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チェーホフの「桜の園」の桜について

平成24年6月渋谷・パルコ劇場:「三谷版 桜の園」

浅岡ルリ子(ラーネフスカヤ)、市川しんぺー(ロパーヒン)他

三谷幸喜演出

*本稿の引用は、チェーホフ:桜の園 (岩波文庫)(小野理子訳)より。


1)「桜の園」は悲劇か喜劇か

チェーホフ最後の戯曲「桜の園・4幕の喜劇」は、1904年1月17日・モスクワ芸術座においてスタニスラフスキーの演出により初演されました。この戯曲についてしばしば議論となるのは、何故チェーホフがこの戯曲をわざわざ喜劇と銘打ったのか?ということです。

1903年9月15日付け女優リリーナ・アレクセーエワへの手紙のなかでチェーホフは、「出来上がったものは、ドラマでなくてコメディです。それも、ところどころ笑劇(ファルス)でもあります」と書いています。ところが初演の稽古の最初の本読みの時に俳優たちが涙をこぼすのを見てチェーホフは当惑し、「僕はボードヴィルを書いたつもりなのに・・」と洩らしたそうです。病をおしてチェーホフは何度か稽古に立会いましたが、初演の舞台は彼の気に入らず、1904年4月10日付けの妻(モスクワ芸術座の女優でもあるオルガ・クニッペル)への手紙でもチェーホフは不満をたらたら書いています。

『ネミローヴィッチ(ダンチェンコ)やアレクセイエフ(スタニスラフスキー)は僕の戯曲のなかに、僕が書いたものでないものを見ている。僕は彼らふたりが一度も注意深く僕の戯曲を読まなかったと断言できる。失敬。しかし、僕は君に誓ってそう言う。』

一方、スタニスラフスキーはこの「桜の園」を喜劇であると解して譲らず、チェーホフ宛てに「これは喜劇でもファルスでもなく、悲劇です」と書き送っています。モスクワでの初演以来、「桜の園」は悲劇か喜劇かという議論はつねにありますが、チェーホフの意に反して、この戯曲はもっぱら悲劇として上演されて来 ました。

もうひとつ、「桜の園」でよく議論になることは、タイトルの「桜」が、実のなる桜・要するに実を採って食べるためのサンランボの樹なのか、花が咲くだけで実のならない桜の樹なのかということです。これについてはスタニスラフスキーの「芸術におけるわが生涯」のなかに証言があって、チェーホフが後者(実のならない桜の樹)としていたことが明らかです。

『「お聞きなさい、私はね、戯曲のすばらしい題を見つけましたよ。すばらしいのを!」 彼は私の顔をじっとみつめながら明言した。「どんな?」 私は昂奮してきた。「桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)」、そういうと彼は喜ばしげに 笑い崩れた。私は彼の喜びの原因が分からなかったし、題名にも何も特別なものを見出さなかった。(中略)このことから私が理解したのはただ、何か美しいこと、いとおしくてな らないことが話されているということだけであった。題のすばらしさは言葉のなかにではなく、アントン・パブロービッチの声の抑揚そのもののなかに伝えられていた。(中略)この会見から数日、いや一週間が過ぎた・・ある公演のとき彼は私の支度部屋に立ち寄り、勝ち誇ったような微笑を浮かべて私の机のわきに座り込んだ。(中略)「聞いてください。桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)じゃなくて、桜の園(ヴィシ二ョーヴィ・サート)です。」 彼はそう言うと笑いくずれた。最初私はいったく何の話なのかさえ分からなかったが、しかしアントン・パブロービッチは「ヴィシ二ョーヴィ(桜の)」という言葉の「ヨー」というやわらかな音に力を込めて、なおも戯曲の題を味わいつづけていた。あたかもその助けを借りて、以前の、美しい、けれど今は不必要になり、彼がその戯曲において涙とともに破壊した生活を愛撫しようと努めててでもいるようだった。今度は私も繊細さを理解した。「ビィーシ二ェーヴィ・サート」、これは収入をもたらす実業的な、商業的な園である。そういう園は今も必要だ。しかし「ヴィシ二ョーヴィ・サート」は収入をもたらさない、それはそのうちに、その花咲く純白のうちに、いにしえの貴族生活の詩情をたたえている。そういう園は気紛れのために、甘やかされた耽美家のために育ち、花咲く。それを絶やすのは惜しいけれど、そうしなければならない。なぜならば国の経済的発展の過程がそれを要求するからである。』(スタニフラフスキー:「芸術におけるわが生涯」中巻〜「桜の園」)

