音楽的な歌舞伎の見方 第1部
プロローグ:概念は鑑賞の邪魔となる
本稿は「音楽的な歌舞伎の見方」というタイトルですが、当初は「演劇的な歌舞伎の見方」とするつもりでした。しかし、より定義を研ぎ澄ます為に、タイトルを「音楽的な・・」としたのです。実は吉之助のなかでは、演劇的というのと音楽的というのに、大した違いはないのです。ほぼ同じように考えています。音楽も演劇もどちらも時間という座標軸において捉えられるパフォーマンス芸術であるからです。吉之助が歌舞伎と音楽をほぼ同等に扱うのも、恐らくそのせいです。吉之助が「音楽的な歌舞伎の見方」によって定義するところは、言葉によって引き出される概念に左右されることなく・時間的な座標軸に沿って刻々と変化していく登場人物の心情変化を読むということです。このような態度がパフォーマンス芸術・特に古典を見る場合にはとても大事になるということを申し上げます。小林秀雄は小中学生に 向けて芸術鑑賞の心得を説いた文章のなかで次のようなことを言っています。
『言葉は目の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花が咲いているのを見たとする。見ると、それはスミレの花だと分かる。「何だ、スミレの花か」と思った瞬間に、諸君は花の形も色も見るのをやめるでしょう。スミレの花だと分かるということは、花の姿や色の美しい感じも、言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じを、そのまま持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君にかつて見たこともなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は皆そういう風に花を見ているのです。美しいものは諸君を黙らせます。美には人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が分かるということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。』(小林秀雄:美を求める心・1957年)
時間という座標軸を持たない芸術としては絵画・彫刻というジャンルがありますが、凍結した時間のなかに美を凝縮したような絵画であっても、小林秀雄が指摘する通り、「何だ、スミレの花の絵か」と思った瞬間に、花の美しさは「スミレの花」という概念に置き換わってしまって、それで何だか絵が分かったような気になってしまう。そういう苦い失敗が誰にもあるものです。この絵の題材は何を意味している、この絵の構図はどうか、この絵の色使いはここが面白い。そのような解説を聞いて絵が分かったような気になってしまうのです。そのような分析ももちろんそれなりに役に立つのですが、こうした分析を真の意味で役に立てるためには順番が大事なのです。まずは「花の美しさ」の本質をじっくりと味わう・その後でのことです。大事なのは、イエスが野の花を指差して「栄耀栄華を誇ったソロモンでさえ、この一輪の野の花ほどにも着飾ってはいなかった」と語ったような・謙虚なその花の美しさを感じることです。そのように美を見るのでなければ、概念は却って鑑賞の邪魔になるものです。そうでなければ、それは絵を言葉に置き換えて読もうとする行為になってしまうのです。
小林秀雄は気に入った絵画の前で、黙ってじっと立ち尽くしたまま長時間動かないということがよくあったそうです。「美の前では人は沈黙せざるを得ない」と言いながら、不幸にして小林秀雄は批評家という・言葉によってその感動を語らなければならぬ仕事でありました。ですから、批評という行為の不毛・虚しさということを小林秀雄は知り過ぎるほど知っていたのです。吉之助も批評をやる端くれとして、そのことを重々肝に銘じています。それでも書かねばならぬから書いているわけです。
時間という座標軸を持つ芸術としては、音楽あるいは舞踊・演劇などが考えられます。そのなかでは、歌唱を伴わない純器楽が、言葉を介在しないという点において、ピュアな意味でのパフォーマンス芸術と言うことが言えましょう。吉之助が「音楽的な・・の見方」という時には、純器楽を想定しているわけです。しかし、言葉を介在させない純器楽の場合であっても、概念が鑑賞の邪魔になる場合があります。例えばソナタ形式において、第1主題は男性的で元気良く(したがって若干テンポをキビキビと速めに取り)、第2主題は女性的で優美(テンポを遅くしてゆったりと歌う)というような 定型のイメージです。このイメージがロマン派において強くなります。グレン・グールドはこれが嫌いで、どちらの主題も同じ調子で押し通そうとしたりしました。つまり、第1主題と第2主題を等価に置こうと試みたわけです。グールドのこの気持ちは吉之助にはよく分かります。実は音楽を構造面から分析していくことはしばしば発見があることなのですが、しかし、そのような分析もまた音楽の美の本質を知った後でないのならば、邪魔にしかなりません。それでは音楽を言葉に置き換えて読もうとする行為となってしまうのです。
演劇には台詞がありますから、言葉が介在するパフォーマンス芸術です。また文学はパフォーマンス芸術とは言えませんが、文学は文字というものを使い・読み手が文章を前から後へ筋を読み進めて行きますから、文学にも時間的座標がやはりあるのです。ただし、文学では読み手は文章が分かりにくければその箇所を何度も読み直しできますし、頁をめくって場面を行ったり来たりも自由に出来ます。そうする権利が読み手にはあります。演劇もビデオの場合には確かに同じ様なことが出来ますが、一応実演が原則になるパフォーマンス芸術においては、その瞬間は通り過ぎれば再び訪れません。「あれっ、主人公はさっき何と言ったっけ、何をやったっけ」と思っても、その瞬間はもう再び来ない。演劇は時間的座標に拘束された芸術なのです。しかも、ここが大事な点なのですが、ストーリーの起伏があって、例えば悲しい泣ける場面があって・その後に歓喜の場面があるとすると、先ほどの音楽の第1主題と第2主題のような問題が必ず出てくるわけです。しかも、そこに言葉というものが介在しますから、音楽よりも・ああだこうだと様々な解釈がし易いわけです。逆に言えば、だから演劇を言葉(概念)に置き換えて読もうとする行為が罷り通り勝ちとなるわけです。実はそこが落し穴なのです。
「演劇は言葉の芸術だから言葉(概念)で読むのは当たり前」と仰る方は、小林秀雄の言うことが全然分からないと思います。小林秀雄が演劇を語らなかったわけではないですが、絵画への言及と比べれば演劇へのそれが遥かに少なかったのは、その辺の煩わしさがあったからだろうと思います。演劇から言葉によって引き出される概念を剥ぎ取って・純粋な演劇の美の本質を引き出すことは 面倒だと思ったに違いないのです。絵画・骨董は黙って静かに美そのものを提示してくれますから高尚だとも言えます。演劇というのは、その点では下世話な芸術なのです。
しかし、演劇から概念を剥ぎ取ることが出来ないわけではありません。演劇を感情で見れば良いのです。吉之助は歌舞伎を「かぶき的心情」で読むということを常々申し上げているのは、このことです。感情・心情というものは、実は人の心のなかで絶えず変化するものです。生きている限り、一定することがありません。それは時間的座標を持っているのです。その心情は、怒りであったり・嘆きであったり・喜びの感情であったりします。それぞれの背景を以って・湧き上がり・燃え上がり、あるいは爆発し、沈静し・癒されたりもするのですが、それらは常に時間的座標に於いて捉えられます。演劇を純粋に心情において見るならば、演劇から概念を剥ぎ取ることが可能になるかも知れません。例えば芝居を見てオイオイ泣いているお婆さんがいます。吉之助は批評家ですから・そこに留まってはいられませんが、ホントはこういう素直な見方が演劇鑑賞の出発点なのです。
吉之助が当初の「演劇的な歌舞伎の見方」というタイトルを「音楽的な・・」に変えた意図はそこにあります。言葉が介在するパフォーマンス芸術から概念を剥ぎ取って、そのピュアな心情を素直に読む。このことを「音楽的な歌舞伎の見方」というタイトルに込めています。以下そのようにお読みいただきたいと思います。(この稿つづく)
(H23・8・28)
1)音楽から感じ取る
「我思う・故に我あり」というのはデカルトの言葉です。それ以後・西欧に自我の概念が発達したとされていることはご存知の通りです。それでは自我の概念の誕生のはるか以前、例えばソクラテスは自我というものの存在を 、自我という言葉ではないにしても・別の何かの形で認識していたのでしょうか。精神分析のジャック・ラカンは、1954年のセミネールでこのことに触れています。
『言語の起源というものを考えてみてください。我々は、この地上で人が話し始めた時点があったに違いないと想像します。つまり我々はある出現があったと仮定するのです。ところが、いったんこの出現がそれ固有の構造においてとらえられると、それ以前のものについても、象徴を用いずには考えることすら絶対に不可能になります。この象徴はずっと適用可能なものだったはずですから、新たに現れたものは、永遠に、際限なく、それが出現した以前にも、つねにそういうものとして広がっていたように思えてしまうのです。思考によって新しい次元を消し去ることはできないのです。このことは、世界の起源を含め、どんなものについても当てはまります。(中略)ですから、ソクラテスとその対話者たちは、我々のように、自我というこの中心的機能について暗々裡に何らかの概念を持っていたはずである、つまり、彼らにおいても自我が何らかの機能を果たしていたはずであると我々は考えてしまいます。(中略)しかし、そうでしょうか。これは少なくとも立てるに値する問いです。こう問うてみれば、発生期の状態での自我の概念をとらせさせてくれるような、ある時点が本当にないのかということを仔細に見てみようという気になります。』(ジャック・ラカン:「フロイト理論と精神分析技法における自我」)
ジャック・ラカン:フロイト理論と精神分析技法における自我 (上)(岩波書店)
