九代目団十郎の活歴を考える〜三代目右団次の「高時」
令和元年7月歌舞伎座・ 「高時」
三代目市川右団次(北条高時)、六代目中村児太郎(愛妾衣笠)他
1)活歴の歴史的位置
新歌舞伎十八番の内「高時」は、明治17年(1884)11月東京猿若座の新築開場興行で初演されました。九代目団十郎が明治になって創始した史実尊重の新しい歌舞伎、いわゆる活歴の代表作です。活歴物は現在ではあまり人気がなくて上演が少ないですが、「高時」はそのなかでは継続して上演されてきた佳品です。やはり黙阿弥の筆に拠るところが大きいのだろうと思いますが、そこでこの「高時」の、どこが明治初期の歌舞伎なのか、どこが新味なのかと云うことをちょっと考えてみたいのです。
従来の史実無視の荒唐無稽な歌舞伎を新しい時代の要請に応えた高尚な演劇にしようと云う演劇改良の動きは明治10年代に入って大いに高まりました。歌舞伎改良の動きは明治19年(1886)に結成された演劇改良会の発足でピークを迎えますが、それに先立つ3年前の明治16年(1993)に、歴史家や劇作家が九代目団十郎のもとに集まって結成された求古会が、その前身になるものです。求古会が提出した原案を団十郎が取り上げて黙阿弥(当時69歳)に執筆させたのが、「高時」でした。そもそも改良運動が敵視した旧派の歌舞伎の象徴が黙阿弥であるはずですが、求古会の連中は口は盛んに出すけれど新しい演劇を創り上げる具体的な手立てを持ち合わせているわけではないので、結局、執筆を黙阿弥に頼るしかなかったわけです。史実尊重など様々な注文・制約に縛られるなかで、黙阿弥は随分苦労して「高時」を仕上げました。
団十郎が目指した新史劇は、難解過ぎたのか・高尚過ぎたのか、結局、観客の支持を得ることが出来ませんでした。仮名垣露文からは「活きた歴史なるべし」と云う意味で「活歴」と揶揄されました。(だから現代では団十郎の新史劇のことを活歴と称します。)こうなると
団十郎も段々熱が冷めてきて、明治20年代も半ばになると団十郎は次第に古典歌舞伎の方へ回帰して行くことになります。現代の我々が団十郎のことを「劇聖」と呼ぶのは、概ね晩年の古典歌舞伎での業績に拠ります。だから活歴は明治初期の団十郎の仇花みたいなものだと云えなくもないですが、そう片づけてしまうのも何だか気が引けます。やはり演劇史的な位置付けは明確にしておきたい。少なくとも残った「高時」については、明治初期の歌舞伎らしい新しさをどこかに見出したいと思うわけです。(この稿つづく)(R1・8・5)
2)活歴のフォルム
「高時」の新しいところは、形式(フォルム)面から云えば、例えば奥殿田楽の場の幕が開くと、高時が上手の柱に寄りかかって座っているところに出ています。これは古典歌舞伎ならば幕開きの主役は中央正面に座るべきところをわざと「いなして」いるのです。或いは幕切れで長刀を持った高時が「天狗にあざむかれしか」と天を睨む場面です。古典歌舞伎では、幕切れの主役が絵面で決まる時は睨む対象を定めて決めてみせるべきものです。高時の場合は睨んでも仕方がない天を悔しそうに睨む、対象を定めないまま高時の視線が彷徨う、そこで古典歌舞伎の在るべき形式を崩しているわけです。もしかしたらそれは明治から見た前時代の形骸化した封建君主への揶揄を込めたものかも知れません。しかし、現代の観客が「高時」の舞台を見ると、旧歌舞伎(古典歌舞伎)とさほど変わらない印象を受けると思います。そうすると「高尚ぶってるけど何だか面白くない芝居だなあ」という感想になりやすいわけです。百年の歳月を経てフォルムの衝撃が薄れてきたということだろうと思います。
別稿「芝居におけるドラマティック」で触れましたが、心情からフォルムが発し、それが様式を成すのです。だから心情の裏打ちがなければ、様式は生まれません。時代の変遷によってフォルムの衝撃が薄らぐことは避けられないことかも知れませんが、それを回復しようと思うならば、心情にまで立ち戻る必要があります。ここで明治初期の気分は一体どんなものであったかを考えてみなければなりません。時代の大転換期だから当然のことですが、明治初期と云うのは、変革の気分が異様なほどハイテンションで、それはまるで吹き荒れる嵐の如くでした。長谷川如是閑は次のように回想しています。
『あの時代は天保人という言葉がありましたね。旧弊だということですが、そう言われることを極端に嫌った。今ではそういう考え方をすべて「反動」で片付けていますが、(中略)すべて生活者の意識、つまり一般人の革新の意識、というよりは実践の気組みが強かった。この文明開化を唱えた十年代の欧化政策に対して、二十年代の政治意識はやや極端でしたが、(中略)しかし、生活人としての運動でした。今はインテリの運動で、生活人は高みの見物です。歴史的に見ると、明治時代は社会人に時代の意識が強くて、だから専門家も社会人としての意識によって、時の歴史に協力したわけです。』(折口信夫との座談会:「日本文化の流れ」・昭和24年2月)
前時代のものは何でも旧弊として否定し去る風が強かったのです。廃仏毀釈の騒ぎで国宝級の美術品が大量に海外流出したのもそのせいです。新しい時代のための演劇が求められていました。チョンマゲ帯刀の芝居など風前の灯だったのです。しかし、まだこの時代には芝居と云えば歌舞伎しかありませんでした。九代目団十郎など歌舞伎関係者は、世相の変化に乗り遅れないようにするのに必死だったと思います。そのような切迫した時代の空気が散切狂言や活歴物を生んだのです。(この稿つづく)