スタニフラフスキー:芸術におけるわが生涯〈中〉(岩波文庫)

第1幕で老従僕フィールズは、「昔、四・五十年も前にはなあ、サンランボは乾したり、シロップ漬けにしたり、酢漬けにしたりしたものよ。そして、その乾したサクランボを、何台もの荷馬車に積んで、モスクワやハリコフへ送り出した。たいした金になったわ。あの頃のサクランボは、柔らかで、汁気がああって、甘くて、いい香りがした・・・やり方を知っておった・・(今ではそのやり方を)忘れちまって・・・もう誰も存じません。」と言っています。

ですから「桜の園」は、その昔はサクランボを収穫した・実用的な桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)であったのですが、年月が経つにつれ放置されて・荒れて・実をつけなくなって、今やただ花が咲くだけの「桜の園」(ヴィシ二ョーヴィ・サート)になってしまったということのようです。どうやらスタニフラフスキーは上掲のエピソードに、農奴制の時代から農奴解放になって・その時代の流れのなかで没落していった貴族の哀愁を見て、この「桜の園」は悲劇だという確信をますます強くしたようです。「それを絶やすのは惜しいけれど、そうしなければならない。なぜならば国の経済的発展の過程がそれを要求するからである」という文章にそれが感じられます。さらに、この自伝が書かれたのが1926年、つまりロシア革命後であることも頭に入れておく必要があります。ここには唯物史観の影響が見られます。

ここで面白いことは、チェーホフが「聞いてください。桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)じゃなくて、桜の園(ヴィシ二ョーヴィ・サート)です」と言って笑いくずれたということです。スタニフラフスキーには、何が可笑しいのか、全然分かりませんでした。自伝が書かれた1926年の時点でも、スタニフラフスキーは依然分かっていないようです。それにしても、吉之助には、この箇所がとても引っ掛かります。チェーホフはどうして、「聞いてください。桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)じゃなくて、桜の園(ヴィシ二ョーヴィ・サート)です」と、嬉しそうに笑ったかということです。

ところで、現代ロシア語では「ビィーシ二ェーヴィ」という発音はもはや使われず、古語になってしまって、現代ロシア人はサクランボ果樹園のことを「ヴィシ二ョーヴィ・サート」と云うそうです。だから話がややこしくなります。ロシア語は難しいね。40年ほど前に吉之助も、「チェーホフの「桜の園」はホントはサクランボ園(桜桃園)だから、この芝居を実のならない桜花のイメージでやっている日本の新劇は、ラストシーンに没落貴族の哀愁と・散りゆく桜のはかない運命とを重ねて感傷にひたる「平家物語」 的滅びの美学で何と日本人的な読み方であることよ」という論考(誰の文章だか失念)を読んだことがあって、なるほどそんなものかなあと思ったものでした。しかし、「桜の園」が実をつけない廃園同然のサクランボ園であるならば、新劇のイメージも当たらずとも遠からずだと思います。ただし、チェーホフが「桜」で笑い転げる意味が依然としてよく分かりません。いったい何が可笑しくてチェーホフは笑い転げたのでしょうか。(この稿つづく)

(H25・9・13)


2)チェーホフのなかの日本

「桜の園」の桜は、その昔はサクランボの実を収穫した・実用的な桜であったのですが、年月が経つにつれ放置されて・荒れて・実をつけなくなって、今やただ花が咲くだけの桜になってしまったということのようです。そうすると品種としてはサクランボの樹だと考えて良さそうです。しかし、当時のロシアには当たり一面サクランボというような広大な果樹園というのは存在しなかったということで(劇中では百科事典にも載っているとありますが)、これはあくまでチェーホフの頭のなかにある「桜の園」です。けれど、近年のロシア文学研究では、チェーホフの「桜の園」のイメージは日本の桜であるかも知れないということが言われているそうです。つまり、チェーホフは、サクランボの樹だけれど、そこに日本の桜のイメージを重ねて見ているということです。

ところで、チェーホフには来日経験はありませんが、大変日本に関心があった人だったそうです。チェーホフは日本びいきでした。チェーホフは1904年7月15日に他界しますが、当時はまさに日露戦争の真っ最中でした。チェーホフはこの戦争での日本の行方を とても心配していました。友人の作家ブーニン宛(6月付け)の手紙のなかで、日本のことを「奇蹟の国」と呼び、「ただ日本、奇蹟的な国のことで悲しくなっている、その国を、ロシアが打破し、壊滅させようとしている」と書いています。チェーホフは死の直前にうわごとで「水夫は退避したか・・」ということを呟いたそうです。これがチェーホフの最後の言葉でした。これは日露戦争の旅順港封鎖作戦での広瀬武夫中佐(広瀬は元・ロシア駐在武官でロシアでは有名人でした)の戦死のニュースが彼の脳裡にあったようです。広瀬中佐は旅順港封鎖の爆薬を仕掛けた船から退避する時にひとりの水夫の姿がないことに気が付き、彼を探し回って退避が遅れて、そのために戦死したと云われています。この辺は中本信幸著・「チェーホフのなかの日本」に詳しく出ています。