ラカンの言うことは、ある概念が新しく生まれた時から・それ以後の人々はその概念を用いずに考えることがとても難しくなるということです。芸術についても同じことが言えます。特に言葉を使用するジャンル(例えば文学・お芝居がそうですが)は、言葉や概念の影響を強く受けやすいものです。絵画や音楽の場合は、普通は言葉を使いませんが、その内容がストーリー性を帯びている場合にはやはり概念によって左右されます。それを受け取る側(鑑賞者)は自分が持っている概念で対象を推し量ろうとしますから、そのような概念がなかった時代の事象であっても・これは「そのようにある べきもの」という風な解釈をしてしまい勝ちです。だから時代によって作品の解釈がどんどん変わっていきます。それは言葉(概念)というものが、媒体として作品と鑑賞者の間に介在するからです。しかし、それが悪いとか間違っているということではありません。芸術を楽しむのは人それぞれのことでルール作法などあるわけではないのですから、どう楽しもうとご自由なことです。しかし、もし可能であるならば、その概念が誕生する以前の昔の人々はどんなことを感じていたのかを、頭のなかを白紙にして想像してみることは、ちょっと価値があるし・面白いことではないで しょうかね。
20世紀の最も偉大な指揮者のひとりであるヘルベルト・フォン・カラヤンは優れたオペラ指揮者でしたが、また同時にオペラ演出をよくしました。1974年にチェスターマンとの対談のなかで、オペラにおける指揮と演出の両立について問われて、カラヤンは次のように答えています。
『わたしの感じるところでは、そのふたつ(指揮と演出)は、まったく正反対ということはないのです。それらは、ひとつのまとまりなのです。ワーグナーがいつも言っていたように「すべてのものを作り出すことができるのは指揮者だけなのです」。(中略)演出家は音楽から何も理解できないのです。たぶん、彼はスコアは知っているのでしょう。しかし、指揮をしていると、どこで主題が展開するか知らなければなりません。緊張は音楽によってもたらされるのであって、動作によって支えられるものではないのです。説明することさえできれば、説明された人間は頭で理解された動きを加えることができるものですが、テクニカルな動作の説明では大事なものは伝えられないために、内容を欠いた空虚なものになってしまうのです。重要なものは、舞台の象徴性によってこそ伝えられるのです。(中略)50年もオペラを指揮していれば、内的な関連性や構造の知識を得るように なるものです。それは一般の演出家には閉ざされている世界です。音楽的な観点から生き生きした表現を感じさえすればいいのです。(中略)もっとも大きな間違いは、演劇界出身の演出家を連れてきて、オペラをやらせることです。彼らはオペラの規則を知らないのですから、演劇俳優の規則を「愛している」というフレーズが50秒も続くかも知れないオペラに当てはめると、何もできなくなるのです。すべてのことが、オーケストラで奏でられる旋律で始まり、その後に、歌手によるフレーズが小さなクライマックスを導き、そして、再び、異なった音楽が続く、ということを知らなければならないのです。』(ロバート・チェスターマン:「マエストロたちとの対話」)
ロバート・チェスタートン:マエストロたちとの対話(白水社)
カラヤンが言っていることは、ドラマの象徴性を音楽から感じ取るということです。音楽から「読み取る」のではなく、「感じ取る」です。オペラはもちろん音楽ですが、歌詞とストーリーを持っており・演劇のジャンルにもまたがっており、その解釈は言葉と概念の影響を非常に強く受けます。したがってオペラの作品解釈は時代の変遷につれて非常に大きく変わってきました。1970年代頃から演劇界出身でオペラ演出を行なう人が多くなってきました 。この流れを決定づけたのは、1976年から80年にバイロイトで「リング」演出を手掛けたパトリス・シェローです。現在はそのようなオペラ解釈主義が全盛の時代にあります。カラヤンはこのような流れを危惧していました。それが上記の発言の背景にある のですが、カラヤンの主張は「スコア(音楽)にすべてが書かれており・演出は音楽が教えるところに従わなければならない」ということです。(この稿つづく)
(H23・9・1)
2)音楽から感じ取る(続)
カラヤンのオペラ演出は遺された映像(DVD)でそのいくつかが確認できますが、今風の解釈主義演出を支持する向きからは保守的に過ぎて面白みに欠けると評されることが多いようです。別の言葉で言うと、音楽を大事にして・音楽を決して邪魔しない演出ということです。1983年ザルツブルクで吉之助はカラヤン指揮・演出の楽劇「薔薇の騎士」(R.シュトラウス)を見ました。これが吉之助が生(なま)で見た「薔薇の騎士」の最初の舞台でした。(注:カラヤンの「薔薇の騎士」というのは極め付け中の極め付け。歌右衛門の「娘道成寺」みたいなものなのです。)そのカラヤン演出で・第3幕の伯爵夫人(マルシャリン)とファ二ナルが退場する場面を見 た時に、吉之助がふと思ったことがあります。
ファ二ナル(ゾフィーの父親)が、若いオクタヴィアンとゾフィーの様子を見て「若い者はいつでもこんなものなのですかね」と言うと、伯爵夫人は「そうですわね」と返して、そしてふたりは居酒屋を出て行きます。この場面はそのすぐ後、オクタヴィアンとゾフィーのカップルが手を取り合って退場するのと対照されているということです。ということは、伯爵夫人とファ二ナルは一緒に退場した方が演出的に良いのじゃないかということをふと考えたわけです。すなわち過ぎ去った歳月を懐かしく思いやる年輩の世代(伯爵夫人とファ二ナル)と、これからの未来にバラ色の夢を見る若い世代(オクタヴィアンとゾフィー)と の対照ということです。もちろん伯爵夫人とファ二ナルは身分が違いますから・ふたり手を取り合って退場というわけに行きませんが、一緒に居酒屋を出ればその対比が印象付けられるのではないかということでした。カラヤン演出では伯爵夫人はファ二ナルと並んで歩き出しますが、彼女は廊下の手前で立ち止まり、ファ二ナルは先に行ってしまいます。オクタヴィアンが伯爵夫人の手を取ってキスをします。伯爵夫人は後ろ向きのままオクタヴィアンの方を振り返らず、そして去っていきます。
「薔薇の騎士」の幕切れ演出を色々調べていくと、舞台装置がそれぞれ異なるので単純な比較はできませんが、伯爵夫人とファ二ナルが一緒に退場する演出も確かに存在します。しかし、多くの演出ではファ二ナルが先に行き・伯爵夫人は立ち止まって・オクタヴィアンと一瞬の別れを交わすという形になっているようです。カラヤン演出の場合もそうです。ただし、1983年ザルツブルクの映像を確認すると、先に行ったファ二ナルは舞台奥にある戸口のところで伯爵夫人が来るのを待っていて、伯爵夫人が来るとドアを開けて・伯爵夫人を通してから・ファ二ナルは続いて居酒屋を出ています。舞台の奥が暗かったので、二階席から見ていた吉之助は伯爵夫人がひとりで居酒屋を出たように 間違って記憶していましたが、これは確かに作法としてそうあるべきことです。カラヤンはとても入念に細かい段取りを付けていたわけです。
*Youtubeの映像で、吉之助が見たのと同じ1983年ザルツブルク音楽祭でのカラヤン演出・「薔薇の騎士」幕切れをご覧ください。伯爵夫人とファ二ナルの退場は3分50秒辺りから。オクタヴィアンとゾフィーの退場は7分辺り。ホフマンスタール(台本)らしい何とも小粋な幕切れ。伯爵夫人はアンナ・トモア・シントウ。
吉之助の思い出話をいたしました。「薔薇の騎士」のなかには過ぎ去った歳月を懐かしく思いやる年輩の世代と未来にバラ色の夢を見る若い世代という対照性が確かにあります。そういう見方はもちろん間違いではないのですが、筋のなかの・そのような対立構図を強く読み過ぎると、音楽的にはちょっと違った理解になるということです。男性的で元気良い第1主題・女性的で優美な第2主題という定型的理解と同じことです。これは30年前のことですが、吉之助もまだまだ音楽の聴き方が青かったということですかねえ。
R.シュトラウスの音楽をじっくりと聴いてみれば、伯爵夫人の去っていく自分に対するいとおしい思いがより強く感じられると思います。映像の3分50秒辺りから4分50秒辺りまでをよく聴いていただきたいのですが、管弦楽は伯爵夫人の為にぐっと盛り上がることは決してないのです。ここでオクタヴィアンが伯爵夫人の手にキスし・伯爵夫人の心のなかに惜別の情が湧き上がるというようなきっかけを音楽は全然示してはいません。音楽の盛り上がりは若いオクタヴィアンとゾフィーの為に取って置かれます。オクタヴィアンはもう若いソフィーのことしか考えていない。伯爵夫人のこと などもう関係ない。その時に音楽は初めて盛り上がるのです。(映像4分49秒)逆に言えば、それゆえにここで退場する伯爵夫人の哀しみが強く出るのです。このようなことは音楽の流れを感じ取らなければ決して分かりません。「薔薇の騎士」は1910年の作品ですが、このことはR.シュトラウス晩年の「メタモルフォーゼン」(1945年)・「四つの最後の歌」(1948年)に向けて線を引いてみれば見えてきます。題材を超えたR.シュトラウスの生涯を掛けた普遍的なテーマがはっきりと浮かんで来るのです。それは失われてしまった日々への惜別ということですが、西欧の黄昏ということにも重なってきます。
「薔薇の騎士」は崩壊してしまった18世紀貴族社会への憧れを感傷的に歌っているとして、実は欧米でも「遅れて来た退廃ブルジョワ・オペラ」という批判がかなりある作品です。その見方に一理ないわけではありません。作品を批判的に読もうとするならば、過ぎ去った歳月を懐かしく思いやる年輩の世代と未来にバラ色の夢を見る若い世代という対立構図を、階級闘争理論的に読み込んでいくことも十分に可能なことだと思います。実際近年の「薔薇の騎士」演出はそのような視点のものが多いですし、そうならざるを得ないのです。それは現代がそういう時代だからです。しかし、「薔薇の騎士」を素直に音楽的に感じ取るならば、R.シュトラウスの意図はそのような階級的なところには全然なくて、取り残された伯爵夫人個人の哀しさみたいなものが切々と立ち上がってくるのです。この主題はもしかしたら1910年時点での46歳の若きR.シュトラウス自身にも明確に意識されていなかったものかも知れません。しかし、R.シュトラウスの作品を通覧してみれば、彼の音楽の生涯における主題は「薔薇の騎士」のなかに既に先取りされていたことが明確に分かるのです。1983年当時・79歳のカラヤンが、このことをはっきりと教えてくれたのです。(この稿つづく)
(H23・9・4)
3)音楽的なドラマの読み方
1960年代に一世を風靡した東映やくざ映画のキャッチフレーズに「義理と人情をはかりにかけりゃ、義理が重たいやくざの世界」というのがあったのをご存知ですか。吉之助はやくざ映画ブームに間に合わなかった世代ですが、当時は観客はみんな鶴田浩二や高倉健の顔になって映画館から出て来ると言われたものでした。ところでこのキャッチフレーズについて映画評論家の佐藤忠男先生は、「義理と人情をはかりにかけりゃ、義理が重たい・・」という論理はホントに正しいのか?と疑問を呈しています。
