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吉之助の雑談27(平成27年1月〜6月)


○ピントコナ考・その6

吉之助は、折口が福岡貢のなかに「馬鹿むこ」のイメージを見たのだとしたら・・・という仮説を立てて、ピントコナを考えてみたいのです。貢は上方和事の役なのですから、やはりその系譜からピントコナの性根を割り出して行かねばなりません。そのためにはまず上方和事の本質が何かを知る必要があります。

上方和事はシリアスな要素と背中合わせで滑稽味や諧謔味が出ます。たとえば「心中天網島・河庄」において兄・孫右衛門に店のなかへ入れと言われて、治兵衛は「イヤだ」と拒否しながら・しかし店のなかの小春のことが気になるという 相反した仕草を見せます。治兵衛が兄に面目ないからこの場を逃げたいという気持ちと・小春に会いたいという気持ちが交錯しています。この演技は滑稽味を表出する と同時に、同時にどっちつかずで優柔不断な治兵衛の性格を示しています。そのどちらもが治兵衛の真実の気持ちであり、同時に そのどちらを取っても本当の気持ちでないということになるのです。

どっちつかずで優柔不断、態度がはっきりしない」という要素に 於いて、「伊勢音頭」の貢はこれを上方和事の系譜に置くことができると考えます。 貢は最後の最後に優柔不断なイメージをかなぐり捨てて猛烈に怒る・本気で怒ります。人を殺めることはもちろん良いことでないにしても、ここで貢は世間体も面子も恥も外聞もかなぐり捨てて、「俺は今 猛烈に怒っているんだゾウ」と思いっきり叫んでいます。

殺し場での貢は最初から怒りで切れて刀を振り回すわけではありません。万野に絡まれているうちに・はずみで刀を持った手が回ってしまって・その時に運悪く鞘が割れてしまったから・知らずに万野を斬ってしまったのです。万野は「貢に斬られた・殺される」と騒ぎ出す。状況からすると貢には周囲に抗弁できる証拠はない。こうなったら万野を殺すしかないと貢は肚を決めるのですが、そうなるのは貢はそこまでの万野の行為(お紺の愛想尽かし・お鹿の件も含む)に腹を据えかねていたからです。 ここまで我慢に我慢を重ねて来たのですが、ここで貢は遂にブチ切れます。それからの貢は頭に血が上っていますから、何をしているのか自分でも分からず、もう無茶無茶に刀を振り回します。ここでの貢は 確かに自分を主張しています。 これは「私が今ここで見せている態度は、私が本当に感じていること」なのです。ついに貢の内面と外面とが一致したということです。「おい貢よ、何で怒らへんねん、はっきりせんかい」とジリジリしていた観客のストレスが一気に解放されます。

「伊勢音頭」は寛政8年(1796)に伊勢古市で実際に起きた刃傷事件を直後に劇化したものです。この芝居が上方のみならず江戸でもどうして大ヒットしたのかということは、恐らく当時の沈滞した世相を考えてみれば想像ができます。松平定信が行った寛政の改革は天明7 (1787) 年から寛政5 (93) 年まで行われましたが、景気はすっかり冷え切ってしまって、庶民の反発を買うことになってしまいました。「俺は今猛烈に怒っているんだゾウ」という気分が当時の庶民のなかにあったのです。

吉之助は、折口のポイトコナ語源説が正しいのかはまだ確証がつかめていません。実はそんな難しく考えなくても・ピントコナは「ピンと来ない」で十分かなと思っているくらいなのですが、折口がピントコナを馬鹿むこのような役だと指摘してくれたことは、吉之助にとってはまさに 頼りがいのある味方を得た気持ちなのです。

(H27・6・21)


○ピントコナ考・その5

実は吉之助は夏が大の苦手。「夏は俺の季節」なんてのたまう方が羨ましい。ハワイやグアムも確かに暑いですが、湿度が低くてカラッとしているので暑苦しさはさほどでもありません。サッと一雨来れば、涼しい風が吹く瞬間もあります。ところが、日本の夏は暑いうえに湿度が高いので、暑苦しくて辛い。 頬を打つ風も湿気を含んで気持ち悪い。汗をぬぐっても・暑さがまつわりついて来るようです。そこにプーンと蚊が来るのがまた嫌ですねえ。暑苦しいと誰でも 思考が長続きしないで、ちょっと気が短くなって、イライラすることも多いようです。それで些細なことでカッと来て喧嘩沙汰なども多くなり勝ちです。夏芝居というと派手な殺し場がある芝居がよく出るの は、そのせいでしょうか。ただし芝居では殺し場に至るそのプロセスがつねに大事です。主人公がイジメられて・いたぶられて、遂に堪忍袋の緒が切れて殺しに至るから、そこに「遂にやったぜ」というスカッとした快感が生まれるわけです。 ですから「伊勢音頭」の奥庭での貢は本気の殺意で殺し場をやらねばならないのは当然のことです。

しかし、恐らく夏芝居の「夏」たる所以は、主人公が遂に切れて怒り出すまでの・イジメられて耐えに耐え抜くイライラした場面にあるのです。つまり、イジメのプロセスが暑苦しく・拭っても拭っても暑さがまつわりつく日本の夏にどこか似るのです。たとえば「伊勢音頭」の万野です。この仲居はネチネチと回りくどく・貢にまつわりついて盛んに厭なことをします。と云って万野は貢にはっきりと敵意を見せるわけでもなく(それならば対処の仕様があるが)、万野が何を意図して厭なことを仕掛けてくるのか貢にはよく分かりません。自分のことが嫌いなのか、あるいは逆に自分に気があるのか、それもよく分からない。だから厭なら「厭だ」とはっきり言えば良いのに、貢は態度を曖昧にしたまま・ただ良いように弄られています。 そこが夏狂言のイライラした気分に通じるのです。貢にとってはお鹿もイライラの種です。お鹿は顔は悪いが気の良い 女です。しかし、お鹿の言うことは貢にとってまったく実も葉もないことで、お鹿が騒げば騒ぐほど不愉快以外の何ものでもありません。そんなところでお紺が愛想尽かしをしてきます。もう貢は訳が分からなくなります。(お紺の愛想尽かしは彼女の本心からのものではなかったことが後で分かります。)

別稿「上方和事の行方」で触れた通り、上方和事はシリアスな要素と背中合わせで滑稽味や諧謔味が出ますが、滑稽ということはゲラゲラ笑ってしまうような可笑しいことだけを云うのではありません。滑稽とは、どこかしら不似合いである・何かが不釣合いであるという状態のことを言います。「伊勢音頭・油屋」においては、貢は彼が思いもよらない不愉快な状況に置かれています。しかも、それに対して貢は抗うこともできず・ただ弄られるままです。このような状況は貢にとってミスマッチングですから、つまりそれは傍から見れば滑稽なのです。

そのような状況においても、貢は「自分は不愉快なんだぞ・怒っているんだぞ」という感情を露わにせず、まだお愛想笑いを浮かべて・これをいなそうとしています。つまりこれは「私が今ここで見せている態度は、私は本当に感じていることとは違う」ということなのであって、これはまったく上方和事のフォルムなのです。

ですから貢は辛抱立役には違いないのですが、普通の辛抱立役ならば「俺は 不愉快でたまらないぞ・もう怒りを堪えることができないぞ」と、刀の柄に手を掛けてワナワナしてみたり、怒りで目を剥いてムズムズした仕草を見せたりするものです。芝居のプロセスとして観客に 怒りへの段取りを明確に見せねばなりません。貢の場合には、そこがちょっと違います。貢は自分の感情をオブラートに包んで・はっきり見せようとしません。これがお客様第一主義の御師の性根であり、上方和事のフォルムでもあるのです。 もちろん「芯の強さ」は貢が内に持っていなければならないものですが、外に向けて見せるものではないのです。

逆に言えばこういうことが云えるのではないでしょうか。傍から見て怒って当然と思うところで怒らず・なおはっきりしない優柔不断な態度を続けているということは、傍から見れば「どうして怒らへんねん、はっきりせんかい、阿呆ちゃうか」ということになるのです。そこが折口指摘するところのピントコナの「馬鹿むこ」のイメージに通じるのではないかと吉之助は思うのですね。(この稿つづく)

(H27・6・12)


○ピントコナ考・その4

福岡貢は御師(おし/おんし)という珍しい職業です。御師というのは、特定の寺社に所属して、参詣者を案内して参拝・宿泊などの世話をする者を云い、神職と百姓の中間の身分でした。だから門前町には御師がいるところがたくさんあったのですが、 特に伊勢御師が有名でした。江戸期には一大旅行ブームがあって、庶民の伊勢参りが盛んでした。これは信仰と観光・遊興の意味を併せ持っていました。御師というと何だか特殊な宗教者のようですが、平たくいえば門前町の現地観光ガイドということです。 そうやって御師はお伊勢さま参拝の世話だけでなく・伊勢古市での遊興の世話などもしました。

現代でも観光ガイドさんは気苦労が絶えなくて・なかなか大変な仕事のようです。日常の憂さを晴らすために旅行に出るわけですから、客にもいろんな人がいます。我儘勝手な人・無理難題を言う人・不平不満の多い人・急病人や現地の人とのトラブルなど、いろんなことが頻繁に起こります。そういうのを嫌な表情を見せずにニッコリ笑って「ハイハイ」とテキパキ処理するのが、たぶん有能なガイドさんだと思います。伊勢参りの御師もそんなものだと思えば良いのです。

ということは御師である福岡貢の性格ですが、二枚目の色男であることは確かですが・それだけでなく、御師というのは接客業のプロですから、人当りが良く・愛想も良い、どんなことを言われても・ニッコリと受け流し・決して嫌な表情を見せることがない、そのような性格が想定されると思います。悪い言い方をすると、受けは良いが・八方美人的であって・態度につかみどころがない。何を考えているか本心が良く分からない人物ということになるかも知れません。(接客業の方、お読みでしたら御免。)

ピントコナについて「立役のきりりとした強さがある」ということが 巷間言われますが、ここがまず吉之助が引っ掛かる疑問点です。貢がきりりとした強さを見せること、「俺は怒っているんだぞ」という気色を他人に対して見せることは、御師の本分として決してあってはならないことです。貢は最後に刀を抜いて暴れますが、暴発するまで怒りの感情を他人に見せてはならないのです。もちろん芝居ですから「我慢している」というところを舞台で匂わせて見せねば観客には貢の心理プロセスが分からぬことになりますが、それさえも柔らかい表情で「いなす」。そういうところが必要なのです。ここがまさに上方和事の技法であることは、別稿「上方和事の行方」をお読みになればお分かりになると思います。

五代目菊五郎が江戸前の貢を当たり役としたことは前に触れましたが、鏑木清方の回想に拠れば、「身不肖なれども福岡貢、女をだまして金とるような所存はない、何を、バ・馬鹿な・・・」と云う有名な台詞の後、煙草盆を取って煙草に火を付けるところで五代目は笑みを含んでいたということです。つまり、思わず怒りの言葉が口から出てしまってからも、なおこれを笑みに紛らせる、自分の感情を隠して・他人に悟られまいとする。これがピントコナの在り方だと思います。東京型の貢においても、五代目はそういう理解がキチンとしていることに感心します。しかし、以後の東京型の貢では、五代目の性根のポイントが忘れられてしまったということなのです。(この稿つづく)

(H27・6・8)


○ピントコナ考・その3

「伊勢音頭恋寝刃」は寛政8年(1796)に伊勢古市で実際に起きた刃傷事件を劇化したもので、上方狂言です。現行歌舞伎の舞台で見られる福岡貢は大体菊五郎型に拠ります。これは五代目菊五郎が貢を当たり役としたからですが、仁左衛門はじめ上方の型もいろいろ残っています。

ピントコナが「やわらかな色気を持ちつつ・立役のきりりとした強さがある 二枚目の役」だとするのは、これは菊五郎型の貢を見るならばなるほどそんなものかなと思います。しかし、吉之助がこの説明に釈然としないのは、字面だけをあげつらうと、これでピントコナが江戸和事・たとえば曽我十郎などの役とどれほどの違いがあるのかということです。あまり違いが意識されていないと思います。ピントコナが上方の役であることの説明ができていない。しかし、それで良いと考えられていたようです。それは貢は元・武士で芯にきりりと強いところを持った役であるから、ピントコナはいわゆる上方和事と領域が異なるとされたからです。つまり、「つっころばし」系統のナヨナヨと女々しいイメージが上方和事の前提としてまずあって、そのうえでピントコナは同じ和事でも性根がちょっと違うものだという理解がされていると思います。

吉之助は上記の説明が間違いだと言っているわけではないのです。恐らく歌舞伎ではそのようなロジックでピントコナの理解がされてきたのです。芸談「とうざいとうざい・歌舞伎芸談西東」のなかで十三代目仁左衛門が「鰻谷」の八郎兵衛 がピントコナの役柄で、さらに「沼津」の十兵衛も含めることができると語っているのを見つけました。十三代目はピントコナを広範囲に捉え過ぎ だと吉之助は思います。(もしそうならピントコナの他の解説にもそういう記述が出てしかるべきと思います。)十三代目の理解にも 「きりりとした芯の強さ」に重きを置くロジックがあると感じますが、ここを取っ掛かりとすれば、これを江戸前の役柄へも容易に転換できるということになります。これが役者の型の発想法なのです。現行の貢の菊五郎型はそうやってできたものです。

十三代目片岡仁左衛門:とうざい とうざい―歌舞伎芸談西東

ピントコナについては、江戸中期に使われた「ひんとする(きっとする)」というのが語源だという説もあるそうです。しかし、吉之助がなおも釈然としないのは、「ピントコナ」という如何にも上方の匂いのする・しかし意味がよく分からない曖昧な言葉が、「きりりとした芯の強さがある」という明快なイメージを持っているように吉之助にはどうも聞こえないことです。もうひとつは、別稿「上方和事の行方」で触れた通り、シリアスな要素と背中合わせで滑稽味や諧謔味が出るという上方和事の在り方からすると、「きりりとした芯の強さがある」という理解は 上方和事の本質からずれてしまうと感じるからです。吉之助は現行のナヨナヨの上方和事のイメージにもう少しシリアスさを注入したいと考えていますが、それは滑稽味と重ね合わせて「揺れ」の感覚で表現できないと意味がない。「きりりとした芯の強さ」だけでは江戸和事と大して変わりません。これではピントコナが上方系統の役である出目が十分説明できないと感じます。そこで前節に挙げた折口信夫の「ポイトコナ」説が、吉之助のなかで改めて浮かび上がってくることになります。