中本信幸:チェーホフのなかの日本(大和書房)

また園芸に熱心であったチェーホフは、晩年に住んだヤルタの別荘に日本から取り寄せた草木を何種類も植えていました。現在もそこで確認できる日本原産の植物としては、カキ、ビワ、ボケ、タケ、ニシキギ、シモツケソウなど六種類があるそうです。手紙に出てくるのではアヤメなど、まだまだ沢山の名前が登場します。気になるのはサクラの名が見えないことです。吉之助はヤルタの別荘にサクラもあったという文章をどこかで読んだ気がしたのですが、改めて調べてみると、そのような記述が見つけられませんでした。日本のサクラがあ ったのなら「桜の園」との関連で手紙で触れないはずがないだろうから、やはりなかったのでしょうかね。

しかし、チェーホフがかつて住んだモスクワ郊外のメーリホヴォの庭でサクランボを植えていた記述がありました。モスクワ大学医学部を卒業して医師になったチェーホフは、1892年・32歳の時にメーリホヴォに土地付きの屋敷を購入しました。農奴の孫であったチェーホフにとっては、これは夢の実現でした。チェーホフは嬉々として敷地にいろいろな種類の植物を植えますが、「うちではサクランボがたくさんで、やり場に困るほどです」と書いています。また「ライ麦はすばらしい。でも誰も収穫しない。サクランボも誰も収穫しない」とも書いています。果実は全然収穫しなかったわけではなく、ごく少量は父親パーヴェルがジャムにして村の子供たちに配ったりしましたが、大半は収穫されることなく打ち捨てられたようです。後にチェーホフはメーリホヴォの屋敷を手放すことになります。

小林清美:チェーホフの庭(群像社)

「桜の園」第1幕でロパーヒンが、「この桜の園が優れているのは、非常に大きい、ということだけです。サクランボは二年に一度しかならないし、生った実もやり場がない。買い手がおりませんから。」と言っています。その台詞には、その豊かな実りを生かすことが出来なかったチェーホフ自身のメーリホヴォでの何かしら苦い思い出・あるいは悔恨から出ているのです。

また日本のソメイヨシノなどは白から薄紅色(いわゆる桃色)に近いものが多いですが、サクランボの花は、もっと白いものです。「桜の園」のなかでは、この「白」のイメージが盛んに使われています。

「庭は一面真っ白だ。この長い並木道は、ずっと真っ直ぐ帯のように伸びていて、月夜にはそれが白く光っただろう?」(ガーエフ)

「庭はあの頃とちっとも変わっていない。ほんとに、一面に真っ白。ねえ私のお庭さん。」、「みんな見て、亡くなったママがあそこを歩いていらっしゃるわ、白いお召し物で!ホラ!・・・・誰もいません。そんな風に見えただけ。右側の、東屋へ曲がるところに、白い樹が一本かしいで、女の人みたいだったの・・」(ラーネフスカヤ)

ラーネフスカヤの台詞のなかの「白」のイメージには、死あるいは滅び、あるいは過ぎ去ってしまった日々の思い出、そのようなものが走馬灯のように交錯します。それにしてもチェーホフがスタニスラフスキーに「聞いてください。桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)じゃなくて、桜の園(ヴィシ二ョーヴィ・サート)です」と言って笑い崩れたという理由がまだ分かりません。日本のサクラのイメージというと、日本人が思い描いてしまうのは、散る花の儚さとか・もののあわれ、滅びの美学みたいなものになり勝ちです。これを延長すると、やはり「桜の園」は悲劇だという結論になってしまいそうです。

19世紀、ペテルブルクを初めとして、ロシア各地に植物園が創られました。1840年に設立の黒海沿岸のスフーミ植物園もそのひとつですが、特にスフーミは日本産の植物の育種で有名なところでした。もちろんそこには日本の桜もありました。ヨーロッパでは日本の桜は、浮世絵などを通じて、日本の代表的な国花として特に有名でした。チェーホフは、この植物園に特注して日本産の植物を買い集めたのです。当然、チェーホフはスフーミに咲く日本の桜の花を見たはずです。チェーホフが最も好きであったのは、花を咲いている桜の木であったということはよく知られています。