『「義理と人情をはかりにかける」というとき、このキャッチフレーズの作者は、ほとんど自明のことのように、「義理人情」という言葉を「義理」と「人情」という二つの言葉にわけ、これを対立する概念とみなしている。そして、おそらくは、「義理」という言葉に「公」という観念を当てはめ、「人情」という言葉に「私」という観念をあてはめ、「義理人情 」とは公私の対立のことであるという解釈をくだしている。そして当然のことのように、「公」は「私」にまさる、という結論をだしている。(中略)「義理人情」とは、「義理」と「人情」という二つの言葉を対比したものではなく、つづけてひとつの言葉なのではないか。それでなければなぜ、日本人は古来、これをいつもひとつながりの言葉 として使ってきたのか。義理とは、相手に対する負い目である。義理人情とは、相手に対する負い目を正しく意識することこそが人間の自然の情であり、モラルの源泉である、という意味であると私は思う。』(佐藤忠男:「長谷川伸論〜義理人情とはなにか」・岩波現代文庫)
佐藤忠男:長谷川伸論―義理人情とはなにか (岩波現代文庫)
佐藤先生が指摘する通り、社会学などで教えられる一般的概念としては、義理というものは世間・社会が個人に強制するところの柵(しがらみ)とか縛りであって、その対極にそれに対立するところの個人の真実・本音があるという構図です。例えば「寺子屋」では松王は我が子小太郎を身替わりに差し出しますが、その行為は主人菅丞相に対する義理が為せるものであって、親としての本音は我が子を殺したくないという人情にあるとするのです。しかし、「義理と人情をはかりにかけりゃ、義理が重たい・・」という論理によって、世間から強制されるが如きに松王は我が子を身替わりに差し出す、これが松王の悲劇であるとされるわけです。歌舞伎の評論でよく見られる解釈は大体そんなところでしょうかね。
一方、「相手に対する負い目を正しく意識することが人間の自然の情であり・モラルの源泉である」という佐藤先生の義理人情論を借りれば、「寺子屋」は次のように読めると思います。松王は主人菅丞相のことを考え、丞相の為に自分が何もできないことの負い目にずっと自分を責め続けていたのです。松王にできることといえば、菅秀才(丞相の息子)の身替わりに我が子を差し出すことくらいしかなかったのです。しかし、我が子を殺すことなど親として到底できないことです。我が子を守れば主人に不忠となり、主人に忠たろうとすれば我が子に死を迫ることになってしまうのです。相克のなかで松王は苦しみますが、松王は結局 身替わりを行ないます。「寺子屋」後半・いろは送りにおいて、松王は改めて自分の行為の重さを思います。また、これは我が子を立派に成人させるという親としての責務を全うできなかったということですから、松王は我が子(というより小太郎という個人でありましょうか)に対して新たな負い目を背負うことにもなるわけです。そのどちらの心情にも松王のモラルがあり、どちらにも松王の真実があると見るべきなのです。だから義理と人情は表裏一体のものであり、自分のなかの真実を思えば義理が身に沁み、同時に人情が身に沁みる、そういうものなのです。 それは義理も人情もどちらもモラルに根差しているからです。もうお分かりのことと思いますが、これは「歌舞伎素人講釈」においてずっと論じてきたことと、そっくり同じ なのです。(本サイトの一連の「寺子屋」論考をご参照ください。)つまり、言い回しは多少異なるけれども、佐藤先生の仰ることは、そのままかぶき的心情の論理だということです。
蛇足になりますが・付け加えますと、菅丞相への思いと・我が子への思いの板ばさみのなかで苦しむ松王が、結局、我が子を身替わりにするのは、我が子よりも菅丞相の方が大事であると考えたということではないのです。松王が我が子を取っても・菅丞相を取っても、芝居の筋はその選択次第で如何ようにも展開できるのです。選択それ自体にドラマがあるのではありません。選択に至る経過のなかにドラマがあるのです。
このように心情でドラマを読む手法を、佐藤先生はどのようにして身に付けられたのでしょうか。そのことは明らかです。佐藤先生は映画をご覧になる時に、登場人物の心理の微妙な変化を時間軸に沿って心情で感じ取っているからです。映画を「音楽的に」見ているということです。長い映画評論活動のなかで、佐藤先生はこのような手法を自然に身に付けられたのでしょう。吉之助の場合は、もちろんクラシック音楽からです。
主人公はどうしてこんなことを言うのか、どうしてこんな行動を取るのか。そのようなことはすべて「経過」に拠るのです。ご注意いただきたいですが、原因に拠るのではありません。行動を原因と結果という関係のなかで考えるから、そこに概念が入り込んでくるのです。行動を経過のなかで捉えるならば、そこにフワフワとして明確な形を取らない心情というものだけが感じ 取れます。映画でも歌舞伎でも、第三者から見ればそんなことをしたら自分が損なだけじゃないかと呆れるような行為が個人の必然の行為としてドラマに頻繁に出来て来ます。こういうことは心情で読まなければ分からないのです。もう一度、カラヤンの言葉を思い出してください。
『彼ら(演劇出身の演出家)はオペラの規則を知らないのですから、演劇俳優の規則を「愛している」というフレーズが50秒も続くかも知れないオペラに当てはめると、何もできなくなるのです。すべてのことが、オーケストラで奏でられる旋律で始まり、その後に、歌手によるフレーズが小さなクライマックスを導き、そして、再び、異なった音楽が続く、ということを知らなければならないのです。』(ロバート・チェスターマン:「マエストロたちとの対話」)
実は演劇にも音楽的な流れがあるのです。ですが、演劇の場合は台詞・つまり言葉があり、それが解釈の非常に大事な材料となって来ます。実はそこが落し穴なのでして、言葉が概念を導き・人はどうしてもそれを取っ掛かりにドラマを読もうとしてしまい勝ちです。もちろんそういう手法もあるにはあるのです。そこから新たな問題提起もあり得ます。現代はそのような手法が全盛の時代です。演出家は常に新たな切り口を提供して自己主張をせねばなりません。それは、つまり、ラカンが指摘する通り「いったん言葉の出現がそれ固有の構造においてとらえられると、それ以前のものについても、象徴を用いずには考えることすら不可能になる」という時代に縛られていると言うことでもあります。だから、芸術の世界に時代に拘束されない普遍的な見方がもしあるのならば、それは概念から解き放たれたものであるに違いありません。しかし、演劇にも音楽的な時間が確かにあります。ドラマの時間というのは時計の針のように進むわけではないのです。演劇的時間は音楽のように進んでいきます。或る状況が登場人物の心情を導き出し、それが状況に変化を与え、新たな心情を引き出すのです。ある旋律が次なる旋律を導くように。演劇もまた音楽的な流れでドラマを読みたいものだと思います。(この稿つづく)
(H23・9・11)
芝居を観る時には登場人物(主として主人公ということになりますが)の言動・行動に共感できるかということが、大事なポイントになるでしょう。ある時に主人公が、突拍子もない・傍目からみれば勝ち目のない行動に突っ走るということがあります。そんなことをしたら自分が損なだけじゃないの・・と言いたくなるような行為です。主人公の行動が理解し難い時・その行動に共感がしにくいと感じる時には、主人公の心理の過程を時系列で追って、どういう過程を経れば彼はその行為への感情を必然にまで高められるか、どういう過程ならば自分は主人公に共感できるようになると思うか、その過程を何度もなぞってみることです。これが吉之助の言う音楽的な芝居の見方です。
ところでグレン・グールドはショパンの音楽について奇態指数(quirk quotient)が高い」ということを言っています。奇態指数というのはグールドの造語で、予測がつかない転調・休止・アクセントなどのことを指しています。(これについては別稿「音楽ノート:ショパン/バラード第4番」を参照ください。)旋律というのはある種の流れですから、その流れに乗っていると「ここで音が上がるね・ここで止まるね・ここで繰り返すね」という感じで何となく 先の展開が読めることがあります。形式に準じたところの古典派音楽の場合であるとそういう趣があるということはお分かりだと思います。それは旋律の出来が良いとか悪いとかということではなく、旋律は論理性を持つということです。旋律がある種の論理性を持つということは、原因と結果という関係のなかでイメージしても良かろうと思います。芝居で言えば、主人公はこういう背景があるからこの状況下においてああ した行動を取るということです。それが論理的な経過によって説明できるということです。こういう論理的関係は音楽よりも芝居の方がはるかに解析が容易です。言葉(台詞)がヒントを与えてくれるからです。
しかし、ショパンの場合は時折り旋律が聴き手の予想を覆す驚くべき展開をすることがあります。これがつまりグールドの言うところの「ショパンは奇態指数が高い」ということです。しかし、予測がつかない転調・休止・アクセント にも、実は予兆があるのです。考えれば当たり前のことですが、理由もなしにショパンの想念のなかに突然浮かんでくるわけではないのです。ただし、それはよく耳を澄ませないと聞こえません。しかし、あっと驚く転調の後で、もう一回その前後を注意深く聴き直してしてみれば、「ここが起点であったか」と思われる箇所が必ずあるものです。ある特定の一見さりげない音符が重要な意味を持つということがショパンの場合には特に多いようです。吉之助の感じるには、それらは半音階あるいは不協和音であることが多い。優れたピアニストはこのポイントになる箇所をとても慎重に・しかし大胆に扱うものです。
もうひとつ・これは大事な点ですが、ショパンの場合にはその起点に至る以前に、旋律が盛り上がり沈静し・また盛り上がり沈静するという繰り返しがあることです。つまり絶えず旋律に微弱な圧力が掛かって・振動しているのです。例えばバラード第4番などは冒頭部から揺れています 。そして、突然堰が切れたように旋律に破綻がくるのです。古典的な論理に沿って次の展開を予測しているとアッと驚くことになりますが、もちろんショパンのなかに内的必然があって・その破綻が出て来るのです。しかし、ショパンの内的必然は論理的関係からでは読めません。「いつかどこかで破綻が起こる」ということは論理的関係として分析できても、この箇所で破綻がくるということが予測できないのです。これでは音楽が読めていることに全然なりません。だから過程を時系列で追って、どういう過程を経れば内的必然にまで高められるか、ここで耐え切れなくなって堰が切れるというポイントを何度もなぞって探り出す必要があります。ショパンの内的必然を過程のなかで感じ取らねばならないということです。
