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吉之助の雑談31(平成29年1月〜6月)


○平成29年5月木ノ下歌舞伎:「東海道四谷怪談」・その6

終演後に木ノ下歌舞伎主宰・木下裕一と演出杉原邦生トークショーがあったので、これも拝聴しました。トークショーでは吉之助にも収穫がありました。大詰めでは与茂七が登場し伊右衛門を討します。これは与茂七がお岩の代理として伊右衛門を討つということですが、伊右衛門は与茂七は序幕の裏田圃の場で殺されたと思っており・実は生きていたことを知らないのだから、伊右衛門は大詰めで現れた与茂七を亡霊だと思ったに違いないと云うのです。なるほど、それはその通りだなあと思いました。そういうところから、与茂七と伊右衛門との新しい関係付け、「四谷怪談」の新たな読み方が生まれる可能性があります。大事なことは脚本の読みです。これは歌舞伎にも応用できることだと思います 。

ところで今回の「四谷怪談」は最初から杉原が書いた台本をベースにリハーサルを進めたそうですが、これまで木ノ下歌舞伎は「完コピ」(歌舞伎完全コピーという意味 でしょう)という手法で芝居を作っていたそうです。これは本家の歌舞伎のビデオを見ながら、オリジナルの歌舞伎の脚本通りに段取りや台詞などそっくりそのまま写して演じてみる。これで歌舞伎の発想を身体で理解する。(ここまではまあ歌舞伎役者が先輩に型を学ぶ過程とほぼ同じと考えて良いでしょう。)木ノ下歌舞伎では、その後、これをベースに、どこを現代劇に置き換えるかなど議論を進めながら、手順を作り替えていく(或る意味では崩すということだと思う)のだそうです。

興味深いのは、完コピではビデオを見ながら台詞の抑揚や間合い・役者の癖までそっくり真似るということでしたが、今回の木ノ下歌舞伎の舞台を見る限り、古語調の台詞を言う場面でも、役者の演技に歌舞伎臭さをまったく感じなかったことです。語尾を膨らませて転がすとか、掛け声が掛りそうな臭い ことをやっても、そこは上手くパロディに落とせていたと思います。これは吉之助は褒める意味で言っています。普通はこういう練習法を取るとオリジナルの歌舞伎に似せて「・・らしく見せよう」という演技に陥ってしまいそうです。しかし、木ノ下歌舞伎の役者さんは、自分たちは現代演劇の役者であって歌舞伎の真似をしてるのではないという意識をきっちり持っているようです。それでなければ完コピの痕跡がどこかに残りそうなものです。木ノ下歌舞伎は、演技がきっちり現代劇になっていて、古語調の台詞さえ歌舞伎の真似になっていません。これは主宰・木下と演出杉原がしっかり箍(たが)を締めているということだろうと思います。歌舞伎に敬意を払いつつも、きっちり一線を引いて、自分たちの表現法を堅持しているということです。これは大事なことですね。

本稿締めに入りますが、吉之助は木ノ下歌舞伎を「これが現代の歌舞伎だ」なんて言うつもりは全然ありません。そもそも木ノ下歌舞伎の方たち自身もそんなことは言われなくないと思います。しかし、木ノ下歌舞伎は歌舞伎の現状に対する問題提起たり得ていることを、吉之助は認めたいと思います。この問題提起に本家の歌舞伎はどう応えるかということは、とても大事なことなのですが、本稿で結論付けるはまだまだ早い。このことは、これからじっくり考えることにしたいと思います。

*木ノ下歌舞伎のサイトはこちら

(H29・6・20)


○平成29年5月木ノ下歌舞伎:「東海道四谷怪談」・その5

ところで野村萬斎が芸術監督を務める世田谷パブリックシアターが発行している「SPT」という雑誌がありまして、その第7号に「私の古典の活かし方〜気鋭の劇作家・演出家13人に聞く」という 記事がありました。あなたにとって「古典」とは何か、古典を自らの作品にどのような取り入れるかなどの質問を、現代演劇の分野でご活躍の若手劇作家・演出家にアンケート形式で問うものです。

これを読んでいて興味深いと思うのは、「あなたが考える古典の特質とは何でしょうか?古典を古典たらしめている条件をいくつか挙げてください」と正面切って問われると、みなさん結構身構えてしまう感じがあることですねえ。普段は形式にとらわれない自由な演劇を目指しておられる割には、読んでいて アレッと思うようなユニークな答えとか、読んで吹き出してしようような珍答がないのです。そうストレートに問われても困っちゃうなあ・・・面白いエンタテイメントを作りたいと思って奮闘してるだけなんで、そんな小難しいこと考えたことあんまりないんだよなあ・・別にお題目で芝居作ってるわけじゃないから・・・と戸惑って身体を硬くしているのが如実に伝わってきます。しかし、多分、これは答えるのが外国人の劇作家や演出家ならば、身構えることなく自分のスタンスを率直に話ができると思います。大体、雑誌など読んでいても、作家・演出家や役者のインタビューは、外国の方のほうが読み物として段違いに面白いです。日本の方ももうちょっとそういう訓練をした方が良いようです。お題目は大事だと思いますよ。

そのなかで木ノ下歌舞伎主宰の木下裕一の回答は「ホウなるほどね」と思うところがありますが、これは木ノ下歌舞伎が歌舞伎という古典に対峙する劇団ポリシーであるのだから、他劇団の方よりも古典に対するスタンスが明確であるのは、これは当然のことです。木下はこんなことを書いています。

『例えば、あまりに薄っぺらいメロドラマ思考に改作された歌舞伎などは、現代と古典とのズレを暴力的に無視しているように見えて嫌いですし、「古典には普遍性があるので、どの時代にも通用し、人の心を打つ」といったような考え方は安直だと思います。そんなに古典は簡単なものではなく、むしろ、現代とのズレをどう見せるのか、どう料理するのかが重要だと思います。』(木下裕一、雑誌「SPT」・第7巻・特集「古典のアップデート」)

この木下の指摘はまったく正しいと思います。そこで大事なことは、歌舞伎に係わる者たち(批評をする吉之助も含まれます)が、この痛い指摘を受けて、何を返さねばならぬかと云うことです。平成の時代に歌舞伎を演じることは、どうやったって江戸と平成の時代のズレが生じるわけです。このズレを、時代遅れで古臭くて 、もはや思い出す価値もないものだと切り捨てるのではなく、平成という時代の有様をハッと気付かせるきっかけとなるように、そのズレを反義的に際立たせることが出来なければ、封建思想・忠君思想の芝居を現代に見る価値は あまりないわけです。この点において木ノ下歌舞伎が断然有利であるのは、そこのところを脚本を自在に作り替えて、台詞に現代語を挿入して、女優も起用できるし、現代の風俗や音楽・演技手法を自由に取り入れることで、現代と古典のズレを際立たせることが出来るわけです。

ところが本家本元の歌舞伎は、そのような方法を取ることが出来ません。江戸から伝わった在来手法でしか芝居を演じられない。この約束事を崩すことは絶対できません。これは考えようによっては重大なハンデキャップであるわけですが、そうすると歌舞伎が、現代と古典のズレを際立たせることが出来ないことは仕方がないことなのでしょうか。現代と古典のズレの狭間で朽ちることが歌舞伎の宿命だと諦めるしかないのでしょうか。そういうことを歌舞伎は真剣に考えなければならぬと思うわけです。(この稿つづく)

(H29・6・17)


○平成29年5月木ノ下歌舞伎:「東海道四谷怪談」・その4

歌舞伎を題材に現代風のアレンジをしてエンタテイメントに仕立てるというのは他のジャンルでもあることですが、木ノ下歌舞伎が他と異なるとすれば、彼らはオリジナルの歌舞伎を強く意識することで(真似する のでもなく拒否するのでもなく)、歌舞伎への愛と尊敬を以て、結果的に歌舞伎への批判形(アンチテーゼ)となり得ているということ だと思います。芝居の原点は脚本だというところを、きっちり押さえていることです。だから木ノ下歌舞伎は歌舞伎風味の現代劇というのではなく、しっかり歌舞伎から発した現代劇になっています。それが原作の徹底した読み込みから行われている、そこがポイントだと思います。

「四谷怪談」は読めば読むほど吉之助はそう感じますが、例えばお岩と伊右衛門の関係性を重視した上演ならば、「夢の場」を 省くことはあってはならないです。「夢の場」を読めば、結局、この夫婦は何やかの云っても、本質的に惹かれ合っていることが、明白に分かります。どうしてこの夫婦は破局し、こんな無残なことになってしまったのだろうか、何を間違ってしまったのか。それは塩治家の殿様である塩治判官が殿中で高師直に斬りつけて突然の切腹・御家断絶という事態となってしまったことから来てい ます。それがなければこの夫婦は安穏に暮らせていたはずです。伊右衛門夫婦だけでなく、主人が馬鹿なことをしたばっかりに、塩治家郎党すべての人生設計が狂わされ ました。 すべての破綻がそこから始まっています。(次いでながら「忠臣蔵」というのは結局、そういうドラマなのです。)

残念ながら本家歌舞伎の「四谷怪談」はすっかりお化け芝居にされてしまって、如何にお岩のお化けで観客を怖がらせるか(仕掛けが大事ね)、伊右衛門をお岩の怨念の凄まじさに対抗できる虚無的な大悪人(色悪)にどう仕立てるかというところに主眼が置かれています。まあそれも「四谷怪談」のひとつの読み方であるでしょう。伝統で洗練されたところの歌舞伎の手法の粋ということでしょう。けれど、南北の作意とは全然違うところで芝居が捻じ曲げられています。「夢の場」を読めば、 「恨めしや伊右衛門どの・・・」と言えば言うほどお岩は伊右衛門に惹かれています。一方、伊右衛門は、お岩の面相変えたわけではない(それは伊東家の人間が勝手にやったこと)・お岩を殺したわけでもない(家に帰ってみたらもうお岩は死んでいた)、まあ結果的に女房を裏切ってはいますが、「俺のせいじゃないよ、どうして俺がそんなに恨まれなきゃならないのよ」ということで逃げ回っています。そういう伊右衛門も、どうしようもなくお岩に惹かれています。こんなに惹かれあっていた夫婦が、どこでどう間違ってこういう関係になっちゃったのかねえ、悲しいことだねえ・・・ということが、「夢の場」 の主題です。だからお岩と伊右衛門の関係性を考えるために、「夢の場」は是非ともなければならない場面です。

現在の本家歌舞伎では、この点の改善はもはや期待しても仕方がない状況かも知れません。興行形態とか複合的な問題があることは大人の事情として察せられます。しかし、少なくとも云えることは、原作の理解から発した議論がまったくないことです。芝居の原点は脚本だというところがすっかり抜け落ちて、興行側(役者含む)の都合で、芝居が捻じ曲げられています。現行歌舞伎の「四谷怪談」もそうやって、作者南北の作意とはずいぶん違うものになってしまいました。木ノ下歌舞伎は現代演劇の視点から、現行歌舞伎が取り落としてきたものが何であるのかを教えてくれます。(この稿つづく)

(H29・6・12)


○平成29年5月木ノ下歌舞伎:「東海道四谷怪談」・その3

木ノ下歌舞伎はもちろん様式的に歌舞伎ではありませんが、気分においては歌舞伎的なものを踏襲しています。だから彼らは木ノ下「歌舞伎」と称しているのだと思います。それじゃあ吉之助にとって歌舞伎的なものと云うのは何かというと、これは吉之助の論考のいろんなところで出て来るので詳しい説明は省きますが、それは「今わたしがしていることは本当にわたしが望んでいることではない」という気分です。この気分は様々なフォルムで現れます。荒事のような強い調子で出ることもあるし、和事のようなナヨッとした感じで出ることもあるのです。義太夫狂言の、熊谷直実の物語、政岡のクドキのような形で出て来ることもあります。しかし、気分としてはどちらも「今のわたしは本当の自分を心ならずも裏切っている」というものをその心底に持つのです。これが吉之助の、気分から見たところの歌舞伎の定義です。だから、この気分を持つものは、 どんなものでも、その意味において歌舞伎的だと云えます。(吉之助はグランド・オペラも歌舞伎的なものとして見ていることは、ご承知の通りです。別稿「歌舞伎とオペラ」をご参照ください。)

例えば助六は江戸初期のかぶき者です。かぶき者とは「生き過ぎたりや」(俺は生まれる時代が遅すぎた、この時代は俺が望んだ時代ではない)という気分で半ば捨て鉢に生きている若者です。ただし、江戸期の彼らには法の下での平等とか・基本的人権の尊重とかいう観念はまだありませんから、それは掴みどころのない・形をなさないイライラした気分にしかなりません。一方、現代のロックのリズムにおいては、これは個人の自由を阻害するものに対する憤懣あるいは憤りを孕むもので、社会・世間・慣習・掟など個人に対立する対象を明確に意識しています。そこが微妙に異なるのですが、「今わたしがしていることは本当にわたしが望んでいることではない」という気分においては、これをひとつに括ることが出来ます。