それにしても折口の・ピントコナは馬鹿婿のような役だという説は、「きりりとした芯の強さがある」というイメージと真っ向対立する考え方です。大体、「伊勢音頭」の貢を見て馬鹿婿ということがあまり思い浮かばないと思います。吉之助もそうです。しかし、折口の方法論は一見すると 直感的に見えるかも知れませんが、とても論理的・科学的です。折口がこのポイトコナ説を語感の連想から思い付きだけでそう言ったと、吉之助はまったく思わないのです。なぜならば折口は歌舞伎の舞台に実によく通じた人であって、菊五郎型はもちろん、仁左衛門・鴈治郎・延若など上方の貢の古い型も承知してい た人なのですから、ポイトコナ説が頭のなかに浮かんだ時に、これが貢に適用できるか・そういう検証を頭のなかでしないということはあり得ないのです。

「折口信夫坐談」を読んでも、戸板康二も「(折口)先生の言うポイトコナ説は正しいのかなあ、でも先生が言ったことだから記録しておかなくちゃなあ」と半信半疑であったように思います。しかし、折口がこの解釈なら「伊勢音頭」の貢に適用できると考えた根拠が何かあるに違いない。もし貢に馬鹿 むこのイメージを重ねてみると・それはどんなものになるかということを考えてみたら面白いと思うのですね。(この稿つづく)

(H27・6・5)


○ピントコナ考・その2

「伊勢音頭」の主人公福岡貢は「ピントコナ」の役どころだと云われますが、このピントコナというのは、どうもイメージが明確でない言葉です。調べてみると、大体こんなことが書いてある文献が多いかと思います。

ピントコナ:上方和事の役柄の一つ。やわらかな色気を持ちつつ、「つっころばし」のように女性的にならず、立役のきりりとした強さがある役を指す。「伊勢音頭」の福岡貢など。

これだけ読むと「そんなものかな」と思うかも知れませんが、「福岡貢など」って書いてあるのだから当然他にもピントコナの役があるはず、現代に上演ない作品でも良いから他にどんな役があるのかと思って調べると、これを書いてあるものが 全然ないのだな。そこで、結局分かることは、ピントコナの役というのは福岡貢だけだということです。だからピントコナというのは役柄ではなく、貢の性根を表わすものだと考えた方が良いと思います。

いつくかの解説を並べて見ると、共通して「どこかにきりりとした強さがある」というところにピントコナの重きを置いているようです。 たとえば貢は元・武士であるから、役にそうした芯の強さが必要だというのです。これは多分、ピントコナの「ピン」の音の、ピンッととんがった印象からの連想でしょう。しかし、戸板康二の「折口信夫坐談」を読むとこんな文章が出て来ます。

『歌舞伎の役柄で、俗に「ピントコナ」ということばがある。和事の、美しい二枚目でいながら、三枚目の要素のある、上方のほうで育った役だ。ある日、(折口)先生は、「ピントコナがわかったよ」といわれた。それまで、歌舞伎の衣裳のほうの、小忌衣(おみごろも)という、殿さまの襟についているビラビラした布のことを「ピントコ」というので、その殿さまのような役だと思っていたが、どうもそうではないらしい。昔話の馬鹿むこの話で、団子を買いにゆく途中、団子ということばを忘れては大変なので、団子、団子と口のなかでいいながら歩いてゆくと、往来に水たまりがあり、「ポイトコナ」といって飛びこえて、それからポイトコナ、ポイトコナと口のなかでいってゆくという話、あれからきているらしい。そういう話であった。つまり、馬鹿むこのような役柄という風な意味の、ピントコナなのだという解釈なのである。』(戸板康二:「折口信夫坐談」)

折口信夫:戸板康二編・折口信夫坐談

これを読むと、折口のピントコナの解釈は「きりりとした強さ」に重きを置いていないことどころか、馬鹿むこのような役という、まったく正反対のイメージなのです。戸板は、折口の見解に対して感想を書いていません。そこが記録者に徹した戸板らしいところなのだけれど、戸板自身はピントコナについて「美しい二枚目でいながら・三枚目の要素のある」と記しています から、多分、折口の見解に全面賛成というわけではなかったでしょう。このように歌舞伎で使われるピントコナの定義は曖昧なもので・定説があるわけではなく、人によって言うことが微妙に異なっています。だから改めて言いますが、ピントコナという役を考える時には、「伊勢音頭」の貢という役を正しく理解するしか・その取っ掛かりはないということになります。(この稿つづく)

(H27・5・31)


○ピントコナ考・その1

いつぞや「伊勢音頭」のどなたかのご感想を眺めていたら、或る役者が演じる奥庭の殺し場の福岡貢について「妖刀のなすがまま動くのが分かって良い」ということが書いてあって、フーンと思いました。貢が持つ刀は青江下坂と云って、元来この刀は貢の家に崇りをなす妖刀 であったという設定になっています。鞘が割れてしまった妖刀の魔力に 魅入られたが如く、貢は次々と人を殺めます。現代の刑法では人を殺しても、心神喪失状態にある場合はその罪を問えないということがあるそうです。貢が刀で人を振り回すのは青江下坂の崇りのせいであって、貢本人は正気ではない。だから妖刀のなすがまま虚ろな表情で・操り人形のようにフラりフラリと刀を振り回す、そういう機械的な動作をすることで貢が心神喪失状態にあることを表現する、それならば貢に罪がないことが明らかであると、まあそのような理屈でありましょうかね。しかし、そういう見方は心理学の成果に乗っかっているかに見えて、実は上っ面しか捉えていないのです。歌舞伎には元来そのような思考回路(ロジック)はないのです。

まず歌舞伎では人気役者が悪人の印象のままで終わるのは「気分が悪い」ということがあります。そのような場合には、最後に全然別の善人の役に入れ替わって登場してイメージを一新する、そうすることで観客は気分よく劇場を後に出来るということになります。そうでない時には、人気役者演じるその役が悪事を犯すのにはやむを得ない事情があって「実は彼は根っからの悪人じゃなかったのです」という申し訳が付く場合が多い。「伊勢音頭」でもそうで、貢は刀を振り回して次々と人を殺める凄惨な行為をしますが、最後にそれは青江下坂の崇りのせいでしたとなって、貢は憑きものが落ちたように正気に戻る、これで観客は「そうかア、十人斬りは貢のせいじゃなかったんだ、刀のせいなんだ」ということになって安心するのです。逆に言えば、十人斬りの場面では貢は真剣に・本気の殺意を以て殺し場を演じなければならないということなのです。そのような落ちが付くことで、最後の場面で貢の所持する刀が青江下坂だと判明し・お家騒動解決の知らせが届いてメデタシメデタシと なる芝居のカタルシスが明確になる。これが歌舞伎の思考回路というものです。

これは「伊勢音頭」での妖刀の崇りは、結局、筋を展開するための装置に過ぎないと 昔の人が考えていたことを示しています。何かしら暑苦しく圧し掛かっていた モヤモヤが貢が怒って刀を振り回し十人斬りに至ることで一気に発散される、これ が夏芝居の魅力であるからです。だから貢の十人斬りが真剣なものでなければならないのは、当然のことなのです。

これについては、次のような考察もできると思います。昔の人は、人が気が狂うのは、神がかりとか・物の怪(け)とか、何か尋常でないものがその人に入り込んで・心を占領する、そのため人格が変わってしまうと考えました。だから憑きものが落ちれば、正常に戻るのです。昔の人の理屈は単純明快です。「くるふ」とはクルクルと旋回すること。気が狂った状態になると、くるくる回る運動をする。だから「くるう」と「まう」とはほとんど同じことで、神様が降りてきて恍惚状態になった人がクルクル回るのが舞の起源ということ になります。そうすると、いつしかこれがひとつの型みたいなものになって、神様が降りて来なくてもクルクル回る。「回っているうちにいつか神様が降りて来るだろう」という理屈になる。そういうところから芸能というものが始まるわけです。

だから能で「おんくるひ候へ」などとシテに呼びかけて物狂いを見せることがあるのは芸能が物語性を備えて行く発展過程を示すものですが、能の場合には狂人の狂うさまを観察して・そこから心に分け入り狂気の源を探し出そうとする醒めたものをどこかに感じます。それは精神分析のカウンセリングにも通じます。別稿「隅田川の精神」でも触れましたが、世阿弥は狂女の病み狂っ た心象風景を思い、その裏に潜むドラマのことを想ったのです。吉之助は、そこに室町時代の世阿弥の科学性を見るのです。

翻って江戸時代の歌舞伎の「伊勢音頭」を見れば青江下坂の妖刀は、貢が暴発し狂気の行動に至ることの免罪符に使われています。これは観客をそのような人間心理の暗く・醜 く・恐ろしく・嫌なものに目を向けなくても済むように仕組まれているということなのです。これはたかが夏芝居のエンタテイメントですから・・・別に深い意味はないですから・・・と申し訳を付けているのです。 冒頭に挙げたご感想はそれに乗っちゃってるわけです。しかし、何が貢を苛立たせ・何が貢の狂気に火を付けたのか、ホントはそこを感じ取ることが大事なのではないでしょうかね。 そこに決してお上に悟られてはならぬ危険なものが潜んているからです。だから逆説的に貢の十人斬りは真剣なものでなければならない ・そこに真実が潜んでいるということになります。(この稿つづく)

(H27・5・23)


○上方和事の行方・その9

今月(4月)歌舞伎座の四代目鴈治郎襲名の「河庄」のことに話を戻しますと、新・鴈治郎の和事芸への取っ掛かりがそのシリアスさ・真面目さにあるということは確かです。別稿「和事芸の多面性で触れた通り、吉之助は、現在の上方和事は現実にはもっぱら哀れとかナヨナヨとした弱い印象によって表層的に捉えられ来たものだと考えており、これをもっと凛とした本来の方向へ引き戻すために、上方和事にシリアスさを注入せねばならないと考えています。新・鴈治郎にとって大阪で育たなかったのは大きなハンデですが、 それならばどのように上方和事をやるかということを新・鴈治郎なりの理屈で、感性ではなく理屈で構築してハンデを取り返していかねばなりません。そのために上方和事とはどのようなフォルムかということをしっかり理解してもらいたいのです。そのうえで新・鴈治郎の 個性であるシリアスさをベースに、表現に変化と幅をどのように持たせるかなのです。上方の細かなニュアンスが出せる・出せへんということではなく、純粋に上方和事のフォルム・技巧の問題 として捉えて欲しいと思います。

本稿で述べた通り、上方和事の技巧とは「揺れる」というところにあります。台詞・動作のある箇所をグッと伸ばして・急に引いて収める(あるいはその逆)という「テンポ・ルバート」の技巧です。 これは押したらサッと引いて戻す・引いたらサッと押して戻すという世話の活け殺しの手法です。またテンポだけではなく、声の高低・テンションの高低を大きく付けて、表現全体の幅とリズム感を付けることです。これがな ければ上方芸にはなりません。そこは役者の工夫に掛かっており ・定型というものがありませんから、一見すると瞬間芸・役者の味でするもののように見えるかも知れませんが、実はそれは芝居全体の流れと役の正しい理解によって綿密に設計されているのです。 これが初代鴈治郎や二代目延若の上方芸です。新・鴈治郎は、そのような上方芸の系譜を 正しく理解して、そのなかで自分の芸の進むべき道を考えてもらいたいと思います。

そのために新・鴈治郎の良さであるシリアスな熱さが大事な取っ掛かりになる のには違いないですが、それだけではまだ足りないのです。今回の「河庄」でも新・鴈治郎の一生懸命さは確かに伝わってきます。治兵衛は小春と愛し合っている、そのうち二人で死のうと思っているという気持ちのシリアスさはよく伝わってきます。しかし、 本文に「逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と」とあるから治兵衛は死覚悟・心中にまっしぐら だと単純に決めてかかっってしまうと、「河庄」の印象は全然違ってしまいます。それだけでは上方和事にはならないのです。それ だけでは近松になりません。もちろん治兵衛は死ぬ覚悟には違いないですが、その気持ちを真っ直ぐに出さずに曲げて出す。滑稽に紛らせる。 まずこのことを上方和事の理論として理解することです。そうするとシリアスな場面においてはこれを滑稽の方へ紛らせる、滑稽な場面においてはこれをちょっとシリアスな方向に返す、 そう考えることで自分の持ち味であるシリアスさをベースにして・余裕を以て演技を構築することができるようになります。これができれば「河庄」 を必ず上方和事に・近松のフィルムにできるはずです。新・鴈治郎は吉之助と同世代でもあるし、大阪のガンジロはんとして頑張ってもらいたいと思います。

(H27・5・16)


○上方和事の行方・その8

実は「河庄」の場においては、治兵衛はドラマの枠外の存在です。この場のドラマの核心は小春が治兵衛を愛していても・或る事情(おさんへの手紙)によって小春は辛くても生きねばならないというところにあります。兄孫右衛門は最後に手紙の存在を知り、事情を察します。治兵衛だけが事情が分からないまま勝手に怒って騒いでいます。だから治兵衛がどんなにシリアスに怒ろうが、その言動はドラマの本筋からはずれており、だから「河庄」での治兵衛の役割自体が滑稽なものとならざるを得ません。これが上方和事のフォルムの基となっているのです。

ところで大事なことは、この「河庄」の場で小春と・手紙の主であるおさんが共に守ろうとしている物は何かということです。その物の為に「河庄」では小春が身を引こうとし、「紙屋内」ではおさんがやはり身を引こうとします。それが守られれば、私が「立つ」と 云うのです。当時の人びとにとって、私(わたしく)が立つ・一分(いちぶん)が立つということは、或る意味で自分の命よりも大切なことでした。幕切れ近くで兄孫右衛門はおさんの手紙の存在を知りますが、この箇所は近松の原作と歌舞伎では段取りが若干違うので、原作を引きますと、

