「歌舞伎素人講釈」を読むためのガイド
河竹黙阿弥
1)四代目小団次との出会い
河竹黙阿弥(文化13年・1816〜明治26年・1893)は、江戸末期から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。門下には三代目河竹新七、竹柴其水などがいますが、事実上、最後の狂言作者であったと云ってもよろしいのではないでしょうか。
文化13年(1816)江戸日本橋に生まれた。裕福な商家の次男でしたが、若い頃から狂歌戯文・茶番の創作にふけりましたが、天保6年(1835)19歳の時に仕事を辞めて芝居の世界に飛び込みました。師匠は、大南北の孫・五代目鶴屋南北でした。
最初に黙阿弥の才を認めたのは、七代目団十郎でした。「勧進帳」初演の際(天保11年・1840)に台本なしでプロンプターを勤めた・その記憶力が気に入られたのだそうです。天保の改革で団十郎が江戸を追放になった後、天保14年(1843)に二代目河竹新七を名乗りましたが、その後、鳴かず飛ばずの苦しい時期が続きます。この時期、ライバル瀬川如皐に水をあけられて、隅田川に身投げしようかと思いつめ・当てもなく街をさまよったこともあったそうです。吉之助は、この時の疎外体験がその後の余所事浄瑠璃の使い方に深く関連していると感じています。別稿「黙阿弥とマーラー」を参照ください。
しかし、四代目小団次との出会いが、黙阿弥に大きな転機をもたらしました。嘉永7年(1853)に小団次のために書いた「都鳥廓白浪」が大当たりとなり、これが黙阿弥の出世作となりました。小団次との提携関係は長く続き、慶応2年(1866)に小団次がなくなるまで続きました。
小団次と黙阿弥との出会いについては、別稿「小団次の西洋」、「四代目小団次の発想」を参照してください。黙阿弥は江戸歌舞伎の生世話の伝統に、ト書き浄瑠璃・余所事浄瑠璃・人形振り・割り台詞の多用・七五調の台詞などの音楽的要素を持ち込んで、江戸歌舞伎を「写実」から遠いものにしてしまった、このため江戸歌舞伎はせりふ劇の性格を失った・・という認識が巷間あるように思います。黙阿弥をこの方向へ仕向けた張本人が、上方修業が長かった小団次であると云うのです。しかし、このような認識はまったくの誤解です。なぜならば、黙阿弥物は世話物であるからです。世話物ならば表現は写実を基本に置くことは当然です。そうすると、幕末の昔の・まだ生まれ立ての黙阿弥の世話物が目指しているのは、テンポがもっと早くて、乾いた感触の、もっと写実の舞台ではなかったでしょうか。小団次の音楽的技法は世話の演技の写実(リアルさ)を際立たせるために在ると、吉之助は考えています。
吉之助は小団次・黙阿弥の他の提携作品、例えば「宇都谷峠」や「縮屋新助」などの舞台映像を見るにつけ、この時期の黙阿弥の心理主義的なリアル(写実)で細やかな作劇術に感嘆させられることが、実に多くなりました。それゆえ、もし小団次が早世せず、明治の世に在っても黙阿弥との提携が続いていたとするならば、現在の古典歌舞伎はまるで違った様相になっていただろうとつくづく思います。
「都鳥廓白浪」安政元年(1854)3月江戸河原崎座
「蔦紅葉宇都谷峠」安政3年(1856)9月江戸市村座
「鼠小紋東君新形」(鼠小僧)安政4年(1857)江戸市村座
「八幡祭小望月賑」(縮屋新助)万延元年(1860)7月江戸市村座*黙阿弥の世話物が、幕末の閉塞した気分と無関係であるはずがありません。幕末の気分は「三人吉三廓初買」(安政7年・1860・1月江戸市村座)のなかに濃厚に反映されています。別稿「黙阿弥の因果論〜その革命性」をご参照ください。
*「三人吉三」は晩年の黙阿弥が自身の会心作として挙げた作品です。「三人吉三」を読み込むことは、黙阿弥の思想・技法を考える時に非常に役に立ちます。「三人吉三」解析の四回シリーズ:「生は暗く死も暗い」、「お宝の権威喪失」、「三人吉三の三すくみ」、「因果の律を恩愛で断ち切る」
*「青砥稿花紅錦画 」(弁天娘女男白浪)は文久2年(1862)3月・江戸中村座。若き五代目菊五郎の出世作でもあります。弁天小僧については、その役が生まれる過程に女形を考える上でも興味深いものがあります。「四代目源之助の弁天小僧を想像する」をご参照ください。
*黙阿弥の主人公は、何だか漠然と「今の自分ではいけない」と感じており・変りたいと感じているのですが、何をしたらいいのか、彼は全然分かっていない。ところがそこに突発的な事態が起こって・状況は彼にとってとても悪い方に巻き込まれていきます。「どうしてこうなっちゃうの」とボヤきながら、突然開き直るような形で彼は決断するのです。大抵の場合彼は泥棒になっちゃうのです。結局彼は破滅する破目になるのですが、その時に他者が登場して「君もやっと真実が分かっただろ」と言うのです。でも彼には自分があのままでいて良かったとはとても思えない。ホントは自分が何をしたかったのか・何をするべきだったかも死ぬ間際までやっぱり分からない。疑問は最後まで重く残ったまま終わる。それが幕末期の黙阿弥のドラマなのです。このような黙阿弥の感覚は、実は現代を先取りしているのかも知れません。現代を代表する作家・村上春樹を黙阿弥視点から考えたシリーズ:「村上春樹・または黙阿弥的世界」をご覧ください。「ねじまき鳥クロニクル」、「ねじまき鳥クロニクル・2」、「海辺のカフカ」、「1984」。