このような音楽の読み方は、演劇を観る場合においても、とても有効です。歌舞伎という演劇はかぶき的心情に根差すドラマで、グールド的に言うならばとても奇態指数が高い演劇だからです。主人公の行動・言動を、論理的関係だけで読み解くのが難しいということです。別稿「歌舞伎とオペラ」でも触れた通り、歌舞伎は西欧音楽で言えば19世紀グランド・オペラに比されるべきものですが、ショパンはこの時代のピアノ分野におけるロマン派音楽の最も重要な存在であることは言うまでもありません。主人公が突拍子もない・傍目からみれば勝ち目のない行動に突っ走る・・ドラマがそのような奇態指数が高い展開を示す時には、主人公の心理の過程を時系列で追って、どういう過程を経れば彼はその行為への感情を必然にまで高められるか、その過程を何度もなぞってみる、演劇においてそのような音楽的な読み方が必要になってきます。(この稿つづく)
(H23・9・26)
『愛にこそ、古典喜劇の頂点が位置付けられます。愛はここにあるのです。愛はひとつの本質的に滑稽な(=コミックな・喜劇的な)原動力なのですが、たいへん奇妙なことに、(現代に生きる)我々は愛を窒息させるあらゆる種類の仕切り、ロマン主義的な仕切りを通してしか、もはや愛を見ることがありません。愛という言葉をめぐって生み出されたロマン主義的な観点の変化によって、我々はもはや、愛をそれほど容易に考えることができなくなりました。(中略)「この高貴にして深遠なモリエール、私たちはいま笑ったけれども、本当は泣くべきだったのだ。」人々はもはや、滑稽なものが愛そのものの真正かつ胸をいっぱいにするような表現と両立し得るとは、ほとんど考えません。しかしながら、愛が告白され表明される最も真正な愛である時には、愛は滑稽なもの(=ル・コミック、喜劇的なもの)なのです。』(ジャック・ラカン:「無意識の形成物」・文章は吉之助が多少アレンジしました。)
ジャック・ラカン:無意識の形成物〈上〉
ラカンはこの講義ではモリエールの喜劇について語っていますから、「古典喜劇における真正な愛は滑稽なものである」と言っています。正確には「古典演劇における真正な愛は滑稽なものである」なのです。ラカンの言をそのようにお読みください。古典演劇の場合、滑稽ということは必ずしもおかしくて笑ってしまうようなことだけを意味しません。古典的なるものにおける滑稽ということは、どこかしら不似合いである・何かが不釣合いであるという状態のことを言います。それが根底においてどこかおかしい=笑ってしまうような感覚に繫がるのです。これが古典演劇における滑稽なのです。
例えばホメーロスの叙事詩「オデュセイア」の最終場面を見てみます。ホメーロスの叙事詩は今では文字によって記録された文学ですが、当時は語られることによって代々伝えられた演劇的な要素を持つ芸能であったことを思い出してください。10年に渡るトロイ戦争とその後の長い流浪の果てに英雄オデュセウスが故郷であるイタケに戻ってきます。故郷では彼は既に死んだものと思われており、彼の妻ペネローペィアは財産目当ての求婚者に悩まされていました。ペネローペィアは時間を引き延ばしていましたが、断り切れなくなったペネローペィアは、宴の最中に、夫の強弓を持ち出し、それを引くことが出来た者と結婚すると告げます。しかし、それを引ける者はいません。そこに乞食姿のオデュッセウスが現れて、その弓を持ち、やすやすと引いて、無法な求婚者たちを次々に打ち倒しました。こうしてオデュッセウスは、再びイタケの王としてペネローペィアと共に一生を過ごしました。
この場合、英雄オデュセウスが彼に本来ふさわしい輝かしい姿で登場するのではなく、まったく正反対のみずぼらしい乞食姿で登場することが滑稽なのです。彼が本来あるべき姿を取り戻すために真正な愛が必要です。だから愛を 成就させるための筋の段取りとして先に滑稽があるように思えるかも知れませんが・実はそうではなく、むしろ滑稽が愛の本質と一体化しているのが古典演劇の様式であると考えるべきなのです。(別稿「和事芸の起源」において誣(し)い物語であることの言い訳(逃げ)は滑稽味・諧謔味という形をとることが多いということに触れましたが、これも同様です。)
19世紀の舞台女優であったエレオノーラ・ドゥーゼは、親しくしていた脚本家アリゴ・ボイートから後にヴェルディによって作曲されることになる歌劇「ファルスタッフ」の台本(原作はもちろんシェークスピアの喜劇)の原稿を見せられて「何て悲しい喜劇なんでしょう」という感想を洩らしたそうです。サラ・ベルナールと並び称される稀代の名女優がそう感じたということはとても重要です。それはとても19世紀的なロマン主義的感性からくる感想なのです。ロマン(浪漫)とは小説のことでもあります。ロマン主義とは文学的な・それゆえに言葉によって生み出される概念によってドラマを切り分ける、そのような見方に何となくなり勝ちなものです。憂鬱あるいは満たされぬ思い、それが19世紀的な気分でした。「何て悲しい喜劇なんでしょう」というドゥーゼの感想にもその気配が強く感じられます。しかし、ドゥーゼの感想はヴェルディの音楽を聴いての感想ではないことにご注意ください。ヴェルディが作曲した幕切れのブッフォ・フーガを聴いて、なおかつドゥーゼが同じ感想を洩らすということは考えられないことです。歌劇「ファルスタッフ」幕切れには音楽でしかなし得ない真の喜劇的な瞬間があります。すべてをチャラにして・最後に笑いの爆発で終えるということは音楽だけが出来ることです。(別稿「吉之助の音楽ノート:ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」をご参照ください。)
翻って謡曲「弱法師」のことを考えてみます。盲目の俊徳丸(実は高安長者の息子)が天王寺の境内にさまよう姿は、どこかしら不似合いである・何かが不釣合いなのです。これは俊徳丸が本来あるべき境遇ではないということです。これを滑稽(=ル・コミック、喜劇的なもの)であると取るのに抵抗がある方がいるかも知れませんが、そこにある原形質的なものだけを素直に感じ取るならば、そこに何か滑稽に相通じるものを感じ取ることができるはずです。父親である高安殿が登場し、乞食の我が身を恥じる俊徳丸を家に連れ帰ります。この時に観客が感じる「然り、これはそのようでなければならない」という安心感は、実は俊徳丸の落ちぶれた姿の滑稽さから来るのです。そこから静かな・しかし暖かい愛が感じられます。ラカンが「古典演劇における真正な愛は滑稽なものである」と言う意味がこれで分かると思います。これが謡曲「弱法師」の古典演劇としての構図です。
謡曲「弱法師」は親子の未来のことは描いていません。天王寺の境内で父親が盲いて落ちぶれた息子を見つけて連れ帰って終わるというただそれだけのことです。俊徳丸が父親に家に連れ帰られて再び幸せな日々を送ることができるだろうか、この親子の果てには絶望の未来しかないなどと考えるならば、それは余計なことなのです。もちろん名作はどんな見方も許すものですから見方としてはあることでしょう。しかし、そのような読み方は家庭崩壊やら親子の断絶などの今日的な問題を重ねて、作品を自分の方に強引に引き寄せ過ぎているのです。少なくとも古典演劇として謡曲「弱法師」を鑑賞する場合には、そこに古典演劇としての謡曲の序破急のフォルムを正しく感じ取ることです。これが音楽的な感覚に基づいた演劇の見方の基本です。(この稿つづく)
(H23・10・2)
6)古典的な感覚(続)
演劇における古典的な感覚とは、「然り、これはそのようでなければならない」という安心感であるということを申し上げました。これは音楽で言うならば、協和音で終結するという感覚です。協和音で締めるということは、これで音楽が正しく終わったという感覚を与えるためにすべての曲に適用される原則です。古典派交響曲の場合は、フォルテの協和音でジャーン と華やかに締めるのが常識でした。その後のロマン派交響曲では弱音で静かに締めるというものも出てきます(例:ブラームスの第3番、チャイコフスキーの「悲愴」など) が、これは古典派の常識の崩し(変形)なのです。終結に至る過程はいろいろありますが、曲(あるいは旋律)が終わったという感覚(論理的な落とし込み)が付けられるのは協和音なのです。これが「然り、これはそのようでなければならない」という感覚です。
謡曲に「然り、これはそのようでなければならない」という感覚が強いのは、これは当然のことです。ちなみに謡曲とは能の詞章のことを云い、つまり演劇における脚本のことです。謡曲とはもともと「謡の曲」という意味なので・謡(うたい)だけのことを指して呼ぶ場合もあるくらいで、謡曲(能)は音楽的な演劇 なのです。
世阿弥作の「頼政」は謡曲の修羅物(二番目物)の代表作です。旅の僧が宇治の里で景色を眺めていると、見知らぬ老人が現れ・僧を平等院へ案内します。そこは源三位頼政が宇治川の戦いで敗退し・自害した場所でありました。老人は自分こそは頼政の幽霊であると名乗り消え 失せます。哀れに思った僧が読経していると甲冑姿の老武者が現れ・宇治川での戦いの有り様と平等院の芝の上で自害したことを語り、僧に回向を頼んで草葉の陰に姿を消します。謡曲「頼政」では、前世の妄執のなかで成仏できず・苦しみのなかにずっと居続けていた頼政の霊の気持ちを、旅の僧が受け止めてこれを回向することにより頼政の霊は癒され成仏していきます。これによって作品のエンディングは観客の世界観あるいは人生観と合致し、「然り、これはそのようでなければならない」という形に落ちるのです。作品の世界が仏教的世界観のなかに取り込まれることによって古典的な安定感を持ち、能楽は結果として為政者の好みに沿ったわけです。後に能楽が江戸幕府の式楽として重用されることになるのも、謡曲の持つ世界構造の安定性(古典性)にその理由があります。為政者は常に安定を好みます。破綻・変革は為政者にとって常に好ましくないものです。
翻って歌舞伎の「義経千本桜・鮓屋」を見てみます。芝居で活躍するのは確かにいがみの権太ですが、全体の構造としては平維盛が源頼朝に許されて・出家して高野山へ向かうということが主題なのです。維盛が高野山へ出家して・人知れず歴史の舞台から静かに消えることで、維盛は成仏したのと同じことになり、作品は正しい歴史感覚のなかに落とし込まれるのです。この許しの構図が「然り、これはそのようでなければならない」という古典的構図を生み出すのです。全体の流れのなかでは権太の悲劇は古典的構図のなかに取り込まれてしまうのですが、「然り、しかし、それで良いのか」という疑問を提示します。歌舞伎・浄瑠璃においてはこの疑問が重要であることは言うまでもありません。この疑問こそ室町期の演劇と・江戸期の演劇と決定的に分けるものです。(同様に音楽 においても、この疑問が古典派とロマン派を決定的に分けるものです。)
