)ハムレットの「父殺し」のこと

フト思い立って令和5年3月世田谷パブリックシアターの「ハムレット」を見に行くことにしたのは、野村萬斎の長男・野村裕基(23歳)が主演ハムレットを勤めると聞いたからです。萬斎がハムレットを主演した平成15年(2003年)の公演(世田谷パブリックシアター、ジョナサン・ケント演出)は、当時の吉之助は仕事が忙しかったために見ていません。吉之助は野村裕基の舞台を狂言も含めて生(なま)でまだ見たことがなかったのですが、伝統芸能の家に生まれた若者が、狂言についてはもちろんのことですが、云わばジャンル外の翻訳劇の分野においても・父(萬斎)の生き方を継承して行こうと云うのは生半可な覚悟で出来ることではないので、その挑戦を見てみたいと思いました。

  

今回は野村萬斎が演出を行い、舞台では亡霊(ハムレットの父)とクローディアス(ハムレットの伯父)に2役を勤めます。云うまでもなくクローディアスはハムレットの父である先王を殺して王位に就き、ハムレットの母と結婚した男(つまり現在はハムレットの義理の父親である)と云う男です。当たり前のことかも知れませんが、萬斎と裕基は実の親子として姿と云うか雰囲気がどこか似ています。だから、このことが、ハムレットと父、そしてハムレットと伯父の関係に於いても、或る種のリアリティを醸し出しているようです。つまり「ハムレット」のなかに潜む「父殺し」の主題が表面に顕われるとでも言いましょうかね。多分そんなところが吉之助の興味を引いたのでしょう。

ジークムント・フロイトは「夢判断」(1900年)のなかで「ハムレット」について触れ、主人公に与えられた復讐という任務をハムレットが一寸伸ばしにする件を考察しています。その理由についてはいろんな考察が言われていて、例えばハムレットは元々考え過ぎで・病的に優柔不断な性格なのだとします。しかし、ハムレットは決して行動出来ない人間ではなく、壁掛けのうしろで何者かが立ち聞きしているのに気付くと・カッとして衝動的にその男(ポローニアス)を刺し殺したりします。ただ伯父への復讐についてのみハムレットはグズグズしているのです。

『ハムレットは何事でもしようとすればできるのだが、ただ伯父を殺すことだけはやりおおせない。この伯父は、ハムレットの幼児時代の抑圧された願望を実現しているのである。ハムレットを駆り立て復讐を行わしむべき嫌悪感は、そんな次第でハムレットの気持ちのなかで自己非難、良心の呵責にとって代わられて、彼に向かって「お前自身は、お前が殺そうとしているあの伯父よりも、より良い人間ではないのだ」と語っているのである。』(ジークムント・フロイト:「夢判断」〜「夢の材料と夢の源泉」・人文書房)

まあ何でも伝統芸能に結びつけるわけではありませんが、先代の芸を受け継ぎ・如何にして先代を乗り越えるかと云う課題に於いては、これもどこかハムレットの「父殺し」に似たところがないわけではなかろうと思います。(この稿つづく)

(R5・4・26)


2)野村裕基初役のハムレット

そのようなハムレットの精神的な不安を、劇中劇の「ネズミ捕り」の場面に見ることが出来ます。

『(劇中劇の)役者たちが台詞を発し始める前にプロローグの形で、舞台で無言劇が演じられるとき、この場面はそれほど王(クローディアス)を刺激しているようには見えません。この場面では、王の犯罪と見なされる仕草が王の目前で無言劇によって演じられるのですが。逆に、むしろ奇妙なことがあります。それはルシアーナスという名の人物がこの場面に登場し、王だけでなく王妃に対しても罪を犯す時、むしろハムレットの方が、感情の真の爆発、興奮の発作に捉えられているということです。(中略)ハムレットがこの場面で表現していること、それは結局、彼自身が件の罪を犯しているということです。自身の欲望に火を付けることができず、父の亡霊、つまりゴーストの望みを成し遂げることができない。この人物は、何かに実体を与えようとしているのです。何か、つまり、彼の鏡像を通る何か、復讐を完遂するのではなく、復讐すべき罪をまずは引き受けるという状況のなかに描かれる像を通る何かに、実体を与えようとしているのです。』(ジャック・ラカン:1963年のセミネール・「不安」〜「宇宙から不気味なものへ」・岩波書店)

本稿では「ハムレット」の解釈に踏み込むことはしませんが、ラカンがここでハムレットが「復讐を完遂するのではなく、復讐すべき罪をまずは引き受ける」(自己認識する)としていることを、心に留めておきたいと思います。伝統芸能において、先人の「型」を受け継ぎ・これを咀嚼して・自分の「型」として乗り越えるために、役者はどこかで精神的な「父殺し」を果たさなければならぬのです。伝統の継承は、まずは「その罪を引き受ける」ところから始まるということですかね。これは狂言でも・歌舞伎でも、同じことだと思います。

そう云うものが、ハムレット(裕基)がクローディアス(萬斎)と対決する時、例えば剣を突き付ける時とか・毒酒の盃を飲ませる時に、オーバーラップして来るのです。これは見る側(観客)は自然とそう見ることになるし、演じている当人にとっても・或いはそうであったかも知れませんね。演出を担当した萬斎は息子を主演に起用した時、当然それを意識したでしょう。その目論見は成功したと思います。

野村裕基が演じるハムレットですが、狂言で発声の訓練を積んでいるので・さすがに声はしっかり出ているし、台詞に関してはまだ余裕がない感じが多少しましたけれど(欲を言えばもう少しナイーヴさが欲しいところ)、この辺は経験を積めば改善されるでしょう。裕基のハムレットは、復讐という任務に向けてがむしゃらに突っ走る若者の熱さがよく出ていました。「ハムレット」というのは結構ハードな挑戦ですが、「父殺し」は兎も角、伝統を受け継ぐ確固たる覚悟を見せてくれて、吉之助としては予想以上に面白く見ました。イヤ大したものです。と云うか、伝統芸能の家に生まれると云うのはホントに大変なことであるなあと思いますねえ。

(R5・4・28)


 

 


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