『(孫右衛門は文を)読みも果てず、さらぬ顔にて懐中し、「これ小春、最前は侍冥利、今は粉屋の孫右衛門、商い冥利、女房限ってこの文見せず、我一人披見して起請とともに火に入るる、誓文に違いはない」、(小春は)「アアかたじけない。それで私が立ちます」』

とあります。ここで孫右衛門は「今は粉屋の孫右衛門、商い冥利」と言うところを見れば、それが明らかです。小春と・おさんが共に守ろうとしているものは、「大阪商人である紙屋治兵衛」というアイデンティティ だということです。だから孫右衛門は感じ入るのです。大坂商人にとって、自分が大坂商人であるということはそれほどまでに重く自らを縛るプライドであり・意気地です。「曽根崎心中」でも「冥途の飛脚」でも、結局、それがドラマの倫理的主題です。

治兵衛というのは、どうやら商才のない頼りない男のようです。恐らく本人自身が大坂商人不適格だと思っているでしょう(多分、それが治兵衛が浮気して小春にのめり込む遠因です)が、おさんと小春が一緒になって「大阪商人である紙屋治兵衛」というアイデンティティを守ろうとしているのです。なぜならばおさんと小春も治兵衛を愛しており、治兵衛が大坂商人として「立つ」ならば、「この男を愛した私」という「・・と(und)」の関係によって私も「立つ」、これがおさんと小春の 女の論理であって、その論理のうえで二人は対等であるということになるのです。(本稿では深入りしませんが、このことは大坂商人にとってのお金の問題も深く関連します。別稿「金がなければコレなんのいの〜歌舞伎におけるお金を考える」をご参照ください。)

前節で「河庄ではふたりの死を甘美なものにするものがまだ何か欠けている」と書いたのは、まさにそこのところです。「曽根崎心中」でお初が「そのはずそのはず、いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」と叫ぶのと同じもの (大義)が必要になります。治兵衛と小春が心中するために「大阪商人である紙屋治兵衛」というアイデンティティを守るのだと云う大義がまだ明らかにされていない「河庄」では、二人はまだ死ねないのです。そのことを明らかに し、彼らに大義を授けるのが「中の巻(紙屋内の場)」の役割です。「河庄」では、まだドラマの方向性は決していません。だから「河庄」の幕切れが、「鮓屋」か「六段目」の 如く、死の印象が全体を覆う重い幕切れとなってはならないのです。 確かに観客は彼らが最後に心中する結末を承知しています(この作品は際物、つまりモデルがあるわけですから)が、死の印象は曲げて婉曲に提示されなければなりません。なぜならば「河庄」は上方和事の世話物浄瑠璃であるからです。(この稿つづく)

(H27・5・10)


○上方和事の行方・その7

和事の本質とは「今の自分は真実の自分ではない」ということです。彼は絶えず反対の感情へ揺れています。彼が「生きたい」と言う時には彼は死に惹かれており、彼が「死にたい」と言う時には彼は生に惹かれています。上方和事ではシリアスな感情は滑稽と裏腹の形で表現されます。たとえば治兵衛が「(小春を)思い切ったる証拠、これ見よ」と言って二十九枚の起請文を差し出しますが、この場面で当時の大阪の観客は笑ったと思います。近松はこの場面を滑稽な場面として書いているのです。起請文というのは、契約を交わす際・それを破らないことを神仏に誓う誓紙で、 江戸の遊郭では男女の間の愛情が変わらないことを互いに誓って起請文を交わすのが流行りました。熊野誓紙は熊野の牛王宝印に書いた起請文で、約束を破ると熊野の神の遣いである鳥(からす)が三羽死に、破った者は地獄に堕ちると信じられていました。そのような 誓紙は一枚書けばもう十分なのです。起請が二十九枚あるからといって、愛が二十九倍強 くなるわけではありません。傍から見れば、これは治兵衛と小春が「わてのこと好きか、そんなら起請お書き」と 云うじゃれあいを二年半近くやっていたと見られても仕方ないことです。

絶えず反対方向の感情に惹かれるという上方和事の本質からすれば、治兵衛が「生きているのが辛い、死にたい」と言って嘆き・「治兵衛さんに死ぬなら、私もに死にます」と小春が泣く場面があったとしても、その後には「これが最後だから楽しく騒ぎまひょ」となって、死に憧れながら 生に対する未練たっぷりということになるのです。そうやって治兵衛と小春はここまでずるずる来たと思います。けれども、それは治兵衛と小春が愛に対して不真面目だったということにはな らないでしょう。生き方が刹那的であったということでもありません。そこに愛の本質があるのです。(別稿「音楽的な歌舞伎の見方〜古典的な感覚」を参照のこと。)

「河庄」の治兵衛の出の詞章に『逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文の言ひ交はし、毎夜々々の死覚悟』とあります。治兵衛は毎晩死ぬ覚悟で小春の姿を求めて夜の街をフラフラしていたわけですが、仮にその晩に・おさんからの手紙がなく・侍客の来訪がなかったとすれば、治兵衛と小春はその晩心中を決行したでしょうか。吉之助にはどうもそのように思えませんねえ。二人はやっぱり死なずにずるずる生き続けたのではないでしょうか。少なくとも・もし治兵衛と小春がその晩心中を決行していたとすれば、近松はこれを浄瑠璃にしなかったと思います。ふたりの死を甘美なものにするものがここにはまだ何か欠けています。(吉之助はこれを「・・と(und)」と呼んでいますが、これについては別稿「近松心中論」をご覧ください。) 彼らが心中するために手続きとしてどうしても「中の巻(紙屋内の場)」が必要になります。

侍客が兄孫衛門だと分かって治兵衛は逃げようとして(店の内へ)「入れ」・「いやだ」とじゃれ合いのようなやり取りが続きます。この箇所は近松の原作にはない歌舞伎の入れ事ですが、ここは治兵衛の面目なくて兄の元から逃げたいという気持ちと、ここまで来たならば小春に是非ひとめ会いたいという気持ちが交錯する場面だと考えられます。もちろん「会いたい」といっても・ここでの治兵衛は小春を 蹴飛ばしてやりたい気分でしょうから・完全にぴったりは来ぬわけですが、そこに小春に対する強い思いが曲げた形で婉曲に出ていると考えれば良いのです。こういうところを滑稽な場面として処理するのが上方和事のフォルムです。だから「いやだ」と言いながら、実は内にいる小春が気になって仕方ないという態度を見せて、シリアスな感情を 決して真面目に描かない、「いなす」・あるいは茶化して見せる、これが上方和事なのです。 滑稽というのは、笑ってしまうような変なことだけを言うのではありません。古典的なものにおける滑稽とは、どこかしら不似合いである・何かが不釣合いであるという状態のことを言います。治兵衛自身が予期しない・ 不本意な・彼にとって相応しくない状況に置かれてしまったこと、それが滑稽に通じるのです。そのことが治兵衛の行動を滑稽なものにしています。(この稿つづく)

(H27・5・5)


○上方和事の行方・その6

「河庄」が「鮓屋」か「六段目」のような時代物(正確には時代物の世話場)の印象の幕切れになってはならないということを考えます。ひとつには、「河庄」は純然たる世話物であるからです。そもそも際物、つまり同時代劇だからです。もうひとつは「河庄」は人形浄瑠璃オリジンですが、近松の時代の人形浄瑠璃とその後のそれとは作劇術においても倫理感覚においても微妙に違うということです。ただし歌舞伎の「河庄」は後の改作「心中紙屋治兵衛」を基にした歌舞伎化ですが、その場合でも当然近松のフォルムは意識せねばなりません。

「河庄」の粗筋としては、遊女小春は紙屋治兵衛と深い仲となり心中の約束をしていたが、小春の心変わりを知って治兵衛は激昂する、しかし、それは実は小春の本心からのものではなかった、それは治兵衛女房おさんからの手紙を受けてのものであったということです。治兵衛登場の詞章に「せかれて逢はれぬ身となり果てあはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文の言ひ交はし、毎夜々々の死覚悟。魂抜けてとぼとぼうかうかうか身をこがす」とあります。小春は親方から治兵衛と逢うことを禁じられており、今度逢えたら死のうと手紙で言い交し、このところ毎夜治兵衛 はこれが最後と小春の姿を求めて夜の街をフラフラしているということです。それならば治兵衛と小春は逢えばふたりは直ぐ心中に走る死への衝動が渦巻く、「河庄」とはそのような場なのでありましょうか。もしそうならば「河庄」の幕切れは時代物のように重い印象になっても良いと思います。しかし、吉之助にはどうもそのように思えないのですねえ。

和事の本質として「今の自分は真実の自分ではない」ということがあると先に述べました。フッと漏らした真実の言葉を笑いに紛らせて「今言うたのはみな嘘じゃ」と言ってしまったり、今まで冗談を言って笑っていたのが急に泣き出したり・怒り出したりするということがあります。感情が一定せず・不安定でいつも揺れているということです。どちらも真実でない けれど、その時の気分においてどちらも真実であると言えるのです。言い換えれば、個人と世間・義理と人情の狭間で常に揺れている、そのなかで自分がどう在りたいか明確に分かっていない、いつも迷っているということです。

ところでおさんから手紙を貰うまで、小春は治兵衛に妻子がいることを知らなかったのでしょうか。そんなことはないでしょう。知っていて治兵衛と深い仲となり心中を誓い合うまでになったと思います。それならば小春はどうして、おさんに対し「身にも命にもかへぬ大事の殿なれど。引かれぬ義理合。思い切る」と返事したのでしょうか。これについては別稿「女同士の義理立たぬ」で触れたのでそちらをお読みいただくとして、ここで もうひとつ大事なことは、おさんから手紙を貰った時点で、小春はそれまでと全然違った形で死というものに初めてリアルに対したに違いないということです。そのような死に対する畏れが、侍客(実は兄孫右衛門)に対する「アノお侍さん。同じ死ぬる道にも、十夜のうちに死んだ者は仏になるといひますが定かいなア」、あるいは「自害すると首くくるとは定めしこの咽を切るはうが、たんと痛いでござんせうな」という独り言のような台詞に現われます。

しかし、これは小春が「治兵衛さん死ぬなら私も死にます」と誓い合ったのが心中ごっこだったと吉之助が言っているのではありません。治兵衛と小春が愛し合っていることは確かだと思います。治兵衛が「生きているのが辛い、死にたい」と言い、小春が「治兵衛さん死ぬなら私も死にます」と言って起請文を書いた気持ちに疑いはないでしょう。しかし、「生きているのが辛い、生きともない、死にたい」という気持ちが そのまま即心中と云う行為につながるわけではないのです。「二人して死にたい」と思うことと、本当に心中を決行するのとは全然別だということです。本当に死ななかったとしても、二人が愛し合い死を誓い合ったことが嘘だったとは限りません。

おさんから手紙を貰った時点で、いよいよ事態は切羽詰まってきたと感じて、小春は初めて 自分が「死ぬこと」を強く意識したのです。そうなって初めて小春は真(まこと)の人間としてどう振る舞うべきか・つまり「生きる」という問題と対峙することになります。それは愛する治兵衛のことであり、実家に残した母親のことであり、あるいは(会ったこともない)おさんのこともあったりします。その思いが侍客に対する小春の述懐のなかに吐露されています。「私とても命は一つ水臭い女と思召すも、恥かしながら、その恥を捨てても死にともないが第一」は 侍客への偽りの告白であったでしょうか。吉之助はそのようには決して思いません。「治兵衛さん死ぬなら私も死にます」も真実であり、「恥を捨てても死にともない」も小春の真実なのです。ふたつの感情に小春は引き裂かれ、沈滞して行きます。

ですから吉之助が「河庄」の幕切れに見るものは「生きていることの辛さ、死にたくても生きなくてはならないことの辛さ」であって、死ではありません。近松は現世の作家です。このことは忘れてはならないことです。近松は「生きているのが辛い、生きともない、死にたい」と思うところにドラマ性を見ているのであって、芝居のなかで本当に死ぬ方向性が一旦決まってしまえば、近松はもうそこにドラマを見ることはありません。それはドラマではなく、詩になってしまうのです。 道行の詞章を読めばこのことは明らかです。(この稿つづく)

(H27・4・30)


○上方和事の行方・その5

上方の芸の伝承の在り方というものは、江戸とは違ったもので、芸は自分で工夫して作れ・そっくり真似したら駄目だというものでした。だから初代鴈治郎は息子(二代目)に芸を教えることを決してしませんでした。二代目鴈治郎の芸談によれば、花道を歩く父(初代)の足音を聞きながら・奈落で父に合わせて歩く、父が止まれば自分も止まる、そうやって「河庄」の治兵衛の出の息を学んだということだそうです。このエピソードは芸への憧れを感じさせます。しかし、同時にそれは型化・つまり定型化の一歩手前で、初代がそれを知ったら多分怒ったことでしょう。とは言え、おかげで現行の「河庄」は初代の雰囲気を残した形で我々はそれを目にすることができるわけです。

「河庄」については有難いことに数分の断片ですが初代の治兵衛の映像(大正十四年中座)が残っています。現行の「河庄」であると羽織を持った治兵衛と孫右衛門・小春の三人が引っ張りで決まった形で幕切れになりますが、この映像では初代の治兵衛は羽織を頭からかぶって床に突っ伏してしまって幕になります。後年この映像を見た二代目は衝撃を受けて「これは自分にはとてもできない」と唸ったそうです。初代は やる度に細かいところの段取りを変えて演じたようです。それはどちらが良いとか・正しいということではなく、定型マンネリに陥らないことを旨とするのが上方の芸で した。初代はその後も「河庄」の段取りをいろいろ試したはずです。

それにしても今月(4月)歌舞伎座の四代目鴈治郎襲名の「河庄」を見ると、特に幕切れが型っぽい感じがしますねえ。吉之助がこれまで見た「河庄」(つまり二代目鴈治郎と現・藤十郎による舞台)と比べてもずいぶん型臭い印象が強いように思われます。まあこれは仕方ないところもありますが、この印象は役者の動作の角々が三味線のリズムに当っていることから来るのでしょう。もちろんこれは四代目鴈治郎だけに責任があるわけではありません。この型っぽい幕切れは「まあ確かに河庄は義太夫狂言かも知れないけどねえ・・」と言いたくなる違和感がちょっと しますねえ。時代物の幕切れでは封建主義の重い論理のなかで主人公が引き裂かれ竹本の三味線のリズムが観る者に強く突き刺さりますが、何だかそれと同じような印象がします。しかし、これが「 鮓屋」か「六段目」のような幕切れになって良いのでしょうか。「河庄」は元は人形浄瑠璃であったとしても、写実を旨とする同時代劇の世話狂言なのです。