だから舞台に見る花川戸の助六は、六本木で髪の色を極彩色に染めてサングラスして派手な服着て肩をいからせて強面で通りを歩いているアンちゃんと同じだという理屈も、当然あるわけです。現代演劇で現代服で現代語で「四谷怪談」をやっても、それは気分において歌舞伎的なものを踏まえたものに出来るのです。民谷伊右衛門も、直助権兵衛も、佐藤与茂七も、みんな「今わたしがしていることは本当にわたしが望んでいることではない」という気分を持っているからです。これが 南北の「四谷怪談」を現代演劇に変換するための、演劇的な根拠です。木ノ下歌舞伎の「四谷怪談」を見て、吉之助が見ても違和感を覚えないのは、そのせいです。

ただし吉之助は歌舞伎の批評家ですから、木ノ下歌舞伎の「四谷怪談」を見て、ただ感心しているわけにはいかないのでねえ。本家本元の歌舞伎の方は何してるんじゃい。現代演劇がこれだけのことができるならば、歌舞伎オリジナルの「四谷怪談」はこれだ、これが本家の底力であるぞ、どうじゃおそれ入ったか・・・と云う舞台を歌舞伎は見せ付けられるのだろうか、まあそういうことを考えながら、木ノ下歌舞伎の「四谷怪談」を見ていたわけですがねえ。(この稿つづく)

(H29・6・9)


○平成29年5月木ノ下歌舞伎:「東海道四谷怪談」・その2

木ノ下歌舞伎の台本は、まず木下裕一が歌舞伎の台本を基にたたき台となる補綴台本を作り大体の場割りを作る、次に杉原邦生(今回上演の演出担当)がこれを基に歌舞伎の台詞を現代劇にリライトして上演用台本を作るという 二段階で出来上がるそうです。時には歌舞伎オリジナルの台詞を生かし、現代語の台本のなかに古文調の台詞を散りばめます(正確に云えば古文調が残ったということなの かも知れないが)。

今回の舞台を見て吉之助が感心したのは、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」原作をとても素直に読んでいるなあということです。普通だと現代的視点で歌舞伎を切って新しいドラマを作ろうと肩に無理な力が入りそうなところです。ところが木ノ下歌舞伎の台本には、解釈に奇をてらったところがありません。もちろん現代劇として面白く見せようという工夫はありますが、そうでないと現代劇にはならないし、そもそも現代劇にする必然性がなくなるわけで、それが原作からかけ離れた発想から出て来るのではなく、南北が現代にいてアングラの「四谷怪談」を書き下ろしたら如何にも有りそうな発想なのです。だから吉之助が見てもあまり違和感を感じない舞台でした。

これは最大級の賛辞に読めると思いますが、その通り受け取ってもらって結構です。むしろ吉之助は歌舞伎の現行上演台本の方が、上演時間は4時間程度(休息含む)に収めたい、お化け芝居として観客を怖がらせたい、伊右衛門は色悪だからカッコ良い極悪人に見せたい、お岩の哀れさも出したいねえ、その他の役はまあいいや、以上を踏まえたうえで一応筋を通したように見せねばならぬという感じで、南北の原作を捻じ曲げているところが多いと思います。役者の方も、南北を黙阿弥の手法でしか処理できない。役者の演技のテンポが遅くなってしまったおかげで、今や三角屋敷も夢の場も時間の関係で上演ができない。台本のあちこちがカットだらけ。南北の作意なんてことは全然考えてない。上演側と役者側の折り合いで、まっこの程度ならいいかなというのが、歌舞伎の現行上演台本だと思います。吉之助が四十数年見て来た間でも、「四谷怪談」にもはや定型はなく、やる度に芝居の規格がどんどん崩れて行っている感じがします。いつぞやは蛇山庵室が始まる前に舞台番なる役者が登場してカットした前場の三角屋敷の粗筋を説明するというのがありました。まあ筋を通せていない申し訳なさを感じていることだけは分かりますが、こう云うのどう思いますか?

それと比べれば、木ノ下歌舞伎の台本は、現代語の台詞に置き換えてはいるけれども、はるかに作者南北に対するリスペクトを感じさせる台本です。考えてみればこれは奇妙なことですが、現行歌舞伎よりもできる限り「原作に戻した」ような感じがするわけです。原作をその通りにやれば10時間は掛りそうな分量だとのことなので、今回の上演6時間(休息含む)でもかなりのカットはやむを得ないところで、さすがに第3幕は急ぎ足の感がありましたけれども、南北さんの為に誠心誠意やるべきことはやれていたという印象を吉之助は持ちました。

それじゃあこれが現代にふさわしい歌舞伎の在り方かと問われれば、別に吉之助はそんな大層なことを考えているわけではありません。木ノ下歌舞伎の人たちだって「これこそ現代の歌舞伎だ」と主張する気はないと思います。それはまったく別次元の話です。しかし、ここには歌舞伎的なものが確かにあります。歌舞伎のドラマを良く読んで咀嚼して、これを自分のスタイルに消化できています。このことは認めて良いと思いますね。(この稿つづく)

(H29・6・7)


○平成29年5月木ノ下歌舞伎:「東海道四谷怪談」・その1

木ノ下歌舞伎の評判は以前から聞いてはいましたが、吉之助はこれまで見る機会がありませんでした。2年前だったか(平成27年6月)池袋に行ったらちょうど「三人吉三」が掛かっていて、これは大歌舞伎ではやらない場面も含めて上演時間約5時間という大作ということでこれはちょっと興味があったのですが、こちらも予定があったので結局見れず終いでした。今回やっと木ノ下歌舞伎を見ることができたので、本稿では思ったことなど徒然なるまま書いてみたいと思います。

最初に感想を書いちゃいますが、普段歌舞伎ばかり見ている吉之助もあまり違和感を感じず、なかなか面白く見ることが出来ました。芝居というのは不思議なもので、 背広姿でベルトに刀さした男が舞台に立っていても、様式的には無茶苦茶なものですが、何となくそんなものとして見えるのですねえ。「バッキャロ、ざけんじゃねえよ、マジむかつく、ううむ思えば思えば、この仕返しはきっと必ず」と台詞に現代語に古文調が交錯しても、これも様式的にはごちゃ混ぜですが、舞台だとそんなものとして聞こえるのだから不思議なものです。まあ歌舞伎でも平安時代や鎌倉時代のことを江戸の風俗と言葉で描いているのを、我々はそんなものと畏まって見ているのだから、同じようなものなのです。木ノ下歌舞伎はそういうことを改めて気付かせてくれます。

ただし、吉之助は歌舞伎座の「忠臣蔵」でも背広姿の由良助が登場して現代語をしゃべっても良いと考えているわけではありません。これはまったく次元が別の話です。吉之助は歌舞伎の批評家ですから、芝居が面白くなきゃならないのはこれは当たり前のことですが、現代における歌舞伎へのアンチテーゼとして、平成の歌舞伎が歌舞伎的なものを持ち続けるために何が足りないのか、何を付加すれば良いのか、そういうことを考えながらでなければ、木ノ下歌舞伎の舞台を見ることは出来ないです。しかし、吉之助のような意地の悪い観客にも考えさせる材料を木ノ下歌舞伎はいろいろ提供してくれました。

鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は、ここ数年くらい、歌舞伎以外のいろんなジャンルの劇団が毎年どこかで取り上げているようです。古典演目のなかではよく知られた演目なので、お客が呼びやすいということもあるでしょう。それだけ現代演劇の制作者から見て興味を惹く演目である、平成の世にも通じる何かがあるということなのでしょう。生きることの意味が見いだせなくて、流れにまかせて刹那的に生きている若者たちが似るのですかねえ。その傍らで仇討々々と云って息巻いている若者たちもいるわけですが、これも彼らがホントに望んでいることかと云うと、これもよく分からない。そういうわけで、文化文政期の江戸と、平成の東京がなんとなく重なってくると云うわけです。

それにしてもこの木ノ下歌舞伎の「四谷怪談」の舞台を、もし本家の歌舞伎役者が見たら、どんなことを感じるのでしょうか。羨ましく感じるのでしょうかねえ。衣裳を現代風にして、台詞に現代語を混ぜて、背景音楽はロックやラップのリズム、 テンポはずっと速い、こういうことが自由自在に出来るのは、確かに木ノ下歌舞伎の強みです。本家の歌舞伎がこれをできないのは、考えようによっては歌舞伎のハンディキャップかも知れません。歌舞伎は江戸という時代に縛られて固定化しているからです。しかし、芸術において制約のないものはないのであってねえ、それがなければフォルム(様式)は生じません。だからこのハンディキャップを、自由な表現を阻害する障壁と考えるか、自らのフォルムを研ぎ澄ませる為の牙城と考えるかによって、歌舞伎の在り方は180度変わるということかと思います。(この稿つづく)

(H29・6・3)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その9

本稿その5において「又平には将監がたじろぐ過剰性がある」ということを書きました。吉之助は、こ れが「吃又」 という芝居の鍵だろうと思います。又平は内面に籠もったまま吐き出せないで胸のなかに詰まった思いが人一倍多過ぎるほどに多いのです。絵に関することだけでなく、世の中のこと、人生のこと、その他さまざまなことに関する鬱々とした思いです。 こういう強い思いは芸術家の創作の動機に繋がるものですから、それが強いことは芸術家には必要な要件です。しかし、これを制御し、ひとつの様式(フォルム)に昇華して作品として提示できなければ、芸術家としてはまだまだということになるのです。 又平はこれまでにも良い作品を沢山描いたでしょうが、又平が師匠になかなか認められなかったのは、又平が内なる情念の制御がまだ十分でなかったからに違いありません。又平が死ぬと覚悟を決めてその前に「姿は苔に朽つるとも・名は石魂にとどまれ」と我が姿を手水鉢に描いた時、初めて又平は内なる情念を制御する技を会得したのです。描いた絵が手水鉢を突き抜けるという奇蹟がそのことを示しています。これを見て将監は又平を認め、土佐の名字を許します。それは又平が開眼して絵師としてもう一ランク上になったということです。「吃又」 をそういうドラマに読みたいと思います。

ですから又平の発声障害の件も、自分の気持ちを素直に、正直に、言葉で上手く表現が出来ない。だから師匠に自分の気持ちを伝えられない。だから師匠が自分の気持ちを分かってくれない。これも俺の発声障害のせいだと又平は嘆くわけですが、抱えている様相はまったく同じで、どちらも根本的な問題が又平の芸術家・或いは人としての内面の制御というところに深く係わっているということです。それが証拠に、これは「吃又」の舞台を見ればすぐ分かることですが、又平が将監に認められて土佐の名字を授けてもらった後からは(つまり又平が内面の制御の奥義を会得した後には)、節が付いた文句なら又平はちゃんと語れますということになって、又平の発声障害はまったく問題にならないのです。

もともと吉右衛門は飾り気のない実直な人柄が浮世又平の仁によく合っており、これまでも優れた「吃又」の舞台を見せてくれました。しかし、今回(平成29年4月歌舞伎座)の吉右衛門が さらに良いのは、これを円熟の境と云うのでしょうかねえ、身体に無理な力が入っていなくて、ホントに又平その人に見えたことです。頑固で要領が実に悪いのだけれど、可笑しなことをするとか愛嬌で見せるとか・そういうことをするでもないのに、何となく憎めない。そのような又平の人柄を自然体で描けています。

それと菊之助のお徳が良いですねえ。後半の、夫婦が死を決意してからの場面のお徳ならば、その情味と真剣さにおいて、どのお徳役者もそれなりのものですが、菊之助のお徳は前半がとても良いと思います。発声障害の夫をサポートして、しかもまったく出過ぎたところがありません。吉右衛門の又平に対して、とてもバランスが良いお徳なのです。義父である吉右衛門からは、昨年の知盛を始めいろんな役の伝授を受けていると思います。吉右衛門の又平に お徳で付き合えるということが、菊之助にとってどれほどの糧となるかということは云うまでもないですが、ホントに順調に菊之助は貴重な体験を積んでいるなあと、それを見ている吉之助もとても嬉しく思います。

(H29・6・1)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その8

大津絵というのは近江大津の追分辺りで土産物として売られていた素朴な肉筆の仏画です。その絵は無落款であり、誰が書いたのか分かりません。描き手は絵師とさえ呼 ばれぬ無名の人たちでした。大津絵の長い歴史のなかで実に多くの描き手が存在したでしょうが、そのなかで大津絵の画風(スタイル)のようなものが何となく決まってきます。誰が書いても同じような絵だから「個性がない」とも云えますが、総体として見れば、それは確かに「大津絵風」と呼べる画風を持っています。大津絵は底辺(民衆)から生まれたものでした。大津絵は素朴な民衆画ではありますが、描き手の気持ちがこもっているものならば、その尊さに於いてそれは如何なる芸術品にも劣りはせぬでしょう。江戸期の民衆は「吃又」の舞台を見ながら、そういうことを考えたと思います。

江戸時代というのは、町人文化の時代とも云えます。民衆のエネルギーとか創作意欲というのはいつの時代にだってあるものですが、そういうものが目に見える形となって下から突き上げるように現れるのは、江戸時代からのことです。それまでは民衆のエネルギーは、模糊とした形にならないものとしてはあっても、まだ明確な形になっていませんでした。「文化」とか「芸術」とか云うものは、上(為政者)から降りて来るものでした。江戸時代になると、それが下(主として町人階級)から湧き上がり始めます。芸能の分野においては、それは人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎であることはもちろんです。絵画の分野においては大津絵がそのような民衆の創作意欲の現れであると、近松門左衛門は認めたに違いありません。「大津絵なんて、あんなもの二束三文の反古に過ぎない」という見方は当時も根強くあったに違いありません。それを師匠になかなか評価されない浮世又平の境遇に重ねつつ、「吃又」のなかで近松は底辺の芸術家たちの「気持ち」を正しく見つめていたのです。

