極限状況における父娘の和解
平成21年12月国立劇場:「修禅寺物語」
二代目中村吉右衛門(夜叉王)、七代目中村芝雀(五代目中村雀右衛門)(桂)
1)極限状況における父娘の和解
小説を読んだり・芝居を見たりした時に、主人公の行動・言動がよく理解できない、あるいは納得できないということがあるかも知れません。そういう時に「この作品は駄作だ・下らん」と決め付けるのは読者(観客)のご自由ですし、まあ権利だと言っても良ろしいです。 娯楽として作品に付き合う分には、それでも良ろしいでしょう。確かに作品の出来の良し悪いということもあります。しかし、作者が一生懸命何かを訴えようとしているならば、どんな作品にも作者の何がしかの真実が必ずあるのです。それを見つけて・できることならば自分の糧としようというのが、鑑賞という行為なのです。鑑賞によって作品から何かを得ようというならば、そこでしばし立ち止まり、主人公がどうしてそのような行動を取ったのか・どうしてそのような言動をしたのか・あるいはしなければならなかったか、主人公の立場に立ってじっくり考えてみることが必要になります。
「修禅寺物語」幕切れ、「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った・・・」に始まる夜叉王の長台詞の場面ですが、断末魔にある娘桂が傍にいるのに・それが眼中にないかの如く・自らの面打ちの技芸の妙に酔いしれて、なおかつ「やい娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。顔をみせい。」とまで言い放つ、許し難いほど冷酷な父親であるとお感じの方もいらっしゃるようです。それならば「修禅寺物語」は、芸術至上主義者の非人間的なエゴイズムを描いた芝居ということになります。そういう風に夜叉王を見るならば、作品はそれ以上何も語りはしませんでしょうねえ。まあその方と作品とはご縁がなかったというべきです。しばし立ち止まって、夜叉王がどうしてそのような言動をしたのか・あるいはしなければならなかったか、そのことを考えてみて欲しいものです。そうすると何か違ったものが見えてくるはずだと思います。
最終場面を思い出してもらいたいのですが、夜叉王が「やれ、娘。わかき女子が断末魔の面、後の手本に写しておきたい。苦痛を
堪 えてしばらく待て。・・・娘、顔をみせい。」と言うと、桂は「あい」と応えて、断末魔の苦痛を堪えながらスックと顔を上げます。その顔を夜叉王がじっと観察して見込む。これが「修禅寺物語」の幕切れシーンです。桂と言う娘は京都の公家に奉公したことのある母親譲りの派手好きな性格で・上流の生活に憧れており、徹底した芸術家肌で社交性にまったく欠け・貧乏暮らしをかこつ父親とは全然そりが合わず、彼女は父親に始終反発していたことが前半で描かれています。それならば、娘の自分が今死のうとしているこの場面にあっても・自分の技芸に勝手に酔いしれて嬉しそうな台詞を吐き、おまけに断末魔の自分の表情を写したいなどと・・最後の最後までこの父親は何なのよ・・・と桂は怒って、顔を見せるのを拒否しても良いのではないでしょうか。しかし、最後の場面で、桂は素直に「あい」と応えて断末魔の苦痛を堪えながらスックと顔を上げて、その顔を父親に見せるではありませんか。これは何故でしょうか。最後の最後に娘は父の何たるかを理解し、受け入れたということです。夜叉王が変ったのではありません。夜叉王は何も変っていません。娘桂の方が変ったのです。これは何故でしょうか。そこのところを考えて欲しいと思うのですねえ。
結局分かることは、夜叉王は面打ちの職人としての技芸は卓越したものですが、人間関係における感情の表出・社交術という点では実に不器用で・拙い人間なので、そんな夜叉王にとって断末魔にある娘の顔を書き写すくらい のことしか、 死ぬ寸前の娘に対する父親の愛情を示す方法がなかったということなのです。夜叉王がそういう父親だということを受け入れたから、桂は素直に「あい」と応えて断末魔の苦痛を堪えながらスックと顔を上げて、その顔を父親に見せるのです。しかし、娘がそのように父を受け入れるに至る経過については、もう少し考えなければなりません。
先に書いた通り、桂と言う娘は公家出身の母親譲りの派手好きな性格で・上流の生活に憧れているのですが、これは言い換えれば理想主義なのです。桂はただの派手好きの驕慢な娘ということでなく、身分の高い人物に見初められて・上流の生活に引き上げてもらうには・それはそれなりの努力とお勉強が必要になります。ただ美しいというだけで、 田舎娘の桂が頼家に見初められてお局様にしてもらったということではないでしょう。桂には若狭の局と呼ばれるくらいの品位と教養が備わっているのです。つまり、桂と言う娘は自分の理想を高く掲げて、それに向けて努力するところがある女性です。これは父親とは理想の方向性は違うけれども、理想主義という点では同じなのです。つまり、まさにその点において桂は夜叉王譲りのところがあるのです。