確かに「河庄」においても義理や柵(しがらみ)というものが登場人物たちを縛っています。幕切れの三味線のリズムが表現するものは、そういうものです。時代物ではそれは外部(他者)から強い力で主人公を締め付けます。(必ずしもそうばかりではないけれど、時代物ではそう考えても解釈の根本をそう大きく外すわけではない。) 一方、世話物ではその力はもっと緩慢な弱いものであり、しかもその力はむしろ内側(自分自身)から湧き上がって来るものと考えた方が良いのです。近松の世話物においては役者は木偶(人形)になってはなりません。初代の治兵衛は幕切れがマンネリにならないように始終工夫を凝らしたと思いますが、意図はそのような重い印象を打破するところにあったのかも知れませんね。ですから「河庄」の幕切れは三味線のリズムに乗せて締めるのではなく、意識的に三味線を外す方向で工夫をお願いたいのです。(この稿つづく)

(H27・4・25)


○上方和事の行方・その4

和事芸のもうひとつの特徴は、シリアスな要素と背中合わせで滑稽な三枚目的要素が出ることです。これについては別稿「和事芸の起源」で触れましたが、演劇とは「人生の真実を誣いる」芸能ですから、哀れを表現しなければならないシリアスな役どころにこそ、誣いることの申し訳 として滑稽味や諧謔味が必要になるわけです。

このことは「今の哀れな姿をしている自分は真実の自分ではない」という和事の本質と深く係ります。フッと漏らした真実の言葉を、笑いに紛らせて「今言うたのはみな嘘じゃ」と言ってしまったりします。かと思うと今まで冗談を言って笑っていたのが、急に泣き出したり・怒り出したりします。彼はどれが真実の自分であるか・自分が本当に何をしたいのか・自分でも分からなくなっています。「帰るか居るか・・イヤイヤ去のう」と言いかけて「やっぱり居よう」と戻ってみたり、行動は一定せず・明確な形を取ることがなく・絶えず揺れ動きます。

上方和事の台詞のリズムは、微妙に早くなったり・遅くなったり・波のようなふわふわした揺れであることは先に述べました。また台詞の緩急・声の調子(トーン)の高低を大きく取ります。このような表現の幅の大きさ も、また「今の自分は真実の自分ではない」という和事の本質に係るものです。

ですから「新・鴈治郎の和事芸への取っ掛かりはそのシリアスさ・真面目さにある」と書きましたが、もちろんこれが取っ掛かりなのですが、シリアスさだけでは駄目なのです。「今の自分は真実の自分ではない」という熱さだけでは、表現が一本調子になってしまって、演技に幅が出ません。 これでは上方和事のフォルムになりません。それでは江戸和事とあまり変わらないことになってしまいます。新・鴈治郎の長所であるシリアスさをベースにして、どのように演技に幅を出すかなのです。やり方に定型があるわけではありません。工夫次第、そこに役者の持ち味が出てくるのです。上方味というものは、結局、そういうところから出るものなのです。 大阪弁がしゃべれる・しゃべれへんということではないのです。(この稿つづく)

(H27・4・22)


○上方和事の行方・その3

別稿「和事芸の多面性」で触れましたが、和事芸の「やつし」は一般的に例えば「吉田屋」の伊左衛門のようなお金持ちのボンボンが落ちぶれて哀れな様を見せる・その落差が見せ所であるとされています。しかし、それは和事の表層的な見方です。そうではなくて、「七百貫目の借金負ってビクともいたさぬ伊左衛門」という台詞にこそ伊左衛門の性根がよく出ています。つまり金がなくても、金のことなど全然気にしない。そんなことで自分がどうなるなんてちっともクヨクヨしない。そこに伊左衛門という人物のお育ちの良さ・人物の大きさが自然と出るのです。そこから引き出される和事の本質とは「今の哀れな姿をしている自分は真実の自分ではない」ということです。

現代の和事はもっぱらナヨナヨと弱々しい性格が強められていますから、伊左衛門というとお人良しだけれど ちょっと頭の弱いバカ息子にしか見えないと思います。しかし、伊左衛門は「自分は大店の息子だ」というプライドで以てどんな苦難でも・ヒイヒイ言いながらでも・かろうじて耐えるのです。そこに伊左衛門の芯の強さが出ています。実はこれが和事の本質です。だから和事の芸は本来もっと凛としたものであるはずだと吉之助は思います。

「今の哀れな姿をしている自分は真実の自分ではない」、しかし現実としては現在の・この惨めな状況に甘んじなければならないということは、当然伊左衛門のなかに沸々とした憤(いきどお)り・不本意な気分があるはずで、そのような苛立った気分が上方和事の場合には洗練された緩慢なリズムで現れるということです。

現代の和事はナヨナヨして弱々しいものに見えます。こうなってしまったことについては、それなりの理由があるはずで・そのことに思いを馳せることは大事なことです。しかし、現代の和事は脆弱でもはや現代人にはアピールするだけのエネルギーを持ってはおらぬと思います。ご当地の大阪人 からももはや見放されています。今や上方歌舞伎が絶滅の危機に瀕しているのも無理からぬと思います。しかし、それは初代藤十郎の和事を表層的に捉えて来たからそうなってしまったのであって、藤十郎の和事が悪いということではありません。もう一度藤十郎の和事を凛とした強さで作り直せば再生のチャンスはある はずです。折口信夫が「大阪人の野性味」ということを言っているので、そこを取っ掛かりに考えてみます。

『三代住めば江戸っ子だ、という東京、家元制度の今尚厳重に行われている東京、趣味の洗練を誇る、すい(粋)の東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、固定した家は、同時に滅亡して、新来の田舎者が、新しく家を興す為に、恒に新興の気分を持っている大阪、その為に、野性を帯びた都会生活、洗練せられざる趣味を持ち続けている大阪とを較べて見れば、非常に口幅ったい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、都会文芸を作り上げる可能性を多く持っているかも知れません。西鶴や近松の作物に出て来る遊治郎の上にも、この野性は見られるので、漫然と上方を粋な地だという風に考えている文学者たちは、元禄二文人を正しゅう理解しているものとは言われません。その後段々出てきた両都の文人を比べても、この差別は著しいのです。このところに目を付けない江戸期文学史などは、幾ら出てもだめなのです。江戸の通に対して、大阪はあまりやぼ(野暮)過ぎるようです。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

折口信夫文芸論集 (講談社文芸文庫)

実はこの折口の文章は短歌論でして、力の芸術を標榜する田舎生まれの斎藤茂吉に対して、都会(大阪)生まれの折口がやんわりと反論する形になっています。折口はこのようにも言っています。

『真淵の「ますらおぶり」も、力の芸術という言うのでなく、単に男性的という事を対象にしているのではなかろうか、と思います。田舎人ばかりが、力の芸術に与ることが出来て、都会人は出来ない相談だとまで、わたしは悲観して居ません。曲がりくねった道に苦しみ抜いて、力の芸術に達した都会人も、「ますらおぶり」の運動に与ることは出来るのです。あなたも、この点は否定せられまいと思います。さすれば都会人が、複雑な、あくどい、なまなましい対象を掴んでくることも、その表現の如何によっては否認はなされぬでしょう。』(折口信夫:「茂吉への返事」:大正7年6月)

「大阪人の野性味」ということをみなさんあまり考えないと思いますが、関西生まれでも・東京の生活が長くてもはや関西人と言えない吉之助ですが、折口の言いたいことが 吉之助には何となく分かります。生きることのバイタリティ・しぶとさということならば、大阪人はなかなかのものがあるはずです。このような野性味・力強さが、近松の世話物の主人公、伊左衛門にも・徳兵衛にも・忠兵衛にも共通して流れていると考えることは、とても大事なことなのです。(この稿つづく)

(H27・4・19)


○上方和事の行方・その2

たとえば「封印切」の八右衛門のことで言えば、新・鴈治郎は昨年3月歌舞伎座で(当時は翫雀)で八右衛門を演じましたが、これを本年2月大坂松竹座での仁左衛門演じる八右衛門と比べてみると、仁左衛門の方が台詞の表現の幅がずっと大きいことに気が付くと思います。仁左衛門の八右衛門は台詞の緩急・声の調子(トーン)の高低を大きく取るので、表現のダイナミック・レンジが大きくなるのです。これが忠兵衛と八右衛門との掛け合いの面白さを倍加します。鴈治郎の場合は、せいぜい声の強弱の幅です。だから台詞が良く言えばストレート・悪く言えば単調な印象になります。これを大阪弁の微妙なニュアンスの差だと言ってしまうと、もちろんそれと関係ないことはありませんが、そうなると「東京育ちの役者には上方芸は難しい」ということになって、それで終わりになってしまいます。そうではなくて、これを純粋に 上方和事のフォルムの問題であると考えてもらいたいのです。

このことは別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞術を考える」で触れましたが、アジタート(急き立てる)気分の表出パターンにはいろいろあります。元禄時代にはどこかイライラした気分があるのですが、江戸の荒事の台詞は早い二拍子で畳み掛け・急ストップ・大音響で ワッと張り上げるという感じになります。これは竹を割ったようにキッパリした江戸の庶民の荒い気性を反映しています。一方、同じ時代でも上方は 文化的に洗練されていますから、イライラした気分がやんわりした捻じれた形で出ます。上方和事の典型的なリズムは、微妙に早くなったり・遅くなったり・波のようなふわふわした揺れを示すものです。たとえば「河庄」の「魂抜けてとぼとぼ・・」という治兵衛の花道の出は とても緩慢なものですがこのリズムと考えて良い。揺れるリズムは 落ち着かない・何となくイライラした気分を示すものです。また声の調子も音程的に高くなったり・低くなったりして・落ち着くことがありません。ところが、その波が共振して突然気まぐれにカーッと熱くなったりすることがあって、大抵そういう時に事件が起きてしまいます。「封印切」の忠兵衛は八右衛門との言い合いでカッとなって勢いでツイ封印を切ってしまうのです。江戸の荒事と上方の和事は対極の芸と思われていますが、アジタートという観点から見れば元禄という時代の共通した気分を背負っているということです。ですから吉之助は上方和事を揺れるリズムと声の調子の高低のフォルムで考えたいと思います。

そう考えるならば、フォルムとしての江戸と上方の アジタートな気分の表出パターンの違いが分かってさえいれば、江戸和事の応用で上方和事も行けるだろうという目算が立ちます。昨年12月京都南座での「新口村」の梅玉の忠兵衛について、吉之助が「たとえ上方和事と江戸和事の混淆と言われようが・これは上方歌舞伎存続へのヒントだ」と言うのは、そこのところです。(この稿つづく)

(H27・4・16)


○上方和事の行方・その1

先日(平成27年2月)大阪松竹座での四代目鴈治郎襲名披露公演の「曽根崎心中」(注:ただしこの時の「曽根崎」は襲名披露狂言にあらず)で新・鴈治郎演じる徳兵衛を見て、吉之助は昭和62年4月国立小劇場での「曽根崎心中」のことを思い出したのです。この時の配役は鴈治郎(当時は智太郎)の徳兵衛・扇雀(当時は浩太郎)のお初の兄弟コンビで、鴈治郎は昭和57年12月京都南座で祖父の代役を勤めて以後何度か徳兵衛を演じていましたがまだ回数は浅く、扇雀はこの時が初役だったと思います。実説の徳兵衛は心中時に25歳・お初は21歳(19歳との説もあり)だったと云われていますが、この時の兄弟コンビの年齢に近く、なるほど作品はこのような 若い身体を求めていたのかということを改めて思い知らされました。確かに演技はまだまだだったかも知れませんが・ひたむきさが伝わって来て、新鮮な感動を覚えたものでした。

四代目鴈治郎の徳兵衛の熱演を見て、その時のことをふと思い出したのです。鴈治郎が徳兵衛を演じたのはもう30年を超えていて、同世代にひとつの役をこれだけ多く の回数演じた例は他にないはずです。(勘三郎の「鏡獅子」だって遠く及ばない。)そう考えると、この演技ではちと物足りないと吉之助は思うのです。あの時と印象があまり変わっていない。芸は果てしないもので30年演じてまだ分からぬこともあるでしょうが、30年超えて演じ込んできた何か ・もう少し練れたものが見えても良いはずです。特に序幕 (生玉神社境内)が物足りない。二幕目(天満屋店先)はお初の方にウェイトが掛かるので徳兵衛は意外と為所が少なく、ひたむきさだけで通用しますが。

吉之助は別稿「四代目鴈治郎襲名の封印切」で、「新・鴈治郎の特質はシリアスさ・あるいは真面目さにある 、その取っ掛かりになるのは徳兵衛である」ということを書きました。吉之助は上方和事の概念をもう 少しシリアスで熱い方向に向けたいと思っています。そう考えた時に今後鴈治郎が名実共に上方役者として行く為には、このレベルの徳兵衛では ちと困るというのが、先日の大阪の「曽根崎」を見た吉之助が感じたところです。ただ「ひたむきな」だけでは駄目なのです。新・鴈治郎の「ひたむきさ」はまっすぐ過ぎます。単純すぎる。これでは今後の展望が開けて来ません。「ひたむきさ」を上方のセンスで表出できねばなりません。(これについては後ほど考えます。)

吉之助は「東京育ちの役者には上方和事は難しい」というようなことを言うつもりはありません。確かに新・鴈治郎にとって大阪で育たなかったのが大きなハンデです。関西弁のことだけ言うのではなく、その地に育たねば身に付かぬものがやはりあります。しかし、そんなことを言っても仕方ありません。二代目鴈治郎も将来の成駒屋 (孫)のことを考えて関西を離れないで欲しかったと思いますが(十三代目仁左衛門一家は関西に留まりました)、あの頃(昭和30〜40年代)の上方歌舞伎の状況を考えれば、 多分、孫の時代(現代)に関西で歌舞伎をやっていることは想像ができなかったと思います。歌舞伎役者廃業さえ真剣に考えたと思います。現在だって大阪で歌舞伎は確かにやっていますが、上方歌舞伎というものは滅びかかっています。だからこれから上方歌舞伎をやる時には東京の役者の助けを借りねばならぬ わけで、それならば新・鴈治郎もハンデなんてことを考える必要はありません。ならばどういう風に上方和事をやるかということを、新・鴈治郎は理屈で構築していかねばなりません。上方歌舞伎の経験豊富と言えない鴈治郎がその取っ掛かりを「曽根崎」の徳兵衛に求めねばならないのは当然のことです。(この稿つづく)