「傾城反魂香」は宝永5年(1708)竹本座での初演ですから、 浮世絵はまだごく初期の墨摺絵の時代であり、後の色摺り浮世絵の隆盛を近松は知らないわけです。(色摺り浮世絵が登場するのは、明和2年(1765)のことです。近松が亡くなったのは享保9年(1725)のことでした。)したがって、近松が浮世又平(=岩佐又兵衛)を浮世絵の始祖としたわけではないですが、結果として、近松は民衆絵の隆盛の方向を正しく予見したということになると思います。(この稿つづく)

(H29・5・29)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その7

「反魂香」とは焚くとその煙のなかに死んだ者の姿が現れるという不思議なお香のことを云います。その典拠は中国の故事にあります。唐の詩人・白居易の「李夫人詩」のなかに、漢の武帝が最愛の李夫人を亡くした後、道士に霊薬を調合させて金の炉で焚き上げたところ、その煙のなかに李夫人の姿が見えたとあるそうです。近松の「傾城反魂香」という題名は、直接的には中の巻で狩野四郎二郎元信に嫁いだみや(昔は傾城遠山)が現れますが、実はみやは既に亡くなっており現れたのは亡霊なのですが、元信はみやの願いで香を焚いた寝室のなかで熊野三山の絵を襖(ふすま)に描いて、二人はこれを背に熊野詣での道行をする(三熊野かげろう姿)という場面から来ています。 煙のなかに姿を現わす者(見られる者)とその姿を見る者の間の相互の強いポジティヴな思いをそこに感じることができます。

「吃又」の最初の場面に現れる虎は、「吃又」の場だけ見ると何の為に出て来るかさっぱり分かりませんが、その前の場面(江州高嶋屋形の場)において捕われの身になった元信が自らの肩を噛み・流れ出る血を口に含んで襖に吹きかけ・口で虎を描いたものが抜け出して・元信の窮地を救うのですが、この虎こそ「吃又」に出てくる虎なのでした。だから虎は、雅楽之助の登場で関連が何となく明らかになりますが、(傾城遠山の父である)将監に 元信の危急を知らせようとして現れたに違いないのです。一方、「吃又」の奇蹟は、又平が自害しようとしてその前に「姿は苔に朽つるとも・名は石魂にとどまれ」と我が姿を手水鉢に描いたものが鉢の裏まで抜けたものでした。「吃又」の次の場(又平住家の場)では又平が描いた大津絵のキャラクターが抜け出して又平を加勢します。これすべて絵に関連した奇蹟です。どれも絵を描く者(絵師)の強い思い(芸術的な一念)がまずあって、絵師の強い思いを帯びて描かれた絵が生きて現世に抜け出るという経過を示しています。すべて絵師の一念が引き起こす反魂香の奇蹟なのです。

絵師の一念とその起こる奇蹟「傾城反魂香」に一貫する主題なのですから、「吃又」のドラマもその線で読まねばならぬと思います。吉之助が思うには、又平は頑固なほど真面目一方な男ですから、アルバイトで大津絵を描いても真剣に描いて、決して手を抜くことはなかったはずです。しかし、師である将監は又平が大津絵のアルバイトをしていることは知っていても、まだ又平の大津絵を見 たことはなかったのではないでしょうか。宮仕えの絵師であった将監としてみれば、旅人が旅の土産に買い求める市井の民衆絵など如何ほどのものとも思わぬと云う先入観(偏見)があるのも当然です。大和絵の修行もせずに大津絵のアルバイトばかりしおって・・と将監は苦々しく思っていたでしょうが、絵師がその真剣な思いを以て描くならば、旅の土産の大津絵も、その価値において御殿の大和絵と何の違いもないことを、又平の手水鉢の奇蹟を見て将監は悟 ったに違いありません。将監が又平の画業における功を認めて、又平に土佐の名字を与えたということは、劇中で素朴な民衆絵に過ぎないとされていた大津絵の価値が社会的に認められたことを示すものです。 さらに江戸期の民衆は、その後の浮世絵の隆盛を重ねて見ていました。江戸期の民衆は浮世又平(=岩佐又兵衛)のことを、大津絵の価値を社会的に高めた絵師であり、その後の浮世絵の始祖であると信じていたからです。(この稿つづく)

(H29・5・21)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その6

「吃又」の舞台を見て生じやすい誤解は、又平が出世できないのは発声障害のせいだ、そのために又平は将監に不当な差別を受けると云う見方です。劇評でもそんなようなことを書いているのを見かけますが、誤解ですねえ。そのような誤解は、例えば又平のこんな台詞から出て来ます。

「(将監に対し)モモモもうし、モモもうし/\、エエさりとては、ゴゴゴゴ御承引ないか、ゴゴゴゴ御承引ないか。吃りでなくばココかうはあるまい。エヽエヽエヽエヽ恨めしい。咽ぶえを、カカかき破ってのけたいわい女房ども、サヽヽヽヽさりとはつれないお師匠ぢゃ」(又平)

又平のこの台詞を受けて、将監も「不具の癖の述懐涙不吉千万。相手になって果しなし」と云うようなことを確かに言っています。しかし、これは会話の流れからそうなっているだけのことです。将監は又平の発声障害が嫌って差別しているのではありません。将監の本意は、次の台詞にあります。

『汝よく合点せよ。絵の道の功によって土佐の名字を継いでこそ手柄とも言ふべけれ。武道の功に絵かきの名字、譲るべき子細なし。』

又平を出世させるか否かは、あくまで絵の道の功に拠る、又平にはそれがないと、将監は言うのです。ここをしっかり押さえておかねばなりません。そうでないと、「吃又」のドラマが全然違う方に行ってしまいます。そうだとすれば、又平が「吃りでなくばココかうはあるまい。エヽエヽエヽエヽ恨めしい。咽ぶえを、カカかき破ってのけたい」と嘆くのは、何故なのか。ドラマを素直に読むならば、その答えは簡単です。

自分の気持ちを素直に、正直に、言葉で上手く表現が出来ない。だから師匠に自分の気持ちを伝えられない。だから師匠が自分の気持ちを分かってくれない。これも俺の発声障害のせいだと又平は嘆いているのです。師匠を責めているのではありません。自分の気持ちを正しく伝えられない自分の不幸を嘆いているのです。

感情が高ぶった会話の勢いで、又平が「さりとはつれないお師匠ぢゃ」と言い、将監が「不具の癖の述懐涙不吉千万」と言い返す。そんな会話の詰まらぬところに引っ掛かるから、要らぬ誤解が生じます。「吃又」のなかで又平が引き起こす奇蹟、これに感動して又平に土佐の名字を与える将監のことを考えれば、正しい読み方はひとつしかありません。(この稿つづく)

(H29・5・15)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その5

修理之助が手柄を立てたのを見て、又平は自分にも何か功を立てさせてくれと懇願しますが、将監は聞き入れません。又平があんまりしくこいので、将監も思わずカッとして脇差に手を掛けます。すると又平がさあ切ってくださいと、背中を向けて座り込みます。ここで、将監が嘆息して云う台詞が、「こいつ師匠を困らせおるわい」です。

戸板康二は、「すばらしいせりふ」のなかでこの台詞を挙げて、特に名せりふとも云えないが、脇役が上手いと特に耳に残る台詞だと書いています。芝居の世界では、その昔は「困る」ことを「将監」と内々に言ったそうです。今回(平成29年4月歌舞伎座)での歌六が演じる将監は、この「こいつ師匠を困らせおるわい」がとても良かったですね。

戸板康二:すばらしいセリフ (ちくま文庫)

「こいつ師匠を困らせおるわい」という台詞には、将監が「まいった、まいった」と云う気持ちと、又平に対する師匠としての愛情がよく出ています。もともと将監は又平が憎いわけではないのです。そもそも師匠と云えば親も同然、弟子子と云えば子も同然という関係なのですから。それにしても、又平にはちょっと将監がたじろぐような過剰性があります。それは我が強いということでもあり、情熱が強いということでもあり、生一本ということでもあり、悪く云えば融通が効かない、頭が固いということでもありますが、とにかく内面に籠もったまま吐き出せないで胸のなかに詰まった思いが人一倍多過ぎるほどに多いのです。それが分かるだけに将監にとってはいじらしくもあり、そこが煩わしくもあるということです。もちろん結果的にはその過剰性が絵を抜ける奇跡を引き起こすることになるのですが、まだそれは後でのことです。将監には知る由もありません。(この稿つづく)

(H29・5・12)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その4

「吃又」のなかで、どうして又平は末弟の扱いを受けねばならないのか、発声障害の故なのかということですが、吉之助が丸本を読む限りでは、土佐将監が又平に印可の筆を与えないのは、発声障害は確かにハンディキャップであるに違いないですが、一番の理由は又平は絵においてまだ功がないと見なされてきたからだと思います。将監はこう云っています。

『修理は只今大功あり。おのれに何の功がある。琴棋書画は晴れの芸、貴人高位の御座近く参るは絵かき。ものをえ言はぬ吃りめが推参千万。似合うたやうに大津絵描いて世を渡れ。』

『汝よく合点せよ。絵の道の功によって土佐の名字を継いでこそ手柄とも言ふべけれ。武道の功に絵かきの名字、譲るべき子細なし。』

将監が又平は絵の功がないと見なした理由のひとつは、又平が大津絵を描いて生計を立てていたからです。将監は、又平がアルバイトに精を出して、本業の大和絵の修業に身を入れていないと見たのです。将監が現在置かれている状況を考えれば、将監が又平に対して何故怒っているのか分かります。

『コリャこの将監は、禁中の絵所小栗と筆の争ひにて、勅勘の身となりたるぞ。いまでも小栗に従へば、富貴の身と栄ふれども、一人の娘に君傾城の勤めさせ、子を売って食ふほどの貧苦を凌ぐは何故ぞ。土佐の苗字を惜しむにあらずや。』

自分は勅勘を受けた身であるが、ライバルにへつらえば一応の生活ができるのにそれもせず、一人娘に君傾城の勤めをさせねばならないほどの貧苦に堪え続けているのは、土佐の苗字を惜しむからだぞと将監は云っています。前後の段を見てみれば、何やら政争があって将監はそれに巻き込まれて勅勘を受けたようです。 政治に負けたのであって、絵の力量で負けたのではない。だから将監はやせ我慢を続けているのです。師の自分が、土佐の名を惜しんで、これほど貧苦に耐えているのに、弟子のお前は生活が大変だからと云って大津絵のアルバイトに精を出すとは何事かと云う ことです。これは将監が怒る気持ちも分からなくはありません。

又平の発声障害については、将監は「厄介なことだなあ」とは思っていたでしょう。しかし、将監が又平に印可の筆を与えないのは、それが一番の理由ではないのです。又平にはまだ絵の道の功がない。それが証拠に大津絵のアルバイトに精を出してるじゃないかと、将監は又平のことをそう見ていたのです。(この稿つづく)

(H29・5・10)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その3

ところで江戸時代の民衆が浮世又平のモデルと信じていたのが、岩佐又兵衛(通称:浮世又兵衛)でした。岩佐又兵衛(天正6年〜慶安3年)は実在の絵師で、つい最近までその存在が忘れられていて、美術史のなかで又兵衛のことが語られることがほとんどありませんでした。しかし、砂川幸雄著 :「浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか」(草思社・1995年)をきっかけに、このところ又兵衛の再評価が始まっています。(別稿「岩佐又兵衛と吃又」を参照ください。)又兵衛は、フィレンツエのヴェロッキオ 工房のような独自の工房システムを持っていて、そこで絵を制作していたようで、その遺された作品群は題材も筆致もバラエティに富んで、画家としてのイメージも一筋縄で行かなそうです。そして近松の浄瑠璃 「傾城反魂香・吃又」の流行とともに、「浮世」が「浮世絵」と重なって、又兵衛は浮世絵の開祖と考えられるようになりました。「浮世絵類考」にも、又兵衛は浮世絵を始めた人で、大津絵の元祖でもあると書かれています。どうも江戸時代の人々は、素朴な大津絵が発展して、その後の浮世絵の元になったと考えたようです。このような俗説も、実は浄瑠璃「「傾城反魂香・吃又」から発しているのです。

砂川幸雄:浮世絵師又兵衛はなぜ消されたか

だから俗説には違いないですが、「吃又」浮世又平は浮世絵の元祖であると思って芝居を見れば良いのかも知れません。大津で土産物の絵を描いて暮らしていたしがない絵描きが、大和絵の師匠に立派な絵描きだと認められて、出世して浮世絵の元祖になりましたとさと云うお芝居であると、江戸時代の民衆はそう思って、歌舞伎の「吃又」を見たのです。このことはこの頃の歌舞伎の解説にあまり出て来ないようですが、とても大事なことだと思います。「吃又」は、誰も が愛する浮世又平の出世物語として、ハッピー・エンドが予測され た芝居でした。現在上演される「吃又」の六代目菊五郎型はシリアスな方向に傾いていますが、昔は、特に上方芝居では、又平を三枚目に仕立てて滑稽なドタバタの入れ事で見せたもので した。それも理由がないわけではなかったのです。

