組織のなかの個人とは
平成21年12月国立劇場:「頼朝の死」
二代目中村吉右衛門(夜叉王)、五代目中村富十郎(尼御台政子)
1)組織のなかの個人とは
(頼家)「さらば我が身は、源家あっての頼家にて、頼家のための源氏にては・・・ないのでござりまするか。」
(尼公)「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」
(頼家)「ええ、そのお言葉にわが身の上も末も見た。もうこれまで。」
頼家、つと立ち寄って重保を斬らんとす。尼公、頼家を引き戻してキッと長刀を頼家の前に構える。
(頼家)「母上!うむ・・、うむ・・、うむ・・・。」
怨恨を極めたる視線に母を睨むうちに、刀を投げ捨て、小児のように声立てて泣き出し、その声次第に高く、高くなりゆくうちに・・・・(幕)真山青果の「頼朝の死」(初演は昭和7年(1932)4月・歌舞伎座)の幕切れです。怨恨をこめて母を睨みつけ、刀を投げ捨てて、小児のように声立てて泣き出す頼家。初めてこの「頼朝の死」の舞台を見た時には、吉之助も寸切れみたいな幕切れにちょっとビックリしました。どうして頼家はこんなに取り乱した泣き方をするのでしょうか。そこのところを考えてみたいのです。もしかしたら、この頼家の泣き様は、マザコン坊やが大事なおもちゃを母親に取り上げられて 床を転げまわって泣きわめくというような風に見る方がいらっしゃるかも知れません。将軍さまは情報を何でも知っていないとその権威が保てない。頼家はそうやって権威をふりかざさないと将軍として周囲に認めてもらえない弱い立場である。だから父でもある先の将軍頼朝の死の真相(これこそ鎌倉幕府の最高機密!)を知らされない事態に頼家は取り乱して泣きわめくというわけです。 ああなるほどねえ・・・で、そんなマザコン将軍のドラマを現代の我々が見て何か意味があるのでしょうかね。青果はもうちょっと上等なドラマを書いたと吉之助は思いたいのですがね。大事なことですが、この「頼朝の死」は二代目左団次が初演した新歌舞伎であるということ、そして作品はそれが生まれた時代の気分と密接な関係があるということ、そして、それが現代という時代に上演される時に作品にどういう思いを重ねて見なければならぬかということです。そういうことを踏まえて作者の思い・初演者の思いを見たいものです。それが歌舞伎の見方というものじゃないかと思いますね。
真山青果の「頼朝の死」は、実は「傀儡船(くぐつぶね)」という大正8年(1919)に初演された芝居の改作です。傀儡というのは操り人形のことです。操り人形については別稿「生きている人形」でも考えました。20世紀初頭の芸術思潮において操り人形・自動人形というものは、その時代において生きた人々が否応なしに置かれた状況の或るイメージを表象しています。人間を「生きている操り人形」であると見る考え方にはふた通りあります。ひとつは人間は内面から見えざる何者かに突き動かされる 人形であるという比較的新しい考え方で、これはもちろんフロイトの無意識の概念から来るものです。内的欲望とか衝動と考えても良いです。谷崎潤一郎の小説「蓼喰う虫」(昭和3年・1928)がそのイメージで書かれていることは別稿「生きている人形」で論考した通りです。もうひとつは、外的要因・特に国家社会といった状況によって自分の意志とまったく関係なく振り回されるということです。 この状況から他者によって強制的に操られる人形というイメージは、20世紀初頭においては 人類がふたつの世界大戦を体験するということによって非常に重い意味を持ってくるのです。大正8年の「傀儡船」から昭和7年の「頼朝の死」への方向は、まさにその時代の流れの上に乗っているのです。外部から人間を振り回す力がどんどん強くなっていく・そういう時代の作品なのです。そういうことを考えながら青果の「頼朝の死」を見たいと思います。