2)明治維新以後の黙阿弥
明治維新後は、新しい時代の要請に沿って、九代目団十郎のためには「高時」などの活歴物を、五代目菊五郎のためには「筆屋幸兵衛」なとの散切り物を書きました。しかし、明治10年頃には、依田学海・末松謙澄らを中心となって、芝居を貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋にすること、荒唐無稽な作り話(狂言綺語)を排除することなどを掲げた演劇改良の動きが盛んとなました。この動きに九代目団十郎や五代目菊五郎・十二代目勘弥らがこれに同調し、このため黙阿弥は旧時代の旧弊の権化として槍玉にあげられることとなってしまいました。
「高時」(明治17年・1884・11月東京猿若座)
「水天宮利生深川」(筆屋幸兵衛)(明治18年・1885・2月東京千歳座)
「人間万事金世中」(明治12年・1879・2月・東京新富座)明治14年(1881)、散切物の「島鵆月白浪」を書き上げて、これを一世一代として引退を宣言し、その名を「黙阿弥」と改めました。黙阿弥は『著作大概』の中に「以来何事にも口を出さずにだまって居る心にて黙の字を用いたれど、又出勤する事もあらば元のもくあみとならんとの心なり」と書いています。これは演劇改良論者に対して「今は黙る」けれども、そのうち「元のもくあみ」、つまり狂言作者として自分が必要とされる時がまた来るという意味であるかも知れませんねえ。
*明治維新以後の黙阿弥について考察しています。、
「古き良き江戸の夢」(「天衣紛上野初花」(明治14年(1881)3月新富座)
「黙阿弥にとっての明治維新」(「島鵆月白浪」・明治14年(1881)11月新富座)結局、その通り、黙阿弥に匹敵する劇作者は当時他におらず、その後も黙阿弥は乞われて芝居を書き続けることになりました。
「梅雨小袖昔八丈」(髪結新三)(明治6年・1874・5月・東京中村座)
「新皿屋舗月雨暈」(魚屋宗五郎)(明治16年・1883・5月・東京市村座)
「盲長屋梅加賀鳶」(明治19年・1886・3月・東京千歳座)
3)黙阿弥の七五調を如何に写実にしゃべるか
『世話物っていうものは人間描写なんでしょう。その面白さでしょう。だから僕は黙阿弥は世話物じゃないと思う。「三人吉三」なんか、時代物だな。「月も朧に白魚の・・」、人間がそこに出てませんよ。昔の人は、よく空っ世話っていったんですよ。空っ世話でいいねとか。いま言いませんけどね。それは要するに七五調にならないんですね。今で言う現代劇ですね。』(宇野信夫の対談:「世話物談義」・「演劇界」昭和57年7月号)
「昭和の黙阿弥」と言われた作家宇野信夫が先代国太郎との対談でこんなことを言っていました。「世話物」とは本来・江戸の市井の人情・風俗を写実に(リアルに)描くものです。宇野は「空っ世話」ということを言っています。最近は「空っ世話」という言葉は死語同然ですが、要するに様式の要素が少ない、写実の芝居のことです。つまり普通の話し言葉が世話物の台詞の原点です。しかし、宇野の「黙阿弥なんて時代物だ」という主張には吉之助は首肯できませんねえ。吉之助は黙阿弥も写実を志向していると考えるからです。黙阿弥を写実に演じられない役者が悪いのです。黙阿弥のせいではありません。
確かに黙阿弥は七五で割れそうな台詞を書いていますが、これを真正直に七五で割ってしゃべったら写実にならないから、駄目なのです。黙阿弥は役者がしゃべりやすいように台詞を書いたので、そのご親切が結果として七五になって表れただけのことです。こういうところは作者(黙阿弥)が一番隠したい所なのですから、七五のリズムを際立たせないようにして出来るだけ台詞の息を工夫して写実に崩す、そういうことを心掛けねばなりません。そうすることで黙阿弥を世話に出来るのです。ところがいつ頃からか・歌舞伎役者は、黙阿弥は七五の様式の芝居だと決め込んで、どんな台詞も七五で割るのがお約束だと思い込んでいるのです。
そういうわけで、黙阿弥の七五調を如何に写実にしゃべるか、その問題を考えた論考がいくつかあります。「黙阿弥の七五調の台詞術」、「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」、「七五調を写実にしゃべるためのヒント」などをご参照ください。
(R3・6・16)