芝居におけるドラマティック〜三谷歌舞伎の大黒屋光太夫
令和元年6月歌舞伎座・「月光露針路日本〜風雲児たち」
十代目松本幸四郎(大黒屋光太夫)、四代目市川猿之助(庄蔵・エカテリーナ二役)、六代目片岡愛之助(新蔵)、八代目市川染五郎(磯吉)、二代目松本白鸚(三五郎・ポチョムキン二役)他
1)芝居における「ドラマティック」
大黒屋光太夫については、別稿「ロシアにおける江戸漂流民」で触れました。井上靖の小説「おろしあ国酔夢譚」を読みながら、これを芝居にするならばどんな風に出来るか考えたのですが、吉之助の乏しい想像力では、なかなか難儀なことに思われました。鎖国時代にロシアに漂流して・その後サンクトペテルブルクまで行ってエカテリーナ2世に謁見し許しを得て帰国すると云う光太夫の約10年の体験は、作り話かと思うほどドラマティックなものですが、小さな挿話を抜き出して時系列に並べただけの芝居だと、山場が見出せないのです。酷寒と飢餓の極限状況の体験が、我々の生っちょろい想像を絶するからです。光太夫の体験の壮絶さを芝居で伝えきれないもどかしさを感じます。井上靖が小説をドキュメンタリー・タッチで淡々と記述したのも、多分それが理由だと思います。
大黒屋光太夫の冒険談を三谷幸喜が歌舞伎化すると云うので、サテどんなものを見せてくれるかと期待しましたが、今回(令和元年6月歌舞伎座)の「月光露針路日本〜風雲児たち」(「つきあかりめざすふるさと」と読むそうです)を見ると、吉之助が危惧した通りの具合です。ダラダラと小さな挿話を連ねて起伏が乏しい芝居で、その隙間を漂流した光太夫の仲間たちのギャグの応酬で埋めて場を持たせている印象です。
漂着したアムチトカ島からカムチャッカ、オホーツク、ヤクーツクを経てイルクーツクに至る、約7年の過程を第2幕の40分ほどで手早く見せますけれども、帰国の嘆願を 現地のロシア人に取り合ってもらえないで盥(たらい)廻しにされてまた次の地に旅立たねばならぬ、まあ散々なことであったという珍道中のコミック・タッチで、場面が変わる度に観客の笑い声。筋を表面的になぞっているだけのことで、芝居が終わってみれば、あの船は大きかったなあ、犬ぞりの犬のぬいぐるみは可愛かったなあと云う感想しか浮かびませんねえ。漂泊の最中にも仲間はバタバタ死んでいくと云うのに、極限状況の苦しみ・緊張感 ・悲痛さが、「らしさ」でしか伝わりません。またそういうものも観客の笑い声ですぐにかき消されてしまいます。空調の効いた劇場で、役者が「身体が凍えるよオ」・「食い物が欲しいよオ」と叫んだところで伝わるものはたかが知れています。観客は実感出来ないのです。こういう場面は短い場面を連ねて描くのではなく、イルクーツクに着いた後の回想シーンにして、光太夫と仲間たちが「あの時は大変なことであった、今日にも死ぬかと思うような毎日であった」と状況を語り合う、これをギャグ仕立ての会話にすればそれで済むのではないでしょうか。三谷ほどの力量ならばそれくらいのことは簡単に出来ると思うのですがねえ。
ここで芝居における「ドラマティック」と云うことを考えてみたいのです。例えば「仲間が異国で次々と死んで行くのは悲しい」、或いは「苦労を共にしてきた仲間を異国に残して自分だけ故郷に帰るのは悲しい」という感情は、もちろんよく理解出来ます。しかし、それは「悲しい事象」には違いないけれども、演劇的に見ればこれだけでは「悲劇的な出来事」にならないのです。三谷ファンと思しき後ろの席のお婆ちゃんは、キャッキャと笑って拍手して、時にグシュンと涙ぐんで忙しいことであったけれど、悲しい事象だけで泣ける素直な観客は有難いことです。吉之助は素直な観客ではないので、これを悲劇的な出来事にするためには、状況をしっかり積み上げてもらいたい。つまり光太夫が仲間と積み重ねて来た日々、「何としてもみんなで日本に帰るんだ」という光太夫の強い思い、そういう状況が十分重ねられて、観客の胸に迫って、初めて悲しい事象が悲劇的な出来事となります。芝居の「ドラマティック」とはそういうものです。それは別に 演技で見せなくても良い。台詞でだって表現できるものですが、そこをしっかり段取りを踏まないと、ドラマは機能しません。百戦錬磨の売れっ子作家三谷幸喜がそんなことを知らないはずがないけれども、この「月光露針路日本」を見ると、この難しい題材を手際よく芝居に仕上げるねえと感心はしますが、悲しい事象を連ねてはいても、状況が積み重なってドラマが形成されているとはとても申せません。