(H27・4・12)


○絶望やニヒリズムから芸術は決して生まれないのです。

つい先日(平成27年1月)Eテレで「日本人は何をめざしてきたのか」というドキュメンタリー・シリーズで・戦後の知識人7人(司馬遼太郎・丸山真男・吉本隆明など)を取り上げた番組が放送されたのでそれを見ました。「日本人は何をめざしてきたのか」というタイトルならば平成の現代は彼らの思想からみて在るべき未来になっているのか・あるいは平成の現代から彼らの思想を読み直すならば改めて 問われているところは何か・・戦後史を検証する・そういう視点がなければならないと思いますが、そのような視点がまるで欠けているのがNHKらしいところだなあと思いました。こういう知識人がいたんだということを総花的にひと通りさらうには便利な番組という以上のものでないのは残念なことでした。

たとえば第7回の三島由紀夫のことですが、生前の三島と親しくしていたドナルド・キーン先生が遺作となった「豊穣の海」四部作の構想について、三島がキーン先生に「豊穣の海のタイトルは月面の海のカラカラの嘘の海を暗示したもの」という手紙をもらって衝撃を受けたというエピソードが出て来ます。この話は三島文学に関心のあるなら知らない方はいないはずで、吉之助にとっても今更というようなものですが、番組ではこれが三島のニヒリズムを示すものだという結論になっています。これでは平成の現代に生きる人たち ・特に若者への三島からのポジティヴなメッセージにならないと思いますがね。

まずドナルド・キーン先生に申し上げたいですが、失礼ながら、三島と同時代に一緒に仕事をしてきた方は・あまりに三島に近過ぎる位置にいた為に、見なくてよいものを見てしまい・遠くにいれば見えたはずのものが見えないという不幸もあるかと思いますね。もちろん同時代人の証言という価値を認めた上での話です。同時代文学としての読み方は、作品が生まれた時代から時を経るにつれ当然変わって行かねばならないものです。吉之助は若干遅れた世代です(13年くらいしか三島と重なっていない)が、遅れた世代だから見えるものもあるのです。キーン先生は「完全なニヒリズム」と仰いますが、三島はあの手紙に次のように書いていますね。

『「豊穣の海」は月のカラカラの嘘の海を暗示した題で、強いて言えば宇宙的虚無感と豊かな海のイメージをだぶらせたようなもの』

キーン先生は後半の「・・と豊かな海のイメージをだぶらせた」の部分を重視されないのでしょうか。「豊穣の海」は近くで見ればカラカラの不毛の土地、しかし遠くからみればそれは豊かな生溢れる海なのです。そのどちらもが真実なのです。キーン先生は片方だけしか見ていません。「暁の寺」に出てくる唯識論が分かっていれば、 そのような読み方は出来ぬと思います。吉之助の考えは別稿「三島由紀夫と桜姫東文章」をご参照ください。いくらでも論拠は出せます。

キーン先生も立派な著作をいくつもものした書き手であるからよくお分かりのはずだと思います。吉之助も物書きですから、これは確信として言えます。芸術作品というものは絶望やらニヒリズムからは決して生まれないのです。作家は自分の生きている証を作品のなかに刻みつけようとするものです。見掛けがどれほど絶望やニヒリズムのように見えても、たとえ一片であっても生に対する 愛おしさがなければ芸術作品は作れないのです。「・・と豊かな海のイメージをだぶらせた」のなかに、三島の生に対する前向きの意志のようなものがあります。ポジティヴなものがどこかになければ作品は未来の読者に対するメッセージには決してならないのです。これは誰の作品でもそうです。三島が「完全なニヒリズム」だなどという読み方は、三島のどの作品においても、少なくとも吉之助の読み方ではありません。三島由紀夫没後45年にもなろうとしているのだから、そろそろ戦後を引きずらない世代の、三島文学を平成のポジティヴな新らしい視点で読み直した評論がこの時代の為に必要であると思います 。

(H27・4・5)


○松緑の源蔵・染五郎の松王

いつぞや「寺子屋」を見ていたら源蔵(役者の名前はあえて伏す)が登場して戸を開けるなり「いずれを見ても山家育ち」の台詞を高らかに時代で張り上げて言いました。よく考えて欲しいのですがね、目の前に寺子たちが「御師匠さん、お帰り」と居並んでいるのですよ。彼らにぶつけるように「いずれを見ても 山家育ち」と大声で言うのは変ではないですか?これは源蔵が思わず口にしてしまう独り言なのです。もちろん戸浪に「山家育ちは知れてあること・・」と言われるから・それくらいの大きさの声では言っているわけですが、これは自嘲の台詞 なのです。これは押し殺すように低い声で言われなければならない。源蔵は帰りの途中で「もしかしたら寺子のなかのひとりを身替りに・・」ということを考えて戻るのですが、帰って寺子たちの顔を見れば身替りにできそうな利発そうな子はいない。これは初めから分かりきったことなのだが、 源蔵はがっかりすると同時に、改めて自分は何て恐ろしいことを考えたのかと自分を呪いたい気持ちにもなる。そういう気持ちが源蔵のなかに錯綜するのだから、「いずれを見ても 山家育ち」の台詞を高らかに言えるはずがない。この役者は「せまじきものは宮仕えじゃなあ」も高らかに詠嘆調で張り上げてました。源蔵に全然嘆きの風が聞こえません。吉之助はこういうのは「七五調で詠嘆すれば子供を殺してもセーフ」の感覚だと思います。 いわゆる歌舞伎らしさの上っ面をなぞるのではなく、役の心理をもっと掘り下げて演じて欲しいと思いますね。

そこで平成27年3月歌舞伎座・「寺子屋」での松緑の源蔵のことですが、さすがに松緑はそんなことはない。「いずれを見ても山家育ち」も「せまじきものは宮仕えじゃなあ」も低い調子で抑えて発声しています。これが正しいのです。 松緑は見掛けが武士らしい感じもあり声もよく通りますから時代っぽい源蔵になるかなと予想してしましたが、台詞を低めに抑えて時代の印象に陥らなかったのは成功でした。特に首実検までの前半が緊張感もあって良い源蔵であったと思います。後半の「若君菅秀才の御身代りと言ひ聞かしたれば潔ふ首さしのべ・・につこりと笑うて」ではやや台詞の調子が高くなったようですが、ここも低めに抑えては如何かな。

染五郎は線の太い松王を心掛けていますが、むしろ染五郎の松王の良さは感情表現の細やかさにあるようです。だから後半がなかなか良い松王です。吉之助の周囲ではいろは送りの場面で涙ぐんでいるお客も多かったようでした。3月歌舞伎の夜の部は若手役者による「菅原」通し後半でしたが、いよいよ歌舞伎も彼らの時代になってきたようですね。

(H27・4・4)


○幸四郎の筆売幸兵衛

歌舞伎座再開場以来の平成歌舞伎の立役陣(幸・吉・菊・仁・梅)の充実ぶりは目を見張るものがあり、どの舞台を見ても唸らされるものがあります。ここ数十年のなかでもこれだけ立役が充実した状況は、昭和四十年代後半から五十年代前半以来のことかと思います。(他方、女形陣は頑張っているもののやや手薄の感あり、そこは仕方がない。)彼らが若手花形と呼ばれていた時代から見て来た吉之助にも、この芸の花の盛りを見る感慨はまた格別なものがあります。若い 歌舞伎ファンの方は平成歌舞伎の今をしっかり目に焼き付けておいて欲しいと思います。

今回(平成27年2月歌舞伎座)の「水天宮利生深川」の幸四郎の筆売幸兵衛もまた見事な出来です。後半の幸兵衛の狂乱の態が上手いのはまあ当然のことですが、感心したのは前半の幸兵衛の抑えた演技です。武士の雰囲気がある人なので零落した幸兵衛の姿に真実味があるのが 幸四郎の強みですが、それで観客の哀れを誘うのではなく・憤りをグッと自分の腹のなかに抑え込んだ渋い演技になっているのが実に良い。これが伏線になるから後半の狂乱が生きてくるのです。 もちろん周囲の役者たちが良いことも付け加えておかねばなりません。お雪とお霜の二人の娘(児太郎と金太郎)がとても良いですね。

それにしても今回の舞台もそうですが、最近(ここ2年)の幸四郎の世話物には、十七代目勘三郎の匂いをフッと感じることがあって、吉之助はこれをとても興味深く感じます。柄も芸風も全然違うはずなのに、幸四郎はどこかで十七代目勘三郎から芸の何かを受け取って、それを幸四郎の仁のなかで上手く生かしているという気がするのです。たとえば昨年(平成26年4月歌舞伎座)の髪結新三ですが、幸四郎の新三には上総無宿の入墨新三という暗くニヒルな陰があって、これが確かに十七代目勘三郎に通じるものでした。あるいは先月(平成27年1月歌舞伎座)の「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛の最後の台詞「棒っ切れを振り回してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛かんざし巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんにせめて見てもらう、駒形のしがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」の台詞廻しは、泣きが強いのは幸四郎の役者としての誠実さというべきものなので置くとしても・この要素を除けば、台詞の末尾を張らないところなどにやはり十七代目勘三郎の台詞廻しの何かを継いでいる気がします。 この筆売幸兵衛もそうです。たとえば幸兵衛が隣家の清元を聞きながら嘆く台詞「・・同じ世界のものなるに身の盛衰と貧福は、こうも違うものなるか」の抑えた台詞廻しです。

これは息子の十八代目勘三郎を貶めるということではないと読んでもらいたいですが、十八代目は柄も親父さんに似ており、世間も先代(十七代目)の面影を彼に見ようとし、だから何をやっても「親父さんそっくり」だと言われることで徳をしてきたこともあったと思いますが、実際ビデオで見比べてみれば、吉之助が批評眼で意地悪く見るせいもありますが、案外違うところが目に付くわけです。型ものと言われるようなものは兎も角、世話物での十八代目は、彼の自信から来るものかと思いますが、親父の真似ではない進化形を目指したのかも知れません。吉之助から見ると、世話物での勘三郎の台詞は先代が張った部分をより高調子に強く張ろうとする傾向があり、そのため台詞がやや時代の方に傾いたきらいがありました。吉之助としては、むしろ先代が低調子に抑えたところを取って欲しかったのですが、十八代目はそこを取りませんでした。一方、吉之助が十八代目にそうして欲しかったところを、まさに世話物での幸四郎が取っていますね。だから吉之助は幸四郎の世話物に十七代目の匂いを感じるのだろうと思います。幸四郎は自分の仁と柄のなかで、十七代目の芸をうまく消化して受け継いでいると感じます。

今回の幸四郎の幸兵衛でも、前半を低調子に抑えたところが黙阿弥のフォルムにぴったり合っています。やはり音羽屋系統の世話物は低調子に抑えるのが基本なのです。吉之助は舞台を見ながら、御世辞ではなく・これはもしかしたら十七代目の幸兵衛よりも作品の幸兵衛のイメージに近いかなと思いました。「水天宮利生深川」が散切物の世話物ながら、まさに当時の現代物たるリアリズムに迫っているということを実感しました。 黙阿弥というのはやはり凄い戯作者ですね。黙阿弥の舞台でこんなに嬉しい気分になったのは、ほんとに久しぶりのことでした。

(H27・3・26)


○新歌舞伎の行方・その7

「番町皿屋敷」初演時に綺堂は雑誌「演芸画報」に次のような文章を寄せています。

『何うかして殺す方にも殺される方にも相当の理屈があって、何方にも同情を惹き得るやうに書いてみたいと思ひ立つたのが、この脚本を書く最初の動機でした。で先づ何かの面倒を避ける為に、主人の青山播磨と召使のお菊を得心づくの恋に陥して置きました。』(岡本綺堂:「皿屋敷のこと」・雑誌「演芸画報」・大正6年3月)

人気役者(二代目左団次と二代目松蔦)が演じるのだから気の悪い役がいけないのは当然ですが、「何かの面倒を避ける為」と綺堂が書いているのは、必ず「たかが一枚の皿を割ったくらいのことで人の命を奪うのは酷い」という世間の批判が出るということです。近代人ならば、播磨の 行為に批判を抱くのは当然です。綺堂はそのために奴権次を登場させて、「ひとりの命を一枚の皿と取り替えるとは、このごろ流行る取替べえの飴よりもあまり無造作の話ではござりませぬか」と随分しつこく言わせています。これは綺堂が世間の批判に備えて いるのです。これに対して播磨は、「皿が惜しさにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡ちがいだ」と言います。

だから播磨は「たかが一枚の皿を割ったくらいのことで・・」という批判を乗り越えるに足る心情のドラマを現出して見せなければなりません。それが現行歌舞伎の舞台で見られるような、
恋人の心を疑ってしまった女と・疑われて怒った男、思いがすれ違ってしまったふたりの悲劇ということでしょうか。「どちらの側にも相当の理屈があって、どちらにも同情を惹き得る」ドラマにするためには、そのような個人的な事情では不十分だと思いますねえ。初演時の大正期の観客にも共感できる・もっと大きい世界苦とも言うべきもの、元禄の旗本奴と大正の若者の心情が重なってくるものが 何か必要です。

「皿屋敷のこと」で綺堂は、「これから先は何うなるでせうかそれは観客の想像に任せたいと思います」と書いています。だから「番町皿屋敷」 執筆時点では、播磨がこの後どうなったか綺堂は考えていなかったということです。ですから播磨のその後について想像が自由に許されます。吉之助は別稿「禁問とかぶき的心情」で、「お菊を斬って・その死骸を井戸に投げ込んだ後に播磨の頭にあるのは、どのような罰を・どのような贖いを自分に課するかということです。旗本奴の本質に戻って・なおかつその罰を自分に課すならば・それは派手に喧嘩して死すということしかありません」と想像しました。