しかし、その疑問は古典的構図のなかにトゲのように突き刺さっているから・痛みもあり目障りでもあり・だから意味があるのであって、その疑問だけが突出してしまっては意味がないのです。その疑問だけが突出してしまうと「権太の死は為政者に振り回されただけの無駄死にであった」というようなツマラナイ読み方になってしまいます。そのような読み方ではなくて、頼朝が維盛を許し・維盛が高野山へ出家する結末に落ち着かせるために、時代物の世界が代わりの生贄を要求すると考えれば良ろしいかと思います。厳かなエンディングに曲を終わるためには、その直前に波乱の展開部を置かねばなりません。権太の悲劇は「然り、これはそのようでなければならない」という結末に芝居を落ち着かせるための段取りであるように見えるかも知れませんが、実はそうではなく、厳かなエンディングはその前の波乱の展開部を際立たせるためにあるとも言えます。展開部が変わるならば、当然エンディングもそのようではあり得ないでしょう。それらは表裏一体であり、両者を切り離すことは決して出来ないのです。このようなことは音楽的な感覚のなかで芝居を読み取っていけば自然と分かることだと思います。(別稿「放蕩息子の死〜権太の死の意味」をご参照ください。)(この稿つづく)
(H23・10・9)
7)古典的な感覚(続々)
権太一家の犠牲は「然り、しかし、それで良いのか」という疑問となって古典的構図のなかにトゲのように突き刺さっていると書きましたが、それは古典的構図のなかで決して対立するものではありません。音楽的な歌舞伎 の見方からすれば、むしろ、それは幕切れの古典的な「然り、これはそのようでなければならない」という感動をより確かにするためにあらかじめ用意された破綻であるのです。
古典演劇における真正な愛は滑稽であるが、その場合の滑稽とは必ずしもおかしくて笑ってしまうようなことだけを意味するのではなく、むしろどこかしら不似合いである・何かが不釣合いであるという状態のことを意味するということを指摘しました。 例え貧しくあっても家族が愛し合って・一生懸命慎ましく生きているという状況を在るべき庶民の家庭のイメージとして置くならば、「鮓屋」において権太一家が置かれた状況は不似合いで・不釣合いなのです。裕福に暮らしたいというのではなく、普通の家族でありたいだけなのです。権太一家は家族が在るべき状態ではない。ですから、権太一家は家族が在るべき状態に強く憧れています。「私たちはそのような家族になりたい」という憧れの強さ(つまりそれは愛の強さなのです)が権太一家が維盛一家の身替わりになろうとするドラマの原動力になっています。(別稿「放蕩息子の死〜権太の死の意味」をご参照ください。)
一方、権太一家をそのような不似合いで・不釣合いな状態にしている原因は何なのでしょうか。それは「鮓屋」丸本を読めば父親弥左衛門の昔の所業に遡りますが・とりあえずそのことは置いて、一家が不遇な状況にある直接的な原因は家長であるべき権太にあるのは確かです。権太がコミカルな滑稽な役柄であることは、彼の愛がどこかしら不似合いで・不釣合いな状態で引き裂かれているれていることを意味します。もし権太一家を在るべき状態に引き戻せるならば、それは「然り、これはそのようでなければならない」という古典的な状態に落ち着くということです。そこで権太は「及ばぬ知恵で梶原をたばかろう」と大博打を打って、自らの力でそのような状況を作り出そうとします。これが「鮓屋」のドラマなのです。
「鮓屋」には権太のコミカルで滑稽な演技がたくさん出て来ますが、その核心となる場面は、金の入った鮓桶と首の入った鮓桶をうっかり取り違える場面であることは疑いありません。ここでもし権太が正しく金の入った鮓桶を取っていればどうしたか・・とかいう疑問は考える意味がまったくありません。この場面においては権太は間違えるべくして間違えて首の入った鮓桶を抱えて花道を駆け入ります。これは権太一家が「然り、これはそのようでなければならない」という状態になるために絶対に必要な段取りなのです。このことは別稿「民俗芸能としての鮓屋」において触れました。地芝居の黒森歌舞伎で演じられた「鮓屋」のことです。権太が鮓桶の重みを取り違え・間違った鮓桶を抱えて駆け出す時に観客から大きな拍手と笑い声が上がります。「アハハ、ほら間違えたよ」というような感じなのです。それから、手負いの権太が「(御台若君と見えたのは)この権太郎が女房せがれ」と叫ぶと、観客からまた大きな拍手が沸きます。「そうか偉いぞ、権太郎」というような感じです。このような黒森の観客の素直な反応を見て気が付いたことは、「鮓屋」という芝居の感動というのは、結局、「ならず者の男が改心して・最後にいいことをして死んでいった」という、ただそのことだけから来ているのだということです。そこから「然り、これはそのようでなければならない」という状態が現出します。
花道七三で首桶を抱えた権太が大見得をします。権太のようなならず者ががまんまと銭を騙り取った場面とするならば・この小者にこんな芝居掛かった時代の大見得は本来ふさわしくないのです。(近年の歌舞伎では正しくあるべき様式感覚が失われてしまっていますから、不必要なところで見得が多用されることが少なくありません。)世話物ならば本来するべきでない大見得を権太がする・・・そこに感覚的なギャップ・すなわち滑稽があるのです。事実、この場面で観客は思わず笑ってしまうでしょう。後で思い返せば、権太はここで桶を間違えて・小金吾の首を持って大見得しているのです。つまり、この時点で権太の「モドリ」が既に始まっている・ここからドラマは「然り、これはそのようでなければならない」に向かって急旋回して行 くのです。そのことはこの時点では観客にも権太本人にさえも真相が明かされていませんが、しかし、滑稽が真正な愛の方向へ正しく向いていることは明らかです。そのことを無意識のうちにも感じ取るからこそ、権太の大見得を見て観客は思わず笑ってしまうわけです。そこに見えるものは権太の愛なのです。(この稿つづく)
(H23・10・16)
8)古典演劇の善なる性格について
『オペラの舞台の上では高潔な人々と悪党どもが争い、陰謀が企てられる。そして敬神と冒涜、純潔と堕落、善意と憎悪、猥雑さと崇高さとが、演劇のために音楽化される。ところで、音楽は奸詐や憎悪の場面でどのような態度を取るでしょうか。音楽は善に対しても悪に対してもその恵みを平等に頒ち与えるでありましょうか。断じてそうではありません。(中略)私は、例えば「フィデリオ」第2場での殺意を抱いたピッツァロの登場・「ラインの黄金」でのアルべリヒの呪詛など、劇的という点で確かにドラマティックな表現力を持つ部分を、「フィデリオ」の合唱「おお神よ、何たる瞬間ぞ」や・「魔笛」のなかのパミーナのアリアと比較なさることを願ってやみません。そうすれば音楽が涸れることのないその最も深い泉から汲み取り与えるのは、一体どのような心の動きのためであるかが明らかに感得されるに違いありません。(中略)楽劇のなかで日常茶飯事や好ましからざるもの、あるいは悪しきものに対して、どれほど才知あふれる、興味深い、魅惑的な音楽が与えられていようとも、そのようなものと、道徳的に高次なものの音楽化のなかに展開されている魂を奪わんばかりの音楽の力の間に存する相違はきわめて顕著なのでありまして、(中略)音楽が倫理的なものにおいてこのように鋭敏な反応を示すのは、他でもない、音楽自体がひとつの倫理精神に担い手であるということによってのみ説明されるのです。』(ブルーノ・ワルター:「音楽の道徳的ちからについて」・1935年・ウィーン楽友協会における講演)
フィッシャー:音楽を愛する友へ (ブルーノ・ワルターの講演を併収)
20世紀前半のもっとも偉大な指揮者のひとりブルーノ・ワルターは、温和で優美な音楽を作り出す指揮者として・今も多くのファンを持っています。そのワルターが、1935年に行なった講演の題名が「音楽の道徳的ちからについて」というものでした。ワルターはここで、「音楽というものが如何に善の性格に根差したものであるか、善なる性格によって音楽がそれを聴く人にどういう心理的・倫理的作用を与えるか」を一生懸命に説いています。吉之助も昔は「まあワルターらしいことであるなあ」と思って読んだものですが、今になって考えるにやはりこれは真理であると思いますねえ。まず音楽は聴く者に完結した印象を以って終わらなければなりません。そうでないと尻切れトンボの印象になってしまいます。そのために音楽は最後には腑に落ちる形で終わらなければならないのです。多くの場合、協和音で終わるわけです。このことが音楽芸術の性質を善なるものに位置付けることに決定的に作用しています。
ここでワルターはハタッと考えます。オペラの場合はどうであろうか?(ワルターはとても優れたオペラ指揮者でした)その劇的表現によって・そのような音楽自体が持つ作曲家の意図・その善的な性格が掻き消されることがありはしまいか?このようにワルターは自身に問うて、こう結論付けます。好ましからざるもの・悪しきものに対してどれほど魅力的な音楽が与えられていようと、道徳的に高次なものに対する音楽の力の相違は明らかであると言うのです。例えば(ワルターは例に挙げていませんが)ヴェルディの「オテロ」第2幕での劇的なイヤーゴの 「クレド」(イヤーゴの信条)です。イヤーゴの悪魔的・無神論的な告白にヴェルディが凄まじい音楽を付けていて、聴いていて身が震えるほどです。ヴェルディ自身もオペラの題名を「イヤーゴ」にしようかと真剣に悩んだと言われています。しかし、オペラを通して聴けば分かることですが、イヤーゴのクレドの音楽がどれほど素晴らしくとも、それは第4幕のオテロの「オテロの死・私を恐れることはない」の感動に敵うことは絶対にないのです。このことは演劇においても同じであって、シェークスピアの原作においても最後のオテロの死によって芝居は善なる性格によって閉じられる、このことを疑う方はいないと思います。オテロは讒言に振り回されて妻を殺した哀れな老人ではなく、妻をあまりに愛し過ぎた高潔偉大な人物として死ぬのです。音楽と同様に、お芝居もまた観客に完結した印象を以って終わらなければならないのです。したがって、演劇も本質的に善なる性格に根差す芸術であると吉之助は確信しています。異論がある方もいるかも知れませんが、現代不条理劇ならば兎も角、古典演劇ではそのようでなければならないと吉之助は考えます。音楽的な要素が強い古典劇である歌舞伎ならば、これは当然のことです。