以下は吉之助の想像で・文献的根拠はまったくないですが、「桜の園」でボードヴィルを書いたつもりだと言ったチェーホフの意図には沿うと考えます。チェーホフは、「日本では春に満開のサクラの花の下で宴会をするのです、花見と云って、そこで飲めや歌えの大騒ぎをする風習があるのです」という話を、誰かから聞いたに違いないと思うのです。チェーホフは桜の花を見上げて、「 サクラの花の下でドンチャン騒ぎだって?おかしなことを・・」と言って、きっとクスクス笑ったと思います。チェーホフがスタニスラフスキーに「聞いてください。桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)じゃなくて、桜の園(ヴィシ二ョーヴィ・サート)です」と言って笑い崩れた時に、チェーホフの頭にあったことは多分それに違いないと、吉之助は睨んでいるのです。(この稿つづく)

(H25・9・23)


3)江戸的感性による花見

『桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。』(坂口安吾:「桜の森の満開の下」・昭和22年)

坂口安吾:桜の森の満開の下・白痴 他十二篇 (岩波文庫)

安吾の小説「桜の森の満開の下」の冒頭部です。花見という風習が民間に広まって満開の桜の木の下でドンちゃん騒ぎをするというのは江戸時代になってからのことで、江戸以前にはあまりなかったことでした。もっとも花見自体は昔からあって、平安の貴族の風習では、3月の鎮花祭(はなしずめ)の時に歌うお囃子の文句に「やすらへ。花や、やすらへ。花や」と合わせて優雅に舞ったものでした。「やすらう」とは躊躇するの意味で、休息することを「やすらう」と言うのは・その転化です。つまり、このお囃子は「そのままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」と呼びかけたものです。

花が散ると、桜の枝から芽が吹き出て、今度は青葉が伸び始めます。若々しい燃える若葉の緑色はグングン成長する生命の鼓動を感じさせます。しかし、花の立場から・逆からこれを見れば、美しい花の奥底にそのような燃え盛る生命のエネルギーが既にして渦巻いており、熱いエネルギーが動き始めて・やがてバランスを失ない・地表に噴火するが如くに表皮を突き破ぶって美しい花を散らしてしまうということなのです。だから鎮花祭のお囃子で「やすらへ。花や、やすらへ。花や」(そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。)と歌い掛けるのは、花が動き始める瞬間を内心恐れているのです。一旦動き出したら花は確実に散り始めることを平安の人々は知っていたのです。そこからやがて「散るのを惜しむ」という桜の美学が生まれてきます。

もともと上流階級の風習であった花見が、江戸期にかけて民間に浸透して行くにつれて、花見は次第に賑やかな・時に騒がしい宴会風に変化していきます。古来桜は人を狂わせると言われました。これを陰陽道では桜の陰と宴会の陽が対になっていると解釈するそうです。静かに咲いている桜の花があまりに恐ろしいので・その殺気を紛らわせようとして・思わず浮かれ騒ぎをしてしまうということかも知れません。坂口安吾は、昭和20年3月10日の東京大空襲の後に、上野の山の満開の桜の光景を回想してこう書いています。この時の安吾の印象が、後の「桜の森の満開の下」の動機になっているのです。

『そこには緋のモーセンも茶店もなければ、人通りもありやしない。ただの桜の花ざかりを野ッ原と同じように風がヒョウヒョウと吹いていただけである。そして花ビラが散っていた。(中略)けれども花見の人の一人もいない満開の桜の森というものは、情緒などはどこにもなく、およそ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに逃げ出したくなるような静寂がはりつめているのであった。』(坂口安吾:「桜の花ざかり」〜「明日は天気になれ」・昭和28年)

「逃げ出したくなるような静寂がはりつめていた」という安吾の印象が、満開の桜の下ではドンチャン騒ぎがあるという常識的光景との対比のギャップから来ることは明らかです。また、そこに迫り来る敗戦(崩壊)への予感が重なっていたことも確かです。と同時に、そこにはるか昔の江戸期の花見の庶民的受容の原点が垣間見えてもいるのです。江戸期の民衆にとっては、満開の桜の静寂が醸し出す不穏な雰囲気を振り払うために、ドンチャン騒ぎが必要であったということです。その不安の正体を見極めたわけではないのだけれど、何となく落ち着かない感じなのです。だから「そのままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」と歌いながら、その気持ちとは裏腹に、騒がずにはいられなかったのです。これが江戸的感性だということです。昭和期の安吾の場合には、これに世紀末的な感性が加わってきます。