「頼朝の死」第2場では新熊野と羽黒山の別当の領地争いを頼家が裁断する場面が描かれます。周囲の忠告も無視して、俺が決めるのがなぜ悪いと言わんばかりの頼家の横暴な振る舞い・その出鱈目な裁断は、二代目マザコン馬鹿将軍と言われてもまあ仕方ないという感じではありますねえ。ところで、頼家が最初からこんな感じの将軍であったと思いますか。それは芝居で書かれていないだけのことです。将軍になったばかりの頼家は父頼朝と同じような立派な将軍になろうという理想に燃えていた に違いありません。頼家の理想とは自分で仕切り・自分で裁断する意思的な政治家ということです。ところが周囲はそれをさせてくれなかったのです。頼家がこうやろうとすれば、「イヤ上さまはこのようにするのが良ろしい」と御家人の誰かが 横槍を入れてくるのです。頼家がああやろうとすれば、「イヤ上さま、それはなりませぬ」と御家人の誰かが止めるのです。そして頼家がやりたくないのに「上さまはこのようになさ りませ」と御家人の誰かが指図してくるのです。御家人たちの言うようにさえしていれば、彼らは「上さま、上さま」と持ち上げてくれるけれども、頼家は自分の意志では何も出来ないのです。頼家は外部から操られている人形将軍に過ぎません。頼家はそれが嫌で嫌で 堪らないのです。何とか自分の意志で動きたい。しかし、周囲はそれをまったくさせてくれない。それでついに頼家は切れてしまったのです。第2幕で見る頼家の横暴な裁断はもうただの駄々っ子の振る舞いです。周囲を呆れさせて・憤慨させるために暴れているだけのことです。しかし、そこに至るまでの頼家なりの過程があるのです。確かにそれを青果は芝居で描いていません。が、それはこの芝居の欠陥であるということではありません。これが青果の作劇術なのです。第2 場で の悶々として酒を飲む頼家の苦しみの様を見れば、そのことは十分過ぎるほど明らかであるのです。そこを読み取らねばなりません。
『うう・・・。ええ苦しいわ。酒を持て、酒だ!・・母上!将軍とは、有るを有りとも知られぬ身か。虚偽(いつわり)の海に泳ぐ、我が身の嘘を知らぬ魚か。広元が知り、重保も知り、母上も知らるるその秘密を、なぜこの頼家ひとりが知られませぬか。将軍頼家とて人の子じゃ。なぜその大事の秘密を、われひとりにお包みなされますか。』
この頼家の科白には、苦悶・いらだち・やりきれなさが煮えたぎっています。頼家の気持ちはもう張り裂けそうになっていて、ちょっとしたことで壊れてしまいそうなほどピリピリと震えているのです。父頼朝の死の真相はもちろん頼家にとって大事なことには違いありません。しかし、父の死の真相だけのことで、頼家はブチ切れて泣きわめくわけではないのです。そこに至るまでの頼家なりの・それ以前の過程があるのです。頼家はずっと自分が人間として扱われていない・自分は傀儡として扱われていると感じていました。人が人ならば、子が父のことを思う気持ちは当然のことである。父が死んだら悲しい。その父がどういう状況で死んだかを知りたい気持ちも当り前である。まして父頼朝の死には何やら由々しき事情がありそうである。そういうことを知らされるということは、人が人の子として扱われる当たり前、最低限の権利だと思う。ところがその父の死の秘密を周囲の者が知っていて、息子である自分ひとりが知らされない。子が父のことを思うという感情、その人間の権利までも奪い取ろうというのか。母親も含めた周囲の者たちは、この頼家から徹底的に意志を抜き去って・感情さえも奪い去り・自分を完全な傀儡に仕立てようというのか。そう感じたから頼家は小児のように声立てて泣き出すのです。それは今まさに抹殺されようとする人間の恐怖の叫びなのです。
(H22・11・7)
2)二十世紀初頭の時代的気質
日本史を学べば鎌倉幕府の源氏の将軍が頼朝・頼家・実朝の三代で絶えてしまったことが出てきます。そこでふと思うことは北条政子という女性は御実家のことばかり考えているみたいで、次々と政治的抗争のなかで子供たちが殺されて母親として悲しいと感じたことはなかったのかということですねえ。そんなはずはなかっただろうと思いたいですが、歴史ではその辺が表面にまったく見えて来ません。まあこれは憶測するしかありませんが、鎌倉幕府というのは実質として関東御家人たちの集合体として立ち上げられたもので、頼朝というのはその結束のシンボルとして祀り上げられたに過ぎなかったというのが正直なところです。政子自身もそのような状況のなかで生きるしかなかったということで しょう。