ということは、吉之助が何を言いたいのかといえば、「義経千本桜・鮓屋」を例に取るならば、貧しくあっても家族が愛し合い・一生懸命生きた庶民の姿が「鮓屋」で描かれていると見るべきであって、「権太の死は為政者に振り回されただけの無駄死にで あり、権太は封建主義の犠牲者であった」という見方をしてはならないということです。まあ歌舞伎を見飽きて・ちょっとひねった形で歌舞伎を見たいというならば、次の段階に於いてはそれも良ろしいかも知れません。(別にそれが高次の段階だと言っているのではありません。)しかし、歌舞伎をこれから見ようとする若い方・伝統芸能から何かを学ぼうとする若い方に、最初から「権太の死は為政者に振り回されただけの無駄死にであった」という見方を教えることは、非常に困る・迷惑だということです。しかし、昨今巷間見かける歌舞伎の解説・あるいは劇評には、そうしたものがとても多いようです。それが封建時代の芝居を時代の制約から解き放つ現代的な見方だとでも気取っているのでしょう。概念で芝居を読もうとするからそういう見方になるのです。だから敢て申し上げたいのですが、そのような見方は古典演劇の見方として決して良ろしくないのです。
チェーホフに「灯火」というの短編小説があるのですが、ご存知でしょうか。場面は草原のただなかにポツンと立てられた鉄道敷設工事のための作業小屋です。そこで技師アナー二エフと・その助手の学生シュテンベルクが会話しています。アナー二エフは言います。「荒野だったこの場所に、鉄道を敷設して、今ここには文明がある。そして我々の死後・百年後・二百年後にはここに工場や病院が建つことだろう。素晴らしいと思わないかね。」これに対してシニカルなシュテンベルクは「この世にアマレク人だのフィリスティン人だのがいたけれど、今では影も形もないじゃありませんか。僕たちだって同じこと。二千年も過ぎれば、跡形も残らんでしょう。」と返事をします。これに対してアナー二エフがこう叫ぶのです。
『ああ、君、そんな考えは捨てなくちゃいけません。そうして虚無とか、無常とか、生の無意義だとかいうような考えは、人が老年になって、それが長い間の労働や苦悶の結実として現れてこそ、結構でもあり自然でもあり、また知的財産ともなるのだが、君のように、まだやっと独立の生活を始めたばかりの若い脳髄にとっては、そうした思想は禍いだ。禍いですよ!』
チェーホフ:ともしび・谷間 他7篇 (岩波文庫)
「桜の園」や「かもめ」などチェーホフの戯曲もそのように読まねばならないことは、これで明らかです。古典演劇の正しい見方は、ドラマというものは協和音を以って・腑に落ちる形で完結するという感覚を正しく学び取るところから始まります。「然り、これはそのようでなければならない」という感覚が古典演劇の基本なのです。
吉之助は「然り、しかし、それで良いのか」ということをよく申し上げていますが、このような古典的構図のなかにトゲのように突き刺さった疑問というものは、歌舞伎のプレ近代的な性格から出て来ます。「歌舞伎素人講釈」では江戸時代を、明治という近代を準備したプレ近代という風に位置付けしています。つまりそこに「懐疑」という近代人的性格の萌芽が見られるということです。ただし、歌舞伎ではそれはまだ懐疑という明確な形を成してはいません。だから「プレ」なのです。「・・それで良いのか」という疑問は、「然り、これはそのようでなければならない」という古典演劇の構図を正しく踏まえたところでなければ決して理解が出来ません。このような古典の構図を感覚的に正しく会得するためには、音楽を聴くことが最も有効であると吉之助は信じています。(この稿つづく)
(H24・2・12)
9)「鎌倉三代記・絹川村閑居」を読む
吉之助が云うところの「音楽的な歌舞伎の見方」というのは、どういうことか。まず第1に音楽的な流れに沿って、余計な概念を排除して、素直な気持ちでドラマの流れを読むことです。第2に、作品が表現する心情は常に善であるということを念頭に入れてドラマを読むことです。古典演劇の見方は、ドラマというものは協和音を以って・腑に落ちる形で完結するという感覚を正しく学び取るところから始まります。
但し書き付けますと、作品をどう読もうが個人のお楽しみですし、良い作品は多様な読み方が可能なものです。しかし、古典を読む場合においては、正しい姿勢が取れているならば、ある方向から大きくはずれた見方は自ずと制限されてくるものです。「そのような読み方はしてはなりません・ならぬことはならぬものです」という自制が自然と掛かるものです。「然り、これはそのようでなければならない」という感覚が得られない読み方は、正しい古典の読み方と は言えません。
ある本(出典を伏しますが、歌舞伎の本ではない)に、「誤読に少しでも触れる冒険をしないような読みは評論・研究に値しない、トリッキーでなければ読みに値しない」ということを書いているのがありました。開き直って・こういうことを言う学者がいるから困ります。「そうしないと話題にならなくて商売になりません」というのが本音じゃないですかね。敢て違った角度から問題提起してみることは良いです。しかし、誤読が曲解に終わってしまうようでは駄目です。そこから導き出した結論を普遍化・一般化できないようでは仕事したとは言えません。そうすれば誤読は曲解ではなくなるはずです。そこまで考えてもらいたいのですがね。以後の本稿において、古典の読み方を具体的な作品を以って検証していきます。
「鎌倉三代記・絹川村閑居」は時代物の大作です。ここでのクドキ・「短い夏の一夜さに、忠義の欠くることもあるまい」という一節で、時姫が舞台下手の木戸を開けて、夏の夜の月を見上げ、また木戸を閉めるという場面があります。ある劇評(出典はあえて伏す)によれば、そこで上手に病気で伏して寝ている姑の方向を見やり・顔を伏せて戸を閉める時姫の演技が良かったと云う。これをその劇評では次のように解説していました。夫三浦之助は今夜の戦いで討ち死にする覚悟で、すぐにでも出陣するつもりでいる。時姫は姑長門の看病をしていますが、その姑が息子を戦場に返せと行って来る。この夜が最後の夜かもしれないからこそ、夫とともにいたい。だから時姫は戸を閉めて姑の要求に対して反抗する。この場面は夫への愛の表現であるとともに、嫁姑のドラマでもあるというのです。「鎌倉三代記」は家族が戦争に巻き込まれるドラマですが、どうして ここに嫁姑の問題が突然登場する必要があるのですかねえ。
吉之助の見方を申し上げます。戸を閉めるという行為が時姫の夫への愛の表現であることは疑いありません。時姫自身が少しでも夫と長く一緒にいたいと思っているというのは確かなことです。しかし、大事なことは三浦之助は母の容態が心配で戻って来たものの、すぐに出立するつもりでいるということです。兜に炊きしめた香が討ち死する覚悟を明確に示しています。女は嫁げば夫に従わねばならぬというのは当時の道徳ですから、三浦之助が望むなら 時姫は送り出さねばならぬのが嫁の立場です。一方、姑長門は三浦之助に会うことを拒み、息子にすぐ戦場に戻れと言います。これを聞いて時姫が姑に対して何を感じているのだろうという点が問題になります。大事なことは、姑には母親として息子への愛情が必ずあるということです。姑長門は三浦之助に会うことを拒み、息子にすぐさま戦場に戻れと言うけれども、実は長門は息子の顔を見たい・戦場に行って欲しくないという気持ちを押し殺して言っているということは、当然のことなのです。息子に死ねと言う母親などいません。いったん息子の顔を見てしまえば未練なことばかり言ってしまいそうだ ・戦さに行くなと言ってしまいそうだ・しかしそれでは武士である息子の名誉に反することになる。だから、姑は決して息子に会おうとしないのです。そのこと自体が姑の息子への愛の強さを示しています。後の方で「もう母さまはけふ明日のお命、なんぼ潔うおっしゃっても、討死と聞き給わばお嘆きが思ひやられる・・」と時姫は夫に訴えています。だから時姫は嫁として夫三浦之助を愛する、長門は母として息子三浦之助を愛する、立場は違うけれども、女子の 思う気持ちはどちらも同じ・・・時姫はそう感じているからこそ、姑長門の寝やる方向を見て思い入れをして戸を閉めるのです。これが「然り、これはそのようでなければならない」という読み方です。
同じ劇評にこんな読みも出てきます。「鎌倉三代記 ・絹川村閑居」後半で、時姫は三浦之助に「夫婦であるならば父・北条時政を討って来い」と責められ・苦しんだあげく・ついに「北条時政、討ってみしょう」と決断します。歌舞伎ではカットされますが、丸本に次のような場面があります。時姫がこうして父を討ってみせますと言って突き出した槍先をつかんで・姑長門がそれを自分の胸に突き刺すのです。「お前(時姫)は姑(長門)を殺した。息子の嫁であるならば、お前は夫の敵である自分の父(時政)を討て。」と姑は時姫に重圧を掛ける。そこに夫をなかにした嫁と姑の対立がある・どんな従順な嫁も潜在的には姑を憎んでいるはずだと云うのです。
吉之助の見方を申し上げます。姑もその昔は嫁であったのです。実家と嫁ぎ先の論理に振り回されて苦しむこともあったでしょう。若い頃にそのような思いを経験して、嫁の苦労を一番知っているのが姑です。ただし元嫁である姑も、今は家を守る為・夫・息子を立てる為、分っていても・言わねばならぬ立場に追い込まれています。嫁もつらいが、姑もつらいのです。父・時政には姑(長門)を殺せと責められ、夫三浦之助には父を討てと責められ、もがき苦しむ嫁を長門は見ていられません。「北条時政、討ってみしょう」と時姫が突き出した槍を自分の胸に長門が刺すのは、「息子・三浦之助を立てる決断をしてくれたからには、お前(時姫)の決断を私(長門)はしっかり受け止める、どうせ明日をも知れぬ病の我が身、このうえは自分が死ぬことで・父・時政に対する義理をしっかり果たしてくれ」ということです。父・時政を討てば時姫は父殺しの汚名を着ることになる、それでは父に対し申し訳が立つまい、三浦之助の母を討ったとなれば父に対して孝行が立とう、だからこれでどうか敵・時政を討ってください・頼みますと云っているのです。時姫の決断がどれほど重いものか・長門はそのことをよく分かっています。嫁(時姫)に対する姑(長門)の感謝と深い情愛がそこに感じられます。この場面が時代物の重い悲劇の感触を観客にもたらすのは、嫁に対する姑の 感謝・情愛がこのような異常な形で示される・そうせざるを得ない状況を戦争というものが作り出しているからです。その時「然り、これはそのようでなければならない」という感情と同時に、「・・しかし、これで良いのか」という疑問が湧き上がるでしょう。 愛情をこのような形で表現することしか許さない・この状況(戦争)とは何か・・ということです。そのことの異常さに気が付かねばなりません。この疑問こそが良き明日への鍵になるのです。
