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勘平は死なねばならない

〜「仮名手本忠臣蔵・六段目」


1)音羽屋型の勘平

歌舞伎において容貌が変わるということは重要な意味があります。それは役の性根が変わることを意味するのです。ある役がそれまでの性根をかなぐり捨ててその本性を現す時、その役の衣装がぶっかえったり、鬘がさばきになったりするわけです。

そこまで行かなくても、単に衣装の色を変えただけでもその役の色合いは変わります。それは芝居の局面が変化したということを意味します。例えば「七段目」において、前半の遊蕩にうつつを抜かして本心を明かさない由良助の衣装は紫色、後半に平右衛門・お軽の兄妹に仇討ちへの決心を明かす由良助の衣装は茶色と色が変わっていますが、これはそうした芝居の約束に沿っているということです。

さて「六段目」で現在見られる江戸の音羽屋型の演出では、家に戻った勘平は浅黄色の紋服に着替えて大小を差します。これは芝居の約束からすると、勘平の性根が変わった・つまり猟師ではなくて武士の性根に変わったと考えて良いと思います。

音羽屋型の場合ですと、勘平が紋服に着替えるのはお才と善六がお軽を引き取りに来ている最中のことですから、女房お軽が奉公に出る事情が呑みこめていない勘平が事の白黒をはっきり付けたい心で、紋服に着替えて改めて話を聞こうということです。事の次第によっては容赦はしないぞという多少の威嚇を込めたものでもありましょうか。

音羽屋型での勘平の浅黄色の紋服はこの色男によく似合います。そしてそのはかない人生をその色が象徴しているようにも思われます。勘平はその場で自害しなければならないような不忠をさらしてしまい(「三段目」)、いまは猟師をしながら糊口をしのいでいるけれども(「五段目」)、しかし、勘平は武士のプライドを最後まで捨ててはいません。いつかは不忠の汚名をそそいで仇討ちの仲間に加えてもらいたいと思っています。だが、結局はその意識が勘平を切腹に追い込むのです。

周囲の人は勘平が舅与市兵衛を殺したと思っていますし、本人もそう思い込んでいます。勘平がここで皆に信じてもらいたいのは「自分は金を盗もうとして舅を殺したのではなく、これは過失であった」ということだけです。それが皆に信じてもらえるのなら「自分は武士として死ねる」と、ただそれだけなのです。だから武士のプライドに賭けて勘平は切腹するのです。音羽屋型の描く勘平はそういう男なのです。このことが勘平の紋服の扱いに象徴されていると言うべきでしょう。(これについては別稿「しゆみし場での切腹」をご参照ください。)


2)歌舞伎での紋服の扱い

ところが上方でのやり方(初代鴈冶郎のやり方)では勘平の紋服の件はこうなっています。(上方のやり方は音羽屋型より以前の古い型だと考えていいと思います。)勘平は二人侍の到来を聞いてあわてて紋服を押入れから出して着替えようとします。押入れからは勘平の紋服と一緒にお軽の矢絣の着物も出てきます。それを見て勘平は一瞬ぐっときてしまうのですが、その紋服(浅葱ではなく黒紋服である)をおかやが傍から奪い取ってしまいます。それで仕方なく勘平は普段着のままで二人を迎えます。そして、勘平が刀を腹に突き 立ててしまった後にすべてが明らかになるわけですが、勘平が臨終を迎えた時にうしろからおかやがそっと勘平の背に紋服を掛けてやるのです。

つまり上方の勘平は死ぬ間際になって、武士になって死ぬことが許されるわけです。このことが勘平の背中に紋服が掛けられることで象徴的に示されるのです。

これは上方のやり方と江戸のやり方のどちらが正しいとか・いいとかいう問題ではなくて、どちらもなかなかに味があって捨てがたいものです。いずれにしても紋服という衣装の扱いのなかに、勘平の気持ちと・その置かれた境遇・そして武士というプライドに掛けた切腹をそれぞれに意味深く象徴させていて歌舞伎の工夫につくづく感心させられます。