この芝居にも出てくる「生まれながらの将軍」という言葉は、徳川幕府の三代目・徳川家光が居並ぶ大名を前に言い放った有名な言葉です。これより約四百年も以前の鎌倉幕府の史実の二代目・頼家が例え内心チラリでもそんなことを考えたのかと言えば、これは疑問と思わざるを得ません。とてもそんなこと を周囲が認めてくれるような状況ではなかったのです。まあそこのところは青果の創作でしょう。しかし、それでも頼家が修禅寺において謀殺されるに至った状況を察すれば、北条家を始めとする御家人集団が頼家を強力にコントロールしようとして・頼家がそれに頑固に抵抗した結果として起こったことは明らかです。頼家本人が個人の尊厳・権利なんてことを考えたとは思えません(そういう観念自体が当時はなかったのです)が、憤懣 ・苛立ちという形でそれは確かに頼家のなかに意識されていたのです。これは現代人から見れば頼家は個を主張しようとしたのであり・その思いが余りに強すぎたために組織から抹殺されたという風に解釈 しても良いのです。青果は日頃からマルキストを自称していた作家でした。或る時、酒に酔っ払った青果が娘の美保さんを前に座らせて、「もし貴様の先生がお前のお父さんは誰を尊敬していると聞いたらな、はっきりと言えよ、マルクスだとな、分かったか、マルクスだぜ。」と言ったそうです。そのような青果が、鎌倉の二代目将軍頼家のことを書く時、それは社会的視点から個人と組織の関係において描かれるというのは当然のことです。二十世紀初頭の時代的気質が将軍頼家に重ねられて来ます。
そこで平成21年12月国立劇場での「頼朝の死」の舞台のことですが、腹にグッと来るところのない・何とも締まりがない幕切れであるのが、とても残念です。特にこの「頼朝の死」という作品について言えることですが、作者はこの寸切れの幕切れに賭けており、幕切れがビシッと描けないならばこの芝居の意味はないという くらいなのです。このことについては別稿「左団次劇の様式」でも申し上げました。たっぷりと引っ張りの絵面で決まって幕を閉めるという古典歌舞伎の常識を青果・左団次はここで意識的にぶっ壊しているのです。寸切れの幕切れは二代目左団次の新歌舞伎の様式です。同様の幕切れの例として綺堂の「番町皿屋敷」での青山播磨の引っ込みを挙げておきます。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)
富十郎の政子にしても・吉右衛門の頼家にしても根本的に誤解をしていると感じるのは、ふたりともどうやらこのお芝居が頼朝の死の謎ということを中心に展開していると思い込んでいる ことです。芝居の筋から見れば確かにそのように見えるでしょうが、「頼朝の死」のドラマの構造は政子を含む御家人集合体と頼家個人とのせめぎ合いなのです。頼朝の死の謎というのは、頼家の神経がブツンと音を立てて切れるきっかけ(材料)に過ぎ ないのです。別の材料でも作ろうと思えば同様の芝居が作れます。例えば頼家には密かに思っている女性がいた・しかし政子は頼家に好きでもない別の女性と無理やり政略結婚させようとしてい たというような筋であっても、同様の幕切れの芝居が作れます。たまたま青果は頼朝の死の謎を材料に芝居を書いたという・ ただそれだけのことです。
まず幕切れの富十郎の政子の態度が毅然としません。表情と台詞に泣きの様相がありありと見えます。母親として息子に父親の死の真相を話してやれないのが悲しい・息子の嘆きを見ているとその申し訳なさで泣けてきそうになるが、しかし、頼家にこのことを話すわけにはいかない 、この母の辛さ・葛藤が息子のお前にはどうして分からないのかというのが、富十郎の政子の意図のようです。「家は末代、人は一世じゃ。」と言いながらその場に泣き伏しそうな政子ですねえ。これでは頼家を取り巻く状況の厳しさが全然感知されません。対する吉右衛門の頼家の方 は甘ったれのマザコン坊やです。父親の死の真相が知りたくて知りたくて仕方がない。それを知らなければ・生まれながらの将軍の沽券にかかわるというわけです。そのように見えるのはそれまでの頼家のいらだち・苦悶というものを 観客と共有できる実感あるものに出来ていないからです。生まれながらの将軍の沽券にかかわることだから父親の死の真相が知りたいというのでは政治的な都合になってしまって、これは自分が頼朝の息子だから・血を受け継いだ人間として父の死の真相を知りたいという・内的な純粋な息子の感情とはちょっと 異なるのではないですか。吉右衛門はこの違いがお分かりでしょうか。まあ昭和31年(1956)4月歌舞伎座での歌右衛門の政子・寿海の頼家による「頼朝の死」の映像が残ってますから、この幕切れを じっくりと見て考えて欲しいものだなあと思います。そういえばこの舞台に富十郎は重保で出ているのですが、この時の重保は立派なものでしたが、今回の政子は同じ富十郎が演じた ものとはとても思えませんね。