例えば2013年3月渋谷・PARCO劇場での三谷幸喜作「ホロヴィッツとの対話」では、名ピアニスト・ウラディミール・ホロヴィッツとその妻ワンダが、ピアノ調律師の家に招待されて、芸術家気質でよく有り勝ちな、「私は芸術家だから何でも許される」と云わんばかりの、我儘で常識はずれで気儘な振る舞いと要求、スレ違いの会話で多いに笑わせます。しかし最後の方で若くして亡くなった娘ソニアのことを思い出してホロヴィッツ夫妻はしんみりするわけですが、それで芝居は「偉大な芸術家であっても、やっぱり一人の寂しい普通の人間なんだなあ」と云う月並みなところで終わります。手際は鮮やかなものですが、吉之助は臍曲がりですから、「・・それでどうしてこの芝居の主人公がホロヴィッツでなければならないの?」と感じてしまいます。天心爛漫なホロヴィッツの姿は、晩年の映像ドキュメンタリーなどで音楽ファンにはおなじみのものです。それは分かりますけども、確かにホロヴィッツも「一人の寂しい普通の人間」であるけれども、やっぱりホロヴィッツは「一流の芸術家」なんて形容詞をはるかに飛び越えた偉大な存在なのです。そこをちゃんと描いてくれないのであれば、ホロヴィッツのドラマにならないのではないか。音楽談義が欲しいわけではない。長年のホロヴィッツ・ファンにとっては、そこが大いに不満でありました。ここでも芝居の「ドラマティック」ということが気に掛ります。
チェーホフの「桜の園」の脚本を三谷が補綴・演出した「三谷版・桜の園」(2012年6月渋谷・PARCO劇場)については、別稿「チェーホフの桜の園について」で取り上げました。「桜の園」では、とりとめのない会話が続くばかりで、主人公が絶叫するような、見た目に派手で劇的なシーンが全然出て来ません。ここでとりとめもなく移ろう状況を「ドラマティック」にするものは何かと云う問題を考えてみたいのです。結局、それは作品のなかに一貫する「気分」或いは「心情」と云うものだと思います。これがチェーホフの「かもめ」や「桜の園」から吉之助が学んだことです。三谷は「桜の園」に取り組んでみて、どうであったのでしょうか?そこで話を光太夫に戻しますが、光太夫の冒険譚を芝居にするならば、光太夫の或る「 心情」が作品を貫いていなければならないと思います。そのような心情が「月光露針路日本」に一貫しているかどうかと云うことです。
恐らく三谷幸喜は二・三人の少ない登場人物を四畳半くらいの小空間で会話させるのが得意な作家ではないかと思います。三谷作「笑いの大学」(1996年・渋谷・PARCO劇場)は、ホントに吉之助さえ感嘆する出来栄えでした。そこで別稿「ロシアにおける江戸漂流民」でもちょっと触れましたが、吉之助が光太夫の冒険譚を歌舞伎にするならば、光太夫が帰国後に江戸の薬草園(現在の小石川植物園)内に軟禁される、その住まいを舞台にして、光太夫と磯吉との二人の会話で展開させていけば良いかなと考えるのは、それも理由のひとつです。小空間の対話の方が、三谷のセンスは活きる。薬草園の縁側で光太夫と磯吉が二人座ってロシア時代の苦労や楽しかったことや、思い出話をいろいろ語り合う、その思い出のなかで奥の間から漂流した仲間やキリル・ラックスマンやエカチェリーナ2世が飛び出して来たっていいじゃないか。何だって自由に出来ると思います。そこでコメディ展開にしてしまえば、三谷の得意領域に引き込めると思うのですがねえ。部外者が歌舞伎で勝利しようと思うならば、自分の得意領域に歌舞伎を引きずり込むことです。勝機はそこにしかないのです。(この稿つづく)
(R1・6・16)