先ほどの見方は、戦争という状況下だから敵同士が憎み合うのが当たり前という前提(というか決め込みだな)に立って、それに対する批判のないところからドラマを読もうとしているのです。その時点で歌舞伎の時代物の読み方の基本を外しています。だから敵と味方、嫁と姑という対立構図でしかドラマが読めなくなるのです。作品が表現する心情は常に善であるということを念頭に置けば、登場人物が対峙しているものが何であるかは自然に見えて来るのです。(この稿つづく)
(H24・4・1)
10)「双蝶々曲輪日記・引窓」を読む
時代物で登場人物が対峙するものが何であるかは、比較的見定め易いものです。それは国家や政治が生み出す・個人が抗することができない圧倒的な論理であることが多いからです。一方、世話物でも個人が抗することができない論理が主人公を翻弄するわけですが、それは金銭とか人間関係が生み出すもので、時代物と比べるとそのプレッシャーはずっと弱いものです。世話場において、そのようなものは最初から顔を出していることは ありません。それはドラマのある局面において、突然ぬっと顔を出して、登場人物をアッと言う間に連れ去ります。後に愁嘆場だけが残されます。だから愁嘆場を世話の悲劇だと誤解する人が多いようですが・そうではなくて、登場人物が何と対峙しているのかと云うところにドラマがあるのです。
登場人物が何と対峙しているかを考えてドラマを見れば、作者は用意周到に伏線を張っていることが分ってきます。歌舞伎では、そのようなドラマの様相の変化が世話と時代の生け殺しによって表現されます。世話の基調のなかに時代の重い表現をグッと入れて色合いを変える、時代の基調が世話の軽味をサッと織り交ぜて流すといった具合です。そのような世話と時代の揺れ動きが何度か続いた後に、個人が抗することができない論理が突然ぬっと顔を出すのです。そのタイミングを計ることは難しいですが、音楽的な流れのなかでそれを感じ取るしかありません。歌舞伎・浄瑠璃は奇態指数の高い演劇です。「その4・音楽的なドラマの読み方」でも触れましたが、そのような破綻の内的必然は論理的関係からは決して読めません。「いつかどこかで破綻が起こる」ということは論理的関係として分析できても、この箇所で破綻がくるということは予測できないのです。これではドラマが読めていることに全然なりません。
論理関係でドラマを無理に読もうとすると、面妖なことになります。「「双蝶々曲輪日記・引窓」の与兵衛の一家はみんなが互いに何かを隠している」と書いている劇評がありました。(出典はあえて伏す。)虚構と偽善のなかでこの一家が成り立っているか如きの書き方に、吉之助は驚いてしまいました。確かに、頼みたいことを正直に相手に言わず・本当のことを隠すという場面が「引窓」には再三見えます。しかし、登場人物が何のために真実を隠すのか・ということを音楽的な流れで読むならば、その理由は明らかです。南与兵衛の一家は血縁で繫がる家族ではなく、義理のなかで作れられた家族です。しかし、彼らは暖かい家庭を作ろうとして、ようやく出来たこの家庭を壊したくないのです。小さな幸せを壊したくないのです。相手を気遣い・その立場を悪くせまいと思い、それで思っていることがツイツイ形を変えて出るのです。相手を騙し・その場を取り繕って・真実を隠そうとしているわけではなく、むしろ嘘のなかに登場人物の相手への愛が・思い遣りがひしひし感じられます。古典は常に善なるものを描くものです。そのことを忘れてはなりません。
上記の劇評にはこんなことも書いてありました。義理の母・お幸が濡髪の絵姿(人相書)を売ってくれと与兵衛に頼みます。お幸の頼みを聞いて、与兵衛は向こうを見やり・さては濡髪そこ義母の実子かと気付きます。「母者人、あなた、何故ものをお隠しなされます」という台詞には、継子の自分より実子を愛する義母への複雑な思いがあるというのです。絵姿を義母に渡す決心をするのは、自分よりも濡髪への愛の深いことを知っての絶望から来るもので、「それほどまでに・・」という台詞に与兵衛の 絶望の気持ちが現れていると云うのです。この劇評家氏は義母と継子との間に真の愛はなく・心底に義母に対する不信が付きまとっているはずだという思い込みで芝居をご覧になっているのです。これが家庭崩壊の現代の「引窓」の読み方だとでも思っていらっしゃるのでしょう。
まず言っておかねばならないのは、「母者人、あなた、何故ものをお隠しなされます」も「それほどまでに・・」も歌舞伎の入れ事で・丸本にないということです。しかし、別にあっても問題はありません。歌舞伎は何も 真実を変えていないからです。「古典は常に善なるべきもの」ということを念頭に置けば、与兵衛の気持ちは次のように読むことができます。「義母さん(お幸)はこれまで継子の自分(与兵衛)を大事に育ててくれた。そんな優しいお母さんだもの、実子に対する気持ちはどれほどに深いものだろうか・自分には想像が付かない。自分は本当のお母さんを早くに失って・母の愛を知らずに育ったとばかり思っていたが、子供を思う母の愛というものはこんなに も深いものなのだ。義母さんは継子の自分にも変わらぬ愛を注いでくれた。有難いことだ。」ということです。与兵衛は義母の実子を思う心に心底感動しているのです。その感動が与兵衛が絵姿を義母に渡す決心をさせるのです。「丸腰なれば今までの通りの与兵衛」というのは、「僕はこれからも変わらずあなたの息子だよ」という意味なのです。このことはその後、夫の言葉に感動して涙する妻・お早の台詞で裏付けられます。お早は「産みの子よりも大切に、可愛がって下さる御恩。」とはっきり言っています。お早はちゃんと分かっているのです。
罪人として追われる濡髪がここにやって来たことは、与兵衛(=南方十次兵衛)にとって最初の手柄を立てる絶好の機会です。同時にそれはお早にとって我が子が捕らえられるのを見ることでした。与兵衛が濡髪を逃がすならば、それは与兵衛にとって義母への孝を果たすことになりますが、それはお上に対する職務違反になるのです。それが分っているからこそ、お幸は「絵姿を売ってたもらぬか」と言いにくそうにしています。継子が職務違反になっても良い・実子を逃してやりたいとお幸が考えていると云うならば、もうそれで世話悲劇は成立はしません。悲劇というのは、主人公が自分の意志で選択する・そのプロセスにあるのだということは何度か申し上げました。与兵衛はお幸の愛に感動して・自分の意志で選択するのですが、もちろん与兵衛のなかにも葛藤がないはずがありません。追われている濡髪を逃がすことは犯人隠匿に加担することであり、これは反社会的行為です。「ヘエ是非もなや・・」という台詞にその葛藤が出ていますが、それを絶望などというネガティヴな要素として読んではなりません。常にポジティヴな要素として読むべきなのです。それは「僕はお義母さんと一緒にこの幸せを守る・この幸せに殉じる」ということなのです。(この稿つづく)
(H24・4・22)
封建悲劇のなかで、「身替わり」というのは最も重い主題です。と同時に、現代においては最も受け入れられない主題です。主人も家来も同じ人間であって・その命に重い軽いの違いはありません。これは確かにその通りなのですが、そうすると歌舞伎や文楽によく出てくる身替わりの悲劇は御主人大事の・時代遅れの封建思想の物語ということになって、これを素直に見られないということになります。例えば「寺子屋」ではどうして小太郎が主人菅秀才の犠牲にならなきゃならないのか。歌舞伎役者も批評家も、実はそこが「弱み」だと内心は怖れているので、そこのところに絶対触れられたくない。そこで巷間の歌舞伎批評は「寺子屋」の主題を意図的に回避して、「寺子屋」は身替わり・子殺しが眼目の芝居じゃないんだ、後半の親の嘆きのなかに封建批判があるんだということで、まあお茶を濁しているわけですね。
しかし、本当は身替わりの主題は直視されねばならないのです。それを逃げてはならぬのです。何故でしょうか。それは「寺子屋」は封建時代のお芝居であって・その時代において人々は何かを信じて一生懸命生きてきた、そのことにおいて江戸期の人々も・現代の人々も何ら変わりはないという 真実を知らねばならないということです。それが歴史を知るということであるはずです。そのような歴史の真実は、歴史本などを読んで知識として・思想として理解するよりも、むしろ芝居を見ることによって・よりヴィヴィッドに・追体験するほうが、ずっと生々しい実感としてよく分かるということがあると思います。現代において、能狂言や歌舞伎・文楽を見るのは、そのような意味があると思いますよ。エンタテイメントとして見るならば、面白いものは他にいくらでもありますね。
「寺子屋」では身替わりが良いことであると・賞賛されるべき行為であるとされているでしょうか。そんなことは絶対にありません。「寺子屋」においても身替わりは悪いこと・決してやってはならない行為なのです。しかし、守るべきものを守る為に・彼らにとって他に取れる手段がないからやむなく取る手段なのです。ここで「守るべきものを守る」ということが問題になると思います。それは「それを捨ててしまったら私は私でなくなってしまう・私は人間でなくなってしまう、だから私が私であり続けるために・私はそれを守り抜く、たとえ何かを犠牲にしても・・」というものなのです。ですから、それは思想でもイデオロギーでも何でもなく、それは心情なのです。歌舞伎素人講釈では、それを「かぶき的心情」と読んでいます。
ある歌舞伎本(名前はあえて伏す)にこんなことが書いてありました。「菅原伝授手習鑑・筆法伝授」において、菅丞相は不義を理由で勘当したはずの武部源蔵を呼び秘伝の筆法を伝授します。それならば勘当を許してくれると思いきや・丞相は「伝授は伝授、勘当は勘当、立ち去れ」と言って許してくれません。それで失意のうちに源蔵は芹生の里に戻るわけですが、この筆者によれば、不義による勘当の罪は伝授より重いのだそうです。それほどまでに主人を裏切った不義の罪は重く、それは「恥」としてどこまでも源蔵を苛むというのです。源蔵が丞相の息子・菅秀才を守ろうとするのは家を追放された恥をすすぐ為。自分の名誉回復のために源蔵は弟子子の小太郎を手にかけるというのです。
