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八代目幸四郎の井伊直弼〜北条秀司・「大老」初演

昭和45年11月国立劇場:「大老」

八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(井伊直弼)、五代目河原崎国太郎(お静)、三代目実川延若(館一成、水戸斉昭)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(長野主膳)、二代目中村吉右衛門(古関次之助)、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(古関新一郎)、五代目坂東玉三郎(昌子の方)、二代目市川子団次(仙英禅師)他

*本稿で幸四郎と云うのは、特記しない限り八代目幸四郎(初代白鸚)を指します。


1)台詞の音遣いということ

本稿で取り上げるのは、昭和45年(1970)11月国立劇場での、北条秀司によって書下ろしされた、井伊直弼を描いた「大老」初演の映像です。昭和45年というのは大阪万国博覧会が開催された年ですが、実は興行中の11月25日に作家三島由紀夫の割腹事件が起りました。三島は国立劇場の理事(非常勤)でもあり、最後の歌舞伎である「椿説弓張月」は前年11月に国立劇場で初演されました。そんな深いご縁があったせいか、事件当夜上演での役者たちの興奮度合いは大きく、最終場面・桜田門外井伊直弼暗殺の場での斬り合いは一段と迫力があったと云われています。これにはもちろんご時世ということもあります。当時は学生抗争・労使抗争が激しい時代で、デモや乱闘事件がしばしばありました。

ところで井伊直弼の生涯を劇化したものとしては、北条秀司には別に昭和28年9月(京都南座)に新国劇が初演した「井伊大老」(辰巳柳太郎主演)があります。これには後に吉右衛門劇団のために北条がこれを短縮改訂した版があって、こちらは昭和31年3月明治座で八代目幸四郎(井伊直弼)・六代目歌右衛門(お静)で初演されました。その後、このコンビの当たり役として繰り返し上演されたものです。

一方、昭和45年11月国立劇場で初演された「大老」は旧作とは構想をまったく異にしたもので、北条秀司戯曲選集・解題に拠れば、「旧作は井伊直弼の人間性に重点を置いて書いたが、今回は、大老の周辺だけではなく、混乱期の鳥瞰図と云いた形で、アンチ井伊も描き、日本全体が気違いみたいになった時代の人間群像を描いてみたい」と云う意図だったそうです。

このような経緯で北条秀司には「井伊大老」初稿と短縮改訂版と、さらに「大老」があって、巷間この3つがよく混同されるようです。また実際、平成20年10月国立劇場での「大老」再演では、ここに旧作「井伊大老」から千駄ヶ谷井伊家下屋敷の(俗に「雪の雛」と云われる)場面が差し替えられたりしています。だからもはや厳密な区別が存在しないのかも知れません。しかし、前述の差し替えについては、「大老」は細切れの場面が多くて・じっくりした芝居を見せる場面が少ないという不満が確かにあるのでそうしたい気持ちを吉之助は理解出来ますけれども、幕末混乱期の人間群像を描きたいという意図からすれば、やはり場面の差し替えはバランス上あってはならないことだと思います。

ところで吉之助が今回この「大老」初演映像を見たのは、八代目幸四郎(初代白鸚)の新作物での台詞廻しを再確認したかったからです。井伊直弼に関しては、幸い吉之助は昭和56年11月歌舞伎座での「井伊大老」の舞台を見ることが出来ました。ちなみにこの時の興行は初代白鸚・九代目幸四郎・七代目染五郎・三代の襲名披露興行で、白鸚は15日まで直弼を勤めて・翌日から休演(代役は吉右衛門)で、これが白鸚最後の舞台となったものです。今も吉之助の耳には初代白鸚の台詞廻しが残っていますが、これを再確認したいと思って映像を探したら、初代白鸚の「井伊大老」の舞台は、NHKでの舞台中継もされなかったようで、どうやら映像が残っていないようなのです。当たり役だったのに残念なことだなあと思っていたら(まあ白鸚の台詞廻しを確認するだけならば「元禄忠臣蔵」の内蔵助の映像でも良いわけですが)、幸い国立劇場での「大老」初演映像があったので、これを見たというわけです。

