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四代目鴈治郎襲名の「封印切」

平成27年1月・大坂松竹座:「恋飛脚大和往来・封印切」

四代目中村鴈治郎(五代目中村翫雀改メ)(亀屋忠兵衛)、三代目中村扇雀(傾城梅川)、十五代目片岡仁左衛門(丹波屋八右衛門)

(四代目鴈治郎襲名披露)


1)上方和事のシリアスな要素

上方の芸の在り方というものは、江戸とはかなり違ったもので、芸は自分で工夫して作れというものでした。だから初代鴈治郎は息子(二代目)に決して芸を教えることをしませんでした。初代は「そんなことしたかて ニセ者の鴈治郎が出来るだけだす」と言ったそうです。ですから二代目鴈治郎の芸風は、父親のやり方を基本にしながらも、素直な形ではこれを受け継いでおらず、父のライバルであった二代目延若の影響が意外と強いものであったと言われています。しかし、歌舞伎の歴史を見れば、上方の役者の名跡は十五代も続いている片岡仁左衛門家を除けば・数代で絶えているものがほとんどです。そして上方歌舞伎そのものが存亡の危機に瀕しています。

『三代住めば江戸っ子だ、という東京、家元制度の今尚厳重に行われている東京、趣味の洗練を誇る、すい(粋)の東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、固定した家は、同時に滅亡して、新来の田舎者が、新しく家を興す為に、恒に新興の気分を持っている大阪、その為に、野性を帯びた都会生活、洗練せられざる趣味を持ち続けている大阪とを較べて見れば、非常に口幅ったい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、都会文芸を作り上げる可能性を多く持っているかも知れません。西鶴や近松の作物に出て来る遊治郎の上にも、この野性は見られるので、漫然と上方を粋な地だという風に考えている文学者たちは、元禄二文人を正しゅう理解しているものとは言われません。その後段々出てきた両都の文人を比べても、この差別は著しいのです。このところに目を付けない江戸期文学史などは、幾ら出てもだめなのです。江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ(野暮)過ぎるようです。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

折口信夫文芸論集 (講談社文芸文庫)

ここで折口は「大阪人の野性味」ということを指摘しています。大坂人には「滅びるものならば潔く滅びてしまえばよろし」という割り切ったところがあるようです。そこに感傷が入る余地がない。そこから新たなものが生まれるのです。・・とはいえ、伝統芸能の立場からすると上方歌舞伎が滅びてしまっては困るわけで、だから大阪人に支持される上方歌舞伎というものを考えるとすれば、現状の上方芸とはちょっと違うものを作り上げねばならぬのかなと思います。とは言え吉之助にも妙案があるわけではありませんが、ともあれ「野性味」ということが取っ掛かりです。

それにしても世間では上方和事と云えば、例えば「つっころばし」の与五郎(双蝶々曲輪日記)に代表される、弱々しく・ナヨナヨした・同じ仕草を行ったり来たり繰り返ししつこくやるのが上方芸みたいに思われていることは、これは何とかならないものかと思います。あれでは「野性味」というところからほど遠い。脆弱な感性の産物にしか見えません。どうして上方和事のイメージがこういうことになってしまったかということは興味ある問題ですが、どうも上方和事の表層的な摂取の気がします。家系の変転が激しく時代感覚が連続して来ないので、同じ大阪人であっても昔のことはリアリティを迫ってこないということかも知れません。

別稿「和事芸の多面性」で触れましたが、吉之助は初代藤十郎の上方和事と呼ばれるものは、現行の歌舞伎の和事と印象が大分違うものだったと想像しています。「やつし」の役柄の内心に沸々とするところの「墳(いきどお)り」の強さこそ初代藤十郎の上方和事の芸であったと思います。しかし、現実には上方和事はもっぱら哀れとかナヨナヨとした弱い印象によってのみ捉えられているので、「曽根崎心中」の徳兵衛や「油地獄」の与兵衛などが現行の上方和事のイメージからするとぴったり 処理できないのです。だからナヨナヨした与五郎のような上方和事もそれはそれとして残ってもらわないといけませんが、もうちょっと上方和事の概念を拡げて考える必要があると思います。

その意味において昨年(平成26年)12月京都南座の「新口村」での梅玉の忠兵衛は江戸和事の忠兵衛には違いないですが、江戸歌舞伎の台木に上方歌舞伎を接ぎ木するようなことになるとしても、この梅玉の忠兵衛のような行き方ならば、今後も上方歌舞伎が生き残って行く可能性はあるかなということをふと思ったのです。ポイントは凛とした雰囲気が漂っていることです。現代大阪の人々には支持されるためにも、これからの上方歌舞伎はもうちょっとシリアスで熱い方向に向かわねばならぬと思います。