三島由紀夫のように擬古文調の如何にも歌舞伎らしい新作を書ける作家は、現代ではもはや望めません。現代語で歌舞伎を書いて良いと思いますけれど、新作歌舞伎執筆を志す方は、まず真山青果の作品をじっくり研究して欲しいと思います。
青果の作品には、隈取りはないし、見得もありません。下座音楽も付きません。台詞は七五ではなく、誇張された台詞廻しはなく、動きもまったくリアルです。「これのどこが歌舞伎なの?こういうのも歌舞伎なの?」と仰る方もいっらしゃると思います。いわゆる歌舞伎を歌舞伎らしくする(と思わせる)演技手法の一切がないのですが、これも歌舞伎なのです。だから青果劇がしっかり歌舞伎であるのは何故なのか?何が青果の芝居を歌舞伎にするのか?そう云うことをじっくり考えて欲しいのです。青果の芝居を歌舞伎にするものは、「心情」です。これは本サイトで吉之助が「かぶき的心情」と呼んでいるものです。江戸期においては個人は世間や社会を対立したものと見ることがありません( 庶民には人権とか平等とか云う観念がまだ存在しなかったからです)。だから心情が求めるものは、個の主張、「俺は・・・俺は・・」と云う主張です。我が思いの強さ・熱さで、それのみで状況を変えようとするのです。歌舞伎の隈取りや見得は、すべてそのような心情が裏打ちされて表現様式となったものです。だから「かぶき的なるもの」とは、その心情の強さです。「かぶき的なるもの」が芝居を歌舞伎にするのです。個人を内面から急き立てるかぶき的な心情の強さを内包する芝居であれば、どんなものでも歌舞伎に仕立てられる可能性を持っています。
ところが新歌舞伎になると、心情の在り方が微妙に変わってきます。これは19世紀以降の世界的な潮流としてあるものですが、近代国家としての形態を整えていく中で、国家は個人を流れのなかに強引に巻き込んで行きました。明治以降の新歌舞伎は、個人を押し潰そうとする国家・社会・組織を対立概念として明確に意識するものです。それは個人が社会に反抗する・背を向けると云う形で現れる場合もあって、そう云う時の主人公はアウトローということになるでしょうが、これではいささか単純構図だと云わざるを得ません。多くの国民は、個人と社会(国家)に折り合いを付けながら、じっと我慢して真面目に生きています。葛藤を抱えつつ・社会での個人の役割を意識して・自分の進むべき道を決めます。これが明治以降の歌舞伎の新しいスタイルになるのです。
「元禄忠臣蔵」を見れば、内蔵助は「初一念」ということを云います。それは敵吉良上野介を討つて主人の無念を晴らすということでも・幕府の裁定に反抗するということでもないのです。そうも読めるように青果は芝居をカムフラージュしていますが、実はそうではない。真面目に正直に平和に慎ましく勤めて来た浅野家家中の者たちを路頭に迷わせた状況のすべてに対して内蔵助は憤っています。シンプルな・しかし腹の底から湧き出す強い憤りです。しかし、一方で内蔵助は教養人であり・常識人であり・武士であり、浅野家中を率いる指導者であるわけですから、責任がある。取り乱したことは決して出来ません。だから内蔵助は慎重に言葉を選び、なかなか動かず、自分が進むべき道をあれかこれかと悩み続けます。
このようなことを史実の内蔵助がどのくらい意識したかは分かりませんが、これを延長していけば、まさに現代の我々が日々生きるために悩み苦しんでいるのを、まさに三百年前の内蔵助が先取りした如くであることが分かります。二十世紀初頭に生きた青果は、この時代のセンスで内蔵助の心情をこう読んだのです。それが「元禄忠臣蔵」の「かぶき的心情」です。このような青果の作劇術のなかに、現代の歌舞伎の新作のためのヒントがあるはずです。要するに隈取りとか見得とか下座とか立ち廻りがなくても、強い心情さえあれば、芝居は「かぶき的なるもの」に出来るのです。