歌舞伎には「口跡が良い」という言葉がありますが、最近はあまりこう云う言い方をせぬようです。そういう場合は多分今時は「台詞が上手い」という言い方になるのでしょうかね。しかし、「口跡が良い」という言い方には、毛筆でサラサラと文章を書きあげて書体の崩し具合、線の勢いや太さ、曲がり具合・ 払い具合・跳ね具合、或いは色の濃さ・滲み具合など、筆致の微妙な味わいを愛でる響きがあって、「台詞が上手い」では言い尽くせぬものがあると思います。音曲の世界では音遣いと云いますが、芝居のよう な写実な台詞であっても言葉はその音や意味から来る独自の息と抑揚を持っているものです。言葉が要求する息と抑揚でしゃべるならば、台詞はおのずと音楽的な印象を帯びるものです。台詞が描き出す筆致はくっきりと明確な輪郭を呈することになります。それが台詞の音遣いです。最近はそういうことが巷間あまり理解されぬようで、「台詞が上手い」と云うと、声が客席によく通るとか、早口でも舌がよく回るみたいことを指すことが多いように思われます。そのようなことではなくて、舞台で台詞をしゃべるということはホントは正しい音遣いが出来るかどうかということなのですけど、今時はそのような言い回しだと「芝居臭い」と笑われちゃうのでしょうかねえ。

吉之助は最近の役者には台詞の音遣いが上手い人はあまり居らぬと思っています。声が客席によく通るとか、早口でも台詞が分かると云う、いわゆる「台詞が上手い」方は確かに居ます。しかし、音遣いという次元において上手い、すなわち「口跡が良い」と心底思える役者はどれほど居るか。吉之助が生では見ていない役者、録音・映像も含めてですが、吉之助が口跡が良いなあと心底感心できる役者は二人、三代目寿海と八代目幸四郎(初代白鸚)くらいのものです。どちらも「歌舞伎を見たなあ」という腹応えのする、ずっしりした満足感を与えてくれる役者でした。

それでは幸四郎の口跡のどこが良いかということですが、これを文章で表現しようとしても、書画を評して「この黒々とした太い筆致には勢いがあって強い意志を感じさせて、そこがいいんだよ」みたいなことしか言えぬので、まあ遺された八代目幸四郎の映像をどんなものでも良いから御覧なさいとしか言えませんねえ。それは兎も角、例えば「台詞が上手い」ということは早口でしゃべっても台詞がスラスラ云えることみたいに思っている方は多いと思いますが、むしろその逆を考えてもらいたいのです。普通の速度の、二倍・三倍の遅さでしゃべったとしても、台詞の息が持ちこたえられるか、台詞の意味をしっかり伝えられるかということです。試しにやってみてください。残念ながらこれが見事に出来る方はそう多くはないと思います。

音遣いが出来る役者が少なくなったということですが、或いはこれは芸術思潮の流れのひとつとして理解すべきことかも知れません。クラシック音楽の世界でも、技術の点では五十年前と比べて格段に進歩していて、ひとつひとつの音を楽譜通りに弾ける正確さは増しているけれども、音楽としては形ばかり決まり過ぎてあまり面白くない、あまりゲミュートリッヒとは言えない演奏がだんだん多くなっている印象があります。ゲミュートリッヒというのは、居心地が良いとか快適とか云う意味のドイツ語ですけれど、昔のフリッツ・クライスラーやミッシャ・エルマンのようにゲミュートリッヒな味わいを以て小品を弾けるヴァイオリニストは今は滅多にいません。今時の音楽学生にクライスラーやエルマンの録音を聴かせると笑い出すそうですよ。そのような時代に連れた感性の変化というものが世界的にあるのかも知れませんねえ。しかし、そのような流れは意識して引き戻さねばなりません。それは人間らしさを取り戻すということにも通じると思います。このことは伝統芸能である歌舞伎ならばなおさらのことだと思いますがねえ。(この稿つづく)

(H30・3・29)


2) 息から発する演技

『僕は、明治以降の歌舞伎というものに非常に疑問を感じているんですよ。坪内逍遥までは一生懸命やっていました。(中略)それから真山青果という人は新劇的に歌舞伎を作った人で、その点では非常に偉い作家でした。つまり、がっしりした史劇をつくった人ですね。そのかわり歌舞伎の技巧をわざと排除してしまいました。僕が、歌舞伎の作者はそれでおしまいだと見ているんですよ。今、歌舞伎の新作と称しているものは、歌舞伎の新作でも何でもないんです。(中略)何も歌舞伎でやらなくても、ただ昔のお話だということです。(中略)それをただ歌舞伎役者が、自分の身についた技巧で、演技でもって多少歌舞伎風にしているだけで、脚本そのものは歌舞伎の脚本でも何でもないんです。』(三島由紀夫:ジョン・べクターによるインタビュー・昭和45年2月19日)

告白 三島由紀夫未公開インタビュー(上記発言を所収)