このように平安貴族の鎮花祭から・江戸の庶民の花見のドンチャン騒ぎ・そして安吾の小説「桜の森の満開の下」まで線を引いて見ると、吉之助は桜の花への感じ方が大きく変化する転換点があるのを感じます。歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」の満開の桜の舞台が、まさにそれです。そこに江戸的感性の特異さがあるのです。(別稿「やすらえ花や」をご参照ください。)前章で吉之助は、チェーホフは「日本では春に満開のサクラの花の下で宴会をするのです、花見と云って、そこで飲めや歌えの大騒ぎをする風習があるのです」という話を聞いたに違いない、そしてチェーホフは桜の花を見上げて「サクラの花の下でドンチャン騒ぎだって?おかしなことを・・」と言ってクスクス笑ったに違いないと想像しました。チェーホフは、満開の桜の下でドンチャン騒ぎという組み合わせ(江戸的感性)を、とてもキッチュで・おもしろおかしく感じたと思います。

ラーネフスカヤは「なんて素晴らしい桜の園!白い花の雲に、青い空・・・」と言います。「桜の園よ、いつまでも・・」と云いながら、ラーネフスカヤのやっていることはまるで逆で、浪費三昧と愛欲生活です。それが桜の園の売却につながっていくのです。兄ガーエフもまったく経営能力がなく、破綻が迫っているのにまるで状況を直視せず・冗談ばかり言って逃げています。チェーホフの感性は、ラーネフスカヤら登場人物たちの言動・振る舞いは、「そのままでをれ。桜の園よ」、「じっとして居よ、桜の園よ」と歌いながら、白い花の下で飲めや歌えの 馬鹿騒ぎをしているようなものだと見たのです。だからチェーホフは、「僕は「桜の園」でボードヴィルを書いたつもりだ」と言ったのでしょう。

ところがスタニフラフスキーほかモスクワ芸術座のメンバーは、初演の稽古の最初の本読みの時に涙を流して、チェーホフを驚かせました。多分、彼らはその世紀末的感性において(1904年という時代を想起してください)、滅びへの予感を強く読み過ぎたのです。これは決して読み方が間違っているのではなく、対象を見る視点がチャーホフとは異なっていたのです。一方、チェーホフは上流階級の没落を主題にしたつもりはなく、むしろ去り行く時代のなかでのカリカチュア的な人間模様を描写することに興味が行っているようです。「そのままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」の気持ちの方からドラマを読んでいるようです。ラーネフスカヤもガーエフも目の前の事態が分かっていない(あるいは目をそむけている)、けれど何だか不安で落ち着かない、だから余計にはしゃいで・冗談を言いたくなるのです。「桜の園」は、チェーホフ流の花見なのです。ですから、チェーホフの「桜の園」のイメージは日本の桜だという指摘はその通りだと思いますが、もっと正確に云うならば、それは江戸期の庶民の花見のイメージであると云うべきなのです。チェーホフはもちろんその舞台を見たことはないわけですが、歌舞伎の「京鹿子娘道成寺」を思い浮かべるのが、イメージとしては一番近いということが言えると思います。(この稿つづく)

(H25・9・29)


4)チェーホフのなかの笑い

作家として駆け出しの時期のチェーホフがもっぱらヴォードビルやユーモア短篇を書いていたということは、良く知られています。初期のチェーホフがユーモア短篇を書いたのは生活費を稼ぐためという現実的な問題があったからに違いないですが、チェーホフは喜劇的なるものに対する関心が少年時代からとても強かったようです。

チェーホフの祖父は元農奴で、領主に身代金を払って自由を獲得した苦労人でした。農奴時代を経験した父パーヴェルはとても厳格な人で、子供たちをよく鞭でぶったそうです。チェーホフの兄アレクサンドルは回想録のなかで、自分たちが父親に冬の寒い時に家業の雑貨店の店番をさせられたことや、無理やりに聖歌隊に参加させられたと書いています。さらに父は破産して、夜逃げしてしまいます。チェーホフの少年時代は暗いものでした。少年チェーホフにはそのような悲惨な境遇を笑い飛ばすしかありませんでした。少年チェーホフは演劇に興味を持って、当時は大人しか見るのを許されていなかった芝居を見るため、劇場に潜り込んで、そこでボードヴィルを見たりしたそうです。こうしてチェーホフのなかに、抑圧を笑い飛ばす強さ・ユーモア感覚が培われていきます。それは当時のロシア帝政の圧政に苦しむ民衆の気持ちを代弁するものでもありました。チェーホフが本格的にシリアスな作品を書くようになったきっかけは、1886年に老作家ドミトーリー・グリゴローヴィッチから、「ユーモア短篇の量産は、君のせっかくの才能を浪費する」と忠告を受けたからでした。これ以後、チェーホフは文学的作品の創作に取り組むようになります。