話を大黒屋光太夫に戻しますが、光太夫に「かぶき的心情」はあるでしょうか。二十一世紀の我々にも突き刺さって来るような強い心情があるでしょうか。吉之助は光太夫はガリバーみたいなものだと思いますねえ。 ジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」を思い出してください。ガリバーは小人国や大人国などに行って(日本にも行っています)大変珍しい経験を たくさんしました。ガリバーは、故国へ帰って自分が見て来た珍しい事物や驚くべき経験談をみんなに話して聞かせたくてワクワクしています。
「自分たちが知らないところにこんなに面白いことがたくさんあるんだ、世界ってこんなに広いんだ、自分たちの世界・常識がすべてだなんて思ってちゃいけないんだ 、もっと珍しいものをいっぱい見せてくれ」
と云うことです。ガリバーはワクワクして、それを故国のみんなにも同じように知ってもらいたくて仕方がありません。それは内側からガリバーを突きあげる苦しいほどの欲求です。しかし、苦労して故国へ帰ってみると、待っていたのは「こいつは気違いじゃないか?」と自分を疑うみんなの視線でした。誰もガリバーの言うことを聞いてくれません。ガリバーはすっかり狂人扱いされてしまいます。これは光太夫も、ほとんど同じなのです。苦労して日本に帰って見れば、江戸の植物園に押し込められて、なかったことにされてしまうのです。(史実の光太夫と磯吉は、許可をもらって一度故郷を訪れたことがあったようです。しかし、軟禁状態が解けたわけではなく、江戸に戻されて生涯を終えたと思われます。)
三谷の「月光露針路日本」を見ると、「仲間みんなで何としても日本に帰るんだ」という光太夫の気持ちはまあ心情と云えなくもありませんが、これだけではまだドラマを引き出す強い心情にならないと思います。最後の場面(日本に向かう船上)で光太夫が天を仰いで「俺たちをこんな酷い目に合わせて楽しいか」と叫んで、神にその不当を抗議するシーンがありましたねえ。これは確かに心情だと云えますが、最後の最後に出て来たのでは仕方がない。光太夫の心情を、状況(嵐のためにいきなり酷寒のロシアに放り込まれて、思いもかけずガリバー状態となる)と個人の相克のなかでじっくり描けているのであれば、「月光露針路日本」を「かぶき的なるもの」に出来るはずなのですが。(この稿つづく)
(R1・6・ 20)
アンドレ・マルローは「フォルムを様式にするものが芸術である」と言いました。フォルムを裏付けするものは心情です。だから心情からフォルムが発し、それが様式を成すのです。心情がなければ、様式は生まれません。歌舞伎の隈取り・見得など、歌舞伎を「歌舞伎らしく」している技法もまた心情の裏付けを持っています。個人を内面から急き立てる心情の強さ・熱さ、吉之助はこれを「かぶき的心情」と呼んでいます。この心情を内包する芝居であれば、どんなものでも歌舞伎に仕立てられる可能性を持っているのです。だからまず脚本のなかにかぶき的心情がしっかり描けていなければなりません。それが 正しく描けていれば、自ずから急き立てる気分が生まれ、フォルムはかぶき的な様相を呈します。(ただし現代においてはそれは社会(世間)或いは組織の関連において描かれなければ普遍的なものになりません。)
そこで三谷の「月光露針路日本」を見ると、どうやら三谷は芝居をかぶき的な様相にするものは、(心情が裏付けされていないところの)歌舞伎のフォルムや技法そのものであると考えているようですねえ。次いでに云えば、歌舞伎役者なら ば長年の経験と勘で「それらしいもの」に仕上げてくれると考えているようです。「歌舞伎役者がやればそれは歌舞伎です」と云うことかな?しかし、吉之助が見るところでは、「月光露針路日本」は、竹本など歌舞伎の技法を用いてなまじっか歌舞伎らしくしようとした箇所は、どこも滑っていました。そう云う箇所では、「可笑しいものを見ました」という感じで客席の笑い声が一段と大きくなります。そりゃあそうでしょう。普通の感覚では、歌舞伎らしい仕草や表情・台詞廻しは 、大仰でわざとらしくて・もったいぶてって・誇張されてて・時代遅れで・滑稽なものにしか見えないのです。吉之助だってそう感じましたよ。どうして観客がそう受け取るのかと云うと、かぶき的な心情の裏付けが十分でないからです。だから浮いて見えるのです。その仕草や表情・台詞廻しが心情から湧き出る必然のものだと観客が受け取るならば、観客は決して笑いはしません。だから観客が笑うのは、脚本のせいです。三谷は観客が笑っているのを見て「ヨシ受けてる」と思うのかもしれないが、それは逆ですよ。そういうことでは日本演劇のレベルが一向上がりません。