三島の言うことに議論の余地は多少あると思いますが、上記の発言はとりあえず北条秀司を意識した発言でないことだけ付け加えておきます。それにしても確かに時代設定が昔であるだけで、台詞はまるで現代語という歌舞伎の新作はよくあります。言って見れば、現代語の時代劇みたいなものです。そんな歌舞伎新作の舞台を見て「これ をわざわざ歌舞伎でやる必要があるのだろうか、こういうのなら新劇でやれば良いのじゃないか」などと感じる方は少なからずいらっしゃると思います。三島が言うように、そういう芝居を「歌舞伎役者が、自分の身についた技巧で、演技でもって多少歌舞伎風(らしいもの)にしている」わけです。しかし、そういうことがちゃんと出来ているのならば、それはそれとして或る種の立派な技能ではあると思いますね。ひとつの要素は、すなわち音遣いが正しく出来るかどうかと云うことです。

いつのことであったか、「歌舞伎役者が演じれば、それはみな歌舞伎です」と云うことを幸四郎が言ったそうです。(多分東宝時代の発言だっただろうと思います。)この発言は幸四郎の真意が正しく受け取られていないようで、世間離れした歌舞伎役者の笑い話みたいに云われているようですが、当の本人は大真面目でそれを言ったと思います。歌舞伎役者は、そうやってどんな芝居でも、例え赤毛もの(西洋もの)であっても、こなしてきたのです。抜群の音遣いを持つ幸四郎が言うならば、その言に耳を傾けてみる価値はありそうです。幸四郎の演じた「元禄忠臣蔵」の内蔵助などの映像を見れば、このことは納得できると思います。何でもない素の台詞を舞台から観客へ心に伝わる芝居の台詞に出来るのには、確かに技量が要ることなのです。「歌舞伎役者が演じれば、それはみな歌舞伎です」と幸四郎が云う時、そこには伝統の台詞術への確固たる信頼が感じられます。

昔の映像を今見直して改めて強く感じることは、幸四郎は歌舞伎の型のなかから感情を如何にして熱く表出させるかということを強く意識していた役者であったということです。由良助でも弁慶でも、幸四郎は表情が驚くほどよく動 きます。特に眉の動き・眼の動きは、時にそれが生(なま)に出て来てハッとするほどです。むしろ現代の役者より表情豊かな気さえします。例えば相手役の台詞を受けて内蔵助が「・・・何っ」と云うすると、幸四郎はこれを受ける声の色(トーン)がそれまでとまったく一変して出るのです。それも「なに」と字面通りに出るのではなく(大抵の役者はそんなものですが)、幸四郎の場合は、「ナァ二ィィ」と台詞のなかに色の微妙な変化があるのです。そうすると内蔵助が相手の 言うことに不審を感じているか、好意的に感じているか、或いはどちらか計りかねているのか、声の色の変化だけで内蔵助の心の動きが分かるのです。同時に表情が、目と眉が一瞬にして動いて、これを裏打ちします。台詞と表情の変化が、シンクロしているのです。ですから表情の変化も、台詞の音遣いと同じ性質のものです。演技のアクセントをくっきり付けて、心理的変化の綾を明確に見せようとするものです。つまりそれは息(呼吸)から発するものだと考えて良いと思います。

こう云うことはその当時に実際の舞台で見た時には吉之助も遠くの客席から見ていたせいか、さほど強い印象として残っていなかったのですが、映像で改めて確認すると「なるほどそうであったか」と思うところが随所にあります。或いは時間を置いたことで、その本質がはっきり見えてきたということかも知れません。

しかし、幸四郎にこう云う生な印象が強いことは 、同じ時代の昭和40〜50年代の大幹部のなかでも特異なことであったのかもなあと思います。六代目歌右衛門を除けば、他の大幹部はそれぞれの持ち味とは言え、概ね形から入っていこうとする傾向が強かったように思われます。まあそのこと自体は悪いことでもなんでもなく、そういう方法論だということのみですが、息(呼吸)から入る感じがしたのは、幸四郎くらいのものでした。(この稿つづく)

(H30・4・10)


3) ホンモノを越えた真実

今回(昭和45年11月国立劇場)の「大老」 は井伊直弼一代記と云うことでなく、幕末の混迷した世相を描くのが作者北条秀司の意図です。もちろん主役は直弼ですが、主役がちょっと奥に引いた感じがするのはそのせいです。直弼の芝居をじっくり味わえる場面が少ない印象なのは、これは脚本のせいなので致し方がありません。「大老」を見る限り、彦根での部屋住み時代の若い頃の直弼は、外国船打ち払いを主張する強硬な攘夷派であったようですが、その後、大老になると開国派へ態度を大きく変えたようです。直弼が考えを変えざるを得なかった 厳しい事情を描き込んで欲しいところですが、時間の制約上そこが充分描かれていない。この点が本作の評価の分かれるところです。