初期のヴォードヴィルから晩年の「桜の園」までチェーホフは喜劇作家から本格的な劇作家へと成長を遂げたという見方も、もちろんあり得ます。しかし、チェーホフは最後の作品を「桜の園・4幕の喜劇」としており、その練習風景を見て「僕はボードヴィルを書いたつもりなのに・・」と不平を言ったくらいですから、チェーホフのなかのユーモア感覚が「桜の園」に何かの形で生きているということは考えてみて良いのではないでしょうか。「桜の園」のなかの喜劇的な要素を考えることは、とても大事なことなのです。

ここで「喜劇(コメディ)」的であるとは、一体どういうことかということが問題になってくると思います。演劇が喜劇的であるということは、ゲラゲラ笑える面白い芝居であるということなのか。あるいは、観念的に滑稽の要素を掘り下げていけば、そういう笑える芝居だけを喜劇と 呼ぶのではないという議論もあり得ます。しかし、それは兎も角、これまで吉之助が見た「桜の園」の舞台からは、「桜の園」の喜劇的イメージというのは、吉之助にもなかなか浮かんで来なかったというのも確かです。

そこで平成24年6月渋谷・パルコ劇場での「三谷版 桜の園」 のことですが、演出の三谷幸喜がチェーホフの「桜の園」から笑える要素を徹底的に穿り返してみようということで・一生懸命努力したかいがあって、チェーホフが「桜の園」を喜劇だとしたことの意味が、吉之助にもおぼろげに見えてきた気がします。ご存知の通り、三谷幸喜は現在第一線の日本の喜劇作家ですから、彼のセンスで「ここは絶対笑える場面だぞ、こう変えれば絶対笑える場面に出来るはず」と思える箇所を彼なりに書き替えてみる。これで、いままで悲劇調に読まれて来て観客に見えなかった「桜の園」の喜劇的要素が、ちょっと見えてきました。もうひとつ大事なのは観客のことです。(良い意味において)恐らく観客の多くが 三谷の芝居で笑って楽しもうという方々ですから、彼らは「三谷版 桜の園」のなかに笑える箇所を探してそこで笑おうとしているわけです。そういえば渋谷のパルコ劇場の近くに吉本ホールがあって、窓口にたくさん若者たちが並んでおりました。笑える芝居は笑って見れば、もっと楽しいのです。ここ面白いかも?多分ここは笑えるところかも?というところを見つけ出して笑うのは、笑劇の正しい見方なのかも知れません。だから、劇場の雰囲気がチェーホフが好きだったヴォードヴィルに少し近づいていたかも知れません。これは、吉之助にとって新鮮な発見でした。

「三谷版 桜の園」の台本は、岩波文庫の小野理子訳「桜の園」を下地にして・三谷が翻案したものだということですが、意外と原作に忠実なものです。原作の台詞を大きく逸脱して・三谷が勝手に面白おかしく書き替えたという感じがまったくしません。逆に、舞台を見ていて「ここは三谷が書き加えたな」と思った台詞でも、後で原作を読んでみると大意を残していて、大して変えたわけではない。翻案と云っても、そういう意味でとても良心的な翻案なのです。改めて原作を読み返して見て、なるほどボードヴィル感覚というのはこういう感じで出てくるのか、さすがに喜劇作家の三谷幸喜らしい読み方だと教えられるところが多かったのです。そこに三谷の・先輩のヴォードヴィル作家チェーホフへの尊敬の念が感じられます。(この稿つづく)

(H25・10・21)


5)「桜の園」の滑稽さ

第3幕では桜の園は競売に掛けられることになっており、ガーエフとロパーヒンが立会いに行っています。誰もがその結果を気にしているのですが、みんなその話題に触れたくないような感じです。やがて、ロパーヒンが戻って来ますが、彼は結果を語ろうとしません。遅れてガーエフが戻ってきます。その場面を小野理子訳で見ると、こうなっています。

ガーエフ登場。右手に買い物袋をぶらさげ、左手で涙を拭っている。
ラーネフスカヤ・「兄さん、どうだったの?ねえ!急き込んで、涙声で)お願いだから早く教えて・・・」
ガーエフ・「(彼女の問いには答えず、片手を振っただけで、フィールスに向かって泣きながら)取ってくれ。アンチョビーと、ケルチの塩漬け二シンだ。わしは今朝から何も食っとらん・・・、実に、つらかった・・・」