例えばエカチェリーナ2世の許可を得て帰国することになった光太夫がロシアに残る庄蔵・新蔵の二人に別れを告げる場面です。「苦労を共にしてきた仲間を異国に残して自分だけ日本に帰らねばならぬのは悲しい」、「俺たちも日本へ帰りたい」という悲しい気持ちはもちろん分かりますが、ここで役者の大仰な表情付けや竹本や歌舞伎の技法を使えば使うほど、感情が嘘っぽく薄っぺらに見えて来ます。観客の笑い声が大きくなって来ます。歌舞伎の定型的なパターン処理に「アハー、やっぱりここでこう来るわけね」という感じの好意的な笑い声ではありますがね。別れに光太夫が新蔵にロシア流の男の挨拶(男同士でキスするそうです)の場面では、大爆笑でした。三谷はここで観客を笑わせるつもりはなかったかも知れません(多分これはとても悲しい場面なのです)が、ここで観客が笑うのは、心情の裏付けが十分でないからに違いありません。悲しい事象ではあっても、演劇的に見ればこれだけで「悲劇的な出来事」にならないのです。 それは心情がしっかり描けていないからです。
まず庄蔵・新蔵は何故日本に帰れないのか。それは彼らがロシア正教教会の洗礼を受けたからですが、日本がキリシタン禁令の国で・彼らが日本に帰ったら死刑になるのが明らかだから帰れないと云うことではありません。(そんなことならば、どうせ宗旨に共鳴して入信したわけではないのだから、みんなして黙っていれば誰にも分からないことです。)教会の洗礼を受けたと云うことは、日本で云えばお寺の宗門人別帳に記載されたようなもので、ロシア国民として帰化したということを意味するのです。だからエカチェリーナ2世は「教会の洗礼を受けた二名を除く」とはっきり指令文書に記しています。
ですから日本に帰れないけど帰りたい庄蔵・新蔵の心情を描くならば、彼らが何故入信したのか、そこを描かねばドラマになりません。(これは光太夫と磯吉との会話のなかで描いたって良いのです。)庄蔵の場合は足を切断して弱気になっていた、明日の生活のことを考えれば教会の援助を受けるしか生きる術がなかったと云うことに拠ります。新蔵の場合は自分の力で生きて行く知恵と才覚があったが、彼には愛するロシア女性がおり、いつ帰国が叶うか皆目分からぬ状況である からこれを当てにせず、今を目一杯生きることを選んだということです。この地で日本語教師を勤めれば、伊勢で船乗りをしていた時よりずっと良い生活が保証されるのです。彼らが入信したのは人間的な弱さのせいだと言う方もいるだろうが、それぞれ自分の意志で独力で生きようとした結果であったと も言えると思います。そこに彼らの引き裂かれた心情があるわけで、「俺たちも日本へ帰りたい」と同時に、「でも入信は仕方ない決断だったんだ」という矛盾した思いがなければ、決してかぶき的心情になりません。
一方、光太夫は念願叶っていよいよ日本に帰らねばならないと云うことになって、本当にハッピーであったのか、そこのところも是非考えておきたいと思います。この時点で江戸で軟禁されることを予期できたはずがありませんが、日本に帰ることは平凡で詰まらない伊勢の船頭の日常に戻ることを意味しました。日本に帰る段になって光太夫は、「これでもう自分をワクワクさせた多くの珍しい事物を見ることもない、まだまだ知りたいことがたくさんあったはずなのに、もう自分はそれらに出合うことはない」と感じたと思います。「いよいよ日本に帰れるんだ」と云う喜びと、「もう珍しい事物にワクワクする生活から別れねばならない」という悲しみが交錯する場面があっても良いのではないか。その思いに光太夫のロシアでの十年間が集約されます。