つまり直弼の本心は実は別のところにあった(安政の大獄なんて、やりたくてやったわけじゃない)と云うことらしいのです。大老の要職ともなれば綺麗事ばかりでは国家をひとつにまとめられない、現実を見て冷静な政治的判断をせねばならぬ、国を正しい方向に導く為には時には鬼にならねばならぬということだと思います。周囲にいろいろな意見主張があるのは当然です。しかし、各々が声高に持論を主張して暴れるばかりで、混迷した状況に光明が一向に見えてこない。作者北条は、そこに60年代後半の安保闘争・学生運動激発の時代の混迷を重ねたようです。そのなかで決して分かりやすいとは云えない「大老」に、直弼が彦根の部屋住み時代から連れ添った糟糠の妻・お静との心の交流が、一本の筋を与えています。

歌舞伎でよく上演される旧作「井伊大老」では、初演以来、幸四郎の直弼に六代目歌右衛門のお静という組み合わせが定番でした。歌右衛門のお静は、もちろん素晴らしいものでした。主役二人が並んだ幕切れのしみじみとした味わいは無類のもので、立派なお部屋さまでありましたけれど、もしかしたら若干気品・威厳がありすぎて足軽の娘の出のように見えなかったかも知れません。一方、今回((昭和45年11月国立劇場)の「大老」では、前進座の五代目国太郎が特別参加して、お静を勤めています。この配役は作者のたっての希望であったそうです。(歌右衛門が自分に声が掛らなかったのをどう感じたか心配なのですが、何事もなかったのででしょうかね。歌右衛門もさすがに北条天皇には文句を言えなかったのか。)芸風で云えば、歌右衛門は時代のお静、国太郎は世話のお静という感じになるでしょうか。どちらのお静もそれぞれの良さがありますが、如何にも元足軽の娘という庶民性・親しみやすさでは、国太郎に軍配が挙がるかも知れません。直弼を立てて後ろへ一歩引いた感じの、いいお静であったと思います。幸い吉之助は国太郎の生(なま)の舞台を何本か見ることが出来ましたが、記憶に残しておきたい女形の一人ですね。

第1部第1場・彦根城外埋木舎(うもれぎのや)での部屋住み時代の若き直弼を、幸四郎は随分と新劇的な素のしゃべり口で台詞を言ったので、ちょっと肩透かしされた感じがします。幸四郎でも芝居でこういう台詞廻しをすることがあるのだなあと思いました。これは恐らく後の江戸での大老時代の直弼と年齢でも貫禄でも差を付けて見せたいという意図が幸四郎に働いたのだろうと思います。しかし、これはあまり効いていないように思います。ドラマとして前後に年齢差を付ける必要があまりないと思うのだな。むしろ直弼という人間の一貫性を口調で見せた方が良かったように思いました。

直弼が江戸に移って大老になると、幸四郎の台詞は、いつもの芝居っぽい口調に戻って、段違いに生き生きして来ます。台詞の色がフッと変わるところに人物の感情の変化が鮮やかに浮かび上がります。これは台詞を読み込んで、言葉の抑揚の上がり下がり、息の取り方をよく研究しているからこそ出来ることです。そうすると吉之助も安心して、幸四郎の台詞の流れに身を任せたくなります。ああこれが吉之助の記憶していた幸四郎の直弼だなあと思いました。埋木舎の場で素のしゃべり口で台詞を言う幸四郎を見ていたせいか、後半での大老での芝居っぽい口調の幸四郎の工夫が改めて分かった気がしました。

ところで平成の現在の我々は、八代目幸四郎の二人の息子、二代目白鸚・二代目吉右衛門の、「井伊大老」での、優れた直弼の舞台を知っています。どちらも味わいにおいて甲乙付け難い出来ですが、どちらかと云えば(父親と比べると)二人とも新劇っぽい直弼かも知れません。史実の直弼本人がそこにいるような自然な感じ、表現がリアル( ホンモノらしい感覚)の方に寄っているのです。この感覚は平成という時代の要請でもあります。恐らく平成の若い観客がこの八代目幸四郎の直弼を見ると、かなり「芝居臭い」と感じるかも知れませんねえ。「臭い」ということは、ネガティヴな意味において作り物っぽいということになると思います。しかし、吉之助はむしろその「臭み」の方にホンモノを越えた真実を感じてしまうのです。 所詮、芝居は作り物。だからホンモノを越えなければ真実は得られないのです。「歌舞伎役者が演じれば、それはみな歌舞伎です」と云う幸四郎の言葉の意味に、今一度真剣に向き合ってみたいなあということを改めて思うのです。

(H30・5・6)



 

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