もちろん近松は「吃又」 のなかで又平を浮世絵の元祖としてはいません。浮世絵の歴史を見ると、元禄時代の少し前の1670年代末頃(延宝8年頃)に、当時の風俗を墨一色で摺った墨摺絵が登場して、その直後から浮世絵という言葉が出て来るようです。近松の「傾城反魂香」は宝永5年(1708)竹本座での初演ですから、 この頃はまだごく初期の墨摺絵の浮世絵の時代でした。ちなみに色摺り浮世絵が登場するのは、もっとずっと後の、明和2年(1765)のことになります。「吃又」 が歌舞伎の人気演目になったことが、その後の世間の又平浮世絵元祖説に大いに貢献したことは疑いがありません。

一方、大津絵の歴史を見ると、寛永年間(1624〜43)に近江大津の追分辺りで、誰が始めたのか、独特の仏画を描いて、旅人に絵を売り始めたのが始まりであるようです。描き手は名もない人たちであったらしく、 もちろん無款でした。最初は大津絵とか追分絵とかの呼び名もありませんでした。大津絵の題材は、仏画としては阿弥陀仏、十三仏、青面金剛、不動明王など。世俗画としては、藤娘、文読む女、女虚無僧、槍持ち奴、鬼の寒念仏、瓢箪鯰などがあります。

芭蕉の作として「大津絵の筆のはじめは(や)何仏」(元禄4年・1691)という句が有名です。これは「大津絵の絵師は正月の書初めに何の絵を描くのだろうか」と云う意味で す。この芭蕉の句が、文献的には「大津絵」という言葉が登場する最初であるそうです。 恐らくその頃から大津絵という呼び名が世間で次第に使われるようになってきて、宝永5年の近松の「吃又」の頃には、もう定着していたのだろうと思われます。

そこで「吃又」で、どうして又平が末弟の扱いを受けねばならないのかという問題に立ち返りますが、それは「吃又」冒頭の詞章を見れば分かる通り、又平は大和絵の土佐将監を師匠と して修行をしながらも、その傍ら大津絵を描いて生計を立てていたからです。(この稿つづく)

(H29・5・6)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その2

『ここに土佐の末弟、浮世又平(うきよまたへい)重起(しげおき)といふ絵かきあり。生れついて口吃り、言舌明らかならざる上、家貧しくて身代は、薄き紙衣(かみこ)の火燧(ひうち)箱。朝夕の煙さヘ一度を二度に追分や、大津のはづれに店借りして、妻は絵具夫は絵がく、筆の軸さへ細元手上り下りの旅人の、童すかしの土産物三銭五銭の商ひに、命も銭もつなぎしが・・・』

「傾城反魂香・土佐将監閑居の段」(通称「吃又」)の詞章です。このここに土佐の末弟」の文句が、どうしてそんなに重いのか。ちょっと見ではほんの軽い一節のようにしか見えませんが、一体どこがそんなに難しいのか。朝から晩までここに土佐の末弟」ばかり語らせて、どうして団平はそんなを大隅にしごいたのか。

吉之助はずっとこのことを考えてましたが、多分、こういうことだろうと思っています。浮世又平は本来ならば、土佐将監の末弟であるはずがないからです。土佐将監には何人弟子がいるか分かりませんが、芝居に出て来るのでは、又平の他に、彼より明らかに年若い修理之助がいます。だから修理之助が末弟であるはずです。しかし、事実は修理之助が末弟ではなく、又平が末弟の扱いを受けているのです。どうしてそうなってしまったのか、その理由については後で考えることにします。兎も角、又平はこの扱いを情けないことだと感じています。(注:これは又兵衛が師匠に対して怒っているとか不満を持っているとか、決して考えてはなりません。)又平はこの扱いに決して納得はしていないし、そこに甘んじているわけではないですが、しかし、又平は自分が末弟であることを 現実として認めなければなりません。又平は情けなくって仕方ないのです。
「義太夫・芸阿呆」の録音を聴くと、綱太夫の「ここに土佐の末弟」の「末弟」 (ばってゑ)の音遣いは、吐き捨てるようにとでも云うか、とても強く発声されています。ここに土佐の末弟」の文句に、又平の口惜しさと云うか、自分に対する情けなさが滲んでいるのです。

付け加えますが、又平の自分に対する情けなさと云うのは、しょぼんと肩を落として涙を流すというような弱いものではなく、芸に対する自分の未熟さに対する強い憤りとでも云うものです。それが綱太夫の「末弟」(ばってゑ)の強い音遣いに現れるものです。だから個を主張しようとしてそれが実現できない弱い己を叱咤するものと捉えて欲しいと思います。これは吉之助が云うところの、「かぶき的心情」の発露なのです。「吃又」では最後 の最後に又平の筆にこもった一念が奇跡を起こすわけですが、それは後でのこと。

「浄瑠璃素人講釈」の話に戻りますが、団平に「大隅よ、お前の語るのを聴くと、どうも下手になった気がして、どうも打たれぬ。お前が天性芸が上手なので、私がこうまで弾けぬのではないかとも思って、今思案をしているところじゃ」と皮肉を言われて、大隅は廊下の板張りに身を突っ伏して、自分の情けなさに大泣きに泣いて、その後にここに土佐の末弟」を語ったら、団平は三味線の撥を「トン」と叩いて「でけた」と云ったそうです。自分の芸の未熟さに対する大隅の情けなさと、又平の情けなさが重なって、ここに土佐の末弟」の音遣いに人情が表出できたということなのです。まあ芸道の話と云うと、人情噺か根性噺みたいな、このような話が多いですねえ。師匠を仰ぎ見つつ、ストイックに芸道を追い求める大隅の姿に何だかツーンと来てしまいます。其日庵は大隅の思い出話をする時には、いつでも目に涙を浮かべていたそうです。

そこでここに土佐の末弟」 の文句が重いということは大体理解できたとして、どうして又平が末弟の扱いを受けねばならないのか、師匠土佐将監が又平はまだまだ未熟だと判断する理由と云うのが何かあるはずです。そのことを次に考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(H29・5・2)


○平成29年4月歌舞伎座:「傾城反魂香・吃又」・その1

杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」に出て来る有名な話ですが、三代目竹本大隅太夫が三味線の名人・二代目豊沢団平に初めて稽古をつけてもらった時のこと、「吃又」の「ここに土佐の末弟、浮世又平(うきよまたへい)重起(しげおき)といふ絵かきあり。」の文句で、「末弟」の発声が団平の気に入らず、朝から晩まで「ここに土佐の末弟」ばかり言わされましたが、団平は三味線を構えたばかりで、とうとう「トン」の撥をおとさず、団平いわく、「大隅よ、お前の語るのを聴くと、どうも下手になった気がして、どうも打たれぬ。お前が天性芸が上手なので、私がこうまで弾けぬのではないかとも思って、今思案をしているところじゃ」と云われて、大隅は廊下の板張りに身を突っ伏して、大泣きに泣いたということです。後に大隅太夫は名人となって、「吃又」 といえば大隅と言われるほどの、得意演目としました。

山城少掾は「あんな怖い浄瑠璃はようやれまへん」と言って、遂に「吃又」をやらずに終わりました。それは大隅太夫の、この逸話のせいであったようです。山城少掾が逃げたのではないです。山城少掾は必死に勉強したと思いますが、これほど修行をしても満足に語れぬ浄瑠璃であると畏れ入ったまま、遂にやる機会を失ってしまったのです。

そこで「ここに土佐の末弟」の文句のことですけれど、どこがどうして怖い文句なのか。昔のことになりますが、吉之助もその怖さがどこにあるか、その意味がよく分からないまま、ずっと考えたものでした。歌舞伎でも文楽でも「吃又」をやる度、吉之助は「ここに土佐の末弟」を息を詰めて聴きますが、みなさんサラリとやってらっしゃいますねえ。一体、どこが怖いのか。サラりとやってらっしゃるお方が上手いのか。それが分からぬ吉之助が、駄目なのか。随分 考えたものです。今では一応、吉之助なりの見解を持ってはおります。それが正しいのかは分かりませんが、今回はまずそのお話をいたしましょう。

「浄瑠璃素人講釈」では、「末弟」の「イ」という産字(うみじ)が息に力なきために団平の気に入らず・・・とあります。これしかヒントがありません。産字とは、ある音(おん)を長く伸ばす時に、伸ばされて残る母音の部分のことを言います。例えば「し(SHI)」を長く伸ばすと、「し〜ィ」となって「イ」の母音が残ります。それが産字です。末弟」は「まってい」とも「ばってい」とも読 むけれども、義太夫の「吃又」では「ばってい」と語ります。恐らく「まってい」であると、最初のMの子音が舞台では飛んでしまって聴こえないので、「ばってい」と語るのでしょう。しかし、「ばってい」だと最後が産字になりませんねえ。これは「吃又」では、「い」の字をはっきり言ってはいけないのです。聴いた感じでは「ばって」に近いですが、「ばって」だと「え」が産字になってしまうので、これでは違います。多分、「ゑ」(「い」と「え」の中間音)が近いだろうと思います。これを産字とする。表記するならば「ばってゑ」となるかも知れません。 (正確に表示するなら「ゑ」を小文字にしたいのですが、そのようにお読みください。)

そこで「浄瑠璃素人講釈」の上記の逸話をラジオ・ドラマ化した安藤鶴夫の「義太夫・芸阿呆」( 八代目竹本綱太夫・十代目竹沢弥七・作曲演奏・昭和35年文化放送)の録音を参考にしたいと思いますが、ここで団平の台詞として、こうあります。

「あかんあかん、それでは、ツンと撥がおろされへん、よう聞きなはれ」
「ええか、いい切りが悪いよってに、わて、ツンと打てへんがな。ええか?」
「あかん!末弟の、イの字を押すのやないいうてんねんに」
「あかん!あかん!イの字を止めるのや」

これはドラマですから、団平は親切にいろいろヒントを与えてくれてますが、実際の稽古はこんなものではなかったようです。団平は「あかん」と云うだけで、何にも教えてくれない。大隅はじっと考え込んだまま長い沈黙が続き、やがて意を決したように大隅が「お願いいたします」と云う。団平が三味線を構える。「ここに土佐の末弟」と語ると、団平が「あかん」と云う。この繰り返しが延々と続いたのです。教わる方は地獄ですが、教える方も地獄です。

吉之助がこの録音を知ったのは、十七代目勘三郎がこの録音をベースに舞踊化した「義太夫・芸阿呆」の舞台(昭和56年1月歌舞伎座)でのことでした。十七代目勘三郎には忘れ難い舞台がいくつもありますが、個人的にはこの時の大隅太夫を勘三郎ベスト五役のひとつに入れたいくらいなのですがねえ。この舞台で吉之助はここに土佐の末弟」のことが何となく掴めた気がしたのです。ちなみに、この録音は今ではCDになっていて入手が可能です。(この稿つづく)

安藤鶴夫原作・義太夫「芸阿呆」~名人三代目 大隅太夫~(CD)

(H29・4・28)


○平成29年4月歌舞伎座:「熊谷陣屋」

このところの幸四郎の舞台は芸の円熟への確かな道程を歩んでいると感心することが多いですが、そのなかで「熊谷陣屋」と「勧進帳」はやはり幸四郎に取って図抜けて重い、それゆえ意識過剰になってしまうほど大切な演目であるのだろうとお察しをします。特に熊谷に関しては、祖父七代目幸四郎と共にもうひとりの祖父初代吉右衛門の代表的な当たり芸でもあり、父初代白鸚(八代目幸四郎)も得意芸としたとなれば、重さは格別なもので しょう。吉之助が何を云いたいのかといえば、直実と弁慶の二役に関して、吉之助から見るとどうでも良い些細な箇所を、幸四郎はちょこまかいじり過ぎるということです。心理表現をもっと精緻に、或は観客に分かりやすくという意図だと理解はするけれども、却って役の自然な大きさを損なっている。そこに幸四郎のこの二役についての意識過剰を見る気がします。両役ともに、もうそろそろ役の性根を自然に大掴みにするところが出て良い頃だと思います。

例えば熊谷が花道を組み手して出てきて、七三で立ち止まり腕を解くと、右手にかけた数珠が刀の 柄に当たってチリーンと微かに鳴る、オッと数珠を持ったままであったかと、それをさりげなく懐に収め・・というのは、熊谷が数珠を持っていることに観客の注意を向ける意図であるのは、もちろんよく分かります。しかし、映画で遺っている初代吉右衛門の最後の「熊谷陣屋」(昭和25年)を見れば、初代吉右衛門の熊谷は花道七三で止まることさえせず、チラッと数珠を見せるだけで、歩きながら数珠を懐に収めてしまいます。気付かぬ観客は気付かぬままでしょう。あの箇所は所詮、その程度の場面なのだと思うのです。熊谷役者が本気で工夫して汗せねばならぬところが別にあるはず。吉之助から見ると、幸四郎はどうでも良いところに凝り過ぎに思われます。逆に云えば、そのくらい幸四郎は何とかこの役を洗い上げたい使命を感じていると云うことでしょう。しかし、あんまり洗剤を使い過ぎると布地を痛める場合もあるのでは?