(R1・8・6)
3)九代目団十郎の活歴
活歴がこの時代の観客の支持を得ることが出来ずに終わったのは、幕外の学識者連中からの史実尊重・高尚志向の理屈ばかりが先走って、時代の気分を様式にまで高めることができなかったからだろうと思います。しかし、これは決して活歴に見るべきものがなかったということではなく、主演の九代目団十郎の演技にはやはり目覚ましいものがあったに違いないのです。大方の役者は旧態依然の演技だったと思いますが、団十郎だけは時代の気分をしっかりつかみ取っていました。例えば「桃山譚(地震加藤)」(明治2年東京市村座初演)では、加藤清正が居眠りから覚める場面で、目を見開き暫しの間(思い入れ)があって「夢か」と短く言う場面が評判となりました。これが明治初期の気分を取り入れたものでした。ここは古典歌舞伎ならば、「夢であったかあ〜」と詠嘆調に引き延ばして云うところです。言葉を簡潔にして万感を肚に押し込めて大仰な演技をしない、これが「団十郎の肚芸」と今日呼ばれるものです。学生時代の若き坪内逍遥は団十郎に心酔して、たまたま本郷の下宿で地震があった時、団十郎の清正の真似をして「何を猪口才な」と叫んで縁側から庭に飛び降りてみせたほどでした。(逍遥が見た舞台は、明治13年1月新富座での「桃山譚」だったと思われます。)その逍遥が後年に次のように回想しています。
『初期の明治は、截然(せつぜん)たる移り変り時であって、すべて物事が判然している。勝つも敗るるも、空竹を割ったように始末がついていた。このきびきびした時代精神を表すには、団十郎の芸風が最もふさわしいものであった。』(坪内逍遥:「九世団十郎」・明治45年9月)
後年(明治27年)、逍遥は新歌舞伎の先駆けとなる「桐一葉」を発表しました(ただし実際の初演はその10年後になる明治37年)。団十郎が明治36年に没したので実現はしませんでしたが、執筆の際に片桐勝元に団十郎を想定して脚本を書いたと云われています。このことから類推されることは、後年の新歌舞伎の様式にある「畳み掛けるリズム」(特に肝心な点は台詞の末尾を詠嘆調に引き伸ばさないこと)は、直接的には「簡潔を旨とする」団十郎の活歴の台詞廻しを源流とするということです。
武智鉄二は「武智歌舞伎の演出」(昭和30年)のなかで、団十郎の活歴の台詞廻しは、団十郎の家の芸としての荒事のエネルギーの転換、つまり会話劇としての初期の歌舞伎の活力を取り戻そうとしたものだと書いています。活歴はまだ理念的に十分に練り上げられたとは云えず消えていくしかなかったわけですが、団十郎の活歴の台詞廻しの延長線上に、大正期の新しい会話劇としての(二代目左団次による)新歌舞伎の様式があるということなのです。だから活歴は立派に後世への礎石となったわけです。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)(この稿つづく)
(R1・8・12)
4)右団次の高時
黙阿弥が書き下ろした「高時」も総体には旧歌舞伎の雰囲気を濃厚に引きずっています。主役の高時以外はこれといった為所もないので、これは仕方がないところがあると思いますが、団十郎の高時だけは明治初期の時代の気分を強く反映したものになっていると思います。「すべて物事が判然としている・きびきびした時代精神」、そのような気分を反映するならば、台詞はどんな風になるでしょうか。言葉を簡潔にしてリズムが歯切れ良い、そういう台詞になるはずです。ですから、団十郎が当時の観客を感心させたと云う、高時の「秋のならいといいながら」とか「北条九代綿々たる」という台詞も、節を付けて歌うことはせず、長く引き伸ばさない、そこが肝心なことになります。
さて今回(令和元年7月歌舞伎座)での右団次の高時ですが、悪くない出来だと思います。少なくとも在るべきフォルムは体現出来ています。実は右団次が演じた「矢の根」の五郎・或いは「鳴神」の鳴神上人では台詞が粘り気味で・末尾を引き伸ばす傾向が強かったので、高時も同じような感じになるかと危惧しましたが、幸いこの心配は外れて、右団次の高時はしっかりリズムを踏んで末尾を引き伸ばすところがなく、手堅いところを見せています。欲を言えば、もう少し歯切れ良いリズムが全面に出せれば、高時の強さ(良くも悪くも暴君としての性格の強さ)が引き立つと思いますが。団十郎にしてみれば、そこが史実尊重のリアリティ、そこに明治初期の気分が出ているということになるわけです。右団次はやや声が喉にこもり気味な感じがあるので、そこのところ印象がやや穏便に古典的な方向に向いてしまったかもしれませんね。しかし、踊りの上手い人なので、天狗との舞は面白く見せました。
そこで「矢の根」と「鳴神」の方に立ち戻りますが、団十郎は活歴のなかで江戸荒事の「しゃべり」の芸の復活を試みたと云うことなのですから、これくらい右団次の「高時」が悪くない出来ならば、右団次は本来「鳴神」などももっとよく出来て良いはずなのです。全然別物に考えているみたいですが、台詞としてはどちらも二拍子を基調に畳み掛ける台詞なのですから、これなら両方出来て当然だと思いますがねえ。(別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える」をご参照ください。)同様の考え方で新歌舞伎の台詞も処理出来ます。様式と云うことをそう難しく考えずに、台詞それ自体が要求するリズムをもっとシンプルに捉えれば、解は案外と身近なところにあるのではないでしょうかね。
(R1・8・13)