ところで戯曲「番町皿屋敷」 から約1年ちょっと後のことですが、綺堂は小説「番町皿屋敷」を発表して、これには播磨の後日談が書いてあるのです。それによれば、その後、播磨は喧嘩に明け暮れた荒んだ生活をしています。播磨の屋敷にはお菊の幽霊が出ると町の噂になっている。やがて幕府によって白柄組の水野十郎左衛門が切腹の断が下されることになると、「いずれお前にもお咎めが来るから、その前にいっそ見事に腹を切れ」と伯母が説得しに来る。播磨が決意を固めるところに、井戸からお菊の幽霊が現れます。

『幽霊は静かに顔をあげた。それは生きている時とちっとも変わらないお菊の美しい顔であった。怨みも妬みも呪いも知らないような、美しい清らかな顔であった。播磨は思わずほほえまれた。「菊。播磨も今行くぞ」・・』(岡本綺堂:小説「番町皿屋敷」)

映画・舞台の小説化(リライト)、またはその逆のケースもよくあることですが、これらは互いにまったく別物の作品と割り切って読むべきです。小説には小説の・戯曲には戯曲の得意領域、それぞれの良さがあるものです。だからどちらが作品として優れているかということをあまり比較すべきでないと思いますが、小説「番町皿屋敷」の場合はどうしても観念的なものを言葉で解説しようとする余り、播磨の心情が理屈っぽく描写されていて、そのため筋の枝葉が多くなってしまった感じがしますね。その一方、小説では播磨が「一枚・・二枚・・」と皿を割る場面が、たった二行で済まされています。

『播磨は十太夫を呼んで、更に四五枚の皿を持って来させた。そうして、その皿を刀の鍔に打当てて、ことごとく微塵に打砕いてしまった。れて眺めている家来どもに向って主人は説明した。「播磨が皿を惜しむのでないことは、これでおのれ等にも合点がまいったであろう。・・・」』(岡本綺堂:小説「番町皿屋敷」)

大体、「皿屋敷」なのだから「一枚・・二枚・・」と皿を割る場面が核心であるのに小説だとこうなっちゃうのかなあと思いますが、これはずいぶん損なことだと思います。この点はやはり時間的経緯を描写できる戯曲の方が遥かに有利です。かぶき的心情というものは単純なものです。理屈ではありません。ですから心情のドラマということならば、戯曲「番町皿屋敷」の方が簡潔ではるかに力強い印象がします。

吉之助は思いますが、綺堂が自身の「皿屋敷」を書くにあたり、「殺す方にも殺される方にも相当の理屈があって、何方にも同情を惹き得る」ドラマにしようと苦心して、 戯曲「番町皿屋敷」で、結果として「一枚・・二枚・・」と皿を割る場面に或る種の音楽的官能性、あるいは移行の技法(ハンドリング)の効果を生み出したことに感嘆の念を覚えますねえ。これは綺堂が、そして二代目左団次が、大正という時代の空気を如何に取り込んで作品を創ってきたかということを示しているのです。

移行の技法(ハンドリング)については別稿「近松心中論」を参照のこと。

*岡本綺堂の小説「番町皿屋敷」は有難いことに青空文庫で読むことが出来ます。

(H27・3・16)


○新歌舞伎の行方・その6

現代の我々の新歌舞伎のイメージは直接的には三代目寿海(明治19年〜昭和46年)から来ています。三代目寿海は左団次劇団の副将格で、左団次の死後はその作品のほとんどを寿海が継承しました。寿海は台詞廻しの巧さに定評のある役者で、緩急を巧く使っ た音楽的な台詞廻しと言われました。「新歌舞伎の魅力は台詞に緩急を付けて朗々と音楽的に歌うことである」と書いているのが巷の劇評によくあるのは寿海の印象から来ているところが大きいわけです。

しかし、これについては別稿「左団次劇の様式」で触れた通り、寿海の台詞は微妙な緩急を付けているように聞こえるかも知れませんが、台詞の基調のリズムである二拍子を しっかり守っているのです。野球のピッチャーに例えれば、漫然と見ていると変化球を織り交ぜた緩急自在のピッチングに見えるけれども、実は寿海は最後の胸元直球に左団次の後継者たる意地を掛けているのであって、最後の決め球の胸元直球を最大限に活かすために、その前の変化球を投げているということです。だから台詞の二拍子のリズムを常に意識して、最後は胸元直球で決める・つまり台詞の末尾を引き伸ばさないでビシッと押す、これが左団次の新歌舞伎の台詞のフォルムです。 つまり「緩急つけて歌わせる」というところには新歌舞伎のフォルムの本質はないのです。

そういうことは遺された寿海の映像・録音でももちろん確認ができますが、むしろそういうものは傍証に過ぎないのであって、台詞を息を以て正しく読めば誰でも分かることなのです。多くの作家が左団次の為に芝居を書きました。彼らは 左団次に上演してもらう為に・左団次にしゃべってもらう為に芝居を書いたのです。その台詞は当然左団次の口調を意識して書かれることになります。左団次以外の役の台詞も、また左団次を活かす為の口調を自然と意識して書かれます。そこで綺堂にも青果にも鬼太郎にも、左団次という共通項で括ることができる或る感覚が生まれます。それが左団次劇の様式という共通した感覚を生むのです。そういうことを理解するためには「番町皿屋敷」の播磨を演じる役者の台詞だけ聞いて・あれは調子が良かった・これは 緩急の心地が良かったなどと表面的なところを聞いているだけではとうてい無理です。左団次が初演した作品群の台詞のなかに潜んでいるリズム・つまり作家が左団次の想定してこうしゃべって欲しいと思っているリズムを想像しなければなりません。 大事なことは、フォルムを意識して台詞を聞くことです。

吉之助はクラシック音楽を聴きますから、歌舞伎でもフォルムを意識して舞台を見ることは習い性となっています。クラシック音楽では、ベートーヴェンにはベートーヴェンの、ショパンにはショパンの、固有のフォルムがある、だからベートーヴェンをショパンのように弾くことはあり得ないのです。次いでながら、吉之助の師匠である武智鉄二も出発点にクラシック音楽がありますから、吉之助と同様の態度です。歌舞伎は伝統芸能なのですから、役者はもっとフォルムのことを意識せねばなりません。

吉右衛門は腹の底から息を絞り出すような台詞をしゃべらせれば、素晴らしい役者です。たとえば本年2月歌舞伎座での「組討」での熊谷直実が敦盛を呼び返す「オーイ、オーイ」の抑揚、「平家の方に隠れなき、無官の太夫敦盛を熊谷次郎直実討取ったり」の台詞の言い回しなどは聞く者の気分を底から持ち上げるようで、実に素晴らしかったと思います。しかし、一方、吉右衛門はタテ言葉のように、息をグッと腹に詰めて二拍子で緊張感を維持して言う台詞は苦手とするようです。たとえば昨年12月国立劇場での「岡崎」での政右衛門の「この倅を留め置き、敵の鉾先を挫かふと思召す先生の御思案・・・」以下のクライマックスの長台詞などはリズムの腰が砕けて、正直に申せば無残な出来でした。新歌舞伎の播磨の台詞(あるいは「修禅寺物語」の夜叉王でも同様ですが)も、二拍子の畳み掛ける緊張感を維持できず、息を伸ばして間を取って逃げている ように感じられます。息がつんでいないから、台詞を持ちこたえられないということです。間合いを大きく取れば、息を大きく絞り出すことでその辺を巧く処理できる (はっきり言えば息がつんでないのを誤魔化せる)ということかと思いますが、そうすると左団次劇のフォルムからま すます遠くなる。いずれにせよ左団次劇で肝心なことは、台詞の末尾を引き伸ばさないことです。それだけでも印象はかなり変わると思います。

それにしても、吉右衛門の播磨も・芝雀のお菊も幕末の怪談芝居「播州皿屋敷」の雰囲気を引きずって、いわゆる「歌舞伎らしさ」の感覚にどっぷり浸かった演技ですねえ。二代目左団次と新歌舞伎の作者たちが目指したものは何であったかをよく考えて欲しいと思います。江戸という題材を使っているから・歌舞伎役者を起用しているから、それは一応歌舞伎ということになるのだけれど、同時代の観客のための・新しい感覚の芝居を目指したのです。「古典」というものは新作が繰り返し演じられて・やがてだんだん古典になっていくものです。最初から古典として生まれた新作などないのです。「番町皿屋敷」も、そうやって百年の間、何度も上演されてだいぶ古典になってきたわけですが、左団次劇には左団次劇の様式というものがあるのです。まだ生まれてたかだか百年しか経っておらぬのだから、左団次劇ぐらいはバッチリ描き分けてもらいたいものです。それができるようになれば、現行歌舞伎の、黙阿弥も南北もだいぶ感触が変わってくると思いますが。(この稿つづく)

(H27・3・7)


○新歌舞伎の行方・その5

平成27年1月歌舞伎座の「番町皿屋敷」の舞台ですが、恋人の心を疑ってしまった愚かな女と・疑われて怒った潔癖症の男の悲劇には確かに見えます。全体的に幕末芝居の雰囲気がして、よく言えばまあ古典的な感触 です。それは幕末の怪談芝居「播州皿屋敷」の雰囲気を引きずっているからです。だから観客から初春芝居になんで「皿屋敷」なの?という声が出てくることになる。それは舞台が観客に大正浪漫の息吹きを感じさせないからです。

どうしてそうなるかと言えば、一番大きな原因は播磨を演じる吉右衛門が台詞を七五調の歌う感覚で抑揚付けて転がして、末尾を伸ばして詠嘆させるせいです。たとえば終盤の、お菊の遺骸を投げ込んだ井戸を見込んで播磨が言う台詞を見て みましょう。

「家重代の宝も砕けた。播磨が一生の恋もほろびた。」

これを七五の感覚で処理するとこうなります。たとえば「タカラモ」は四ですが、これを五の間合いでゆっくり抑揚つけて転がす。末尾の「ビ〜タ〜」は思い切り引き伸ばして詠嘆する。こうすると何となくいわゆる歌舞伎らしい歌う台詞廻し、要するに「俺たちはいつだってこんな感じでやってきた」という感じになります。これは旧劇(江戸時代の芝居・つまり歌舞伎のこと)の感覚ですね。

イエジュウダイノ(七)/タカラモ(五)/クダケタ(五)/ハリマガ(五)/イッショウノ(五)/コイモホロ(五)/ビ〜タ〜(五)/

これは左団次劇の様式では、こうなるのです。台詞は二拍子が基調ですが、「ジュウダイノ」と「イッショウノ」ではリズムが破たんしています。台詞ではこの言葉が核心の部分であり、そこに台詞の力点が掛かっているからです。

イエ/ジュウダイノ/タカ/ラモ/クダ/ケタ/ハリ/マガ/イッショウノ/コイモ/ホロ/ビタ/

吉之助はよく引き合いに出しますが、作詞家として稀代のヒットメーカー・今は小説家のなかにし礼氏がこんなことを言っていますね。

『日本の歌は七五調のリズムで構成されることが多い。七五調は、おめでたい語調なんです。たった今、人を殺しても、七五調で見得を切ればセーフという感覚が日本語にはある。悪党だって「知らざあ、言って聞かせやしょう」と節を付ければ、何となく格好がついてしまう。七五調が持つ、そうした神がかり的な部分には頼らないと決めたんです。』(なかにし礼:日経ビジネス・2004年4月12日号・編集長インタビュー)

「播磨が一生の恋もほろびた」で歌って詠嘆するのは、吉之助にとって、女を殺してもセーフという感覚です。「あ〜あ大事な恋人を殺しちゃった」という自分だけの悲壮感に酔っていて、何の苦悩も・反省も感じられない。世界苦なんてものは感じられない。これでは新歌舞伎になりません。大事なことは、左団次劇の様式は、概念的には旧劇の七五調の感覚を拒否するところから始まっているということです。これについては別稿「左団次劇の様式」を参照していただきたいですが、左団次劇の二拍子のリズムとは急き立てるリズム です。坪内逍遥は20世紀初頭の状況を「無解決の時代・不安の時代・煩悶の時代・神気疲労の時代」と書いています。これは日本だけでなく・この時代の世界全体を覆っていた気分です。二拍子とは二十世紀初頭の気分を表徴するリズムなのです。(この稿つづく)

(H27・3・1)


○新歌舞伎の行方・その4

別稿「特別講座・かぶき的心情」において、かぶき的心情の ドラマのバリエーションとして、自ら命を捨てる覚悟を示すことで・その思いの強さによって相手の心を変えようとする行為を挙げました。命を賭けて頼み事をされたら、頼まれた者はそれに応えなければならない 、その答えを聞いた者は死なねばならない、答えた者も命を捨てねばならないのです。歌舞伎にはそのようなドラマが山ほどあります。「盛綱陣屋」・「沼津」然り、「勧進帳」然り。そして「番町皿屋敷」 もそうです。「番町皿屋敷」 は、状況が許さないなかでお菊は命を賭けて播磨に自分を愛することの証を求めた・播磨は命を捨ててそれに応えて共に滅びたという、そのようなドラマなのです。別稿「禁問とかぶき的心情」にワーグナーの手記を引用しましたから是非ご覧ください。「私の名前を聞いてはなりません」と夫(ローエングリン)に硬く止められていたのにその名を聞いてしまったエルザのことです。エルザとはお菊のことではありませんか。

『はっきりこうなることを知りながら・愛の避け得ぬ本質のゆえに倒れ・身を破滅させたこの女性、恋焦がれながら愛する彼をしっかりと捉えられないと感じた時・わが身を破滅させてしまいたいと思ったこの女性、まさしくローエングリンに触れたがために身を滅ぼしていかねばならず・またこの男をも破滅させてしまう女性。そのようにしか愛することのできなかった女性。・・』(( リヒャルト・ワーグナー:「我が友への告知」・1851年)

このことがしっかり掴めていないと、些細な場面の設計までもがブレてきます。たとえば家宝の皿が割られたと聞いて播磨は思わず声を荒らげますが、割ったのがお菊だと聞くとあっさりこれを許して・お菊に優しい声を掛け、そして井戸へ皿のかけらを捨てるお菊を終始笑みを 含みながら見 やるなどという演技では、後でお菊が故意に皿を割ったと聞いて播磨が一転して憤る理由が全然分からないと思います。だからどこにでもある男と女の心の行き違いのドラマにしか見えなくなります。