ここは三谷版では次のようになっていました。

「ただいま・・・」
「どうだったの、結果は、ねえ?」
「フィールス、アンチョビ買ってきた。」
「アンチョビなんてどうでもいいから・・・」
「あと美味そうな二シンも。」
「・・お兄様。」
「ボクは今朝から何も食ってないのだ・・」

三谷はラーネフスカヤ とガーエフの掛け合いを細かくしたくらいで、台詞の大意をそう変えたわけでもないのです。しかし、この場面で競売で桜の園は売れたのか?誰が買った?いくらで?ということをラーネフスカヤも観客も知りたいわけですから、ガーエフの返答はまったくズレている。何でここでアンチョビなんだということです。もちろんガーエフは放心状態で、そういうことを冷静に話せる心境ではない。競り落としたのはロパーヒンですから、多分競売の結果を話したくないくらいの気持ちでしょうが、兎に角ガーエフの返答はズレています。そこに笑いを取るきっかけがあるわけで、三谷がラーネフスカヤに「アンチョビなんてどうでもいいから・・・」 と言わせて、観客がそこのズレに気が付くように会話を仕掛けていくのは、さすがに巧い。なるほど、これがヴォードヴィル作家の手法なのです。

舞台を見た時には、この場面でさほど大きな笑い声が客席から響いたようではなかったようです。確かにここでのガーエフの心境は察せられるし、それが分かるから笑うのを躊躇するところはあると思います。しかし、観客はここでちょっとニヤッとはしたかも知れません。ここでのガーエフのズレは重要です。そのズレとは、ガーエフとラーネフスカヤの兄妹は危機がそこまで迫っていることを感じ取っていながら何もしようとしなかった、ただ浮かれ遊んで傍観者のまま見過ごした、だから・こういう事態になったということです。問題はこれを滑稽(=ル・コミック、喜劇的なもの)として感じ取れるかどうかということです。チェーホフは「僕はボードヴィルを書いたつもりだ」と言ったのだから、やはり「桜の園」には滑稽があるはずです。

『愛にこそ、古典喜劇の頂点が位置付けられます。愛はここにあるのです。愛はひとつの本質的に滑稽な(=コミックな・喜劇的な)原動力なのですが、たいへん奇妙なことに、(現代に生きる)我々は愛を窒息 させるあらゆる種類の仕切り、ロマン主義的な仕切りを通してしか、もはや愛を見ることがありません。愛という言葉をめぐって生み出されたロマン主義的な観点の変化によって、我々はもはや、愛をそれほど容易に考えることができなくなりました。(中略)「この高貴にして深遠なモリエール、私たちはいま笑ったけれども、本当は泣くべきだったのだ。」人々はもはや、滑稽なものが愛そのものの真正かつ胸をいっぱいにするような表現と両立し得るとは、ほとんど考えません。しかしながら、愛が告白され表明される最も真正な愛である時には、愛は滑稽なもの(=ル・コミック、喜劇的なもの)なのです。』(ジャック・ラカン:「無意識の形成物」・文章は吉之助が多少アレンジしました。)

ジャック・ラカン:無意識の形成物〈上〉

別稿「音楽的な歌舞伎の見方・その5:古典的な感覚」で触れましたが、例えば謡曲「弱法師」において、盲目の俊徳丸(実は高安長者の息子)が天王寺の境内にさまよう姿は、どこかしら不似合いで、何かが不釣合いである。これは俊徳丸が本来あるべき境遇ではないということです。これを滑稽であると取るのに抵抗がある方は多いと思いますが、そこにある原形質的なものだけを素直に感じ取るならば、そこに何か滑稽に相通じるものを感じ取ることができるはずです。父親である高安殿が登場し、乞食の我が身を恥じる俊徳丸を家に連れ帰ります。この時に観客が感じる「然り、これはそのようでなければならない」という安心感は、落ちぶれた姿の滑稽さから俊徳丸が最後に救われたところから来るのです。そこから静かな・しかし暖かい愛が感じられます。

ガーエフとラーネフスカヤの兄妹が置かれている状況は、彼らが本来そうありたいと願っていた状況とは全然違うものです。それは彼らのしてきた事の結果・努力してこなかった報いであるに違いないのですが、 それでも彼らにとってどこかしら不似合いで何かが不釣合いである。花は咲いても実をつけない桜の園はその不釣合いの象徴であり、だからそこで繰り広げられるドラマは滑稽であると見るべきなのです。だから「桜の園」は、チェーホフ流の花見です。 そこに「京鹿子娘道成寺」の聞いたか坊主の滑稽と相通じるものがあるのです。

