村上春樹・または黙阿弥的世界・その4
〜「1Q84」
*本稿は「村上春樹・または黙阿弥的世界」・「その2」 ・「その3」の続編です。
「村上春樹・または黙阿弥的世界」という随想は「その3」までありますが、もともと全2巻で完結とされていた小説「1Q84」に作者が続編の第3巻を書くと昨年9月に宣言したことがきっかけで書き始められたものでした。ただしその時点で吉之助は「1Q84」を読んでいませんでしたが、昨年中に2巻までを読み・この度(平成22年4月16日)第3巻が出版されましたので、吉之助もここでいちおう完結篇として本シリーズを締めたいと思うわけです。まず吉之助のご感想になりますが、「1Q84」第3巻をとても面白く読みましたが、感想を自分のなかに落とし込むのにちょっと時間が掛かりました。このことをまず考えてみたいと思います。「1Q84」第2巻の主人公の青豆がタマルからピストルを受け取る場面で、「小説にピストルが出てきたら・引き金は引かれなくてはならない」というチェーホフの言葉が引かれています。これは「1Q84」のその後のストーリーを呪縛するように重く圧し掛かったテーゼであったと思います。つまり作中に渦巻く悪意にどういう形で怒りが爆発するか・それはいつか必ず来ることだということです。しかし、第3巻の結論としてピストルの引き金は引かれることはありませんでした。だから本作において作者村上春樹は「引かれなくてはならないピストルをある意志を以って敢えて引かないで納める」という結末を目指したということだと考えます。
このことは多少のリスクを伴っているようです。まず10歳の時に出会った男女が30歳になって運命的にまた再びめぐり合うというラヴストーリー(単純に言えばそのような粗筋になるかと思います)の予定調和に落としたような印象がまずあることです。もうひとつは第3巻のストーリーが第1・2巻の周囲を旋回しているような感じであり、内容が多少深まっている・あるいは伏線に多少説明が加わえられたという感じはあるとしても、筋(ストーリー)として発展した印象があまりないことです。例えば「ねじまき鳥クロニクル」第3巻の場合には「こういう展開の仕方をするのか」という軽い驚きがあったのですが、「1Q84」第3巻は落ち着くところに筋が流れているようです。まあ突けばところどころ流れを急いた感じが見える箇所がないわけでもなく、筋を整理するのにちょっと難儀したかなとお察しもします。だから「これならわざわざ続編を書かなくても・全2巻完結のままでそれなりに良かったのじゃないか」という感想を吉之助も当初チラッと持たないわけではなかったのです。しかし、最終的に吉之助は「引かれなくてはならないピストルの引き金がひかれなかった」ということはやはり作者が意図して行なったことなのであろうと考えるに至りました。作者は意図的にチェーホフのテーゼに反したのです。この点は大事なことだと思います。
ここで「予定調和」ということを考えます。予定調和というのは小説や芝居で言えば定型化したようなベタなエンディングということもありますが、また読者(観客)が最後はこうあって欲しいなあと望んでいるエンディングに向かってその通りに筋を運んでみせるということでもあって、そのように納めてみせることはもちろんそれはそれで腕が要ることです。「1Q84」全3巻を読めばベタなラヴストーリーのような体裁を取 ってはいますが、そこには敵意・悪意が 絶えず渦巻いています。それはいつ爆発するかというほどに緊張が高まることはありせんが、しかし、絶えずピリピリした不快感を作品全体に与えて続けています。これは第3巻では何と 青豆の潜伏しているマンションへ押しかけてわめき立てるNHKの集金人という形で登場してきて(NHKさんには迷惑な話だと同情しますけど)、しかもこれが意識不明で寝たきりの天吾の父親の生霊(らしい)という設定となっています。予定調和ということに話を戻せば・作品を読み終わった時にNHKの集金人のエピソードがかすんで見えることは確かですが、やはりこのエピソードに見える「振り回される剥き出しの敵意・しかも当のご本人はそれが正しい行為だと心底信じているということの恐ろしさと救いようのなさ」ということを心に留めておいた方が良いと思います。これは集金人だけが悪いのではなくて、実は払わない方にも「・・だからますます払いたくない」という論理があって・これもある種の敵意だということができます。だからこれはどちらが先ということがない卵とニワトリの関係なのです。一方、青豆の方は集金人が名指しする当の人物とは違いますが、こちらは扉の 内側でピストルを持って息を詰めて身構えているという状況です。これも異常な構図です。しかし、これとはちょっと違う次元ではあっても、このように自己正当化した悪意や敵意がとびかうことが日常茶飯事としてあるわけです。これはむしろ1984年よりもIT社会の 現在の方がもっと陰湿・潜在的な形でそのようなことがあると思います。そういうことを考えてみる必要があるのです。多分作者はこの雰囲気を最後まで引っ張ったのでは作品を終われないということで・このエピソードを天吾の父の死という形で収束させたのでしょう。しかし、全体から見れば実はこの主題が「1Q84」全編を通じて最も重いものなのです。つまり、ベタなエンディングは重苦しい主題を敢えて小説中のいちエピソードに過ぎないように装うための意図的な予定調和だということになる わけです。(但し書きつけておきますと、吉之助は「父と子」が「1Q84」の主題のひとつであると言っているのではありません。もうちょっと違うことを考えています。表面上は「父と子」という装いをしていますが、自己が何に根差すかということに対する根本的な不安がふたりの主人公のなかに見えるということなのです。そこに悪意や敵意という問題が絡みます。この点については長くなるので・ここまでにしますが、現在連載中の「折口信夫への旅」で同様の問題を扱うことになるということだけ申し上げておきます。)
本稿はタイトルが「村上春樹・または黙阿弥的世界」ですから最後は黙阿弥で結末つけねばなりません。黙阿弥でよく出てくる勧善懲悪や因果の物語は「そら来た黙阿弥お得意のご都合主義」という風にしばしば揶揄されますが、それはドラマのなかでどういう意味を持つのでしょうか。当時は幕府の規制・検閲が強かったので、同時代の事件をそのまま描けませんでした。だから黙阿弥は方便として架空の出来事に仕立てて勧善懲悪で逃げを打ったということは建前としてもちろんあります。もうひとつは勧善懲悪や因果のパターンを逆手に取り・これを作劇に利用する積極的な意味をそこに見出すことができると思います。当時の社会の倫理感覚において観客がそうあるべきだと納得できる結末にするように努めることは作者の義務であると、黙阿弥は頑固なくらい固く信じていた作家であったと思うのです。そこに黙阿弥の庶民感覚もあったのです。(このことについては別稿「世界とは何か」をご参照いただきたいと思います。)一方、平成の時代に生きる村上春樹には気を遣うべき権力や組織などないはずですが、芸術作品というのは自分の考えていることが決してあからさまに・生(なま)な形で出るわけではなく・むしろ一種の寓意として出ることが多いわけです。おそらく村上春樹はそうしたものを直截的な形で出すことを恥じるシャイなところがあるか・または自分のスタイルとして良しとしない作家なのだろうと思います。それは村上春樹が個を大事にしているからでしょうね。そこに村上春樹という作家の優しさもあるとも言えますし、その優しさの裏に意外な強さも見ることも出来るのではないでしょうかね。「1Q84」の予定調和というのはそういうことかなと吉之助は思っているのです。
(H22・4・29)