これは前回所演(平成26年11月歌舞伎座)には感じなかったことですが、今回の前半は熊谷の間が若干詰まった感じがしました。(後半は役が入れ込むせいか目立ないが。)これは熊谷の演技を小気味良く見せる長所もあるので必ずしも悪いことではないのですが、床の語りの末尾と熊谷の台詞の頭がわずかに被さる場面が四か所ほど見えました。熊谷の台詞の間合いがほんのわずか早いと感じます。例えば床の「(小次郎は息災でいますか)と問へば熊谷声荒らげ」の「げ」に、熊谷の「戦場へ赴くからは命はなきもの」の台詞の頭 の「せ」がわずかに被ります。これは良くありません。吉之助などは聴いていてウッと息が詰まります。吉之助は最初たまたまかと思ったのですが、どうも幸四郎は意図的に被せているようですねえ。これは義太夫の間合いではありません。恐らく相模を頭から押さえつけようとする熊谷の心が現れていると云うことだと思いますが、義太夫狂言の骨法は守ってもらいたいものです。

熊谷の幕外の引っ込みのことですが、杉贋阿弥も『(九代目)団十郎は調子と云い形と云い、自己本位に出家を夢と観じているので、こう悟ってしまうと「柊に置く初雪の」でボロボロ泣くのが揺り返しめいて連続しない(中略)、団十郎はとかく悟り過ぎて困る』と書いているくらいで、まあ九代目団十郎型の本質はそういうものです。(これについては別稿「型とは何か〜 八代目芝翫襲名の熊谷」で詳しく触れました。)そういう意味では、九代目団十郎型の、幕外引っ込みの自己本位の本質を、幸四郎の熊谷ほど拡大して生(なま)で見せてくれている役者はありません。しかし、そこは型の創始者が本当は隠して欲しい部分かも知れないということも、幸四郎も少しは考えてみても良いのではないか。吉之助も幸四郎の熊谷は何度見たことか、そろそろ心(情)と形容(型)との理想の配合のバランスを見出して欲しいと思って見てきましたが、「未だ結論を見いだせず苦悩しているなあ」と云うのが、正直な感想です。そこに幸四郎の熊谷という役に対する意識過剰を見る気がするのです。しかし、もうそろそろ吹っ切れて欲しいなあと思います。

(H29・4・24)


○平成29年4月歌舞伎座:「伊勢音頭」

最近は劇場の空調が効いているせいか、演目立てにホントに季節感がなくなりました。冬に「紅葉狩」が出たり、秋に「吉野山」が出たりするのだから、まあ4月に「伊勢音頭」が出てもどうってことはないですが、この「伊勢音頭」というのは代表的な夏狂言なんですよね。だから暑っ苦しい雰囲気くらいは出してもらいたいわけです。浴衣姿で団扇パタパタやってれば夏だと云うのでは、困ります。夏狂言の「夏」たる所以は、主人公が遂に切れて怒り出すまでの、虐められて耐えに耐え抜くイライラした場面にあるのです。つまり、虐めのプロセスが暑苦しく、それが拭ってもぬぐっても暑さがまつわりつく日本の夏にどこか似るのです。主人公福岡貢は仲居万野にいじられてもなかなか怒りません。これは別稿「ピントコナ考」で触れましたが、傍から見て 怒って当然と思うところで怒らず、なお優柔不断な態度をしていることは、観客からすると「おい貢、何んで怒らへんねん、はっきりせんかい、阿呆ちゃうか」ということになるのです。そこがイライラした夏の暑さに似るわけですが、そこで遂に貢がブチ切れて刀を振り回すから、観客はスカッとする。夏狂言はそのような造りになっているのです。

まず猿之助の万野について触れますが、貢に対する敵意・悪意がストレートに過ぎます。台詞がべりべり早すぎて、だから解りやすいと思う方もいるかも知れませんが、これでは夏芝居になりません。誰をお手本にしたのですかねえ、何だか故・勘三郎の万野に似た感じがしますが、ここはもっと陰湿に、ねちっこくやらねばなりません。どうして貢を虐めるのか訳が分からない、もしかしたら万野は貢に気があるので嫌がらせするのかと思うような感じでねっとりと嬲る、そこが夏の暑苦しさに似るのです。六代目歌右衛門か多賀之丞の万野の映像があるならば、是非見て 研究して欲しいものです。これを見れば、腕の立つ猿之助ならば、俺ならばああやって貢をいびりたい・こうやっていじめたいと、いろいろ工夫したくてたまらなくなると思いますがねえ。 芸には、まだまだ上があるんです。

染五郎の貢は、総体としては悪くはないです。しかし、万野が悪意を露わにしてぶつかって来れば、貢の方も頭に血が上った体で受けざるを得なくなるのは仕方のないところです。このため怒りのプロセスが単純になっています。貢が本当に怒るのは、お紺の縁切りまで取って置かねばなりません。染五郎の貢は、「万呼べ」の辺からもう切れて見えますねえ。貢が優柔不断な態度を取ってなかなか怒らないのは、見栄とかテレと云うような表面的なことではありません。これはもっと深く、貢が御師(おし・おんし)に設定されていることの本質に根ざしています。貢は今は伊勢御師ですが元武士であり、主筋である万次郎に尽くします。つまり貢はその本質によって自分を偽っており、「今私が見せている態度は、私が本当に感じていることとは違う」という、或る種のちぐはぐ感を呈するのです。このことは別稿「ピントコナ考」に詳しく述べましたから、そちらをご覧ください。

なお、これは今回に限ったことではなく、歌舞伎の「油屋」の舞台で気になることですが、いつ頃からこうなったのか分かりませんが、万野に偽文を投げつけられて貢が思わず立ち上がる時のツケは不要じゃないかと思いますね。この強いツケの打ち方ならば、ここで貢は切れてしかるべきです。しかし、この後にすぐ「女を相手に大人げない・・」と言っている通り、この時点での貢はまだ切れていません。それなのに、このツケはまるで時代物の如くの強い打ち方です。これは吉之助にはとても違和感があります。本来、世話物では、形を決める時にツケを入れないものです。最近は黙阿弥物でもツケを盛大に打つので、役者も観客も感覚が麻痺して いて、困ったことだと思います。これでは形を決めることと、見得との区別が付きません。「油屋」のことで云えば、貢は、お鹿にイライラさせられ、万野にいちゃもんつけられ、お紺に縁切りされてと、三段階で痛めつけられて、最後に切れるのです。歌舞伎の「油屋」での貢の怒りのプロセスについては、もう少し 工夫の余地があるようです。そのために「伊勢音頭」がどうして夏狂言なのかということに思いをはせてもらいたいものです。

(H29・4・18)


○歌う女優・ナタリー・デセイ来日リサイタル2017

ナタリー・デセイは卓越したコロラトウーラ歌唱とその演技力で、吉之助が贔屓にしていたオペラ歌手ですが、2013年にオペラからの引退を宣言し、現在はリサイタル活動に専念しています。前回(2014年)の来日リサイタルも素晴らしかったのですが、今回はリート(歌曲)だけでなく、プログラムのなかにオペラのアリア、モーツアルト(スザンナとパミーナ)とグノー(マルガリータ)のアリアを挿入したのが長年のファンとしては嬉しいことと、初めて聴くシューベルトのリートが聴けることも大いに興味があったので、4月12日に東京文化会館へ行ってきました。

デセイは自らを「歌う女優」と称しています。根っからの演技者なのです。これはマリア・カラスの印象と似た感じがありますねえ。遺された数少ないリサイタル映像で確認ができますが、カラスも曲が変わると、ガラッと雰囲気を変えて役に成りきりました。まあオペラの場合は、もともとが演技付きだから兎も角 、リートの場合は、「成りきり」は別の意味において難しい。リートは言葉と音楽との関係性を突き詰めたものであって、原則的にはリートは身振り・手振りの演技を見せるものでないからです。でもリート・リサイタルでも、歌手のちょっとした表情の変化 や身振りが曲の味わいをグッと濃くするということはあるもので、吉之助にもいくつかそんな思い出がありますが、しかし、演技があまり過剰であると、リートではそれはちょっと違うという感じはある。もともとデセイは演技に長けていますから、前回(2014年)の来日リサイタルでも、演技する感じがありました。しかし、まだそれは抑制されていたと思います。今回のデセイは、全体のプログラムを「恋する女性」に定めて、歌う女優という自らのコンセプトを、思い切って前面に押し出してきました。今回の来日リサイタルの特徴はそこにあると言えます。

プログラム中のオペラのアリアが見事にはまるのは、デセイならば、当然のことです。後半のフランス歌曲もほんとに素晴らしく、チャーミングです。問題はシューベルトのリート5曲でしょう。シューベルトはロマン派の作曲家ですが、リートはほんとにストイックなほど古典的に 煮詰めた印象が強いと思います。吉之助の場合はドイツ・リートはフィッシャー=ディ―スカウと、女声ではシュワルツコップでイメージが固まっちゃっているので、吉之助にはデセイのシューベルトは過剰にオペラティックに聴こえて、会場で聴いた時にはちょっと期待外れの気がしたのです。ドイツ語ネイティヴではないから子音が甘いのはまあ目をつぶるとしても、描線がちょっと滑らか過ぎ。これは前回 来日公演のR.シュトラウスのリートでもちょっと気になりましたが、当然ながら今回のシューベルトではもっと気になる。カサールのピアノ伴奏もこれに合わせて意識的にタッチをソフトにしていたように思えます。さらに見振り手振りの演技が盛んに入るのが、気になる。ムーディとまでは云わないが、まあフランス人のシューベルトであるなあ、しかし、これはオペラじゃないんだからねえと思って聴いてましたが、リサイタルを聴き終って、今回のデセイのコンセプトを理解してみると、まあそれはそれとして、デセイの芸を味わうということでこのシューベルトを聴かなきゃいけないなあという気が段々としてきました。まあ歌う女優のシューベルトということで、ファンとしては許しちゃうと云うところもあるが。

来日に合わせてデセイの最新録音・シューベルト歌曲集のCDが出ました。YOUTUBEに仏ソニークラシカルのメイキング映像がありますから、ご覧下さい。参考になるところがあると思います。ドイツ語の発声についての苦労はデセイもインタビューで正直に語っていますが、盛んに手を振りまわして演技しながら歌っているデセイの 映像を見ると、これからのデセイのは映像付きDVDで出してもらわないと、歌う女優の魅力が十全に伝わらないと思うので、これは是非そうしていただきたいものですね。

シューベルト:歌曲集(ナタリー・デセイ)

(H29・4・14)


○平成29年3月歌舞伎座:「明君行状記」

真山青果の「明君行状記」は昭和12年1月東京劇場の初演で、配役は二代目左団次の光政・初代猿翁(当時は二代目猿之助)の善左衛門でした。この戯曲が雑誌に発表されたのはそれより随分前 のことで、大正15年でした。と云うことなので青果は左団次劇団の上演を前提に書いたのではないのですが、戯曲を読めば台詞に左団次劇のリズムが出ていることは歴然としていますね。ただし、青果によれば、これは飽くまで自分の失敗作で、三幕目になればどうやら見物は見てくれるけれども序幕二幕の出来は散々 だと自分は思うところで、今回(昭和12年)初演が好評であったのは、「まったく左団次君や猿之助君ら俳優のお手柄で、私は決して作品そのものの成功と考えていない」と書いています。(「明君行状記」作者覚書・真山青果全集・第18巻)

青果によれば、発表後間もなく岡鬼太郎(だと青果は推測する)から大谷竹次郎に、あれを初代吉右衛門にやらせてみたいが、あのままでは見物に分かりにくいので、お止め場で善左衛門が鉄砲を打ち込む短い序幕を付け加えて欲しいという注文が出たそうです。青果はその注文も無理からぬと思いながらそのままにしていました。昭和12年 の左団次での上演の話が出た時も、青果は序幕を書き直すならばともかく、今のままでは困ると再三断ったそうです。しかし、その時はもう配役も決まって準備が進んでおり、「松竹の使用人たる私としてはそうそう我儘も云えず」ということで上演の運びとなったと云うのです。

初演の経過は「なるほどそんなところだろう」と思うところが確かにあります。序幕を読むと、命を掛けて名君と崇められている池田光政公の本性を知りたいという善左衛門の気持ちが、理屈では 理解できるけれども、素直にハイそうですかと納得できないところがある。それはお止め場で善左衛門を咎めた足軽を斬ったこと、その後の屋敷で下郎林助を結果として死なせてしまったせいです。 主従二人の関係はこの結末で丸く収まって良いかも知れないが、身分の低い死んだふたりのことが捨て置かれている。そこがちょっと引っ掛かる。穿って読むと、これは「 俺はお殿様のお気に入りなんだから許してくれるに違いない」 という甘えが前提の我儘に見えかねない。だからそのように見せないように、もう少し善左衛門の心情を掘り下げる必要がある。そこが不足している点が、青果自らが本作を失敗作とするところでしょう。