もっともその可能性はあるので、今回(平成27年1月・大坂松竹座)での「封印切」 でも、新・鴈治郎(忠兵衛)と仁左衛門(八右衛門)との掛け合いは観客の反応もまずまずでしたが、テンポ設定を巧く仕掛けられれば、現代大阪の人々に支持される可能性がまだあるのです。汚い言葉で悪態の付き合いするのは大阪人らしいところで、それがエスカレートして封印切に至る過程は台本もなかなか良く書けています。そこにシリアスで熱いものを込められれば良いなあと思います。

2)新・鴈治郎の忠兵衛

そこで新・鴈治郎のことですが、鴈治郎は父(藤十郎)と身体付きは似ているけれども、女形の修行が足りないので身のこなしに色気が乏しいところが難かなと思います。またこれは仁の問題ですが、のほほんとした雰囲気に乏しいところがあるので、これから与五郎みたいな従来の上方和事にこだわると損ではないかと思います。しかし、上方の芸の在り方は親の芸をコピーするものではないのですから、自分だけの鴈治郎を創れば良いのです。多分、新・鴈治郎の特質はそのシリアスさ・あるいは真面目さにあると思います。取っ掛かりは「曽根崎心中」の徳兵衛です。

これまでの
翫雀はどうも役柄のイメージが固定しないところで使われていたようで、翫雀=上方歌舞伎という印象があまりありません。しかし、「曽根崎心中」の徳兵衛だけは祖父(二代目鴈治郎)の代役を勤めて以来ずっと持ち役にしています。縁下でお初の足を取って自分の喉に当てるという徳兵衛の惨めな演技は従来の上方和事のイメージからすると、沿わないものです。「曽根崎心中」は近松の最も有名な作品であるのに歌舞伎では戦後の昭和28年8月新橋演舞場まで上演されなかった理由は、徳兵衛という役が妙にシリアスで真面目なので、上方和事の役どころにぴったり嵌らないというところから来ます。逆に、ここが新・鴈治郎の取っ掛かりになるでしょう。

一方、「封印切」 の忠兵衛という役はなかなか難しいところがあると思います。ひとつには原作の「冥途の飛脚」と改作の「恋飛脚大和往来」との違いが絡みます。忠兵衛と八右衛門との掛け合いの場面のシリアスさと、その他の場面でのヒナヒナ・ナヨナヨとした上方和事の弱い印象とがひとつの線でうまく繋がらない。何度も上演されて来るなかで積みあがった相反する雑多な型 なので、一貫した人物像が浮かび上って来ない。それでも役者の仁で何とか持ってきた役なのです。

実は昨年(平成26年)3月歌舞伎座での藤十郎の「封印切」では、吉之助は「これでは上方歌舞伎が生き残って行くのは辛いなあ」と感じて気分がちょっとブルーになりました。これにはいくつか理由があるので藤十郎のせいだけではないですが、上方和事のじゃらじゃらが現代人にアピールしないなあと感じました。もっとテンポ感覚を持たせる必要がある。そのためには台本に多少手を入れねばならぬと思いました。仁だけで見せる役というのは、現代人にはちょっと辛い。

一方、今回(平成2 7年1月・大坂松竹座)での「封印切」 の舞台が割合安心して見られたのは、やはり仁左衛門の八右衛門に拠るところが大きかったようです。ホント言えば仁左衛門は敵役にしてはいい男過ぎるところがありますが、突っ込みのテンポ と間合いがさすがに巧い。もうひとつは、受けて立つ新・鴈治郎の忠兵衛も、シリアスさが表に出るとそれなりに仁に合った役に見えたことです。だから八右衛門との封印切の場面をなかなか面白く観ました。嬉しいのは、時々、新・鴈治郎が藤十郎を見ているような気分になったことでした。しかし、それ以外のじゃらじゃらの場面だと、やっぱり身のこなしに色気が不足するようです。幕切れの花道の引っ込みはやはり持ちきれない。これは仕方のないところなので、逆にじゃらじゃらを控えめに持って行った方が、新・鴈治郎の仁に合う のではと思いました。恐らく「冥途の飛脚」の方が新・鴈治郎には似合うでしょう。

ところで忠兵衛が封印を切る場面は誰でも立って封印を切りますが、初代鴈治郎は座って封印を切ったのです。立って封印を切るのは、その方が派手に見えるし、男伊達の感じが出るという意図があったのでしょう。しかし、何となく時代の(つまり写実でない)感覚に思えます。初代鴈治郎はそこを考えたと思います。「封印切」は世話物ですから。新・鴈治郎も一度座って封印を切ってみたら如何でしょうか。

(H27・1・1)



 

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