夜叉王は京都の公家に奉公したことのある女性を妻としていたようです。それが桂の母親ですが、そのような女性を妻としたということは、若い頃の夜叉王はその腕を見込まれ・身分の高いお方の注文をどんどん受けて製作をし・良い暮らしが出来るという期待がかなりあったのでしょう。しかし、芸術家肌で・社交性の乏しい夜叉王は、お偉方に媚を使うこともせず・頑固に自分の理想を貫き通そうとしたので、いつしか 賓客を失い・生活は苦しくなったということです。しかし、理想主義という点では娘と同じということになります。
桂は頼家に見初められて若狭の局という名前を戴くのですが・その喜びもつかの間のことで、頼家は討っ手に襲われます。この時、桂はこれが最初で最後のご奉公・上さまのお身替わりということで・父親の打った面をつけて逃げるのですが、これを見てこれは頼家だと思った追っ手が次々と 桂に襲い掛かってきます。斬りかかって来る追っ手の眼を見た時に、桂は父親の面打ちの技量が神技に入るものだということを心底思い知ったに違いありません。これほどまでに父は努力してきたのかということです。
『女でこそあれこの桂も、御奉公はじめの御奉公納めに、この
面 をつけてお身がわりと、早速 の分別……。月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うち洩 らさじと追っかくる。』「修禅寺物語」幕切れで分かることは、父夜叉王と娘桂は理想とするものはそれぞれ違うけれども、互いにその理想を高く掲げ、これに向けて身を削る努力もしてきたし、そのために何かを犠牲にもしてきたということ、そしてその結果を自分は全然悔いてはいないということです。 自らの信じるところに殉じる覚悟ということです。この点において父も娘もまったく同じであったということが、最後の最後に娘にも分かったのです。このような場面で言われる「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙きにあらず。鈍きにあらず。源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今という今、はじめて覚った・・・」という夜叉王の長台詞が、芸術至上主義の非人間的なエゴイズムの台詞であるはずがありません。だから、夜叉王が「おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。」と笑うと、桂も同じく笑って「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。」と言い切るのです。
(H22・10・3)
2)吉右衛門の夜叉王
夜叉王が「おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ。」と笑うと、桂も同じく笑って「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。」と言うということは、どういうことを意味するのでしょうか。岡本綺堂の「修禅寺物語」は明治44年(1911)に二代目左団次の夜叉王 によって初演された新歌舞伎です。別稿「左団次劇の様式」では20世紀初頭の時代的気質とは懐疑であること、自分の行くべき道はこれで良いのか 、今の自分は本当の自分を生きていないという思いであるということに触れました。そのような懐疑・イラ立ちの気分が台詞の急き立てるリズムに出ます。左団次の台詞は気忙しく一本調子であったと言われています。 それは左団次の台詞回しが不器用だったからだということを言う方がいますが、とんでもないことです。そのリズムが当時の観客を熱狂させ、「大統領」という掛け声が左団次のために作られたことが分かっていれば、決してそんなことは言えません。気忙しく一本調子のリズムとは、20世紀初頭の役者も観客もが共有した時代のリズムなのです。
平成21年12月国立劇場での「修禅寺物語」の舞台ですが、芝雀の桂は前半の驕慢な印象がそのまま裏返って幕切れの一途さになって現れて、申し分ない出来だと思います。しかし、残念ながら吉右衛門の初役の夜叉王が良ろしくありません。幕切れが過度にセンチメンタル になっています。瀕死の娘の話を聞きながら自分の打った面と瀕死の娘とを何度も見比べて落ち着かず、目をしばたたいてメソメソするなどまったく無用の演技です。「娘、顔をみせい」も涙まじりで、台詞を言うのがとても辛いという風ですが、この性根でその間にはさまった「伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう・・・」という長台詞で どうして大笑い出来るのですかね。おかげで幕切れの夜叉王の長台詞が まったく宙に浮いてしまいました。
この場面の夜叉王には、瀕死の娘が眼中にないかの如く、食い入るように面を見詰めて・じっと動かないという演技が必要です。しかし、実は夜叉王は娘の言うこと をすべて聞き取っています。桂の述懐のなかの「月の暗きを幸いに打物とって庭におり立ち、左金吾頼家これにありと、呼ばわり呼ばわり走せ出づれば、むらがる敵は夜目遠目に、まことの上様ぞと心得て、うち