青山家の掟は、家宝の皿を割ったなら・いかなる理由であろうと・割った者は手討ちに処すべしです。家宝の皿が割られたと聞いて播磨は思わず怒りますが、犯人がお菊だと聞くと一瞬気が呑まれる。播磨にとってお菊は大事な恋人ですから、播磨も一瞬どうして良いか分からなくなる。もちろん許すしかないわけですが、これで播磨はまたひとつ重荷を背負うことにな るのです。播磨はまたしても「家」を裏切ってしまったということです。イヤハヤとんだことをしてくれた・・というのが播磨の本音です。笑えるはずがない。家宝の皿を割ったのがお菊でなければ、播磨はその者を成敗したでしょう。 お菊だったから許してしまった・・播磨は苦虫を噛み潰した気分であったに違いありません。井戸へ皿のかけらを捨てるお菊を終始笑みを 含みながら見るなんて気分に播磨がなれるはずがありません。

お菊が皿を割るのを目撃したお仙が用人柴田十太夫にこのことを話してしまうのは、お仙のなかにお菊に対するかすかな悪意があったに違いないという解釈があるようですが、これもまったく余計なことです。「家宝の皿を割った割った者は手討ちに処する」という 掟があるということは、目撃したのにこれを知らせなかった者も同罪になるということなのです。連座が怖いからお仙はこれを正直に報告したに過ぎません。それだけのことに、どうして余計な意味を持たせようとするのでしょうか。どうしてそのような解釈になるかと言えば、お仙が告げ口さえしなければお菊は助かって二人は幸せに暮らしていけたのに・・という気持ちが観客に起こりかねないからで、そちらのあらぬ方向へドラマを誘導しようとする意図が働いていますね。おかげで「番町皿屋敷」のドラマの本質がますます見えなくなります。ドラマはシンプルに読まねばなりません。(この稿つづく)

(H22・2・11)


○新歌舞伎の行方・その3

芝居でも小説でも音楽でも、作品というものは、それが成立した時代を離れて論じることはできないものです。「番町皿屋敷」は大正5年(1916年) 2月本郷座の初演ですから、この時代の空気を何かの形で取り込んでいます。大正5年というのは第1次世界大戦の真っ最中です。世界が戦乱の渦に巻き込まれており、社会のなかの個人の責任・役割と、個人としての思いにどう折り合いを付けるかということが、特に若者の切実な問題でした。かつての江戸の暴れ者・旗本奴も、また社会の締め付けに息苦しさを感じており、自分が生きることの意味を問い続けました。(別稿「行き過ぎたりや」をご覧ください。)元禄の旗本奴と大正の若者の心情がそこで重なってきます。だから「番町皿屋敷」は新しい歌舞伎なのです。

「番町皿屋敷」 の大筋は、女は恋人の心を試すために家宝の皿を割り・心を疑われた男は怒って女を殺すと、表面的には確かにそういう筋です。しかし、この芝居をそんな風に読んだのでは本作を理解したことになりません。お菊を殺そうとする播磨に奴・権次が止めに入ります。「なんぼ大切の御道具じゃというても、ひとりの命を一枚の皿と取り替えるとは、このごろ流行る取替べえの飴よりもあまり無造作の話ではござりませぬか」これは権次が言うことがまったく正しいのです。播磨だってそんなことは分かっています。しかし、播磨はそういうことで怒っているのではないとはっきり言っています。

「播磨が今日の無念さは、おのれ等の知るところでない。いかに大切の宝であろうとも、人間一人の命を皿一枚に換えようとは思わぬ。皿が惜しさにこの菊を成敗すると思うたら、それは大きな料簡ちがいだ。」

それでは播磨は何を怒っているのか。播磨が怒っているのは、もっと大きなことです。これは世界苦と呼ぶのがふさわしいものです。そのことは1916年前後の世界の芸術思潮を考えれば理解ができます。このことは別稿「左団次劇の様式」のノイエ・ザッハリッヒカイトの項をご覧ください。

但し書きを付けますが、これを「絶望」だと解釈してはいけません。絶望が何かを生み出すことはありません。恋人に自分の誠の心を疑われた播磨の絶望して自暴自棄の心から播磨がお菊を斬るのではありません。むしろ播磨がお菊に箱から皿を取り出させ、「一枚・・二枚・・」と割っていく行為に、播磨がお菊のことをどれほど愛していたかが表れています。これは播磨の無上の愛の表現です。これについては別稿「禁問とかぶき的心情」をご覧ください。この場面は官能的でなければなりません。播磨はお菊の眼を見つめながら皿を割り、お菊は播磨の眼をぐっと強く見返す・そして播磨の眼のなかに愛を見出すようでなければなりません。現行の歌舞伎みたいに、お菊は震えながら床に突っ伏し皿を割るのが正視できない、まして播磨の眼も見れないようでは官能的な場面が現出しません。それは元本の「播州皿屋敷」のイメージを引きずっているからなのですが、綺堂がそのような材料からまったく新しい愛のドラマを作り上げたというところが大事なことなのです。

まず現行歌舞伎で不満なのは、序幕の播磨の有名な台詞「伯母様は苦手じゃ」です。どの役者もちょっと甘えたような・かすかな笑いも含んで「仕方ないなあ〜」みたい感じでこの台詞を「オバサマハ・ニガテジャア〜」と末尾を長く引っ張って、抑揚付けて転がします。これは左団次劇のフォルムではありません。もっと自嘲的な・苦味を含んだ感じでこの台詞を言わねばなりません。ということは吐き捨てる感じとまでいかなくても、末尾は引っ張ってはならないということです。そうしないと左団次劇のフォルムにならないのです。

恐らく播磨は早くに両親を亡くし・伯母を後見人にして育ってきたと思います。播磨は伯母に頭があがりません。また播磨は伯母を愛してもいます。だから伯母の言うことは絶対です。伯母は播磨に喧嘩を仕掛けた町奴に対しても毅然たる態度を見せます。さすが播磨の伯母だけあって男勝りなところがある・男だったら立派な男伊達であったろうと思わせますが、この伯母がいわば社会常識を体現しています。あるいは絶対的な「家」というものを体現しています。伯母が言うことはまったく正しいことで、そのことを播磨はよく分かっているのです。理屈では分かっているけれど、播磨は素直に従えません。かぶき者の振る舞いをすることで播磨は伯母を裏切り、家を裏切り、社会を裏切っているという意識が播磨にあります。「自分は社会に適応できない人間だ」と感じて、自分を内心責めています。

そのような播磨が安らぎを覚え、このためになら生きていけると感じているのは、まったくお菊ゆえです。しかし、一方で播磨は「白柄組のつきあいにも吉原には一度も足踏みせず・丹前風呂でも女子の盃は手に取らず」と言っていますが、女性に関することだけでなく・恐らく旗本奴にあるまじき「お堅い振る舞い」をしていたに違いありません。ということは、 お菊のことで、播磨はかぶき者の仲間たち(白柄組)に対しても裏切り続けているということなのです。(この稿つづく)

(H27・2・7)


○新歌舞伎の行方・その2

「新歌舞伎というのはどこが歌舞伎なのですか?ちょっと見たところでは新劇役者の時代劇とあまり変わらないようですが・・」という質問を受けることがあります。そういう疑問を持つのは、よく理解ができます。歌舞伎という芝居が筋が荒唐無稽で・派手な化粧や衣装で・仰々しい身振りをして・デフォルメされた抑揚を持った台詞廻しで・テンポが間延びして・・というイメージがあって・そういうのが「古典」だと思っているので、新歌舞伎というと時代考証もしっかりして戯曲としては出来ているのだろうけれど、どうも「古典」に思えないというところにあると思います。しかし、新歌舞伎の 名作「番町皿屋敷」 でさえ実は出来てから100年経っていないわけです。だとすると新歌舞伎 というものを「古典」とするのに異論はないですが、いわゆる古典・黙阿弥とか義太夫狂言などと同列で考えることには無理があるわけです。それはまだまだ生ものの香りを残した・生まれ立ての「古典」です。だから新歌舞伎には別の捉え方をせねばならないと思います。

新歌舞伎 は明治以降に座付作者ではない文芸作家によって歌舞伎上演のために書かれた作品のことを言いますが、厳密に言えば明治末期から大正〜昭和初期までに二代目左団次のために書かれた歌舞伎を中心とした同時期の作品群を指します。さらに同時期の左団次とは関係ない坪内逍遥の作品・あるいは六代目菊五郎の初演した長谷川伸などの作品群も含めることが出来ます。時期としては大正期を中心としたもので、つまり大正浪漫・教養主義の香りを芬々(ふんぷん)させるものです。そのような時代の空気を濃厚に反映したフォルムを持つ歌舞伎なのです。武智が歌舞伎の様式の十二のパターンとし、最後の十二番目に「二代目左団次による外国演劇の影響を受けた新歌舞伎」(武智鉄二:「武智歌舞伎の演出」・昭和30年)を置いたのはそういう意味です。

二代目左団次の新歌舞伎のフォルムについては、吉之助は別稿「左団次劇の様式」に詳しく述べましたから、それをご覧ください。だから吉之助はいつも思うのですが、歌舞伎の十二番目の様式である「二代目左団次の新歌舞伎」というのは確立されてまだ百年も経っていない、しかも左団次の腹心の部下(初代猿翁・三代目寿海)がついこの間(と云ってももう五十年くらい前だが)まで生きていたのだから、 今の歌舞伎役者が、いちばんバッチリ表現できなければならない・もっとも近しい様式であるはずです。ところが、吉之助から見ると昨今の新歌舞伎はフォルムが実に崩れているのです。昨今の歌舞伎役者が黙阿弥の生世話の感覚が取れないとか・義太夫狂言がどうも巧くないとか云うけれど、新歌舞伎はそういう次元でないところでもっと崩れている。このことは、要するに歌舞伎役者は「新歌舞伎のフォルム」なんて ものがあることを端から考えていないということだと思います。大正期に初演された新作歌舞伎だくらいにしか考えていないのではないか。

このことは実に信じがたいことです。人によって差はあれど歌舞伎役者に「伝統を受け継ぐ」ということを真面目に考えない人はいないと思います。けれど現実としてはこういうことなのです。昭和31年・二代目左団次十七回忌ということで・「今様薩摩歌」が再演され、初代白鸚(八代目幸四郎)が菱川源五兵衛を演じました。この舞台稽古で新内を聴きながらじっと座っている源五兵衛を左団次がどう演じたのかが問題になったそうです。左団次劇団の名脇役であった荒次郎に・この場面を左団次がどう演じたかを訊ねると、荒次郎は「何もしませんでした」と答えたそうです。「じゃあ、ここはどうしたんだ」と聴くと荒次郎は「じっとしていました」と答える。「これでは何も分からない・この場面を何もしないで持たせるとはやっぱり伯父さんは偉いんだなあ」ということになって、仕方なく、白鸚はこの場面を自分で工夫して勤めたということです。このエピソードを紹介していた評論(出典は敢えて伏す)はこう結論していました。「二代目左団次は型を残さず、作品だけを残した」。

証言した荒次郎が悪いのではないです。二代目左団次の源五兵衛は確かにただ何もせず・じっとしていたのでしょう。これは貴重な証言です。しかし、初演者二代目左団次が傍目から見れば「ただ何もせず・じっとしていた」ように見えたところに、左団次の型を見なければならないのですよ。傍目から見れば「ただ何もせず・じっとしていた」ように見えたところに、左団次の役の解釈(心)を 読まねばならないのですよ。傍目から見れば「ただ何もせず・じっとしていた」ように見えたところに、左団次劇のフォルムを感じなければならないのですよ。そのように考えてこそ歌舞伎という演劇は伝統芸能だといえるのではないのでしょうか。(この稿つづく)

(H27・2・1)


○新歌舞伎の行方・その1

武智鉄二は論考「武智歌舞伎の演出」(昭和30年)のなかで、歌舞伎の様式の十二のパターンということを提唱し、歌舞伎役者はこの十二の様式を的確に描き分けねばならないと しました。十二というのはまあ数字合わせにしても、歌舞伎の様式を分類してみれば凡そそのくらいあるということです。歌舞伎は四百年の歴史のなかでさまざまなパターンの芝居を試行錯誤し、 様々な様式を蓄積して財産としてきました。しかし、吉之助が現状を見る限りは、平成歌舞伎は「十二の様式を的確に描き分ける」どころではなくて、どれもこれも 区別なく・ 一様な感覚で処理する傾向が強まっているようです。つまり吉之助がよく言うところの、いわゆる「歌舞伎らしさ」という感覚ですがね。 これがあれば近松でも出雲でも南北でも黙阿弥でも新歌舞伎でも新作でも歌舞伎らしくなるという、魔法の方程式です。

昨今は世話(つまり写実)の描写が下手になって、世話と時代の活け殺しということがホントにできなくなりました。だから表現の彫りが浅くなり、全体の感触が時代の方に傾いています。台詞の末尾を引き延ばして抑揚を付けて転がせば、「どうだい、これで歌舞伎らしいだろ」というような風潮がある。「歌舞伎らしさ」という様式が、出来上がりつつあるようです。 観客はそういうのが歌舞伎だと刷り込まれつつあり、そのことを劇評家も全然指摘しようとしません。特に吉之助が危惧するのが、黙阿弥の世話物と新歌舞伎です。現状、とても危なっかしいところに来ていると思います。

ところで今月(平成27年1月)歌舞伎座で上演され ている新歌舞伎名作「番町皿屋敷」は大正5年(1916年) 2月本郷座の初演ですから、本年で初演99年目ということです。歌舞伎四百年の歴史から見れば、ついこの間のことです。吉之助もその半分 ほどの時間をシェアしてるわけです。初演の二代目左団次は昭和15年没ですが、左団次劇団の副将格であった初代猿翁は昭和38年・三代目寿海は昭和46年まで存命でした。吉之助はこの二人を生(なま)では見ていませんが、吉之助が歌舞伎を見始めた 頃にはこの二人と共演した役者が大勢 いましたから、左団次の新歌舞伎群(岡本綺堂や真山青果など)はまだまだ大正浪漫の雰囲気を残していたのです。六代目菊五郎の新歌舞伎群(長谷川伸や宇野信夫など) でも、菊五郎劇団の二代目松緑や十七代目勘三郎・七代目梅幸が元気でしたから、彼らの舞台を観ながら・吉之助は在りし日の六代目菊五郎を想像したもので した。