・・・ちょっと考えみて欲しいのですがね、菅丞相は後に天神さまになる御人なのですよ。学問の神様・和歌の神様・手習いの神さまなのですよ。江戸の識字率が高いのは、天神信仰が素地にありました。江戸期の庶民の子供たちはみんな寺子屋で手習いをして、そこで読み書きを学んで・丞相さまのように偉くなりたいと思ったものでした。こうした江戸の寺子屋教育の始まりを作ったのは誰なのでしょうか。史実は知りません。しかし、「菅原伝授手習鑑」を見るならば、それを始めたのは源蔵だということになっているわけです。そうであるならば丞相は「伝授は伝授、勘当は勘当」と云う言葉をどうとらえるべきかは明白であると吉之助は思いますねえ。それは「源蔵、お前は敢て野に下り、世の中あまたの人々に私の筆法・学問、そして私のこころを伝えよ」ということなのです。源蔵本人はまだ理解していないようだけれども、それが丞相が源蔵に与えた新たな使命なのです。吉之助には源蔵は、額に印を付けられてエデンの東に放逐されたカインの如くに思われます。
もうひとつ付け加えるならば、ここで丞相が源蔵に筆法伝授すると同時にその勘当を解いていたらどうなったかと考えて欲しいと思います。この場の後・丞相は大内に呼び出され・時平の陰謀により失脚することになります。もし源蔵が勘当を解かれていれば・源蔵は菅家ナンバー2として時平にその命を狙われることになったのは間違いありません。丞相が勘当を解かなかったから・源蔵は安全地帯に残ることになり、それで源蔵は菅秀才を匿うことができたわけです。だから、丞相が源蔵の勘当を解かなかったということは、この時点で丞相が自らの危機を知るはずもないことですが、人間・丞相のなかにある何ものか(天神さまとしての神性)が働いて丞相をしてそのような必然の方向へ事を仕向けたという風に考えなければならないのです。古典の場合にはそのような読み方が絶対必要になります。「必然」ということを考えなければなりません。それが ドラマの骨格を作る不可欠な要素であるからです。
これが「寺子屋」において源蔵が弟子子の小太郎を手にかけるということの伏線となっているわけですが、それならば「伝授は伝授、勘当は勘当」という丞相の言葉が絶対であることは明白です。それは神さま ・天神さまの言葉であるからです。神さまの子供である菅秀才を守る為に誰かを犠牲にしなければならないということは、源蔵にとっては絶対に逃れようのないことです。また同時に、それは芝居を見守る観客(我々はみな丞相さまの弟子子であるからして)にとっても絶対に逃れようのことのないことなのです。浄瑠璃作者はそういう絶体絶命のところに・芝居全体を追い込んでいるわけです。
但し書きを付けますが、それは菅秀才は神さまの子供だという絶対の状況を作ることで、作者は身替わりという行為の不当性を不問にしようとしているのではないのです。むしろその逆です。犠牲ということが確かに重い罪であること・その行為の不当性を突き詰めることによって、犠牲の行為の崇高さが研ぎ澄まされることになるのです。「せまじきことは宮仕え」という源蔵の言葉にどれほどの苦しみがあるか、そのことをよく考えて欲しいと思います。(詳細については別稿「寺子屋における並列構造」などをご覧下さい。)源蔵がもし自己の名誉回復などという個人的都合で弟子子を手に掛けるような非道の男であるならば、神さまである丞相が源蔵に筆法伝授して・それで良しとするはずがないことくらい、すぐ分からなきゃいけませんね。
もちろんお芝居をどう解釈しようが個人のお楽しみとしてご自由なのですけれど、それを普遍の解釈にまで高めたいと思うならば(それが卑しくも何がしかの批評行為を含むものならば)、何度も何度もこれを反芻するが如きの検証が必要になるのです。登場人物の言動・行動が腑に落ちない時・そういう時には、「自分はその人物に共感できるか、彼がそのようなことを言い・そのような行動を取ることを彼の立場・状況において自分は然りと受け止められるか」ということを考えねばなりません。然りと受け止められるようでなければ、その解釈はまだまだ掘り下げ不足なのです。彼の心理プロセスを追体験して行くこと、それはまさに芝居を流れにおいて感じ取るということです。これが吉之助が云うところの「音楽的な歌舞伎の見方」というひとつの例です。(この稿つづく)
(H24・8・19)
「六段目」のドラマは、観客の誰もが舅殺しの犯人は勘平でないことを知ってるのに、舞台の人物たちはそれを知らず・勘平自身も自分がやったと思い込んでいるという構図です。歌舞伎の「六段目」を見ると、もっと早く舅殺しの疑いが晴れていれば勘平は討ち入りに参加できたのに・・・という気持ちになると思います。これは仕方がないところがあります。音羽屋型は「舅を殺したのは本当は誰か」というサスペンスドラマ的な仕立てになっているからです。しかし、・・ということは、それは最後に勘平が殺してしまったのは定九郎(しかも定九郎は不忠の 仲間)であったということが判明して、定九郎が与市兵衛殺しの犯人なのだから・結果的に勘平は舅の仇を討ったことになるということで、勘平の罪は不問にされたということになるのでしょうか。ホントに勘平の罪はチャラになったのでしょうか。主人判官の危急の時に居合わせなかった不忠も含めて、勘平は仇討ちに参加する資格を十全に得たのであろうか。そういうことを考えてみる必要があるのです。
例えば「六段目」において、勘平が殺して金を奪ったのが定九郎ではなく(従って与市兵衛も殺されず)・全然見知らぬ赤の他人であったとしたら・・・ということを考えてみたいと思います。殺されたのが誰か知れないまま(つまり勘平の罪 も問われないまま)ドラマは進み、勘平は女房お軽を祇園に売ることをせずに済み(一文字屋は追い返される)、奪った五十両は仇討ち資金として由良助に提供され、勘平は晴れて連判に名前を加えられてメデタシメデタシ・与市兵衛一家は歓声を挙げて婿を仇討ちに送り出す・・・「六段目」はそのようなドラマ展開をするでしょうか。
まず故意であろうがなかろうが・人を殺してその金を奪って・それで仇討ちに参加する資格を得るなんてことが道義的に認められるかということを考えなければなりません。これは絶対認められてはならないことです。だとすればドラマは絶対にそういう展開をするはずがない・浄瑠璃作者はそんなドラマを書くはずはないということは明白なのです。天網恢恢疎にして漏らさず。ドラマのなかで勘平が何か悪いことをやったという証拠が必ず出てくるはずです。何よりも由良助がそういう汚れた資金を受け取るはずがありません。直感か何かで も・由良助は神の如くの眼力でそのことを必ず察知するはずです。ドラマというものは、そのような必然の展開をしなければならないのです。
シンプルに考えれば「六段目」のドラマの本質は、次のようになります。つまり、主人判官の危急の時に居合わせなかった不忠(それはいってみれば単にタイミングが悪かったということだけなのだけれど)によって・仲間から放逐された勘平は、その失点を取り返そうとしてあせって、フトしたところから 他人を殺してその金を奪ってしまい、それを仇討資金にして・仲間に入れてもらおうとして、更なる不忠の深みにはまってしまった・罪の上塗りをしてしまったということです。そして勘平はついに切腹するしかなくなる。それが「六段目」の勘平の悲劇だということです。浄瑠璃作者は、そこに「その五十両は舅与市兵衛がお軽を売って作った金だった」ということでひと捻り、「与市兵衛は定九郎に殺され・次に定九郎を勘平が殺した」ということで更にふた捻りを加えていますが、そういうことは趣向(筋の尾ひれ)に過ぎないのです。結局、由良助が勘平を仇討ちの仲間に加えるか否かの判断をする時に、そういうことは全然関係ないことです。そんなところに「六段目」の本筋はないのです。
「六段目」を平和な農家に封建論理の異分子(勘平)が入り込んだ誤解で起きるホームドラマという風に読むのが、昨今の歌舞伎劇評では流行だと思います。まあそういう切り口も面白いとは思いますがね 。しかし、その読み方では古典劇の「必然」というものが全然見えてきませんね。時代物の悲劇構造が見えないことになります。ホントは由良助の立場からすれば、由良助がどれほど勘平に同情しても、勘平がどうあがこうが、勘平を仲間にすることはできないのです。どうしても仲間に入りたいと言うなら・その命を差し出してもらわねばならぬ・これが絶対条件だ、これが指導者である由良助の非情の立場なのです。これが由良助の思考回路だということが分かれば、後段の「九段目」の悲劇も自ずと理解できます。
ある歌舞伎本(名前はあえて伏す)を読んでいたら、こんな読み方が出ていてビックリしてしまいました。勘平を支配しているのは「恥」の行動原理である・それを前提に考えれば金を奪うことが罪かどうかということは重要なことではないというのです。重要なのは自分が仲間に対して期待通りの人間かということに行動の選択基準があるということで、仇討ちが認められないのならば・恥を知る人間が名誉回復する手立ては切腹するしかないのだそうです。・・・いやはや、概念でドラマを無理に割り切ろうとするからこんな読み方をしてしまうのです。芝居を見る庶民の正常な倫理感覚からして・その見方が然りと受け入れられるものか・その見方で勘平の死が清いものに見えてくるか・それで勘平の死に涙できるかということを、自らの胸に問うてみるならば自ずと分かることなのですがねえ。
ここが音楽的な歌舞伎の見方の大事なポイントです。観客にとって勘平の死が清いものに見えるとするならば、それは勘平が忠義であろうとしたという気持ちにおいて一点の曇りもないものであったということなのです。連判状に名前が加えられたのも、由良助が最後にそのことを認めたということです。ですから勘平が自らの腹に刀を突き立てることで証明しようとするものは、そのような彼の心情であったということです。建前や理屈などというものではなく、そんなものを飛び越えた彼の心情です。勘平の心情をポジティヴに読むべきなのです。(別稿「六段目における時代と世話」をご参照ください。)勘平の死に清いものを認めることで「六段目」の悲劇は「然り」という形で閉じます。そのような「然り」というものをドラマのなかにしっかり踏まえなければ、「・・それで良いのか」という次の段階は決して生まれて来ません。
「・・それで良いのか」という疑問とは、人が社会のなかで・組織のなかで生きていくときに、人間の価値はどこで計られるのかということです。資質なのか・プロセスなのか・成果なのか、それも時と場合によるのか、そういう疑問が江戸の昔にもあり・現代にも依然としてあるということなのです。勘平が自らの腹に刀を突き立てて世間に問うているのは、結局、生きることの不条理・そういうことなのではありませんか。
(H24・8・27)
*連載が途切れて・しばらく間があいてしまったので、ここでいったん本稿を第1部としてまとめ、機会を見て第2部を続けます。