丸本を見てみると『折悪けれど勘平は腰ふさぎ脇挟んで出で迎ひ、コレハコレハ御両所ともに見苦しきあばら家へ御出でかたじけなしと・・』とあり、勘平は二人侍の来訪にあわてて紋服を探すどころではなく、「腰ふさぎ脇」・つまり腰をふさぐだけの粗末な刀をとりあえず差して普段着姿のままで二人と対面しています。この粗末な脇差で勘平は腹を切るわけですし、また、最後の場面でも勘平に紋服を掛けてやるなどという描写はありません。

このような紋服の扱いを見ていますと、歌舞伎での勘平の扱いは役に対して同情的かつ感情移入的なように思います。勘平の薄幸な生涯に対して情緒的な反応を示しているのです。逆に言えば丸本での勘平の扱いはちょっと 対象を突き放した感じにも見えてじつに厳しく、勘平の運命の非情を一層浮き彫りにしているかのようです。

「非情」と言えば歌舞伎では、幕切れに原郷右衛門が受け取った百両のうち半金の五十両を「あと念ごろに弔われよ」と言って返します。しかし、丸本では郷右衛門は百両をそのまま持ち帰って しまって、これを討ち入りの軍資金とするのです。歌舞伎の場合は「四十九日や五十両、合わせて百両百ヶ日追善供養、あと念ごろに弔われよ」を半金返すと読んだのかも知れませんが、それよりも「こんな婆さん独り残して全額持って行ってしまうのはちょっと薄情じゃないのか」という気分が働いているようにも思います。

しかし、ここはやはり郷右衛門は百両まるまる持ち帰らなければ勘平の必死の思いは貫徹されないのではないでしょうか。


3)勘平は死なねばならない

音羽屋型の「六段目」を初めて見る人は、この芝居が「与市兵衛を殺ったのは誰か」という推理ドラマで、その答えを観客は知っているのに登場人物たちは知らないで勘平が追い込まれていくという芝居のように見るかも知れません。そして、可哀相に勘平は早まって腹を切るなんてしなければ四十七士の一人として立派に討ち入りができたのに・・と感じるだろうと思います。

「仮名手本忠臣蔵」を通しで見る場合と「六段目」だけを見取りで見る場合とでは、そこに見えてくるドラマの切り口が違ってきます。「忠臣蔵」全体から「六段目」を見ると、勘平の死というのは「討ち入りへの人柱」という感じがしてきます。赤穂義士の討ち入りにもその蔭に何人もの挫折者・あるいはそれを支え続けた人たちがおり、そうした犠牲のもとに「討ち入り」は成ったのです。勘平とお軽の一家はそうした討ち入りを支えた人たちを代表しているのだと思えます。

ここでなぜ二人侍が勘平を訪ねてきたのかを考えてみたいと思います。「五段目」において勘平が手に入れた五十両はすぐに由良助のもとに届けられましたが、「殿の不忠不義を働いた勘平の金子を亡き殿の御石碑の料(じつは討ち入りの軍資金)に用いることは殿の御心にも反することだ」と言って由良助は受け取らず、金子を勘平に返すことを指示します。二人侍はそのために勘平のもとに出向いたわけです。これは塩 冶判官の刃傷(「三段目」)という一大事に勘平が居合わせなかったことの不忠を由良助が重く見ていることの証です。

このことは勘平を愕然とさせたと思います。こうなれば勘平が「武士に戻りたい」という望みは絶たれたも同然です。あとはもうとにかく「勘平は金欲しさで舅を殺した」という疑いだけは晴らしたいという、ただそれだけです。殿の大事に居合わせなかった不忠に加えてこの疑いを掛けられたのでは、もう勘平は生きていられないどころか・死んでも死にきれないでありましょう。だから勘平は切腹して討ち入りには参加できなかったわけですが、不忠の汚名が そそがれ・四十七士の一人として連判状に名を連ねられたからには勘平は満足して死んだだろうと思います。