ちなみに執筆に当たり青果が参照した史料は、「有斐録」と云う本です。これは名君池田光政公に関する逸話を集めたもので、つまりこれが「明君行状記」です。この本 は主君賛美の色が強過ぎだとの評価があるそうですが、それは兎も角、パラパラめくると善左衛門の名前が何箇所か見えます。善左衛門が光政のお目見え宜しかった人物であること も、分かります。本作のネタである「(善左衛門が)切腹間もこれなくと存じ、この間に二羽とも料理仕り候てたべ候由、申し上げければ、如何様さうあらうと仰せて、御笑ひ遊ばされ候由」という逸話が出て来ます。ただし、善左衛門の気持ちの詳しいところは「有斐録」では分りません。寛永当時の竹を割った直情的な気風からすれば、善左衛門の行動はさほど深く考えた行動に思われません。 罪は罪として処断されるならば、これを恐れる気など微塵もないということだったと思います。一方、「名君と崇めるべき人物なのか、殿の本性を知りたい、命を掛けた俺の問いに殿がどう答えるのか知りたい」と云う、戯曲に描かれた主君に対する懐疑的かつちょっと捻じれた思いは青果の 解釈で、これはまったく二十世紀初頭のものであると云える。だからこそなおさら善左衛門の心情を細かく書き込んでおく必要がある。

しかし、結局、青果の懸念に反して初演が好評であったということは、それまでの青果と左団次劇団との長い信頼関係の賜物であったと云うべきです。脚本の不足なところを役者のセンスが補ったということです。いやまったく芝居というのは、脚本だけで出来ているわけではないですねえ。善左衛門の気持ちがピュアなものであることに、観客に疑いを持たせなかったのは、善左衛門を演じた猿翁の、二拍子の急き立てるリズムの台詞回しの功績で しょう。二拍子の急き立てるリズムは、胸に詰まる思いを吐き出さずにはいられないというリズムです。その思いはピュアで、一本気で、ひたすらに無私なものです。二代目左団次の二拍子のリズムなしで初演は成功しなかったでしょう。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)

今回(平成29年3月歌舞伎座)上演では、まず亀三郎の善左衛門がなかなか良い出来ですねえ。台詞が明晰で、二拍子のリズムがしっかりしているので、青果の論理性が生きています。青果劇が理屈っぽいという印象に陥らないようにするには、言葉を明晰にすること。青果劇が押しつけがましいという印象に陥らないようにするには、二拍子のリズムの打ち込を深く取ることです。亀三郎の善左衛門はこれができていて、梅玉の老獪な光政公によく対抗出来ています。青果劇における梅玉の上手さは云うまでもないことです。

真山青果全集〈第3巻〉(「明君行状記」所収)

(H29・4・12)


○吉之助の「吉野葛」論のこと

あれは別稿「谷崎潤一郎:東京と上方と」を書いた時 であったからもう15年前のことになりますが、吉之助は、或る読者の方から、歌舞伎にも関係が深い谷崎の「吉野葛」について書いてみたらどうかというメールを 頂戴したことがあります。この時の吉之助はまだ「歌舞伎素人講釈」を始めたばかりで余裕もなかったし、あまり文学の方に深入りしたくなかったので、長い間そのままに していたのです。その後、いろいろ経緯があって吉之助も、あくまで演劇視点ですが、平成22年に「生きている人形〜蓼喰う虫」論、平成23年に「鬼が棲むか蛇が棲むか〜卍」論を書いて、吉之助のなかに谷崎文学への関心が徐々に高まってきました。そこでこのほど、やっと「団十郎菊五郎在りし日のわが母よ〜吉野葛論」執筆を始めて、15年目の約束を果たすことになるわけです。タイトルは晩年(昭和三十七年頃)に谷崎が詠んだ「木挽町に団十郎菊五郎ありし日の明治よわが父よ母よ」 という歌から採っています。このサイトをご覧になる方に説明は不要でしょうが、この歌の団十郎は九代目・菊五郎は五代目を指します。

このことは特に申し上げておきたいのですが、谷崎文学と伝統芸能・特に歌舞伎の関係は、読めば読むほど深いものがあります。それは並ではないものです。それは、谷崎自身が晩年のエッセイ「わたしの「幼少時代」について」(昭和30年)で書いた通り、谷崎の幼少期の芝居体験に由来します。もうひとつ、大事なことは、谷崎文学評論でよく云われるところの、「源氏物語」現代語訳の仕事前後の時期の「日本回帰」というところに、谷崎の伝統芸能へののめりこみを安直に結び付けるのではなく、もっと根源的なものとして捉えなければならないと云うことです。本稿ではこの件は指摘のみにしておきます。連載中の「吉野葛論」ではその辺を書くことになるでしょう。

このことは吉之助が歌舞伎の研究者だから特に気になるのかも知れませんが、谷崎文学研究の分野では、谷崎の伝統芸能からの影響への検証があまりに少な過ぎると思います。吉之助の上記2論考は、グーグル検索順位を見る限りよく読んでいただいているようなので嬉しいですが、この点の欠落を埋めるものだと 思います。谷崎文学をお読みになる方は、どの作品でも、谷崎と伝統芸能との関係の深さを念頭に入れてお読みいただきたいと思います。同様なことが、三島由紀夫にも云えることを指摘しておきます。吉之助は歌舞伎に絡めて三島の演劇作品をいつくか取り上げました。純文学作品についてはまだですが、いずれそのような論考が披露できるように、少しずつ準備をしています。

今回、本年2月に吉野へ取材旅行するに当たり、テーマのひとつを狐と歌舞伎の周辺に定めて、谷崎の「吉野葛」など片手にブラブラして来ました。この成果の一部は写真館の「谷崎潤一郎・「吉野葛」の世界」の一連の記事で写真を載せていますから、それらをご覧いただきながら、吉野葛論」の方をお楽しみください。

(H29・4・8)


○平成29年1月新橋演舞場:「雙生隅田川」・その2

伝統芸能の「隅田川」物は、謡曲「隅田川」を始めとする一大系譜がありますが、近松の「雙生隅田川」を経て、幕末期の「隅田川続俤(法界坊)」や「都鳥廓白浪(忍ぶの惣太)」までの流れを見渡すと、同じ流れでないみたいに随分クネクネ変転しています。まあ伝統芸能というのは、素直な段階的発展を辿るとは限りません。変なところに枝葉が伸びたり、別種のものを摂取して変形したりするものです。そうやって見渡してみると近松の「雙生隅田川」というのは、随分と理が立った感じで、「隅田川」物としてはむしろ特異な存在かも知れないと思います。伝統芸能の「隅田川」物は、近松の「雙生隅田川」で大きく左の方へ振れた後に、今度はまた大きく右に振れて「法界坊」になっちゃったのかも知れませんねえ。

謡曲「隅田川」を見ると、母親の孤独と悲しみがピュアに伝わって、なるほどこれは演劇として素晴らしいものですが、一方、江戸期の近松の「雙生隅田川」では、もう少し社会的な視点が入って来ます。 正確には社会的な視点というよりも、「家」の観念が入って来ることで、個人の感情が捻じ曲げられて、素直に発露されない状況になって来るのです。「雙生隅田川」では班女御前が気が狂う理由は、子供をさらわれた母親の強い悲しみがもちろんありますが、それだけではない。狂言全体に御家騒動の骨格が強固ですから、吉田家の再興のため何としても我が子を探し出さねばならぬと云う重圧が班女御前 に非常に強いわけです。加えて班女御前 は吉田家の後妻で遊君であり、悪伯父常陸大掾からは「彼の女はもと美濃国野上の宿の傾城、乞食非人の娘も知れず、萬人に枕を並べ身の穢れたる女」と満座で罵倒され、ここは内裏で玉座も近い、無礼があってはならぬと追い出され、誰も助けてくれる人がいない。御家再興の責任がすべて自分一人に掛って来る。そんなこんなで懊悩して、班女御前は気が狂うのです。
猿之助歌舞伎のアレンジでは、この件はカットされています。カットしても筋としてあまり大した違いは見えないですが、序幕が急ぎ足で通り過ぎる印象があるせいで、班女御前の狂乱が、後の幕のための段取っぽく見えて、あまり痛切に響いてこないきらいがある。

同じような印象が、「惣太住居」の場にもあります。放蕩が理由で親から勘当を受けた吉田の家来淡路七郎は、人買い猿島惣太と名を変えて、吉田家への帰参が叶うようにと爪に火を灯す思いで金を 貯めるのですが、人買いという稼業の因果さゆえに、目標達成まであと十両というところで、主筋の梅若を殺してしまうという形ですべてが瓦解して、悪業の報いが惣太を襲うと云うのが、ここで描かれる惣太の悲劇です。近松の斬新さは、人身売買の悪行が 一転して、因果応報的に問われるという、その社会的視点にあると思います。ところが舞台を見ると、御家騒動の印象が強すぎて、惣太が主殺しの罪の恐ろしさだけを嘆いているような感じが強くなるようです。人身売買という悪業に対する惣太の人間的な反省にまでドラマの実感が至っているかというと難しいところです。作劇面で近松の理屈が若干先走っているような気がしますね。この辺に「雙生隅田川」の問題点がありそうです。

惣太が主殺しの罪だけを悔いているように見える、もうひとつの理由は、右団次の猿島惣太に時代の印象が強いせいであるかも知れません。(これは二代目猿翁の舞台も同じ印象がしました。)「惣太住居」は「雙生隅田川」 の三段目であり、本来は世話場に当たるのですから、「やつし場」と考えた方が良いです。と云っても人買いのことだから哀れが効きませんが、だからこそ執権武国が登場するまでの前半の惣太を世話で行った方が良いのです。そうしないと後半との対比が付きません。右団次の惣太は、 後半の時代への変わり目が弱い。特に前半の世話の台詞に工夫が欲しい。あれでは重すぎで、まるで大時代です。前半が難しいのは、梅若を折檻する場に義太夫が絡んで様式的な振りが付いている点だと思いますが、ここも極力糸につくのを避けた方が良い。その方が世話に取りやすいはずです。右団次は線の太い時代の演技がなかなかのもので、したがって後半に惣太が腹を切って天狗への転生を見せる場面は気迫があって良い出来だと思いますが、全体を見るとやや一本調子な演技に見えるのは、前半部分に更なる工夫が必要なのです。

右近の
梅若松若二役は頑張っていて、感心しました。この芝居は親子同時襲名の舞台として、とても良かったのではないかな。

近松全集〈第11巻〉(「雙生隅田川」所収)

(H29・4・3)


○平成29年1月新橋演舞場:「雙生隅田川」・その1

「雙生隅田川」は三代目猿之助四十八撰の内で、初演は昭和51年10月新橋演舞場のこと。この初演は吉之助は見ていませんが、昭和60年10月歌舞伎座での再演 を見ました。この再演は班女御前の菊五郎との珍しい顔合わせがあったこと、松若・梅若を若き日の四代目猿之助(当時は亀治郎)が演じたことなどで、よく覚えています。これらの上演を含めて猿之助歌舞伎としての「雙生隅田川」の上演は、今回(平成29年1月)の上演で、4回目となります。(注:近松座での上演など本興行でないものが別にあって、吉之助はこれも見ました。)これは数ある猿之助歌舞伎のなかでも、再演数が低い部類だと思います。再演が少なかったのは、恐らく本作は松若・梅若のウェイトが高いので子役の演技力が求められるからでしょう。もうひとつ、猿之助歌舞伎は○役早替わりというのが売りでしたが、本作は早替わりがあまりないし、芝居としての派手さにちょっと欠ける。鯉つかみの立ち廻りはありますが、エンタテイメントとしてやや渋めの感があります。

再演が少ないことはいろんな意味がありますが、上演回数が少ないと初演から見て、仕勝手から来る崩れが少ないというメリットもあるようです。上演が多いとどうしても良かれ悪しかれいろんなところが変わることが避けられません。今回の
「雙生隅田川」を見ていると、三十数年前の
猿之助歌舞伎全盛期の雰囲気が吉之助のなかに蘇ってきて懐かしい気がしました。良い意味において当時の雰囲気をよく伝えています。旧名で呼ばせてもらいますが、今回興行で三代目右団次を襲名した右近は二代目猿翁が倒れた時も一座をよく守って来たし、この「雙生隅田川」も、師匠の芸風をよく伝えていると思います。(注:傍らに四代目猿之助を置いて書いているつもりはないので、これは素直にお読みいただきたい。)ただし右団次を襲名したら、これからは師匠の写しではなく、独自の道を切り開かねばならないし、またそうあってもらいたいと思います。初代小団次(斎入)は上方のお化けやケレン芝居を得意とした大正期の名優ですが、これも我が道を行く役者だったと思います。いい名前を継いだのではないでしょうかねえ。(この稿つづく)

(H29・3・31)


○平成29年3月歌舞伎座:「助六由縁江戸桜」

海老蔵の助六は、平成25年6月歌舞伎座以来、ほぼ4年ぶりということになります。日本テレビの 恒例の正月特番「市川海老蔵にござりまする」を本年正月に見て、この10年くらいの海老蔵の舞台を思い返したのですが、市川宗家の歴史の重圧ということはもちろんですが、彼の人生はジェット・コースターみたいに変転が激しくて、いろんな試練が立て続けに 降りかかって、まったく大変なことであるなあ、海老蔵はこれに耐えてよく舞台に立ててるもんだと思いました。詳細は書かなくても、みなさん週刊誌などで よくご存じのことですから、省きます。吉之助は、ここ10年の海老蔵の舞台に、不安定な危なっかしさ、特に台詞面においてそんなことを感じることが多々あったのは事実ですが、背景にこんなことがあれば、そりゃあ誰でも不安定になる よなあ・・と思いました。吉之助だったらホント寝込んじゃいますねえ。海老蔵は今はとにかくじっくり守りに入って内面を磨くべき時期かなと思いますが、最近の海老蔵の活動を見ると急いてる感じがしなくもない。そこがちょっと心配になりますが。