「聞いたか聞いたか、聞いたぞ聞いたぞ、あの桜の園が競売に掛けられるということを聞いたか、あのラーネフスカヤが桜の園を売ってパリに行くと聞いたぞ」

みたいなものです。そうでなければ、チェーホフがスタニスラフスキーに「聞いてください。桜の園(ビィーシ二ェーヴィ・サート)じゃなくて、桜の園(ヴィシ二ョーヴィ・サート)です」と言って笑い崩れるなんてことはないはずです。あの聞いたか坊主の場面がどうして「娘道成寺」の冒頭に付いているのでしょうか。そういうことを考えて見る必要があります。

それでもなお、吉之助のなかにも「桜の園」を見てゲラゲラ笑えそうにないという気持ちが依然残っています。現に吉之助も「三谷版 桜の園」を楽しく見ましたが、ゲラゲラ笑って見たわけではないのです。でも恐らく「三谷版 桜の園」はそうやってゲラゲラ笑って見た方が、多分ちょっとお徳なのだと思います。いやゲラゲラ笑う必要は必ずしもないと思いますが、そこに滑稽があることを感じ取るセンスは必要です。ニヤッと笑うくらいはせねばならないかも知れません。(この稿つづく)

(H25・10・26)


6)「桜の園」の幕切れ

『私はかねてこの戯曲の結末を、恐ろしいものだと思っていた。春が来て屋敷の扉を開けたとき、人々はそこに半ば白骨化したフィールスの屍を見出すのだと想像したからである。しかし、今は少し違った風にも思えるのだ。あのオッチョコチョイのエピホードフが、留守居の全権をロパーヒンから委ねられた嬉しさに、あるいは冒頭で失敗したランデヴーをもう一度こころみるために、今日のうちにも鍵を開けて、入ってくるかも知れない。その含みを残すために、あの行き届いたチェーホフが、ドゥニャーシェについてだけ、わざとどんな身のふり方も示さずに、芝居の幕を降ろしたのかも知れない、と・・・・』(小野理子、岩波文庫「桜の園」訳者解説)

チェーホフ:桜の園 (岩波文庫)(小野理子訳)

小野氏が書いていることには吉之助もまったく同感でして、「桜の園」の幕切れ・フィールスが置き去りになれてムニャムニャ言いながら寝込む場面は、どう解釈して良いものか、いろいろと思い悩むところです。誰か忘れ物を捜しに来て偶然フィールスを見つけて、「やあ冗談冗談、心配させて悪かったねえ」とフィールスを連れて行くみたいな幕切れに出来ないものかといつも思っていました。翌春に、屋敷のなかにフィールスの白骨死体が見付かるのかと思うと、ちょっと後味が悪い。だけど、「桜の園」の幕切れはどれもそんな感じで、今回の三谷版もその点では変わりません。こういうところこそ、三谷のセンスで思い切って軽いコメディ・タッチに書き替えてくれれば良かったのだけどね。

吉之助はチェーホフが書いた幕切れが悪いと言っているのではなく、この幕切れの演出にもうちょっと別の工夫がないかということを思うのです。吉之助が想像するのは、芝居であるとどういう風に処理するのか難しいところですが、R.シュトラウスの楽劇「バラの騎士」幕切れのような感じで、台詞なしのパントマイム風にすれば良いかなあと思っているのです。(そうすればチェーホフの台本を損なわない。)「バラの騎士」では主人公たちが退場し誰もいなくなった居酒屋の店内、可愛い黒人小姓が現れて落としたハンカチを見つけて駆け去ると幕が下ります。これは若いオクタヴィアンとゾフィーのカップルが甘いムードに浸って退場した後の場面で、台本作者ホフマンスタールの意図は恐らく「・・・でもね、これから先ふたりがどうなっていくか、幸せになるか・そうでないか、それは誰にも分からないよ」というウイットをちょっと効かせたところです。

「桜の園」の幕切れも、エピホードフが窓の隙間から寝込んでいるフィールスを見つけて、「やあこんなところで見つけたぞ」という感じで笑いながら連れて行く、やれやれここで死ぬかと思ったフィールスが助かって良かった良かったと観客はひと安心、それが黙劇風にユーモラスに進行する、そのような感じで処理できないものでしょうかね。そうすると、満開の桜の下の大騒ぎの余韻が、観客の心のなかにスーッと沁み込んで行くような気がするのですが。

(H25・11・10)


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