しかし、実は吉之助は四十年前頃に見た新歌舞伎の舞台と、現在歌舞伎座で見る新歌舞伎はずいぶん感触が違うなあと思うことが多いのです。どこが違うかというと、まずテンポが違います。新歌舞伎の台詞は本来タンタンタンと機関銃のように小気味良く出るものです。しかし、現在は台詞が粘って伸びている役者が多い。特に厭なのが 、台詞の語尾が伸びることです。すべての役者がそうだというわけでもないですが、芝居というのはアンサンブルですから、 様式に沿わない役者が混じるとそれだけで全体が崩壊してしまいます。たとえば、これは長谷川伸の作品ですが、「一本刀土俵入」の駒形茂兵衛の幕切れの台詞、「棒っ切れを振り回してする茂兵衛のこれが、十年前に櫛かんざし巾着ぐるみ、意見をもらった姐さんにせめて見てもらう、駒形のしがねえ姿の横綱の土俵入りでござんす」という台詞の「横綱の土俵入りでござんす」 ですが、故・十八代目勘三郎は大きく張って引き伸ばしていました。これは全然ダメです。新歌舞伎の様式になっていません。親父さん(十七代目)だって・二代目松緑だってあんな張り上げ方はしませんでした。 伝統を受け継ぐことに敏感であったはずの十八代目勘三郎でさえこうでした。歌舞伎役者というのは 「らしさ」にはこだわるけど、フォルムということをあまり考えないのだなあ。

これは恐らく現代歌舞伎が急速に保守化していることが背景にあると思います。まあ見方によれば、新歌舞伎が古典化して来たということなのでしょう。「歌舞伎らしさ」という様式で練れて来て、「新」歌舞伎ではなくなって来たということ でしょうか。(この稿つづく)

(H27・1・18)


○平成26年12月・京都南座:「恋飛脚大和往来・新口村」

別稿「和事芸の多面性」において、初代藤十郎の和事の技芸は本来もうちょっと凛としたところがあったものだと想像されるが、現実にはもっぱら哀れとかナヨナヨとした弱い印象によってのみ捉えられ上方和事として定着したということを書きました。このことは上方歌舞伎の代表作として伝わっている いろいろな作品の解釈に、いろいろ微妙な齟齬をもたらしている気がします。「曽根崎心中」の徳兵衛や「油地獄」の与兵衛などが現行の上方和事のイメージから見るとぴったり 処理できないというようなことです。

たとえば「恋飛脚大和往来」ですが、本作には「封印切」と「新口村」という有名な場面があり・それぞれよく上演がされますが、上演記録を見ると明治期までは結構通し上演もあったのですが、大正・昭和期になると「封印切」と「新口村」を別々に見取りでやることが多くなってきます。吉之助も通し上演は昭和53年4月国立小劇場での孝夫時代の仁左衛門の忠兵衛くらいしか思い出せません。こういう世話狂言は通し上演の方が絶対良いと思うのにこれはどういうこと でしょうか。吉之助が思うには現行の歌舞伎では「封印切」の忠兵衛と「新口村」の忠兵衛のイメージの落差が結構大きい、芝居として繋がった感じがしない、ならば別々の芝居としてやった方が良いという考え方であったのだろうと思うわけです。

「新口村」の忠兵衛は公金横領という罪の重さに慄いて精神的にもう半分死んでいるということかも知れませんが、青菜に塩まいたように萎れ切って生気がない。影みたいな感じで存在感が薄い。実際、「新口村」を見るとこれは孫右衛門と梅川の芝居であって、忠兵衛はワキで、哀れと弱々しさの風情だけで持っている感じがします。「封印切」から続けた場合、現行の「新口村」のイメージはちょっと情緒的に過ぎるようです。これは「新口村」が道行浄瑠璃として清元など舞踊仕立てで上演されてきた歴史から来るのです。現行の「封印切」と「新口村」は、型・演出のそれぞれの成り立ちが全然異なるのです。ともあれ、現行の上方和事・哀れと弱々しさのイメージからすれば、「新口村」の忠兵衛は最も上方和事らしい役のひとつです。何度も上演されて、それだけ上方和事のイメージの練り上げが尽された役なのです。

そこで今回(12月)の京都南座での「新口村」の梅玉の忠兵衛ですが、浅葱幕が切り落とされた瞬間は「これは上方和事とはちょっと違うかな」という違和感が 、吉之助にもなかったわけではないのです。それは恐らく忠兵衛の目付きあるいは視線の向け方、それから身体の置き方などの微妙な違いから来ます 。しかし、梅玉は江戸和事の曽我十郎あるいは羽織落としの与三郎などが巧い方で、柔らかさ・優美さというところをしっかり押さえています。そのせいか芝居を見ているうちに「こういう忠兵衛も結構悪くないな」という感じがして来たのです。

特に感心したのは、全体に凛とした雰囲気が漂っていることです。吉之助は別稿「上方歌舞伎の行方」のなかで上方歌舞伎の将来を憂いて、「江戸歌舞伎の台木に上方歌舞伎を接ぎ木するようなことになったとしても上方歌舞伎は残ってもらわねば困る」ということを書きました 。この梅玉の忠兵衛のような行き方ならば、今後も上方歌舞伎が生き残って行く可能性はあるかなということをふと思ったのです。その根拠は本稿冒頭に触れた通り、初代藤十郎の和事の技芸は本来もうちょっと凛としたところがあった はずだというところにあります。あるいはこれも初代藤十郎の和事の本質に通じるものではないかと思えたのです。

梅玉の忠兵衛は精神的に生きている感じで、しっかりした存在感があります。たとえば目付きあるいは視線の向け方ということでいえば、いわゆる上方和事ならば、もっと憂いの目付きで目線を伏し目がちに置くでしょう。身体の置き方ももっと斜めにおいて身体を殺すでしょう。梅玉の忠兵衛は、そういうことをし ません。浅黄幕が切り落とされた瞬間、観客席に向けてとても自然に身体が正対できています。この自然さが良いのです。だから全体に凛とした雰囲気が漂います。要するにナヨナヨしていないのです。

もちろん在来の上方和事の、哀れでナヨナヨとした弱々しい忠兵衛も残して行かねばならないものです。しかし、これから東京生まれの役者が上方歌舞伎をやることが多くなるならば、 たとえ上方和事と江戸和事の混淆と言われようが、これはひとつの解決策であろうと思います。吉之助としては梅玉の忠兵衛から上方歌舞伎存続へのヒントをいただいたようで、ちょっと嬉しい気分でしたね。

(H27・1・10)


○平成26年12月・京都南座:「仮名手本忠臣蔵・七段目」・その2

七之助のお軽も硬い感じがします。印象が勘九郎の平右衛門とマッチしているのでその意味で違和感をあまり感じないかも知れませんが、多分、他の役者の平右衛門との共演であると不満が出てくると思います。七之助のお軽は注文付けたい ところは、特に前半(夫・勘平の死を知る以前)の雰囲気の持ち方にもう少し工夫欲しいということです。七之助のお軽は玉三郎の指導を受けたようで・手順や声の調子など玉三郎をよく写していると思いますが、玉三郎のお軽のもっとも特徴的なところを盗めてい ません。手順も大事なことですが、もっと本質的なことを学んで欲しいのです。それは玉三郎のお軽が持つ享楽的な要素・つまりジャラジャラした浮ついた要素です。こういう風に書くと悪く聞こえるかも知れないですが、それならば女形の愛嬌・媚態と言い直してもよろしいです。七之助のお軽はそれが乏しい ようです。お軽が持つ享楽的な要素というものは、廓暮らしのなかで一時的に自分を見失っているお軽の哀しさであり、それは廓という虚構の世界の虚しさであり、さらに男が女を偽る女形という存在の哀しさとも重なるものです。これは女形にとって非常な武器となるものです。

別稿「誠から出たみんな嘘」でも書きましたが、平右衛門とお軽のジャラジャラ したやり取りの華やかさというものは、まともな感覚を持つ平右衛門と廓暮らしのなかで一時的に自分を見失っているお軽との会話の行き違いから来るのです。 それで兄弟の会話がギクシャクするわけですが、これが単なるギクシャクでなくて、それが如何にも廓ごとの遊びの如く華やかに感じられねばなりません。それが廓の空間の乖離感覚が生み出すものです。勘九郎と七之助のコンビにはそのような浮ついた感覚があまり しません。これを華やかなものにするのは、どちらかと言えば、それはお軽の仕事なのです。そういうところを玉三郎から学んで欲しいと思いますね。まあこういうことは回数を重ねて分かっていくものだろうと思います。

このような廓の乖離感覚というものは、仁左衛門の由良助を見れば良く分かると思います。仁左衛門の由良助は、虚と実の配合 と揺れの具合がほんとにお手本にしたいほど素晴らしいものです。和事のできる人ですから前半の由良助が良いのはまあ当然というべきでしょうが、柔らか味のなかにギラリとし た刃を感じさせる、これこそ「やつし」の芸だというところを見せてくれました。幕切れの九太夫を打ち据える由良助の長台詞「獅子身中の虫とは・・・」がリズムといい・息といい、これがまた実に見事なものです。これは吉之助がこれまで 随分見た由良助のなかでも特筆すべき出来だなあと感服しました。 この傑出した由良助に相応しい平右衛門とお軽をどのように構築するか、これはなかなか遣り甲斐のある仕事だと思いますね。

(H27・1・6)

 


○平成26年12月・京都南座:「仮名手本忠臣蔵・七段目」・その1

今月(12月)京都南座での「七段目」には「十八代目勘三郎を偲んで」という角書が付されています。勘三郎というと思い出すのは勘平・つまり「六段目」であって、「七段目」ではないと思いますが、勘九郎(平右衛門)・七之助(お軽)兄弟が出演だからということでしょう。そこで勘九郎の平右衛門ですが、なかなかの熱演で一生懸命演じていて・そこに好感がもてるけれども、全体としては本年10月歌舞伎座の「寺子屋」での源蔵と同じ印象がしますね。「キチンと決めないと・・」という硬い感じが強い。もっと自然に、もっと 世話にやれば良いのです。「七段目」は時代物だから時代に演じるべしなんて思わないことです。そこを直せば、良い平右衛門になると思います。

ところで「七段目」の平右衛門は「足軽身分だが忠義の心が厚く・仇討ちへの参加を認めてもらいたいと強く願う一本気な青年」というところですが、どの平右衛門役者もそこの性根に間違いはありません。もちろん勘九郎の平右衛門もこの点はしっかり押さえています。しかし、これは平右衛門というキャラクターのいわば第1前提であるけれども、これだけだとそれ以上のキャラクターにならないのだな。これは勘九郎の平右衛門もそうで、確かに仇討ちへの参加を認めてもらいたい熱い気持ちは分かる・妹お軽への情も分かるけれどもそれ以上 だとは言えません。だから平右衛門が単純人間に見えてしまいます。

それでは平右衛門というキャラクターの第2前提は何かと言えば、それは「七段目」という芝居のなかで平右衛門が唯一の「まともな人間」だということです。このことは別稿「誠から出たみんな嘘」・「七段目の虚と実」をお読みいただきたいですが、それは遊郭(一力茶屋)が虚構で成り立つ場所であるからです。遊郭に来る客は偽りで着飾っており、彼らが真実だと言うことはみんな嘘である。そのような万華鏡のようにぐるぐる回る虚構の世界のなかで「七段目」のドラマが展開されるのです。平右衛門以外の人物は、みな虚構の世界のなかで歪んでいます。由良助は仇討ちの大義を隠し・不忠を偽わる倒錯したキャラクターです。九太夫の方は裏切り者の立場を隠して、由良助の本心を探ろうと画策します。ここでは忠義 と仇討ちの大義が渦巻いて・由良助の本心は分からず、周囲の者はそれに翻弄されて建前や体面で怒ったり喜んだりしています。お軽もその渦のなかに巻き込まれています。そういうなかで平右衛門だけが唯一のまともな (普通の感覚を持った)人間なのです。

平右衛門がまともな人間だということをはっきり示す台詞は、平右衛門がお軽の顔を見てグッと哀しみがこみ上げて来て思わずもらす「髪の飾りに化粧して、その日その日は送れども、可愛や妹、わりゃ何にも知らねえな」という台詞です。三人侍に意見する時の平右衛門の台詞もそうです。遊郭という世界のなかでも平右衛門だけが正しい姿が見えている。「七段目」のなかで平右衛門が唯一のまともな人間であることは、とても大事なことです。それは平右衛門が庶民の感覚を持っているということです。そうすると平右衛門はどういう感じで演じたら良いでしょうか。もちろん世話に基調を置いて演じるべきです。

その理由のひとつは足軽である平右衛門のことを、大坂の観客は庶民・われらの代表だと思って応援して見たということです。平右衛門が仇討ちの仲間に加わって四十七名が揃うというのが「七段目」の大筋なのですから、これは大事なことです。もうひとつは、由良助との舞台上の対比です。別稿「七段目の虚と実」で「平右衛門の尻押さえ、由良助の頭抜き」という義太夫の口伝のことに触れました。由良助は和事の「やつし」の芸の応用で、ニコッと笑った由良助の笑顔の裏にギラリとした殺意を秘めた由良助の倒錯した性格を見せますから、間合いをはずして・相手にかぶるようには言いません。これはとても手の込んだ・一筋縄では行かぬ時代の感覚です。一方、平右衛門は言葉尻に息を抜いてはなりません。そこに実直な平右衛門の性格が出ます。平右衛門の台詞は、どれも彼の気持ちを真正直に表しており、そのなかに嘘や建前が入ることがありません。お軽に対して「・・・勘平は達者だ」というのも(これは歌舞伎の入れ事ですけれど)彼の気持ちが丸見えで、これも平右衛門の嘘が付けない素直な性格から出た台詞だと言えます。このような平右衛門の性格は世話で表現すべきものです。そうすることで由良助との対比を明確に出すことができます。 (この稿つづく)

(H27・1・1)



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