ところで海老蔵の助六のことですが、初演の平成12年1月新橋演舞場での鮮烈な印象からすると、この10年くらいの助六は、見るたびに迷いを感じるというか、よく云えば試行錯誤の助六、悪く言えば自分を美質を見失っている助六と云う印象でした。同じことが、「勧進帳」の弁慶についても云えます。どちらも市川家の代名詞と云うべき役です。そういうわけで、久し振りの海老蔵の助六は、期待しながらも不安半ばで見たというのが正直なところでしたが、今回(平成29年3月歌舞伎座)の海老蔵の助六は 想像していたよりも随分良かったというのが、吉之助の印象です。

良かったのは、発声が客席にそれなりに良く通っていたことです。前回の不安定で聴きづらい発声からすれば、かなり改善しました。落ち着きが出てきたようで、台詞を急かず、ゆっくり言っているので、言葉がよく聞き取れました。もちろん台詞の抑揚やリズムの課題はまだまだあります。 ただし、台詞の抑揚の癖にある種の方向性が見えつつあるようです。海老蔵ももう中堅どころであるわけだから、それならばそれで、海老蔵なりの言い回しというものを工夫せねばならない段階に来ているようです。 これは更なるトレーニングが早急に必要です。「助六」の眼目である出端の立ち姿はスッキリとして、これは前回よりもずっと良くなりました。立ち姿に関しては、まったく期待通りと言って良いです。如何にも江戸一番のいい男でしたねえ。 海老蔵はそろそろ混迷の時期を抜けて、新たな時期の入り口に差し掛かっているということではないかと思いました。

良いと云えば、初役の雀右衛門の揚巻もなかなか良かった。雀右衛門はインタヴューで、「父(先代)が勤めたことを少しでもコピーできれば。少しでも父のような風情を出せるようにしたい」と語っていましたが、それは十分できていたと思います。 これは虚心で挑んだ結果ですが、風格を感じさせるなかなか良い揚巻でしたね。吉之助は、別稿「新・雀右衛門への期待」のなかで、「もうそろそろ娘役が似合わなくなって来て欲しい」と書いたのですが、今回の揚巻がこれまでの芸の殻を破って、さらなる芸の高みへ飛躍する機会となることを期待します。

(H29・3・17)


○平成29年2月歌舞伎座:「絵本太功記・尼ヶ崎閑居」

「絵本太功記・十段目・尼ヶ崎閑居」、通称「太十」は、立役から若衆・姫・女房・老婆まで役柄が揃って声域に幅があるので、昔から素人義太夫では教材としてよく 取り上げられたものでした。同じ理由から地方の地芝居(農村歌舞伎)でもよく上演がされま した。だから「太十」は巷ではよく知られた演目なのですが、その割に大歌舞伎での上演頻度が低いようです。「寺子屋」や「熊谷陣屋」は年に一度か二度はどこかで必ず出ますが、「太十」は3年か4年に一度くらいの頻度です。確かに「太十」は役者が揃わないと出せない演目である かも知れませんが、それよりも演じる役者の側から見て、何となく演り難い理由があるのかなあとも思います。

そこで吉之助が役者の立場になって考えてみるに、「太十」には皐月・操・初菊・十次郎のクドキ・見せ場がそれぞれ用意されているのだけれど、その役の見せ場の時には他の役者はじっと黙って正面向いて座ってい なければならない時間が結構長いように感じられるのです。複数の役者ががっぷり四つに組んで火花を散らすという場面があまりない。個々の役者の演技のモザイク的な組み合わせというのが、「太十」という芝居の印象になるかなと思います。逆に云えば、 それだから素人歌舞伎では出しやすい演目だと云うことになるわけで しょうけれど、大歌舞伎の場合には、緊張感を以てすべての役者が同じ方向に向いていないと舞台の空虚さがひどく目立つということになりかねない。「太十」は結構難しい芝居なの かも知れません。そう考えてみると、確かにこのところ腹応えのする「太十」の舞台を見ていないような気がしますねえ。

杉山其日庵は「浄瑠璃素人講釈」のなかで「この段は、剛毅憤懣の気が充満した光秀で、聴衆が泣くように書いたものであることをよく会得して、その他は、光秀を泣かざるを得ざるように仕向ける責め道具に配せられた人形ばかりであることを忘れずに語る」ということを言っています。皐月・操・初菊・十次郎らの役割はただひとつ、寄ってたかって光秀を泣かせること。自分の持ち場で交互順番に光秀を責めたてて、主殺しの報いの恐ろしさを思い知らせることだということです。別稿「勇気の人・武智光秀」に書いた通り、本作の光秀は悪逆非道の主人・小田春永を民を休むる為に討つと決意した人物ですから、主殺しの汚名を受けることはもとより覚悟の上のことです。光秀は必死で剛毅の姿勢を守っています。しかし母親を自らの手で殺してしまう羽目となり、また最愛の息子も失うこととなり、これが自分の行動の報いかと思わず涙が流れてしまう、そのような悲劇的状況に 光秀を追い込むことが、光秀以外の他の役に課せられた役割なのです。すべての役が同じ方向を向いて演技をしないと、芝居の隙が露わに見えてしまって緊張感が失われ るということです。これを役者のアンサンブルと云って良いものか、或いは全体で醸し出す芝居の佇まいとでも云うべきかなと思います。これがバッチリ決まれば、「太十」は実に大きな芝居に出来ます。

というわけで、「太十」はもちろん光秀が主役に違いないですが、光秀以外の他の役もみんな大事なのです。そこで今回(平成29年2月歌舞伎座)の「太十」ですけれど、芝翫の光秀始め、個々の役はまあ取り立てて悪いわけでもないですが、グッと腹に応えるという感じにはまだ行かないようです。芝翫の光秀は、やっぱりこういう時代物の太い役柄がこの優には似合うなあと思います。だから、どっしりした時代物の感触が味わえないのは、芝翫のせいということではなく、やはり芝居全体の佇まいにおいて問題があるということです。誰かが緊張感に欠けるということでもなく、何というか、舞台全体の息の深さと 云うか詰めと云うか、あるいは器の大きさみたいなものですかねえ。そういうものがもう少し欲しい。もっともこれは平成の歌舞伎が抱える問題と云うべきで、今回の舞台に限ったことではありませんが。「太十」 のような芝居だと、そういうことが露わに見えてしまうということなのです。

(H29・3・7)


○平成29年2月歌舞伎座:「梅ごよみ」

原作は江戸末期の為永春水の人情本「春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)」で、通称「梅暦」。色男の丹次郎と女たちとの三角関係を描いたものです。庶民の実生活に即した春水の人情本は読者から熱狂的な支持を受けましたが、天保の改革では幕府から風俗を乱すという理由でら睨まれて、春水は捕えられて、本書は絶版を命じられました。そのせいか歌舞伎での上演は少なかったようで、明治3年3月中村座で黙阿弥の「梅暦辰巳園(うめごよみたつみのその)」が目立つくらいで、それ以前だと 大阪で「春色梅花暦(しゅんしょくうめごよみ)」があるそうで、これがどうも「梅暦」の最初の歌舞伎化らしいですが、詳しいことは吉之助には調べが付きませんでした。現在上演されるのは昭和2年7月歌舞伎座で、「研辰の討たれ」で知られる木村錦花の脚色で初演された「梅ごよみ」(丹次郎が十五代目羽左衛門、仇吉が六代目梅幸、米八が七代目宗十郎、この舞台は良かったでしょうねえ)で、今回の上演 もそれに拠っています。

ここで興味深いことは、深川芸者の意地の張り合いという、如何にも江戸らしい題材なのに、最初の歌舞伎化が、東京ではなくて大阪だったということです。大阪での舞台は想像するしかないですが、恐らく取っ掛かりは色男の丹次郎という役の和事的処理にあったと思います。別に「梅暦」の系譜があるわけではないけれど、今回の「梅ごよみ」も、これは昭和2年の初演だから古典とは云えないかも知れませんが(新歌舞伎とも云えませんが)、染五郎が演じる丹次郎は、伝統的な和事のつっころばし風に処理されています。これは恐らく 初演の十五代目羽左衛門もそうだったでしょう。そのせいか丹次郎の感触が、先月(1月)大阪松竹座で吉之助が見た雁のたより」 の髪結五郎七と何となく似ていると感じられます。これは決して偶然ではなく、歌舞伎役者には芸の引き出しを以て或る種のパターン思考で役どころを処理する習性がありますから、二枚目の色男・優男という発想から必然的に似た感触になっていくのです。そうすると吉之助としては、鴈治郎の五郎七に書いたのと同じようなことを、染五郎の丹次郎にも書かねばならないことになります。

念のため記しておくと、上方の「雁のたより」と江戸の「梅ごよみ」をごっちゃにして論じていると思われるでしょうが、手法はちょっと異なるようだけど、上方であろうが江戸であろうが、和事の本質は同じところにあるというのが、吉之助の考えなのです。芝居だとよく分からないところがありますが、原作だと丹次郎は、鎌倉恋ヶ窪の遊女屋「唐琴屋」の養子だが、武家の隠し子ということになっています。 (もちろん江戸の吉原を鎌倉恋ヶ窪に置き換えているわけです。)これは「雁のたより」 の五郎七とよく似た素性です。丹次郎が女性にモテてモテて仕方ないのは、もちろん色男・優男だからに違いないですが、決してそれだけではない。そこに「今の自分は真実の自分の姿ではない」 という気分があるのです。和事の主人公というのはひ弱で頼りなくて、ちょっとしたことでヒーヒー言いますが、それでも決して物事を投げる ところがありません。そこに丹次郎の芯の強さとシリアスさがあるわけで、実はそれが女性たちを惹きつけているのです。だから守ってやりたくなるのです。こうして頼りなさが滑稽味を帯びて来ることになります。シリアスさを滑稽に紛らせる、そういうところが 和事では大事なのです。詳しいことは別稿「和事芸の起源」や「上方和事の行方」などで触れましたから、そちらをお読みいただくことにしてここでは繰り返しませんが、どうも染五郎の丹次郎は、和事の色男・優男のイメージをまだ表層的にしか受け止めていないようです。だから丹次郎がその存在だけで女たちを振り回す芝居にはなっておらぬ。ドラマの求心力が丹次郎にないと、「梅暦」の本当の面白さは出て来ないと思います。恐らくこれから染五郎は和事の役どころを任される機会がますます多くなると思いますから、そこのところは心得てもらいたいものです。

今回(平成29年2月歌舞伎座) の舞台を見ると、深川芸者の意地の張り合いと恋の駆け引きを見せる他愛ない笑劇ということならば、それなりに楽しく見せています。そういうことは別にして、吉之助が感じるのは、全体に芝居のタッチがいかにも軽いということです。軽いから観客に受けているということも吉之助は理解はしてますが、このタッチの軽さは吉之助には気になります。正直言うと、 これではまだホントの意味での歌舞伎芝居の感触になっていないと思います。素でやっているように感じられます。(これは雁のたより」 も同様であったと思います。)この芝居を本物の歌舞伎にしていくためには、それぞれの役者がフォルムへの意識をもっと強く持たねばなりませんね。本稿は丹次郎の和事芸 で論じたので染五郎について書きましたが、もちろん染五郎だけのことではありません。フォルムを様式にしていくのが、歌舞伎なのです。

(H29・2・21)


○平成29年1月大阪松竹座:「雁のたより」

「雁のたより」は天保元年・大坂角の芝居での初演。役者の味で見せる他愛のない上方喜劇と言いたいところですが、作者金澤竜玉というのは実は三代目歌右衛門のペンネームで、初演の髪結五郎七 は歌右衛門自身が演じたのだと聞くと、俄かに興味が湧いてきますねえ。歌右衛門の屋号は三代目までは成駒屋ではなくて加賀屋。三代目は「嫩軍記」の直実など立役を得意としましたが、道化方から若衆・女形まで幅広く勤め、さらに所作事にも優れた、まさに兼ねる役者の典型でした。その歌右衛門が演じた五郎七という役は 、二枚目にして三枚目、もしかしたら一筋縄ではいかぬ役なのかも知れません。

鴈治郎のことですが、襲名して2年経って吉之助もやっと「ガンジロさん」とスンナリ出るようになりました。襲名の時と比べるとだいぶ余裕が出てきたようで、丸い福々しいお顔がとぼけた良い味 を出すようになって来て、この方向で地歩を固めつつあるようです。ガンジロさんとなった以上は上方狂言の継承・復興に頑張って欲しいし、この 「雁のたより」の五郎七も、他愛のない上方喜劇と考えれば、それなりの出来だと思います。