この矛盾した思いを光太夫のかぶき的心情に仕立てあげるためには、光太夫のロシア人との心の交流、とりわけキリル・ラックスマンとの交流を描くことが肝心です。光太夫がロシアの風物を見て何に驚き・何に感じたかを、入念に描いていなければなりません。(付け加えますが、それは光太夫の独白で語られても良いのです。やり方はいろいろ考えられます。)しかし、「月光露針路日本」では、その辺をほとんどスルーしていますねえ。「月光露針路日本」での光太夫は、全体の筋の狂言回し的イメージで、存在感が薄いように感じるのはそのせいです。
キリル・ラックスマンの光太夫への尋常ならぬ助力は、彼の政治的或いは商業的な野望と云うだけでは説明できない、損得抜きの、とても興味深いものを感じます。ラックスマンは博物学者であり、珍しい事物を収集することに強い興味を持っていました。彼は自分の眼で日本と云う国を見たかったのです。だから彼の思いは光太夫とまったく同じもので、光太夫の眼の輝きのなかに自分の思いを見たはずです。ラックスマンも、光太夫と同じようにワクワクしたかったのです。光太夫とラックスマンの友情がほとんど描かれないことが、「月光露針路日本」のドラマを 起伏が乏しいものにしています。そもそもこの芝居の副題は確か「風雲児たち」と言ったと思いますが、風雲児ならばワクワクした感情が欲しいですねえ。「月光露針路日本」の光太夫には、ワクワクが感じられません。光太夫はどうして日本に帰ることが出来たのでしょうか。光太夫の帰国の意志が強かったから?それだけでは理由になりませんねえ。ラックスマンやエカチェリーナ2世や多くのロシア人を彼の思いの渦に巻き込んでいかなければ、事は決して成らなかったのです。それが光太夫のかぶき的心情ではないのかな。それでこそ光太夫と庄蔵・新蔵との別れが辛いものに出来ます。
序幕での光太夫を頼りない感じの船頭に設定して、恐らく三谷は「月光露針路日本」を光太夫の成長物語に仕立てたかったと察します。しかし、芝居を見る限り、その目論見も上手く行っていないと思います。それならばエカチェリーナ2世謁見の場で、これまでの約9年の流浪の物語とロシアでの生活の驚きの数々と自分たちを救ってくれたロシア人への感謝・それでも日本に帰りたいという光太夫の気持ちを十分くらい「物語り」を長々とやってみせるか、或いはポチョムキン公爵と帰国の大義について真山青果張りに長い議論をやるか(白鸚と幸四郎のそれはなかなかの見せ場になるのではないか)、そのどちらかを試みて欲しかったと思います。だから劇中光太夫の成長が観客に印象付けられません。(ちなみに史実では光太夫が女帝と謁見した時にポチョムキンは同席しておらず、これは三谷の創作ですが、別にそれは構いません。)
「月光露針路日本」が歌舞伎としてまだ十分でないのは、これはみなもと太郎の原作漫画「風雲児たち」のせいではないと思います。この漫画を吉之助は読んでいませんが、この漫画は歴史的考証を綿密に行って、好い加減なものではなく、歴史漫画としてなかなか評価が高いものだと聞いています。問題は三谷が原作から登場人物の感情を読み取って、これを心情にまで熱く高めて、芝居のなかのドラマティックを十分膨らませていないことにあります。だから三谷の作劇の手際の良さしか感じられないものになってしまいました。繰り返すと「仲間を異国に残して自分だけ日本に帰らねばならぬのは悲しい」、「俺たちも日本へ帰りたい」だけでは、歌舞伎のドラマにならないのです。そのためには心情の裏打ちがなければなりません。かぶき的心情さえあれば、ドラマは自然に歌舞伎に出来ます。それが出来れば、芝居のなかに隈取りや見得や義太夫でさえ、芝居を歌舞伎「らしく」する手法がなくても、それは歌舞伎に出来ます。そんなところに歌舞伎らしさを求める必要はありません。真山青果の作品が歌舞伎であることを見れば、このことがよく分かると思います。
(R1・6・ 27)
*大黒屋光太夫についての歴史的分析は、別稿「ロシアにおける江戸漂流民」をご覧ください。
*アゼルバイジャンの作曲家フセイノフによる歌劇「光太夫」(初演1993年東京)という作品があります。別稿「歌劇「光太夫」のこと」をご参照ください。