洩 らさじと追っかくる」という部分が、特に大事になります。 この桂の言葉を聞いてハッとして手にした面を見る。そこから「・・おお、姉は死ぬるか」の台詞に掛かるまでは、グッと息を詰めて意識を面の方に集中しなければなりません。「・・おお、姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。」もボソボソと、しかし、吐き出すように言う。ここはいわばエンジンを空吹きさせた状態で、「幾たび打ち直しても・・」からエンジン急速発進で、一気に台詞を言うのです。夜叉王の感じていることは、自分が無心で写し取ったもののなかに頼家の運命が正確に描かれていたということの不思議さです。これは夜叉王が予言したということではありません。夜叉王は何も気付いていなかった。しかし、改めてみれば頼家の運命は面のなかに予言されていたのです。自然が夜叉王をして描かせたということです。自然がそのような役割を夜叉王に託したとするならば、それは芸術家として有り余る光栄であるのです。「伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう」という台詞を傲岸不遜な芸術家のエゴイズムなどと言う方がいますが、そこに至る過程をよく読むことです。夜叉王は「自然の感応、自然の妙」と言っています。夜叉王は身が震える如くに感動しているのです。だから嬉しくて思わず笑うのです。むしろこれは芸術家の謙虚さというべきではないでしょうか。それは自分の進むべき道はこれで正しかった・苦労は報われたということであって、それが20世紀初頭の懐疑の時代的気質から見てどういう意味があるかを改めて言う必要はなかろうと思います。
しかし、ここで皮肉なことは、このことは瀕死の娘によって証明されたということです。しかし、その事実を前にしても、言わざるを得ないと云う感じで思わず吹き出してくる夜叉王の感動なのです。この父親の感動を「わたしもあっぱれお局様じゃ。死んでも思いおくことない。」と瀕死の娘が真正面で受け取っていることは、ドラマでは重要な意味を持ちます。ですから「幾たび打ち直してもこの面に、死相のありありと見えたるは・・」という長台詞での夜叉王は、そしてそれを聞く瀕死の桂も同様ですが、 ある種の倒錯状態にあるわけです。「姉は死ぬるか。姉もさだめて本望であろう。父もまた本望じゃ」と夜叉王が言うと妹の楓は「ええ」と驚きますが・これは当然のことで、普通の心理状態にあるならばこれは狂気の台詞としか思えません。このような台詞が瀕死の娘を前にして言われる時、「娘が死のうという時にその臨終の顔を写し取るというのは父親として残酷だ」などという似非ヒューマニズムが吹っ飛ばされているのです。これが日清・日露戦争が終わり・これから第1次大戦へと、戦乱と混乱の時代に突入していく日本人にどういう風に響いたかということにもちょっと思いを馳せて欲しいと思います。
「幾たび打ち直しても・・」に始まる夜叉王の長台詞は「伊豆の夜叉王、われながらあっぱれ天下一じゃのう」に至るまでタンタンタン・・という二拍子のリズムで言わねばならぬ台詞です。これは吐き出さずには居られないという熱く溜った思いを一気に出す台詞であるからです。(このことは別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)新歌舞伎の台詞を「歌う」という方がいますが、まあ間違いとは言いませんがね、どう「歌う」のかが問題ですね。急き立てる二拍子のリズムは重要ですが、抑揚をつける必要はないのです。むしろ抑揚が邪魔になる場合があります。吉右衛門の夜叉王は台詞に急き立てる基本リズムがない上に、「源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覺つた・・」で思わず笑いがこみあげるという風な抑揚を入れますが、そのために台詞がとてもふやけた感じに聴こえます。そもそも、 先ほどまで瀕死の娘を見てオロオロしていた吉右衛門の夜叉王がここで笑うと言うのも面妖じゃないですかねえ。吉右衛門はこの長台詞にアクセントを入れる箇所を勘違いしているのです。「源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運・・」という事実に夜叉王が感じ入っているのではな いのです。それは単なる結果に過ぎない。夜叉王はそれが実現したということの不思議さに感じ入っているのです。その感動を表現するためにこの長台詞があるのです。「自然の感応、自然の妙」まで、この長台詞は一気に言わねばなりません。 ならば夜叉王の長台詞のなかで二拍子のリズムを破綻させてアクセントを入れることが出来る箇所は、最後の「伊豆の夜叉王/われながらあっぱれ天下一じゃのう」の部分にしかないことは明らかです。
まあ、そういうわけで吉右衛門の初役の夜叉王はちょっと残念な出来でしたが、再演を期待いたしましょう。大事なことは「修禅寺物語」は明治44年に二代目左団次が初演した新歌舞伎であるということ、作品はそれが生まれた時代の気分と密接な関係があるということ、そして、それが現代という時代に上演される時に作品にどういう思いを重ねて見なければならぬかということです。
(H22・10・17)
(追記)平成21年12月国立劇場では青果の「頼朝の死」・綺堂の「修禅寺物語」の順に並べて上演するという企画でした。同月の「頼朝の死」の舞台については別稿「組織のなかの個人とは」をご参照ください。