それでは与市兵衛の遺骸の傷が刀によるもので鉄砲傷ではないことがもっと早く分かっていれば、舅を殺したのは勘平でないことが証明できたわけですから、勘平は死なないで・不忠も許されて・そして勘平は念願通りに討ち入りの仲間に加えてもらうことができたのでありましょうか。ここが問題であります。

実は「二人侍は由良助の命により勘平に詰め腹を切らせるために訪れたのだ」という説があります。殿の大事に勘平が居合わせなかったことの不忠を由良助は許すわけにはいかなかったのです。許 してもらおうというのなら勘平は死んでみせなければならなかったのです。そうすれば勘平を四十七士の仲間に加えることができる、由良助はそうしなければならなかったのです。

「君子はその罪を憎んでその人を憎まずと言えば、縁は縁、恨みは恨みと、格別の沙汰もあるべきにさぞ恨みに思われん」、これは「九段目」において由良助が手負いの加古川本蔵に言う台詞です。本蔵は由良助の長男力弥の許婚である小浪の父親です。しかし本蔵は師直に斬りつけようとした判官を抱きとめた男であり、判官はその最後に「恨むらくは館にて、加古川本蔵に抱きとめられ、師直を討ち漏らし無念、骨髄に通って忘れ難し」と漏らしています。こうなると、本蔵が親戚であるとか・本蔵が「相手死なずば切腹にも及ぶまじ」と判断していわば親切心で判官を抱きとめたことも由良助は分かっていても、そういうことはすべて飛んでしまって、由良助の意志に関わらず・本蔵をひたすらに恨みに思 うことが家臣としての由良助の責務になってしまうのです。そこに由良助の苦しい思いがあります。(これについては別稿「本蔵はなぜ死ななければならないのか」をご参照ください。)

おそらく勘平に対しても同じ事だったのだろうと思います。由良助は勘平の忠義の気持ちは誰よりも分かっています。しかし、それでも勘平の行為は不忠として断罪せねばならなかったということでありましょう。そこに封建社会の論理の厳しい側面が現れているのです。その判断のなかに由良助の慟哭が聞えるようです。「十 一段目」焼香の場において、由良助は勘平の縞の財布を取り出し、「(勘平に)気の毒な最後をとげさせたと、片時も忘れず、その財布を今宵の夜討ちにも同道いたした」と言い、義理の弟の平右衛門に勘平の名代として焼香をさせます。こういう形でしか勘平を討ち入りに同道させることはできなかったのでしょう。

「封建社会の非情」、そう言ってもいいかも知れません。しかし、当時の人々はそうした論理のなかで必死に生きており、そのなかで自己のアイデンティティーを築き上げていきます。現代からは「非情」と見えても、その厳しいストイックな生き方は現代の人々にもなにがしかの感銘を与えることでしょう。

そう考えてますと、ただ独り残された老婆の嘆きを目の当たりにしてもやはり郷右衛門は百両の金子は持ち帰らなければなりません。そこに封建社会の論理の厳しさが現れており、「討ち入り」という行為が周囲の人々に強いるものの厳しさを改めて感じさせるではありませんか。丸本の「忠臣蔵」に見えるものはそうした「厳しさ」なのです。

と同時にこういうことも考えます。幕の最後に勘平の背中に最後に紋服を掛けてやって武士に戻してやる・あるいは郷右衛門が半金の五十両を老婆に返してやるという、そういう改変が歌舞伎でされてきたということは、後年の歌舞伎を演じた人々・それを見た人々が、勘平のはかない運命を哀れを深く思いやり、その運命を愛し、その姿に桜の花が散るような美学を見たということに他ならないのです。

(H14・12・8)



 

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