そこでちょっと三代目歌右衛門が演じた二枚目にして三枚目という髪結五郎七について考えてみたいのですが、お殿様のお妾さんが惚れるほどの良い男、最後の最後に分かるのは元は武家の御曹司だったということなのだから (筋立てのいい加減さはここでは置いておきましょう)、五郎七という役は武士の性根を内に秘め、キリッとしたところがあって、芯の強さを持つ役どころであると推察できます。芯の強さを真っ直ぐに出さずに曲げて出す、シリアスさを滑稽に紛らせる、そういうところが欲しいわけです。これについては別稿「上方和事の行方」で触れた通りです。鴈治郎は、とぼけた滑稽味は出せるようになってきました。さらに滑稽さを取っ掛かりにして、役のなかにあるシリアスさをどう処理すべきかを考えてもらいたいのです。 このことが「今の自分は真実の自分ではない」という上方和事の本質に通じます。(だから三代目歌右衛門はちゃんと和事の公式を踏まえて五郎七のキャラクターを設定しているわけで、いい加減に書いていないことが、これで分かるでしょう。)

この点で孝太郎の花車お玉は、上方喜劇の感覚をさすがによく掴んでいます。これは孝太郎のセンスの良さもありますが、女形の技巧というものが既に様式に通じるものであるからだろうと思います。(女形もまた、「今の自分は真実の自分ではない」 存在なのですから。)鴈治郎の場合は、役者の愛嬌とでも云うか、上方喜劇の感覚は役者の味がさせるものとまだ考えているように思いますねえ。それだと役者個人の資質に帰せられてしまって、様式にならないのではないですか。「雁のたより」を他愛のない上方喜劇ということで済ませるのならば、このままで良いです。しかし、髪結五郎七の役作りが、治兵衛にも忠兵衛にも通じるということが分かって来れば、これで済ませるわけには行きません。「雁のたより」を役者の味で見せる芝居ということで済ませるのではなく、技巧で見せる芝居という風に捉えてもらいたいのです。シリアスさを滑稽に紛らせる技巧を様式にするのが、和事なのです。大分いいところまで来ているのだから、もうちょっとなのだから、頑張って欲しいものですね。

(H29・1・26)


○平成29年1月大阪松竹座:「勧進帳」

新・芝翫は昔から芝居好きの名子役としてよく知られていましたし、先輩の貴重な舞台を傍で随分見てきたと思います。だから芝居の骨法というものを肌で知っているわけで、実際、芝翫の演技は安定していて、大きく外すことはありませんでした。故・勘三郎の新作歌舞伎に付き合っても、そのはしゃぎぶりに当てられて芸 の品位を下げる役者も少なくなかったなかで、芝翫(それと故・三津五郎)は自分のペースをしっかり守るところがあったと思います。そういうのは、結構大事なことなのです。

10月から始まった襲名披露興行でも、熊谷直実や佐々木盛綱は形容も悪くないし安定感もあるし、そういうところは二代目松緑や初代白鸚など名優たちの舞台を知っている強みが光ります。「・・らしさ」というところは、確かに掴んでいる。後は演技の冴え・メリハリですねえ。芝翫の演技は良く言えば「太い」ということでしょうが、悪口を云えばややメタボ気味のところがある。もう少し台詞や動作に緩急の工夫が欲しい。そこが「画竜点睛を欠く」ということになるので、そこを突き抜ければ芝翫はひと皮剥けると思います。

そこで今回(平成29年1月大阪松竹座)での弁慶ですが、これも形容は悪くありません。史劇風の弁慶が多いなかで、芝翫の弁慶は如何にも歌舞伎らしい風貌です。これは貴重です。山伏問答も、これは共演の仁左衛門の富樫のおかげもありますが、大筋においてアッチェレランドのテンポ設計がしっかり取れています。これは近年の「勧進帳」上演では珍しくまともな問答で(逆に云えばそれくらい昨今の山伏問答は満足できるものが少ないということで)、そういうところに芝翫の蓄積が出ていると思います。海老蔵などは、そういうところをちょっと見習って欲しいなあという気がします。ただ芝翫は、まだ 「・・らしさ」に頼っている感がしますねえ。決して悪くはないが、もっと良く出来るのではないかという気がします。どこがどうしろということは細かいことになるのでここでは書きにくいですが、敢えて 「・・らしさ」の殻を破った心理描写の熱いところを試みても良いのではないか。逆にそういう点では、海老蔵からも学ぶところがあるかも知れませんね。

(H29・1・23)


○自分の声を考える為のヒント

『これだけは恐らく、歌舞伎芝居に限った欠点として反省して良いことだと思うが、歌舞伎ほど悪声の俳優を非議せない演劇は珍しい。調子が良いという批評は声がよいということを意味するはずだのに、歌舞伎俳優の調子のよいと言われている優人には、かなりの悪声の人がいた。抑揚頓挫が、ただしく旧来の発声の型に入っているものを、ほめて言う場合に言われることもある。そうでなくとも歌舞伎ほど聞きづらい声の役者を、名優のなかに持っていたものはないであろう。』(折口信夫:「花の前花のあと」・昭和26年)

*折口信夫:「花の前花のあと」はかぶき讃 (中公文庫)に収録

折口は歌舞伎役者は発声が良くない人が多いと不満をよく周囲にこぼしていたそうです。歌舞伎では正しい発声術が顧慮されていない ということです。良い歌舞伎役者の条件は「一声、二顔、三姿」と云われるにも係わらずです。役者の声は役を描き出す為の最重要の要素ですが、歌舞伎役者の場合は、安直に声色を遣うことで対応する例が少なくありません。しかし、名優というのは、必ず自分の声を持っているものです。何をやっても 播磨屋(初代吉右衛門)、何をやっても橘屋(十五代目羽左衛門)、それで良いのです。それじゃあ自分の声って何なのか、自分にとって良い声って何なのかと云うと、獏として何だか良く分からない。三味線ならば良い響きを得るのに何がしかの努力をせねばなりませんが、とりあえず声を出すだけなら誰でもすぐ出ますから、そもそもみんな声のことを深く考えることをしないようです。でも「声の世界」は、なかなか深い世界のようですよ。

そういうわけで、声について考えるための本を紹介します。山崎広子著:「8割の人は自分の声が嫌い〜心に届く声、伝わる声」は、自分の声を知ることは自分を知ること、「人間として何をしたいのか」、それを伝えるのがあなたの声ですと云うことを分かりやすく教えてくれます。歌舞伎の方も読んでみたら役に立つのではないかな。

山崎広子著:「8割の人は自分の声が嫌い 〜心に届く声、伝わる声」(角川SSC新書)

(H29・1・16)


○平成29年1月歌舞伎座:「井伊大老」

歌舞伎の演目は数あれど、動きがない舞台面なのに「井伊大老」ほどしみじみと静かな感動が湧き上がる演目は他にないと、吉之助は思いますねえ。北条秀司の名作「井伊大老」は昭和31年3月明治座での初演。井伊直弼は八代目幸四郎(後の初代白鸚)、お静の方は六代目歌右衛門でした。この舞台はもちろん吉之助は見ていませんが(まだ生まれてない)、幸い昭和56年11月歌舞伎座での同じ配役を見ることが出来ました。ちなみにこの時の興行は初代白鸚・九代目幸四郎・七代目染五郎・三代の襲名披露興行で、白鸚は15日まで勤めて・翌日から休演(代役は吉右衛門)で、これが白鸚最後の舞台となったものです。

この時の舞台は素晴らしかったです。主役ふたりが良かったのはもちろんでしたが、十七代目羽左衛門の仙英禅師が良かった。禅師が去って直弼とお静の場面になっても、禅師が残していった余韻がずっと漂っていて、それが最後の場面の感動を深くする出汁みたいな味わいを醸し出していました。羽左衛門の舞台と云うと、吉之助はまずこの役を思い出しますねえ。

今回(平成29年1月歌舞伎座)の、幸四郎(直弼)・玉三郎(お静)・歌六(禅師)の舞台については、実はかなり期待しました。見終わって、一応の成果は挙げていて悪くない舞台です。が、ちょっと史劇っぽくて、感触としてはやや淡いかな。もちろんこうなるのは幸四郎の持ち味として当然であって、こういうのは吉之助も嫌いではないですが、「井伊大老」に関しては吉之助も脳裏に白鸚を重ねてしまいます。息子が父親の口跡を真似する必要はない、息子は息子なりの直弼像を作れば良いということは、吉之助もよく分かっています。しかし、吉之助は時折「白鸚ならばこの台詞はこう言ったのじゃないかなあ」ということをツイ考えてしまいま した。まあそれだけ幸四郎に白鸚の再現を強く期待しておったということですよ。期待する価値が十二分にあると思っているのです。新歌舞伎としては、もう少し濃厚に粘りがあっても良いかなあと思います。これは玉三郎のお静にも言えることです。

36年も前のこと故、吉之助も記憶が薄れて「この台詞を白鸚はこうしゃべった」と云うようなことが書けません。しかし、「元禄忠臣蔵」の内蔵助など新歌舞伎での役どころでの白鸚から類推するに、白鸚は台詞の色合いの変化を意識的に強く付けて台詞をしゃべったと思います。但し書きつけておくと、台詞の色合いの変化というのは、声色(こわいろ)を遣うということではありません。顔の表情・声の調子も含めて、台詞の表情をトータルに変えるということです。「意識的」ということは、自然な変化と云うよりは、様式的な変化であったということです。そこが新歌舞伎様式の感覚につなが ります。白鸚はそのような台詞の技術にひときわ長けた役者でした。だから東宝歌舞伎で女優と共演することが多かったのに、台詞が水っぽくならなかったということだと思います。

北条秀司の「井伊大老」には、真山青果物のような二拍子のリズムで熱く強く語る台詞がありません。だから様式感覚を取りにくいようですが、コツが分かれば、そう難しいことではありません。例えば禅師が残した笠を眺めて直弼が「いや(禅師は)戻られまい 」までを写実に言い、(少し間を置いて)声のトーンをちょっと落としてテンポを引き延ばして「一期一会、禅師は別れを告げて行かれたのじゃ」を言う。ここで注意すべきは二拍子の基調を守り、詠嘆調に陥らないことです。或いはお静が盃を落としたのを見て直弼が「静、お前、最前、禅師から何か聞いたのではないか」という台詞なども、ここは臭くなるくらいに調子を落とした方が良い箇所です。そういうところに新歌舞伎様式を出すツボがちりばめられています。北条秀司は白鸚を念頭に直弼の台詞を書いているのですから。幸四郎の直弼はそういうところがちょっと淡い。だから芝居は淡々と進むけれども、もう少し色合いの変化が欲しくなるのです。もしかしたら幸四郎は臭いと云われるのを避けてるのかも知れませんが、写実のなかに様式の切れ目を入れるという白鸚の技術を取り入れれば、 幸四郎はこの舞台をもっと新歌舞伎にできると思うのですが。

(H29・1・7)


○16年はひと昔、さてこれからは・・・

サイト「歌舞伎素人講釈」は、2001年1月3日の開設です。つまり21世紀と共にスタートしたわけです。2017年正月を迎えて16年目を終え、いよいよ17年目に入ることになります。「熊谷陣屋」幕切れで熊谷直実が「十六年はひと昔、夢であったなあ・・」とつぶやきますが、その ひと昔が過ぎました。ひと昔が何年かというのは諸説あるらしいです。尺度は10年とか50年とか場合により異なるようですが、しかし、歌舞伎を見る者にとっては、やっぱり ひと昔は16年ではないでしょうかね。これでサイトもひと区切りがついたかなあというところです。別に大した感慨があるわけでもないですが、インターネットで歌舞伎を調べようと思ったら、「歌舞伎素人講釈」を踏まないで済むことはもはやあり得ない状況 だと思います。サイトをざっと見渡してみると、書いていることが16年ほとんどブレがなく、内容は着実に深化していると思えるのは、我ながら大したものと思うところです。歌舞伎を見るスタンスは間違っていないという確信も付いてきました。これまでやってきたことをこれまで通りやっていけばこのまま長く続けられる基盤ができたかなと思っています。

16年を振り返ってみると、「歌舞伎素人講釈」にとって節目になることがふたつありました。ひとつは2001年3月31日の六代目歌右衛門の死去、もうひとつが2012年12月5日の十八代目勘三郎の死去です。いつぞや書きましたが、吉之助は同世代の勘三郎が七十代になった舞台を見てボロボロ泣くのを楽しみに歌舞伎をずっと見て来たわけです。だから勘三郎が亡くなった時には、これで自分にとっての歌舞伎が現在進行形でなくなったなあと痛切に思い、現在もその後遺症から完全に抜け切ったわけではないのです(さらに同世代の十代目三津五郎の死が追い打ちを掛けた)が、長く歌舞伎を見ていれば贔屓にしていた役者の死に何度か出会うことになるわけで、そうやって自分にとっての同時代的なものが記憶のなかに落とし込まれて行く、そうした過程で自分のなかで歌舞伎の視点が次第に過去へ向いた古典的なものとなっていくということだろうと思います。古典的な視点ということは、或る意味において客観的な視点を得るというところにつながると思っています。だからこのことは悪いことではなく・批評を仕事とする者にとってはむしろ良いことで、吉之助もこれからの評論活動にこれがどう反映して行くか内心楽しみだと感じるように、だんだん気持ちが変化してきました。これからの16年をポジティヴに行きたいものですね。「歌舞伎素人講釈」はさらに深化していくと思います 。

(H29・1・1)


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