平成21年12月国立劇場では青果の「頼朝の死」・綺堂の「修禅寺物語」の順に並べて上演するという企画でした。作品成立年代としては綺堂の方が先ですが、これで二代目将軍頼朝の生と死を順を追って観客は見るわけです。これは趣向としてなかなか面白いのですが、 その面白さはふたつの作品が将軍頼朝という登場人物で共通しているという表面的なことだけで成立しているのではなく、もっと深いところで感性的に結ばれているから なのです。それはどちらも二十世紀初頭という時代に二代目左団次によって創始された新歌舞伎であるということです。ここでは状況のなかで個人はどうこれに対し・どう自分を貫くかという問題が共通した主題になっています。「修禅寺物語」の第2場には「北条がなんじゃ。おのれらは二口目には北条という。北条がそれほどに尊いか。」という頼家の有名な台詞が出てきます。修禅寺において頼家は桂という娘を見初め、そこに真の人間として生きるわずかな望みを見出したのですが、 政治はそれさえ頼家に許しません。そこまで頼家は追い込まれていくのです。一方で芸術的信念に固執し状況に背を向けて・およそ世間的な成功とは無縁な夜叉王は「自然の感応・自然の妙」の至福を体験することが出来 た。しかし、それは娘桂の死によって証明されたものでした。このふたつの左団次劇を様式的にひとつのものとして筋を通してどう演じるか、そういうことをもっと真剣に考えて欲しいということを、富十郎にも吉右衛門にも言いたいのですねえ。それが歌舞伎を演じるということなのですがねえ。
(頼家)「さらば我が身は、源家あっての頼家にて、頼家のための源氏にては・・・ないのでござりまするか。」
(尼公)「事も愚かや。家は末代、人は一世じゃ。」「サラバ/ワガ/ミハ/ゲンケ/アッテノ/ヨリ/イエ/ニテ/ヨリ/イエ/ノタ/メノ/ゲンジ/ニテ/ハ●・・・・・・ナイノデゴザリマスルカ」
左団次劇の基本リズムは早めに急き立てる二拍子であるということは別稿「左団次劇の様式」で論じています。この台詞では「源氏にては・・・」で頼家は絶句し、 次の「ないのでござりまするか」は一気に吐き出すように言われて、ここでは二拍子さえも破綻 するのです。この「ないのでござりまするか」という箇所を様式的に歌おうなんて考えるのは言語道断と言うべきです。ここは無様(ぶざま)に叫べば良いのです。
「コトモ/オロ/カヤ/イエハ/マツ/ダイ/ヒトハ/イッセ/ジャ●」
この政子の台詞の後に頼家の台詞がまだ少しありますけれど、事実上この台詞がこの芝居の留め台詞です。ビシッと決め付けるように言い切って、反論を一切許さない。感情が入ってはならぬ台詞 なのです。二拍子とはそのような非人間的な要素が表現できるリズムなのです。「家は末代、人は一世じゃ。」というのは、お前(頼家)個人のことなど関係ない・国家組織のためにお前はあるのだ・それがイヤならお前などは要らぬということです。これが昭和7年(1932)に出来た芝居の台詞なのです。満州事変は前年に勃発しており・これから日本は太平洋戦争に向けて突入していくという昭和7年当時の観客がこの台詞を聞いて何を感じたかということを考えることは、平和な現代日本に生きる我々にも決して無駄なことではないと思います。少なくともそこにマザコン将軍の泣くわめきを見るよりは、多少でも意味のあることだと思います。
(H22・11・8)
田辺明雄:「真山青果―大いなる魂 (作家論叢書)(沖積舎)
(追記)
平成21年12月国立劇場では青果の「頼朝の死」・綺堂の「修禅寺物語」の順に並べて上演するという企画でした。同月の「修禅寺物語」の舞台については別稿「極限状況における親娘の和解」をご参照ください。